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売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『地球最後の男――永遠の命』 第2回

2015-06-20 21:42:18 | 小説
 このところ九州や関東では激しい雨のニュースをよく聞きますが、なぜか私が住んでいる名古屋近辺では、あまり雨が降っていません。天気予報で雨が降ると言っても、あまり降らず、最近傘をさすこともありません。
 梅雨もこれからが本番なので、大雨には警戒しなければならないとは思いますが。

 今回は『地球最後の男――永遠の命』の2回目の掲載です。


           1 塞翁が馬

 田上雄一(たがみゆういち)は目を覚ました。何か変な夢を見たような気がする。あまりすっきりしない気分だった。どんな夢か思い出そうとしたが、思い出せそうで思い出せない。何となくいらいらするような気分だ。まあ、夢のことなど、どうでもいいや、と田上は思った。
 田上は朝食をトーストとコーヒーで済ませ、洗顔や整髪など、身だしなみを整えて家を出た。田上は勤めているOA機器の商社に向かった。徒歩と路線バス、私鉄の乗車時間を合わせ、職場まで一時間以上かかる。もう少し勤務先に近いところに住みたいとは思うが、今田上が入居しているA県F市の郊外のアパートは、2DKの間取りで、けっこう家賃が安かった。スーパーマーケットや診療所なども近くにあり、住み心地はわるくないので、なかなか引っ越そうという踏ん切りがつかなかった。
 田上は自宅の近くのバス停に立った。
 それほど待つこともなくバスが来て、田上は乗り込んだ。乗車するのは一〇人ほどだ。サラリーマンや高校生など、顔ぶれはほぼ決まっている。田上が乗るバス停は起点の近くで、駅から遠いため、まだ席は空いている。田上は座席にかけた。昨夜はなぜか熟睡できなかったような気がして、田上は頭が重かった。だから、田上は座席に着いて、目を閉じた。
 バスが私鉄の駅に近づいたころ、大きなクラクションの音や急ブレーキのショック、そして激しい轟音がした。バスの乗客は悲鳴をあげた……。

 A県の県都、M市の都心からやや外れた盛東(せいとう)商会では、田上が出勤していないことに、重役たちはいらだっていた。今日は朝九時半より、販売促進のための会議がある。それなのに、田上はまだ出社していなかった。遅刻や休暇の連絡もない。
 販売部第二課長の吉川(よしかわ)は、田上抜きで会議を始めることにした。田上は資料を用意することになっていたが、これ以上待ってはいられなかった。重要度では、田上の資料はそれほど高くはなかった。しかし、吉川の不機嫌は収まらなかった。
 会議が終わったとき、第二課で庶務を担当している谷村亜由美が、「課長、大変です」と会議室に飛び込んできた。
 「どうした? 谷村君」
 「先ほど、田上君が乗っていたバスが、トラックとぶつかり、多くの死傷者を出したようなんです。私もテレビのニュースを確認しましたが、たぶん田上君が乗っているバスです。だから、今日は連絡もできなかったんです」
 亜由美は血相を変えて、課長の吉川に報告をした。
 「なに、田上が乗っていたバスが事故だと?」
 吉川も少なからず驚いた。
 「はい。田上君の通勤経路を確認しましたが、間違いなさそうです。まだ警察からは連絡がありませんが、乗客の身元が確認できれば、おそらく照会が来ると思います。課長、どうしましょうか? これからF市の警察署に行きましょうか?」
 亜由美は一刻も早く田上の安否を確認したかった。
 「いや、まだ田上が事故に遭ったかどうか、わからないのに、Fまで行くことはできん。風邪か何かで休んでいるのかもしれんし。田上かどうか、警察から連絡があるまで、待つしかないな」
 はやる亜由美に対し、吉川は冷静だった。
 「でも、田上君が自宅にいないことは確かです。私も田上君の自宅に何度も電話してみました」
 田上は単身でアパートに住んでいるため、同居家族はいない。そのころはまだ携帯電話がなかった。
 亜由美はF市の警察署に問い合わせてみた。けれども現在犠牲者等の身元を確認中で、まだ問い合わせに応じることができないとのことだった。
 亜由美は田上雄一の身の上が心配で仕方なかった。なぜこんなに田上のことが気にかかるのだろうか? 確かに同じ課の所属で、いつも気軽に話をする仲ではある。しかしそれは単に職場の仲間としての関係でしかない。これまで田上のことを、特定の異性として意識したことはなかった。だが、ひょっとして田上がバスの事故で死んだのではないか、と思うと、気が気でないのだ。ただ、亜由美は同じ課の仲間が死んだのかもしれないという状況なので、気になるのは当然だと思い込んでいた。

 それから一時間ほど経過した。盛東商会の販売部第二課に一本の電話がかかってきた。
 「こちらはF警察署の者ですが、先ほど貴社の谷村亜由美さんより田上雄一さんのことで問い合わせがあった件について、お答えいたします」
ちょうど電話を受け取った亜由美が、「はい、私が谷村ですが、田上はどうだったのでしょうか?」とはやって尋ねた。その後のニュースでは、死者一二名、重軽傷者二五名と言っており、田上のことが心配だった。田上が乗り込んだときには、バスはまだ乗客は少なかったが、終点近くでは満員となっていた。テレビのニュースで、死者の中に田上の名前がなかったので、亜由美は一縷(いちる)の望みを抱いていた。
 「お尋ねの田上雄一さんですが、最も被害が大きかったバスの真ん中あたりに座っていたため、意識不明の重体で、予断を許さない状態です。ただいま、事故現場近くの城山病院の集中治療室で治療を受けていますが、面会謝絶となっております」
ここまで聞くと、亜由美は受話器を落とし、その場にへたり込んで、放心状態となった。その状態を見て、何事かと怪訝(けげん)に思った吉川は、受話器を拾い、電話に対応した。警察からの電話のようだったが、田上の身に何かよくないことが起こったのだろうか。
 「私は田上の上司で、吉川と申します。田上に何があったのでしょうか?」
吉川は亜由美を見て、田上はよほどひどい状態となっているのだろうと覚悟した。ひょっとして、死んだのかもしれない。そのように事前に心構えができたので、亜由美より冷静に対応することができた。
吉川は係長の結城(ゆうき)に、F市の城山病院に、電話で田上の様子を確認させた。かなり待たされた後、担当医より状況は楽観できないことを知らされた。特に頭部の損傷が深刻で、緊急手術を終えたところだということだった。吉川はG県に住む両親に、田上のことを連絡した。電話に出たのは母親だった。彼女は吉川の報告に、かなり取り乱していた。夫が戻り次第、城山病院に駆けつけると言った。

