井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

グレの歌

2013-04-23 23:38:21 | オーケストラ

去る21日、NHKで東京フィルハーモニーの演奏でシェーンベルク作曲「グレの歌」が放送された。

この曲だけは、いつ誰が演奏しても「事件」だと思う。楽譜に指定された編成では史上最大規模、それだけにお金がかかって、滅多なことでは演奏できないからだ。

五管だか六管だかよくわからない膨大な管楽器に第1ヴァイオリンだけで20人必要な山のような弦楽器群、6人の独唱者、3組の男声合唱、混声八部合唱、指定の人数ではサントリーホールだと乗りきれない代物。

筆者が演奏したのは20何年か前、東京交響楽団の創立40周年記念の定期演奏会にエキストラ奏者として参加した。

まずパート譜が違う。冒頭が第1ヴァイオリンも第2ヴァイオリンも実に細かく分かれていて、前方に座る人用のと後方用と二種類に分かれていた。それで、例えば前から7番目に座っていても、6番目や8番目の人とは違う音符を弾き、隣の人とも違ったりする。この異様なきめ細かさに、異常に興奮してしまった覚えがある。

この細やかな部分が、また天上の美しさを醸し出しているところにしびれた。放送においては指揮者の尾高氏もおっしゃっていたが、この大編成でなければ出せないピアニッシモが聞こえてくるのだ。

しかも使われている和音が堂々たる「ドミソ!」(変ホ長調の長三和音、正確には「ラ」が加わった付加六の和音)。使われている和音は「ドミソ」と「ファラド」が交替しているだけなのに、この美しさは何? もうイントロから筆者はノックダウンなのである。

このように、様々な変哲大有りで始まって、ドイツロマン派集大成的な音楽が展開される。そして、これを聞けば、シェーンベルク、実は途轍もないメロディーメーカーであることがはっきりわかる。(ブラームスさん、残念でした。)

そして豪華絢爛なオーケストレーション、これがシュトラウスのようなオルガン的な音もあれば、フランス人好みの色彩的な音もあって、実に多彩。(R.シュトラウスさん、旋律が作れれば互角までいけたかもしれなかったですね、でも作れなかったあなたは負けです。)

長大な構成はマーラーに最も近いだろう。そしてマーラー以上に華やぎがある。

シェーンベルクからすると「もう、これ以上は作れない」という次第で無調、十二音の世界へ走ったのではないか、と当時思ったし、今も思わないではない。

さらに、この曲の演奏が技術的に大変難しい。東響が演奏したその昔は、国内で演奏されたのが、まだ2回目か3回目という時代、定期演奏会のリハーサルとしては異例に長い五日間を費やして練習したのだ。にも関わらず、本番の時も完全には弾けなかった。練習で弾けてたのに本番で弾けなくなった曲、あるいは練習では弾けなかったけど本番では弾けた曲、そういうものはいくつかあるが、練習でも本番でも弾けなかったのは、今までの人生のうちでこの曲だけである。そういう思い出もある。(他の思い出として、現在皇太子の浩宮様が聴きにいらしたこと、それから現在家内が合唱団員として乗っていたこと、というのもある。)

その後、東京交響楽団は「グレの歌」を数回演奏したそうだし、その間にオーケストラの技術も上がった。放送の東京フィルハーモニーも、切れ味の良い素晴らしい演奏だった。

また、放送の解説で、ようやくこの曲のストーリーを知ることができた。実は、テキストの対訳を読んでも、さっぱりわからない、演奏会のプログラム解説を読んでもわからない、その点においては難解な曲だったのだ。

でも、例えば第一部の最後にある「山鳩の歌」など、意味がちっともわからなくても常に感動を呼ぶ。これもスゴイことだと思う。

そのようにスゴイ曲が、大編成という理由だけで演奏されないのは惜しい、小さな編成に作り変えよう、と井財野は試みたことがあったが、それは全く不可能だった。この大編成、上述のピアニッシモのように、かなりの必然性がある。

