葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

ネットによる政権の転覆はあるのか 考

2011年02月23日 15時21分55秒 | 私の「時事評論」

 ネットによる政権奪取は新兵器か
 いま中近東などを中心に、ネットの呼びかけによって政権が転覆したり混乱に陥る事例が相次いでいる。これはネットで政治が変わる新しい時代に世界が入った証拠だとして、マスコミなどが大騒ぎをする現象となっている。
 デモによって意思表示をし、独裁政権を倒そうというのは、独裁暴力には暴力革命で対抗するのが闘争とする従来の闘争スタイルから見れば穏やかな方式。基本の方式は、圧倒的力を持つ英国の植民地支配から独立を勝ち取ったインドのガンジーにも通ずるものもあるようだが、非暴力抵抗は相手の非暴力を保証するものではない。時にはかなりの犠牲もまたやむを得ない。今回の中東の紛争でも、若干の犠牲は抗議活動参加者にでているが、それでも暴力同士の対立より犠牲は少ない。だが、ネットの呼びかけ人は自分の呼びかけで命を落とす者も出る重さを、どこまで分かっているのだろうか。ネットはいままで、冷酷無責任なメディアと言われてきただけに、私はちょっと気にしないでもないのだが。
 チュニジアにおいてネットの呼びかけに応じたデモ騒ぎがついに独裁大統領を失脚させたのが励みとなって、それは1月末からエジプトに波及し、大規模なデモは30年以上も続いてきたムバラク独裁政権を倒す結果につながった。そしてこれが中近東諸国やアフリカ諸国に飛び火、いま、40年以上続いてきたリビアの独裁者カダフィー大佐に対する退任を求めるデモが盛り上がり、大統領は軍隊を出動させて火砲による鎮圧に出て、犠牲を出しながら戦われている。このほか同様なデモはバーレーンやイエメン、イランなどの諸国に燎原の火のごとく燃え広がっている。
 ネットを通して呼びかけるデモは、もともとは我が隣国の中国で注目されていた手段であった。膨大な国民を擁する中国は、経済発展の裏側で、貧窮格差の急速な拡大、独裁政権による人権の抑圧や少数民族弾圧などでも有名な国。そのため国民の鬱積した不満は高く、不満の声はネットなどを媒体にして拡大される傾向が強く、中国政府はこれを諸外国との摩擦を重ねながらもネット管理、ネット検閲などにより懸命に抑えつける政策をとり続けてきていた。
 だが今回の相次ぐ中東諸国での独裁政権への、ネットにより呼びかけられた抗議デモによる成功ニュースは、中東ばかりではなく、中国政府に大きな恐怖を与えたようである。中国の故錦涛国家主席は先日、共産党中央党学校でネット上の管理強化が国にとって重要であると演説、いま起こっているこの種ニュースを国民が見ることができないようにしたり、ネットを利用しての中国国内での反政府デモの呼びかけの書き込みを消したり、関係者を追及したり、厳しい規制をとり始めている。

 ネットは新し時代の新兵器なのか
 日本の新聞やテレビなどを見ると、ネットによる反政府行動の呼びかけを、現代生活の中から初めて新しく生まれた世直し道具であるとして、新しい手段が生まれてきたように高く評価する解説がほとんどである。NHKなどの報道がその典型である。
 「いままで政治に対して関心の薄かった若者層が、新しい技術の産物であるインタネットやTwitter、FaceBook、YouTubeなどを使って抗議の行動参加を呼びかけ、見知らぬ人も仲間に入れる大きな政治成果を収め、自らの求める政権を作るようになった。若者の開発した新しい意思表示の発見だ」
などとベタほめのニュース解説などをして礼賛している。何だか極めて表面的で、私にはピッタリ来ないものの見方だが。
 私はその見方は現代日本の堕落した状況という特殊な環境だけを見て、それが普遍的真理と勘違いした軽薄な解説にしか見えない。ニュースのプロとして冷静に眺めるようにすれば、決してそんな暴言は吐けるものではないと思っている。
 だいいち、若者たちが政治に関して一般的に無関心であるなどという前提は、古今東西における若者の特徴を捉えた正当なものではない。世界の歴史を広く検証するまでもなく、我が国の歴史においても最近の数年間を除いては、国の政治が国民各層の生活や心を満たさないとの社会正義による怒りに燃え、改革をひたすら望んで活動したのは常に若者であった。日本の歴史上の政治的改革のほとんどは、若者たちの情熱があったから実現した。命をかけても社会の改革に打ち込もうとする情熱は若者の特権であった。これは世界に共通する若者の特徴だ。
 ただ現代の飽食で全てに意欲もなくした現代日本の文明では、国や社会に夢が描けなくなり、理想を持たない若者ばかりの国になったかに見える。歴史の中でも、いまの日本は特別な退廃的な時期にある。そんな現代日本の風潮が無気力な若者を生みだしている状態を、これが普通であり、こんな特殊な若者気質が一般的な世界の若者像であると勘違いしての論は、まともな論と言えないものである。こんな若者がネットによって自覚して、急速に呼びかけるようになってきたというような論は、いやしくも常識あるマスコミの立てるべき論ではない。
 若者とは本来、そんなものではない。日本だって20世紀までは、空想的ではあるが夢を持って国内で暴れまわっていたのは、全学連の学生や若者たちが中心だったのも忘れてはならない。若者を急に無気力にし、国民に生きがいをなくさせるようにしたのは、社会の柱を65年前に根本から捨ててしまった日本という国だけの特殊現象と思ったほうが、まだ時局認識の傷は浅いと考える。
 ネットはあくまでネット、通信手段の一つにすぎない。しかもこのネットには手軽で誰もがどこででも簡単に使え、規制がしにくい特徴がある。人が連絡し合うには便利な道具だ。だがネットは道具にすぎないのだ。しかも自分は出かけて行って危険に加わらず、そのくせ相手の危険を無視してまでも人をあおるような面も持つ。私はどうも、古い人間だからかもしれないが、ネットで呼びかける声に対しては、今回は利用されたかもしれないが、自分は安全なところに隠れて人をそそのかす無責任の影を感ずる。

 ネットは世論の爆薬ではなく点火機だ
 もうひとつ考えてみたいことをあげておこう。集団を興奮させて大きな力に育て上げた事例は、過去にその例がなかったわけでは決してない。日本中に多発した過去の百姓一揆だって、もう生きていけないという追い詰められた意識が爆発寸前にまで高まった環境があり、些細な事件が発端となって大騒動に発展したものがほとんどだ。大衆心理とは、ときによって発火寸前にまでガスがたまり、ちょっとしたことで爆発するものなのだ。だが、なぜ爆発したのかを考えると、それはそんな状況ができていたからだと言うほうが正しい。マッチがあったから爆発したのではなく、やはり、危ないガスがたまっていたから爆発したと見るほうが正常だろう。
 大衆心理を見る一例として、江戸時代の歴史を見ると、ある時突然、「ええじゃないか」という掛け声をみんなが掛け合い、歌い踊りながら、農作業中のものは鍬や鎌を放り出し、炊事や洗濯中の女はそれを放り出したまま「お伊勢参り」に出かけてしまい、村が空になるような事態が度々起こったと記録されている。何がその発火点になったのか。あるところには突然ビラが天から降ってきたという。またあるところでは一人の男が踊りながら伊勢参りに行きはじめ、それに付いていくものが道々どんどん増えていったという。いろいろの形のマッチはあった。だが、こんな現象が度々起こったのは、爆発せざるを得ないところにまで人々のストレスがたまっていたからだと見るべきではないか。
 大衆心理が突然動く背後には、独特の要素がいくつかあり、それが重なると集団がどんどん膨れて想像もつかない大きなエネルギーの塊になる。私は現代のインターネットは、偶々百姓一揆寸前のようなたまった国民の不満の濃縮ガスに、火をつける着火剤の効果があったのだと思っている。火の付く環境までネットが作ったのではない。
 ネットがなければこの大衆デモの流行がなかったとはいえないと思う。ネットがなくとも、いずれほかの要素で火は燃え広がる状態にあったのではないか。今回の相次ぐ騒動の背景として、挙げられるのは抗議行動が盛り上がるその背景の問題があると思う。