 一時は絶望的な状態だった田上だが、信じられないほどの生命力で、ぐんぐん回復した。そして一週間後には、退院ができるほどだった。田上の治療を担当した医師は、奇跡としか言いようがないと驚嘆した。
 亜由美は事故が起こった日の午後、会社を早めに出させてもらい、城山病院に状況を聞きに行った。電話で問い合わせるより、直接聞くほうがいいだろうと課長の吉川も判断し、亜由美を病院に向かわせた。そのころには、亜由美も平静を取り戻していた。
 亜由美は病院のナースセンターで、田上の会社の同僚であると身分を告げ、状況を尋ねた。主任の看護師は、田上は驚異的な生命力で危険な状態を脱し、もう何の心配もいらないことを告げた。それを聞いた亜由美は、安心して身体中の力が抜けてしまい、危うく倒れそうになった。看護師の一人が、亜由美に「大丈夫ですか?」と声をかけた。
 亜由美はなぜ自分は田上のことで、こんなにも動揺しているのだろうと思った。午前中、警察から田上のことを、「予断を許さない状態」と言われたときは、全身の力が抜けて、思わずその場で尻餅をついてしまった。今度は、もう何の心配もいらないと聞き、安堵の念で放心して、一瞬気が遠くなった。
 これまで、仲がいい同僚という以上でも以下でもないと思っていた田上なのに。
 亜由美は課長の吉川に、田上の手術はうまくいき、もう大丈夫だということを報告した。
亜由美は看護師の許可を得て、田上がいるICUに入った。そこには田上の両親が来ていた。田上はまだ麻酔が効いているのか、眠っていた。頭に巻かれている包帯が痛々しかった。亜由美は田上の両親に、自分は会社の同僚で、いつも親しくしてもらっていると告げ、挨拶をした。
「雄一のことでわざわざ来てくださり、ありがとうございました。雄一はもう大丈夫です。今はまだ麻酔が効いていて、眠っていますが。本当に運がいいやつですよ」
 父親が亜由美ににこにこ笑いながら言った。イントネーションに少し訛りを感じた。父親はどうやら亜由美のことを、恋人と勘違いしているようだ。しかし今の亜由美は、本当にそうなってもいいな、と考えていた。今回の事故で、自分の田上に対する素直な気持ちがわかったような気がした。これまでは仲のいい同僚ではあっても、恋愛対象だとはあえて考えていなかった。
結局その日は田上はずっと眠っていて、話すことはできなかった。しかし、亜由美は田上の安らかな寝顔を見ただけで満足だった。夕方、課長の吉川も病室に田上の様子を見に来て、両親と話し合っていた。

『地球最後の男――永遠の命』 第1回

2015-06-10 00:17:42 | 小説
 今年も梅雨入りし、うっとうしい季節になりました。でも、今の時期、雨が降らないと、農業に支障が出ますし、水不足にもなります。
 最近、体調が優れなかったので、昨日、病院で検査を受けました。詳細な結果が出るのは少し後になりますが、胃にいくつかポリープができていたようです。良性だったので、一安心でしたが

 今日から週1回ぐらいのペースで、『地球最後の男――永遠の命』を掲載します。
 昨年文庫本で出版して、まもなく一年になります。
 

 なお、このブログに掲載する文章は、加筆修正などしてあり、文庫本のものとは一部相違した部分があります。

 

            プロローグ 不思議な夢


 男の前に、何か影のようなものが飛んできた。突然目の前に現れた黒い影に、男は思わず後ずさりをした。
 「心配することはない。私はおまえに危害を加えるつもりはない。私はおまえと取引するためにやってきたのだ」
 その影は言った。
 「取引だと? そもそもおまえは誰なんだ?」
 「私は悪魔だ。おまえの魂と引き替えに、どんな望みでも三つかなえてやろう。どうだ、私と契約する気はないか?」
 「悪魔だと? 三つ望みをかなえるだと? 魂と引き替えだと? 願いをかなえてもらった場合、魂はどうなるのだ? いっときの願いがかなう代わりに、永遠に地獄で苦しむのでは、わりが合わないぞ。まあ、俺の場合は死後の生とか、魂や霊の存在など、信じてはいないが」
 その男は悪魔と名乗る影に言った。
 「魂や死後の存在を信じていないなら、いいではないか。私と取引をしないか?」
 「そのありもしない魂をおまえに与えることと引き替えに、どんな望みでも三つかなえてくれるというのか。悪くはない話だな。しかし、もし本当に魂があった場合、ちょっと不安だな。死後、おまえにやるといった魂はどうなるのかね?」
 「死後の生を信じていないなら、説明する必要はないだろう。しかしお望みなら教えてやってもいいぞ」
 悪魔は男に問いかけた。
 「ああ、いちおう聞いておきたいな」
 男は悪魔に要求した。
 「死後、おまえは私の忠実な僕(しもべ)となり、私のために働くのだ。神との戦いなどにも従事してもらう。悪魔も肉体を持っているので、直接神と戦っても歯が立たない。肉体を持たない神と戦うには、どうしても魂だけになった存在が必要なのだ。私が死ねば、魂は解放される。それまでは少し辛抱してもらうことになる。まあ、悪魔の寿命は、人間よりははるかに長いがな。しかし、悪魔に魂を売ったものは、解放されても、地獄行きだ。もっとも人間の多くは死後、地獄行きだから、どうせ地獄に堕ちるなら、生きている間に少しでもいい思いをする方が賢明というものだ」
 「悪魔でも死ぬのかね?」
 「そりゃ、肉体を持って生きているものはいつかは死ぬときが来る。たとえ悪魔や天使でもね。肉体がない神や霊は永遠の命を持っているがね。願いの一つはかなえた。残るはあと二つだ」
 「おい、待てよ。今ので一つか、それじゃあひどいじゃないか。詐欺みたいなものだ」
 「おまえがどうなるか聞いておきたいと言ったので、願いの一つとして、教えてやったまでだ。一つかなえたことにより、もう契約は成立している。残りの願いをあと二つ言うがよい」
 「そんな、勝手なことを。まだ契約するとは言っていなかったのに。しかし、もう契約が成り立ってしまったのなら、悪魔に逆らっても仕方ない。それなら今いちばん望んでいることは、亜由美と結婚したいということだが。彼女は俺に好意は持っているが、その好意も職場の同僚としてのもので、恋人としては意識していないようだ。だが俺はどうしても彼女と一緒になりたい。できるか?」
 「そんなことはたやすいことだ。これでおまえは近いうちに彼女とうまくいくようになるだろう。では、最後の望みはどうする? 今思いつかないなら、また後日でもいいぞ」
 悪魔にそう言われ、男は少し考えた。かなえられる望みはあと一つ。よく考えてみると、亜由美との結婚は少しまずかったかなと思った。確かに亜由美は魅力的な女性だが、この世にはさらに魅力的な女性がいくらでもいる。悪魔の力を借りれば、どんないい女でも、お望み次第だったのだ。最初の願いはくだらないことに使ってしまった。まさに詐欺だと文句を言いたいぐらいだ。残された願いはあと一つ。今度こそくだらないことに使わないようにしたい。
大金持ちになるか、それとも世界の支配者にしてもらうか。悪魔が示唆したように、今思いつきで望みを言うのではなく、時間をおいてじっくり考えるべきだろう。
 男は、それではよく考えて、後ほど願いを言おうと悪魔に告げようとした。
 そのとき男はふと気がついた。「後ほど」と考えたとき、時間の観念が頭の中をよぎった。人間はいくら幸福になったとしても、とどのつまりは死ななければならない。どんな願いをかなえたところで、いつかは死んでしまうのだ。そして、自分の場合は、死んだ後は、永遠といわないまでも、かなり長い間魂は悪魔の奴隷になってしまうという。それに、解放されたとしても、地獄行きだ。
 そのことを考えると、恐怖が男の全身を突き抜けた。男は死にたくないと思った。
 そうだ。人間の最大の望みは、いつの時代でも不老不死。秦の始皇帝も不老不死を求め、結局はかなわなかったのだ。始皇帝に命じられ、不老不死の霊薬を探し求めた徐福(じょふく)の伝説は、日本にもある。いつかは自分自身も必ず死んでしまうのだ、と思うと、恐ろしい。自分がこの世から消えてなくなってしまう、全くの無に、永遠の闇になってしまうと考えると、気が狂いそうになる。たとえ地獄があろうがあるまいが、死にたくはない。男は不老不死を手に入れようと思った。
 しかし、先ほど悪魔は言った。「肉体を持って生きているものはいつかは死ぬときが来る。たとえ悪魔や天使でもね」と。悪魔でさえ、肉体がある以上は、いつかは死ななければならないのだ。それでも悪魔のように長い間生きていられればいい。悪魔の肉体が滅するまで自分も生きていれば、悪魔に俺の魂を奴隷のようにこき使われなくてもすむ。
 「待ってくれ。最後の願いを言おう。三つ目の願いは、俺を不老不死にしてくれ。できるか?」
 「不老不死。できないことはない。だが、それはやめておいたほうがいい。いつかきっと後悔する。私ですら、不老はともかく、不死になりたいとは思わないのだから。死というものは、ある意味、究極の救いなのだ。たとえ地獄に堕ちることになったとしても。地獄に堕ちても、長い年月はかかるが、いつかは抜け出して、高い霊界に行ける。せめて不老長寿にしておけ。これは私の良心から言っているのだ。悪魔が良心というのも矛盾しているかもしれないが」
 悪魔は男に不老不死だけはやめるように忠告した。
 「一つ目、二つ目の願いなら、それはかなえよう。なぜならば、残りの願いで、死なせてくれ、という願いをかなえることができるからだ。だが、おまえの場合は、死にたくなったとしても、もう死ぬという願いをかなえることはできないのだ」
 悪魔は男を説得しようとした。だが、男は聞き入れなかった。
 「いや、不老不死こそ、人間究極の願いではないか。なぜ後悔するのだ? そもそも本来なら三つあるはずの願いが、二つになってしまったのは、おまえの詐欺みたいな話術のせいではないか。ひょっとしたら、不老不死にすれば、魂をおまえのものにすることができないから、そう言うのではないか? 俺は決めたぞ。最後の願いは不老不死にする」
 男は悪魔にそう宣言した。
 「わかった。私はおまえのためを思って忠告してやったのだが、聞き入れようとはしなかった。おまえの願いはかなえるが、どんなことになろうとも、決して私を恨むなよ」
 悪魔はそう言い残して消えた。
 不老不死になって、後悔するはずがない。これこそ人類究極の願いなのだ。永遠の生命さえ手に入れば、どんなことでもできる。時間をかけさえすれば、世界を征服することさえ可能かもしれない。なんといっても、戦争を起こして失敗しても絶対死なないのだし、時間はいくらでもあるのだ。


