葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

国中そろって悲観の主犯は

2011年01月07日 16時16分17秒 | 私の「時事評論」
謹賀新年。



本年もよろしくお願いいたします。

 さて、話は古く旧蝋29日、それまでバタバタと雑務と、暇があれば孫のお守に毎日を過ごし、落ち着く間もなかった私だが、春から我が家に同居を始めた息子の誘いで、家からほど近い三浦半島の城ケ島に一年の疲れをほぐそうと、親、子、孫、そろって一泊旅行に出かけた。

 三浦半島の南端、三崎に隣接した神奈川県最南のホテル、温泉ではないが、相模湾のパノラマを目の前にする雄大な露天風呂で、素晴らしい好天気、
見渡す相模湾を黄金に染めて、正面の富士山の背後に静かに沈んでいく夕日を眺め、
身体を伸ばし、隣接する三崎漁港でのマグロをはじめ、相模湾の海の幸を肴に一杯飲み、少し時間が早いが、と床に入ったまでは上出来だった。
 こんなところでテレビを見るなんて、見るほうがおかしいと言われるかもしれないが、習慣的についスイッチを入れ、ニュースでも眺めてから寝ようとしたのが失敗・・・。

 とんでもない国民意識の暗き展望

 NHKテレビ午後11時過ぎからの特集、そこが知りたい「変わる世界と日本」。
双方向解説とかいう視聴者参加番組が始まった。

 NHKの解説委員がずらり、十数人もスーツ姿で並び、今の日本が微妙なところに来ているという、どこのマスコミででも論じられているような論を長々と並べる番組だ。

 ほかのチャンネルはピエロのような扮装をした、これでもまともな芸人なのかと首をかしげる一夜漬けの芸人が集まり、斬新さもセンスもない下卑たギャグを並べて騒ぐ、ただうるさいだけ。
 どうせ大したことを言わない番組だろうが、そのほうが夜も遅いし、右の耳から左の耳へ、竹輪の中を風が通り抜けるように聞き流し、寝てしまえばよいと構えていたのだった。

 いつもマスコミが繰り返す政治や国際、経済、貿易の展望などを、抑揚のないNHK的ペースで彼らが語っていたが、番組は午前4時までとはやたらに長い。
 そのうち傍らに立つ女子アナウンサーが、参加した視聴者からの将来展望の集計をまとめて発表する場面になると、
「おやおや、これはいったいどうなってるんだ」
とすっかり酔いも醒めてしまった。

 「日本は来年は良い方向に行くと思うか悪いほうに行くと思うか」に対し、悪い方向に行くと答えたものがなんと9割以上で良い方向は1割以下の回答。
 「政府は雇用増大をスローガンにしているが雇用は増えると思うか」に、増えないだろうが同じく9割、来年のあなたの「所得は増えるか」「経済はこれから成長するか」「政府の力を入れる技術発展策は功を奏するか」その他の質問の回答が発表されるが、いずれも同様で、9割以上が期待できないとの回答の連続なのだ。
 国際関係で政府が言うように「中国が将来の日本のパートナーになると思うか」などの問題に関してまでも同様に、誰も期待をしているとは答えない。細かいデータを正確に紹介しようとネットで調べたのだが、残念ながら今のところは発表されていない。不正確な情報で申し訳ないが・・。

 「これって、もう日本に将来はないと、国民の9割が思いつめていることではないか」。

ぼんやりしていた頭が急に冴えてきた。



 調査がおかしいのかマスコミがおかしいのか



 一般に世論調査などというものは、新聞やマスコミが世論と称して国民誘導に利用する一つの武器ぐらいに思っていた。
 だが、マスコミの世論指導などは、それほど人を上手に国民を誘導できないのが常識だった。
 一般大衆はマスコミの思うほど甘くない。そんな程度に思っていた私だ。

 そんな目で見ると、こんなに露骨な回答に偏りが、出てこないのが普通である。
国民の多くが将来に不安を持っている場合でも、言われているほどでもないだろうと思っているものが半数ぐらいはいるというのが正常な形だ。極端な差があるならば、テーマ自体が取り上げるべき内容ではない。それよりも、解決策を探らなければ、わざわざ眺める意味がないからだ。