 相次いで起こるデモ騒ぎを見て
 多発するデモは、中東各国の政治体制が、もはや現代の国際化や各国内の知識や技術の発展に追いつけない古いままの体制であり、矛盾が崩壊を招きかねない状態にまで高まっていたこと、政治が賞味期限を越していたことがあげられるだろう。
 それに加えて各国での騒動の大きな力になったのは宗教面からの不満であった。どこの国でも国民には、それぞれ培ってきた個性ある生活観念や行動方程式がある。それらを形作っている基本には住民の中に生きている宗教的な情操である。それをいくら時代が変わったからとて、全く無視し圧迫して無思想な合理主義ばかりを押し付けて強引な政治を続けると、国民の中にイライラが高まる。その力に火がついたとき、政治が制度疲労を起こしている体制のもとでは、結局崩壊せざるを得なくなる。私はそんな現象なのだといまの中東情勢を眺めている。
 そんな視点から世界を見回すと、長年続いてきた精神風土を無理に変え、新しい制度として木に竹を接いだようなものを取り入れたり、広大な領土に全く共通性のない宗教的環境をもったいくつかの国民を抱え込んだ国などは、同じような不発弾の爆発待ちのような情勢にあるということなのではないか。単一民族が比較的狭い国土に寄り添って生きる日本。そんな面では安心できるが、長年なじんできた伝統型の精神気風や宗教姿勢を、封建的だと捨て去って無思想で進んできた国である。そんな面から眺めると、必ずしもいつまでも安全だとは言い難い。
 

 デモは新しい体制を作るものではない
 中東のデモ騒動による相次ぐ政権転覆劇を目の前にして、私は目先ではなく、その背後をもう少し深く眺めようとも考えている。各国それぞれ考えさせられるが、エジプトのムバラク政権を例にあげよう。
 チュニジアでの独裁体制を、デモ騒動によって大統領の失脚に追い込んだのに力を得て、エジプトでも、同じような政権打倒のデモが起こり、それがどんどん大きくなっていった。中東諸国同士には言葉上の障害も少なく、情報は周りの国にもそれこそネットなどでどんどん伝わる。「エジプトでも政権転覆を」との呼びかけにこたえて参加した連中は、それまでムバラク大統領に全く虐げられていたかに見えて、政党結社さえも許可されなかった回教原理主義派の大衆が中心であった。
 彼らはムバラク大統領の長期政権が、土着宗教に圧迫を重ね、自分らの宗教的領土的敵・イスラエルにこの地域で最も寛大で、親米政権でイギリスや欧州などのキリスト教諸国と回教国との橋渡し役をしていることにも反抗し、自らのエジプトでの基本的な回教的人権主張ばかりではなく、反米反イスラエルを旗印にして戦った。
 だが、ムバラク大統領の権勢は日に日に弱まっていて意外に弱かった。強硬派であったムバラクが譲歩して、自分の代わりに腹心のスレイマンを副大統領にして九月には引退してほかの大統領に代わるからとの譲歩を出したのだが、デモは合意せず、最後は自分の最も信頼していた国軍に権力を譲って引退をした。
 そこでデモに加わった国民たちは、自分らの40年間の願いが通り、ムバラク体制が崩壊したと喜んだ。だがこの軍事政権が、果してデモ隊の希望した通りの政権になるのだろうか。
 新しい大統領はまだまだ先にならなければ出てこない。いまは軍事政権に守られて、スレイマン副大統領が表に立っているが、彼はムバラク時代の情報相、親イスラエルの男である。エジプト国軍ももとをただせばムバラクの弟子どもだ。ムバラクの独裁権力は40年間で賞味期限が切れた。しかしデモに加わった人々が口口に言っていた反米反イスラエルの大原則は守られるのか。
 ムバラク大統領が引退したとき、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどはそろって新軍事政権歓迎の声明を発表し、イスラエルも新政権にあれだけ反イスラエルといっていたデモが勝ったと騒いでいるのに、反対はしなかった。
 私はその間に何があったのかを私なりに予想している。
 いずれはっきりすることだろうが、これははっきり言って、デモを起こしたイスラム原理主義者たちの望むものではなさそうである。
 ネットとこれに答えた行動は、賞味期限の切れた政権を切ることはできた。だがこれは特別に思うものを作り出す力は持っていないようである。
写真はWEBより

また首相の引き下ろしかい?

2011年02月20日 17時16分11秒 | 私の「時事評論」
 政界の、国民の生活のことなど二の次三の次で、一年交代の内閣交代ばかりに狂奔する国会や内閣の姿には、私もうんざりしてしまっている。国民は、こんな状況のままでは、だれが首相になっても、まともな政治などできっこないのも知っている。
 
 こんななか、また今日は
「民主党の閣僚クラスの大物?が、公明党に、予算を修正してでも通させてくれたら、菅内閣に政権を放り出させてもよいが」
と秘密の打診をしたというニュースが流れ、恒例の政権交代騒動が始まった。

 一昨日のニュースに「衆議院比例区選出16人の民主党議員が、そろって選挙公約(マニフェスト)を守ろうとしない菅内閣に叛旗を翻そうと別会派をたてることにした」という情報があった。
 これが新首相選びのきっかけであるかのようだ。小沢嫌いの記者などは、小沢・菅対立の側面だけでこれを捉えて、こともなげに、
「口ではいろいろ言うが、彼らの腹の中は小沢の指示での菅首相への巻き返しそのものだ」
なんて解説しているが、本当にそれだけなのかは単純に見るべきではないのかもしれない。考えてみれば、彼らの心境と目的はどうなのか。人の胸の内は簡単には分からないものだと思う。

 確かに16人は、小沢氏の推薦で先の総選挙に比例区から立候補、当選した連中だ。公募のような形で民主党から出て民主党ブームに乗って当選したが、このままでは次の総選挙では、推薦されるかどうかも分からないし、掲げた公約は何一つ守られていないので、このままではもう国民の票は来ないだろう。頼りの親分の小沢さんも変なことになって、これでは民主党から立候補さえすることもできずに完全に消え去らねばならないと思い詰めている。そこに偶々ベテランから誘いがあったらどう動く。
 もう理性も何もなく、ずぶの新人だけに起死回生の方法も分からなくなって、このままではだめだと立ち上がろうとしたのには、何らかのあてがあったのかもしれない。それには私もわずかではあるが、同情できる余地もある。彼らはまさに、政争の具で使い捨て。こんな状況で小沢がこけたら、誰も相手にしそうにない只の人だ。だがこの連中に対する海千山千の政界プロの利用価値はある。
 彼らの動きも、実は背後で利用されそそのかされたものだったという説もあるが、そんなこともあっただろう。せめて彼らは党に公約を守るという民主党の約束を取り付けるはかない期待を持ち、もう一度立候補したかった。マニフェストは実現不能の公約なのだが、彼らにとっては、地位に関わる大切なもの。しかし菅政権はこれを顧みてくれない・・・。

 こんな動きがきっかけとなり、間髪をいれぬように、続いてこれに対応するごとき政局ニュース、より正確に言うならば、主犯交代への様々な動きが次々に上がりだした。これらはもっと計画的ないつもの連中のやり口だろう。

 その中でも、私が取り上げた今度の公明党との裏取引のニュースはたちが悪い。菅首相がいまやろうとしていることをできるかできないかは別として、彼がまだ奮闘しているのをそっちのけに、もう同じ与党の幹部が策動して、彼の残された寿命まで平然と取引条件に工作をしている。悪魔のような嫌らしさだ。これが国民生活なんかどうなってよいと言わんばかりの傍若無人の政界だけに通ずる腹黒い駆け引きというものでもあるのだろう。

