井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ショスタコーヴィチとカルメン

2022-02-09 18:44:50 | オーケストラ
ショスタコーヴィチの交響曲第5番の第4楽章の主要動機が、カルメンのハバネラから引用されている話は、10年くらい前に書いた。

それがNHKの番組になり、紹介されたのだが、その番組の解釈は、いまだに100%正しいとは思っていない。

それから月日が過ぎ、この期に及んで、また《カルメン》の《ハバネラ》がショスタコーヴィチの交響曲第5番に引用されている話を教えられた。今度は第1楽章である。

3回ほど出てくる旋律である。



これがカルメンの歌う旋律の引用になっている。《ハバネラ》がニ長調になり“ラームーール、ラームーール”と歌うところだ。



これは言い逃れができない「引用」だ。

4楽章の引用は、世界一多いモチーフと言われている「ソドレミ」音型(または「ミラシド」)で、使用例は《夢のあとに》《チゴイネルワイゼン》《五木の子守唄》と枚挙にいとまがないから「これがカルメンと言われてもねぇ」という気もしていた。

それにひきかえ、こちらは逃げも隠れもできない、そっくりさんである。

そして、その理由というのが、ショスタコーヴィチが当時好きになった女性を「カルメン」という名の男にとられたからだという。

ショスタコーヴィチの恋愛というのは凄まじい、とものの本には書いてある。



しかし、こんな話は初耳だ。この本はその名も「驚くべきショスタコーヴィチ」というのだが、恋愛対象の新しいパートナーまでは書いていなかった(と思う。読みとばしているかもしれないが)。

どこからその情報を入手しているのかわからないが、インターネット上では、それこそ10年くらい前から知られていたらしい。

ショスタコーヴィチの作品は、つくづくミステリー、判じ物の世界で、どの作品にも秘密が隠されている、のかもしれない。

それならば、ほかの箇所にも何か隠されていないかと、スコアを熟読するのだが、とりあえず何も出てこない。

ショスタコーヴィチの中からハバネラを探しあてた方には、本当に敬服する。
できれば、全作品の謎を解明した本でも出してほしい。

今は《白鳥の湖》より《眠り》が人気か?

2020-07-11 23:58:20 | オーケストラ
国民楽派を聴いてもらう講義で、選んだ作曲家は5人。
ドヴォルザーク
チャイコフスキー
リムスキーコルサコフ
ボロディン
ムソルグスキー

50名くらいの大学生に、好きな作曲者を選んでもらい、特にどこに、どのような曲にひかれたかを書いて提出してもらった。

やはりチャイコフスキーが多いのだが、この5人だと選ばれない人はいなかった。全員にファンがつく、幸せな状況だった。

それで、チャイコフスキーも、以下の曲を聴くように指定した。
交響曲第4、5、6番
ピアノ協奏曲
ヴァイオリン協奏曲
白鳥の湖
くるみ割り人形
眠れる森の美女

一番人気は《くるみ割り人形》。
やはり名曲中の名曲ということだ。

で、次が《眠れる森の美女》なのである。《白鳥の湖》を選んだ人は一人もいなかった。
半世紀前なら、確実に白鳥湖が人気だったのではないだろうか。
以前にも書いたかもしれないが、《眠り》は「マイム」を理解しないと意味不明になりやすい。バレエ3作の中で、ストーリーも一番複雑、それを反映して音楽も複雑である。

正反対に白鳥湖は単純明快なストーリーに、単純明快な音楽。わかりやすいこと、この上ない。

それが原因かどうかはわからないが、眠りを複数の学生が挙げていたので、少々驚いた。

私としては嬉しい結果だが、《白鳥の湖》も名曲ですよー、と言ってまわらないといけない時代が来たのか、ちょっと胸中は複雑である。

コープランド:静かな街

2020-04-18 23:10:56 | オーケストラ
トランペットとコーラングレがソリストとしてフューチャーされる管弦楽曲、元々は映画音楽である。

1980年代後半、まだコープランド存命中、演奏したことがある。
正直言って、何が面白いのか、さっぱりわからなかった。

それが変わったのは、それから何十年も経った時である。何かのテレビ番組で、朝の人通りの少ないニューヨークの映像のBGMで使われていた。
これが見事にぴったり!コンクリートの建物が並ぶ街並みの無機質ながらも透明感があり、それなりの美しさが表出している映像なのだが、それを音楽が共に演出を強めていたのだ。

