井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

オペラ「千の鶴の物語」③

2018-09-23 09:47:25 | 指揮
器楽の演奏者がそれぞれ携帯電話をいじっている。それは、3.11の日、日本では報道されなかったCNNニュースに一般市民が釘付けになっている状況を描いている。

アメリカではジョン・アダムズやスティーブ・ライヒなど、9.11を直視した作品が多く発表されているようだ。

「美しいものを描くだけが芸術artではない」という考え方がある。このオペラもその考え方の延長線上にある作品と言える。

でも所詮は対岸の火事なんだよな、ということを物語っているようで、深く考えると正直やってられない。

私は蝶々夫人でも夕鶴でも、内容をなるべく考えないで演奏する。普通は、内容を把握して演奏するべきなのだが、この手のものはそれをすると演奏不可能になってしまう。

なので、ひたすら冷静に演奏に徹したのだが、目の前の行為に反応しないようにするのは、なかなか大変だった。

まあ「不愉快な感情を引き起こす作品」は、確かに芸術作品の価値はある。少なくとも、つまらない作品はそのうち消えていくが、不愉快な作品は残っていく可能性がある。

しかし、今の日本に必要なのは、日本人が元気になる作品だと思う。ここ何十年も日本を覆う閉塞感を打破するような。

そう考えると、日本国内での再演は難しいのではないだろうかと思う。

が、そこを問題にしなければ、とても興味深い作品だった。

台本の対訳だけではわかりにくいからと、前日になって急遽ナレーションを頼まれた吉岡さん。彼女はこの演奏会で《鶴姫奇譚》という曲を発表するために駆けつけていただけなのだが、その多才ぶりを、ここで発揮してもらった。この場を借りて感謝。


指揮者も一ヵ所だけ演技がある。千羽鶴がカモメになって飛んでいくのに気づいて「あっ」と驚く様子である。


写真だけだと面白そうに見えるし、実際面白かったので、気分はとても複雑である。
最後のカーテンコール。

オペラ「千の鶴の物語」②

2018-09-21 08:02:47 | 指揮
楽譜は大体において最初から読むものだ。

まず、拍子がない。指揮者は何をすれば良いのだろうか。

入りの合図、かな?
これも、多分に即興性が含まれているので、演奏者に任せても勝手にやってくれそうな気もする(実際、本番では合図を出し忘れて、勝手にやってもらった箇所もあった、sorry.)。

とりあえず、入りの合図は全部出すことにして…

どんな音がするのか見当もつかない楽器の集団の上、トーンクラスター(音の塊)や特殊奏法も多く、それらを統合した響きを頭の中に作り出すのは不可能だった。

仕方ないから、最初のリハーサルに「賭ける」ことにして…

読み進めると、津波の「絵」(ツナミ・ハザードと書いてあった)や、携帯電話、ipadまで出てくる。


左側に見えている奏者が携帯をいじっているところだ。

また気持ち悪くなってきたので、続きは③で。

オペラ「千の鶴の物語」①

2018-09-16 13:16:29 | 指揮
日系カナダ人の作曲家、リタ上田作曲のオペラ《1000 White Paper Cranes for Japan》の日本初演を指揮した。
以前《禎子と千羽鶴》と本ブログで紹介していたものである。(実際には《禎子》とはほぼ無関係だった。)

国際的には6度目の上演になる。
5度目がアムステルダムで8/25に行われた。

演奏したのはカナダのグループMUアンサンブル。これはバンクーバー・インターカルチュラル・オーケストラの選抜メンバーで、来日したのはソプラノ、笙、サントゥール、ギター、ピパ、ダンバウの6人。それに東京からの箏と福岡の打楽器が加わる。

この、見たことのない編成は作曲者も見たことがない編成で、演奏者の都合で演奏の度に編成が変わるそうだ。
ちなみにアムステルダムではチェロと尺八があり、これがとても良かったらしい。

とは言え、福岡初演9/1の直前で、その演奏を参考にすることもできず、1か月ほど前に送られてきたスコアを、ひたすら勉強する毎日……

と言いたいが、9/1は例の《鼎華章》を始め、初演の曲がいくつもあり、運営の準備にも追われ、ほとんどの日はスコアの表紙を眺めるのみ。

と、物理的に忙しいのは、スコアを読まなかった理由の半分でしかない。

私は楽譜を読むのが好きなので、どんなに忙しくても、楽譜は見る。

見なかった理由の半分以上は、見ると苦しくなって、途中で読むのを止めてしまうこと。

と、今書きながらも、ちょっと苦しくなってきたので、とりあえず中断する。

写真は福岡初演の様子。


サイトウ・メソード・フォーエバー③

2017-10-02 18:46:00 | 指揮
「バレンボイム自伝」に、指揮者はアウフタクトの合図をどう出すかで、全てが決まってしまう旨のことが書いてあった。
別にバレンボイムを持ち出さなくても、指揮する者にとってこれは常識に近い。

歌劇場の稽古は、この「合図」の連続であって、指揮者の卵は、その様々な合図の出し方と、続く音楽の流れ方(流し方が適切か)で、どのように音楽が変わっていくかをじわじわと学ぶ訳だ。

他の要素、例えば音量のバランスの取り方など、本番直前までわからないし、音色の変化みたいな細かいニュアンスは、劇場の場合は一言二言で終わってしまう(程度しかできない)。

残念ながら日本には、そのような歌劇場が無いので、歌劇場を前提とするヨーロッパ方式は基本的に無理がある。

そこを超越した方式がサイトウ・メソードど、というのが筆者の主張である。

言い換えれば、誰でもわかる合図の方法がサイトウ・メソード。

その「誰でもわかる」が、ともすれば「つまらない音楽」になり易いことを危惧して、このメソードから離れていく人たちも多い。

それで良いと斎藤秀雄先生もおっしゃっていた。「まず型に入れよ。そして型から出よ」である。

サイトウ・メソードが習得された上でそれを使わないのは構わないのである。それならば、肝心のところは崩れない。

習得しない、あるいはできないで離れていく人、こういう人の指揮は結構問題が生じやすい。問題が生じても、原因が見えない人も多い。

それで悩むくらいなら、サイトウ・メソードをちゃんと習得したらいかがでしょうか、と言いたい筆者であった。

サイトウ・メソード・フォーエバー②

2017-09-30 09:53:25 | 指揮
現在、東京芸大の指揮科の専任ファカルティは全員桐朋学園大学出身である。桐朋と言えばサイトウ・メソードの発祥地、センターのはずなのだが、知人の情報によると「叩き」などは教えていないという。

再び勝手な推測だが、斎藤秀雄先生の弟子は徹底的な訓練を受けているから、その弟子(孫弟子)には同様の訓練を施す。
孫弟子はその訓練を受けるけど、世間では必ずしも受け入れられていない現実を見たりして、「サイトウ・メソードでなくてもいいんじゃね?」と考え、その弟子(曾孫弟子)には、叩きなど教えない。
曾孫弟子(今世紀の学生さん達)は、もちろん「叩き」の重要性などわかるはずもなく、ひたすら「指揮は難しい」と暗中模索の日々を送る。

ということではないだろうか。
それで、ひたすら音楽作りの追及をするのであろう。

良く言えば、これはヨーロッパの方式に表面上似ている。

しかし、ヨーロッパ方式には、その裏に歌劇場のシステムがある。コレペティトゥールをやりながら指揮者としての訓練を積む方式と表裏一体となっていることを忘れてはならない。(続く)