 
 国政の立て直しにはマスコミの立て直しも

 うんざりさせられる、こんなニュースばかりが報道されて。マスコミはこんな時こそ、与野党を含めて、全国会議員の国民生活をないがしろにしている体質を怒りを込めて報道し、彼らがいま、やるべきことは、何よりもまず、一億二千万の国民の生活を守り、国のゆるんだ体質をどう回復するかを訴え続けるべきだと思う。国民の望んでいることはだれが首相になるかではなく、どんな政治をしてくれるかなのだ。それをまともに追わない争いは、いま国を挙げて論ずるほどの緊急の問題ではない。
 政策の中には、与野党一致して「これはすぐしなければならない」と思うものもあり、ただ国会の無用の空転でいつまで待っても実現されず、国民が困っていることがたくさんあり、こんな大半の課題のほかに、一部の党派間の政治的主張の違いから、対立せざるを得なくなっているものもあるだろう。

 その両者を国民の前に峻別し、それを混同させて国民に迷惑をかけている国民無視の政党や議員には、国民優先の視点のない連中だとはっきり断罪し、無用の政治停滞の害を減らすのもマスコミのいまやらねばならぬ責務だと思う。当然手を差し伸べるべき苦境の中にいて、国会の決議を待っているものがいる。ここでの決定が遅れたら、もう生きていけないとハラハラしながら待っている人がいる。しっかり国の姿勢を定めねば、国際舞台での日本の立場がなくなるから、急いで決めるべきものもあろう。そんな人々の心を伝え、追い詰められた国の姿勢を正させ、無用の争いのほかに、どの党でも共通するやるべきことがあると求めるのがマスコミの国民とともに歩む姿ではないか。

 さて、脱線を戻して本題に進もう。今回のニュース、報道によると内容は、なんでも予算を通すために、公明党に対し、いま提出されている子供手当など民主党政府の社会主義風のばら撒き予算内容に、公明党の希望する修正を認めるから、予算と関連法案は我々の提出したものを修正して通してくれと持ちかけているというのだ。それをのんでくれたら菅首相の首を差し出す。そういう民主党のある大物の提案だという。
 提案しているいまの民主党議員は、もう民主党の政策自体を捨てている。何を目標にして政治をやろうとしているのか、どこが民主党とほかの党との違いかが、もうサッパリ見えない内容なのだ。
 おそらく、昨日の小沢系議員の造反の話で、参議院で関連法案否決ののち、再度衆議院で三分の二で可決するという方法が画餅に帰しそうになったので、今度は参議院で公明党の票を加えて、とりあえず可決させれば、内容なんてどうでもよいが、民主党政府が月並みではあるが予算を作って通したという恰好だけは付けようと参議院通過の方法を考えた。もう中身なんかどうでもよい。
「お前でも、修正はされたが一回、国の予算を作れたではないか」
それを手土産にして菅首相をやめさせて、次の首相を決めなおそうというところなのだろう。

 そこにはもう、政党による政治主張がどう違うかなんて何もない。もしかすると、同じような提案が、違う政策の変更を条件に、ほかの政党にも出されているのかもしれない。
 だれが政権の座に就くか、個人の面子と格好付けだけが残る国会審議の裏舞台だ。こんな馬鹿げたことしかできない国会、もう当の昔にどうすれば国民のためになる政策を掲げ、予算を使って政治をするかという基本などはなくしてしまった国会の現状に、どう我々は対応したらよいのだろう。こんな馬鹿げた審議しかできないのに、何で政党などの存在を認める必要があるのだろうか。

 並いる他の政党の面々を眺めても、国会が日本の健全な立法機関に復帰して、国民のために審議する可能性は、このままでは当面、望めないような気がする。長年政権を担当した自民党までが、発言を見ると、国民を窮地に追い込んでも、ただ民主党からの政権奪還に少しでも役立てばという次元でしか動いていない。日本にまともな政党なんて無くなってしまったと見るのは私だけではあるまい。残っているのは誰が役付きになるかを争う派閥だけだ。

 時代が変わろうとしているときに 

 見回せば、ネットなどの普及で、ネットで呼びかけられたデモなどの圧力で、強固に見えた政権が簡単にひっくり返るようなニュースがあちこちで見られるようになった。環境が急に変わり始めた。時代はどんどん進んでいるというべきか、あるいは従来の政権が、世界的に賞味期限が切れつつある時代になったというべきなのか。
 加えて、世界の過去の政治史を振り返ると、日本のいまの憲法に実によく似た憲法のもと、政治家が勝手なことばかりやるうちに、国家財政は破たんした例が各地で増えてきて、国民は絶望し、政治不信になった国民が、ファッショや独裁政権を望んだドイツやイタリアの例、腐敗政治が大政翼賛会を作ってしまった日本の過去の例などと似た例も再び復活しそうな気配だ。
 このままいけば、こんな流れに乗って、ワイマール憲法政治体制と言われてきた日本の政治も大きく変わる。

 一年半前の総選挙だって、国民がいまのような機能麻痺する政治を望んで、雪崩を打って投票をしたのではないだろう。政治の世界が無能力化して何もまともに決められなくなった。そんな自民・公明政治にイライラして、国民にまっすぐ向かいあうように正常化を欲するからこそ選挙で投票したが、結果は今のような、議会制度が崩壊へ向かう状態になってしまった。
 日本の政治がすでに耐久年度を過ぎていて、加えて健全な権力をチェックして、国民の声をしっかり受け止め伝えようとするマスコミなどの厳しい世論もない現状では、軽薄な宣伝に踊らされるとき、議会制度は簡単に崩壊する。日本はいま、その道を歩いている。

 そんな状態を衆愚政治というが、間違いなく衆愚政治に陥ってしまったいま、何を我々は信じ、どう動いたらよいのだろうか。赤字をこれ以上増加させ、国民の将来の苦しみに目をつむりちっぽけな餌をまきちらすような動きに乗らず、安易な判断に流されずに、賢く慎重に百年の計を立てて、考えながら動きたいものである。

北方領土問題に思う

2011年02月16日 18時19分17秒 | 私の「時事評論」
狼がやってきた
 太平洋戦争(正式名・大東亜戦争)が終わった直後、終戦交渉では領土割譲には含まれず、日本固有の領土として残るはずだった択捉・国後など北方諸島にロシア(当時のソ連)軍が突然上陸、抵抗する同胞を追放して無断で軍事占領してしまった。そして六十五年経ったいまも、ロシアはそこを返還しない。もちろんこんな行為を正当だと証明する根拠は何一つない。ソ連の当該地区の占領は、日本が停戦したのちの暫定措置のはず。少なくとも仮にいま、まだロシアによる占領中だと解釈しても、先の戦争終了の日露講和条約さえ結ばれれば、国際法がロシアの領土と認める根拠は何一つない。
 北方領土はすぐにでも日本に返還すべき日本固有の領土なのである。その前提で話を進める。
 ロシアが領土を返還しようとしないので、日露間には大きな未解決の問題が残り、領土問題の解決なしにまともな友好的国交関係も結ぶことができないので、日本とロシアは未だ相互友好関係が築けない。占拠された我が国の領土を、返還してほしいとの交渉は、終戦いらい何十年も続けられているのだが、ソ連(のちにはロシア)は決してこれを返そうとしない。
 ロシアには、「例え間違いであっても、一旦占領した地域は返還しないのが国是である」などという説もささやかれている。だがそんな国際関係を無視した横暴な方針は、関係外国にとっては迷惑至極な話。とにかくロシアの強引な占領がなんと六十数年も長引いて、事態はいよいよ困難になってきている。
 特に最近、水産、鉱物資源などで北方領土の利用価値が、ロシアにとっても次第に高まってきた。そこでロシアの大統領が北方領土に出向き、ここを日本に返還する意思がないことを演説するなど、日本はいよいよ苦しい返還交渉を余儀なくされる雰囲気にある。日本政府は急遽前原外相をロシアに出向かせ、領土の早期返還と平和条約の締結を求めさせたが、ロシア従来より、返還にはさらに消極的になってきた。
 ロシアの占拠もここまで長引くと、その間にこの列島に大陸から住みついたロシア人も増えてきて、事態はいよいよ解決しにくい様相を見せている。

