井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ヴァイオリンパートの特殊事情

2013-06-22 18:09:04 | オーケストラ

オーケストラはヴァイオリンを中心に発展してきた。人数が一番多いのもヴァイオリン。つまりヴァイオリンはオーケストラの中で最大多数、マジョリティなので、「ヴァイオリンパートだけが他のパートと違う」という現実になかなか気がつかない。私も30年以上気付かなかったことがある。

気づいたからとても得をする訳ではないのだけれど、気づかないために人間関係を悪化させていることもある。そのような話を時々耳にするし、現場に遭遇することもある。

その事情をまとめてみると、ヴァイオリンパートがいかに特殊かがわかるだろう。

まず、ヴァイオリンパートはお互いに知らない人同士の状態が当たり前、ノーマルである。

これは管・打楽器ではあり得ない。たとえお手伝い(エキストラ)であっても、最初の練習で一瞬にして知り合いになる。

同じ弦楽器でも、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの各パートは、一瞬ではないものの最初の練習が終った頃には、あるいは2回目の練習の時には知り合いになっている。

こういうことはヴァイオリンパートでは起きない。

では、ヴァイオリンパート内の人間は仲が悪いか?

これは仲が悪い場合もあるが、ヴァイオリン弾きに言わせれば「ごく普通に」好きな人も嫌いな人もいる状態、と言うだろう。

オーケストラで「仲が悪い」というのは、一部のフルートやホルンに見られる現象を指すのであって、ヴァイオリンは、それとは違うと思っている。なぜならば、練習の合間に「一緒にご飯を食べよう」、と誘う相手は、まずヴァイオリンの人間を選ぶのが通例だからだ。これは仲が良い証拠と、一般的には言うはずだ。

この時、あえて知らないヴァイオリンの人間(新人、エキストラ等)に声をかけることも普通はしない。

一方、他のパートは、ここを貴重な接近のタイミングと捉えることがしばしばある。つまり、声をかけることはままある。

十年ほど前だが、あるアマチュア・オーケストラにおいて、ヴァイオリン・パート全員で食事をすることを試みた。

声をかけるだけで大変(やってみるとかなり恥ずかしい)、一緒に食べられる場所を探すのも大変、食べ始めてからもみんなが打ち解けるまでが大変(はたして打ち解けるとこまでいったかどうかはわからない)。

それでも、パートの年少組からは感謝された。お陰で、みんなの中に入っていけたと。

一方、年長組(と言っても私より若いのだが)からは、ついに「あの・・・あれ、まだやりますか?」との声が出た。

推察するに、「別に仲が良かろうが悪かろうが、自分が満足して演奏できれば良いのであって、なぜ食事まで一緒にして仲良くならなきゃならないんだ」ということだろうと思う。

という次第で、この試みはあえなく消えた。

ヴァイオリン・パートは、このように、お互いに無関心な人が結構いるものだ。人間的に無関心なのはさほど問題ではない。この無関心さが、無責任にもつながっていき、オーケストラ全体に対しても無関心・無責任なのがしばしば問題になる。

プロ・アマを問わず、オーケストラをこの方向にもっていくべきだ、というような話をヴァイオリンからすることは極めて少ない。

それは、ヴァイオリン奏者において責任が重いのは前に座っている人間だけで、それ以外の人にはもともとあまり責任が与えられていないことにまず起因する。

そして、「その代わり?」洪水のような音符を処理することが求められる。これが大変であることが、あまりに「当たり前」と全員に思われているので、特に取りざたされないのが普通だ。

しかし、実際本当に大変なのだ。これを何とかすることを考えてやっていれば、オーケストラ全体をどうのこうのなんて、とてもじゃないが考えている暇はない!

という次第で、ヴァイオリン・パートの人間が無関心・無責任なのはオーケストラ音楽の書かれ方、つまり音符が多い事が原因であって、その人間に起因する訳ではない。ということをヴァイオリン奏者は自覚されたい。音符が多いのも特殊事情である。

もし、コントラバスやホルンが16分音符で駆けずりまわり、ヴァイオリンが1小節に1個くらいの音符を優雅に弾くような曲があったら、ヴァイオリン奏者は「そこのピッチが」「あそこのリズムが」と皆で騒ぎたて、全体の運営面にまでとても雄弁になるに違いない。何せマジョリティなのだから。(しかし、そんな曲があったら奇怪だろうな。)

ついでに、ブラームスの交響曲のみ、ヴィオラ・パートはヴァイオリン・パートより音が多い。珍しくパート譜のページ数が1ページだけ多いのだ。これを練習している時、ヴィオラ・パートはいつもよりおとなしいはずだ。

そして、特にアマチュア・オーケストラにおいてヴァイオリン・パートが無責任などと言われそうになった時は「ごめん。目の前の音符が処理できてから考えるね。」と言わなくてはならない。

