近所の本屋でみつけた「ストリング・カルテットで聴く 松任谷(荒井)由実 作品集」というCDを愛聴している。ことさらユーミンが好きという訳ではないのだが,このカルテットの響きが好きだからである。いや,実に上手い,と言っては失礼か?表現が難しいのはリーダーが尊敬する先輩だからである。
調子にのって,もう一枚買った,「ストリング・カルテットで聴く 桑田佳祐 作品集」。これは……?これも表現が難しい。リーダーが尊敬するヴァイオリニストで,かつて隣で弾かせてもらったことも何度もあるからだ。しかし正直申し上げて,何度もは聴けないCDだった。
そこで考えた。演奏の善し悪しは,誰でも本当は一瞬で感じ取れるのではないだろうか。その仮説を立証するべく,授業時間を割いて以下のことを試してみた。
両者の演奏を初めの2分くらいをまず聴いてもらった。そしてどちらが好きだったか,手を上げてもらった。結果は「ユーミン3:桑田1」。
次に45秒ずつ聴いてもらい,さらに3度目として20秒ずつ聴いてもらった。そして,どちらが好きか?結果は
「ユーミン9:桑田1」。
「桑田」がなぜ好きだったか尋ねてみると「低音の動きがおもしろい」「音が動き回っているのが好きだから」等,主として編曲に対する関心が強いところから来る感想や,「わかりにくいのが好き」という極めて一般的でない好みを持つ者の感想であった。つまり演奏以外の点に耳が向いての結果と言えよう。
「桑田」CDのリーダーは,内容を理解していないで演奏しているようにしか聞こえない。理解していないから合わせるべきポイントがすべったまま,曲が進行している。そうするとアンサンブルとしては成立していないことになるのである。その点,「ユーミン」の演奏者は曲をきちんと理解して演奏しているのが,はっきり伝わるのだ。それが上記の結果に如実に出たと思う。
これは音楽を専門とする人間にとって重要な示唆を含んでいる。即ち,
・演奏の善し悪しは一瞬で誰でもわかる。理解していない演奏は悪い演奏である。
・リストやパガニーニ,あるいはプロコフィエフが弾けるからといって桑田やユーミンが弾けるとは限らない。
今回の実験の被験者は音楽を専攻する教育大学1年生。平均よりは少し音楽のことを知っている,という程度で,一般のコンサート聴衆と比べれば,やはり平均的存在である。一方,「桑田」のリーダーは著名な国際コンクールで最高位をとったキャリアの持ち主で,ヴァイオリン界では誰でも知っている方。そこにもの申すのは,大変おこがましく,失礼でもあるのだが,すみません,あの演奏は良くないです・・・。
別の角度から見ると,パリ管弦楽団にははいれても,ポール・モーリア・グランド・オーケストラにははいれない,というタイプは結構いらっしゃるのである。そういう方は,何としてもパリ管にはいらないと後が悲惨なものになるかもしれない。
一方,これからの方,ヴィエニアフスキーが多少弾けなくても,ユーミンは弾けるようにした方が将来は明るいと思う。そしてユーミンを弾けるようになるためにヴィエニアフスキーを練習していただきたい,と思うものである。
さて,いよいよ今度の24日,ベートーヴェンとショスタコに加えて,(これは追悼ですが)ハネケンまでお聞かせします。
佐世保近辺の方,損はさせません。ぜひお越しを,お待ち申し上げます。
という本が図書館にあったので,ちょいと読んでみて驚いた。著者の名和秀人氏は音楽の専門家ではないにも関わらず,膨大な音楽資料を整理されて,さまざまな事実を抽出されていた。それにも驚くが,個人的には以下のような事実を知って,立ち往生してしまった。
アマチュア・オーケストラの選曲が,常に同じようなものになるので,もっと別の曲をあたってみたら,とは常々言ってまわっていることである。とは言え,一度は演奏したい名曲があるのも事実で,特に学生オーケストラはそれを中心にやった方が良い,とも唱えていた。
某オーケストラの掲示板に書いたことを再び・・・
アマチュア・オーケストラから不滅の人気を誇る大曲(交響曲)は,ベートーヴェンを除いて以下の8曲。
・チャイコフスキー:交響曲第5番,第6番
・ドヴォルジャーク:交響曲第8番,第9番
・ブラームス:交響曲第1番,第2番,第4番
・シベリウス:交響曲第2番
これを順繰りにやっていけば,大きな文句は出ないというもの。
で,標記の本には3000曲のクラシック曲が成立順に書いてある年表が巻末についていた。これを見ると,ある年にまとまって人気曲が作られていることがわかったのである。名曲は決してコンスタントに生まれた訳ではないのだ。
オーケストラ関係でスゴイのは1888年。フランクの交響曲,マーラーの巨人,リムスキー・コルサコフの「シェヘラザード」,チャイコの交響曲第5番が同い年である。こう並べると,マーラー自体が「巨人」に見えてきて,あのリムスキーの傑作が,おとなしく見え,チャイコにいたっては何と地味な存在,にならないだろうか?
で翌1889年にドヴォルジャークが交響曲第8番,これだけでも前年のきらびやかさに比べて田舎臭いけど,同年,リヒャルト・シュトラウスが「ドン・ファン」を出してくるのである。シュトラウス25才の才気煥発ぶりもすごいし,派手ならいいってもんじゃないよ,と48才のドヴォルジャークも健闘している,と言えるだろう。
その後,チャイコは「眠り」「くるみ」と発表して1893年,いよいよ「悲愴」を作って息絶える。で,同年ドヴォルジャークは「新世界」を出すのだなぁ。「悲愴」と「新世界」が同い年なのもさることながら,マーラーやシュトラウスより後発のベテランという認識はなかった。
ヴァイオリニストにとっての驚異は1878年。ブラームスとチャイコフスキー,全くお互いの音楽を認め合わなかった二人,でもなぜか5月7日生まれという誕生日が同じの二人が,同じ年にヴァイオリン協奏曲を出している。2曲ともヴァイオリン協奏曲史上筆頭にくる名曲であるのは論をまたない。それだけではなく,同年サラサーテがツィゴイネルワイゼンを出しているのだ。
実は昨日まで,ツィゴイネルワイゼンを超える名曲を井財野は書きたいと思っていたのだ。今,その気持ちに大きくブレーキがかかってしまった。1878年には天界から大きな力が加わって,その結果誕生した名曲だとすれば・・・,などと考えてしまった。「超える」はやめよう。「代わる」にしようか・・・同じことか?
オーケストラ楽曲にしても,19世紀末2,30年間の曲をとっかえひっかえやってるだけで良いのか,という疑問も少々出てきた。多分,良いのではあろうが,何だかひっかかる。
ここで閃いた!
皆さん,今度6月24日には佐世保でショスタコーヴィチの交響曲第9番をやります。1945年の曲です。聞きに来て下さい。(そうだ,ここに落とせば良いのだ・・・)