とにかくこのまま味わうしかない。でも一週間くらいは余韻にひたれそう・・・。

そんな曲を作れたシェーンベルクはすばらしい。十二音なんてくそくらえである。「グレの歌」を聴かずしてシェーンベルクを語るなかれ、だ。未聴の方、是非聴いていただきたい。


カトリック信者が演奏するバッハ

2013-04-18 00:23:22 | アート・文化

歌舞伎に「見巧者(みごうしゃ)」と呼ばれる観客がいる。目の肥えたお客さんで、その人達によって役者達が育てられるという、ありがたい存在なのだが、それをクラシック音楽の世界にあてはめるならば、さしずめ「聴き巧者」ということになるだろうか。

最近では、地方都市でも少しずつ、その「聴き巧者」が増えてきた(と思いたい)。

その方達の会話は、時として大変興味深いものがある。

「そう言えば、この間のデームス、どうだった?」

先日、ピアニストのイェルク・デームスが福岡に来て、その際開かれたレクチャー・コンサートの話題である。

「それが・・・」

私個人としては、ウィーン三羽烏と言われたデームスには、シューベルトとかモーツァルトとか、ウィーンゆかりの作曲家の作品についてのレクチャーが本筋だろうと思うのだが、その日のレクチャーは「バッハ」についてだった。最初から疑念が生じる会だった訳だ。

「バッハについては、与えられた時間も短いし、コンパクトに要領よくまとめたお話で良かったの。ただ、・・・」

とても気になったことが一つ。バッハの平均律の演奏だったのだが、ずっとペダルを踏みっぱなしだったとのこと。

「1番のドミソドミソドミ、これは踏みっぱなしでもOK。でも2番のドミレミドミレミで踏みっぱなし!!これは無いでしょ。」

「しかも、レクチャーの中でフィンガー・ペダルを使って云々と言ってるのよ。」

フィンガー・ペダルとは正式な用語ではないが、指を鍵盤から離さないで音を残す方法を指す。ペダルで音を伸ばすのではなくて指で伸ばすから「フィンガー・ペダル」なのだが、足のペダルを使ったら意味がなくなる。

という次第で、期待した割には意味不明の演奏まで混じってしまい、もやもやの残るレクチャー・コンサート、とこの「聴き巧者」は評価した。

「とても良かった、って別の人からは聞いたけどねぇ。」

と、別の聴き巧者は言った。

「バッハと言えば、この間聴いた○○さん、バッハがあまり良くなかったんですよー。」

○○さんはVPオーケストラ(Wiener Philharmoniker)のコンサートマスターである。そのちょっとした違和感を知人にその場でもらしたのだが、その知人はVPO団員の奥さんで、ご主人が隣に座っていた。御主人はベース奏者なのだが、日本語を理解するようで、一言、

「彼はカトリックだからね。」

と言ったのだそうだ。

「あの、演奏にカトリックとかプロテスタントとかあるんですか?」

とその流れで、私に質問が来てしまった。いやはや、考えたこともなかったな。

ただ、バッハを教会で演奏する時、一応プロテスタントの教会かどうか考える。厳密なところでは断られる、と聞いているからだ。逆にプロテスタントの教会でモーツァルトを演奏できるかどうかも気にはしている。(実際に問題にされたことは一度もない。)

ちなみにデームスを招へいした団体はプロテスタント系だったから、ひょっとしたらその関係でモーツァルトではなく「バッハ」が浮上したのかもしれないが。

でも、カトリックの教会とプロテスタントの教会とを思い浮かべると、答えのようなものは浮かんできた。

教会はおしなべて残響が多いが、さらにカトリック系の教会はプロテスタントの教会よりも残響時間が長いような気がする。

その事に慣れているから、ウィーンのカトリック信者はバッハを弾く時も、残響時間が長いホールのイメージで演奏する、という仮説が考えられる。ペダルの件はそれで説明がつくかもしれない。それを聴き巧者さん達に話すと、

「なるほど、今の説明ですっきりしました。」

うーむ、ヴァイオリンに関しては、あまり説明になっていないんだけれど、残響を自分で弾くべく、ねばねば弾いたのだろうか? これは聴いていない人間には見当もつかないことであった。

第一、カトリックとプロテスタントの違いなんて、表面的なことしかわからないのが本当のところだ。あまりこちらがいろいろ言えた筋合いではない、と八幡宮に縁のある日本人の井財野は思ったのであった。




尺貫法復活か?

