葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

腹が立つ韓国の内政干渉

2013年04月23日 22時50分47秒 | 私の「時事評論」
 お断りしておきます。FACEBOOKの転載です。

 安倍首相の靖国神社例祭への玉ぐし奉納、麻生副首相以下閣僚の参拝、ほかにも多くの国会議員がいるというので、韓国がわいわい言っていますね。
 韓国外相訪中を辞めるとか、いろいろと日本批判の発言をするものが出てくるとか。もう来なくていいよというのが率直な意見です。
 今更ながらこんなことを言ってもどうにもならないかもしれないが、内政も国交もけじめなき、こんなレベルの低い行動はいい加減にしてほしいと思いますね。隣国にいるのが恥ずかしいし迷惑です。
 よその国の連中が独立国の行動に対して、その国の中で、思うがままに行動をすることにケチをつけ、自分らのいいなりに発言したり思わないことに文句を言う。こんな連中に気を遣っていたら、日本はいつまでたってもまともな国になりませんよね。日本の政治家の靖国神社参拝が、北朝鮮の脅威と同じ種類のものだとは、まさか思っているのではないでしょうね。
 こんなことに問題を感ずる連中には、日本が独立国であり、韓国の属国ではないという日本のほこりなどは通じないんでしょうね。
 靖国神社は国(日本国)の主権行動のために国家の意思(個人意志ではないですよ)で戦って戦死した英霊に、その人にも個人としてはやりたいこともあったろうに、結果として殺してしまった国が「平和な時代ならそんなことはなかったことだろうに、おしいことをしてしまった」と悔やみ、亡くなった人に敬意を表するために設けた施設で、それ以外の問題はありません。国の制度が今、どうなっているか、祭神の中にイデオロギーや経歴を見て、何万分の一か、こくみんの統一された見解がまとまらない人がまつられているかいないかなどの見解のわかれがあるないかの論争が国内にはあるが、それは万分の一以下の例外であるとして別として、独立国として、国が持っていないことがおかしい施設なのです。
 日本人の祖国独立の大切さを守るためには、国は国民の一部の生命をを犠牲にしても国の独立とその他の人間を守らねばならない。独立維持のためには、命を失うこともあるというのが国の悲しい定めなのであって、靖国神社はそんな愛国心の象徴です。
 それは祭神個人の意志とは別次元の存在です。国が「祖国の独立」は尊いという意識を高める施設であって、どこどことの対立がよかった悪かったなどという政治判断は含まれないし、そんな低次元の崇敬施設ではない。
 だが、日本が敗戦以来、おかしな卑屈な姿勢を取ったことに付け込まれたのか、彼らだって言われれば自国も同じ英霊顕彰施設を持っているのに、、それも無視した馬鹿な近隣諸国が、公私のけじめ、国内と国外の立場の違いなどをもわきまえずに日本人が靖国神社を参拝するだけで騒ぎ、日本国内にも同じような偏見に流れる「国というもの」の尊厳もわからぬものがいるから、国に準じた英霊に対して、国も国民も彼らが自分の好みで死んだような取り扱いをしなければならなくなってしまっている。
 こうなれば、戦う以外にはないと思うのも一理あります。だがそれほどの決意もないのが日本の現状です。せめて日本はそんなことを言う国に対しては、鎖国でもしたほうがよいのではないでしょうか。

運転免許更新高齢者講習を受けて

2013年04月20日 17時37分05秒 | 私の「時事評論」


 忍び寄る老化どころではない

 運転免許の期限切れが目の前に迫った。実は自家用車は息子一家が我が家に転入してきたのを機会にすでに処分した。三年前、彼らが同居してすぐの時期、老妻と乳飲み子の相孫を乗せて、通い慣れた鎌倉市内の目抜き通りの三差路を右折するとき、雑な運転で車の右腹をぶつけ、そうそうあれは初めての高齢者講習を受け、免許を更新した直後に己が老化を知らされた最初の事態だった。知りたくない、そして認めたくないのだが、事故を起こして私は自分が忍び寄る老化現象にすっかり侵されている現実を痛切に知らされた。
 それまではあまり事故もなく運転を続け、30年間無事故無違反で県知事表彰まで貰った私だ。それがこの時、やっちゃったのだ。前方の信号では、車の流れが円滑に流れずに一信号で一台か二台しか左折できない。その先の車が思うように進めず入り込めないのだ。そこで信号直前まで左折しようと、細い一方通行の道路の交差点直前で左の車幅を大きくとり準備していたのを、とっさに右折の裏道から帰ろうと変更し、確認をいい加減に安易に右折、右の後輪付近を視線の下にある、頑丈な歩行者向けの鉄の柱にぶつけてしまった。ガツンと音がしたのに驚いたが、面倒なのでさらに前に進んで抜けようとして大きな損傷。

