井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

九州鉄道 いまむかし

2011-02-26 01:13:05 | 井財野作品

来る3月27日、九州・沖縄作曲家協会主催の「春の音楽展 2011 in 北九州」で、井財野友人の新作を発表します。

こどものためのピアノ曲が今回の課題で井財野の曲も5人の子供たちが演奏してくれます。御都合よろしければ、ぜひお越しください。会場は北九州市のムーブホールです。

本番には司会者がつき、こども達へ宛てた手紙が読まれることになっています。以下、その手紙の原稿です。

九州新幹線が全通したね。最初から走っていた「つばめ」に加えて「さくら」と「みずほ」も仲間入りしました。「さくら」と「みずほ」、これは、長崎や熊本と東京を結んでいた寝台特急の名前を受け継いでいます。青色の客車だったから「ブルートレイン」って呼ばれてね、目が覚めてから、東京に近付くにつれてワクワクしたものです。

そんなことを考えながら作ったのが、この「九州鉄道 いまむかし」。今の方がずっと速く走るけれど、昔は昔でそれなりの夢があった、それを若い皆さんに語りたかったんだ。

1曲目は「蒸気機関車C57」。全国的にはD51いわゆるデゴイチが有名だけれど、九州の中はこのシゴナナ、別名「貴婦人」と呼ばれるSLが一番みかけたような気がする。そこらじゅうで走っていたから、無くなると言われてもピンと来なかったよ。

2曲目は「ディーゼル特急おおよど」。今、新燃岳の噴火で運行見合わせたりする吉都線や肥薩線を経由する特急だけれど、途中のループ線やスイッチバックがあるから、特急と言ってもそんなに速くは走れないけどね。

3曲目は雰囲気変えて路面電車の「西鉄北九州線」。ここ北九州にはそれはそれは長い路線があったんだよ。約30キロ。この曲は2分だから時速900キロでかけぬけまーす。

4曲目は「寝台急行日南」。中学生の時、宮崎に住んでいて、福岡までヴァイオリンを習いに通っていて、時々乗ったんだけど、大分で1時間も停車するんだ。このダイヤはその後「ドリームにちりん」に引き継がれたけど、それも新幹線全通でなくなっちゃったねぇ。

5曲目は最初に紹介した新幹線の曲だ。でもこのような昭和の匂いを追いかけていくと、どうしても「さくら」と「みずほ」よりは「さくらと一郎」って言いたくなるんだよ、おじさん達はね。だから序奏には「昭和枯れすすき」の引用があります。

もう話し出すと止まらなくなってしまうから、手紙はこのあたりでおしまいにします。あとは曲を聴いて想像の世界で楽しんで下さい。


ロシアの指揮法

2011-02-17 22:59:28 | 指揮

世界には指揮法の代表的な流れが三つあるという。ウィーン国立音楽アカデミーのスワロフスキー教授に端を発する「ヨーロッパ」のもの、日本の斎藤秀雄による「サイトウ・メソード」、そしてイリヤ・ムーシンを象徴とする「ロシア」の指揮法である。

おおざっぱに分類すると、ヨーロッパの指揮法は「振り方」はどうでもよく、何を表現するかに力点をおく。「サイトウ・メソード」は文章における「字の書き方」に相当する「振り方(技術)」を科学的に解明する。ロシアは、その中間。(本当におおざっぱでごめんなさい。)

サイトウ指揮法の優れているのは、アメリカ的な合理性に日本的な見た目の美しさが融合しているところにあると思う。それからすると、ロシア流の振り方は、中国の太極拳のようでもあり、面白いけれど「美しい」とは感じない(のは筆者だけかもしれぬが)。

しかし、ロシアの曲を振る時、俄然ロシア流が力を発揮する(ようだ)。

ようだ、というのは、実は筆者はロシア流をちゃんと知っている訳ではないからである。

なのだが、最近二つのオーケストラで、どういう訳だかラフマニノフの作品をトレーニングすることがあり、ちょっとしたことに気づかされたからだ。

一方は交響曲第2番、他方はピアノ協奏曲第3番である。

1拍目がカラになっている伴奏音型がどちらにもある。これはチャイコフスキーゆずり。ここで1拍目をはっきり振ってはいけない。たちまち流れなくなってしまう。ふわふわ浮遊している感じがちょうど良いのである。

この方法は、15年くらい前、指揮者の飯森さんが教えてくれた。ちょうどストラヴィンスキーのバレエ曲をロシアのオーケストラで録音した直後だ。

「ロシアのオケでは叩き(拍を明示する方法)は使えないんですよ。叩くとどうしても音が濁る。それでふわふわやってみると、きれいな音になるんですねぇ。」

その後何年もしてからロシア人相手に実践の機会も得た。いわゆるアウトリーチに来たロシア人弦楽器奏者に、半ば無理やりチャイコフスキーの弦楽セレナーデを弾いてもらった時のこと。当方の学生との共演で、指揮なしのつもりだったのだが、ロシア人のリクエストで筆者が振るはめになった次第。飯森さんの言葉が残っていたので、ふわふわやっていたら、ぶっつけ本番で全楽章通ってしまった。しかも美しく。

そんなこともあって、多分、これがロシアの流儀に近いのではないか、と推察するに及んだのである。

どれもこれもなかなか喜ばしい体験だったが、同時に、なぜそうなるのかわからないことも多いのがロシア流。いやはや、これが魅力なのである。


ビブラートと弦素材

2011-02-12 12:26:11 | ヴァイオリン

「ノンビブラートという言葉にはアレルギーがありまして…」

最近、指揮者として接することの多い鈴木優人さんの言葉である。さらに続いた言葉は、

「ビブラートは(裸)ガット弦の代替技術だと思うのですよ。ガット弦をブーンとそのまま鳴らしていれば良い音だったのが、金属巻きの弦になってそれがつまらない音になってしまった。それでずっとビブラートをかけなければならなくなったのではないかと。」