2013-04-09 20:33:17 | 日記・エッセイ・コラム

「もし、尺が足りなかったらもう1曲演奏しますから」

「これとこれは尺が同じだから・・・」

と、最近、やたらと「尺」という言葉を使う学生が増えてきた。

おっと、これは尺貫法復活か、と思いきや・・・

「ピアノの位置、1尺、奥に下げて」

などとは使わない。もっぱら時間的な長さだけのようだ。

二、三十年前、舞台関係においては尺貫法が当たり前に使われていて、それを使えないやつはこの世界には入れてやらないぞ、という雰囲気だった。曰く、

「リノリウム、もう一間分足して・・・」

「ひな段、もう5寸下げて下さい」

尺貫法の方が、人間サイズにマッチしやすい。歩行の一歩は約1尺、両手広げて約1間、ヤード・ポンド法への換算もスムーズ。

家屋は今でも実質的に尺貫法が基準になっているし、「平方メートルあたり」よりは「坪あたり」の方が耳馴染みだ。なので、舞台関係がこの延長線上の考え方になるのは必然的なのだが、最近は舞台関係者もメートル法で表現してくれるようになった。ただ何となく味気ない。

一方、学生たちの「尺」の使い方は違和感大有り。いったいどこでこんな使い方を覚えたのか?

と、注意深く見渡してみて、ある時わかった。

テレビだ。

テレビに出てくる芸人さん達が、最近頻繁に使っているようだ。こういう業界用語は表では使わないものだったのだけれど、粋がって使っているとしたらちょっと「シャク」にさわる。

しかし、日本古来の尺貫法を使うことが気障に見えるとは、妙な世の中になったものだなぁ。

(4月11日は「メートル法公布記念日」だそうだ。)





オーケストラは何語?

2013-04-07 00:14:46 | オーケストラ

オーケストラの授業の年度当初には毎回、オーケストラに関しての説明をする。毎年内容はほぼ一緒。一部の専門的な立場の学生は4回も聞くハメになる。

それだけ聞いていれば「耳にタコができる」と思いきや、そうでもなかったりするから、こちらが救われている(のかな?)

そもそも「オーケストラorchestraは何語?」と、耳にタコができていそうな学生に問えば・・・

今どきの学生

当てられた学生は「スマホ」を出して3秒後には「ギリシャ語」と答えた。耳にタコはできていなかったようだ。

こうなると「知識」とは何ぞや、と思わざるを得ない。

しかし、ここでひるんではサンデル教授にはなれない。たたみかけて問うた。

「で、その意味は?」

学生、再び調べて「管弦楽団、ですか?」

おととい来やがれ、とは言わなかったが、もちろんそんなことを言わせたかった訳ではない。

答は「穴」。ウィキもそこまでは書いていなかったようだ。

劇の伴奏音楽隊、当初は舞台奥で今で言う歌謡曲のバックバンドのような位置で演奏していたらしいが、それをJ.B.リュリが舞台と客席の間の「穴」に移した。そこからオーケストラの発展が始まったことになっている。

それにしても、「スマホは便利だ」で済ませては、心のどこかが曇ったままである。だからと言って「この和音の種類は?」などという問いに対応できる日は永遠に来ないだろう。なので心配する必要なし、かもしれない。

見方を変えれば、スマホで調べれば済む程度の知識ではないものを、しっかり学ぶ姿勢が問われる時代になったという風に考えれば良いのであろう。(やれやれ、やっとすっきりした・・・。)