長年の持論、ミュージカルは以下の4作が傑作であり、ほかはそれには及ばない。
【マイ・フェア・レディ】
【ウエストサイド物語】
【ザ・サウンド・オブ・ミュージック】
【屋根の上のヴァイオリン弾き】
この4作のヴォーカルスコアは、25歳以前に手に入れていたから、音楽についてはかなり詳しいつもりだ。
中でも【ウェスト・サイド・ストーリー】は別格で愛している。
なので、スピルバーグが再映画化したと昨年知って、公開を心待ちにし、先月観に行ったところだ。
それからしばらくして、そのレビュー動画がいくつも出てきた。なるほど、という気付きもそれらはたくさん教えてくれた。
しかし❗️
誰も音楽について触れていないのである。
スピルバーグはとても敬意を払っていて、台本のローレンツより前に音楽のバーンスタインをクレジットしている。よしよし(‥、)ヾ(^^ )
なので、音楽について、ここでは叫んでみよう!
私が「観たい」と思ったきっかけの一つは、ドゥダメルが指揮するということだった。
これは期待通り、最高の音楽を聞かせてくれた。映画を観て知ったが、ニューヨーク・フィルとロサンゼルス・フィルが演奏していた。
1961年の映画【~物語】の方は、いわゆるスタジオミュージシャンの演奏で、演奏技術は高いのだけれど、録音がどうしても薄っぺらな印象をぬぐえない。
これが、一挙にゴージャスなサウンドに生まれ変わった。ありがとう、スピルバーグとドゥダメル、である。
61年版では吹き替えだった歌も、今どきのやり方で、本人が歌うようになった。
今や当然なのだが、不朽の名作が吹き替えというのはいただけない。
また61年版のプロローグは、別の箇所からの音楽を合成して拡大されている。これは振り付けの都合だと思われる。それはそれで、あの「喧嘩」や「逃走」がダンス化されているのは見事なので一応納得する。一方で「この曲は今聴きたくないんだけど」と毎回思う感情を圧し殺すことになるのはストレスでもある。
また《クール》の順番が違うから、61年版では歌の意味合いが変わっていた。この《クール》は、我々音楽屋さんの度肝を抜いた名曲なのである。
ジャズベースなのにフーガで、しかも無調に近い調性感なんて誰が思いつく!
はたし合いの前に歌うのと後で歌うのでは、意味合いはかなり違うだろう。
この名曲が変な場所にあるのは、61年版の違和感の一つだった。
これをスピルバーグは本来の場所に戻してくれた。
これらだけでもスピルバーグが映画化する意味は大いにあると思っていたのだが、動画レビューを観ると、なぜ今映画化?と多くの人が思ったことがわかった。
この現実は、改めてがっかりである。
音楽って、その程度しか聞かれていないのか……。
私の周りの(特に作曲関係の)人は、ウェストサイドの音楽は凄いしか言わない人ばかりなので、世間との乖離を改めて認識する機会にもなってしまった。
中には、プエルトリコの音楽はわかったけど、トニーのコミュニティであるポーランド系というのがどこにあるのかわからなかった、などという感想もあった。
私に言わせれば「それ、必要ですか」なのだが。
こじつけに近いけど、ラテン系でないところは、全てポーランド系に近い音楽だ。まあ、これはこじつけ。
設定がポーランド系ユダヤ移民、と聞いたような気がする。
バーンスタインはロシア系ユダヤ人、いわゆるアシュケナジー。アシュケナジーはポーランドにもたくさんいたから、ポーランド系移民はバーンスタインにとって決して他民族ではないと言える。なのでバーンスタイン味≒ユダヤ風≦ポーランド味?
それより、このミュージカル全体を統一する基本動機が「三全音」であり、それはバルトークなどの作品に頻繁に出てくるものだから、東ヨーロッパの匂いがする、というこじつけの方がもっともらしい。
しかし、バーンスタインはそんなことは多分考えていない。
バーンスタインがもともと「三全音」が好きだったのは、著者「音楽のよろこび」を読めばわかる。
そしてその本には「ミュージカルの肝はジャズ味」みたいなことも別の箇所に書いてある。
さらに「現代音楽」は大勢が気づかないところで、映画やテレビに忍びこんでいる、ということも書いてある。
よって、ここから推測するのはバーンスタインの「ガーシュイン超え」だろう。
この原著はウェストサイド以前、バーンスタイン30代の著書である。自分で「ガーシュイン2世」と呼ばれたことに気を良くして、さらにガーシュインのオペラ《ポーギーとベス》を絶賛している。
バーンスタイン曰く「ここからが真骨頂」だったのに、ガーシュインはそこで亡くなる。
ならば、という気持ちをずっと持ち続けたに違いない。
「真のアメリカ音楽芸術を作る」という気持ちである。
ヨーロッパの借り物ではない芸術である。
「で、できたと思う訳ね」
と、指揮者の故岩城宏之はかつて言っていた。
「だから日本のそれに相当する物を作らないとダメだと思う訳よ」
と、学生だった我々に語ってくれたことを思い出した。
ちなみにウェストサイドの何が音楽的に凄いかというと、バッハ、ベートーベン、ワグナーの伝統を受け継いだ技法で作られながら、ジャズやラテン音楽が融合していて、アメリカ以外の何物でもなくなっていることだ。
そしてどの曲も演奏がやたらに難しい。
こんなに難しいのに、人口に膾炙したという現実。
どれをとっても凄い。
専門家を唸らせ、一般大衆も夢中になるなんて、ほかにどれだけあるだろうか。
多分「ない」
ないからこそ、スピルバーグがリメイクを考えたのだろう。
スピルバーグ版を観ると、人物像が一段と掘り下げられ、シチュエーションも細かく説明されている。
「なるほど、そう考えたか」と随所で思う作りだった。
それで、バーンスタイン信者からみて、ちょっと不満だったのは、クライマックスにBGMが流れていたこと。
バーンスタインは「(どれだけ緻密に作っていても)これはオペラではない」と言った。その理由は「クライマックスに音楽がないから」
本当に様々な音楽を考えたけど、どれも合わなかったので、最終的に音楽無しになったそうだ。
クライマックスに音楽がないなんて、音楽劇とは呼べない、よってこれはミュージカル・プレイ(音楽的演劇)と見なしていた。
なのに、薄くサムホエアか何かが鳴っていた。これで、私としてはやや安っぽさを感じてしまったのだなぁ。
入れるなら《ランブル》に使われている打楽器だけとかにしてほしかった。
ほかにも趣味が合わないところは合ったけど、それでもリメイクありがとう、と思っている。
同時に、このミュージカルはミュージカルとしての「完成形」だったのだな、と今思わずにはいられない。