井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

電話一本まともにできない・・・

2013-03-30 23:18:35 | 日記・エッセイ・コラム

翌日の本番に向けてリハーサルがあり、その会場へ一斉に向かうことになった。20人弱の学生に集合をかけたのだが、到着してあいさつをしてきたのは数名、あとは集合した途端に仲間とのおしゃべりに夢中・・・。

「遠足に行くんじゃないんだから!!!」

と一発、お説教。この人達の躾けは毎回大変である。

話変わって、女優の坂口良子さんが亡くなった。新聞記事になるのだから、やはり大物と言うべきだろう。が、新聞やネットの最近の写真は私の記憶の坂口さんとはちょっと違う。昔の顔は…と思いだそうとするのだが、全然思い出さない。

しかし昔の写真を持っていたのはすぐに思い出した。

いつの間にか廃刊されてしまった「週刊読売」、その1980年4/13号。私の大学の同期生は大抵買ったはずのその号、そこに西田敏行さんのモノクログラビアのページがあり、「池中玄太80キロ」の共演者として写っているはずだ…。

案の定、写っていたが横顔で、やはり思い出さない、残念。

ついでに他の記事もパラパラ見てしまったが、何だか平和な感じがした。中国も韓国も出てこないし、特集記事は「天中殺・和泉宗章と長島監督の最後の一言」、続いて「プロ野球開幕特集」、ヴァイオリニスト佐藤陽子や故池田満寿夫が長島監督相手に座談会、と、今からすればどうでも良い記事が並んでいる。

実は、同時期の「サンデー毎日」も持っていて、ついでに眺めるとやや物騒な記事もあった。

「NHK乗っ取りの陰謀 激突 石原慎太郎VS上田哲」

お二方とも2ページ強もNHKについて記述していて、論陣としてはまさに激突。石原氏は今も週刊誌を賑わせているから大したものだ。

そしてさらについでに見つけた記事がある。

「電話一本まともにできない新OLの80年型活用法」

この「新OL」仮に当時23歳だったとすると現在56歳になる。もし、電話一本まともにできないまま今日にいたったとしたら、もう日本人みんながまともにできない状況になっているかもしれないが、もちろんそんなことは全くない。

この「新OL」が何歳頃に「まとも」にできるようになったか?

30歳頃か、40歳頃か、とにかくできるようになったら、その頃またさらに下の新人を見て「○○がまともにできない」とか言ったり書いたりするのだろうな、と想像できる。

ということは、今はまともにあいさつできない人達も、いずれはさらに年下に向かって「まともにあいさつのできないやつらめ」と思うのだろう。

ということは、まぁそうムキにならないでもいいってことか、と自らを慰めるのであった。







九州の皆さん、クラシック音楽は好きですか?

2013-03-27 21:31:10 | 音楽

芸大附属高校の邦楽の演奏をDVDで見る機会があった。箏と三味線と小鼓の合奏である。高校生といえども、ヤ声(ヨウ)とハ声(ホウ)をかけながら演じるので、私のような門外漢には立派な演奏に聞こえる。

しかし、この類のものを聴いた時、いつも思うのは、

「これは音楽だろうか」

ということ。

いや、音楽であることは間違いない。正確には「鑑賞するための音楽だろうか」ということ。

いや、鑑賞している人はいるだろう。いるはずだ。その人たちのために、国は高校生にも教育を施し、人材育成に努めている・・・のだろうか。

いや、伝統的な文化だから、聞く人がいようがいまいが継承者を育成する義務が国にはある、ということだろうか。

正直言って、我が国の古い音楽のことはあまり好きでもないので関心があろうはずもなく、それに比べて西洋発祥の音楽は素晴らしい、と(邦楽を聞きながらであれ)ひたすら思うのみである。

もちろんあくまでも大雑把な言い方で、我が国の民謡のは大変好きな歌もあるし、西洋発祥の音楽にも好き嫌いはある。

西洋発祥の音楽でも、とりわけクラシック音楽が私は好きになってしまい、職業にまでしてしまった訳だが、この「クラシック音楽」に限定してしまうと、一般にはそれほど愛好者が多いとは言えないだろう。

さて私の住む福岡、ひいては九州は、やはりクラシック音楽人口が少ないのではないか、と20年以上前に同じ九州人同士で話したことがあった。

ところで、本州の人間から見ると、同じように見える地方都市の福岡と札幌、クラシック音楽の受容状況でみれば、実はかなり違う。九州人からすると悲しいくらい違うので、ここでは何も触れずにおく。興味のある方は「九州交響楽団」と「札幌交響楽団」を、それぞれインターネットで検索していただきたい。挙がってくる記事の種類で、両者の環境が大分違うことがお分かりいただけるだろう。

この、北海道と九州の違いを、私は長年歴史の違いと認識していた。北海道は(アイヌの歴史を無視すれば)明治以降の新天地、一方九州は2000年以上の歴史を良くも悪くも引きずっているから、西洋のものを素直に受けいれる素地がない、と。

