作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

台風21号の傷跡

2018年10月20日 | 日記・紀行

 

2018年10月20日(土)晴れ 

台風21号の傷跡


久しぶりに大原野神社へゆく。境内はまだ紅葉には早い。先月の9月4日に日本列島を横断した台風21号の被害を受けたらしく、本殿の傍に立っていた樹齢450年といわれる樅の木の大木が2メートルぐらいの高さから生木を裂くように折れて倒壊していた。朱塗りの本殿は無事だったけれど、樅の木の裏にあった建物が損壊したらしく、シートがかけられていた。

大原野神社は由緒ある神社で、清和天皇の女御となった藤原高子がこの神社に参詣する折にお供をした在原業平が和歌を献じたことが伊勢物語にも記録されている。源氏物語にも「行幸」の巻には、「その師走に、大原野の行幸とて、世に残る人なく見騒ぐを、六条院よりも、御方々引き出でつつ見たまふ。卯の時に出でたまうて、朱雀より五条の大路を、西ざまに折れたまふ。桂川のもとまで、物見車隙なし。」と当時の行幸の様子が描写されている。紫式部自身も時代祭などでみるような風俗でこの神社へも訪れたことだろう。

また境内には「瀬和井」という井戸が今も残されてある。藤原高子をお后とした清和天皇がこの井戸を産湯に使われたという。また大伴家持や紀貫之たちも、この井戸を訪れた折に和歌を詠んでいるから、この井戸は古来それなりに名も知られていたにちがいない。

この井戸のすぐそばから伸びている脇道が、隣接している勝持寺への近道になっている。この道を辿ってゆくと、途中には倒木も多く見られて、先の台風の余波が未だ片付けられずに残されたままになっている。お寺の拝観時間もすでに過ぎていたので、仁王門をくぐっただけで階段を降りて帰る。洛西に暮らしていた時にはこのお寺へは自転車でも花の頃に訪れた。

今となってはこの花の寺の脇を貫くようにはしる京都第二外環状道路は、その計画から工事の完成にいたるまでずっと、山の畑から畝を耕しながら眺めていた。これほどの環境破壊はない。当時の知事だった山田氏には、歴史的な風致地区を保存するために、せめて地下に道路を掘って走らせるという知恵も英断もなかった。市民の多数にもそんな関心もない。現代生活の利便性の前に歴史的な遺産が犠牲にされる。

あと20年30年50年も経過すれば、かろうじて残されている勝持寺の周辺の面影もすっかり失われて、このお寺も街中にあるお寺のようになってしまっているだろう。西行が出家した頃のこのお寺の面影は、今ですら失われつつあるのに、その頃には見る影もなく消えてしまうことだろう。そしてそれが誰にも当たり前として受け取られる。

仁王門を階段を降りて再び大原野神社の駐車場にまで戻る。その前にあったお店でヨモギ餅の二つ入ったぜんざいをいただく。

台風21号で平野神社では暴風のために、桜の木々が数十本も倒れたらしい。慶安3年1650年に建立されたという拝殿が倒木のあおりを受けて倒壊したことを報じるテレビニュースのひどい映像も見た。  

一昨年の初夏の候に初めてこの神社を訪れたときには、拝殿の傍に植えられていた新緑の橘の木にはきれいな白い花が咲いていたので写真にとってこのブログにも記録していた。




 
 
 
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