井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ピアノの屋根②半開

2018-10-31 20:36:00 | ヴァイオリン
ピアノの屋根を全開にすると、ヴァイオリンの音が聞こえなくなる。だから半開以下、というご意見をよく聞く。他の弦楽器やフルートでも聞く。

それに対して、一番乱暴なご意見は…

「当たり前じゃないですか。ピアノの方が大きな楽器だから、ピアノが聞こえて当然ですよ。」
と、日本を代表するピアニストの一人がラジオで言ってのけたのを聞いたことがある。

弦楽器奏者からは一斉に反感をかう発言だが、ピアニストの中には、そう思っている人も少なからずいて、上記の発言は必ずしも暴言ではないのかもしれない。

では、屋根を半開以下にすると、ピアノの音量は下がるのか?

演奏者とピアノの組み合わせで、確かに音量が下がって聞こえる場合もある。(正確には、半開にすることで、届きにくくなる音の成分がある。うるさくはないかもしれないが、こもった響きになるのは否めない。)

逆に、演奏者、ピアノ、会場次第では、響きが一方向に集約されて、うるさくなることもあるのだ。

このように事情は単純ではないから、一概に半開を勧めるのには抵抗がある。

だが、一般的に、半開にすると音量は減ると信じられているし、全開論を展開するほどの時間がある訳でもない場合、面倒を避けて「半開で」と言ってしまう。

ピアノの屋根①どうしますか?

2018-10-29 20:31:00 | ヴァイオリン
何回か書いたような気がするが、コンクールの度に少々困惑するのである。
「ピアノの屋根、どうしましょうか」

「ふた」という言い方もあるが、おかげで、ドイツ語で何と言うか(留学生一同と私)誰も思い出せなかった思い出がある。30年も前の話だが。

ドイツ語ではdas Dach, 英語ではroof、なので日本語でも「屋根」と言い慣れておいた方が良い、というのがその時の教訓である。

さて、ピアノとの二重奏の場合、屋根をどうするか。

本当は「全開」に決まっているのである。
理由は、全開を前提にピアノ自体が設計されているからだ。
全開でないと、様々なニュアンスを伴う多彩な音色が聞こえてこない。

その多彩な音色をシャットアウトした方が良い理由はどこにもない。
だから「当然全開」……

となかなかならないのが世間である。

現在の音楽室にある年表

2018-10-22 18:20:35 | 音楽

私が小学生の時、音楽室に貼ってある年表で、ショスタコビッチ等を覚えたことを以前の記事に書いた。

では、現在の小学校の音楽室には、どのような年表が貼ってあるか。
とある学校に行って、びっくり仰天。



ストラビンスキー《火の鳥》
プロコフィエフ《ピーターと狼》
山田耕筰、宮城道雄

このあたりは我々の時代から変わらない。

ガーシュイン《ラプソディー・イン・ブルー》
バーンスタイン《ウェストサイド物語》
このあたりが市民権を得た、という感じかな。

その伝でいけば、
リヒャルト・シュトラウス
ファリャ《三角帽子》
も、同様のことが言えるかもしれない。

しかし、あとは段々奇妙なラインナップになっていく。

ラベル《歌曲シェラザード》

は?《ボレロ》でも《ダフニスとクロエ》なくて……

この選者は歌ものがよほど好きなのか、マーラーは《大地の歌》、バルトークは《青ひげ公の城》、ショスタコビッチは《森の歌》になっている。

傑作ではあるけど、1曲挙げるとき、私なら選ばない。

極めつけの不可解は
黛敏郎《素数の比系列による正弦波の音楽》

黛先生はどう考えても代表作は《涅槃交響曲》でしょ。

それ以上に、中田喜直、團伊玖磨、武満徹を退けて黛敏郎とは、またユニークな見識である。

一般的には、ここに武満なのだと思う。しかし私の見解は、武満も三善晃も百年後には音楽史上にのみ残る作曲家になるのではないかと思っている。バロック時代のビーバーやロカテルリのような存在である。(両者とも音楽史上重要な足跡を残している。)

なので、武満が載らないことに関しては納得するのだが、他のラインナップは、やはりいただけない。
シュトックハウゼンではなくてメシアンでしょっ!

こういう年表を眺めながら育つ私のような子どももいるのだから、もっと考えて作成してほしいものだ。


チック・コリアを聴いてきた

2018-10-19 18:17:36 | 音楽

「北九州国際音楽祭」という、れっきとしたクラシック音楽の音楽祭なのだが、そこに「チック・コリア ソロ・ピアノ」というコンサートがあった。副題が〈フロム・モーツァルト・トゥ・モンク・トゥ・コリア〉。1980年代からクラシック音楽にも近づいていたチック・コリアだから、それらしいこともやるのだろう。

チラシに名前を発見して「うわぁ凄い」と思う一方、逡巡する自分がいた。

私はジャズのコンサートで、必ず寝てしまうのである。一流の演奏家でなければ行かないから、演奏が悪い訳ではないはずなのだが、あるいは、とても良い演奏だからなのか、どうしても寝てしまう。それに、中学生の時に「スペイン」が発表され、カセットテープに入れて繰り返し聴いたものだが、何回聴いても面白いとは思わなかったし。