 だが、北方領土が占領されたままなのは、日本にとり、国の独立を脅かす最も大きな癌である。国にとって最も大切な基本は領土、主権、財産の三つの確保だとされる。これを確保できない国は、世界から正当な独立国と認められない。北方領土の問題は、日本の国としての存亡、国家の独立にもかかわる重要な問題である。これから何年かかっても、返還を実現せねばならない問題であるのは言うまでもない。

 国際関係というものは
 こんな領土紛争が起こった場合、国際間の常識ではどう解決すべきものなのか。いまの日本のようにまず相手国に、「不法に占領している地域なのだから返還せよ」と要求し、国際世論なども利用して交渉するのは当然だろう。これで相手が返還に応ずれば、領土問題は解決するが、そうなるケースばかりとはいえぬ。
 いくら求めても相手が聞き入れなければ、最終的には異議ある国が、様々な制裁措置や軍事力などで実力で取り戻す以外に方法がない。今回の日本の場合は、まだロシアとの間の戦争が休戦中だから、日本が休戦協定を破棄するということになるのだろう。国際法は理論ではそんな軍事行動を正当なもの、適法の国による主権の行使と認めている。
 国際紛争解決に司法裁判所のような組織もなくはない。だが強制力を持たないために、及ぼす効果はほとんどなく、相手国が返還すると言わなければそれまでのもの。国際間ではどの国も、一つ一つが主権国だ。それらの国の上に、無理に一国に義務を押し付ける権威などはなく、最後は自ら取り返す以外に方法はない。結局こんな紛争解決機関で解決できるものは、相手が言うことを聞かざるを得ない、弱い国である場合に実際問題として限られる。

 

 終戦一週間前に突如対日開戦したソ連

 ソ連は、日本の敗戦決定の僅か一週間前に、日本が負けると知ると、突然米英に味方して参戦した。ソ連軍の北方領土進駐の時、日本は米軍主導による武装解除が進められ、軍備も武器も使えなかった。それにたとい敗戦一週間前に参戦したとしても、ソ連は開戦で戦勝連合軍の一軍になった。それが連合軍側の統一された占領か,ソ連独自の不法行為かは、日本には分からない。日本側には方法がなかった。
 より具体的にいえば、あとで知ったことだが、連合国では米英軍が日本本土は占領する手はずになっていた。ソ連は日本に進駐することになっていなかった。だがまだ日本進駐の主力・米国が軍事的支配を固めるその間に、ソ連は入り込んで占拠した。あとでこのように領土問題がこじれた背後には、だから戦勝して日本に来た連合軍側にも責任がある。すなわちどの国が日本のどこを占領するかは、戦勝国側の責任だった。米英がロシアに不法占領をやめさせるべきであったと言えばその通りだろう。だが米英は、占領する予定の日本領土の一部・北方領土をとられたままに放置した。この辺は、もう少し深く事情を調べて、徹底的に知っておきたいと思っていることだが。
 国が無防備になったその隙に、狼に奪い取られてしまったのがこの地域である。このことを日本人は忘れてはならない。あの時、ロシア軍は北海道までやってきて、北海道も占領しようと艦砲射撃を試みた。根室や釧路に住む年配の人たちは、そんな状況をよく覚えている。だが、北海道には既に米英などの戦勝国の占領支配が及んでいた。そこで狼は、北方諸島を奪い取るだけで諦めたのだ。
 当時のソ連は強国で、米英は国内に厭戦気分が高まって、藁をもつかみたくソ連と手を組んだ。米国も英国も、ロシアには日本領土の占領権は認めていないのに、ロシアが強引に居座って、腕力で日本領土を分断しようとしていることは知っていた。だが、それにまで対抗し、自分の国の兵士の犠牲を払ってまで、ようやくやっつけた日本の将来のために動こうとはしなかった。
 その間に時代は米ソ両国のにらみ合いの時代になり、千島は鉄のカーテンの彼方に押しやられ、六十年過ぎても返還されない領土になった。

 北方領土のことを論ずるとき、米英など連合国が、ソ連の違法に目をつぶった事実は、結果的にソ連の北方領土占拠行為を、長年ほう助することになった行為として忘れてはならない。

 米英など先の大戦での戦勝主要国は、それから七年後に日本に対して講和条約を結んで日本との戦争関係は失効したことを確認し逐次領土を返還した。ソ連はその講和条約には加わらずに、未だに日本と講和条約を結んでいない。ロシアによる北方領土の占拠が続いているため、未だに先の大戦が終了していない状態になっているからだ。

 ロシア、日本、大東亜(太平洋)戦争
 ロシアは日本にとって、きわめて厄介な隣国である。日露の歴史をここで逐一並べる余裕はないが、日本とロシアの両国間の歴史は、我々は生きていくための日本人の常識として知っておくべきものだと思う。
 ここで少々本筋からそれるが、ちょっと終戦までの事情を振り返ってみよう。大東亜戦争が終戦になる一週間前の昭和20年の8月まで、日本とソ連の間には、お互いに戦争をしないという不戦条約が結ばれていた。
 大東亜戦争は資源の乏しい我が国にとって、追い詰められて突入した敗色濃厚な戦いであった。もう国が戦いを続けられなくなったと昭和20年の春ごろから、日本は何とか休戦しようと、各国を通じて交渉を開始したが、その中で、日本が最も仲介国として期待していたのが何とソ連であった。日本国外交の読みの甘さははっきりしているが、とにかくそうだったのだから仕方がない。
 その交渉は駐ソ大使などが中心になって行われていたが、ソ連はこの状況を見て日本を応援するどころか、相手側連合国と参戦の交渉を進め、米国が原爆を落とし、日本が敗戦を決断したまさにその時に、対日中立条約を一方的に破棄して、日本に宣戦布告した。そして中ソから千島沿岸の国境地帯に集結していた総軍を投入して日本攻撃を開始した。ソ連の参戦は8月8日、日本が降伏を通知したのは一週間前の15日、ソ連はただ一国、日本が降伏した後の九月になっても、まだ軍事攻撃をやめなかった。
 この北方領土は1875年(明治8年)、ロシアとの間で話し合い、日本が領土の主権者になることを認め合ったロシアが認めた日本の領土である。この条約は千島樺太交換条約というが、日本はこれにより樺太の北部をロシアに提供していた。交換条約で決めたどちらもロシアが占領してしまっていることは、忘れてならぬことである。

 語り継ぎ主張続ける以外にすべはあるまい
 北方領土の問題は何百年経っても風化させてはならない。国が自らの領土を不法に奪われて何の意思表示もしないとき、その国は領土保全もできない無能力の国と見なされ、領土は衣服をはがれるように次々に剥ぎ取られ、住んでいる国民の生命財産は保証されず、その国は消滅する。
 いまの日本が返還要求を聞かないロシアに対し、軍事的に正面から衝突し、領土を奪い返す実力に欠けることはさすがの私も知っている。だがそれだからといって、この問題で妥協をしては国を危うくするきっかけになる。主張は一貫して続け、あらゆるチャンスを待たねばならぬ。
 我々は孫子の代までこの千島が、正当な日本の領土であることをしっかり語り継ぎ、常にロシアに対して主張を続け、考えられるすべての機会を利用してその返還実現に努力すべきだと考える。
 大東亜戦争がソ連以外の国々との間では解決したが、そのソ連を引き継ぐロシアとは、まだ法的な平和が回復していないのは残念なことである。しかしここで北方領土の問題を棚上げするような格好で、ロシアとの関係正常化を求めるのは日本にとってよくないことだと思う。孫子、そのまた孫子の代までかかろうと、日本固有の領土である北方領土の主権は、主張し続けるべきだと思う

大相撲の八百長騒動

2011年02月10日 06時41分09秒 | 私の「時事評論」
思わぬ波紋

 蔓延していた野球賭博事件は暴力団の資金源になっている疑いがあると、警視庁から取り調べを受けて注目された相撲界である。これに対して相撲協会は不祥事を起こして申し訳ないと陳謝して、天皇杯の拝受まで辞退して綱紀粛正を約束、恭順の意を表したのだったが、今度は前回の疑惑に付随して、八百長相撲疑惑飛び出した。おかげで相撲の世界はこれにより、さらに大きく揺れることとなってしまった。

