井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ベルク : ヴァイオリン協奏曲

2014-01-31 22:32:16 | ヴァイオリン

バーンスタインの著書に「答えのない質問」というものがある。ハーバード大学で開かれた講義の記録なのだが、1978年頃の価格で7000円した、大変高価な本。箱入りで付録のレコードもついている。今や、どうやって聞こうかという代物だが。

そこで、調性から無調にいたる音楽の世界を論じたところがあって、中心はシェーンベルクなのだが、説明ついでにベルクの作品についてもいくつか詳しく紹介されていた。(1978年当時、高校生の私はバーンスタインに夢中で、当然のようにその本にも夢中で、本を大事に持ち帰り、本より何百倍高価なヴァイオリンを電車の網棚に置き忘れていったくらい夢中だった。)

そこにヴァイオリン協奏曲の一部が紹介され、十二音主義と調性を見事に融和させた仕組みが語られていた。それが私とこの曲との出会いである。

大学に入ると、作曲科の同級生が、口を揃えて「ベルクの協奏曲の最初だけだったら自分でも弾けるなぁ」というのを聞かされる羽目になる。

この協奏曲ほどユニークな開始方法はないだろう。開放弦の音を一往復させる(ソレラミミラレソ)だけなのだから。

まぁそのくらい、作曲を勉強しようなどと考える人間は、真っ先に聞く曲である。

一方、ヴァイオリンを志す輩はどうなのか?

実は、実態は全くわからない。大学在学中に、作曲科以外の学生とベルクの話をしたことは多分一度もなかった。

しかし、作曲科のジョークと私が同程度でいてはヴァイオリン科の名折れである。密かに図書館から楽譜を借りて練習してみたことがある。誰も使っていなさそうなきれいな楽譜だった。

それで小一時間かけてやっと数ページ譜読みをしたが、エネルギーがそれ以上続かず挫折。とんでもねぇ曲だ・・・。

学生同士の話題にはならなかったが、先生との会話では出てきたことがある。

以前にも書いたように思うが、どの曲が最も難しい曲かという話題だった。

師曰く「シェーンベルク、とにかく譜読みだけで1年かかったわよ。それに比べればベルクは易しい、易しい。」

一同「ははーっ」てなもんだが、その数ヵ月後「今度、ベルクをやらなきゃならないのよ。さらわなきゃ・・・」といささか慌てた口調でおっしゃっていたので、多少安堵したのが懐かしい記憶。

その後、日本音楽コンクールの課題曲になった年があって、ここで割と一般的になったのかもしれない。

なっていないかもしれない。正直言ってわからないのだが、ヴァイオリン曲の難易度表を作成しようとすると、どこかに入れなくてはいけないから、個人的にだが、始終考えるだけはコンスタントに考えてきた。

それで、この度、門下の大学院生が研究テーマを選ぶ時に、ふとした拍子に私が口走ってしまった。

それを書いたメモが、今度は件の院生が以前についていた先生の目に止まった。

「まぁ、ベルク! きっと井財野先生もお好きに違いないわ」

と言われたらしい。冗談はヨシコさん。数ページの譜読みで挫折する曲を好きな訳がない。

それに件の院生自体も「ベルクってだーれ?」状態だ。これに決まることはないな、と思っていたら、本当にあちこちにベルクってだーれ、と訊いてまわったのか、

「まわりの反応がすごくて、そっちにびっくりしました」

との報告。そりゃそうだろうな、とは思う。が、そうこう話しているうちに、研究対象としては実にいろいろあるはずだし、有名な一般的な曲よりもテーマとして優れているかも、という結論にいたり、結局、件の院生はこれを修士演奏と論文のテーマに決定した。

こうなると、こちらもさらわなくてはならなくなった。

ところが、必然性があると、あるいは経験値も手伝って、意外にもスムーズに譜読みができるのである。

そして、弾けるようになると、やっぱり「曲」だったことが当然ながらわかってくる。いわゆる後期ドイツロマン派の音楽の流れがあり、ヴィーンの香りがただよってくる。十二音主義などなんのその・・・。

