ジャカルタ目抜きのスマンギ.スディルマン地区(SCBD)111階、高さ638mの超高層ビルが来年誕生する。いつも資料を頂戴している関西在住のインドネシア通のSさんからこの情報を得たが、この半世紀、毎年のようにジャカルタを訪れている僕にはその発展ぶりに目を見張るが、一方、和蘭植民地時代からの古い建物がどんどん撤去されていくのは残念なことだ。
僕が初めてジャカルタを訪れたのは1966年(昭和41年)3月、スカルノ(初代大統領)からスハルトへ政権が移譲された3.11政変の直前だったが、当時ジャカルタ市内には、高層建築は日本からの賠償金引き当てで建設されたホテル.インドネシアだけで、ホテルのロータリー前には資金難から中止されたヌサンタル.ビルが無残な廃墟のような姿をさらしていた。しかし、一方では和蘭植民地時代、オランダ人の交流ホールであったハルモ二―や、幕末榎本武揚ら「和蘭行御軍艦方」一行が、船の遭難後オランダに行くまで滞在していたホテルも残存していた。
この4月からジャカルタ市内でMRT(都市高速鉄道)が日本の全面協力で営業を開始したが、駅名をみると,ジャカルタ400年の歴史を物語っており興味深い。北の起点、コタは和蘭植民地時代の旧港で、文字通りkota(町)であり、17世紀、鎖国令で長崎から追放された”じゃがたらお春”もここに住んでいた。駅名でコタからグロドック、マンガ.ベサール、ハルモ二―までは和蘭植民地時代の地域で、その先南へモナス(独立記念塔)サリナ(日本の賠償引き当てで建てられたデパート)セナヤン(アジア大会会場)は戦後開発された地域で、直接、間接的に日本と関係がある。
完成すればドバイに次ぐ超高層ビルになるそうだが、華人の実業家の立案によるものだそうである。数年前、ジャワ新幹線計画が中国政府の息のかかった企業体に落ちた。目下建設中だが、計画通りに進んでいないとのことだ。耐震構造など先進国である日本の協力がなくて大丈夫なのであろうか。