 これは捜査の結果、直接先のとばく騒ぎには該当しないが、これは警察が調査していて浮き上がった新たな問題点だと報告されたものだったが、それに加わっていたとされる八百長疑惑の十数名の力士や関係者の名前までがズラリ表に出された大変なもの。それが公正なガチンコ勝負を売り物にしてきた大相撲に庶民が求める神聖性に直接触れる問題であったのでたまらない。相撲協会は前回以上の袋たたきに遭った格好になり、春に予定していた大阪場所も中止、今年の地方巡業も中止して、協会としては疑惑を徹底的に追及して洗い出し、必ず相撲界を正常化すると発表していま調査中だ。

 日本には相撲は神聖な競技であるとの神話がある。それは相撲が五穀豊穣を祈念する神前の行事からの古い歴史を持っていることにもよろう。江戸時代から髷を結い、格別の待遇を受けてきたことにもよるだろう。庶民にもてはやされた横綱谷風や雷電の話なども影響していよう。相撲絵などは庶民の人気を表わす何よりのものだ。相撲という競技は互いに素手で技を競い合う世界各地で発生した最も基本的競技だが、日本では神さまの見ておられる前で、正々堂々、力の限り組み合う特別な競技と信じられ、横綱は腰に紙垂のついたしめ縄を巻き太刀を従え土俵入りし、力士たちは土俵を清める塩をまき、全てが神事に準ずるとされ、力士は神さまに見られても恥じないよう全力をもって勝負に挑み、ルールなどにも日本独特のものが定められて、「お相撲さん」は日常生活でも庶民の格別の尊崇を浴びてきた。

 伝統的な相撲は江戸時代、明治時代から昭和のいまへと独自の発展をし、いつの時代も国民的関心を持たれてきたのだが、そんな勝負の背面に、裏で打ち合わせの八百長密約があったと指摘されたのだから、騒ぎが大きくなったのは当然である。まじめに毎日の勝負を胸躍らせていた多くの国民が「裏切られた」という気持ちになって、批判の声が、全国各地から一斉にあげられることとなったのも当然だった。

 今回、こんな騒ぎが持ち上がる前までは、八百長騒ぎなど、起こったことがないし聞いたこともないかといえばそんなことはない。日本人の大衆にとっては、相撲は庶民の日常の楽しみであり、力士たちの勝ち負けは多くの人の関心事であった。
 それだけ大衆娯楽に占める相撲の地位は高かったということにもなろう。それに応じて、相撲の勝負が庶民の間の賭け事などに利用されることはきわめて多く、「あの力士があんな負け方をするはずはない」、「あの裏には何かあるのではないだろうか」などという声は聞きあきるほど巷間で騒がれていた。ちなみに「八百長」という用語自体が、相撲界に関連ある言葉であるのは皆のよく知るところである。

 こんなうわさは昔からあったが、それは庶民が相撲は真剣勝負と信じたい期待の裏返しでもあった。庶民が巷で交わす八百長論議は、「お相撲さんに限ってそんなことはないだろう」と漠然とでも信じたい日本人の心情だったともいえよう。現に最近でもそんな国民的人気を逆に利用して、大相撲の勝負に八百長疑惑があるという報道は週刊紙などイエロージャーナリズムの読者を手っ取り早く確保する絶好の話題として提供され、元力士や関係者の証言なども加えてひっきりなしに繰り返されてきた。その多くは相撲協会などの雑誌社相手の訴訟にまで発展したが、いずれも完全に白黒をはっきりさせるには証拠不十分な結末と私には見える結果に終わっている。それは、ここにあげる八百長という事実が、必ずしも皆の見る勝負の戦われ方という外面によって決まるのではなく、そのほかのところで、物証など動かぬ証拠をあげなければ断定できない面にもよるのだろう。



 八百長と無気力相撲

 ここで、「八百長」という言葉の概念を、しっかり固めておく必要があろう。一般の人は漠然とした概念で「八百長」を捉えている。だが一般には八百長だと言われる取り組みであっても、それは「八百長」という概念に当てはまらないケースも多い。相撲の取り組みには、まるで力が入っていないかのように見えるものも、想像できない番狂わせもあるが、これだけを見て簡単に八百長とは言えないのはもちろんである。最近時々あげられる無気力相撲というのも八百長とは違う。立ち上がったのだがさっぱり勝利をしようという気力が感じられないもの、あるいは「片八百長」などとも言われる相手に対して戦意が感じられない取り組み、これらも相撲にとっては望ましい取り組みではないが、この改革は別の次元の話だろう。

 「八百長」相撲とは、外目には、まともに争っているように見せながら、当事者同士が事前の打ち合わせ通りに勝負をつける相撲を指している。それは大半が対価を伴い、対価としては金銭などがその背後で動いたり、そのあとで星のやり取りや埋め合わせが行われることが多いと聞く。もちろんここにはボスや暴力団の組関係者などが加わって、相撲場以外のとばくなどの側面に彼らが利用する場合なども含まれる。こんな相撲が「八百長」の一般的定義である。

 だとすると、相撲を見ていて、素人が眺めておかしいと感ずる様なものは、もしそれが「八百長」であるのならば、八百長道から見れば最低拙劣の部類に属するものというほかない。誰にでもすぐにばれるからそんな不器用なものがいつまでも続くはずがない。一般の人が八百長だと騒ぐものの大半は実は八百長相撲ではなく、勝負する力士同士の、あるいは一方の闘争心の結果、気力の欠乏の結果なのかもしれない。

 「これが俺にとって最後の勝負だ。負ければ俺の力士生命は終わりにしよう」との思いを込めて必死で取り組む片方がおり、もう一方は「可哀そうだがこの人もここまでか。おかげさまで俺は今場所勝ち越したが」などと思う片方がいる場合、これは決して八百長とは言えないが、勝敗の結果はかなり明瞭になるだろう。相撲の世界では心と技が一体とならねば勝利はないという。こんな取り組みはもう、一方が取り組みの前に負けて戦意を喪失している。これらの取り組みも相撲道の常識からいえば、決して望ましいものとはいえないのだろうが、これらを取り締まるのには、「八百長」の概念は通用しない。力士たちに真の相撲道の厳しさを教えなおす以外にないだろうから。

 問題となっている「八百長」は、金銭の授受または対価の提供により、双方が合意の上で、仕組まれた通りの結果を出す取り組み負けたほうが報酬をこっそり貰う取り組みである。もし調べが正常に行けば判明するだろうが、それは見る我々素人などが、外から見るだけでは決して判断できなかった巧みな演出が施されていて、その契約をした当事者以外には、外から見抜けないものであるだろうと推測する。
 それは当人同士または関係者の自白によるか、動かぬ物的証拠がなければ、神さま以外には分からないものだ。
 今回の警察の調査は、偶々電子機器の類は特別の操作をしない限り、消したつもりでいても一度記憶した足跡が残るということに関係者が無知か不用心であったために、動かぬ証拠が挙げられた特別な例だ。だがこれを見て、もし脛に傷を持つ経験者がこのほかにもいたら、正直に白状するよりも、証拠隠滅に走るだろう。もっともこの不正取り組みのやりとりに大勢の関係者が加わっていて、組織ぐるみの様相を示していた場合には、口裏合わせに齟齬をきたして問題が表に出る場合も考えられる。だがそれはそれでまた、より悲劇的な結末に向かうだろう。



 李下に冠を正すな

 話題に挙げられている力士や関係者の残した携帯電話のやり取りは、確かにとかく物証がつかみにくい世界で、こんな面では動かぬ証拠になり得るだろう。だがすでにやり玉に挙げられた以外に対しての拡大は、見つかったからしょうがないと諦めた連中以外からは、なかなか出てこないだろうと考える。ではどうするか。秘密警察の常とう手段のように、密告制度などの導入意外には難しいだろう。だがこれは相撲の成り立っている組織そのものを破壊する。角界内の相互不信を増すことになる。とるべき対応ではないと私は思う。そうなるともう、結論は見えている。こんな馬鹿げた話が今後も出る地盤だけは何とかなくし、未来に向かって姿勢を正す以外にはないだろう。信頼の回復には時間がかかるが、それ以外には道はあるまい。

