井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

モーツァルトの特徴は?

2009-05-11 09:33:49 | モーツァルト

 モーツァルトを考え続けて,演奏上何が特徴で気をつけるべきかを洗い出そうとしてきた。が,結局,クラシック音楽の特徴をふまえていれば,大方解決するのではないか,という風に考えるようになってきた。

 はっきりモーツァルトに特徴的なのは,

・短い単位で「言うこと」が変わる

・若い時の作品には「ギャラント・スタイル」という流行を取り入れている
(以前にも書いた通り,スラーに従って発音をはっきりくっきり分ける)

・基本的発想はピアニスト
(ヴァイオリン協奏曲の第4番はモーツァルト自身が初演したけれども,あの分散和音はピアニスティックだろう。パガニーニやヴィエニアフスキの分散和音は左指をあまり動かさずに弾ける)

 なので,クラシック音楽の特徴を考える方がより有益だと考えるにいたったから,モーツァルトの項はこれで終了。実践をご希望の方,ぜひ福岡教育大学の公開講座「ヴァイオリンとピアノのためのモーツァルト講座」に来て下さい。今週までが受付期間です。


モーツァルトらしさ

2009-04-19 07:51:24 | モーツァルト

先日、モーツァルトらしくないクラリネット協奏曲を聞かされた。何故「らしくない」かというと、一つには表情の変化に乏しかったからである。この「変化」の仕方が、モーツァルトは特に難しいかもしれない。

モーツァルトのフレーズは、押しなべて短めだ。次から次に違う表情を要求されることがしばしばである。この傾向は協奏曲や室内楽において著しく、交響曲や宗教曲等の声楽作品では、それほどでもないような気がする。

交響曲では比較的ロジカルな展開が多いのに対し、協奏曲では意表をつきまくる展開で「ちょっとおかしいんじゃないか?」と思わせるくらい…。 もっとも、これは筆者の主観なので、別の感じ方もあるとは思うが。

少なくとも協奏曲においては、短い単位で表情を切り換えなければならない。しかも一瞬で鮮やかに。色に例えると、ぎりぎりまで「赤い」表情で、ある瞬間「青」に切り換える。しかし、また次の瞬間「赤」に戻したり、あるいは「黄色」にしたりしなければならない。途中に「紫」や「緑」の「にじみ」が出てしまうと、モーツァルトらしくなくなる。

しかも「赤」の演奏をしながら「青」のイメージを溜めこんで、切り換え箇所で瞬時に「青」を放出することを要求される。 これをするには、(人にもよるが)かなりの訓練が必要で、ここにもモーツァルトの難しさがある。

ただ、これは魅力の裏返しだ。これができるようになった時、神に愛される(AMADEUS)存在と一体になれる祝福が用意されている。


わかる演奏

2009-03-27 18:21:22 | モーツァルト

モーツァルト以前の問題はまだまだある。そもそも、演奏の良し悪しとは何だろうか?

表現力とか解釈とか、いろいろ考えられるかもしれない。が、そのような要素で考えていくと、正反対の表現が出てきて、どちらも良いと思う人が出てきた場合、何がいいのかわからなくなるだろう。

ここで齋藤秀雄先生の言葉が蘇ってくる。これも、以前から紹介している「講義録」にある言葉だ。曰く「先ずは、構造がわかる演奏に努めなさい。」

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敢えて、再記しよう。構造がわかるとは、

・フレーズがここから始まり、ここで終わる

・ここでハーモニーが変化する

・強弱やアーティキュレーションの区別

・声部の優先順位、バランス

・適切なテンポはコレ!

等々のことがわかることを指している。

上記以外にもまだ様々な要素があり、これを「わかる」ように演奏するだけで、大変なエネルギーがいるはずだ。

一方、バッハやモーツァルトは構造がしっかりしている作品ばかりなので、「わかる演奏」であれば、大半の人は満足し、「よかった!」と言ってくれる、ありがたい作品群だと思う。

なので、先ずは「わかる演奏」に専念すべきだろう。他人と違う個性を発揮しようなどというのはクレーメル級の人が考えれば良いというのが筆者の考えだ。


旋律の歌い方・異説

2009-03-13 18:23:56 | モーツァルト

 上行型はクレッシェンドと,信じて疑わなかった30代前半のある演奏会のリハーサルにて。

「上行型がクレッシェンドというのはワーグナーの悪影響です。それまでは上行型はデクレッシェンドでした!」
とおっしゃったオーボエ奏者Kさんがいらっしゃった。

 その方は,私が小学生の時から何となく存じ上げていて,初めてオーボエを吹かせてもらったのも,その方のオーボエだったかもしれない。何となくではあるが,私にとって絶対的な存在である。現在はオランダでピリオド楽器奏者として活躍されているらしい。