 息子一家はここから二時間ほど高速道や渋滞道を通り、東京郊外の旧武蔵野・多摩川沿いの団地にあった。そこまで昨秋に彼らの引っ越しが決まって以来、毎週週金曜の夕方と日曜夕方には往復していたのであまり老化による不注意の増加の意識はなかった。一家が引っ越しの荷物整理ができるように、小学校入学を前にした長男の孫や、今回同乗させていた生まれたばかりの息子を預かるために往復していたのだ。だが、自分に忍び寄る避けられない影はどこかで意識していて、注意をしているつもりだったのだが、ほんの目の前の駅裏の買い物だという気の緩みが、背後に影響していたように思う。

 私はそれまでは自分の足代わりにしていた車を手放し、ただ免許証があるので息子や嫁が駅まで行くのに同乗してそこから家まで戻ってくる帰路や、どうにも運転を頼めないときの臨時の買い物運転などに限って、息子たちの車を借用するだけで三年を過ごしていた。

 そこにやってきた今回の免許切れだ。もう本格的な運転をしようとは思っていなかったが、大家族で過ごしていて、娘も二人近所にいて、彼女等も頻繁に駅から我が家にやってくる。息子夫婦もここ鎌倉に慣れてきたし、嫁さんのストレス解消にも、スープの冷めない同じ市内にセカンドハウスでも設けて、ときには「鬼の居ないところでの息抜き」も欲しいというので、緊急時の運転をもう三年だけは、免許証の更新だけはやってみるかと考えて老人講習に参加した。

 恐ろしい変化

 だが結果は自分にとって驚かされる状況だった。一口で言うと、三年の間にここまで人間の体は老化するのか。それを痛感させられるものだった。講習は満70を超えた老人に義務化されている。認知症など、口は悪いが「ボケ検査」というもの、視力がまともかという「眼の検査」、それに運転に耐えられる「反応検査」ともいう機械を使ったシュミレーションテストという三本の柱が中心で、それに自動車教習所が会場だから、そこで運転の実技を再確認して終了する。
 「呆けテスト」16枚の絵を次々に見せる。そのあとすぐにはテストせず、数字を並べた表を見せて、そこから指定した複数の数字をチェックするテストをして、それが終わったところで先ほどの絵をどこまで思い出せることができるかという二つのテスト。
 数字のチェックは簡単だった。時間のうちにすべてが終了。次の順不同であっても良いから16枚が何の絵だったかという思い出しテストも、次いでそれらの絵のうちの乗り物は何だったか、果物は何だったか、楽器は何だったかという書き込みテストも、何とかす一つ少ない15問だけは書くには書けたが、なんとどちらも一つずつの図柄が思い出せないではないか。ど忘れというか、私の日常生活を振り返っても、思い出そうとすればただそう思って焦るだけで、いよいよその記憶がその場では浮かばない。それは確実に脳の老化ということなのだろうが、痛感させられるものであった。帰ってきたテストの結果は、これだけは5段階評価の5になっていたが、採点が良ければ安心というものではない。時間が残ってしまっても思い出そうとすると頭が固まる、自分の年齢が痛感された。そうだ、この誕生日、私は77(数え)の喜寿の年だ。長寿祝いは数え年でする。頭の柔軟性にもどこかくたびれが出ているのだな。
 視力、とくに動体視力や反応テストはひどいものだった。眼が確実に悪くなっている。眼鏡の度も合わなくなった。一週間前に角膜に傷がついて眼医者に行って、いま角膜を保護する粘膜を点眼している。反応テストの条件を間違えて、テスト中に気がついて修正した。弁解しようとすればいろんな条件も重なったが、教習所の教官は「大丈夫ですよ。これなら通りますよ。ただ、眼鏡の度だけはできれば調整しておいた方が良いですね」などと言ってくれるのだが、3年前と比較して、その進行ぶりに愕然とした。

もうやめた方が良いな

 物理的に免許を更新することは可能だろう。だが、ここでの免許の更新は良いのだろうか悪いのだろうか。考えさせられう数時間であった。
 私は一人で生きているのではない。人が集まり協力し合う社会の中で暮らしている。その中で、こんな不安を持っていることを承知して、それでも免許を更新してよいのだろうか。不注意に子どもが路地から飛び出してきた時にどれだけ対応できるだろう。二つ三つの危険な条件が重なった時に、どれだけ機敏に正確に動けるか。
 いま、自分の周辺で起こった経験が、何やら「いい加減にあきらめろよ」との神の暗示であるような気がしてくる。大体、眼の中に入れても痛くない孫息子を乗せながら、三年前にミスをした。あれだってもう、運転をやめろよという暗示だったのではないか。この講習の直前に、朝方急に目が痛くなって、慌てて眼科に診断に行った。どうしたことか、私は眼科が大の苦手で、この年になるまで、進んで眼医者に行ったことはないし、目薬を注そうと思っても眼を開けられない臆病者だ。それが迷わず眼医者にかけ込まなければならない気になったあの痛みは何だったのか。「もうやめておけ」との暗示と受け止めるべきなのではないか。
 あと誕生日までは一週間、おそらく免許の更新は諦めることにするだろう。いくら免許証など持っていても、夜などすれ違った直後の動体視力などは、呆れるほどに低下している。年よりはハンドルを持つよりも、夜の晩酌を楽しんで、ゆっくり過ごすのに適している。どうしても動かなければならないのならタクシーを呼べばよい。
 高い高齢者呼び講習だった。だが、免許更新を諦めたら、なんだかスッと肩の荷が取れたような気になった。

