井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

東京藝大で教わる西洋美術の見かた

2022-02-03 09:08:04 | アート・文化
偶然本屋で見かけたのだが、結構気になって、ついに買った。

美術学部の講義を本にしたものらしい。
いわゆる美術史の講義なのだが、人気のある印象派の話などしたところで、学生は知っていることばかりだから退屈してしまう。
それならば、という内容で、しかも専門知識のない人でも親しんでもらえるように書いたのだそうだ。

実は私、美術はかなり苦手。デザインや建築には、ある程度関心があるが、絵画や彫刻はなかなか心が動かない。

そういう人間にはぴったりの気がして、読んでみたのである。

そして「ぴったりだった」

美術史の話なのだが、それ以上に「謎解き」「判じ物」の本だった。

そして、このような考え方が音楽にも反映しているのだなと思うことばかりだった。

さらに「ヴァイオリン」などという質めんどくさい、いや奥深い楽器の背景を垣間見た思いもある。

大学の講義内容だけあって、サラサラ読めるものではない。一回につき1章がやっとだ。

そして、これは視覚芸術そのものの素晴らしさを説いているのではないので、私の視覚感度が高くなった訳ではない。

だが、これから(特にルネッサンス期の)絵画を見る時の見方が全く違ってくるのは間違いないだろう。

シンフォニー音楽劇「蜜蜂と遠雷」を観て

2021-05-05 09:25:14 | アート・文化
映画を観て、なにやら割りきれない気持ちになった事は、以前に書いた。でも、原作は面白いと何人かの方から言われた。が、まだ読んでいない。

そしてまた「シンフォニー音楽劇」という形で現れた。
これほど何度も作り替えられるということは、やはり魅力的な原作なのだろうと言わざるを得ない。

この「シンフォニー音楽劇」とは、どういう形態なのか、やはりとても興味をそそられ、ついに観に行ったのである。生のオーケストラやピアニストを使うようだし。



ト音記号と繰り返し記号にはさまれた五線譜を描いた反響板がステージに作られ、その中にオーケストラが配置されていた。ピットに入る訳ではないのである。

その前には2台のグランドピアノが置かれていた。一つはソリスト用、一つは影ピアノ?とでも言う存在。

まず最初にテーマ音楽とも言うべきオリジナル音楽がピアノとオーケストラによって演奏される。その間、文章も映しだされ、ポエジーな世界に観客を引き込む。

そのうちオーケストラの前に紗幕が降り、そこに背景が映しだされて、俳優達はその前で芝居をする。

第1幕にあたる前半は、あまりオーケストラは登場しない。ちょっとつまらないなぁと思いかけたのだが、結構びっくりの仕掛けが控えていた。
主役達が本当にピアノを弾くのである。恐らく「ピアノが弾ける役者」をキャスティングしたと思われる。
プロコフィエフの協奏曲第3番を、ほんの一部だけれど弾いたのだから、少なくとも私よりピアノが弾ける。これには恐れ入った。

そして「歌う」。恩田陸が作詩した歌詞にのせて、ショパンやベートーベンを歌うのである。

オーケストラも「演じて」いた。管楽器は揺らしながら、低弦楽器は楽器を回しながら、最後にはスタンドプレーまでしての熱演だ。

そして、コンクールの本選のシーンに突入していく。

で、コンクールは本物のピアニストによって、プロコフィエフとバルトークの協奏曲第3番が(第1楽章だけだが)しっかり演奏されたから、とても聞き応えがある。

という次第で、見どころはたくさんある舞台だった。

にもかかわらず、熱演にも関わらず、あまり好きにはなれなかった。なぜなのか。

あり得ないことの連続だから、と言って良いかもしれない。

サティの《Je te veux お前が欲しい》をピアノのコンクールの予選で弾いて通過してしまうとか、一人の参加者のためにオーケストラの配置を変えてしまうなど、表面的にもあり得ないことは多い。

しかし、フィクションの世界、その「あり得ないこと」を楽しみに読んだり観劇したりする訳で、一番の不満はそこではない。

私は、それほどコンクールを受けている人間ではないが、それでも少しは経験がある。周囲にはたくさん経験者がいる。
それで、コンクールを受ける人々が一様に、どのような精神状態になっていくかを知っているつもりだ。