一見正しそう。しかし、この説は別の現実で覆される。

福岡で箏曲の合奏をされている方々がいらっしゃる。その方たちが演奏会を開く時、集客に大変苦労されている。そして演奏曲目にも。

古典曲などやろうものなら、誰も知らない中での演奏になってしまう。確かに、私も「五段砧」という題名は知っていても、中身はさっぱり覚えていないし、「六段」も知っているのは自慢ではないが冒頭だけ。前述の通り、私は日本の古い音楽にはあまり興味が無いのである。

箏曲合奏で一番喜ばれる曲は、驚くなかれ、

アイネ・クライネ・ナハトムジーク(by Mozart)

現実には、邦楽よりクラシック音楽の方が、かなり優位に立っているのだ。

古い歴史を引きずっていると言っても、その昔キリシタン大名も多くいたことなど考え合わせると、先ほどの説も大した説得力を持たなくなる。

九州の皆さん、一体何がお好きなのでしょうか?


バンダの出番だ

2013-03-06 23:44:38 | オーケストラ

最近、ベルリオーズの幻想交響曲を練習していた時のこと。3楽章にて。

「あ、彼女はバンダです」

「そうですか。よろしくお願いします番田(坂田?)さん。」

という会話を・・・しなかった。すれば良かった、と今思う。

幻想交響曲の第3楽章の冒頭は、コーラングレとオーボエの対話で、オーボエは舞台裏で吹くことになっている(それは楽譜に書いてある)。

一方、現在ヴェルディの「アイーダ」の行進曲の楽譜を来年の演奏会に向けて準備をしている。あのトランペットは誰が吹くのが適任か、などと考えながらスコアを読んでいるのだが、俗に言う「アイーダ・トランペット」は「バンダBanda」と楽譜に書いてあった。

「バンダ」ってナンダ?

英語でコードはイタリア語でコーダ、その伝でいくとバンダはバンドだ。一人でもバンドと言うだろうか?

言う訳ない、と言いたいが、業界全体が間違っていれば、それは間違いではなく、正しいのがどちらかというと間違いになる。以前も「ザッツ」の件で、個人的に遅れをとったことがあったっけ。

という次第で、まずウィキペディア。

オーケストラなどで、主となる本来の編成とは別に、多くは離れた位置で「別働隊」として演奏する小規模のアンサンブル。

ほらね、アンサンブルですよ。一人ではアンサンブルとは言わないじゃない。

と思ったのは早計であった。

その後に、実に詳しい説明が載っていた。それは明らかにバンダに関わっていたと思われる人の記述で、学者にはとても書けないものだった。

そこまでは良いのだが、バンダを用いた楽曲の例が羅列されており、何と幻想交響曲も載っていた!

「レオノーレ」序曲もある。あれはトランペット1本ではなかったか? 何本もあったらホフナング音楽祭の「レオノーレ序曲第4番」になっちゃうよ。

説明が業界人なら、曲目リストも多分業界人が書いている、と推察するのが常識的な見方だろう。一人でも「バンダ」と呼ぶのが一般的なのだろうか。

イタリア語の辞書をひく。bandaの第一義は傭兵隊、ゲリラ隊だそうだ。一人でもゲリラ隊か・・・

と、ここで50代以上の人間には、特定の人物が頭に浮かんだかもしれない。

劇団ひとり、ならぬ「一人軍隊」が昔いましたね、横井庄一さんと小野田寛郎さん。

なるほど、日本では一人でも軍隊の歴史がある。ゆえに、日本では一人でもバンダなんだ。

と、納得したことにしておこう。



ソナタ形式らせん階段説

2013-03-04 21:18:56 | 音楽

今月末にショパンのヴァイオリン協奏曲を発表する。まだ楽譜ができあがっていなくって、それに時間を費やしている関係で、本ブログはご無沙汰なのだが、記録しておかなければ、ということは関係なしに発生する。

という次第で、その一つである。先日、同年代の指揮者から聴いた話。その指揮者がまだ高校生の頃受けた室内楽のレッスンの話だ。

先生は作曲家の三善晃先生。

曲がソナタ形式で、再現部にかかった時に言われた言葉。

「再現部に来たら、また最初と同じフシが出てきた戻ってきたことだと思っているでしょう?
でも再現部というのは、今までいろいろなことがあって、やっとたどりついた箇所。最初と同じに見えるけれど、同じではないんです。

ちょうどらせん階段のようなものだと思って下さい。
皆さんの演奏は、らせん階段を上から見たような感じです。
でも、らせん階段を横から見たらどうですか?・・・」

その指揮者は、その時目から鱗が落ちたと語っていたが、いやはや実にすばらしいたとえである。

名教師はたとえ話がうまいものであるが、私もこの話には感服した。

もうソナタ形式を見たら「らせん階段」しか思い浮かばなくなるだろう。

こんな話をただで聴いてしまって良いのだろうか、と思った。考えた末、ただで他の人に伝えれば良いという結論に達して、これを書いている。

私たちと同じように感心する人には有益な情報になるだろう。そして、そうは言っても一部の人には「猫に小判」だろう。だから「ただ」でも別に気にしないで良い、かな。