メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の第1主題、オーケストラに受け渡す直前に、減7の和音をオクターヴでかけあがるところがある。
そこはオーケストラが休みのところだ。この曲に限らず、オーケストラが休みのところはソロが比較的自由なテンポ設定ができるのだが、ここではそれをやってほしくない。オーケストラが今か今かと待ち構えるところで、その受け渡す流れをソロに作ってほしいところだからだ。気持ちよくインテンポで渡してほしいものである。
名手の演奏もほぼ例外なく、インテンポで受け渡していると思う(全部確かめた訳ではないが)。
ところが、あまり上手でない子供たちの演奏には、そこをインテンポとせず、妙に時間をかけて弾く、というものが結構ある。昔からあった。
「それはないだろう」、と思う。たまたまそれを別のヴァイオリニストと聴いたことがあったのだが、その人も同意見で、やれやれと胸をなでおろした次第。
お互いに、同じようなことを言い合った後で、「何だか、ちゃんと教えていない人が多いよね。」とそのヴァイオリニストはのたまわった。
「そうだねぇ」と、一応同意したものの、やや不安になった私。ちゃんと教えるって何を?
同じような状況で、時々耳にする言葉、「基礎ができていない」というのもある。さて、基礎とは?
かくいう私が、ひょっとしたら「ちゃんと教えていない」可能性もあるのだ。
いろいろとできていないことが見つかると、どうしても技術的なところから正す習慣がある。技術不足で、まともな表現ができていないかも、と思うからだ。
そこに時間をかけていると、音楽表現的な視点のアドバイスは何もなく、いつの間にか「ちゃんと教えていない先生」へ仲間入りしてしまうことも、無いとはいえない。
「ちゃんと教える」とは想像以上にかくも難しいのである。そのヴァイオリニストも、ちゃんと教えているという自信はあるのだろうか、と思わずにはいられない。
いみじくも、そのヴァイオリニストは言っていた。「自分で考えられるようにしなくてはね。」
そう、先生はちゃんと教えてくれないかもしれないから。これで、一応留飲が下がるのだが、その次には、こんな気持ちが待っている。「自分でちゃんと考えることが、子供にできるだろうか?」
嗚呼、どうどうめぐり!