井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

シェーンベルク:グレの歌

2009-04-22 07:45:29 | オーケストラ

先日NHKBS2で、モネ劇場オケがアムステルダム・コンセルトヘボウで演奏した時の録画を観た。

指定された編成は恐らく史上最大、歌のソリストは8人、男声合唱団3組、混声八部合唱を伴ったオーケストラは、弦楽器だけでも80人必要だ。フルート8、オーボエ5、クラリネット7、ファゴット5、ホルン10、トランペット7、トロンボーン7……。マーラーに「千人の交響曲」というのがあるけど、あれよりも大規模である。

それだけに、滅多に演奏されない。TVで観たのは私には初めてだった。

演奏時間も2時間弱かかるから、普段気軽に聞ける曲でもない。前回は「愛・地球博」で演奏されるのを聞きに行って以来だから、4年間聴かなかったことになる。

久しぶりに聞いて、シェーンベルクの最高傑作であることを確信した。 演奏も良かった。部分的に別の好みはあるものの、それがない演奏はほとんどない。(小澤ボストン響のが唯一不満がないCD。)

何故ならば、この曲は技術的に大変難しいから、細部まで磨き上げる時間の余裕がないのが通常と思われる。部分的な磨き残しに不満が出るのは半ば当然だ。 でも構わない。大方良ければそれで満足である。

ドイツロマン派の集大成的作品で、ワーグナーの延長線上にあるし、ワーグナーにかなり似ているところもある。

しかし今回発見したのは、ワーグナーに似ているけど、ワーグナーよりも多彩な変化に富んでいる。 シュトラウスに似たオーケストレーションだけど、シュトラウスにはない美しいメロディが随所にある。

マーラーに似た多様な要素が入り組むが、破綻が無くて解りやすい音楽(だと思う)。

同じシェーンベルクの「ピエロ・リュネール」「浄められた夜」「モーゼとアロン」などと違い、ひたすら美しさに「酔える」、これは大きい。

似ているようで、あまり似ていない。ドイツの伝統をしっかり受け継いで、尚且つ個性的、ひたすら感服してしまう。

シェーンベルクは、この曲で全てやり尽くしてしまい、無調に走るしかなかったのだろう。この馬鹿でかい編成でなければ、もっと演奏されているに違いない。

例えばストラヴィンスキーは「火の鳥」「ペトルーシュカ」を小さな編成に書き直している。同様のことを井財野も試みたのだが、出来なかった。この大規模編成には必然性があるのである。

万人に受けるとは思わないが、未聴の方は是非一度聴いていただきたい。静謐かつ精妙な変ホ長調に始まり、絢爛豪華なハ長調で閉じる気宇壮大な世界がある。

聴いてみたくなったでしょう?


モーツァルトらしさ

2009-04-19 07:51:24 | モーツァルト

先日、モーツァルトらしくないクラリネット協奏曲を聞かされた。何故「らしくない」かというと、一つには表情の変化に乏しかったからである。この「変化」の仕方が、モーツァルトは特に難しいかもしれない。

モーツァルトのフレーズは、押しなべて短めだ。次から次に違う表情を要求されることがしばしばである。この傾向は協奏曲や室内楽において著しく、交響曲や宗教曲等の声楽作品では、それほどでもないような気がする。

交響曲では比較的ロジカルな展開が多いのに対し、協奏曲では意表をつきまくる展開で「ちょっとおかしいんじゃないか?」と思わせるくらい…。 もっとも、これは筆者の主観なので、別の感じ方もあるとは思うが。

少なくとも協奏曲においては、短い単位で表情を切り換えなければならない。しかも一瞬で鮮やかに。色に例えると、ぎりぎりまで「赤い」表情で、ある瞬間「青」に切り換える。しかし、また次の瞬間「赤」に戻したり、あるいは「黄色」にしたりしなければならない。途中に「紫」や「緑」の「にじみ」が出てしまうと、モーツァルトらしくなくなる。

しかも「赤」の演奏をしながら「青」のイメージを溜めこんで、切り換え箇所で瞬時に「青」を放出することを要求される。 これをするには、(人にもよるが)かなりの訓練が必要で、ここにもモーツァルトの難しさがある。

ただ、これは魅力の裏返しだ。これができるようになった時、神に愛される(AMADEUS)存在と一体になれる祝福が用意されている。


卒業式の「ミレド」

2009-04-12 10:07:45 | 大学

過日、我が大学では昨年に続き、入学式で「大地讃頌」を演奏したが、NHKによると、この曲は卒業式で2番目によく演奏される曲なのだそうだ。で、現在その次に位置している曲は「手紙」。