 おそらく相撲協会の八百長徹底調査にも限界があるだろう。私も相撲界の中にあるこの種の過去の疑惑すべてが、これですっきり晴れるなどとは思わない。中にはそのままじっと首をすくめて鎮静を待つ者も残るだろう。だが、今回の相撲界の場所も巡業も中止してでも自粛のために努力しようという相撲協会の判断は、大きな自浄効果を発揮することになると信じたい。角界関係者がよほど世間常識を欠いた愚か者ばかりの集団でない限り、こんなことが続けば相撲界全体がもう、従来のように存続していけない事態を迎えたことを皆身にしみて知ったことだと思う。こんな中で、まだ旧来の悪弊を繰り返そうとしたら、全国の相撲フアンが放ってはおくまい。それを彼らが知っただけでもプラスである。

 昔から言い古された言葉だが、李下に冠を正さずというのがある。果物畑で冠の傾きを直そうと手を挙げても、それは果物を盗もうとしているととらえられかねない。相撲の世界はほかの社会と比べて、ある意味で古い時代が化石のように生き残っている世界なのかもしれない。ゴッツァン体質などと言われる周りの誘いに防備が甘いのもその一例だ。行動には充分の注意を払ってもらいたい。だが反面、日本の伝統的な国技と称せられ、日本の各種各様のスポーツの中で、別格と思う国民意識はいまもあり、相撲道の中に日本人の精神性があるとの期待がもたれているのも特徴である。相撲を日本に残すか残さないかを決めるのは日本人の総意だが、それはこれからの相撲界の対応いかんによることを知るべきだ。

 相撲には老若男女、広い層の愛好者があり、天皇陛下がわざわざごらんに見えることでも知られている。力士は日ごろ不断の修練を積み、潔さ、男らしさ、正々堂々さ、正直さ、勇敢さなどをもった英雄たちであると国民には力士に夢を感ずる気風は強く、いまでも全国の青少年には将来は力士になりたいと憧れるものも多い。

 この誇りを保ちうるかどうか。多いに注目して眺めていきたい。

 最後に蛇足を一つ。先にあげた八百長の解釈の中でも述べたが、私は相撲道にただ腕力だけが強く、相手をなぎ倒して顧みぬ力の誇示、手心加えぬ乱暴さを期待しているのではない。日本人がいままで歴史的に力士たちにかけた夢は、情にやさしく思いやりあり、いざとなれば怪力無双の英雄の姿であった。それがあるから相撲取りは少年たちのあこがれの対象であった。合理性と透明性を持つことは、相撲が単なる現代風スポーツに変身することを意味しない。相撲はあくまで相撲であってほしいものである。


亡き母をしのんで

2011年02月05日 19時33分00秒 | 私の「時事評論」
二月の立春

 私にとって、毎年めぐってくる節分・立春の時期は若くこの世を去った母を偲び、自分の過ごしてきた道を振りかる最も大切な時である。

 私は40年近く全国の神社を対象にする新聞社に在職、報道するばかりではなく、自らも日本文化の精神的な核と信ずる神道発展のために、その活動の一端も担ってきた。そんな仕事に入る転機を作ってくれたのが母であった。節分・立春の行事が終わると、戦後はその日を祝うことさえ禁止されていた建国記念日・紀元節がやってくる。その日は私共にとってはメモリアルデーともいえる。母を偲ぶ二月は私にとり、過去を思い新しい年を迎える心の正月のような意味も持っている。


 戦中戦後と奮闘を続けた父母

 お決まりのサラリーマンから、神社の新聞の新入社員になったのは母の強い勧めの結果であった。そしてこの選択は私の生涯を定めることとなった。

 父は戦時中から先の大戦がダラダラと決断なく進めば敗戦必至として、一刻も早い和戦を求める活動をしていた。この戦いは西欧白人社会が世界を支配してきた枠組みに、有色人国家としてただ一国抵抗してきた新興日本が、西欧諸国に追い詰められた結果の戦争であった。勝算はほとんどないし、背後には白人諸国の憎悪も強い。負ければ異質の有色人文明をもつ目障りな日本は、文化を含めて叩き潰され、白人支配の衛星国に陥る以外には無いと見て父は和戦を主張した。そこで日本側からも国家存続の条件提示ができる無条件降伏が相手からまだ提起されないうちに、一刻も早く休戦を申し出、終戦条件として残し得る部分だけでも日本らしさを残せと、軍部の厳しい弾圧に抗して走り回っていた。だがついに最悪の結果で日本が降伏するとの情報に接すると、全てをなげうって神社をまとめる民間の組織を作り、神社を護る活動に取り組んだ。米英は間違いなく日本を変え、二度と白人社会の秩序を乱さぬよう国の体質を徹底的に転換させようとする。国とも多くのかかわりを歴史的にもってきた神社も、このままでは信仰の教義まで西欧化され、日本文化の特徴を未来に残す方法が消える。苦節の末に占領政治の先を越し神社をまとめる民間組織を作った父は、占領中、そしてそれに続く戦後の時期も、自らはその広報部門を担当する新聞社を作り、皇室擁護、神道擁護、日本の伝統文化の保持などに孤軍奮闘の動きをしていた。

 その仕事は激務だった。世の中の趨勢に逆らって、寝食を忘れて動いたので身体を壊し、皇室や神道文化の精神的核ともなる紀元節の日を、粘り強い運動の結果、占領軍に廃止させられていたのを十数年ぶりに「建国記念の日」として復活させると、ついに自宅の鎌倉から、東京まで往復することすらできなくなってしまった。

 こんな父を戦時中の日本の軍部との戦いの時代から、生涯支えてきたのが母だった。母は昭和10年、十八歳で嫁いできた。女学校を出たばかりの母に、父は世界文学全集から思想書までの広範な書籍を自ら解説を加えて読ませ、日本の歴史書、和洋の文学から音楽、映画と様々な教養を身につけさせた。その結果母は、父のもっとも熱烈な戦友に育った。情熱をもって語り、実践する父を、母は世界一のますらおであると信じ従った。その姿は私から見ると、あのドンキホーテとサンチョパンサのような感じだった。

 私はこんな両親の長男として昭和12年に生まれた。続いて二つと五つ下に弟もできた。母は三兄弟を、まるで昔の講談に出てくる義理に厚く情けに弱い男、自分より周りのことを大切にする子供に育てようとした。
 戦前の我が家はかなり豊かであったが、戦後は貧窮の中だった。それはどの家も同じだったとも想像するが、父は戦後も収入などとは程遠い仕事に没頭したので、戦後二十年間ほどは、国は朝鮮動乱などで一息つき、経済は上を向いてきた時期になっても、我が家の環境は変わらなかった。

 だが、そんな中で、父を日本国のますらおと信じ、父のために全力を尽くすと決断した母は強かった。父の着古した服を裏返しに仕立て直して身につけ、化粧一つすることのなかった母は、家庭を全て一人で背負って働いた。子供たちにはどんな時でも曲がったことは許さなかった。母が最も強く子供を叱ったのは、嘘をついたり逃げ口上を言う、愚痴を言う、自分のことより兄弟のことを先ず考えない、人を羨ましがることなどだった。貧乏はしても、鎌倉の家には広い庭があり、裏は薪を拾う山を背負っていた。母は庭を畑にし、裏山から枯れ枝を探してきては燃料にし、屋根に上がって雨漏りを補修し、家にあった道具類を食料品に物々交換し、三人の子どもを助手に我が家を支えた。鎌倉は海岸が近いのも我々にとっては有利であった。海には豊富な塩分と大量の海草があった。

 母はいつも子供たちに言った。

 「おまえたちはお父さんとは品格が違う。何もお父さんのように、全てをなげうって信ずる道を求める武士になれとは言わない。だが、お父さんの子であることを誇りにし、どんな仕事に進んでもよいが、正直で優しく、苦しい時でも歯を食いしばって助け合って生きる真の男の子に育ってほしい」。

