高杉晋作。
言わずと知れた幕末の長州藩における討幕派の中心人物です。
高杉の墓は山口県に三基(下関市吉田の東行庵、山口県萩市椎原の護国山、山口県下関市上新地の桜山神社)、京都府に一基(東山区清閑寺霊山町の京都護国神社)と計四基あります。
幕末有名人の掃苔を生き甲斐としている私は当然高杉の墓にも強い関心があり、すべての墓をお参りしてきました。
高杉晋作が川路利良のことを「志のある者」と評したという話を聞いたことがあります。
この情報はかなり前から耳に入ってはいたのですが、川路及び警視庁関係の書籍にはほとんど記されていないことから、「どうせ小説かドラマでそんなシーンがあり、それがまことしやかに広まったのだろう。よくあることだ」程度に考えていました。
しかしここ一、二年で川路追っかけ度が急激に上昇してきた私は、この情報の真贋が気になってきました。
そこで高杉晋作研究の第一人者である一坂太郎先生に、この情報の真贋をお訊ねしました。
一坂先生は「高杉の川路評は奇兵隊日記のはじめの方に出てきます」というお返事をくださいました。
さっそく図書館に行き、「定本奇兵隊日記 上」(田中彰監修 田村哲夫校訂 マツノ書店)を調べてみると、7ページ目の文久三年六月八日(1863・7・23)の部分に「薩藩重野厚之丞・川路正之進探索之為白石宅ニ来ル 東行相対頗有益之論有之、両人共有志士ト見定候事」という記述を見つけることができました。
文久三年六月といえば薩英戦争が勃発する前月になります。
そのような時期に、川路は学問の氏である重野と共に何を探索するため下関を訪ねたのでしょうか。
当時の川路はまだ志士として無名の存在でした。
川路が一躍名をあげるのは、翌年七月十九日(1864・8・20)禁門の変で長州藩士・篠原秀太郎を討ち取ってからです。
奇しくも篠原の墓は、高杉の墓もある東行庵と霊山の二カ所にあります。
今回のことで、私は川路の追っかけとしてまだまだ未熟であることを痛感しました。
しかしまた一つ、川路に関するジグソー(パズル)のピースを手に入れたような嬉しさも感じました。
なお一坂先生には以前にも、長州出身の警視官(林三介・寺島秋介・安村治孝など)についての情報をご教授いただいたことがあります。
お忙しい中、ご回答くださった一坂先生には心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
※写真は東行庵にある高杉晋作の墓