だが、意を決してチケットを手に入れた。事前に睡眠が足りて入れば大丈夫だろう……。

会場は北九州市立響ホール、クラシック音楽専門のホールである。

そこに、チック・コリアは、ほぼ普段着で現れた。我々が拍手で迎えると、彼も拍手をして我々に応える。面白い光景から始まった。この日は日本ツアー最初の公演であること等が、彼の口から英語で語られた。

まずクラシック音楽とジャズ(?)の組み合わせということで、モーツァルト(へ長調のソナタの第2楽章)とガーシュイン(誰かが私を見つめている)を組み合わせて弾くよ、という説明があったのだが「ではチューニング」と言い、ピアノでAの音を鳴らす。そして聴衆の我々に「歌え」というサイン。なんとなく我々もAをハミングすると、次にピアノで「B-G-A」、続けてまたサイン、我々も「B-G-A」、とコール&レスポンスが始まった。

そしてモーツァルトに流れ込んで行った。いやはや、のっけからハートを鷲掴み。(このコール&レスポンスは、この後2回くらいあった。)

続いてはスカルラッティのソナタ(コンクールで良く聴くやつ)とジョビンのボサノバ(ヂサフィナード)の組み合わせ。

ただ組み合わせといっても、続けて弾くだけではある。モーツァルトとスカルラッティは丁寧に譜面を広げて弾いていたのはご愛嬌。

それから、彼の好きな曲ということでデューク・エリントンの《ソフィスケイティッド・レディ》、友人のギタリスト「パコ」のために作った曲と続くのだが、その辺りでやはり睡魔が襲ってきて、もう1曲あったと思うが思い出せない。

休憩が20分もあったのでロビーに出た。聴衆はほぼクラシック音楽の聴衆の雰囲気で、ジャズ・コンサートの雰囲気はほとんど感じられなかった。

休憩後、やはりフード付きパーカーにGパンで現れた彼は「ゲームをしよう」と言い、彼はピアノの前に椅子を出した。「今からポートレートを作る」と言って、会場からポートレートを作って欲しい人を募った。

結局男女一人ずつがその椅子に座り、一曲ずつ彼の即興演奏による「音の肖像」を我々は聴くこととなった。

次のゲームは連弾。「チック・コリアと連弾したい人」と、同じく会場から募ると、ちゃんといるんだねぇ、即興ピアノが弾ける人が。こちらも男女一人ずつ、計2曲即興の連弾曲が誕生した。

ゲームの次は「北九州のための音楽」。この日のコンサートは録音されていて、今から弾く、北九州のための音楽は、希望者にEメールでそれをプレゼントするという企画(帰り際にアドレスが配布された)。なるほどねぇ、21世紀だねぇ。

続いて、最近子どもの精神に啓発されて作った曲集の中から何曲かが披露された。これは、ほぼクラシック音楽のスタイルで、自作であるにも関わらず、楽譜を見ながらの演奏であった。

「And one more...」と言いながら、ピアノの譜面台を外し、内部奏法を始めた。ピアノはヤマハで、多分持ち込みだろう。そうやって始まった曲も、おそらく自作。10分近くかかる曲で、これで予定していたらしいものは終了だった。(曲目が印刷されたものは一切なかった。)

鳴り止まぬ拍手に応えてくれたアンコールは、「スペイン」のニュー・バージョン。最後に例のコール&レスポンスで会場一体となり、休憩含んで約2時間半のコンサートが終わったのである。

子どもスピリッツの曲が、ほぼオスティナート(執拗音型、同じパターンの繰り返し)だったこともあり、「スペイン」の5度進行による循環コードが、とても身にしみて心地よかった。これこそが私にとって、彼から、あるいは天から贈られたギフトだなぁ、と思いながら帰路に着いたのであった。


箏の左手は「タコ」を計画生産

2018-10-15 17:04:42 | 日記・エッセイ・コラム

箏奏者、いわゆるお琴を弾く方と話していたら「是非、この左手を体感してほしい」と言われた。

箏の場合、柱の左側の弦を押して、音の高さを半音から全音上げる。これにとてつもない力が必要なのだ。

まあ素人がやると、とても痛い。

では専門家は、と言うと、計画的に「たこ」を作るのだそうだ。「マメ」ができてしまうと、しばらく弾けなくなるから、マメができる直前までの練習を繰り返し「たこ」にするのだとか。

そうか、計画的にねぇ~

と、私の頭に浮かんだ2曲。

ブリテン《シンプル・シンフォニー》第2楽章とラヴェル《ヴァイオリン・ソナタ》第2楽章。

どちらもピチカートが連続していて、1日でマメが右人差し指にできてしまう。なので翌日は中指を使い、またマメができてしまう。

ここからが塗炭の苦しみなのだ。みんなどうしているのだろうか。

これも箏を見習って計画的に「たこ」を作る練習をすべきか……。