 だが、男の子は家庭にあって、なかなか父と直接腹蔵なく話し合うことができないものだ。子供にとって父は偉すぎるし、父は子供に本音を語るのはどこか恥ずかしい。しかも父はいつも不在がちだ。我家でも、それを埋めてくれたのは母であった。母は家庭での家事、我が家の子育てのほか、父の助手役までも務めていた。父の書いた原稿を整理し、父の集めた資料をいつでも参照できるように準備し、訪ねて来る人の応対をした。父の仕事の仲間や親戚の叔父叔母などは「あの家には珍彦(父の名)さんが二人いる。テル子さんは小珍彦だ」と語り合っていた。そんな中で、子供が何を考えているのかを父に伝え、父は子供に何を期待しているのかな子供に教えてくれるのは母であった。母の存在、これによって我が家の親子はたがいに一つになることができていた。


 結局は父の後を継いだ私

 あまり長々と書き連ねるのはこんなブログにそぐわない。書き始めるとあれもこれもと思い出をつづりたくなるが先を急ごう。そんな母の指導もあり、父とは違う分野に就職し、平凡で怠け者のサラリーマンをしていた私に、就職をしてしばらく経つと、

「お父さんは心の底ではお前に跡を継いでもらいたいと思っている。お父さんとよく話して、手伝いでもよいからやってくれたらどうだろうか。サラリーマン生活はもう充分楽しんだろう」

と何度か母は話に来た。

 父にも疲れが出てきたのと、社会の情勢が変わり、父もまた、若干ではあるが収入も期待できるようになったからであろうか。私は父の仕事は高く評価していたが、自分のような凡人にできることではないと思っていたので、簡単に母に賛成はしないで聞いていた。

 そんな中で三十歳を目前にしたある日、勤務していた地方都市から東京郊外に転勤になった私の住まいへ訪ねてきた母と一杯飲んでいるときに、母は表情を改めて父が過労から満足に動けなくなったことを知らせた。様々な状況を細かく聞いて、私はその話の裏に、母は言わなかったが父の意思も見た感じがした。

 それが動機となって、私は父の仕事の仲間たちや父本人とも話し、結局転職を決意した。家族を率いて鎌倉に戻った私は、朝から晩まで新しい仕事のために猛勉強をして入社した。一年間は将来のためにと編集長付きの研究員として特訓を受け、ようやく軌道に乗って仕事をすることになったのは、母を失う二月前のことであった。


 母倒る

 この年は格別に寒い日々が続いた。昭和45年、3歳になった私の長男と、誕生日が過ぎ、よちよち歩きを始めた長女を相手に節分の豆まきで思い切りはしゃぎまわった母は、翌朝、明るい顔で出かける私を見送ってくれた。

 新聞取材と編集に携わっていると夜帰るのが遅くなる。しかも私は家で当時も静養しながら主筆として原稿を書き、部下を指導する父の連絡係も兼ねており、家に帰ると、時には翌日の朝がほのぼの白むころまで、父と様々と話し合うことになる。

 母は節分の夜、私ら父子につきあうつもりか、なじみの魚屋のおやじが届けたアワビをぶつ切りにし、それを肴に一人で横でコップ酒をしていた。父は酒は飲まぬが母は大好きで強い。母は「風邪をひいたかな、頭が痛い。鎮痛剤の代わりだ」などといって強い酒を水も飲まずに舐めていた。母は翌日、くも膜下出血のために倒れて再び帰らぬ人になった。いまにして思えば、もうあの時少しずつ、出血が始まっていたのだと思う。

「孫どもが怖がって面白かった。思い切り脅かしてやった」

などと孫どもを脅して自分もはしゃぎまわったこの夜の豆まきのことなどを楽しそうに報告して、父との間の堅苦しい会話を妨げたりもした。 


突然の知らせ

 校正。小さな週刊新聞社の私らは、自分で書いた記事を印刷工場に持ち込み、出てきた棒ゲラ(活字を拾ってそのまま裸で並べたもの)にインクを付けて紙を乗せて校正し、組み版という大きな新聞紙大の鉄板の上に並べて割り付け、さらに校正を重ねて出来上がったものを紙型にとり、鉛を溶かした筒型の鉛板を作り輪転機にかけるまで立ち合って帰るのが印刷日の仕事だった。その日もそんな作業をしているときに、突然家から電話があった。

「お母さんが倒れて救急車で病院に収容された。意識もなく、危ないから、大至急息子さんたちを呼べというお医者さんの指示です」

という寝耳に水の連絡だった。

 あわてて病院に駆け付けたが母には意識がない。くも膜下出血は最近では急速に外科手術も発達、かなりの人が脳手術で助かるようになった。現に母が倒れて約20年後、私の妻もまた、これで倒れたが手術に成功、後遺症もなく現在も元気で暮らしている。ところが40年前にはそれもほとんど普及していなかった。

 三日三晩、ハラハラしながら皆が交代で付き添ったが、要は止血剤が効いて出血が止まり、意識が戻るのを待つだけだった。結局意識は一時戻りかけたが、回復せぬまま再出血で二月七日の早朝、幽界に旅立った。享年五十二歳と三カ月、鎌倉では珍しい寒い朝であったが、あまりにも早くまたあっけない突然の旅たちであった。

 あれから四十一年を経過した。突然だったので、嘘のような気がして、いまでも時々傍らに母がいるような気になることがある。いまの私よりも、二十歳以上も若くして逝った妻よりも若い母の遺影を眺め、母が生きていたら、こんなとき、どう言うだろうなどと思いながら暮らしている。

 生きている間中、自分個人の楽しみも味わうこともなく、化粧もせず美しい服も着ず、ひたすらに父の支えとなりながら義母の世話や子育てに奮闘した獅子奮迅に飛び回った母。その母のすすめで父の後を継ぎ、自分では何とかお役にも立てたのではないかと思っている。
 母の没後も毎日父と連絡をしあって、昭和天皇のお見送りがすむまで二十年を父の助手をして過ごし、父の死後はちょっぴり自分らしい仕事もできた。母が尊敬して従った父を、母の死後も母が期待したように手伝って、そろって幽界に見送りしてもうすぐ二十年だ。
 もう少し母が生きていてくれたなら父と母に、そろって温泉にでも行ってもらうこともできたのだが。そんな楽しい日を過ごせたならば父だって、あんなさびしい晩年は過ごさなかっただろうに。それに私ら三人の息子がまじめに生きる姿を見せられたのだが。孫たちが、明るく育つ姿も見せたかったのだが。

 年祭を前にして、霊前には思い切りたくさんの酒を並べた。日本酒、ビール、紅白ワイン、焼酎。好物の肴も並べた。夫婦そろって嗜好のタバコも供えた。飲めない父のためのジュースも供えた。その前で、一歳の曾孫から73歳の私まで、せめて皆がそろって、霊前に頭を下げ、賑やかに酒盛りする姿を見てほしい。

写真は両親と私の弟たち、鎌倉葛原が岡 昭和30年ころ

 

親孝行の方法を教える時代

2011年02月01日 21時56分56秒 | 私の「時事評論」
 親孝行の方法が分からない
 先月曜日の朝のNHKワイド・ショーはなんと「親孝行」をテーマに取り上げていた。
 それだけのことで驚くのは、私があまりにも時代の流れから取り残されているからだろうか。何でも最近は親に孝行をしたいと思うが、そのやり方が分からないという人が多いのでこのテーマを取り上げたのだという。
 番組を見るとはなしに眺めていたら、いまは核家族の時代になって、親元から離れて都会に出てきて、親とは離れて別々に暮らすことが当たり前の時代となってしまった。だが離れて交渉もほとんどなく暮らしてある年齢まで来ると、思いだすのは故郷にポツンと暮らす親のこと。だが、現代文明の風潮の中に暮らしてきた子供たちには、育ててくれた親に対して、どんな顔をしていまさら「親孝行」などしたらよいかが分からない。そこでテレビで代表的な、現代における親孝行の成功例を紹介しようとの企画のようだ。
 番組では、せめて年老いた両親に老夫婦での旅行などをプレゼントしようと実施、なるべく老夫婦でゆっくり楽しんでもらいたいと干渉しないように眺めていたら、旅の終わりに母親から、こんな機会だから、「もっと子どもとゆっくりあれこれと雑談する時間がほしかった」と言われてしまった話。いまさら親孝行というのも照れくさいから、いまはやりのゲームに興ずるように、「これは一種のゲームだ。親孝行ゲームというものをやっているのだ」と自分に言い聞かせ、何とか孝行をしている話などが紹介され、また、離れて暮らす母親に、毎週欠かさず絵手紙のはがきを出し続け、それが800回以上も続くことになって、様々な波及効果まで生み出している話なども出てきた。
 
