井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ショパンのヴァイオリン協奏曲構想

2012-10-25 23:06:09 | ヴァイオリン

先日、ショパンのピアノ協奏曲第1番の弦楽四重奏版というのを演奏する機会があった。ポーランドの出版社から出ている、れっきとした権威ある楽譜を使ってのものである。その解説によると、ショパン自身がフル・オーケストラ版以外でも、このような室内楽編成や、時には独奏!で、この曲を演奏した、と書いてあった。

独奏で協奏曲?!なんて、ロマン派以降の曲では考えられないが、ショパンに限ってはむべなるかな。

通常、ピアノ協奏曲の楽譜は2台ピアノ用に編曲されていて、その2台用の楽譜を見て演奏する。ところが、ショパンに限って、1台用の楽譜、つまりピアノ独奏曲の体裁をした楽譜になっていて、オーケストラの前奏や間奏などをピアノ用に編曲された部分にすぐ続けて独奏パートが記されている。それをそのまま弾けば、確かに独奏で協奏曲の演奏は可能だ・・・。

しかし、そんな曲がいい曲だったためしがない・・・と言いたいところだが、ショパンに限ってそうではなくなる。筆者においても、高校生の頃はかなり好きな曲だった。

聞けば良い曲なのだ。弾いても多分気持ちの良い曲だろう。ただし、それは独奏パートの話。

オーケストラ・パート、いわゆる伴奏は最悪である。ほぼ無くても音楽として成立するのだ。これがやる気になれますかいな。オーケストラの本番で弾きながら寝てしまうのは、この曲くらいなものである。

このオーケストレーションの拙さは、当初から言われ続けている。何が拙いのか、弾きながら考えてみた。

オーケストラ・パートが無くても成立するのは、ピアノが旋律も伴奏も担当してしまっていて、オーケストラの活躍する余地がないところが多いのが、まず目につく。

次に、ハーモニーだけで曲が進行する箇所も多く、それを装飾して上へ下への大騒ぎを独奏ピアノがする。相変わらずオーケストラの入り込む隙間がない。

こういう曲は、大胆に改造したくなる井財野。そこで閃いた。

ヴァイオリン協奏曲にしちゃえ!

テーマの部分はそう大変ではない。調を動かす方が効果的かもしれないが。

問題は展開部分である。和音のキラキラで上へ下へが多いこの協奏曲、ここが魅力であると同時にガンでもある。

そもそも協奏曲の面白さは何か。ソリストが華麗な技巧を披露するのがまず第一かもしれないが、それを通してソロとオーケストラが対峙し、対話をすることにあるのではないだろうか。

ショパンの問題は、オーケストラを無視?して、ひとりごとを言っている時間が長いこと。ほとんど対話がない。モーツァルトだって、チャイコフスキーだって、ちゃんとオーケストラと対話しているぞ!

なので、和音のキラキラに相当するヴァイオリンの音型もないことはないが、それを延々繰り返すと、やはりかなりつまらない曲になってしまう。

やってみるとヴィエニアフスキに似てくる。やはり似ているんだな、このポーランド人二人。

ではヴァイオリニスト作曲家の皆さんは、展開部分をどう作っているか?
オーケストラがつまらないことでは双璧かもしれないパガニーニは・・・技巧部分もあるけれど、目立つのは「旋律」。朗々とヴァイオリンに歌わせる部分がふんだんにあることがわかる。そうだよ、こうでなくてはヴァイオリンはつまらない。

ということはショパンが旋律を配置しなかったところに旋律を置く作業をしないと、少なくともヴァイオリン的な協奏曲にはならない、ということか。

ショパンのテーマを変形して何か組み合わせる、あるいは新たな対旋律を作ることをやらなければならないのだな、ということまでわかって・・・勉強になった。作るのは大変だ、ということもわかった。

さあどうする?