短編 『トカゲ』

2014-10-21 19:04:31 | 小説
 私が仕事を退職後、小説を書き始めてから、最初に書いた『トカゲ』を掲載します。
 初稿は原稿用紙17枚でしたが、某社の長短編の文学賞に応募するために、10枚まで削減しました。最初書いたときは、あまりよいできばえではなかったので、しばらくそのまま放置していましたが、10枚に圧縮したため、無駄な部分がなくなり、かえって引き締まったように思います
 応募して何ヶ月経っても何も連絡がなかったので、「たぶんだめだったのだろう」と思っていたら、あるとき、出版社より、「入賞はしなかったものの、上位に選ばれました。なかなかいい作品で将来有望なので、当社の執筆支援サービスを利用しませんか?」と連絡がありました
 その連絡があったときはうれしかったのですが、けっこう費用がかかるので、そのときは丁重に断りました
 その後、その出版社のその制度が問題になり、見送ってよかったと思ったことがありました。



       トカゲ
   
 私は趣味でよく山歩きをしている。以前は鈴鹿や木曽の山、夏のシーズンともなれば、南北中央アルプスなどに登ったものだ。
しかし、一〇年ほど前、交通事故で膝を傷めてからは、もっぱら近くの四百メートル級の山に登っている。
 事故で傷めた膝が回復しても、階段を登るとき、時々膝に激しい痛みが走ることがある。以前のような険しい山に登るのは、ちょっと難しいかもしれない。事故後は自宅の近くの、比較的膝への負担が軽い山に登っていた。
 あまりに容易に、短時間で登頂できてしまうので、歩くには少し物足りない山域だと思い、以前はめったに登ることもなかったのだが、膝をかばいながらのんびり歩いていると、なかなかいい山だと思うようになった。
 低い山でも、じっくり楽しむつもりで歩けば、それなりにいいところがあり、けっこう味わいがあるものだ。
私がよく登るコースには、途中の沢の流れに、竹の樋を利用した簡素な水場がある。私はよくそこで休憩して、沢の水でコーヒーを淹れたり、カップ麺を作ったりしている。
 人の通行も多い低山の水場であり、沢の水はそのまま飲用するのがちょっとはばかられるが、煮沸をすれば問題ない。ここでのコーヒータイムは、私の山歩きの大きな楽しみの一つでもある。
 交通事故で膝を傷める前は、週末の休みには猿投山に登り、ときには鈴鹿に行ったり、笠置山、南木曽岳のような中央本線沿線の山などによく登ったものだ。
 しかし、膝を傷めてからは、高く険しい山は敬遠している。階段でさえ痛みが走ってつらいときがあるのに、高く、行程の長い山に登るのは難しいだろう。それでも、いつかは膝の故障を回復させ、また日本アルプスの山々など、高い山に挑みたいと思う。膝が十分回復するまでは、以前はあまりに簡単すぎて登る気にもならなかった、自宅近くの山を楽しむことにしている。
 私は膝の痛みと闘いながらの山歩きだったので、最初のうちはこわごわ登っていた。かつての山仲間で、膝を傷めていて、特に下りが苦手だという人がいたが、自分が膝を傷め、ようやくその人の気持ちがよくわかるようになった。
 このごろは痛みもあまり気にならないような歩き方を習得できた。階段が多いコースは避けるようにして、どうしても階段を通らざるを得ないときには、階段の縁の、段になっていない部分を歩くなどの工夫をしている。それでも階段を上らざるを得ないときは、ゆっくり、足元をよく見て、なるべく段差の少ない部分を歩くようにしている。
 下りの方が膝への負担がずっと大きいが、私の場合は、下りより上りの方が膝に痛みが来る。ただ、それはその場での痛みのあるなしの問題であって、そのとき痛みがなくとも、やはり膝へのダメージは、下りの方が大きいようなので、下りのときにも用心しながら歩いている。
 以前のように何の気遣いもなく、ずんずん歩いていたころが懐かしく思うが、もう年齢的にもだんだん老境に入っているのだから、当然登山のスタイルは変えていかなければならない。いつまでも若い気でいれば、いずれ必ず痛い目に遭うであろう。
 私は山ではつい無茶をしてしまうタイプなので、事故で登山について見直す機会ができたのは、かえってよかったのかもしれない。
 自宅から登山口まで、徒歩でおよそ四十分。
 登山道に入ると、さっそく小さなハエのような虫につきまとわれる。
 メマトイと総称する、ショウジョウバエの仲間の虫だと聞いたことがあるが、とにかくうっとうしい。
 以前からこの山域にいた虫だが、ここ二、三年は特に多くなったような気がする。秋になれば、だんだんと数が減り、寒さが厳しくなる晩秋にはほとんど姿を消す。けれども一昨年ぐらいから、数は少なくなってはいても、寒い季節でも小バエにつきまとわられるようになった。やはり温暖化のせいだろうか。
 ここ二、三年、蚊も多くなっているように思える。私は五階建ての団地の最上階に住んでいる。以前は五階の部屋に蚊が入ることはまれだった。窓を開けておいても、蚊が侵入することはめったになかった。
 しかし最近では、非常に多く蚊が部屋の中に入ってくる。夜眠るときには、電子蚊取り器が必需品だ。
 山でも小さなハエが多くなったようだ。
 テレビで、野生のライオンなどの顔の周りを、無数のハエが飛び回る映像を見たことがあるが、今の自分もあんな感じかもしれない。もちろんあんなにたくさんのハエが飛び交っているわけではないが、それでもちょっと数えただけでも二十匹ぐらいはいそうである。
 昨年、顔の周りを飛び回るハエがあまりにうっとうしかったので、顔をジョロウグモの巣に近づけたら、巣に引っかかったハエがいた。
 獲物がかかったことに気づいたジョロウグモは、素早く小バエのところまで移動し、何本かの脚でがっちりと捕まえ、体液を吸い取り始めた。
 ほかの種類の蜘蛛を見ていると、まず獲物を糸でぐるぐる巻きにして、身動きができなくしてしまうのだが、ジョロウグモは糸で巻き付けることをせず、すぐに獲物の体液を吸っているようだ。
 雌のジョロウグモは、小さなショウジョウバエに比べ、はるかに身体が大きいので、わざわざ糸で巻き付け、身動きできないようにしなくても、そのまま料理してしまえるからだろうか。
 ただ、ほかにも獲物が網にかかっていて、すぐに新しい獲物を平らげる必要がないときには、糸で縛って、逃げられなくして、しばらく置いておくようだ。
私は小バエがうっとうしくなると、ジョロウグモの巣を見つけては、顔を巣に近づける。
 しかし、ハエも蜘蛛の恐ろしさをよく知っているのか、なかなか巣には引っかからない。蜘蛛の巣に顔を近づけると、顔のあたりから腰の近くに避難してしまう。そして、巣から遠ざかると、また顔の近くをぶんぶんとうるさく飛び回るのである。まれに間抜けなハエが引っかかるぐらいだ。
 最初はうっとうしい小バエを何とか追い払いたいという気持ちから始めたことではあるが、私はジョロウグモが小さなハエを襲う光景を見るのがおもしろくなり、ハエを蜘蛛の巣に叩きつけるというゲームを行うようになった。目の前を飛んでいるハエを手のひらで叩きつけ、蜘蛛の巣に誘導するのだ。ハエも本能的に危険を察知するのか、蜘蛛の巣の近くに寄ると、なかなか近づいてこない。それでも根気よく待ち続け、目の前を横切ったハエを、平手で蜘蛛の巣に叩きつける。
 ジョロウグモが巣を張るのは、晩夏か秋口になってからであり、盛夏である今は、時たま小さなジョロウグモを見かける程度だ。そのゲームはまだしばらくお預けだ。
 晩夏以降に山に登るとき、私はそのゲームに没頭した。ときどきは身体を動かないと、自分が蚊の餌食となる。ただ、他の登山者の気配を感ずると、私はゲームを終了して、登山道を先に進む。やはりそんなことをしているところを、他人に見られたくなかった。
 前にテレビで、虫の大群の中で、トカゲが羽虫に飛びつき、捕食している場面を見たことがある。日本のトカゲではなかったが。もし私がトカゲなら、顔の周りを飛び回っている小バエは、絶好のエサになるだろう。
 しばらく歩いているうちに、私は登山路の中腹にある水場に到着した。先ほど紹介した、私がよく休憩する水場である。
 休憩といっても、まだ疲れるほど歩いているわけではない。このコースは、自宅の玄関を出てから戻るまでの全行程が約一〇キロ。その多くが車道で、山道は全体の三分の一ほどだろうか。水場での休憩をせずに歩けば、三時間程度で行って帰ることができる。だから、休憩するほどでもないのだが、私はいつもこの水場で、コーヒーを淹れることにしている。ここで一息入れることが、この登山の楽しみの一つでもある。
 コーヒータイムでも、小さなハエは目の前を遠慮なく飛び回り、うっとうしい。とはいえ、登山道を歩いているときに比べると、まとわりつく数が少なくなる。これはなぜだかわからないが、水場の付近は、多少樹木が少ないせいかもしれない。うっとうしい小バエは少ない方がありがたい。
 沢の水で作ったカップ麺を食べ、コーヒーを飲み終えると、私はなんだか、無性に眠くなった。
 こんなに眠くなることなど、これまで経験したことがなかったのだが、どうにも眠気に抗することができなかった。日陰の涼しいところを選んで、ほんの少しだけ横になる……つもりだった。

 男は目を覚ました。目の前をぶんぶんと小さなハエが飛び回っている。男は、そのハエが妙においしそうに感じた。そして飛び上がって、そのハエにぱくついた。ハエはうまく口の中に捕らえることができた。とても美味だった。
 ハエはいっぱい目の前を飛んでいる。男は次々にハエに飛びかかった。
 男は大きなトカゲになっていた。自分が人間だったときの記憶は、全く失われているようだった。


『幻影2 荒原の墓標』最終回

2014-10-04 01:19:07 | 小説
 38回に渡り掲載してきた『幻影2 荒原の墓標』は、今回がいよいよ最終回です
 読んでくださった方、ありがとうございました
 もし私の作品に関心を持っていただけたら、本を買っていただけるとありがたいのですが。もちろん強制は一切いたしません。

 



