井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

《赤とんぼ》はドイツの歌と言った人がいた

2018-03-17 14:57:00 | 音楽
《赤とんぼ》も、大昔、盗作論争があった。昭和30年代、中央公論誌上で、あの石原慎太郎氏と末広恭雄氏がそれぞれ論陣を張ったのを、10代の頃、祖父の家で読んだことがある。

石原氏曰く、ドイツに行った時、これが日本の代表的な歌だと《赤とんぼ》を歌ったら、ドイツ人達が「それはドイツの歌だ」と譲らなかったそうだ。そしてそのドイツ人が歌うと、なるほど細かな違いはあっても、大筋で同じだったらしい。
なので《赤とんぼ》はドイツの歌だと認めざるを得なかったという。ドイツ人に対しては「NOと言えない日本人」だったようだ。

迎え打ったのは末広先生、この方は東大農学部の教授なのに、童謡「秋の子」でも有名な作曲家。弘田龍太郎や山田耕筰に師事しているから立派な音楽家だ。
そして師匠に代わって反論するのだ。

結論は、その後、末広氏の著書に再掲されていたと思うが、しり切れとんぼだったように記憶している。

しかしすごいのは、これが山田耕筰存命中の出来事だったこと。
本人からのコメントが一切なかったようだ。

山田先生、ちょっとそういう「ズルい」ところがあるかも、と思う。

しかし、もし万が一ドイツの歌であっても、5~6小節めの低音進行はドイツ製ではないだろう。そのオリジナリティがあれば、名曲の条件として十分だと筆者は考える。

21世紀に遺したい歌

2018-03-14 08:23:11 | 音楽
以前も何回か取りあげたことがあるアンケートで、約20年前、20世紀が終わろうとする時にNHKが行ったものである。
タイトルはうろ覚えなので、少し違うかもしれない。

各都道府県別に3位まで結果が出ていて、なかなか興味深いものだった。

が、鹿児島以北は大同小異というところ。

全く違うのは沖縄県で《芭蕉布》《えんどうの花》《安里屋ユンタ》だったと思う。

そして、全国のベスト3は……

その結果に私は失望したので、覚えていない。

《ふるさと》と《赤とんぼ》が入っていたように思う。

筆者自身は《赤とんぼ》を名曲だと思っている。特に5~6小節めの低音進行はたまらない魅力を感じる。

筆者の「名曲基準」は歌って良し、楽器で奏でて良し、つまり器楽曲としても成立するもの。

その昔「恋は水色」というフランスの歌があったが、世界中で流れたのはポール・モーリアのオーケストラであって、歌ではない。こういうのが名曲だ。

なので《赤とんぼ》は名曲だと思っている。

ドレミを選んだ日本人は西洋人?

2018-03-10 19:41:06 | 音楽
井財野が日本的なメロディーを作れないと、前々回の記事で書いたが、文部省唱歌だって負けてない。
「ふるさと」はイギリス国家によく似ているし、「春がきた」によく似た部分がトランペットの名曲「トランペット・ヴォランタリー」に出てくる。

どうしてこんな非日本的な歌で日本人を教育するのか!と、やや怒りを感じていたのだが、かなり誤解していることに気づかされた。

再び千葉優子著「ドレミを選んだ日本人」だが、これら明治時代に作られた唱歌の数々は、日本人にも西洋的な「音楽」の感覚を何とか植え付けようと、苦心惨憺の結果の産物だったようだ。それらの唱歌が非日本的なのは当たり前、逆に何とか西洋的なものを日本人に馴染ませるためのものだったのである。

約500年前の日本人の感覚の記述が同書にある。
宣教師フロイスの「日本覚書」に……

「われらにおいては、クラヴォ、ヴィオラ、フラウタ、オルガン、チャルメラなどのメロディはきわめて快い。日本人にとってはわれらのすべての楽器は、不快であり嫌悪される。我々のカント・ドルガンの音楽の協和音とハーモニーを重んじるが、日本人はそれをカシマシとみなし、まったく好まない。」

ヴァリニャーノの「日本諸事要録」には……

「我等の声楽や器楽は、通常彼等の耳には煩わしく聞こえ、彼等自身の音楽を極端に愛好するが、それは我等の耳にはまったく苦痛であり……」

この状況からいくつもの過程を経て、その最後の仕上げとばかりに文部省唱歌が登場したようだ。

結果、私達日本人は西洋人と同等の感覚を持つに至った。多分、上述の宣教師と同じような感覚を持つ日本人、かなり多いと思うし、そこまではっきり西洋人と同等でなくとも、500年前の日本人と同じ感覚を持つ現代日本人は皆無に近いのではなかろうか。

明治時代の先人達が頑張ってくれたおかげで、今日の我々がある。

どうもありがとう。

感謝の気持ちはある、しかし、これでいいのか、どこかしっくりこない。

レベルが高い昔の大名

2018-03-07 08:21:00 | 日記・エッセイ・コラム
「ドレミを選んだ日本人」という本に以下のような記述がある。

戦国時代、ヴァリニャーノという宣教師が書いた「日本諸事要録」の一部として……

「西洋人は異なった風習の中で育っているから、日本人の礼法を知らないことを日本人は考慮すべきだ。」と宣教師が言うと、キリシタン大名が以下のように答えた。

「このことについては、あなた方に同情するし、一年や二年なら我慢するが、幾年も経っているのだから我慢できない。
なぜなら、あなた方が日本の風習や礼儀を覚えないのは、それを覚えようともしないし、それがあなた方の気に入らないからである。
それは私たちに対する侮辱であり、道理にも反する。
なぜなら、あなた方が日本に来て、その数も少ない以上は、日本の風習に従うべきであり、あるいはまた、あなた方が日本の風習を覚えないのが、あなた方にその知力と能力が欠けているためであれば、日本人はそれほど無能なあなた方の教えを受けたりあなた方を師とすべきではない。」

いやはや、しっかり上から目線なだけでなく、よく観察しているし、理屈は通っているし、ご立派!さすが!

日本的なメロディーがなかなか作れない

2018-03-01 20:15:41 | 音楽
日本人に一番受けるのは「二六抜き短音階」、という結論は1983年、小泉文夫先生が最後の著作「歌謡曲の構造」の中で明らかにしている。

ドレミで言えば「レファソラド」、追分節やわらべ歌の音階、多分、誰でもこのレファソラドを行ったり来たりすれば、それらしい、日本風の旋律は簡単にできる。

問題はここからだ。

あまり考えずに旋律を作ると、2小節とか4小節の単位でまとまってしまう。
これは言ってみればドイツ的、日本的ではない。

日本の民謡を、便宜上2拍子でカウントすると、4小節とか8小節はまずない。6小節や7小節が多い。
これをドイツ的感覚で眺めれば、字余り、あるいは字足らず的に感じそうなのだが、もちろんそうは感じない。

ドイツ的と表現したが、例えばフランスはそのような均整感は弱く、何拍子だかわからない、ふわふわしたリズム感の民謡が目立つ。

イタリアも、あまり4とか8とかにあてはまらない感覚がある。民謡ではないけれど「フニクリフニクラ」は9小節単位、ヴィヴァルディの「春」の冒頭は3小節。

いずれの場合も不均整感は全くない。

しかし井財野はというと、プロポーションの良い6小節や7小節の旋律を、なかなか作りきらない。何故かドイツ的なものに染まってしまった我が身の腑甲斐無さを感じる今日この頃なのである。