何の裏付けもないけど、と彼は断って話したのだが、これは工学的に立派に説明できる。

ガットは均質ではないので、様々な倍音も常に出たり引っ込んだりしている。単純に弾くだけで音色の変化があった訳だ。

一方、金属巻き弦になると、弦の太さがかなり一定になる。高次倍音も一定の割合で出続ける。人はこれを「金属的な音」という。金属を叩くと高次倍音が多く発生する。それに似ているという訳だ。

この高次倍音はビブラートで引っ込めることができる。指の脂肪が高次倍音を吸収してしまうからだ。

なるほどねぇ。

バロックだからノンビブラート、ではなく、ガット弦だからノンビブラート、と考えた方が良さそうだ。

新しい指標ができた面持ちで嬉しくなってしまった。

このように、鈴木優人さんとの会話は、常になかなか愉快である。


セレンディピティ

2011-02-07 22:04:48 | まち歩き

昔、今のスリランカはセレンディップと呼ばれていた。18世紀のイギリスで「セレンディップの三王子」という童話が有名だったそうだ。その三王子はよく物をなくして探すのだが、探したものは出てこず、意外な物を見つける名人だった、という物語だそうだ。

その話から作られた人造語が「セレンディピティ」、幸運にも見つかってしまった物などのことを呼ぶ。日本人がノーベル賞を多くとるようになってから、よく耳にするようになったような気がする。

ところで「花園市民センター」というところに先日行った。駅から近いのであるが、川やら線路やらがありまっすぐ行く道はない、道路が狭い、一方通行が多い等の理由で、地元の人間以外がたどりつくのは結構難しい。

そして、やっとたどりついた駐車場である。
Photo

奥の方の看板はこれでは読めないかもしれないが、拡大するとこう書いてある。

Photo_2

偶然でないと見つけられない駐車場、ですか?

(撮影地 : 熊本市)


ほめる VS 怒る

2011-02-04 00:23:22 | 日記・エッセイ・コラム

このところ、人は褒めて育てる、というのが主流になっているような気がする。昔はそうではなかったと思うのだが。

私がはっきり意識したのは、シンクロナイズド・スイミングの小谷選手がメダルをとった時である。彼女はアメリカで教育を受け、その「ほめる」教育で成長したという。自分の出来が良くてほめられたかと思いきや、隣の論外の選手も同じコーチからベタぼめだったのだそうだ。それでオリンピックのメダルがとれたというのだから説得力がある。

もう少しさかのぼって1983年、外山滋比古の「思考の整理学」に、「ピグマリオン効果」が紹介されている。まったく根拠なしでも何度もくりかえしほめていると、徐々に成績が上がっていくというものだ。

まして、多少とも根をもったほめことばならば、かならずピグマリオン効果をあげる。

見えすいたお世辞のようなことばをきいてどうする。真実を直面せよ。そういう勇ましいことを言う人もあるが、それは超人的な勇者である。平凡な人間は、見えすいたことばでもほめられれば力づけられる。お世辞だとわかっていても、いい気持ちになる。それが人情なのではなかろうか。

そうだよねぇ。

という訳で、全面的に賛同するところではあるのだが、一方、それが当てはまらないように見えるケースもよく目にするのである。先生はずっとほめ続けている、しかし成績は上がらない。いや上がってはいるのだが、大してほめられていない者の方が、さらに成績が上がっている、という事態。それほど珍しいものではなく、結構よく目にする。

「よくできている」と先生からほめられて、その後に受けた入試には落ちてしまい、ということでは何のためのほめことばだかわからない。なので、ほめっぱなしというのもできないでいる。

そんなところにやっと出て来た(?)対抗論。発言者が百円ショップの「ダイソー」の社長というところに説得力がある。(PHP Buisiness The 21 2011.2より)

人はほめられて伸びるという声もあるけれど,そりゃ嘘じゃろ。たしかにほめられたときには嬉しくて,一時的に頑張るかもしれん。でも持続はせんよね。ならば,もう一回ほめたらどうなるか。今度は頑張るじゃのおて,調子に乗り始める。ほめ続ければ人を堕落させてしまう。もちろん,ほんとうにほめたいときには素直に褒めたらええよ。けど,人を育てようとしてほめるのは逆効果じゃね。

以下「若い人を鍛えたかったら,しっかりと怒ることがいちばんよ」「いい加減に叱ると,適当にやり過ごせば許してもらえると思われて,これまで怒ったことが無駄になるけえね」と続く。おぉコワっ。 しかし、

じつをいうとワシの中では,社員を育てようという意識はそれほど強くないんよ。ワシは,仕事ができるかどうかは素養の部分が大きいと思っとる。優秀な人は放っておいても伸びるけぇ。怒るのは,そうでない人にもがんばってもらうためのきっかけづくりのようなもんじゃね。

大事なのはココなのではないだろうか。ほめられてがんばる人もいれば、叱られてがんばる人もいる。それは人による、というのは昔から言われてきたこと。同一人物でも、両方の要素を合わせ持つことがあり得る。ほめるか、叱るか、これを見極めるのは難しい。教える側とすれば、一生この命題とつきあうことになるのだろうなぁ。