基本となるのは日本の精神気流復古

2013年04月11日 21時08分27秒 | 私の「時事評論」

  
葦津泰國

 はじめに
四宮正貴編集長の求めに応じて、雑誌『伝統と革新』11号に掲載した原稿です。校正の段階で数行書き換えましたが、私の思いをストレートに出しているものであり、しかも発売後なので紹介しておきます。

 神道指令に伴う紀元節の廃止

 二月十一日「建国記念の日」。日本が米軍の占領下におかれたときに、米国国務省が戦時中から準備してきた対日占領に関する日本弱体化政策に沿って、軍の武装解除を完了し、抵抗できない環境が完成するや発令したものに「神道指令」があった。米国は、日本の神道と天皇制、神話に基づく民族の連帯意識を消し去り、国が再びまとまって行動できないバラバラな集団にする準備をしていたのだ。指令で我が国の社会が捨てさせられたのが、国の誕生日「紀元節」であった。日本最古の史書『日本書紀』に、初代神武天皇が即位された経過が記されている。この時以来、日本は二千六百年という長い歴史を、国民全体の「まつり主」である天皇を中心として生きてきた誇りを捨てさせられた。キリスト教思想を基礎に成り立つ米国には、認める対象ではなかったのだ。
 米国の対日占領は、将来にわたる日本の戦闘力も完全に奪い去ることを目的にしていた。それには生産力や経済力を徹底破壊するだけでは足りない。日本人の精神文化そのものを破壊し、日本人のから西欧文化と異質なプライドを消し去ってしまおうと考えた。それは日本を胸を張って世界の強国に復活させないための施策でもあった。日本軍の解体の他に、「憲法や皇室法の改定、日本人の精神の基礎である神道の弾圧」も取り入れられた。軍の解体以外のこの種の行為はは国際法で戦勝国に禁じた行為であり、うわべだけ西欧を学んだ形式主義の日本政府の関係者や法学者などは、「想定外」と思っていたものだった。

 敗戦と同時に一人対米戦を覚悟した男

 だがここに、戦時中から独特の政治活動をしてきた一人の反骨の民間人がいた。彼は敗戦の必然を知り、ポツダム宣言などから米国が、日本の精神破壊を目標に計画的に占領を行うと確信していた。葦津珍彦という当時三十代の私の父である。肉親の父親の話を公の場で記すのは気が進まない面もあるが、父は開戦までは、日本が伝統的日本文化の美風を失い、西欧的な帝国主義へ傾いていくのに猛反対、国会でビラをまいたり地下出版を続けるなど激しく政府に食いつき、戦時中は無条件降伏になる前に早期和戦をすべきだと訴え続けていた。日本も帝国主義化して日米対決になった対米戦争には、日本にも言い分はあるが、戦は時期的力学的に見ても敗戦必至の亡国の道になると訴え、憲兵や特高に追われながらも活動していた。彼は伝統的日本土着精神を愛する頭山満はじめ在野の実力者に可愛がられ、政府内でも閣僚や軍上層部、外交官、官庁の幹部、それに新聞社の幹部の一部などから私的には好意と便宜を受けていて、軍や政府が逮捕しようとしても、巧みに逃げて、なかなか捕まらない。背後で見守る人々の好意もあって、戦局の生々しい情報も知っていた。彼は、日本が敗れたのちの占領行政は、まず日本軍の戦闘力を完全に奪い去り、次いで日本の政治構造、国民の精神構造の徹底的破壊を進めてくる。対象は天皇・神道・憲法を柱とするものになるだろう。相手は軍だ。作戦としての占領行政は迅速に進められる。その前に先手を取って全国の神社を残し、皇室を中心とした日本の精神文化を守らねばならない。そう戦後の抵抗の第一歩を決意した。自分は民間の一人の若者にすぎない。ただ代々の神職の家で育ったため、先祖の残してくれた人縁がある。それを活用してまず神社界を守ろう。神社が残れば日本人の心の中に、皇室を中心に守り伝えてきた精神気風が残り、やがてまた日本文化の再生も可能になるだろう。
 覚悟を決めた彼は父や祖父の友人であった神職の長老はじめ神社人に説いて急速に民間の全国神社の団体である神社本庁を作ることから占領政策対抗の準備を進めたが、その道半ばで追いかけるように「神道指令」が発表された。数日遅れれば、潰される極めて危ない環境での必死の対応であった。父はよく私に、「俺の対米戦争は終戦から始めった」と苦笑したが、苦心して神社本庁設立の後は、その活動を評価した神社界の幹部から、組織の目となり口となる機関紙・神社新報社を全面的に任された。
 葦津は戦時中から彼を大切に見守ってくれた人々などに応援されて、天皇制や神道の擁護者として懸命に働いた。だが廃止させられた紀元節がその二十年後に「建国記念の日」として復活されると身体を壊していたので退職し、第一線から退いた。だが平成五年に、天皇陛下の御代変りも過ぎ、それを見届けるまで自ら筆を執り続け、また若者たちの指導に当たって生涯を終えた。