       エピローグ 


            1

「徳山優衣さんのお姉さん、久美さんのことがわかりました」
 美奈はある夜、うとうとしていたときに、千尋からメッセージを受け取った。
 千尋の話によれば、山岡に殺害された久美は、その後しばらくは暗くて寒い、じめじめした地獄のような霊界に堕ちていた。そこはかつて千尋自身がいたところによく似た陰惨な霊界だそうだ。最近、ようやく久美は自分の死を悟り、また弱い立場のお年寄りを食い物にしていたことを、反省することができるようになった。
 多くの霊は、そうなれるまで、人間界の時間にすれば、何十年、何百年とかかるのに、久美は早く気づくことができた。それは、千尋と多恵子に諭され、白銀のオーラを浴びることによって浄化が進んだ、宏明の霊が導いたからだった。
 宏明も久美を死なせてしまったことを悔いていた。だから、千尋のオーラで浄化された宏明は、少しでも久美の役に立ちたいと、漆黒の霊界でずっと久美を捜していたそうだ。
 宏明はかなり霊として向上していたので、暗い霊界を旅することは、非常な苦痛を強いられる。霊界というところは、その霊の精進の度合いにより、住むべき世界が決定される。それに従わず、自分の境界(きょうがい)に合わない霊界に行くことは、絶大な苦しみとなるのだ。ときには邪悪な霊に挑まれ、過酷な戦いをしなければならないこともある。宏明はそんな苦しみを覚悟の上で、自らの意志で果てしのない地獄のような霊界に、久美を捜しに飛び込んだ。
 そしてとうとう久美を捜し当てた。宏明は苦しむばかりで話を聞こうとしない久美に、諄々と霊界の掟を説いた。自分にはもう死んで肉体がないことに気づき、少しでも高い霊界に行けるよう、精進しようと説得した。そして久美を死なせてしまった自分の非を詫びた。
 それでも久美は苦しむばかりで、宏明の存在に気づこうともしなかった。それで宏明は、千尋がやったように、久美に対して白銀のオーラを発することを思いついた。それはなかなかうまくいかなかった。まだ宏明自身、そのようなオーラを出せるまで向上できていなかった。しかし、ぜひとも久美を救いたいという一念で、千尋を思い、千尋にどうかあのときの力を自分も出せるようにと祈った。その祈りは、強く純粋なものだった。それで宏明は千尋に対し、思いの架け橋ができ、宏明を通して、千尋の白銀のオーラを久美に浴びせることができた。
 その光を浴び、久美は徐々に浄化されていった。また宏明自身も千尋のオーラを浴び、さらなる向上をすることができた。
 それで、宏明も久美も地獄の境界を脱することができた。
 大岩、佐藤、山下の三人は、しかるべき地獄のような霊界に赴いたそうだ。そこで数百年、数千年もの長い間苦しみながら反省をし、自分が犯した罪を償うことになる。
霊界というところは、思いがすべての世界だ。どんな悪業を犯し、深い地獄に堕ちたとしても、心から反省をして、霊としての精進を固く誓えば、やがては救われる。しかし多くの悪霊たちは、反省の気持ちを抱かず、心の赴くまま地獄で悪鬼と化して暴れ回る。そのような霊たちは、何千年、何万年、いや、場合によっては、何億年という気が遠くなるような長い間、地獄界で苦しまなければならない。仏教では八大地獄などが説かれるが、実際に無間(むげん)地獄のような恐ろしい霊界は存在する。地獄というと迷信のように思われるが、霊界とは人間の肉体を離れた、形態を変えた生命体が赴く、異次元の世界なのだ。
千尋の話は美奈の心の中で、映像としても感知できた。一瞬美奈の心のスクリーンに、大岩たちが堕ちた、戦慄すべき地獄界の光景も映し出された。
宏明と久美の話を聞いて、美奈は自分のことのように嬉しく思った。さっそく優衣と裕子にその話を教えてあげたい。美奈は翌日、北村に連絡し、優衣に会えるよう、取りはからってもらった。美奈は南木曽岳に行ったとき、また会いましょうと約束しながら、優衣と携帯の番号やメールアドレスを交換するのを忘れていた。次の土曜日の午前中、美奈が出勤する前に、金山のファミレス、Dで会うことにした。以前、優衣と北村が待ち合わせた店だ。そのときには北村も同席する。
 美奈は北村に、秋田の妹の裕子が来てもいいかを優衣に確認してもらった。裕子の兄は久美を殺害している。実行したのは山岡という凶悪な男ではあるが、久美を殺すように仕向けたのは宏明の霊だった。だからある意味、裕子は久美の敵(かたき)の妹だ。優衣にはそのことを事前に説明し、承諾を得ておかなければならない。
 それに対し、優衣は姉こそ宏明が暴行されたとき、見殺しにしたのだから、私のほうこそお詫びしなければならないと言って、了承してくれた。それでその場には裕子も参加することになった。

 裕子はオアシスに復帰した。美奈はあと三ヶ月ちょっとで退職になるが、辞めてもずっと親友よ、と誓い合った。裕子はあの日、兄と自分の危機を救ってくれた美奈には、感謝してもしきれないと言った。裕子は恵と美貴がいる間は、オアシスを辞めないと宣言した。そしてもし恵がオアシスを辞めてから、喫茶店をやるのなら、ぜひとも一緒に働かせてもらいたいと希望した。美貴が 「それならあたしも一緒にやる。みんなで“ケイ”を盛り上げようよ」 と賛同した。喫茶店の名前は、恵のオアシスでの源氏名“ケイ”をそのまま使おう、と話し合っていた。恵(めぐみ)の“恵(ケイ)”でもある。
「それじゃあみんな、お願いね。一緒に私たちのお店、作ろうよ」
 恵は大いに盛り上がった。あと二年はオアシスで働いて、しっかり資金を貯めて、みんなでお店をやっていく。店の資金は美貴たちも協力してくれるという。こんな素晴らしいことはないわ、と恵の瞳が輝いた。

