井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ショスタコーヴィッチ:祝典序曲

2018-10-05 19:26:18 | オーケストラ

NHK-FMに「気楽にクラシック」という番組があって、イントロ当てクイズがある。

その300回記念で出題されたのがこの曲。正解した人のハガキが読まれるのだが、見事に全て「吹奏楽の思い出」。れっきとした管弦楽曲なのに、管弦楽曲として捉えている人がほぼ見当たらないという曲も、そうそう無いのではなかろうか。

何を隠そう、私のこの曲の思い出も吹奏楽がらみである。中学校のクラスで隣席の女子がパート譜を開いて眺めていたことがある。へぇ、と思いその作曲者名を見て釘付けになってしまった。

D.SHOSTAKOVICH

中一ではあるが、少なくともクラシック音楽の知識は周りの誰よりもあるつもりになっていた私にとって、衝撃の名前だった。

小学校の音楽室の年表に載っている現代ソ連の作曲家はプロコフィエフ、カバレフスキー、ショスタコーヴィチ。プロコフィエフは「ピーターと狼」、カバレフスキーは「道化師」を知っていたが、ショスタコーヴィチは1曲も知らなかった。

「先を越された・・・」

その悔しい思いが、吹奏楽部入部のきっかけの一つとなったのである。

マクドナルドのハンバーガーみたいな名前のドナルド・ハンスバーガーという人の編曲がすでにあちこちに出回っていて、これを演奏すれば大抵金賞、みたいな時代だった気がする。

そのあたりの吹奏楽曲とは一線を画した、さすがは大作曲家の作品、という私の評価は今でも変わらない。

ただしこの数年後、テレビで偶然、オーケストラの原曲が流れた時、戦慄が走った。

吹奏楽より断然良い!

基本的にオーケストラはテンポが速い。吹奏楽は演奏時間7分くらいの設定だが、オーケストラは5〜6分である。もう、何てカッコイイのか・・・。

それからLPやらCDやら、目につくと買ってしまい、聞かずに眺めて過ごしている。聴くと興奮して、他のことが手につかなくなるからだ。

にも関わらず、実演で聴く機会の少ないこと!

なぜか。

一つは、割に合わない。

5分の曲なのに、最後はバンダ(金管楽器の合奏隊)が必要だ。経費がかかるのである。別に省略してもいいと私は思うが、クラシック系の皆さんは得てしてそういうことを嫌う傾向がある。

では、続く曲にもバンダに出ていただいて、ショスタコーヴィチの交響曲第7番とかレスピーギの「ローマの松」をやるというアイディアもある。が、賑やかを通り越して「うるさい」プログラムになる。クラシック系の皆さんは得てしてこういうことも嫌う傾向にある。

そして、何よりも、この曲に価値を見出していないと思われる。ショスタコーヴィチは砂を舐めるような味のする音楽こそ価値があり、カルピスやオレンジジュースのような気軽に楽しめるものは本物では無いと思われているフシも感じる。

吹奏楽の皆さんは、あの7分に半年かけて練習するかもしれないが、プロオーケストラだと1時間かけるかどうか、くらいのものだ。確かにそれほどの価値はないかもしれない。

ショスタコーヴィチも「あ、作るの忘れてた」と、凡人からすれば恐ろしいほどの短時間で書いた曲。何かに書いてあったのだが、正確には覚えていない。確か本番1週間前をきっていて数時間だったか、1日だったかで作ったはずだ。

確かに、外見上の新味はない。 形式はバロックのフランス風序曲の形式がベース。チャイコフスキーの交響曲第5番終楽章を凝縮したようなソナタ形式と言っても良い。

第1主題は「《森の歌》でも使ったかもしれないけど、ま、いいか」的な音階の変形。第2主題は、最もポピュラーな「ソドレミ主題」。

そして、全体がショスタコーヴィチの典型リズム「タッタカタッタカ」で覆われている。

これなら書ける、とばかりに書いた作品である。

シニカルな「変な和音」も出てこない。

だから良いのだ、と言いたい。言わばモーツァルトのオペラの序曲みたいな位置付けだ。

それに、ここまで祝祭的な雰囲気を持つ曲は他に見当たらない。これも凄いことだと思う。

井財野としては見習いたい点ばかりである。まずは1日で序曲を仕上げてしまうことを目標に……。