ヴァイオリン協奏曲の何曲探検

2012-10-16 00:41:44 | ヴァイオリン

ヴァイオリニスト、アーロン・ローザンドがその初来日の際に紹介されたコメントの中に「協奏曲のレパートリーを百曲以上持ち、現在も開拓中」というのがあった。

まず、世の中に百曲以上もヴァイオリン協奏曲があるのか、ヴィヴァルディやヴィオッティを全部数えたら、そりゃあるのだろう、ということにはなるけれど、あまり弾きたいとも聞きたいとも思わない、というのが一般的な感覚だと言って差し支えないと思う。

では、どのくらいの曲が演奏され、普通のヴァイオリニストはどの程度のレパートリーを持つか。何となくかぞえたら20曲程度か、となった。大した数字ではないが、それでもチェロやフルートより断然多い。まあ、ちょうどいいってことだと理解している。

さて、具体的には・・・

筆頭に上がるのは四大協奏曲、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ブラームス、ベートーヴェン。本当にこればかり演奏されていて、これ以外になると演奏頻度はものすごく落ちてしまう。

では次には、多分シベリウスとモーツァルトの第3,4,5番ということになるだろう。モーツァルトは一曲ずつで演奏頻度を見ると、そこまで高くはないかもしれないが、3曲合わせると、確実にシベリウスよりはよく演奏される。

また、ヴァイオリン協奏曲という認識は低いかもしれないが、バロックにはヴィヴァルディの「四季」というのがある。これはシベリウスやモーツァルトよりも多いかもしれない。

そして、以前に紹介した「おけいこニストのための協奏曲」がようやく登場するのだが・・・。

まずはラロのスペイン交響曲。そしてブルッフの第1番。ヴァイオリンを練習する人間からすると必修教材のようなものだから、体に染みついているレパートリーなのだが、その身からすると、演奏会場で聴くチャンスは驚くほど少ない。コンクールを除くと、筆者の経験はラロを「弾いた」のが一回、ブルッフを「聴いた」のが一回しかない。

それ以下、と言いたくないのだが、サン=サーンスの第3番、ドヴォルジャーク、ヴィエニアフスキの第2番、と続く。同じくヴァイオリン弾きにはお馴染みでもオケメンには馴染みが薄く、サン=サーンスの3楽章冒頭など、最初の練習では木管楽器が必ずボロボロになる。

一方、近代の曲になると、もう少し演奏されているかもしれないのがある。プロコフィエフの2曲、ハチャトゥリアン、そしてショスタコーヴィチの第1番。特にここ十年くらいだろうか、ショスタコがなぜかよく演奏されるようになってきた。難曲に挑戦したい、という雰囲気を醸し出しつつ…。筆者の学生時代、桐朋学園大で流行していると聞いたが東京芸大で弾いていた人間は皆無だった。

東京芸大で頻繁に演奏されていたのはバルトークの第2番。なので、学生の演奏はよく聞いたものだが、これとて一般のコンサート会場で聴いたのはコンクールのみ。似たような存在のものにベルクもある。

難曲と言えばパガニーニ。これも似た感じで、音大やコンクールではよく聞くものの、演奏会場では我が師匠が読響バックに弾いたのを聴いたことがあるのみ。

さらに地味な難曲としてグラズノフ。こうなるとテレビ・ラジオのライブ演奏さえ一回くらいしか聴いたことがない。昔日本では、ピアノ伴奏で江藤俊哉先生がよく弾かれていたという話を聞いたことはあるのだが。

同じく江藤先生が好きだったらしい曲にコルンゴルドがある。これも近年、時々演奏されるようになったが、そこまで良い曲だという認識は筆者にはない。同じ映画音楽風?ならば、アメリカのバーバーの方がずっと良い。

個人的にはイギリスのウォルトンが大好きで、筆者の卒業演奏に選んだくらい。本国イギリスでは割と演奏されていると聞くが、日本では聴いたことがない。ウォルトンはヴィオラ協奏曲とチェロ協奏曲もあり、こちらは時々演奏されている。はっきり言って、それはヴィオラやチェロに曲がないからだ。それらより断然名曲のヴァイオリン協奏曲が演奏されないのは皮肉としか言いようがない。

イギリスと言えばエルガーもあった。これも桐朋では弾かれていたと聞いていたが、自分で弾くの以外聞いたことがない。これはウォルトンとは違い、チェロ協奏曲は名曲。ヴァイオリンはまあまあ、くらい。

ついでに難曲中の難曲と言えばシェーンベルクになると思われる。師匠曰く、譜読みに一年かかったとのこと。そう伺うと、これはレパートリーとしては数えられない曲というのが筆者の認識である。

詳しい人の話によると、ピアノ協奏曲より良い曲だそうだ。そのピアノ協奏曲を日本で初演したのがポリーニ。「大変名誉なことです」とインタビュー記事で語っていたが、このためにオーケストラはポリーニに1000万円払ったそうだ。そして、ポリーニは翌日に日本の子供たちのためにNHKホールで無料コンサートを開いたのだった。1980年代の話である。