            2

優衣、裕子とDで落ち合う日となった。美奈は約束の時刻より、少し早く着いたと思ったら、優衣と裕子はすでに来ていた。初対面なのに、なぜかお互い、すぐわかったそうだ。二人は敵(かたき)同士のはずなのに、もうすっかり打ち解けているようだった。裕子は左腕のタトゥーも、優衣に見せていた。約束の時間ぎりぎりに、北村が飛び込んできた。
「ごめんごめん、新聞の連載ものがなかなか書けなくて、徹夜だったんで、寝坊しちゃいました」
 北村は照れ笑いをした。北村がさっそくみんなで自己紹介を、と言ったら、 「私と裕子さん、もうずっとお話しして、打ち解けてますから、必要ないですよ」 と、優衣がやんわりと断った。
「ところで美奈さん、文学舎から連絡来ましたか?」
 北村が美奈に尋ねた。
「はい。久保田さんという女性の方が担当になってくださいましたが、けっこう有利な条件で出版していただけるそうです。本が上梓されるのは、来年春ごろの予定です。これも先生のおかげです。ありがとうございました。近いうちに東京の文学舎まで、挨拶に行こうと思います」
 美奈の場合はベテランの北村とは違って、校正をじっくりやるため、本が出るまで時間がかかる。
「担当、久保田女史ですか。彼女、やり手なので、なかなか大変になりますよ。僕が知ってる女性作家も、彼女によく尻を叩かれてました。そうそう、出版するとき、僕が本の帯に推薦の言葉を書いてあげますよ。知り合いの評論家にも口添えしときます」
 北村は美奈に協力を約束した。
「え、美奈さん、本出すのですか?」
 美奈が小説を出版する運びとなっていることをまだ知らない優衣が尋ねた。北村が代わって美奈の作品のことを絶賛しながら、優衣に説明をした。
「そうなんですか。美奈さんもこれで作家の先生なんですね。おめでとうございます」
 優衣が美奈の処女出版を祝った。
「そんな、先生だなんて。まだどうなるかわかりませんわ。一冊だけで消えてしまうかもしれませんし」
 美奈は謙遜した。
 まずは料理をオーダーした。昼食には少し早めだが、美奈は食事をしていくことにした。昨夜は仕事で遅くなり、朝起きて軽く化粧をして、すぐ家を飛び出したので、眠気覚ましに、コーヒーをカップ一杯飲んできただけだった。
 みんなが食事を終えてから、美奈はなぜ優衣と裕子に来てもらったかを説明した。千尋から聞いたことを、わかりにくいことを補足しながら、美奈は二人に伝えた。
「嘘、そんなこと、すぐには信じられない」
 優衣が最初に口を開いた。
「私は信じます。だって、私は直接兄の霊と話をしましたし、危ないところを兄と千尋さんに助けてもらったんです」
「僕も、裕子さんのお兄さんが告白する場面にいたので、信じますよ。信じざるを得ない。武内という男がとうてい知り得ない、南木曽岳でのことも言っていたので、決して武内の芝居じゃない。その時点では裕子さんも知らなかったことだから、裕子さんが事前に武内に教えたわけでもないですよね」
「はい。私は北村先生のプライバシーを、裕子さんには話していません。刑事さんだけには、必要があったので話しましたが」
 美奈も武内が言っていたことは、決して事前に打ち合わせておいたことではないことを誓った。それに、美奈でさえ知らないことまで武内は話していた。
「すると、裕子さんのお兄さんが、私の姉を霊界で救ったのですか?」
「はい。ある程度浄化された霊が、暗い霊界に行くのは、すごい苦痛が伴うのだそうです。苦痛を和らげる肉体がなく、ストレートに精神に作用するので、私たちがこの世界で味わう最大の苦痛の何十倍、何百倍もの苦しみを味わうそうです。でも、裕子さんのお兄さんの宏明さんは、久美さんを死なせてしまったことを詫びるために、自らその苦しい世界に飛び込み、さんざん苦しみ抜いた果てに、久美さんの霊を救うことができたのだそうです。今では久美さんも宏明さんも救われて、高い霊界に一緒に行っているそうです」
「ということは、姉はもう成仏できたということですか? あれだけ詐欺なんかで悪事を重ねた姉が、救われたということですね?」
「はい。仏教の用語でいう、厳密な意味での成仏とはいえませんが、霊界で救われ、今は高い霊界に行き、さらに向上するために、修行をしているそうです。きっと近いうちに、守護霊になれるほどに向上して、優衣さんや裕子さんを守護してくれるようになると信じています」
 美奈は成仏という意味を詳しく説明することはせず、霊界で救われているから、何の心配も要らないと保証した。
成仏という言葉についての正しい意味は、住職の兄でも知らないだろう。ただ南無阿弥陀仏を唱えるだけで極楽浄土に往生できる、というものではないのだ。あくまでも美奈個人の考え方ではあるが、悪人正機説は正しいとはいいがたい。本当の成仏というのは、死んでから救われることではなく、生きているうちに、罪障や悪因縁を解消し、絶対的な幸福の境地を得ること、すなわち仏陀に成ることである。生きているうちに成仏できれば、もちろん死後も安穏である。そのためには、釈迦が遺した厳しい修行をして、煩悩や悪因縁をすべて消滅させなければならない。あるいは本当に正しい、力のある仏様や御本尊様の御許(みもと)で布教、広宣流布のお手伝いをして、徳を積まなければならない。美奈はそう考えている。だから美奈は、霊界で救われたと表現した。
「姉は秋田さんと親しくしていたようです。でも、姉は秋田さんを見殺しにしたそうですね。だから、姉が秋田さんの霊に殺されたと聞いても、裕子さんを恨む気にはなれません。逆に裕子さんに申し訳ない気持ちでいっぱいです。それに本当に姉を殺したのは、秋田さんではなく、山岡だったというし」
「私も兄の霊から、二人はお互い好意を持っていたと聞きました。兄は優衣さんのお姉さんが兄を見殺しにしたと思い、死なせてしまいましたが、兄はあとになって、久美さんは見殺しにしたのではなくて、止めたくても怖くて止められなかったんだと気づき、死なせてしまったことを、すごく後悔したそうです。だから、兄はそのお詫びに、どんなに苦しい目に遭おうとも、霊界で久美さんを助けようとしたのでしょうね」
