葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

西欧文化と日本文化ー使い捨て文化からの脱却1

2012年05月10日 11時18分43秒 | 私の「時事評論」
 
 私のブログ http://www.ashizujimusyo.com という随想を書きまくる欄がどうしたことか具合が悪い。
 そこでやむなく、本来ならそこの書き連ねる雑文をここに掲載させてもらう次第。
 論理を裏付ける資料がまだ足りないので、何かと物議が起こるかもしれないが御容赦のほど。

  はじめに――神々のお怒りか、不純な気象

 今年五月の連休は風雨に祟られ、薫風の中の散策を期待した人には気の毒な日々が続いた。
 さすがに「子供の日」の端午の節句だけは、子供好きな神の配剤か、初夏の陽気に恵まれて明るい日差し、鯉のぼりが踊る好天が訪れたが、近年、天候不順が当り前のようになってきた空模様は、
どうも純粋な自然気象学上の物理現象の上に、我々人類の営みまでが影響し始めているのではないかとの気にもなる。

 自然の持つ巨大な力に比べれば、我々人間の手にした力などは微々たるもの、人間の力では今でも雲一つ動かす力さえ持っていない。天災地災の克服などは及びもつかない状況である。

 だがそんな無力な人間も数が増え、個々がバラバラで、各地で無計画な乱暴を繰り返す。

 するとこれが重なり、いつしか予想もできない現象を生み出してしまう。将来の環境がどうなっていくのかの不安が高まる今日である。

 自制も分別も統制もなく、緑の原野を徒に伐り払って何も育たぬ砂漠にし、数万年の間に蓄積された化石燃料をどんどん燃やし、地球を包む大気の組成までが変わり始めた。

 緑に覆われていた地上は、水も通さぬコンクリートの道路や建造物で埋めつくし、豊かだった森の緑を伐り倒し、海や河川を汚染させ、生態系のバランスを代えた。

 そんな行為がこの百年余り、加速度的に進んで、環境破壊が急速に進んできた。

 気象が不順になるのにも、そんなことが明らかに影響しているのではないかという説が次々に提起されている。

 気になる昨今の情況である。

 我が日本の現状を見よう。

 どうしたことか休日になると雨が降り、風が吹く。

 偶然だと気にもしない人はそれでもよい。

 どの日を休日にするかは我々人間が勝手に決めたこと。

 自然の神の預かり知らぬこと。だがなぜ、そんな休日になると悪天候が発生するのか。

 それは過度の都市化が、細かい地域の寒暖の差を呼び、休日の天候を不安定にするとの説が、いま、世界で主張されるようにもなっている。過開発=自然破壊が天候不順や竜巻を起こすとの論だ。

 だが、ここで不確実な説を取り上げる必要もない。

 日本人にはそれを「若しかして神々のお怒りか」と受け止めるセンスがある。

 自然を掌る神々が無分別な我々の行動に不満を持ち、我々に警告していると受け取ることもできるのではないか。

 日本には古代より、そのように受け取る自然とともに生きていく文化意識があった。




 近代化を裏から見れば。

 日本列島は、そこに暮らす人間が穏やかに生活を営む上に恵まれた立地条件の下にあった。

 そんな環境も影響したのだろう。

 この列島は豊かな立地条件に適合した環境を、破壊することなく維持しながら、自然の恵みで暮らす人々の生き続ける国だと思う生活観を文明発祥時から生み出し守り続ける慣習が定着していた。

 良き環境の下で安心していつまでも暮らすのには、自然の与えてくれた環境を破壊することなく維持し、自然と調和して生きることだ。

 我々の祖先たちは、自然の環境は万物を掌る神々のみ業と捉え、先祖伝来、神の御心を損ねぬようにと慎んで、自然と馴染んで生きる「まつり」を重んずる独特の文化を作り出し、それを守り育てて生活してきた。

 自然を、環境を壊さない。

 生活のために切り倒した木々は補植して再生するし、反乱で荒れた地域はみなで補修し、やむなく破壊したものは修復する。

 年の初めには神々に、これから始まる一年の実りの多いことを祈念して「まつり」をし、秋にはその収穫を神々に備えて一年を感謝する「まつり」をし、神人和楽、皆が生きていることの楽しみを共有して歌い踊った。

 そんな生活の中に、神社も天皇制度も、我々の価値観も、風習も、信仰も、家族観も社会規範もその基本が固まっていた。

 だがそんな日本人が生き方を百年ほど前から変えてしまった。

 自然を尊重し、それを神の営みとして受け止めて謙虚に従う心を忘れ、今さえよければと乱開発に精を出すようになった。

 ものを安易に捨てるようになった。

 我が国が、急速に力を伸ばしてきた西欧文化へ憧れて、急速に転向していったからだ。

 転向は西欧文化が近年手にした産業革命以来の急速な膨張発展の力を目の当たりに見せられて、我々も見習って手に入れることになったからである。

 だが反面、我々を取り巻く神の存在へ対して、すべての恩恵を与えてくれる源であるとの従順な姿勢から、力は自分ら人間の力により、自然を押し倒してでも身につけていくとの挑戦的姿勢にと変わることにもつながった。

