葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

いよいよ明日が投票日

2012年12月15日 18時48分39秒 | 私の「時事評論」
いよいよ明日投票


 明日はいよいよ総選挙の投票日、今回の選挙は投票予想などを見ると、前回、三年前の自民党政権への不満が爆発的に高まって、一挙に民主党政権が出来上がった状況の揺り戻しのように、政権の奪還を目指して安倍晋三元首相の率いる自民党が政権奪還をしそうな気配だそうだ。
 時計の振り子のように国民の投票動向が揺れ動く。これは大衆に確たる政治的信念がなく、しかも目の前に不満ばかりが堆積しているときに起こりうる現象で、ほめた見方をすれば、自由な選挙が行われていることの証明のようなものだとも思う。しかも今の選挙制度は基本が51%がすべてを支配する制度だし、比例区がその微調整のような役割を持っている大政党有利の形。結果的には得票数以上に議席数に影響する。
 だが、選挙はそれからの政治の担当を決めるもの。選挙のたびにただ現状に対する不満だけで投票の結果が逆転する左右に振り子現象を繰り返す繰り返しでは、いつになっても政治環境は安定しないし穏やかなものにならない。とくに前回の怒涛のような民主党の躍進は、その二年後に行われた参議院選挙ではやくも反民主党勢力の自民など野党グループに大きな敗北を喫し、その後生じた衆参両院の勢力反転のねじれ現象が日本の議会制度そのものを円滑に運用する力を失わせてしまった。津波のような大波が選挙のたびに右に左に揺れ動くのでは政府の方針は猫の目のように変わり、国政は民主党内閣でなくてもまともに進まない場合が多い。
 今回の予想される自民党などのグループの大勝は、衆議院・参議院をどちらも視野に入れての観測から眺めた場合は、先の参議院選挙と今回の総選挙、そこには同じ方向の国民の選択が見られ、ただ揺れ動く国民心理のみが票の動向を左右しているだけだとみる現象とは言えないのが救いだが、予想される安倍新政権はまともに動くだろうか。政治に不信となった国民心理が今は強く漂っている。不安定化した政治運用に、よほど腹をくくってかからねば、せっかく円滑に政治を行おうとしても、麻痺をしてしまった行政組織が整備される前に、また国内不満が高まって、早くも振り子の第一波が参議院選挙に出てくることもありうるのだと注意をしながら進んでほしい。
 政治の力や行政機能の無能化は各方面で我が国をむしばんでいる。とくに東北大震災のあとを見るとよい。大震災からの復旧は掛け声だけで進まない。こんなにも長い間、生活もできない人々が放置されたままであった震災の例は近年その例がない。津波の傷跡がそのままいたるところに放置され、あたり一帯が荒れ地で復興の元気な槌音も聞かれない。これが今の日本の姿である。
 こんな厳しい状況で東北の人たちが苦しんでいるのをそっちのけにして、選挙は今動いている原発を止めるか、ふたたび再起させるかのみに集中しているように感じられる。こんな冷たい国や国民で良いはずがない。救急活動のような緊急事態と、将来の日本の在り方を問う国家方針との混同である。
原発の論議は確かにあの東北大震災での福島原発が発端になったものだ。こんな福島のような状態が、将来福島以外のほかでも起こるとなれば日本は沈没するだろう。だから原発などは廃止すべきだ。その第一段階として原発の再開はやめろという主張が出てくるのはわかる。私自身も、こんな愚かな原発などに飛びついた連中の将来のわが国を見据えぬ軽率な文化の破壊者には強い憤りを持っている。だがその論が決着がつくまで、東北の人々は苦しんでいろというのは政治というものではないはずだ。
原発に関しては、原発廃止などをすれば、日本の電力需給は需要が供給を上回る。また今までにいったいどれだけの資金や労力を原発に注ぎ込んだのかと反対する連中の意見にも好き嫌いは別にして筋はある。原発自体は我が国が事業として認めてしまったものなのだ。原発発電を止めたとしても、そのあとわが国土をふたたび安全な浦安の国に戻すためには、天文学的な付けを払わなければならないのかもしれない。だがこれはこれで、我々は国民に漂う不安にはっきり説明がつく厳しい決断をしなければならないだろうが、こんな論議に決着がつくまで、東北の被害の復興は放っておこうということはあってはならない迷いであり政治の怠慢である。千年前かそれより前かは知らないが、以前にだって我が国は、東北震災並みの被害は受けた。だが我が国は、皇室以下の全国民が力を合わせ、祈り、働き、助け合ってそんな災害をことごとく乗り越えてきた。
日本国や国民はこれではあまりにも東北の人々に冷たすぎなくてはないか。
今の政府は、在来のわが国のように、国民の一人一人に対してひたすら神に祈り、彼らを大御宝と信じ、すべてをかけて人々を見つめる天皇陛下の臣下としての立場で進退すべきだとされた時代とは違い、選挙で負ければそれでやめればよい政治という狭い分野にのみ責任を負う政治家や役人の組織だからというのかもしれない。新憲法は日本伝統文化とは確かに違うところがある。だがそれであっても彼らは公僕とされている。せめて東北の被災者たちも、自分らと同じ水準の生活ができるまでは、国民の僕である自分らも同じ水準以下で過ごす義務があるとの国民的連帯を持って政治に取り組んでもらいたい。
 安倍さんにはその覚悟があると期待している。


 お断り
 
 私は前回のこのブログで今回行われる総選挙を前に、今回の総選挙のもっている意味づけを連載しようと計画し、その第一章の総論的なものだけ発表した。だが、その後が続かぬままに今日を迎えてしまった。
 弁解は見苦しいが、ちょっと言い訳をしておこう。私の父は二十年前に亡くなったが、その最晩年を父のもとに毎日のように通い、父の話し相手になり、ともに散歩をし、出かけるときは付き添って、私以上にわが父に尽くしてくれた40年来のわが友、私より二歳年下のM君が、夏の父二十年祭には元気な姿を見せてくれていたが、いらいしばらく音信を断っていたが大病にかかり、手術をしたが効なく、「誰にも告げるな」と奥さんと息子さんだけの懸命の看病を受けた結果、つい先日に亡くなられた。それをご家族での見送りのあと間接的に聞いて、ショックをうけて老朽化していた私の頭脳のボロボロである思考回線が働かなくなってしまった。
翌朝、亡父の眠る市内の墓に飛んでいき彼の死を報告したが、さあどうすればよいのかわからなくなった。そのことが気になって文も書けずにいた私を待たずに、時はいたずらに流れ、おかげで書こうとした時期は過ぎてしまった。
だからもう、私のような反隠居しただらしない老人はものの役に立たないのだとしみじみ思う。深くお詫びする次第である。

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1 コメント

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皆が心配するが (asizu)
2013-01-22 22:09:14
それは国民がどのように皇室を盛り上げていくかによって定まることだと思います。皇族だって新憲法的な教育で育っておられる。皇室とは憲法などとは比較にならない古い時代から日本に定着しており、狭い一時一曲の憲法などより比較にならない重いもの、影響力をもつものだという国民心理がたっていれば、私は心配ないと思っています。
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