それは昨年、NHKの合唱コンクール中学校の部の課題曲だった。ゆえあって、そのコンクールを聴衆の一員として聞いてしまったので、イヤという程聞いて……イヤになってしまった。

理由はいくつもあるのだが、最大の理由は、ある曲に「似ている」からである。(「似ている」話は、これで3回目かな?多分、今後も何回もするでしょう…。)

まず、ビートルズTHE BEATLESの「レット・イット・ビーLET IT BE」。 「手紙」の冒頭「拝啓」、「LET IT BE」のサビ“Let it be”はどちらも、旋律の音の並びが「ミレド」。

コード進行も両者はよく似ている。フレーズの終わりがⅤ度からⅠ度に行く前にⅣ度が割って入る「弱進行」という型、それから平行調に転調するあたり…と専門用語を使ってもわからないかもしれないが、とにかくビートルズの「LET IT BE」を聞いていただきたい。ビートルズの中でも名曲中の名曲、「手紙」の作者A.A.さんには申し訳ないが、「手紙」とは次元の違う存在だと思う。

ひょっとしたら、「手紙」は「LET IT BE」のパロディとして作られたのか、ということも考えた。 しかし、以下の事実でパロディとは考えにくい。それは、サビの部分で「なごり雪」になってしまうこと。 「イーマー春が来てー」かと思いきや、 「イーマー負けそうでー」に変容している。

実はイルカさんの「なごり雪」も、あまり好きな曲ではない。ガロの売れなかった曲「ピクニック」に似ていたからだ(似ている第4話)。私は「学生街の喫茶店」「君の誕生日」「ピクニック」と、どれも結構好きだった。だけど「なごり雪」のあまりのヒットで「ピクニック」など誰も知らない、私も歌詞は忘れてしまった、そんな存在になってしまったので、渋々「なごり雪」の存在を認めている。なので、それにさらに似た存在は、全く受け入れる余地がない。

ただ、そのような次第で「なごり雪」の音楽的価値はさほど認めていないから、その件は「ご愛嬌」で済ませられる。しかし「手紙」に涙する中学生が「LET IT BE」を知らないという現状は由々しき事態と認識するので、吠えまくる訳だ。

ビートルズの名曲はクラシックであり、ガーシュイン等と同列に論じるべきだと常々思っている。「手紙」が好きな人がいるのは構わないが、「LET IT BE」を知らないでいるのは良くない。「LET IT BE」を卒業式で歌う学校が増える日を待ち望もう?!

そう言えば「大地讃頌」もロ長調の「ミレド」で始まるなぁ。卒業式は「ミレド」が似合うのか……?


かわいそうなモーツァルト

2009-04-08 23:39:27 | オーケストラ

標記の表現をした、知人のピアニストがいる。どんな名曲でも演奏会の最後を飾ることはなく、永遠に「前座扱い」だから、である。確かにレクィエム等、声楽関係の大曲以外は、ほとんど前半のプログラムになっている。シューマンやチャイコフスキーの後にモーツァルトというのは、聞いたことがない。

先日、大学の入学式にてモーツァルトの交響曲第40番を演奏した。その後、アカペラの合唱をはさみ、最後に合唱とオーケストラで「大地讃頌」、当初の予定はこれで全てだった。

しかし、数ヵ月前に聞いた話「熊本大学の入学式では、花のワルツを演奏した年はオーケストラの新入団員が多い。」

急遽、上記のプログラムにチャイコフスキーの「花のワルツ」を挟むことにした。それも後半部分の2分半だけである。

さて、入学式で演奏した結果…;

モーツァルトを演奏している時は、次々と入場者がいる。オーケストラといえども、拡声器を使わずに片隅で演奏している状況では、仮にとても音楽的であったとしても、やはりBGMである。

その後、花のワルツ。金管・打楽器が加わり、音量も俄然増加する。バック音楽からフロント音楽(という言葉はないが)に変化する一瞬だ。体育館が演奏会場になり、新入生や保護者が聴き入っていることを、背中で感じた。実際「花のワルツから後の流れがよかったですね。」と言ってきた関係者もいた。

やはり音量は必要だ。聞こえなければ音楽が伝わらないのは当然である。映画「アマデウス」において交響曲第25番が馬鹿でかい音量で演奏されたことを思い出した。 我々の常識では、モーツァルトはあのようにでかい音量で演奏されるものとは認識していない。でもあの音量で、初めてBGMでは無くなる訳なのだ。

今日、大学オーケストラの見学に来た新入生が結構いたらしい。「花のワルツ効果が現れたようです。」と学生から報告があった。決してモーツァルト効果ではない。

かわいそうなモーツァルト!