これは件の院生、そのピアノ伴奏者も同じで、本番が近づくにつれ、みんなこの曲にどんどん惹かれていった。

そして今日、本番を迎えた。

平日の昼間なので、聴衆がとても多かった訳ではない。が、一箇所を除いて皆さん熱心に聴いてくれた。聴かせる演奏ができたと言ってよいだろう。

その一箇所、2楽章後半のクライマックスが過ぎて、レントラーのメロディまでに緩やかに沈静するのだが、結果的に失速しすぎて退屈な部分ができ、途端に聴衆がざわついたのである。

そこを後で指摘したら「あ、なんかゴソゴソしていましたね」と演奏者。おお、聴衆の反応まで感じながら演奏できるところまで成長したか。

当初「本当にこれ演奏するんですか?」と、極めて消極的だった伴奏ピアニストも「なんだか大好きになっちゃいました。自分のソロ(翌日には自分の卒業演奏)曲より好きかも」というはしゃぎよう。

とにもかくにも、まがりなりにも公開演奏を成し遂げたという意味では、私を超えた訳だ。多分今から一生、私にベルクの協奏曲を弾いてくれというオーダーは無いだろう。私を超える存在が門下から出てきたことは、私にとっても大変嬉しいことである。

この曲が作られて約80年、随分たったけれど、ひょっとしたらポスト・ショスタコーヴィチのポジションを獲得する日がくるかもしれない、そんな夢をみさせてくれた一日だった。





オーケストラの配置は変えられないか?

2014-01-25 23:23:57 | オーケストラ

明日本番を迎える演奏会には、総勢300名弱の合唱団がオーケストラと共に歌う。町の人口が約3万人だから、ほぼ人口の1%の人が歌う勘定になる。

ホールの座席数は600程度、その舞台に40人程度のオーケストラが乗って、さらに合唱という形なので、とても全員が一緒には乗れないから、合唱を半分に分けて百数十名ずつ歌う、という形をとった。

それでもオーケストラは舞台からはみ出しそうな場所で演奏することになる。その時、一番悲しいのは、弦楽器の音が天井の隙間に吸収されて、客席に届かないこと。

多目的ホールに共通した構造なのだが、舞台上に反響板が組まれ、客席と舞台の間に緞帳(幕、カーテン)を収納する隙間、穴のような場所が天井にある。そこの下で演奏すると、ものの見事に響きがそこに吸われてしまい、客席には痩せた音しか届かなくなる。

ただでさえ少ない弦楽器(第1ヴァイオリン7名etc.)なのに、この音が天井に吸われてはたまらない。

そこで考えた。

緞帳の隙間の下に管楽器を配置し、奥の反響板の下に弦楽器を並べたら、ちょうどよく聞こえる、ということはないだろうか。

現在一般的になっている「高音を下手、低音を上手」の配置は指揮者のストコフスキーが考えたと言われている。その昔、ベルリオーズも、楽器の配置は様々なことを試みるべきだと書いている。なのに現状は、ストコフスキー型配置を世界中で墨守している。21世紀は、別の考え方があって良いはずだろう・・・。

という次第で、試しに管楽器を客席側、その奥に弦楽器という配置をして、音を出させてもらった。

結果はと言うと、管楽器の音が非常に明瞭になった。ただ弦楽器が反響板の下だからと言ってよく聞こえるということにはならなかった。

良いような悪いような・・・やはり比較しないと善し悪しは判断できないので、また通常の配置に戻って同じ曲を演奏してもらった。

その結果、管楽器の音がやや不鮮明になった。だからと言って弦楽器がよく聞こえるということはあまりなかった。音量のある奏者は、どこで演奏してもよく通るし、そうでない人はどこで演奏してもあまり聞こえない、という平凡な結論にいたった。

であれば、何も奇をてらうことはない。いつも通りやるまでのことだが、最後に一応訊いてみた。

「せっかくだから、新しい配置でやってみたいと思う人、手を挙げて・・・」

これが皆無!

オーケストラ人生、まだ始まったばかり、全員5年以内の経験しかない学生オーケストラの集団なのに、この保守性は何だ?

もっとも、普段は保守的ではないようで、その日もヒッチハイクで会場にかけつけたという者がいた。時々ヒッチハイクはするのかと訊けば、生まれて始めてだという。それは実に革新的な行為だ。

ストコフスキー自身も、様々な配置を試みた記録が残っている。なのに、なぜかこの1パターンが世界中で愛好されている。

オーケストラを何十年もやってくると、そろそろ別の配置も考えたい、そう思う方、いらっしゃいませんか?