簡単に述べると、神経がぼろぼろにすり減るのである。その状態に自分が追い込むのだ。他人ではない。
何故こんな辛いことをやるのか、と自問自答の日々である。

その答えは人によって違うだろう。

ここなのだ!
この葛藤こそ、客観化できれば、フィクションにできれば、一番感動的だと思う。

コンクールとは、それぞれ違う思いを持ったもの同士が一同に会し、美しい音楽と残酷な結果が同居する、凄絶な場所なのだ。

そこさえ描かれていれば、ほかの「あり得ないこと」が混じっても、それほど気にならないのではないかと思う。

逆に、そこが中途半端にしか描かれていないことが、私にとっては最大の「あり得ないこと」なのである。

恩田陸の文章は、とても好きだし、映画も劇も、それなりの手間隙がかかっているだけに、この中途半端な面白さは残念に思う。

次作、があるかどうかわからないが、このような音楽劇は好きなので、また新しい作品が生まれることを期待したい。

文化芸術活動の継続支援事業補助金

2021-04-23 22:06:22 | アート・文化
ウイルス騒ぎで仕事がなくなった文化・芸術団体等が、文化庁を通して「何とかしてくれ」と訴えたのが1年前。

「何とかします」と当時の安倍首相は言ってくれたのが昨年春。

で、いつの間にか発表されていた「文化芸術活動の継続支援事業補助金」

昨年7月に第1次募集が始まり、私が存在を知ったのが9月。第3次募集開始直前だった。

それからは大急ぎで関係者に声をかけ、ホールや演奏者を確保し、9月下旬の締め切りギリギリに書類を提出。

それからまた急いで何曲か作って、演奏者に楽譜を渡し、10月末の録音録画にこぎつけた。

そこからが大変なのである。

まず「事業計画書」を提出しているのだが、毎日のように、細かい訂正を事務局が求めてくる。

それで交付が決定したのは何と11月中旬。

そこから1か月以内に「事業報告書」を提出せねばならない。
報告書は「証憑書類」と共に出す必要がある。

「証憑書類」という言葉を生まれて初めて知った。領収書の類いのことである。

そして、支払いにクレジットカードでも使おうものなら領収書以外に「クレジット明細書」と、そのお金が引き落とされた「通帳のコピー」が必要になる。

どこまで国民を信用していないのだろうか。

その「超面倒くささ」に辟易していたにもかかわらず、新規募集(いわゆる第4次募集)には、再度応募した。

何故か。

我が国の政府が「演奏したらお金あげます。質は問いません。」などと言ったことは今までなかったからだ。

もし同じ収益を演奏会で賄おうとしたら、4000円のチケットを500枚売らねばならない。
しかも、演奏会の場合、面倒な作業と演奏の準備を同時にこなさなければならない。
客を集めて質を下げる(練習できないので)か、客を集めないで質を上げるか、どちらかの選択を常に強いられてきた。

それに比べると、この面倒な作業は、ほとんどが本番後なので、当然ながら質を下げることにはならない。

なので、どれだけ面倒でもやるのである。

そして新規募集の収録は2月末に行い、その報告書は、ようやく先週(4月中旬)提出した。
そのような訳で、ブログ書いている暇なぞ、全くなかった。

そして、補助金もまだもらえないでいる(道理で最近お金が足りない。)

そうこうするうちに、今年度の募集が始まった。ARTS for the futureという名前がついている。

今度は個人では応募できない。

そんなこともあろうかと、今までいくつかのグループで活動していた。
その内のいくつかに現在働きかけているところだ。

今度はお客様を呼ばなければならない。

だが、数は問わないみたいだし、一応全額補助のように読みとれる。

さあ、頑張ろう。

福岡も観光をもっと視野に入れよう!

