井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

再度ウェストサイド、ストーリー素通り

2022-03-16 15:25:39 | 映画
映画「ウェスト・サイド・ストーリー」の感想動画がひっきりなしに上がっていたようだ。
1日一つくらいしか見ていられないけど、あまりにあるので、ついにもう一度見に行った。2970円するメイキングブックというのも買った。これはものすごい情報量の本であり、こちらも読むと感動してしまう、素晴らしいものである。

そこにバーンスタインやロビンスの考えも示されており、初めて知ることも少なくない。
あのジョン・ウィリアムスが61年映画の録音ではピアノを弾いていたなんて……。
その経験が、彼の映画音楽に直結しているかもしれない、などと想像してしまった。彼のオーケストラ曲にはほぼ全てピアノが入っているから。

何度観ても良い理由の一つに音楽の質の高さがある、と私は思うのだが、映画ファンはそれを誰も語っていない。
ここまで上質の映画音楽は何十年ぶりに聴いたか、思いだせないほど久しぶりだ。

バーンスタインの音楽は、オペラ歌手達で録音されて、まあ満足したのが30年前。でも、「マリアの歌がキリテカナワ」というのは好みに合わない、という不満が残っていた。

そのあたりが、きれいに理想型になっていて、私は感動で泣きっぱなしだったね。

この映画では、先にオーケストラが録音されたそうだ。
それを知ると、明確に指揮者ドゥダメルのサウンドが聞こえてくる。

《マンボ》《クール》《あんな男》の3曲は結構速いテンポになっている。

バーンスタインの《シンフォニック・ダンス》内のマンボはもっと速いが、これは「踊れないマンボ」として、つとに有名。踊りとしては61年版のテンポが適正だと思うが、今回はギリギリ踊れるか、というテンポまで迫ってきた。これを踊ってしまう出演者は、それだけでもすごい。

《クール》もまた然り。
楽譜をよく見たら、これはリフが歌うことになっていた。61年版はアイス中心、今回はトニーと、毎回条件、状況、解釈が異なる訳だ。

もともとトニーが踊る曲はあまり無いから、踊れる役者さんならこの方が良い。

しかし、穴ぼこだらけの板の上で、この速いテンポで歌って踊るのだから、それまたすごい役者さん達だ。
穴ぼこにはアクリル板が張ってあったそうだが、目を凝らして見ても、そうは見えなかった。

もう1つ《あんな男》
あまり注目されない歌だけど、怒りと混乱、狂気と愛情がそのまま音楽になっている。
変ロ短調の変拍子の二重唱、メイキングブックでは「もはやグランドオペラ」と評されている、演奏至難の曲だ。
61年版では、これがちょっと短くなっていたが、今回はオリジナルの長さに戻されていて満足、泣きながら聴いたよ。

演奏のニューヨークフィル、ロスフィルも素晴らしいサウンド。

《バレエシークエンス》が朝の情景に転用されていて、本当に爽やかだった。
ドゥダメルの音色でもあるのだろう。

と、音楽映画として最高のできを示していたことを、誰も騒がないので、大騒ぎしてみました。
もっとあるけど、キリが無いのでここまで。

映画「ウエスト・サイド・ストーリー」を観て

2022-03-09 17:40:22 | 映画
長年の持論、ミュージカルは以下の4作が傑作であり、ほかはそれには及ばない。
【マイ・フェア・レディ】
【ウエストサイド物語】
【ザ・サウンド・オブ・ミュージック】
【屋根の上のヴァイオリン弾き】

この4作のヴォーカルスコアは、25歳以前に手に入れていたから、音楽についてはかなり詳しいつもりだ。

中でも【ウェスト・サイド・ストーリー】は別格で愛している。

なので、スピルバーグが再映画化したと昨年知って、公開を心待ちにし、先月観に行ったところだ。

それからしばらくして、そのレビュー動画がいくつも出てきた。なるほど、という気付きもそれらはたくさん教えてくれた。

しかし❗️

誰も音楽について触れていないのである。

スピルバーグはとても敬意を払っていて、台本のローレンツより前に音楽のバーンスタインをクレジットしている。よしよし(‥、)ヾ(^^ )

なので、音楽について、ここでは叫んでみよう!

私が「観たい」と思ったきっかけの一つは、ドゥダメルが指揮するということだった。
これは期待通り、最高の音楽を聞かせてくれた。映画を観て知ったが、ニューヨーク・フィルとロサンゼルス・フィルが演奏していた。

1961年の映画【~物語】の方は、いわゆるスタジオミュージシャンの演奏で、演奏技術は高いのだけれど、録音がどうしても薄っぺらな印象をぬぐえない。
これが、一挙にゴージャスなサウンドに生まれ変わった。ありがとう、スピルバーグとドゥダメル、である。

61年版では吹き替えだった歌も、今どきのやり方で、本人が歌うようになった。
今や当然なのだが、不朽の名作が吹き替えというのはいただけない。

また61年版のプロローグは、別の箇所からの音楽を合成して拡大されている。これは振り付けの都合だと思われる。それはそれで、あの「喧嘩」や「逃走」がダンス化されているのは見事なので一応納得する。一方で「この曲は今聴きたくないんだけど」と毎回思う感情を圧し殺すことになるのはストレスでもある。

また《クール》の順番が違うから、61年版では歌の意味合いが変わっていた。この《クール》は、我々音楽屋さんの度肝を抜いた名曲なのである。
ジャズベースなのにフーガで、しかも無調に近い調性感なんて誰が思いつく!