 日本に育った独特の文化の心
 ほんのわずかではあるが戦前の環境の中に幼・少年期を過ごし、戦後も基本的には変わらぬ環境の中で育った私には、ただそれを見て、「ああそうか」と素直に言っていられない気持であった。私の家はいまでこそ、日本ではマンションといわれるビルを刻んだ一角に住んではいるが、玄関をはいると正面に祖父の胸像と父の生前に記した多くの著作が大きな書棚に並び、祖父の像の後ろには父の書き残した「無改父之道可謂孝矣」「父の道を改めず、孝と謂うべし」という書が掛けられており、客間に行くと祖先の霊璽が一間の床の間をつぶして神棚とともに飾られ、父、祖父、曾祖父の写真が欄間に並んでいる。私が我が一族の長兄なので、そこでは毎年祖先の慰霊祭を実施し、曾祖父以来の類縁の方が式年(十、百などの節目の年)には集まってこられる。親孝行はどうやればよいかなどと問われるような過去のものではない。
 私の父や叔父叔母は、「親孝行は子供たちの義務だ」と堂々と子供たちに言う環境に私らは育ったし、「親不孝者!」と叱りつけられるのは最大の恥辱であると思う環境の中で大きくなった。

 日本は何千年の昔から、親孝行は生活の基本であった。日本はよく知られるように米作を中心とする農耕社会であった。米作は山の頂上から海岸の河口まで、調和のとれた水田での耕作が必要になるし、水源地の山林から川の流域の水田、そして河口まで一貫した治山治水と水田での共同作業の積み重ねが収穫に大きく影響する。そのために水源地から河口まで、住みついた人々の家族あげての従事が最も良い方法と固まって、本質的には変わらぬ暮らしが改良は度々されたながら継続して、そんな生活が日本人の国民性やら信仰、生活感などを作り上げてきた。その中から生まれたのが「五穀豊穣・敬神崇祖」の信仰が支配する日本人の生活だった。
 それは世界のほかの国とは異なって、日本が民族が自由に行き来ができた大陸につながる国でなく、海でよそとは隔離された自然の鎖国的環境に支えられる国だったので、現代まで変わることなく継承されてきた。海があっての鎖国は全く往来をする者の存在を許さなかった環境ではなく、知識を伝えあう技術者の少人数の船での往来や、僅かな文物の往来だけは常に大陸の国々と可能であったために、海による環境的鎖国は、国の侵略されるほどの危機は薄く、反面、知識の往復なにはそれほど障害もなく、文化はそれなりに共有できた。かくして日本以外の大陸の最新の技術などが伝えられるに際しては、大陸諸国よりの圧力もなく、それを独自に日本的風土に合うようにも改良されて普及した。
 先にあげた私の家の玄関の父の書などは大陸渡来の漢字をもってつづられており、親孝行の概念にも、大陸の儒教の概念なども大いに影響している。しかしそれが日本に伝わって日本になじむと、大陸とはやや趣を変えて、日本のものになっていて、その意とする内容はすっかり大陸のものとは異なったものになっている。大陸を経由して日本に入ってきた仏教などまでもが、日本の伝統的な信仰と習合して、全く別といってよいものに変質しているのも、この種のものに関心のある方にとっては常識である。
 そんな中で熟成されて育った思想の一つが、日本流の親孝行の思想である。

 世界の中の日本の位置
 私は日本に育ったものの考え方を、「世界に唯一の独特のもの」とまで断定しようとは思わない。ガラパコス島に残された珍しい生物ではないが、かつては世界の各地に日本の文化や思想と同じようなものが存在していたが、日本以外が大陸と直結していた地域的特性の故に、その後の民族の交流や移住文化と先住文化との摩擦などを経て大きく変質、日本だけにいまは残る特異なものになってしまったのかもしれないとも思っている。とにかく文化は高度に発展をしているが、その基礎に農耕文化、特に稲作文化の共同社会とその中での家族・一族中心の生活感を濃厚にもつ文化が日本には定着していた。
 だがいまから65年前の敗戦という日本が西欧諸国に敗戦し、有史以来初めての西欧諸国に従属(極端な用語を用いれば征服)されたのを機会に、文化・思想の全てを否定して、家族を縛る紐帯を捨て去り、社会を個人より優先する意識を払拭させられた結果、こんな「親孝行のやり方」を皆がテレビで知らねばならないような事態が訪れたのだと私は思っている。急激な旧来の思考の廃棄と新しいもののとりいれが生んだ珍現象が、親孝行に関して起こっているということなのだ。
 我が家はあの敗戦のとき、日本思想の核でもある思想信仰を守る立場の仕事をする家だった。そこでわが父をはじめ一族は頑なに西欧の先進風潮に抵抗して、つぶされていくガラパコス的日本精神文化を護ろうとした。そして国の表面から、それらが消え去ったかに見えた後でも、一族の内部の気風は消さないでいままで来た。
 だが、木に竹を接ぐような文化はそのうち枯れていくほかにない。本当に我が国を西欧化するのなら、土壌を代えて根を抜いて、種からそれを植えなければならない。鎖国的雰囲気の中で穏やかな気風をもっていた我が国文化は、たった65年の間に、ここまで大きくその中身を変えてしまったかと目を見張る勢いだったが、やはり落ち着いてみると段々と樹勢が衰えてきたと見るべきなのではないだろうか。


 日本の歴史をもう一回振り返ってみたいものだ
 親孝行などという発想は、それ自体が近代思想に全くないものということはできない。それは多くの部分が動物本能的なものから発展した要素を持っており、現代の諸外国においても多くの部分において共通する内容を持っている。親は大事なもの、親は子供が大切にするもの、この発想は大綱において否定できるものではない。
 だが、日本に育ち伝わってきた親孝行の思想は、原始時代から育ってきた日本文化とともに育ってきた匂いや色を持つ考え方である。人々が米を安定して作って生きていくために、共同社会の一員として生きていくことが大きな効果を持つというところから発し、幾多の社会の変化に応じてそれが変化させてきたものであり、微妙なニュアンスをもったものである。日本の親孝行は、個人はもともと個の存在から始まるとする近代西欧思想の親子関係認識とはもともと異質の考え方を持ち、本能に近い原始的色彩を帯びている。
 そしてそれが日本人の生活の円滑剤として作用して、日本の文化を作り上げてきたし、今でも日本人の生活の様々な分野で生きている。だが、最近のニュースなどには、親が親として日本の共同社会での素養を積んでいないために起こっているとしか思えないような、子供への思いやりが欠如した結果引き起こされた事件、子供は立派に独立したが、育てた親はそんな子供に貢ぐだけ貢いだあげく、子供に見捨てられてさびしく死んでいく事件、親が全てを注いで子供を育てたそのあとで、「子供に裏切られた、この恩知らず」とわめいている話など、家での親・子・兄弟・祖父母などの役割を知らない結果起こる不祥事などが乱発する傾向にある。
 このままで良いのだろうか。私はもう少し、日本人はかつて我々の祖先が何千年も生きてきた精神思潮を冷静に眺め直し、その中でいまでも取り上げれば必ず日々の暮らしが明るくなるものを復活させる生き方を考慮したほうが良いと思う。
 以上が私の親孝行論への感想である。