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数年前、清瀬の林に咲いているのを見た。その時は珍しかった。
しばらくして、娘のお隣のお年寄りの方に鉢植えでいただいた小さな苗が、今年は4本の芽が出て咲いた。
マムシグサやウラシマソウに似ているが髭は伸びてこない。
このスキーの先のように曲がった姿がアブミ(鐙)のつま先を囲む部分に相当する.。
頭が成長して、よじれたようになっていく姿が面白そうだ。
日をおいて観察してみよう。
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数年前、清瀬の林に咲いているのを見た。その時は珍しかった。
しばらくして、娘のお隣のお年寄りの方に鉢植えでいただいた小さな苗が、今年は4本の芽が出て咲いた。
マムシグサやウラシマソウに似ているが髭は伸びてこない。
このスキーの先のように曲がった姿がアブミ(鐙)のつま先を囲む部分に相当する.。
頭が成長して、よじれたようになっていく姿が面白そうだ。
日をおいて観察してみよう。
13日(水)、トレイにクッキングシートを敷き、種を並べて水を含ませ、アルミホイルで覆って暖かいところに置く。
この種類は、丈が低く、1株から数輪の花をつけるので、気に入って毎年種から育てている。
気温によって芽の出方が違うので、たまに様子を見て、種にほんのり白い芽が見えたところで、順次ポットの土に埋める。
今日は、種の半分をポットに蒔いた。あとは、毎日観察しながら蒔くことにする。
少し育ったところで、もう一回り大きなポットに移してあげると良い苗になる。
ビニールをかぶせた夫の苗床(ゴーヤ、カボチャ)にそっと忍ばせておく。
しっかり冬から春を楽しませてくれたガーデンも、この花壇の花が咲き終わるころには、よい苗になって、1ケ月もしたら夏バージョンに衣替えになるだろう。
いつもの散歩コース、南小学校の裏側を通ると、フェンス沿いに所狭しと木々が植えられている。
多分、記念樹として植えられたものが、40年の歴史の中で、どれも大きく成長して来たのだろう。
青空に新緑が映えていた。よく見ると、御衣黄桜もすらりと上に伸びていた。
体育館の裏側にあったピンクの八重桜と、御衣黄が、いつしか姿を消して、寂しく思っていた。
その場所には、桜や、シラカバが扱がれて(こがれて)、大きな空調機のようなものが設置されていた。
2年くらい経ったか、こちらに移植されたらしい。
最近は、カメラを持たなくても、気に入った花や景色は軽くスマホで撮影して楽しめることが嬉しい。
昨日(13日)夫の山行。明神ケ岳山頂より。
西武新宿線の入曽駅を朝一番に乗り、伊豆箱根鉄道の大雄山駅からバス移動。
明星ケ岳から明神ケ岳へ。数日前の雪が残って歩きにくかったが、山頂では富士山がきれいな雄姿で出迎えてくれ、大喜びだったそうな。
「ちょうどお昼、行程通りに着いた」とラインでこの写真も届いた。
富士山を目的に登っても、タイミングよくその姿を見られることは難しい。
帰りは、箱根登山鉄道の強羅から小田原へ。帰宅は、20時を過ぎていた。ちょっとした、旅行気分。
このところ気の向くままでブログの更新の間が空いてしまい失礼しています。
ブログ友だちのさっちゃんは、私がだしたさっちゃんへのコメントも2重にこちらまで返信してくださって申し訳ありません。
朝から青空。
今日は、花好きのOさんが、アジサイの挿し芽が根づいたから届けてくださることになっていたので朝から楽しみにしていた。
見えたのはお昼近く。
Oさんは、自宅の裏にMy ガーデンを持って楽しんでいるので、花に関してはとても詳しい。
昨年は、我が家のモッコウバラが気に入って、根付いていた鉢を持ち帰った。
届けてくださったのは、昨年お邪魔した時にアジサイの「墨田のさくら」という種類を挿し芽してとお願いしてあったもの。来年には花をつけてくれるだろう。
絵手紙から始まったお付き合いだが、「こうして花談義もいいわね」と、縁先で座って話したが、ご主人がお昼を待っているからと、そそくさと帰られた。
前日のテレビのニュースで権現堂の桜堤が見ごろというので、行ってみることに。
丁度、昨年も同じ日に行ったが、的が外れ、散り桜に菜の花も今一だった。
今年は、七分咲きとはいえ、桜と、菜の花のコラボが楽しめた。
平日なのに、車は近くまで行ってから大渋滞。
出発が遅かったので、車を停めるまでに時間がかかった。
納得できた花見だった。
注) 駐車場はたくさんあるが、入り口は走行車線のみ。
反対方向からは入れないので、近くへ行ったらナビのPマークを見て早めに考えて走る方が良い。
近くでの時間ロスがもったいない。
昨日の散歩コースで友だちと写生をした。
きょうも穏やか。そろそろ新元号の発表の時間になる。
今になって平成時代の思い出が浮かび上がる。
昭和63年6月から、近くの公民館に脇約として勤務するようになった。
翌年の昭和64年1月昭和天皇が崩御され、元号が「平成」と変わった。
今から3年前に退職した私は、平成のほとんどを公民館とともに歩んできた。バブル全盛から不景気になり、市の運営から民間企業へ移行した。
全盛のころの思い出は、その後総理大臣となった小渕さんの「国民総パソコン時代」と言われたことが、右上にかざす平成の文字の額とダブってしまいます。
そして、各公民館に5~10台のパソコンを支給し、公民館や、学校の視聴覚室を使って少々のテキスト代で講習をしていただけたことです。
おかげで、こうして、パソコンを楽しむスタートができたわけです。
その時ご近所の奥さんに、「主婦がパソコンを覚えて何の役にたつ?」と言われましたが、「これからはパソコンの時代になると思いますよ、自分で外に出られなくなっても、外との交流もできてよいのでは!」
おかげさまで、あちこちの公民館でサークルや、教室ができて「国民総パソコン時代」がここまで普及しました。