そしてヴァイオリン作曲家の作品、ヴィオッティの第22番、パガニーニの第2番、ヴュータンの第5番などがある。知名度の低さに、ここで紹介するのもためらわれるが、その昔、NHKの洋楽プロデューサーが作成したオーケストラ名曲333曲に載っていたので、最後に話題にした。

もの好きな人は、シューマンとかリヒャルト・シュトラウスなどというものを弾いたりするけれど、これはゲテモノと筆者は見なしている。

シマノフスキやペンデレツキ等、ポーランド勢もあるけれど、ここまでくると珍曲の類に近付いてくるので、このあたりにとどめておこう。

これで何曲あるか?

数え方によるけれど、二十数曲ある。これがヴァイオリニストのレパートリーと言えるだろう。このくらいは頑張ろう、ということになるか・・・。


旋律が書けなくても大作曲家

2012-10-04 23:31:54 | 音楽

それはリヒャルト・シュトラウスのこと、と言いたいが、そうではなくて、エクトール・ベルリオーズのことを考えている。

ここ数年、スコアの読み方の教材として、ベルリオーズ作曲の序曲「ローマの謝肉祭」の一部をとりあげている。サルタレロの踊りの部分は実にエキサイティングで、高校の頃、夢中になったものだ。

また、現在、あるアマチュア・オーケストラの指導のために「幻想交響曲」のスコアを読み直している。これまたドラマティックで、中学の頃、毎日聴いていたことがあった。

つまりどちらも大好きだった。加えて「ハンガリー行進曲」、これもお気に入りではあるが、完全なオリジナルではないようなので、代表的作品から一応除外しておく。

とは言え、三つともすばらしい曲だ。他にもいろいろとあるに違いない、といくつか聴いてみたのだが、これがちっとも面白くないのだ。サイトウ・キネンが「ファウストの劫罰」を上演したことがあり、テレビで放送もされた。これをビデオにとって、何回か観たのだが、途中から観賞を放棄している自分を発見することになる。

一所懸命演奏された方々には頭が下がるが、曲の中身は恐ろしくつまらない。

同じことが交響曲「イタリアのハロルド」にも言える。独奏ビオラが地味だからパガニーニが演奏を拒絶したと言われているが、本当のところは、ビオラパートだけでなく全体がつまらなかったからではないか、と憶測してしまう。これに比べたらパガニーニの奇想曲の方が百倍おもしろい。インスピレーションに満ちあふれている。

ではパガニーニの方がベルリオーズより大作曲家か?

そう思う人は少数派だろう。

やはりベルリオーズの方が偉大と思われているだろう。それはリストやワーグナーに影響をあたえるほどのユニークさがあったからだ。これが「循環形式」。

そして「オーケストレーション」

前述の「ローマの謝肉祭」は、もともとオペラ「ベンベヌート・チェルリーニ」の間奏曲だったらしいが、「ローマの謝肉祭」には、そのオペラの旋律が出てくる。

その序曲のイントロが終ると、オペラの二重唱からとった旋律が、都合三回出てくる。よくみると恐ろしく凡庸な旋律なのだが、この色付け、つまりオーケストレーションがすばらしく、その凡庸さにまず気付かない。特に三回目に出てくるカノンの伴奏部分、16分音符単位で鳴っている楽器が交替する色彩感、もう絶品である。

この点が大事なところ、と思う。オーケストラとは使い方が巧妙であれば、旋律が貧弱でもそうは聞こえないのだ。

そして、日本語で「作曲」という行為、英語ではコンポジションと言うが、これは「組み立てる」ことであり、旋律を作ることは、その中のあくまで一部分。だから旋律が書けなくても作曲にはなり得るし、場合によっては大作曲家にもなる、ということだ。

井財野は今、11月23日本番のバレエ曲のオーケストレーションに追われており、このブログもなかなか書けない。その理由がおわかりいただけただろうか。このバレエ曲、作曲家が7人いる連作と合作で、他人の部分のオーケストレーションもある。元が何であれ、このオーケストレーション次第で名曲にも凡作にもなるのだから、ちょっと他のことに手がまわらない、という状況なのである。

11月23日、福岡近辺の方、ももちパレスまでぜひご来場を。