 占領中にともに戦った男たち

 葦津が神社をいち早く、神社を国から離れた民間の統一組織にまとめたのは、占領中の抵抗の足場を作ることになった。占領軍が神社を国を使って規制しようとする試みは神社本庁という組織が中に加わり、命令が円滑に伝達できない規約などで武装していたので成功せず、日本側の予想しない間に突然指令を出して神社をバラバラな組織に分裂させようという目標も不可能にした。新設された神社本庁のもとに、用心深く、「紀元節の復活」をはじめ様々なことを将来復活させる活動を準備する道が開けた。
 紀元節の復活に努力をまずはじめたのは神職の有志、その最先端は神社新報の記者たち、神社新報の別組織に集まっていた先輩たちだった。それはまだ、GHQが神社への参拝などに厳しい規制を加えている占領の最も厳しいときから、合法・非合法の手段を尽くして展開され始めた。
 この日本版レジスタンスの由緒ある新聞社に、私は縁もあったので先輩たちに勧められて入社、途中からだが自分の生涯の働き場として生涯をささげてきた。そんな私にとっては、紀元節(建国記念の日)は、他のいくつかの運動とともに、格別に重みを感ずる記念日である。
 「紀元節」廃止の当時、私はまだ小学生であったが、渋谷の神社本庁ビルの片隅の部屋で、作戦の指導を受ける先輩たちの姿を覚えている。古い旧日本軍の外套などを着て、当時米軍総司令部(GHQ)を訪れた新報の記者は、「占領解除の後は、まず紀元節を復活させたい」と公言して憚らなかった。これにはGHQのスタッフたちも、「お前たちはいったいこの占領から何を学んだのだ」と絶句し怒りの表情を隠さなかったそうだが、彼らは屈伏させられない論を持ち、米軍支配の時代を逆転させる捨石になろうとの信念を持っていたので、ひるまずに取材を続けたという。彼らの中には軍の指導教官だった者もいた。彼らの指導を受け、後輩の戦友は戦場で戦死した。学徒出陣し、特攻隊の出撃順番を待つ間に敗戦を迎えた者もいた。靖国神社で戦友たちが待っている。記者の中にはそんな経験者も多く、生き残ってしまった自分は、これからどうしたらよいかと、神社本庁ビルに葦津を訪ねてきて、そのまま記者になった者もいた。

 土民の首狩り宗教に国際法は適用されない

 米国の占領政策は明白に国際法から逸脱していた。そのため、国際法を当然守るべき原則としていた日本政府や法学者たちは、「よもや先進文明国の米軍がここまで乱暴な違法行為はしないだろう」とタカをくくっているうちに、守るべきものの殆どを失う形となったのは先に触れた。西欧知識を身につけた日本の「自称インテリ」層の多くは、本で読んで知識を頭だけで身につけたような連中だった。うわべだけの西欧を習い、基礎にある彼らの生活観や規律や気風を歴史を見て学ぶほど、深く西欧を見ていなかった。西欧人が共通信仰をもつ者には寛容でも、異教徒や無神論者に対しては冷酷に無視又は敵視するのが当然とする感覚でいるなどとは、どの本にも書いてない。もっとも日本が戦争に敗れた時は時代の転換期で、これ以降の世界情勢は、国際法への順守意識が極めて希薄になっているといわねばならなくなってきているが。
 国際法の浅い理解は占領軍にも共通していた。神道指令や憲法改定の違法性を神社新報に突かれると反論に窮し、「国際法上の戦勝国の禁止条項は、お互いに文明国同士の場合に適応されるもの。首狩り習俗の宗教を持つ土民の文明には適応されない」などとうそぶき、だから我々は「日本を文明国並みに民主主義化してやったのだ」などと勝てば官軍、何をやっても良いのだと言わんばかりに応答した。拙父と占領軍民間情報局のバンス氏との応酬で、新報社員には忘れることのできない言葉が語り継がれている。摂父もよほど頭に来たのだろう。そののち新報社から『土民のことば』という著書を発行した。「土民なら土民でもよい。土民らしく堂々と世界に生きようではないか」というプライドががその背景に流れている。だがこんな米軍であったが、さすがに神社新報は弾圧すべき対象の機関紙ではあっても新聞社だ。その「思想の自由」を無視して、公然と弾圧処罰しそれが世界に広まるのは、占領が世界中に「民主主義の徹底のため」と自称しているだけに、避けねばならなかったのだと思われた。渋谷で活動した記者や有志の中から、逮捕者は出なかった。