2021-03-05 19:48:55 | アート・文化
やっと緊急事態宣言が解除になった(福岡は)。

この1億人規模の大騒ぎは、後生に盛大なる茶番劇として伝えられるだろうが、渦中の人間としてはたまったものではない。

最近暖かくなったから、まだ良いものの、電車もバスも窓を開けて走るのには参った。その寒さで風邪をひくとは考えないのだろうか。

飲食店が20時で閉まるのも参った。

福岡は観光する場所がない。自慢できるのは美味くて安い食べ物だけなのに、これを案内できなかったら、何のおもてなしもできないのである。

飲食店で感染すると言われて、閉店時間が早まっているのだろうが、実際は家庭内感染の方がずっと危なく、飲食店に行っている方が安全、というのが統計の結果である。

昔、共産圏を旅行した時、店の人がまるで働く気がなく、店が閉まる時間も早かった。まさか日本もそうなるとは……。

それはともかく、飲食店が開いていないと仕事を早く終わらせて夕食の時間を確保せねばならない。
それができれば良いけど、できなければ大変侘しい1日の終わりになってしまう。

東京の皆さんは、平気で(?)「ではコンビニで何か買って」とおっしゃるが、遠方からわざわざ来てもらって、コンビニ食では福岡の名折れである。

なので、緊急事態がとりあえず終わり、やれやれなのだが、その間に潰れてしまった店もある。どうしてくれるのだ、と問いたい。

が、そこは問題が根深いので、ここでは触れない。

昼間が仕事で忙しいならば、飲食店に直行でも良いが、翌日少し時間がある人、あるいは昼間から時間がある人のために、ちょっと面白いものを作る訳にいかないだろうか、といつも思う。
隣町の太宰府だと少々遠いので。

福岡市長は福岡城天守閣の再建案を出したことがある。が、やはり肝心の市民がピンとこないようで、一向に実現しない。
福岡城跡とほぼ同じ敷地に「鴻臚館(こうろかん)」跡地があって、こちらの発掘作業が終わらないのも影響しているのだろうか。しかし、この作業20年くらいやっているけど、まだ終わらないのか……。

そこまで大規模でなくて良いから、金子堅太郎の顕彰碑を建てるだけでも良い。
現在の西鉄グランドホテル近くで生まれ、やはりその近くでお亡くなりになった明治の偉人である。

と言いながら、私もその存在を昨年知ったばかりなのだが。
それはともかく、その碑文を見れば、日露戦争、皇室典範等、重要な足跡を遺した人なのだな、と思いを巡らせることができる。

人々は、そのようなストーリーに惹かれるのだ。極論を述べてしまえば、そのようなストーリーを感じさせさえすれば良いと言える。

福岡を早く観光のできる街にしてほしいものだ。

映画「剣の舞」

2020-08-26 15:27:51 | アート・文化
ハチャトゥリアンが亡くなったのは、私が高校生の時。体育館の中から窓越しに見える校舎を見ながら「亡くなったかぁ」と思った。

晩年は時々来日していたのだ。直前に日本フィルかどこかの客演がキャンセルされた話を聞いたばかりだった。

見たかったなぁ、とか言いながら、まだハチャトゥリアンの曲は数曲しか知らなかったのだから、まぁ田舎の高校生の考えることだ。

されど高校生である。中学生の時は、ショスタコーヴィチが亡くなった。こちらに至っては《祝典序曲》1曲しか知らなかったけど、「亡くなったかぁ」とラジカセを見ながら思った。

されど中学生である。小学生の時ストラヴィンスキーが亡くなった。組曲《火の鳥》しか知らなかったけど「死んだかぁ」とレコードを見ながら思った。

なぜいちいち感じるかと言えば、このお三方は音楽室の年表に載っていたからだ。それを見る度に「この人達はまだ生きている」と思ったのだ。そして、それがなぜか嬉しかった。

という訳で、ストラヴィンスキーは昔に死んで、ハチャトゥリアンは最近死んで、とどうしても思ってしまうのだが、よく考えたら、たかだか10年以内の出来事だ。音楽史上は、同時代の人間として扱われるのだろうな。

そしてその同時代を自分も生きるとはこういう感覚を持つということだろう、と勝手に思っている。

さて、映画は正直「つまらなかった!」

寺原伸夫著の伝記を読んだことがある。大分印象が違うのは、ある程度当然としても、この映画の人物描写、あまりに底が浅いと思った。

《ガヤネー》を改作させられて《幸福》になったのは、それほど簡単な話ではなかったと思うし、肝心の《剣の舞》誕生秘話が大して面白くなかった。

これに関しては、ソ連時代ハチャトゥリアンが自分を演じた映画があって、その昔そこだけNHKで流れたが、そちらの方がずっと面白かった。
これと同等以上でなくては、作った意味ないでしょ、と言いたい。

ロシア映画、頑張って!