「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

"徴用工”外交 韓国のペースでは

2019-05-22 05:39:18 | 2012・1・1

”やれやれ、またか”と思うのは韓国最高裁の徴用工判決をめぐる韓国との外交交渉だ。日本側はこの判決を受けて1960年の日韓条約に基づき二国間で協議するよう申し出た。ところが、韓国は一向に応じてこない。そこで、今度は第三国を交えた仲裁委員会を設置しようと提案した。外交としては正道なのかもしれないが、これで解決するとは思えない。

今の韓国の文在寅政権は言葉は悪いが”ならず者”外交である。その典型が2015年の慰安婦合意だ。両国の外相が”最終的、不可逆的”なものとして、合意したのに、政権が変わったとはいえ、約束を守らず反故にしている。この徴用工問題にしても、すでに半世紀以上も前に両国政府が合意し、わが国は莫大な賠償金を支払っている。

不謹慎だが、外交はトランプのポーカー遊びに譬えることがある。曰く”ポーカーファイス”、曰く”ブラッフを張る”。どちらも相手に勝つため、顔色で誤化したり、虚勢を張ったりすることだ。どうも日本の対韓外交にはそれがみられない。謝罪が先行して、相手のペースにはまっている。

6月には大阪でG-20サミットが開かれ、文在寅大統領も来日するが、安倍総理にとっては良いチャンスである。韓国が仲裁委の設置に同意しなければ、文大統領と個人的にあう必要はない。機会があれば、国際会議の場で、日本の立場を明らかにすべきだ。”ならず者”国家である。先手を取られて何をしでかすかわからない。

 


二つの5月山の手大空襲で壊滅した東京の情報インフラ

2019-05-21 05:55:17 | 2012・1・1

10万人もの犠牲者を出した3月10日の下町大空襲の後、東京への敵機の襲来は日常化して来た。わが家は大空襲の後、強制疎開で五反田(品川区)から今住んでいる柿の木坂(目黒区)へ引っ越した。当時、柿の木坂はまだ田畑もある郊外だったが4月15日と5月24日と二回、亡父の日記の表現を借りれば”脅威”を感じ、実際に落ちてきた焼夷弾の破片を”火たたき”で消火している。

5月24日の空襲は24日といっても午前1時5分空襲警報発令、同4時20分解除だったが、亡父は午前8時、睡眠不足”頭脳朦朧の中”で、東横線がスットプしていたため、渋谷まで歩き、動いていた地下鉄で勤務先の虎ノ門へ出勤している。帰りは渋谷から玉電にのり家の近くの上馬駅から歩いて帰宅している。

東京では25日深夜(午後10時20分―26日午前零時40分)24日にも増す大空襲があり、渋谷、原宿、新宿を中心に3千人もの犠牲者を出しているが、亡父の日記はこれについて記述はなく、26日の欄に”渋谷まで徒歩で行き、駅周辺、東横百貨店まで一面も焼野原に驚き、全都交通網全滅を知り、渋谷から虎ノ門ま出歩く”と記している。

こんな状態が数日間続き27日の日記には”ラジオも新聞もない、真っ暗闇の生活だったが、”今日から五社共同新聞が発行される”という記述あって、やっと情報インフラの一部が回復した。思えば大変な1週間であった。今でも、この二つの空襲を混同している都民もいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


豊洲市場の取扱い量の減少と小池知事の「兵法」

2019-05-20 06:34:18 | 2012・1・1

東京の台所として定着していた築地市場が豊洲へ移転してから半年、最近あまりマスメデイアの話題にならないが、久しぶりにネットで毎日新聞の記事を見た。豊洲市場の昨年10月開場してから半年間の取扱量が19万トンという予想に反して17.7トンと6.9%以下だったという記事だ。原因は全国的な不漁によるものだしているが、果たしてそれだけであろうか。

豊洲市場の移転というと、小池百合子都知事の都政と切り離せない。石原慎太郎元知事から”中年女の厚化粧”と悪口を言われながらも豊洲移転問題を上手に"コマ”として使い、結果として移転の元のサヤにおさめた。産経新聞のコラム「女子の兵法」(首都圏版5月20日付)の中で、都知事は孫子の兵法を使い”まず勝つべからざるを為して、もって敵に勝つべきをしる”と書かれているが、知事の市場地下汚染から始まった一連の”兵法はやはり評価できるかもしれない。i

取扱量は予想に反しているようだが、ネット情報によると、市場への見学客や観光客は”門前市をなす”とまではいかないが、順調のようだ。2780円支払えばイヤホーンつきの見学コースもあり、市場内には飲食店も整備され、中には行列までできているとのこと。東京生まれ東京育ちの僕だが、豊洲など行ったことがない。しかし、「ゆりかごめ」(モノレール)に乗れば、新橋からすぐ、市場は駅前だそうだ。しかし、バリアフリーアどうかわからない。年寄りはテレビの画面で楽しむだけだが。