 我々は自然の恵みに取り巻かれ、その恵みを戴くことにより、自然=神々と調和し共存していこうとの文明思想で生きてきた。

 それに対して西欧文化は、自然を神ではなく、人間の発展を阻むものと捉え、自然に挑戦し、それを屈服させるのが人間の発展であるとの旧約聖書以来の基本思想に従っていた。


 どちらの文明思想が人間にとって正しいものか。

 この文ではそこまで追いかけることを目的にはしていない。

 まあ通常はその二つの思考の違いを知って、その両者の配合からカクテルとしての生き方の指針を定めるというところが、社会一般の通念だとは思う。

 ただ、私個人の立場から見ると、自然や神などに対する文化意識としては、我々の持つ神を中心とした意識の方が、自然への意味もなく力まぬ愛情があって、思いあがった人間の独善や慢心の不自然さがない。

 しかも最近の自然破壊のこの地球への影響などをみると、万物に心があり霊がありすべては神々の神霊の宿る我々人間と同じように大切にするものと信じ、神(この場合は人と同じようにとらえてよいだろう)に接するように愛情と礼儀を持って接する生活感の方が、人間以外のものは人間を自分の姿に似せて作られた全能の神が、力を持って征服する対象と認めている捉える神の概念や生活感よりも、将来への行き詰まりなき存続が可能であり、日々の生活そのものが闘争的ではなく調和的になって、和やかで温かみがあるので良いように思えるが。


 国土を見守るもろもろの神が、存在するか否かの論はその人の文化概念によって違ってくる。

 私は自然を掌る大きな原則を神意と受け取り、その存在を絶えず意識して動く人間に属するので、そんな立場で説明をする。

 万物に、自然の現象にあらゆるものにある霊性(まあここではそれを神々といってもよいだろう=神々)は、我らの神を見捨てる変心に苦々しい思いをされ、

 「お前らの行動は目にあまりだした。なぜおまえらが穏やかに暮らせてきたのか、周りの環境も考えてみろ」

と警告を発せられている。私はそう受け取っている。


 それが我が国に異常気象や災害が最近多発して、しかも休日には雨が降るなどという原因になっているように感ずる。

 私の発想は西欧的な科学的目から眺めれば、まことに非科学的で、信頼できない迷信と映るものなのかもしれない。

 私自身も生まれてから今まで、かなり西欧思考に毒されているので、この文を書きながらもそのことは感じている。




 科学の持つ不確定な独断




 だが、科学的ということは、それほど排他的絶対のものなのだろうか。

 いや、言葉を代えよう。

 今の自らを科学的合理主義者だと思っている人が、本当に冷静な客観の価値観を持っているのだろうか。


 西欧の科学主義を信奉する者には、我々人類が存在を証明できないもの、はっきり確認できたもの以外は信じないという視野狭窄に陥ってしまっている人も多い。

 極端な人は非常識にも行き過ぎて、自分が証明できないものは存在しないとして否定する井の中の蛙になっている。

 だが一体、我々人間はどれだけのものを知り、どれだけの力を持っているというのだろうか。

 世界にあることの大半は未知のことだ。

 我々が動かせる力は、地震一つ起こらないようにすることはできない。

 数億年といわれる地球の歴史の中に、我々人類が生活を始めたのは原始人の文化を加えても数万年だ、

 今のように、蒸気機関から石油燃料と人工的に大きな力を出す能力に気がつき、日本人が欧風文化を取り入れてからはたかだか百年か二百年だ。

 これだけしかない知識を基に、

「世の中のことはすべて分かった。我々の知識はすべてを網羅している」

などと簡単に思う姿勢は慢心と独断ではないか。


 我々人間はそれほどの豊富な知識を持っていると言えるのだろうか。


 今の世界は、そして日本は、大きな文化をもう一度考え直さねばならない時期に来ているようだ。

 私はこの随想の欄で折に触れ、そんな問題も書いてみたい気になっている。


 西欧文化はそのまますべてを我が国に取り入れることはできないというのが私の思いである。

 日本には日本の文化の概念がある。

 そんな土壌をもう一度よく眺めて、今我々が使っている西欧的な発想を、日本文化とつながねばならない。


 私は文化の接続を植物が苦情の接ぎ木の概念に似たものと考えている。

 日本文化は木であるとすれば、西欧文化は竹である。

 木と竹をどうすれば見事につなぐことができるのか。そんなことも考えてみたい。

 以下次回

 写真はいかにも自然調和的な棚田の風景。WEBより。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
乱開発を憂う者 (zushi)
2012-09-13 22:38:26
乱開発問題についてのサイトを検索して、ここに辿り着きました。

神奈川県逗子市では、小規模ではありますが、市民が条例に違反した乱開発を行い、議会や市から指導を受けても従わないため、この一人だけのために、何年にもわたって多くの人が無駄な労力を費やしています。

http://yaplog.jp/
zushi-kimijima/archive/399

www.city.zushi.kanagawa.jp/gikai/result/
H22/4tiketu/ketu9.pdf

各地で発生しかねない問題を少しでも多くの方に知っていただきたく、コメントさせていただきました。
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つづき (Unknown)
2013-03-27 21:54:18
上で投稿した逗子市山の根三丁目条例違反開発の問題は、発覚してから2年半ほど経過した今も議会で継続審議される異例の事態となっています。
このように個人が条例に反する開発に手を染めることもあり得ます。地域の人たちが結束して監視・抗議を続けることが大切であると認識しております。
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