 裕子は兄の気持ちを思うと、涙があふれてきた。
「そうです。そして、霊界で今度こそ、宏明さんと久美さんは結ばれることができたのです。二人連れだって、高い霊界に向上していきました。今は二人とも、救われたのです」
 美奈も説明しながら、涙が頬を伝った。
 そのとき、千尋からのメッセージが美奈の心に響いた。
「美奈さん。これから宏明さん、久美さんの言葉を、美奈さんの身体を通じて、二人に伝えます。以前、宏明さんが武内の身体を借りたようにです。すみませんが、しばらく無念無想になっていただけますか」
 美奈は千尋の伝言を優衣と裕子に伝えた。言ってみれば、いたこの口寄せのようなものだ。
「え、本当に姉の言葉を聞かせてもらえるのですか?」
 優衣は驚いた。
「はい。これから私の守護霊の千尋さんが、私の身体を使って、お姉さんからの伝言を伝えてくれるそうです。それが嘘ではない証拠を示すために、優衣さんとお姉さんしか知らないことを、質問してみてください。もし私が勝手に言っているだけなら、その質問には答えられないはずです」
 美奈は座席にゆったりとかけ、メガネを外した。そして雑念を振り払った。トランス状態というほどのものではないが、何も考えないようにした。すると、自然と口が動いた。漏れた声も、美奈の声でありながら、久美にも似た声になった。
「優衣、私は久美。あんたのお姉さんだよ。今、ちょっとだけこの人の身体を借りてるの」
「お姉ちゃんなの? 本当にお姉ちゃんなの?」
「疑うのなら、何でも質問してみてよ。私と優衣しか知らないことを」
 優衣は子供のころのことを二つ質問した。そして、ずばりと正解した。
「間違いない。お姉ちゃんだわ。本当にお姉ちゃんだわ」
 優衣はそれが本物の姉に間違いないことを確信し、涙を流した。
「優衣、ごめんね。私、悪いことをして、そのあげくに死んでしまって。でも、私はヒロちゃん、秋田さんのこと、全然恨んでいない。それどころか、私を辛い地獄から救い出してくれた、大恩人なの。だからそこにいるヒロちゃんの妹さんとは、仲良くしてちょうだい。あなたたち、さっき、初対面なのにすぐお互いがわかり、親しく話ができたのは、私とヒロちゃんがそのように念波を送ったからなのよ。私はこれからヒロちゃんと二人で、霊界でさらなる向上のために修行をする。そして、あんたを守護できるだけの力がついたら、守護霊として護ってあげるからね。それまでしばらく、待ってちょうだい。いいわね。死はすべての終わりじゃなくて、新しい生の始まりなの。永遠の霊界で生きる、霊としての新しい生の誕生なの。だから、悲しまないで。私はいつも優衣とも、お父さんお母さんとも一緒だから。いつまでも悲しまれていたら、かえって私も辛いから。わかったわね」
「わかったわ、お姉ちゃん。私、強く生きる。お父さん、お母さんにも、いつもお姉ちゃんが一緒だということ、伝えておくね。でもよかった。お姉ちゃんが救われて。秋田さんにもお礼を言うわ。お姉ちゃん、霊界で秋田さんと、幸せにね」
 優衣はここまで言うと、もう涙で何もしゃべれなくなった。
「じゃあ、私、もう行くからね。元気でやるのよ」
 久美は別れの言葉を述べて、美奈の身体から去った。続いて宏明が美奈の身体を借りた。
「ゆう、この前は俺の力が足らないばかりに、怖い思いをさせて、ごめんな」
 今度は美奈の声が男のように変化した。
「お兄さん、お兄さんね。またお兄さんと話ができて、ゆう、嬉しい。この前は、お兄さん、ゆうのために、凶悪な霊に立ち向かってくれたんだもの。お兄さんが謝ることなんか、全然ない。お父さんもお母さんも、お兄さんのこと話したら、泣いてたよ。お父さん、もっとお兄さんのこと認めてやるべきだった、許してくれ、と謝ってた」
「そうか。父さんとはもっと早く仲直りしたかった。俺がひねくれていたばかりに、父さんにも悪いことをした。俺はあのとき、美奈さんの守護霊の千尋さんから力をもらって、救われたんだ。本来なら、何十年、何百年と、暗い寂しい霊界で、一人で反省していなければならなかったところを。霊界でも、千尋さんのおかげで、久美を救うことができた。白銀の光を浴びせてもらったおかげで。ゆうの友達には、いくら感謝しても、感謝しきれるものではない。どうか、ゆうは俺の代わりに、恩人の美奈さんとずっと友達でいてやってくれ。そして、久美の妹さんとも。俺が言いたいことは久美と同じだ。俺も霊界で、もっと修行をして、必ずおまえを護ってやるよ。だから、しばらく待っていてくれ。また戻ってくるからな。それじゃあ、あまり長いこと身体を借りると、美奈さんに負担を強いるから、俺はもう行くぞ。俺は生きているときには、人としての道を踏み外してしまったが、ゆう、おまえは幸せになれよ」
「お兄さん、ゆうは絶対幸せになる。だからお兄さんも安心して」
 裕子の顔も涙でくしゃくしゃだった。美奈は自分を取り戻した。
「美奈さん、すごいです。本当にこの世の奇跡を見る思いですよ。美奈さんにはこんな超能力があったんですね。あまりに現実離れしすぎて、とても僕には作品にできません。ぜひ美奈さんが作品にまとめてください」
 北村はもらい泣きをした恥ずかしさをごまかすために、おどけたような言い方をした。
 思えば美奈がこの事件とかかわる発端は、北村が初めてオアシスの美奈のところに来た翌日、秋田の霊に接触したことにあった。そして結局この一連の事件にかかわり、藤原岳では恐ろしい体験をすることになった。
 しかし、宏明と久美が救われ、親友の裕子も兄との絆を強めることができた。優衣も姉が犯罪を犯したことで悩み、家族も崩壊の危機にあった。けれども、きっと優衣の家族は立ち直ることができるに違いない。なんといっても、久美が守護霊になり、護ってくれるのだ。

