先日、ショパンのピアノ協奏曲第1番の弦楽四重奏版というのを演奏する機会があった。ポーランドの出版社から出ている、れっきとした権威ある楽譜を使ってのものである。その解説によると、ショパン自身がフル・オーケストラ版以外でも、このような室内楽編成や、時には独奏!で、この曲を演奏した、と書いてあった。
独奏で協奏曲?!なんて、ロマン派以降の曲では考えられないが、ショパンに限ってはむべなるかな。
通常、ピアノ協奏曲の楽譜は2台ピアノ用に編曲されていて、その2台用の楽譜を見て演奏する。ところが、ショパンに限って、1台用の楽譜、つまりピアノ独奏曲の体裁をした楽譜になっていて、オーケストラの前奏や間奏などをピアノ用に編曲された部分にすぐ続けて独奏パートが記されている。それをそのまま弾けば、確かに独奏で協奏曲の演奏は可能だ・・・。
しかし、そんな曲がいい曲だったためしがない・・・と言いたいところだが、ショパンに限ってそうではなくなる。筆者においても、高校生の頃はかなり好きな曲だった。
聞けば良い曲なのだ。弾いても多分気持ちの良い曲だろう。ただし、それは独奏パートの話。
オーケストラ・パート、いわゆる伴奏は最悪である。ほぼ無くても音楽として成立するのだ。これがやる気になれますかいな。オーケストラの本番で弾きながら寝てしまうのは、この曲くらいなものである。
このオーケストレーションの拙さは、当初から言われ続けている。何が拙いのか、弾きながら考えてみた。
オーケストラ・パートが無くても成立するのは、ピアノが旋律も伴奏も担当してしまっていて、オーケストラの活躍する余地がないところが多いのが、まず目につく。
次に、ハーモニーだけで曲が進行する箇所も多く、それを装飾して上へ下への大騒ぎを独奏ピアノがする。相変わらずオーケストラの入り込む隙間がない。
こういう曲は、大胆に改造したくなる井財野。そこで閃いた。
ヴァイオリン協奏曲にしちゃえ!
テーマの部分はそう大変ではない。調を動かす方が効果的かもしれないが。
問題は展開部分である。和音のキラキラで上へ下へが多いこの協奏曲、ここが魅力であると同時にガンでもある。
そもそも協奏曲の面白さは何か。ソリストが華麗な技巧を披露するのがまず第一かもしれないが、それを通してソロとオーケストラが対峙し、対話をすることにあるのではないだろうか。
ショパンの問題は、オーケストラを無視?して、ひとりごとを言っている時間が長いこと。ほとんど対話がない。モーツァルトだって、チャイコフスキーだって、ちゃんとオーケストラと対話しているぞ!
なので、和音のキラキラに相当するヴァイオリンの音型もないことはないが、それを延々繰り返すと、やはりかなりつまらない曲になってしまう。
やってみるとヴィエニアフスキに似てくる。やはり似ているんだな、このポーランド人二人。
ではヴァイオリニスト作曲家の皆さんは、展開部分をどう作っているか?
オーケストラがつまらないことでは双璧かもしれないパガニーニは・・・技巧部分もあるけれど、目立つのは「旋律」。朗々とヴァイオリンに歌わせる部分がふんだんにあることがわかる。そうだよ、こうでなくてはヴァイオリンはつまらない。
ということはショパンが旋律を配置しなかったところに旋律を置く作業をしないと、少なくともヴァイオリン的な協奏曲にはならない、ということか。
ショパンのテーマを変形して何か組み合わせる、あるいは新たな対旋律を作ることをやらなければならないのだな、ということまでわかって・・・勉強になった。作るのは大変だ、ということもわかった。
さあどうする?