 蛇足になるが、少しここで米軍の日本文化の読み違いに一筆しよう。米軍は兵力や資源もなく西欧的合理主義からみれば、抵抗は無意味と思う状況でも、「全滅」「万歳突撃」「特攻攻撃」などを含めて戦意を失わずに戦い散って行く日本人の力の根源・「大和魂」は、狂信的な国家宗教・神道に基づく独裁的な天皇制の強制があり、武士道の延長線上の行動でもある」などと愚かにも確信していたようだ。だが戦争を指導した軍や政府の教育を受けた幹部たちは一応除外して、大半の国民は妻や子、両親など家族や同胞を戦禍の犠牲から守るため、己を捨てて戦ったのが事実だ。しかも彼らの大部分は伝統の武士の出身ではなく、明治期までは地域の内戦にも加わったことのない赤紙で応召された平民だった。一般の国民は武士道には縁薄く、当時の指導者層のように、西欧知識などにも縁は遠い。ごく平凡な日本人だった。数千年以上続いた農耕や漁業中心の集団生活の中で、協力し合い家庭や集落を大切に生き、毎年村を挙げて「五穀豊穣」を祈り、社会の決まりや秩序を大事に生きてきた。そして神々に、代々己を捨てて祈り続ける帝を慕い「浦安の国」を念じ続けてきた人々(常民)だった。米国が的を射た占領政策をするのなら、明治以降の日本の知識人の中にはびこった、うわべだけの西欧文明への憧れから、髪が黒く顔は黄色くても自分らも帝国主義化しなければならぬと突っ走った欧米追従の知識人の知識の浅さを再教育して、本来は穏やかで平和を好む集団である日本人の文化を暴走させない教育をしたほうが利口だったのではないかと愚考する。命がけで抵抗する日本人を見て、戦闘力旺盛な戦闘的恐るべき民族と勘違いした際には「窮鼠猫を食む」という現象を想起すべきであった。
 相手の文化をしっかり見て対応することは大切である。日本での占領行政が成功したのは、国民が尊崇する陛下が、「耐えがたきを耐えて復興せよ」との証書を出され、率先占領政策に従われたからだ。米国は、なぜ占領が日本では成功したのかの分析ができず、日本で行った占領政策と似たようなことをその後も世界で実施してことごとく失敗した。この文明理解の見間違いが二十世紀以降の米国の諸外国への占領政策をことごとく挫折させた原因となったと私は見ている。

 明治以降の日本の文化

 西欧植民地抗争が熾烈を極めた江戸時代、日本も西欧諸国の圧力で鎖国を続けられない環境となり、維新を断行して国際社会の一員となった。進んだ西欧の「技術や知識」を取り入れて、西欧白人国家が中心である世界に仲間入りして独立を確保せねばならない時代になったと判断をした。日本は「和魂洋才」の大原則を掲げて西欧技術をも積極的に取り入れることになり、西欧白人の寡占状態であった世界地図に、有色人種の伝統的な文化を持った独立国として生き残ろうと決断した。これが明治以降の大雑把な歴史である。
 だが日本の西欧列強の独占する社会への食い込みは、当然西欧白人諸国の反発を受ける。人種差別の意識や文明の異質性など、従来にはなかった問題も生まれる。その摩擦の中で理想を求めて日本の苦しんできた歴史は、明治以降の外交史を一読するだけで分かる。日本の敗戦後、多くの非白人の国家が世界で活躍するようになったが、これは我が国の敗戦ののちにその影響として世界が変わった結果であるといえる。
 だが日本と西欧との間には、そればかりではない。西欧技術を急速に取り入れようとした日本にも大きな混乱を生んだ。日本文化の継続のために西欧技術を習得に行った者の多くが、華々しく見える西欧近代文明に幻惑されて日本を忘れた西欧文化の礼賛者になってしまったことだった。「和魂洋才」を国是とした日本が、国が期待した人々によって、浅薄な西欧理解に基づく「洋魂洋才」の国になってしまったのだ。
 そんな傾向は日本の知識人とされた政治家・軍人・官僚・学者・新聞人・教師・技術者・言論人の間に特に強くなり、一般国民の意識とは合わない方向に国が動き始めた。国民には「和魂洋才」の国是は生き続けていて、在野の民間人には国民の支持のもと、維新の精神で外国とも接しようとする日本人も多く存在し、日本旧来の社会意識が国民底辺に定着しているのに拘らず、国の方針がこれと少しずつ離れていくような現象がだんだん顕著になってきた。アジア外交などでは同じ日本の在野の活動家と西欧を模倣した国とが反対に動く場面なども見られるようになった。
 日本が「和魂洋才」の大原則を失いかけた結果が大戦に発展し、昭和の敗戦を迎えてしまったのは、そんな結果だと考えている。また、在来の日本の知識人なら、敗戦を迎えてもすぐ戦勝国にすり寄って、祖国の文化をつぶそうとするようなものはほとんど出てこないだろう。だが日本の戦後はそんな風には進まなかった。そしてその弊害が、いまの我が国の社会問題の種となっている。