トランペットもコーラングレも弦楽器も別々に扱われることが多く、それが都会の寂寥感のようなものを巧みに表現している。急にこの曲が好きになったのであった。

さて、現在緊急事態宣言が出された日本で、人通りが激減した街並みを見ると、この曲をふと思い出した。

街並みが別の顔を見せて、それなりの美しさが感じられたし、コープランドの音楽がぴったりの光景ではあった。

コープランドの偉大さに触れた思いがした。

この風景、個人的に嫌いなものではない。

だけど、人通りの復活は切に願うところである。雑踏はアジアの原風景だ。失われてはならない。

外山雄三:ラプソディー

2020-03-22 22:17:05 | オーケストラ
ショスタコーヴィチの交響曲第9番は、NHK交響楽団の演奏で知った。指揮は岩城宏之。
高校生の私は、生意気にも「岩城さんでも良い演奏をするんだぁ」と思ったものである。
で、その後、別の演奏を聴くともっと良くて「やっぱり岩城さんは……」と思った。

なんてことを思っているのが態度に出るのだろう、その後、岩城さんご本人からちょくちょく意地悪された……。

その岩城さんが40代だった頃の持論に「N響が演奏する外山雄三の《ラプソディー》は世界一」というのがある。

YouTubeなどの無い時代、なかなか聴く機会が訪れなかったが、ある日FMの日本民謡番組で放送されることを知り、待ってましたとばかりにエアチェック。
なるほど面白い、と思ったものだ。演奏は岩城=N響のレコードである。

そのレコードは、その後高校の音楽室にもあることがわかって(なーんだ)、母校で行った教育実習でも使わせてもらった。

この曲のすごいところは、日本民謡のクオドリベットとでも言うのか、同時に二つの民謡を演奏させてしまうことだ。
(なので、教育実習でも「あんたがたどこさ」と《ソーラン節》や《炭坑節》を同時に歌わせたりもした。)

おまけに《炭坑節》の背後ではホルンが《お江戸日本橋》を奏で、民謡が三重に重なっている!

また、ラテンパーカッションが一般的な打楽器と一緒に違和感なく使われているのも素晴らしい。

そして、遠慮なく使われる長三和音も新鮮に響く。

その後、演奏する機会にも恵まれる。

打楽器の有賀誠門先生の指揮だと、
「ここは何回繰り返しても良い」
「ここは岡田君と僕の駆け引きが面白かったところ」
など、初演に携わった人ならではのコメントが興味深かった。

演奏するには、音楽之友社のレンタル譜を使うのが一般的。
ところが、N響ではオリジナルの譜面を使っているようで、カットの仕方が違ったりする(大抵《串本節》が無い)。

実はオリジナルはもっと長かったのだが、長すぎるとの判断で、作曲者自身がばっさりカットしてしまったそうだ。

こうなると、そのオリジナルを聞いてみたくなる。せめてスコアを見てみたい。

と、一ファンでもこれだけのことが書けるのだが、作曲者は現存の作曲家だ。偶然にも、ラプソディーを聞いたその日の夜、別番組で外山雄三先生が司会をされているのを聞いたくらい、バリバリの現役である。
こんなことを、どこかの若造が言っていて良いのだろうか。

カットされる前が知りたければ、直接連絡をとれば良いではないか、と思わないではない。

でもその勇気が、無い。

何せ、恐い指揮者だったのだ。80代になってまで恐いことはないかもしれないけど、できれば誰かがいろいろ訊いてくれれば良いのに、と思ってしまう。

誰か、やってくれませんか?

