井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ドタキャン・サバイバル

2012-11-29 00:14:25 | 井財野作品

フリーランサーだった20代の頃、38度くらいの熱でも本番をこなしたことが数回ある。多分インフルエンザだと思うが、それで休んだらクビになるので、他の人にはちょっと風邪気味くらいにふるまって無理して弾いていた。

これは当たり前だった。同様のことをしていた先輩後輩も、珍しくなかった。

一般の会社勤めではどうだったのか? 正確にはわからないけれど、SARSだ新型インフルエンザだと、変な病気がいろいろ出る前は、現在ほど「外出禁止」ということにはなっていなかったような気がする。

21世紀になって、このあたりは変化したようだ。

それにしても、先日何とか終った九州・沖縄現代音楽祭のリハーサルはドタキャンの連続で、気が狂いそうだった。

リハーサル初日

 この日の出来次第ではコンサートミストレスに大抜擢できるかも、と淡い期待をかけていたらば、それがプレッシャーになった挙句、リハーサル開始の2時間前・・・

「体調不良で休みます」

 私に言わせれば、前述の通り、これは理由にならないのだが、来ないのだから如何ともしがたい。その日、他の第1 ヴァイオリンは実習中で参加できないので、私が第1ヴァイオリンを弾きながら指揮することで何とか終えた。

初日に参加できなかった人の臨時練習日

 その数日前「言い忘れていましたが、その日は前から予定があって参加できません」と二人から連絡があった。もっと前に言えよ、こっちだって準備ってのがあるんだよ・・・。

 その練習日は、ある卒業生の予定に合わせて決めたのだが、その卒業生はついに来なかった。後で訳を聞いたら「家庭の事情で・・・」

 このあたりがアマチュアは哀しい。

本番10日前あたりに連絡が入る。

 「前日にリハーサルがあるとは聞いていませんよ」とバレエ関係者から話があったとのこと。

 そんな馬鹿な・・・。こちらは半年前にはそう決めていて遅くとも数か月前には話しているはずなのに。

バレエとの初合わせ

 また1名いないと思って電話したら「今日は兄の四十九日で・・・」

 これはドタキャンではなくて、私の記憶違い。

本番前日

あきらめていたバレエ・ダンサー、それでもある程度来てくれた。

 しかし、頼んでいたステージ・マネージャー、いっこうに連絡がないから、午前中に5,6回電話をかけたら、やっとつながったは良いが「本番の時間が空いておりませんで」とのこと。

本番当日

さすがに演奏者は全員揃ったのだが、

 作曲者が一人来ない。電話したら「知り合いの葬式で・・・」

 実はこの作曲者、本番欠場は前科がある。年長者曰く「こういう人に頼んだ方が悪い」と私が悪者になってしまった。やれやれ。

本番の最中

 練習に欠席していたパートが案の定数え間違って何小節か先にとびだした。すかさず私はヴァイオリンを持って、そのパートの正しい音をフォローするが、残念ながら、その奏者は飛びだしに気づかず、(ひょっとしたら作曲者も気づかず) 終ってしまった。

本番カーテンコール

 作曲家協会の主催なので、主役は作曲家なのだ。カーテンコールの練習も念入りに何回もした。

 前日に急遽ステージ・マネージャーをやるはめになった会員も作曲者の一人だから、ここで出演者に変わる。全員が自主的に動かないといけない瞬間、上述のドタキャン作曲家以外にもう一人がステージ袖に見当たらない。

 あとちょっとでステージに出なければいけない時に、ステージ・マネージャー補佐があわてて客席に飛びだす。

 件の年長者作曲家は観客に混じって、じっと舞台に見入っていたそうだ。ステージ上には7人いるべき作曲者が、このような次第で5人並び、観客の拍手の中、緞帳は下りていった。

 「ずっと出ずっぱりのステージで、しかもヴァイオリンも指揮もして、大変でしたね」と、ねぎらいの言葉をかけてくれる方もいらしたが、この連続ドタキャン環境を耐え抜いて、処理する方がよほど大変。それに比べれば、出ずっぱりなんて、そう大変なことではなかった。

 これだけのドタキャン試練を耐え抜いて生き延びてこそ、脚光を浴びる恩恵に浴する、ということなのか何なのか、よくわからない。が、少なくとも観客には、そのほころびが見えなかっただろう。神様がついていてくれたのだと思うことにしている。めでたしめでたし。


バレエ・ファンタジー「鴻臚館」2

2012-11-21 22:32:22 | 井財野作品

今日、カーテン・コールのための音楽を作り上げて、ようやく全ての音楽を作り終えました。もっともこの音楽は、シーン4の音楽の一部を作り変えただけなので、それほど大変なことをやった訳ではないのですが・・・。

福岡近辺にお住まいの方、23日は福岡市ももちパレスへぜひご来場を。

以下の音楽はフィナーレ。打ちひしがれた主人公の空虚な心情を2本のフルートで表現しています。ずっと不協和音程が続くのですが、このモチーフを作ったのは吉岡会員、ところが偶然、黒田会員作品の基調になっている「リディア旋法」と一致していて、真の意味での合作が成立している瞬間でもあります。

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続く部分は、一転して喜びの音楽になっています。ご覧の皆さまにも喜びが訪れることを祈って・・・。