はたし合いの前に歌うのと後で歌うのでは、意味合いはかなり違うだろう。
この名曲が変な場所にあるのは、61年版の違和感の一つだった。
これをスピルバーグは本来の場所に戻してくれた。

これらだけでもスピルバーグが映画化する意味は大いにあると思っていたのだが、動画レビューを観ると、なぜ今映画化?と多くの人が思ったことがわかった。

この現実は、改めてがっかりである。

音楽って、その程度しか聞かれていないのか……。

私の周りの(特に作曲関係の)人は、ウェストサイドの音楽は凄いしか言わない人ばかりなので、世間との乖離を改めて認識する機会にもなってしまった。

中には、プエルトリコの音楽はわかったけど、トニーのコミュニティであるポーランド系というのがどこにあるのかわからなかった、などという感想もあった。
私に言わせれば「それ、必要ですか」なのだが。

こじつけに近いけど、ラテン系でないところは、全てポーランド系に近い音楽だ。まあ、これはこじつけ。

設定がポーランド系ユダヤ移民、と聞いたような気がする。
バーンスタインはロシア系ユダヤ人、いわゆるアシュケナジー。アシュケナジーはポーランドにもたくさんいたから、ポーランド系移民はバーンスタインにとって決して他民族ではないと言える。なのでバーンスタイン味≒ユダヤ風≦ポーランド味?

それより、このミュージカル全体を統一する基本動機が「三全音」であり、それはバルトークなどの作品に頻繁に出てくるものだから、東ヨーロッパの匂いがする、というこじつけの方がもっともらしい。

しかし、バーンスタインはそんなことは多分考えていない。

バーンスタインがもともと「三全音」が好きだったのは、著者「音楽のよろこび」を読めばわかる。
そしてその本には「ミュージカルの肝はジャズ味」みたいなことも別の箇所に書いてある。

さらに「現代音楽」は大勢が気づかないところで、映画やテレビに忍びこんでいる、ということも書いてある。

よって、ここから推測するのはバーンスタインの「ガーシュイン超え」だろう。

この原著はウェストサイド以前、バーンスタイン30代の著書である。自分で「ガーシュイン2世」と呼ばれたことに気を良くして、さらにガーシュインのオペラ《ポーギーとベス》を絶賛している。
バーンスタイン曰く「ここからが真骨頂」だったのに、ガーシュインはそこで亡くなる。

ならば、という気持ちをずっと持ち続けたに違いない。
「真のアメリカ音楽芸術を作る」という気持ちである。
ヨーロッパの借り物ではない芸術である。

「で、できたと思う訳ね」
と、指揮者の故岩城宏之はかつて言っていた。

「だから日本のそれに相当する物を作らないとダメだと思う訳よ」
と、学生だった我々に語ってくれたことを思い出した。

ちなみにウェストサイドの何が音楽的に凄いかというと、バッハ、ベートーベン、ワグナーの伝統を受け継いだ技法で作られながら、ジャズやラテン音楽が融合していて、アメリカ以外の何物でもなくなっていることだ。

そしてどの曲も演奏がやたらに難しい。

こんなに難しいのに、人口に膾炙したという現実。
どれをとっても凄い。

専門家を唸らせ、一般大衆も夢中になるなんて、ほかにどれだけあるだろうか。

多分「ない」

ないからこそ、スピルバーグがリメイクを考えたのだろう。
スピルバーグ版を観ると、人物像が一段と掘り下げられ、シチュエーションも細かく説明されている。

「なるほど、そう考えたか」と随所で思う作りだった。

それで、バーンスタイン信者からみて、ちょっと不満だったのは、クライマックスにBGMが流れていたこと。

バーンスタインは「(どれだけ緻密に作っていても)これはオペラではない」と言った。その理由は「クライマックスに音楽がないから」

本当に様々な音楽を考えたけど、どれも合わなかったので、最終的に音楽無しになったそうだ。
クライマックスに音楽がないなんて、音楽劇とは呼べない、よってこれはミュージカル・プレイ(音楽的演劇)と見なしていた。

なのに、薄くサムホエアか何かが鳴っていた。これで、私としてはやや安っぽさを感じてしまったのだなぁ。
入れるなら《ランブル》に使われている打楽器だけとかにしてほしかった。

ほかにも趣味が合わないところは合ったけど、それでもリメイクありがとう、と思っている。

同時に、このミュージカルはミュージカルとしての「完成形」だったのだな、と今思わずにはいられない。