そして、次々に難曲を押しつけられそうになった時には「前の演奏会の音符の処理がまだ終わっていないけれど、一緒に責任とってくれる(弾けるテンポにする、弾けなくてもOK等)ならばいいよ」とでも言っておくべきだ。毎回それを聞かされる他のパートは、そのうちヴァイオリン・パートがマジョリティであり、そこがうまくいかないと全体がうまくいかないことに気がついてくれるだろうから。



日本は多民族国家

2013-06-10 21:21:56 | ブログ
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三カ国語話せる人は・・・トリリンガル

二カ国語話せる人は・・・バイリンガル

一カ国語しか話せない人は・・・アメリカン

さて、英語を小学生からやらせるべきかどうか、随分昔から議論があった。アジア諸国では議論したかどうかもわからないくらい昔から、小学生にやらせている国も多くある。

そのような国では当然皆さん英語が使えるから、やはり日本もやらせた方が良いのではないかと思う、ということもあろう。

しかし、30年も前の話だが、そのアジア諸国の国民が言っていた。

「日本人が話せないのは、話せなくても用が足りる(先進国)だからですよ。私たちは、話せないと暮らせないので。」

なるほど、そういうものか、ということで英語が使えなくても一先ず安心、したかもしれない。

でも、時代が下って、隣の韓国人が英語をペラペラ話す様子が韓ドラ等を通じて知れ渡ってくると、日本人はまた穏やかではなくなる。やはり小学生からやらせるべきではないか・・・。

今度は文科省も本気になってきた。そうなると私は少々憂鬱になる。そんなにがんばって英語やらないといけないかなぁ、と思うのだ。

かくいう私は、結構英語学習をした方だ。それは好きだったからである。なぜか。万博アワーの鳥飼さんにあこがれたのもあるかもしれないが、昔は英語が夢を運んでくる言語だったからに相違ない。

産業革命以降はイギリスが、第一次世界大戦あたりからはアメリカが世界の覇権国だった。そして21世紀、アメリカ合衆国はどうなる?

普通に考えたらアメリカの時代はそろそろ終わりだ。

それでも「言語」としての英語が魅力的なのであれば、学習する意義はある。しかし、英語という言語はヨーロッパ語の中でも、かなり異端である。

まず語彙の半分がフランス語。難しい論文ほどフランス人が読める、という変な言語だ。

そして「正書法」がない。それこそ議論したのだが決裂したとか。お陰で綴りがでたらめ。ワーチェスター・サウセと書いてウスター・ソースと読ませるとは何事か! こんな下等言語は世界中探しても恐らく無いのでは。

そのオンボロ言語を苦労して学習しなければならない仕組みを作ったアングロサクソンは、一応偉いとしておこう。しかし、その目論見にいつまでも乗っかっているのは、いかにも芸がないように思う。

そんなことよりも、日本政府は海外で日本語の普及を促進することでも考えてくれないかな。

最近の新聞に載っていたのだが、遺伝子からみると、日本人が単一民族というのは大ウソで、大陸よりもバラエティに富んだ人種なのだそうだ。

大きく分けると、アイヌ人、本土人、琉球人になるらしい。柳田国男の「アイヌと琉球が近い云々」のロマンはあえなく消えるにしても、さらに20種類くらいには分けられるという。

一方、沖縄の言葉は、日本語の方言で平安時代あたりから分化して発展してきたというのが定説になっている。

その沖縄から本州まで二十いくつかの民族を束ねた「日本語」は、インターナショナルな存在たり得る、と我が政府は世界に向けて言ってくれんかのう。




学力と椅子並べ

2013-06-03 23:08:52 | 受験・学校
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先週、数人の高校の先生たちと会う機会があった。

どこの学校もレベルの低下は悩みの種であることが、話の随所から忍ばれる。

レベルの低下とは通常学力のことを指すのだが、学力だけではないところが実際には深刻かもしれない。

「吹奏楽のセッティング、つまり譜面台といす並べをですね、隣の(学力レベルの高い)学校ならば10分でやるところをですね、(学力レベルの低い)うちの生徒にやらせると40分もかかったりするんですよ。」

学力は低くても、いす並べなど生活に直結したもろもろは手早くやってほしいものだ。

「それが、大体学力に比例しているんですよねぇ。」

学校の勉強はできなくても、生活面はバッチリ、ということはあまり無いようで・・・。

今、大学では「自ら課題を見つけ、それを解決する能力」をどう育成するか、が取りざたされている。これは、例えて言えば英単語を覚えること、歴史の年号を覚えることより、効率的な椅子並べはどうすべきか、の方に近い。

近い、と思っていたが、高校の現状を見ると、椅子並べと英単語の記憶が遠い訳でもなさそうだ。

学力と椅子並べ、この相関関係がどうなっているのかあまりわからないのだが、やはり勉強はするものだ、という平凡な結論に。