千歳龍の伝説

2012-11-16 22:07:01 | うんちく・小ネタ

昨日は「七五三」。その時だけ訪れる龍の伝説を教えてもらった。ちょっといい話だったので、ここで紹介したい。

河の傍らに住む、幼き子供とその母親、貧しいながらもつつましく生活を送っていましたが、河川の氾濫によって住まいを失い、母は病気になります。

幼き子は母を助けるために、この河に住まう龍神にその身を捧げ、母を助けるためにこの河に住まう龍神にその身を捧げ、母を助けるように願います。

しかし河に身を投じたはずが崖にぶつかり、その子の血のみが河に投じられました。

母はその後異常なまでの回復を見せますが、子は戻らず途方に暮れた人生を歩んでいました。

ところがその数カ月後、何と子が元気な姿で戻ってきました。

今までどこに行っていたのか?その問いに対して子は「白い龍の背で眠っていた」と…。その龍が自らと母を助けた神様だから、この河に感謝しましょう、と言います。

本当に生き返ったのでしょうか・・・

子供が身を投げた時、白き河の守護神は子供の願いを聞き入れ、母の病を救ったのですが子供を救う事はできなかったのです。なぜならば、その子は河に身を投じた途中で崖にぶつかり死んでしまったのですから…。

死したものを救う事はこの白き龍の力でも叶わず、その子の亡きがらと共に龍は天に昇ったのでした。

そして再び龍がその瞳を開けた時には背にその子を乗せており、その子は生きていたのです。

さらに、水に映る自らの姿は変貌をとげており、その美しき鬢や髭は朱にそまり、瞳も深紅へと変わっていました。

それは、この龍の功績と子供の美しい心を天が認めたからなのです。天は白き龍をその子の血が染まりし紅白の「千歳龍」と変え、純粋である子の長寿を司る龍としました。

以来「千歳龍」は純粋な子供が持つ心の前に姿を現す、と言われています。

さあ、今年はどの子供の前に現れたのだろうか・・・。





バレエ・ファンタジー「鴻臚館」

2012-11-15 21:34:58 | 井財野作品

いよいよ来週23日に発表が迫っている。

「第32回 九州・沖縄現代音楽祭~響・舞・鴻臚館(そなーれ・ばらーれ・こうろかん)」

その第2部で7人の作曲家が競作・合作したバレエ音楽である。

正確に表現すると6人が、それぞれの作品を持ち寄り、それとは別に4人の作品の構成要素を井財野が責任をもってまとめた、というようなかっこうになる。

冒頭部分の紹介ビデオができたので、まずはそれを紹介したい。

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初めての練習の際の録音なので、演奏は不完全だが、一定の雰囲気は感じていただけることと思う。

これはオープニングで、祝宴の準備をしているという設定。黒田会員作のテーマと拙作のテーマがからむ中、次に続く中村会長の作品「みむら節」の断片が顔を出す、という曲である。

次にもう一つ。主人公ミオが悲嘆にくれる場面。

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これは上野会員の原曲に井財野がオーケストレーションを施した。その関係で移調されているが、元々はイ短調で冒頭がBACH音になっている。

バッハゆかりの音型にも関わらず、素早く演奏すると東洋風のメリスマに聴こえるところが面白くて、ついに全編にちりばめてしまった。結果的に重要なモチーフになったのであった。(そんなことは専門家以外は知らなくても良いことですね。)

とにかく、興味関心のある方は、ぜひご来場いただきたい。

2012年11月23日 福岡市ももちパレス

お問い合わせは黒田(090-3736-7469)までお願いします。


コンクールの結果を左右する、かもしれない伴奏ピアニスト

2012-11-02 00:19:03 | コンクール

これは自明の理だと言いたいところだが、実際にはあまり神経を払われていないように思う状況が結構多い。

うまい人と一緒に演奏すると、自分も上手くなってしまう。これは、上手い人と一緒に演奏したことが一度でもあれば、理屈抜きでわかる話である。その経験がない人は、上手い人とやったことがないということだ。お気の毒に・・・。

しかし、上手い人はなかなかいない場合もあるだろう。だが、大抵の場合は探し方が徹底していないように思う。探す方の見識も問われる。何をもって上手いとするかで、結果は違ってくるし。

そのような次第で、まず子供やその親が探すのには無理がある。持っている情報が少なすぎる場合がほとんどだからだ。そこで、その先生やそれクラスの人の出番になるのだが、今度はその先生のセンスが問われることになる。

先日会った先輩の言。

やはり伴奏ピアノに誰を選ぶかも含めて「準備」だよね。

全くもってその通りなのだが、現実にはなかなか厳しいご意見でもある。その先輩はピアノも達者な弦楽器奏者だ。そう、ピアノに詳しくないとこんなことは言えない。

その先輩は、生徒のコンクールのために私が選んだピアニストを褒めてくれたのだが、正直言って、私もここまで良い結果を出してくれることを想定しておらず、我ながら驚きの本番を聞いた後だった。

何があったかというと、ピアノが良いからヴァイオリンも調子が良くなり、それを受けてさらにピアノも良くなるという、相乗効果が発揮されていた。コンクールの成績も、ひょっとしたら実力以上、とも言える結果だった。

そう言えば、以前にもこのピアニストとの組み合わせで、似たようなことが起こったから、やはりこの事実はこのピアニストが優れていることを物語っている。

とは言え、百発百中ではないので、ヴァイオリンの方にも力がないとこうはならない。

アンサンブルは持ちつ持たれつだ。どちらかだけが良かったり悪かったりということはあまりない。ピアノがまずいと実力が発揮できないどころか、足をひっぱられてしまわないとも限らない。だからコンクール等で、ピアノをケチるべきではない。それで成績が左右されるかもしれないのだから。

この優れたアンサンブル・ピアニストを育てるのは、本人と共演者、そしてその先生格の人であって、ピアノの先生ではない。つまり我々ががんばるべきことだと思っている。

早く、そのようなことを声高に言わなくても良い日が来ますように。