 それがこれほど極端な数字になってくるというのは、常識で考えれば、国民はもう、自分の将来に何も展望が持てない状態にあるということである。諦めてしまったのか、そうでないなら、クーデターが起こったり、大転換が起こる前夜の緊張した環境にあるというほかはないはずだ。

 番組にこんな回答結果が出たら、少なくとも、オピニオンを扱う専門家集団であるテレビ解説者が、よほど鈍感で無関心でない限り、「大変なことになっている」と色めき立たなくてはおかしい結果である。
 特に正月前という、来年こそはという期待の強い、明るさを求めたくなるこのときに、こんな結果が出るのは、とんでもない沈滞と悲観の空気が日本中に漂っている異常事態というほかない。

 だが居並ぶ解説委員たちは慌てない。これを横で聞いても、何事もなかったような顔をして、カメラに向かってそろって頭を下げて「ではまた来年、良いお年をお迎えください」といった調子で番組を終わらせてしまった。



 誰が作ったこんな国民の空気

 私は寝るのも忘れて愕然としてしまった。どこかおかしい。

 おかしいのは国民なのか、ここに居並ぶ解説者など、マスコミの呆けてしまったセンスなのだろうか。

 どちらにしてもただ事ではない。明らかに国民が独立して行動する思考力を失い意欲を喪い、気力を喪失させているのにNHKは平然としている。

 なぜこんなことになったのか。マスコミあげてのいまはもう駄目な時代だとの連日の報道が、国民をマインドコントロールしてしまった証拠ではないだろうか。医者がもうあなたには治療法がありません。早く死ぬのを待ちましょう、そう言っているのを眺めているような特集だった。

 マスコミは本来、事実を正確に報道し、そこに問題性があればそれを指摘し、社会のあるべき姿を読者(視聴者)に伝え、社会をリードしようとする機関であり、そのため剣の代わりに筆(カメラなど)を持つ現代の権力、立法・行政・司法とともに、第四権力、社会の木鐸との自負心をもっていた誇り高き職業であったはずである。

 マスコミは、己の信ずる世の中の改善案をどんな時でも勇気を持って示すがゆえに活動する権利を与えられてきた。
 そんな権威は自らの報道により、社会を変えてきた実績により、特別の権利を勝ち取って、保証されて今まで続いてきた。だがそのような歴史を持ち、多くの功績を果たしてきた新聞(マスコミ)だが、そんなマスコミも現代では、マスコミ自体が利益追求の企業となり、社会のためではなく利益を上げるために読者に媚びる潮流の中で、報道の任務の変質が問題とされるようになってきた。

 そして現在の日本のように、様々な面での報道への情熱不足、使命感の不足、勉強不足や堕落が、マスコミの欠陥となって目立つようになってきた。

 マスコミの変質に関しては、いずれ項を改めることにしてここではふれぬが、駄目だ駄目だと今の政治の欠点を批判するだけで、対応策を示さない、マスコミ自体が使命感を失い、世の中をけなしたりスキャンダルを暴いても、社会の明日を開く知恵も失い、これが何十年間もシャワーのように国民を包み込み、新しい社会を目指すどころか、国民の考える力も失わせ、夢を追う気力も持たない国民を作ってしまったのが現状と言えないだろうか。


 けなすばかりの現代マスコミの効果

 マスコミがそろってこれでもかというような気分の滅入る報道ばかりを流し続け、日本中の国民意識が何も考えないで、もう先は駄目だと思いこまされ、ズルズル流されていくというのは、マスコミによる日本社会の崩壊傾向ではないだろうか。

 自民党が毎年首相交代をさせられて支持率を下げたのも、マスコミの一方的な自民党批判の集中攻撃だった。
 その傾向はかつての小泉首相の、米国財界追従の強引な米国ドル赤字減らしの政治姿勢に、批判を恐れて攻撃できずに沈黙させられていた弱虫マスコミが、小泉が退陣した直後から顕著になった。

 小泉の手がけた政治は、マスコミの「批判をすればつぶされかねない」という圧力をひしひしと感じさせるものだったが、それは日本の体制自体の個性をつき壊す強力な内容をもっていた。だが当時の日本のマスコミは、その以前の田中首相の全盛期に沈黙させられた時と同様に、日本の基本的な特質を守る立場としては、当然批判しなければならない種は充分にあったのだが、その全盛時代は、権力の圧力を恐れた猫のように、そろって沈黙した。