 二時間以上話をして、美奈は優衣と別れた。北村は帰ってこれからまた連載もののアイディアを練らなきゃ、と愚痴っぽく言いながら、優衣と一緒に歩いていった。作家というものは、やはり大変なんだなと美奈は改めて覚悟した。また、北村と優衣は何となくいい雰囲気になっているように思えた。美奈はあの二人が、ノミの夫婦ではあるが、近い将来、結ばれそうな予感がした。
 オアシスの勤務までまだ時間があるので、美奈は裕子と、昨年開業した大きな商業施設、アスナル金山を歩いてみた。土曜日ということもあり、人出が多かった。それから美奈の車で一緒にオアシスに向かった。
「この車にも、守護霊がいるんですね。あのとき、この車の守護霊が駆けつけてくれて、兄も協力して、三人で悪霊を退治してくれたんですよね」
 多少霊感がある裕子は、多恵子が千尋と共に、悪霊に立ち向かうとき、微かだが多恵子の姿を見ることができた。
「実は、あのとき助けてくれた多恵子さん、この車の中で病死したのよ。それを千尋さんが浄化して、守護霊にまで高めてくれたの。ほかのみんなには、この車の中で女性が亡くなったということ、言わないでくださいね。気味悪がられるといけないから」
「はい、言いません。交通安全の守護霊様になってくれたなんて、素晴らしいです。でも、霊界って不思議なんですね。兄も久美さんも救われ、みんなが幸せになる。美奈さんって、本当はタトゥーをした神様なんじゃないですか?」
「そんな恐れ多いこと、言わないでください。神様といえるとしたら、千尋さんですね。もはや守護霊というより、神格を持った守護神様かもしれません」
 美奈は改めて千尋と多恵子に感謝した。          
                                                           (完)

 

『幻影2 荒原の墓標』第37回

2014-09-26 17:33:12 | 小説
 今日は所用で多治見まで行きました
 行きは愛岐道路を走りました。庄内川(土岐川)に沿った、山と渓谷の風光明媚な道路です。私が高蔵寺に転居したころは、有料道路でした。現在は無料になっています
 しかし信号が少なく、スピードを上げる車が多く、注意が必要です。
 時速60kmで走っていても、後ろから「もっとスピードを上げろ」というように、かなり煽られました
 途中2度、路肩が広くなっているところで後続車に追い抜かせましたが、またそのあとから来た車に煽られました。
 せっかく美しい風景なので、のんびり走りたいのですが。左は庄内川、右は崖なので、運転に注意が必要です。カーブも多いですし。
 帰りは国道19号線を走りました

 今回は『幻影2 荒原の墓標』37回目の掲載です。
 次回はいよいよ最終回です


            8

 明るくなるのを待って、美奈たちは下山した。美奈は空腹と喉の渇きで、早く食事をしたかった。身体中泥と汗にまみれていたので、入浴もしたかった。そしてゆっくり眠りたかった。美奈はそんなことを考えるだけの余裕を取り戻していた。しかし裕子は食事どころではないようだった。裕子にとっては、今回の事件は一生忘れられないものとなった。
「美奈さん、腕を怪我してますが、大丈夫ですか? 早く治療しなくては、化膿したら大変です」
「大丈夫です。少し痛みはありますが、もう出血も止まっていますし。舐めときゃ治ります」
 心配する三浦に、美奈は冗談も交えて、大丈夫だと強調した。美奈は怪我が、卑美子に彫ってもらったタトゥーの部分じゃなくてよかったと思った。タトゥーがあるところに怪我をすれば、せっかくの美しい絵に傷をつけてしまう。
 気がついた武内は、おとなしく刑事たちに従った。ここ数日の記憶が全くないと主張した。自分がなぜこんな山の上にいるのか、さっぱりわからないとも言った。刑事たちもキツネにつままれたようだった。
 武内の身柄はひとまず北勢署に引き渡された。まず美奈と裕子に対する逮捕監禁罪、殺人未遂罪で取り調べられることになった。そのあと、小幡署、篠木署、加茂署、上松署でも取り調べられる。さらに神宮署が扱う金剛堂の強盗殺人事件や、二課が担当する詐欺事件のこともあった。
 三浦が提供したICレコーダーに録音された武内、いや秋田の証言は、北勢署の刑事たちをさらに混乱させることになった。

 美奈と裕子が人質として拉致されたというニュースは、全国に放送された。連続殺人事件が絡んでいるというネームバリューがあるためでもある。恵やさくら、美貴ばかりではなく、静岡の葵からも 「テレビ見てびっくりしたわ。大丈夫?」 と電話があった。
「だからあれほど事件に首突っ込まないように言っておいたのに。でも、美奈も裕子も無事でよかった」
 葵は心から美奈と裕子のことを心配してくれた。

 オアシスに北村がやってきた。
「あれから、とんでもないことになっていたのですね。ニュースを見てびっくりしました」
 北村はあのあと、無事西藤原駅まで歩いて、三岐鉄道の電車で帰ったそうだ。
「美奈さんの作品、僕がお世話になっている文学舎の飯田さんに見てもらいましたが、すごい評判だったそうですよ。おかげで僕の新作がかすんでしまいましたよ。ぜひうちから出版したいとのことです。作家、木原未来の誕生、おめでとうございます」
 北村は自分の新作がかすんだと冗談を言ったが、実際はこれまでの最高傑作と評価されたそうだ。その新作は、秋田の霊はいっさい関与していない。また、『鳳凰殺人事件』と『荒原の墓標』は、一部を改作し、登場人物の名前も変更することとなった。
 そして、美奈の『幻影』は、北村の新作に勝るとも劣らない評価があったという。
「近日中に、担当から美奈さんに連絡が行くはずです。クラブのホステス探偵、如月美穂がなかなか魅力あるキャラクターなので、評判がよかったら、シリーズ化したいと言ってましたよ。美奈さん、聞くところによると、あの刑事さんと結婚して、ここを辞めるそうですね。以前言っていた、一緒に竜に登った“怖いお兄さん”というのは、あの刑事さんのことでしょう。僕はもうここには来ません。今日が最後です。これからは作家としてのお付き合いをお願いします」
 北村がどこでその話を仕入れたのかわからないが、突然そう言われ、美奈は驚いた。考えられるのは鳥居だろうか?
 もし鳥居だとしたら、 「作家の後輩として、これからあの娘をあんばよう(よくなるように)めんどうみたってちょう」 というように、美奈を思いやってのことだろう。この件ではいっさい鳥居を責めないでおこうと美奈は思った。
「こちらこそよろしくお願いします。それにまだ一冊本になるだけで、作家だなんておこがましいです。今後とも精進しますので、先生、どうかご指導お願いします」
 今まで店で先生と呼ばれることに抵抗を感じていた北村も、今度は何も言わなかった。北村も美奈さんと本名で呼んでいる。
「ところで美奈さん、作家になったらそのタトゥー、どうするのですか? 実は担当もそのへんのこと、興味あるみたいです。前に派手に事件の報道がされたので、担当も作品を読んで、この作者はひょっとしたらあの事件の人ではないか、と気づいたんですよ。美人タトゥー作家として、タトゥーを売り物にするのも、話題になると思いますが」
 北村に言われ、やはり私にタトゥーがあることは、多くの人が知っているんだと思った。実際は事件との関連を指摘した飯田に、北村が美奈のことをしゃべってしまったのであるが、飯田が美奈のことに気付いていた事実には変わりない。
「いいえ、タトゥーはなるべく隠します。たぶん、多くの人に知られていて、隠そうにも隠せないとは思いますが。実は今月号のタトゥー専門誌にも、私の写真が出ちゃったんです。でも、タトゥーを自分から披露することは、極力しないようにします」
「そうですね。僕もそのほうがいいと思います」
 タトゥーをできるだけ隠すことに、北村も賛成してくれた。