北朝鮮100年来の大干ばつ 政治と自然災害

2019-05-19 05:24:28 | 2012・1・1

北朝鮮政府のの機関誌「労働新聞」(電子版)によると、北朝鮮では今年1月―5月現在までの降雨量は例年の40%で、6月上旬までさらに雨がないと、1917年(大正6年)以来の大干ばつになる予報をしている。北朝鮮の国内ニュースは、どこまで信じてよいかわからないが、別のメデイアも国民に対して、1982年来の大干ばつによる食糧不足に備えろと警告しており、その度合いは深刻のようだ。国連機関のWFP,FAOも共同で"干ばつなどの自然災害で、外国からの支援がなければ国”民の4割以上が餓えに直面する”と発表している。

こんな情勢にもかかわらず、日本のマスメデイアの関心は薄いし支援への声も聞かない。拉致問題に対する対応から見て当然なことだが、もう一つ、北朝鮮の金正恩政治体制がよく理解できないことも原因している。非核化やミサイル発射などで国際社会に歩み寄りを見せながら、依然、事前の予告なしに飛翔体を飛ばし釈明もない。これでは、国際社会の支援も同情もない。

百年前の大干ばつの年はロシアの10月革命のあった年だ。ロシアではこの冬、大飢饉に見舞われている。自然災害もあったが、革命により外国からの食糧輸入がストップしたこと、農民の革命参加が原因している。つまり、飢饉は政治不信からいている。北朝鮮の食糧不足も金正恩体制によるものではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 


「70歳代」対策が政策の要 雇用 認知症

2019-05-18 05:12:04 | 2012・1・1

このところ「70歳」という大きな活字を新聞の1面で見かけることが多い。曰く。70歳雇用の促進、曰く。70歳認知症の1割削減。一つは少子高齢下、70歳まで働ける環境つくりを企業に呼びかけること。もう一つは高齢者医療費、社会保険費抑制のため、70歳代の認知症患者を10年間で1割減らそうという対策だ。いずれも。団塊世代が75歳、後期高齢者にたっする2015年をにらんでの対策である。

誕生日がくると、90歳、卒寿の年齢を迎える僕だが、先日も学校の同期会の席上で「百歳時代」が話題になった。僕らが若かったときは”今年60の船頭さん”はお年寄りだった.が、今は90歳でもこうして昼間からビールで乾杯している話から始まって、お互いに何歳で現役をリタイヤ―したかの話題になったが、会社の経営者を除けば皆60歳前半である。

僕らの現役時代から20年経過したが、現行の「高齢者雇用安定法」は、いまだに企業の雇用義務年齢は65歳である。安倍総理は9月の誕生日で65歳になるが,頭は黒黒していて”若者”みたいだ。黒柳徹子さんなんかとても80歳半ばとは思えない。高齢化で日本全体が若返ってきているのだ。人それぞれによって違うが、改めて僕の70歳時の日記を読み直して見たら、本の執筆のため、3回の海外旅行を含め南舩北馬の活躍をしていた。

先日、スーパーへ買物に出かけたら、まだ元気そうな70歳代とみられる”若年寄り”が大勢、寂しそうに一人で弁当を食べていた。一方、どこの老人会も70歳代の入会者が減少してきている。団塊塊の世代の後期高齢者入りする2015年は、日本全体にとって転機である。早急な対策が望まれる。


転倒要注意 卒寿(90歳)同期会

2019-05-17 05:11:40 | 2012・1・1

戦後の学制改革で旧制中学5年(昭和23年)と新制高校第一回生(24年)と別々に卒業した仲間の合同同期会を昨日、近所の懐石料理店で催しが、合同といっても集まったのは僅かに6人だけ。今年は高校卒70年、遅そ生まれ(昭和5年)にとっては90歳、卒寿のお祝いの年でもあるが、さすがに歳月の流れを感じる。生存者はもっといるのだが、足腰が弱ったり介護施設に入居したりで参加できないのだ。

昨年までは元気に顔を出していた常連の一人が欠席した。連絡がないでご家族に電話したところ、昨年暮れ、家の中で転倒して入院、退院はしてきたが、遠出は出来なという。参加中者のには3月に腎臓がんの手術をし、現在週に3回、透人工析をしている身障者手帳を持っている仲間もいたが、杖を突いている者は僕を含めて二人だけである。残り4人は世話になっていない。いかに歳をとってからの足腰の大切さがわかる。