 そして小泉がやがて力を失い引退すると、そのかたき討ちみたいに安倍、福田、麻生をたたき、もろ手をあげて自民党をたたき、その空気を利用した小沢とともに鳩山民主党内閣を作らせる力となり、それが政治能力がなく自壊すると、今度は自らが持ち上げたことも忘れて菅内閣を作り、またその無能をたたく方針をとり続けている。今の日本の現状は、確かに国政のなんたるかの基本も知らぬ政治家たちによって作られたものだ。だが、それを有無も言わさず応援してきたのは、マスコミ自身であるというべきでもあるのだ。

 これでは日本の未来をまともに追いかける空気は生まれない。


 国民に意欲がない今の時代

 情報化の時代の到来などと言われている。
 世界が従来の情報網ではなく、インタネットなどという、新聞テレビ雑誌などの従来の形のものではなく、誰もが参加・発信をすることのできる噂話や告げ口や瓦版の化合物のような新しい情報網により大きく揺さぶられることも多い時代となった。昔の政治を動かしたスクープは、今やネットで明らかにされるものが圧倒的に多くなってきた。

 有り余る情報機関の発達によって、国民は様々な機会を利用して情報に接することができるようになった。
 また、情報は瞬時にして世界を駆け巡る時代ともなった。

 だが、技術の進歩によってもたらされた情報網が、人々が広範な情報に接し、それを材料にして深く考え、よりしっかりと社会を見つめる目を養う結果につながったかどうかを考えるとき、甚だ残念な結果となっていると言わざるを得ない。

 過度の情報は、情報を求めて、それを基にして人々が自分の頭で考える気風を喪失させ、安易に諾々と時流に流されていくという悪しき傾向を増長する気風を生じている。

 こんな情勢を迎えて、今のマスコミの動きをみると、マスコミ自体がこれからの時代に、どう生きていけばよいかの方針が見えなくなったように思えてならない時がある。

 新しい情報手段の誕生は、本来ならばマスコミ自身の報道機関としての質の高さを再検討し、社会にとってその存在価値を高める効果を生むきっかけともなるべきものである。だがマスコミにはそれを知り、自分の改革をしようという気風が見られない。

 マスコミは既存のシェア―の確保と新情報システムの食い込み防止にのみ力を入れ、既得権の擁護をしながら、報道の品格の保持にまで目をそむけて、いよいよ低俗ジャーナリズムを目指すような傾向を強めている。

 マスコミの中からは「社会をよくするために高度のオピニオンを掲げる」というジャーナリズムの原点がいよいよ薄まり、大衆に媚びた姿勢がいよいよ強まってきた気配が見える。マスコミが社会をよくするとの使命感を忘れ、社会の木鐸としての意欲を失った結果が今の我が国の現状の大きな沈滞原因であることを意識してもらいたいものだ。

 人々が良き時代を求め、それを真剣に自分のものにする意欲を失い、あふれるほどに提供される情報にスッカリこれですべての情報が提供されていると簡単に思いこみ、あふれる情報の外にも真に必要な情報が、実は隠されているのではないかとそれを求める努力を忘れ、創意工夫しようとする気力さえも失っている。それがいまの日本なのではないか。

 マスコミが歴史の流れの中に、今の日本よりも、物質的には必ずしも恵まれてはいなかったが、それでも国民が夢を持ち、将来に期待を持って生きた時代があったことを思い出し、そんな気風が欠けているからこそ、このような全国民が等しく将来に絶望し、惰性に生きる生活しかできないでいることを知れば、世の中はそれで改善されても行くだろう。

 気力もなく、将来の発展に協力する気風もないところに発展はない。




 捨てたものではない日本の将来

 それと最後に一つ付け加えておきたいことがある。大衆の予想はとかくその通りには進まぬものである。
 全国民が失望しているいまの日本の将来は、案外捨てたものではないのではあるまいか。

 そんな視点でこれからの一年を眺めていくことにしたいと思う。

写真は相模湾への入日(WEBより)

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