 政治の表面だけを追いかけてもダメだ

 話を紀元節に戻そう。日本人を精神的に骨抜きにするには、占領軍も紀元節の禁止を大切な柱に据えたし、日本の精神文化を取り戻そうとした先輩方も、この復活を足掛かりに日本の復活を夢見た。紀元節は占領中の片山内閣時代の世論調査でも、存続を望む国民が九割を超し、「民主的」とのポーズを示したかった占領軍が、拒否権を使って排除せざるを得なかった記念日だった。
 「紀元節」復活を望む先輩方はその復活を占領解除後に求めた。だがこの日は占領解除とともには復活はしなかった。与野党政治の駆け引きの道具にされて祝日法は通らず、この日が「建国記念の日」として祝日に復帰したのは昭和四十二年の暮れであった。
 日本人の心を失った国会議員のため、建国記念の日として紀元節は遅れに遅れてようやく成立したが、国民の大切に思う精神回復の決議が国会での与野党の政治取引の道具にされて何年もつぶされ結局は見送りになるるという悪しき慣例の基礎ともなった。こんな傾向はその後も続き、「靖国神社」法案は廃案を重ねている間に復活を強く望む遺族たちは次々に死亡し、その後に新たな問題も起こって、いまだに手がつけられていない。
 それでも私はこの日には必ずどこかの奉祝大会や祭典に顔を出すことにしている。神社の紀元節祭や様々な奉祝大会に参列するが、どこでも集会は神前や特設祭壇で「紀元節祭」、皇居と神武天皇即位の地橿原を遙拝、文部省が明治時代に官報に乗せた「紀元節奉唱歌」を歌い、戦後に占領軍に実質的に押し付けられた憲法の改正、愛国心の涵養、国防力の強化、戦後の変更教育の是正などが声明として採択されたり決議される。それらの一つ一つを取り上げれば、どれも政治的に大切なことだと思うし、熱心に集う若い人たちの姿に、将来への期待を感じはする。
 特に最近は戦後政治が様々な面で行き詰まりの様相を示し、日本はバラバラだと甘く見る風潮が周辺国に強まってきたからか、国民一人一人が「こんなことで日本には将来があるのだろうか」との不安の意識も高まって、いままではどこか上滑りの感を与えてきた「自主憲法の制定」の問題や、日本人の集団意識を解体することのために教育をしているような「教育の正常化」などの問題にもうまくすれば実現できそうな気配も見えてきた。掲げられたそれらの課題は現在日本の政治上の体制を一つ一つ変えていくことは、続けていきたいものである。
 だが、それだけを私らが進めようとするだけで、果たしてこれで日本という国は我々が夢見た浦安の国、人々が睦みあう国になるのだろうか。一抹の不安を持って式場を後にすることが多い。

 政治制度を変え、法律を作るだけでよいのか

 それは今の日本があの終戦直後の世論調査の際のように九割を超す国民の支持に支えられ、あるいは昭和二十七年の講和条約の締結直後のように、三分の二を超す人々が靖国神社の国家護持の復活を求める請願に署名するような環境にいま、日本国があるとは思えない状況に私がいるからではないか。法は政治の規律であり、政治は国民生活の一部にすぎない。私は日本の社会が、いつの間にか従来の美しい心を失い、道徳も消えかけている国になってきているのが気になってならない。
 世界には立派な憲法条文を持つ国も、良き政治制度を持った国もたくさんある。だが、それだけを見てその国を評価するわけにはいかない。法律・政治の制度は大切なものだ。だが国の文化そのものは、そんな部分だけではないのを忘れてはならない。住み良い国になるためには、ここに住む人々、我が国でいえば日本人がどんな精神で生き、日本の文化を作り上げていくかだと思う。それが今、問われていると思う。
 私は日本という国が断絶ない歴史を重ね、その間に代を重ねてきた途方もない数の先祖たちが、一粒一粒の砂粒を積み重ねて作り上げてきた日本文化が大好きである。それはあの大鍾乳洞の石灰岩の柱が、一滴一滴の水滴がもたらすわずかな石灰質が何千何万年も積み重なって見上げる高さの輝く石柱になったように、日本人の先祖たちの思いが積もり積もって出来上がっているもので、祖先からの思いが積み重ねられて生きている何にも代えがたい日本の宝である。
 時まさに現代文明は、自然とは征服の対象であるという基本姿勢を基にした、あるいは一人ひとりの個人の独立を第一としてきた西欧文明の思想だけでは加速度的に発展を遂げた人間の文明が、人類破滅へと急転換するのではないかとの危機感が急速に強まり始めた時期でもある。そんな中で人類文明が生き残る道は、私は日本文明の持つ自然と調和して生きる精神的姿勢を取り入れる以外にないのではないかと思っている。
 地球で生きているのは人間ばかりではない。動物や植物、あらゆるものが懸命に生きている。山も川も海も石もそれぞれに存在を主張しているし、天候も気象も生きている。日本の文明はそんな前提に立ち、それらの万物、すべてに霊(命)がありその背後には神性があるとして、その調和の中に我々も暮さねばならないと思って生きるのが神道だ。また、人間同士は一人一人はささやかな能力しかないが、祖先が子孫を思い、夫が妻を思い子を思い、隣人から集落、国家を思い、お互いに心を配り、結びあい、協力し合う精神で連帯していくことが大切だと考えるのが日本文化の特徴だ。そんな思いが人々の間に様々な道徳や秩序を生み、まつりが生まれ、まつり主ができ、日本文化が形成された。
 いまこそ日本の文化が世界に役に立つものを提供する時代になったのではないか。私は同じ文化を世界に作れと言っているのではない。ただ、こんな我々の発想の中から、世界の文明が何かを学んでほしいと思っている。