 そのような方が力説され,演奏した曲はマルチェルロのオーボエ協奏曲。冒頭のリトルネロ(テーマ)に上行する音階が含まれている。これをデクレッシェンドで演奏する。これが見事にサマになるのである。

 さあ,どっちだ?上行型はクレッシェンドかデクレッシェンドか?

 それ以後,注意しているのだが,ワーグナーが強弱法に改革を起こしたという話は寡聞にして聞かない。だから,本当かなぁ,という気持ちもないではない。

 正直言って,どちらだ,という答えは出せない。出さなくても良いのかもしれない。どちらも試してみて,納得のいく方法をとれば良いのだと思う。

 という訳で,上行型はクレッシェンド,と決めつけると,問題が生じることもある。柔軟に対応していただきたい。法律ではないので。


旋律の歌い方

2009-03-04 08:10:52 | モーツァルト

 モーツァルトについて考えると,それ以前に整理しなければならないことがたくさんあることに触れざるを得ない。その一つである。

 そもそも,「歌う」ということは,どういうことだろうか。「そこは歌って」とか「もっと歌って」という表現を,安易に使う場にしばしば遭遇することがある。これは「言う側」と「言われる側」に「歌う」という行為はどういうことを指すのだ,という共通理解があって初めて成り立つ訳である。それでは,「歌う」,特に器楽で「歌う」というのは,具体的にはどういう行為を指すのだろうか。

 それは,自明の理かもしれないが,「声楽」のように演奏することである。器楽の歴史は声楽の模倣に始まり,その拡大の歴史であるから,原点は「声楽」なのである。つまり,「歌うように演奏する」ことが「歌う」行為であろう。

 人は,どのように「歌う」のかを分析してみると,人の持つ「のど」のメカニズムと,「歌う」行為が密接に関わりあっていることがわかる。即ち,人の声の音域(声域)は各人それぞれのものだが,共通しているのは,声域の低い部分から高い部分にかけて徐々に声量が上がっていくようになっていることである。そして,声域の最高音から2,3度低い音程のあたりが最も声が出る部分である。その仕組に合わせて,我々は「歌う」のである。

 声楽(特にドイツ語圏)において,「Linieführung  (線的操作)」といわれる演奏法がある。一言で概要を述べれば「次に何がくるかわかるように演奏する方法」ということになろう。操作するのは,音程と強弱の二点である。

 まず,音程についてであるが,特に長い音符の後に高い音が来るか,低い音が来るかで,長い音符の後ろの方を操作することになる。即ち,声楽において音程が跳躍する際,後ろが高い音程であればあるだけ,跳躍の前に喉の支えを必要とする。喉の支えとは声帯周辺の筋肉の緊張ということもできる。それらの筋肉が緊張すれば,自ずと微妙に音程がずり上がるのである。反対に,低い音程に跳躍する時は,筋肉を弛緩させねばならないので,音程はほんのわずかずり下がるのである。これらは通常「ポルタメント」という言葉で説明されるが,節度をもった使用が望まれる。

 次に強弱であるが,前述の通り,普通に歌えば高音域はフォルテになり,低音域はピアノになる。従って,漸次的に高音へ移行する場合は軽いクレッシェンド,低音へ移行する場合はデクレッシェンドがかかるのが自然な姿であろう。これを意識して行うのが「リニエフュールングLinieführung」である。独墺系の方が「リニエ」,英語圏の方が「ライン」と言い出したら,これらのことを思い浮かべる必要を感じる。

 ただ注意すべきは,やり過ぎるといわゆる「ロマンティック」な味わいが濃くなってしまうことである。どの程度にするか,演奏者のセンスが問われるところであろう。

 一般的に「上行型はクレッシェンド,下行型はデクレッシェンド」とは,よく聞く表現だ。つまり,ほとんどの方がご存知のことを,違う角度で解説したにすぎない。ただ,その背景には,これだけの論拠があるということ,これを知ってやるのと知らないでやるのの違いは大きいのではなかろうか。