ショスタコーヴィチ:交響曲第9番「第9ですが、何か」

2020-03-14 23:00:09 | オーケストラ
かなり好きな曲だからといって、演奏の機会がめぐってくる訳ではない。この曲もそのうちの一つ。

ショスタコーヴィチの戦争三部作という言い方がある。第7番から第9番を指す。
第7番は、ナチスドイツとのレニングラード攻防戦を、もろに描いたに近い作品。
そしてこの第9番は、戦争が終わって「さあ、何かおめでたいものを一つ書いてくれ」と言われて書いた曲。第9だから、当然ベートーベンのイメージをソ連政府も持っていたが、発表された曲は30分にも満たない軽妙洒脱な交響曲。
皆さん、肩すかしを食らった。

……くらいまでは、どの解説にも書いてある。

しかし、もっと多様な隠喩、引用、暗号等に満ちみちている曲のはずだ。これが、なかなか文章として表れてこない。
誰かがゲリラ的にどこかで書いて、でも論文扱いされないので、いつの間にか消えてしまい、みたいなことを繰り返すのが、ショスタコーヴィチの場合実に多い。

この曲を知って、かれこれ40年経つが、たった今、気づいたこともある。きっとどなたかも気づいていらっしゃるのだろうが、なかなか一般的な場で紹介されないから、私が今頃気づいてびっくりする、という状況になっている。

今頃気づいたのか、と言われるの覚悟で、私なりの見解を書いてみる。

第1楽章の第2主題の始まりのトロンボーン、これは共産党の会議でいつも同じことしか言わない委員を揶揄している、という説明はどこかで聞いていた。
なるほど、意見がとても的をえている時、場違いな時、本人も多少察して遠慮がちに言う時などが音楽化されていて、なかなか愉快な瞬間だ。

それから、第5楽章の伴奏音型はイエッセルの《鉛の兵隊の観兵式》のトリオの伴奏音型と同じだ、ということは高校生でも気づいた。
しかし、これが何を意味しているのかは、いまだにはっきりとはわからない。

40代の時、この曲を初めて指揮させてもらった。その時の勉強で、第4楽章のファゴットの不思議な旋律は、第1楽章から第3楽章を回想している、ということがやっとわかった。
ということは、ベートーベンの第9でやっていることの踏襲になる。

不惑の40では、ここまでだった。

さて、知命の50で、初めてこの曲の弦楽器トレーニングを頼まれた。
アマチュアオーケストラだが、喜び勇んで、久しぶりにスコアの勉強。

すると、何と!冒頭からベートーベンの第9が出てきているではないか。

冒頭の下行する分散和音は、第9第1楽章の下行する分散和音。続く順次進行(ファソラソファミレ)は例の《歓喜の歌》(ファーソララソファミレー)の変形だ。

大体、この交響曲の主題は、分散和音と音階でできている。これは古典派の特徴みたいなもので、ショスタコーヴィチの交響曲の中でもこれは異例である。他の交響曲の主題は、おおよそギクシャクした形をとっている。
だから、過去の名作から引用が多いに違いないのだ。

どうして、こんなに大事なことを評論家も音楽家も口に出さないのか。黛敏郎先生もおっしゃらなかった。お陰で、私はこれがわかるのに40年も経ってしまって、爺さんになってしまったよ。

まだ、あるのでは、と練習に向かう電車でスコアを見直すと、

あったよ。

第2楽章の第2主題は半音階でずり上がっていく。これはブラームスの交響曲第1番の冒頭と同じだ。
これに気づいたのは、木管の動きがブラームス的な6度3度の連なりだったからだ。

ブラームスの交響曲第1番は、批評家ハンスリックが「ベートーベンの第10交響曲」と持ち上げた作品だ。
ショスタコーヴィチが「皆さん、私にもそれをご期待ですか?」と言っているように思われてならない。

それに限らず、全作品を通して「これも第9ですが、何か(ご不満ありますか?)」というショスタコーヴィチの声が流れている、というのが、現在の私の見解である。

そして第3楽章だけ、何とつながっているか全くわからない。ブラームスの交響曲第4番の冒頭も考えたが、必然性がない。
特徴ある第2主題の伴奏音型等、確実に何かありそうなのだが。

まあ60になったらわかるかも、と思いながら、練習会場に向かったら、

人が10人くらいしかいない。

あれ?もしかして中止?

そこにいらっしゃったのは個人練習をしに集まった方々で、中止のメールは一昨日に届いていたようだ。

ショスタコーヴィチに夢中で、メールチェックを私が忘れていた、ということのようだ。あらら、オーラララ。