東北大震災から二年過ぎ(下)

2013年04月02日 20時54分34秒 | 私の「時事評論」

 西欧の自然観と我が国の自然観

 今回の東北地方の大震災を見て、我々日本人の現在の意識が、従来の日本人の持っていたそれと比べて、いかに浅い上面だけのものになってしまっているかを痛感させられたのは私だけではあるまい。それは現代の日本人が、従来体質的に身につけてきた自然に対する恐れや慎みの意識を忘れ、自然を整復し、ともすれば対決的になりやすい西欧的知識にいつしか組み込まれてきていることに始まっていると思う。
 前回にも触れたことだが、あの地震が起きた後、東北東関東の被災地においても、今回程度の大津波が何度かあったことは、日本の文献や伝承に明瞭に残されている。その中で最も特徴的で、記録の詳しいものは貞観11年(869)、陸奥の国に大地震と津波の記録だ。時の清和天皇はこの報に接し、天災が起こるのは己が罪だと自然を掌る神々のお怒りと慎み恐れて、神社への祀りを徹底して行われ、その罪は我にあり民にはないとして、復旧に力を入れられた。その陛下のお姿を見て、藤原良房以下当時の官僚たちは、それは陛下だけの罪ではない。我々民にも自然を掌られる神々への慎み惧れが足りなかったのだろうと、自分の俸禄の減額を申し出、被災地救済に力を入れた。この地震の一部始終や多くの記録が日本の史書(三代実録)などに残されている。
 天皇のご姿勢、そして国に仕える百官の公務員たちの気持ち、それは現在の公務員や学者・専門家たちの姿勢とは全く違う。だが近代の学者たちは、西欧の技術のみに的を絞り、我が国の貴重な記録などは軽視して、自らがこの種の震災にどう接するかの気持ちも忘れて進んできてしまった。

 「想定外」の言葉の持つ意味

 これは現代日本の大きな欠陥であると思う。西欧を先進国とみて、西欧のみを見て日本の歴史を見ようとしない傾向が今では強く、その弊害は日本の各部門に出ている。地震や津波に対する対応も、ほとんどが関東大震災以降の西欧的統計数値のあるものだけに絞られ、これに基づき避難法などが練られてきた。こんな発想をして、全体を見ようとしてこなかった学者たちは、今回の災害に「想定外」という言葉を連発している。だが、その背後には西欧の自然科学のみに依存し、日本の歴史を軽視してそれで良しとしてきた彼らの頭の固い「想定の偏向」がある。「想定外」とは、専門家と称する者の視野が狭かったことを糊塗する無責任な弁だと知るべきである。
 明治維新ののち、一国だけで鎖国の夢を追って生きていけないと知り、国際社会に生きて独自の国柄を維持していく覚悟をした日本は、「和魂洋才」を基本的姿勢にして今後は進んでいくことにした。西欧の最新技術も存分に取り入れながら、精神面、国民生活の意識においては、大いに日本らしさを生かして日本文化の個性を保持していこうと決断したのだが、いつしか西欧技術の前に日本の文化意識を見失ってしまい、西欧に礼賛してかぶれてしまった。こんな日本の新知識人によって、いつの間にか日本は伝統軽視、西欧追従の形になってしまった。
 先にも触れたように、日本文明はこの世界を「万物の調和の下での共存」を基本として出来上がっており、この世の中にあるあらゆるものは、我々人間と同様に、すべての動植物から石や海山川、風雨や空気が価値のある大切なものであり、人はそのことを忘れずに、また仲間同士で協力し合って生きていかなければならない」との基本姿勢に立っている。そんな思いから「すべてのものには皆、霊性があり、それを掌る神がいるとする神道が文明と価値のある大切なものであり、人はそのことを忘れずに協力し合って生きていかなければならない」との基本姿勢に立っている。そんなすべてを掌る神がいると大切にする神道的感覚が文明と不離一体になって継承されてきている。