 勤務が終了してから、美奈は恵、美貴となじみのファミレスに行った。美奈は事件後、しばらくオアシスを休んでいたので、三人が揃ってファミレスに行くのは、久しぶりだ。美奈と裕子の拉致のニュースを聞き、オアシスのコンパニオンや従業員みんなが二人のことを心配していたという。美奈が出勤すると、誰もが美奈に 「よかったよかった」 と声をかけてくれた。
 裕子は兄のことを両親に話した。両親は最初は信じようとはしなかった。ところが宏明が 「二人とも心から愛していたのに、俺がひねくれていたせいで、素直に感謝の気持ちを伝えることができなかった」と代わって謝っておいてほしいと言っていた、と伝えたら、両親は涙を流した。
「信じるよ。宏明、おまえの真心を信じるよ。俺も悪かった。成績が悪いからと叱ってばかりいるのではなく、もっとおまえを認めてやるべきだった。父さんを許してくれ」
父親はそう言って号泣した。そして家族三人で泣いた。
これまで軟禁状態になっていた裕子も、もう自由にしてよいと許可されたそうだ。近くオアシスに復帰すると言っていたことを、美奈は恵と美貴に伝えた。
「え、ほんと? また裕子と一緒に仕事をできるのね。やったー」
 美貴が嬉しさを隠さず表現した。
「見えるところまでタトゥーを入れて、もう会社勤めが難しくなったので、今まで通りやればいいと、お父さんから許可をもらったそうです。ただ、月に一度は実家に帰ることを義務づけられたそうですが」
「実家といっても近いんだし、まあ、よかったじゃない。車ならいなべに一時間ちょっとで行けるでしょう。名阪使っても、桑名までならたいした料金ではないし」
 恵も裕子の復帰を喜んだ。裕子のワゴンRは、恵が二年ほど前にセレナに買い換えたとき、恵から格安で譲ってもらった車だ。恵が大事に乗っていたので、車の状態は非常によかった。
 美奈はそれから、自分が書いた小説が出版されるということを話した。北村弘樹が文学舎に紹介してくれ、編集者からも好感を持って迎えられたことを伝えた。
「美奈もいよいよ作家の先生ね。『幻影』、よかったものね。本になったら、みんなに勧めるわ」
「あたしは本を読むのは苦手だけど、美奈の作品はこれからどんどん読むね。これでオアシス退職後も、安泰ね」
 二人は美奈を祝福した。
「でもまだ駆け出しのひよっこ、いや、卵かもしれない状態です。北村先生でさえ、一度は挫折している厳しい世界ですから。茨の道だと覚悟してます」
 美奈は処女作が出版されるといっても、決して慢心することはなかった。これから作家としてやっていけるかどうか自信がないが、精一杯頑張ると恵、美貴に宣言した。
「大丈夫。美奈ならきっとやれるわよ。私、昔から美奈の才能、誰よりも高く評価していたんだから」
「ぜひとも茶川賞取ってね。期待してるよ」
「それを言うなら、芥川賞でしょう、美貴」
「わかってて、わざと言ったのよ。ギャグよ、ギャグ。映画にも、茶川竜之介って出ていたでしょう」
恵に突っ込まれ、美貴は顔を赤らめながら弁解した。
「ま、そういうことにしといてあげるね」
 恵と美貴が美奈にエールを送った。こんな素晴らしい親友とも、間もなくお別れかと思うと、つい美奈の目から涙があふれてしまった。でも、オアシスを辞めても、一生友として付き合っていけるのだ、決して別れるわけじゃない、と思い直した。
「そういえば、美貴さんの新しいタトゥー、どうなりました?」
「うん。さくらがすっごくかっこいい絵を用意してくれたので、それを左の太股に入れることに決めたよ。オスカルの上半身で、周りにバラをたくさんあしらった絵なの。さすが漫画家志望だっただけあって、すごくうまい。腰から太股にかかる、かなり大きな絵だよ。座るとお尻の下になっちゃって、ちょっとオスカルに申し訳ないけど。来週から始めるの。バラはバラは気高くー咲ーいーてー、バラはバラはうーつくしくー散るー。ところで、さくらも美奈と裕子の事件のことで、すごく心配してた。無事でよかったって、目を潤ましてたよ」
 そう。さくらも葵も、みんな大切な友なんだ。美奈はこんなに素晴らしい仲間に恵まれていることを、天に感謝したい気持ちだった。

 武内は多くの罪状で起訴されることとなった。死刑判決が確実視された。三浦が提供した秋田の告白の録音は、証拠として用いられることはなかった。
 ただ、藤原岳で不思議な現象に出会った北勢署の刑事たちは、その証言に信憑性があることを主張した。だから、武内は自分の意志で山下、佐藤、大岩を殺したのではなく、霊に操られて犯行に及んだのだと、武内を弁護した。しかし、霊の証言など、採用されるはずがなかった。死刑回避を狙う、武内の自作自演だと一蹴された。
 三浦や鳥居も、武内に極刑を適用しないよう主張し、弁護士などにも相談した。検察としても、刑事たちの主張をむげに退けることはできないとしながらも、霊の証言など取り入れるわけにはいかなかった。
 結局、弁護士たちは武内がそのような戯言(たわごと)を口走ったのは、心神耗弱(こうじゃく)の状態にあり、責任能力に疑問があるので、刑を軽減するという、苦肉の策に出た。逮捕される前、数日間にわたり武内が全く記憶を失っていたことは、精神科医の鑑定でも間違いないと認定された。それ以外にも、最近は記憶が欠落していたり、曖昧になっていたことがときどきあったという。武内がオアシスで裕子に会ったときも、途中から意識を秋田に乗っ取られた状態だった。そのとき武内に憑依していた霊が、悪意を持った怨念霊だったら、千尋が気づき、その時点で事件は急展開していたかもしれない。しかしそのときの秋田は、妹を慈しむ守護霊のような状態だったので、千尋も看過したのだった。
武内は詐欺事件や金剛堂襲撃事件について、積極的に供述し、事件の全容解明に協力した。また、事件の被害者たちにも、深くお詫びの言葉を述べた。そのことは検察官にも好印象を与えた。
公判のときには、北村も裕子も美奈も、武内側の証人として出廷するつもりだ。武内はやってもいない殺人で、極刑に処されることは回避できそうだ。