カーター米国元大統領(1977年ー81年)が七面鳥狩りに出かけよとして家の中で転倒したと、新聞の外電欄のスミに載っていた。元大統領は95歳という高齢だがお元気である。今年の割当量が来年に持ち越せると喜んでいるとのこと。僕は昨日の会で、このカーターの話を挨拶の中で披露したが、やはり”転ばぬ先の杖”はよい格言である。歳をとってからの転倒は大事に至ることが多い。つい最近も近所の夫人が、玄関先で転倒、顎を強打したのが原因で3日目に逝去去れている。注意には注意をだ。

 

 


MRT駅名にみるジャカルタ400年の歴史  "じゃがたらお春”から111階の超高層ビル

2019-05-16 06:10:09 | 2012・1・1

ジャカルタ目抜きのスマンギ.スディルマン地区(SCBD)111階、高さ638mの超高層ビルが来年誕生する。いつも資料を頂戴している関西在住のインドネシア通のSさんからこの情報を得たが、この半世紀、毎年のようにジャカルタを訪れている僕にはその発展ぶりに目を見張るが、一方、和蘭植民地時代からの古い建物がどんどん撤去されていくのは残念なことだ。

僕が初めてジャカルタを訪れたのは1966年(昭和41年)3月、スカルノ(初代大統領)からスハルトへ政権が移譲された3.11政変の直前だったが、当時ジャカルタ市内には、高層建築は日本からの賠償金引き当てで建設されたホテル.インドネシアだけで、ホテルのロータリー前には資金難から中止されたヌサンタル.ビルが無残な廃墟のような姿をさらしていた。しかし、一方では和蘭植民地時代、オランダ人の交流ホールであったハルモ二―や、幕末榎本武揚ら「和蘭行御軍艦方」一行が、船の遭難後オランダに行くまで滞在していたホテルも残存していた。

この4月からジャカルタ市内でMRT(都市高速鉄道)が日本の全面協力で営業を開始したが、駅名をみると,ジャカルタ400年の歴史を物語っており興味深い。北の起点、コタは和蘭植民地時代の旧港で、文字通りkota(町)であり、17世紀、鎖国令で長崎から追放された”じゃがたらお春”もここに住んでいた。駅名でコタからグロドック、マンガ.ベサール、ハルモ二―までは和蘭植民地時代の地域で、その先南へモナス(独立記念塔)サリナ(日本の賠償引き当てで建てられたデパート)セナヤン(アジア大会会場)は戦後開発された地域で、直接、間接的に日本と関係がある。

完成すればドバイに次ぐ超高層ビルになるそうだが、華人の実業家の立案によるものだそうである。数年前、ジャワ新幹線計画が中国政府の息のかかった企業体に落ちた。目下建設中だが、計画通りに進んでいないとのことだ。耐震構造など先進国である日本の協力がなくて大丈夫なのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 


サツキとツツジ

2019-05-15 13:57:20 | 2012・1・1

目黒通の街路樹のツツジが真っ盛り。近所のお宅のサツキも追いかけるように咲きだした。毎年観察していると,不思議とサツキの方が5日から1週間ほどツツジの方が満開が遅い。いまだに僕には区別がつかないが、サツキの方が花や葉が小さい。写真左はツツジ右はサツキ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


サイパン玉砕から75年 バンザイ.クリフへ慰霊の旅

2019-05-15 05:01:41 | 2012・1・1

海外の激戦地への慰霊の旅を続けておられる岡山在住のIさんから昨年暮れぺリリユー島とアンカゥル島へ出かけられた「カメラ紀行」(私家版)を頂戴した。ぺリリユ―島では遺骨収集団の焼骨式にも参加され、その時の式の写真が表紙に掲載されてあった。痛ましい。改めて戦争の残酷さに思いをはせ、英霊のシャリコウベの写真に手をあわせた。

Iさんは今日から今度はサイパン、テニアンへの慰霊の旅に出発される。今年は激戦だったサイゴン戦(昭和19年6月28日ー7月9日)が終わってから75年に当たる。サイパン島の戦闘は激烈で、島の陸海守備軍は、上陸してきた米軍の攻撃に衆寡敵せず”今や進むも死、退くも死”として"聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈念して”全員玉砕した。島の北部には、最後の守備軍と民間人が両手を挙げ、天皇陛下万歳を叫びながら70m崖下の海に飛び込んだマッピ岬がある。米軍はここを”Banzai cliff"と呼び、今は記念公園になっている。

明仁上皇と美智子皇太后も2005年、サイパンへ慰霊の旅をされている。Iさんも両陛下と同年配の戦前生まれ、戦争を知る最後の世代である。僕ら昭和1ケタ前半生れ世代は、残念ながら足腰が弱り、海外旅行が難しくなっていた。Iさんも”いつまで続けられるか”と言われているが、次の世代にも慰霊の旅はぜひ続けて貰いたいものだ。