 西欧では自然は挑戦し克服する対象

 西欧の学問はキリスト教の旧約聖書を基礎にして自然に対して「人間が挑戦し征服する相手」ととらえる発想で成り立っている。それは日本と西欧の人々の歴史的な複雑な相違から生じたものだが、厳しい自然に対しても、完全と勇気をもって立ち向かい、これを征服することによって自らの存在を主張するというのが精神的基礎にあるといえるだろう。集団を重んずるわが文明よりも、多くの民族が共存していたため、人の発想がどうしても一つの宗教の信者に絞られて、自立した個人を追及する文明精神の上に成り立っているが、それでも最近はかなりの異教徒間の広がりも出てきた。
 そんな違いに対する前提の認識もなく、西欧の産業革命以来の素晴らしく発展した技術の発展を状況を見てあこがれて、己たちの積み重ねてきたものを忘れて暴走してしまったのが我が国の専門家や公務員など、いわゆる日本の知識人と自認する者には多い。その軽薄さが露骨に表に出てしまったのが今回の地震・洪水騒動であった。
 だが、その西欧文明の積極果敢な自然に対する勇気は評価するとしても、現実的にそれでは人間がどれだけの力を持って自然そのものと対抗するだけの力を持つことになったのかは冷静に知らねばならない。
 地球上では異常気象といわれるような現象が繰り返される。水害ですべてを流される事故、旱魃で農作物が全滅する事態、台風や竜巻、地震、津波・・・・。異常な生物の突然の発生、地球上にはこの種の我々人類にとっての予想もできない事態はいつ起こるかは分からない。だが人間はまだ、それらから身を守るためにあらかじめ天気予報や地震予知などで被害を事前に予知することもできないし、ましてや台風ひとつ、そのコースを変えることなどまだまだ当分できそうにない。
 自然のもたらす災害に対しては、人間のエネルギーではとても「征服」などできるものではない。人間と大自然、その持つ力はあまりにも違いすぎる。そうなれば、我々は傲慢な力を持って自然の威力を押しつぶすより、その膨大なエネルギーの前に、我々がいかに被害を受けずに生き延びて、ほんの少しずつであっても、治山治水に努力して、環境を住み易いものにするために自然を汚す水や空気を浄化して、いま、急速に増加しつつある人間の営みのもたらす地球汚染の累積が、人類そのものの将来の絶滅から逃れうるかに努力する以外にないのではないだろうか。そうなればその結果は、西欧文明で行こうとしても、日本が今まで自然そのものに霊性があり上がいるとして、その神々のために祭りを欠かさず、神を敬い、また神を畏れて生きていくという方針と同じ道を歩む以外にないのではないだろうか。
 私が決して「和魂洋才」の精神を日本人は忘れてはならないと主張する根拠はここにある。

 今回の東北大震災に向かって主張したいところ
 
 二年前に起こった東北・東関東大震災に対しても、私はあの清和天皇の同地に起こった震災に対する基本姿勢を基に、全国民が協力してことに当たる純粋な精神姿勢を維持するべきだと考えている。そして恐れ多いことだが、天皇陛下の報道されるご日常を漏れ聞くに、陛下はあの時の帝と同様のご姿勢で、地震からの民の生活回復を祈り続けておられるのを感ずる。今上陛下のこれらの災害に対するご姿勢は、中越大地震においても、関西大震災においても、その他の災害においても変わらないし、これは日本国の歴史とともに、代々続いてきた日本国統合のまつり主として少しも変化することがなく続いてきている。
 問題はそのもとに行政を担当する役に就いていた百官の役人たち(政府や地方の公務員、政治家や専門家と称する集団を含む)の精神姿勢、そして国民たちの取り組みである。貞観地震のあの時のように藤原良房以下時の官僚たちが、自らの報酬を辞退してでも、一刻も早く津波や震災に襲われた地帯の原状回復に身命を賭して打ち込んでいるのだろうか。それを見て企業や国民が「震災の解決がなければ日本の明日がない」との思いを共有して震災復興にすべてに優先して取り組んでいるのだろうか。どこまでの復興を持って良しとするのか、どの程度の耐震・対津波対策を立てて、それ以上はどのような対応をするのかなど、具体的なことにまでは触れない。科学技術は1200年前とは比較にならないように進んでいる。それに応じて耐震・対津波対策も相当当時からは発達している。情報量なども比較にならない。そんなものに基づいて精一杯に進めるべきだろう。一刻も早い、避難している被災者たちが再び集まり、明日に向かって明るい笑顔をして和やかに働ける郷土の復活、明るい笑顔のあふれる被災地への復活を望むものである。

 最後に原発について

 今回の東北大津波に関して、我々が最も大きな反省をしなければならないのは原子力発電所のもたらした処理不可能な事態への収拾策である。まき散らされた放射能は現代の科学技術では完全に回収して無害化できないものである。汚染処理などという作業が進められているが、それは危険な放射能を含む物質をかき集めるだけで、まだ集めたものの無害化はできず、また除染などと言って水で洗えば最終的にその水はその水は海中にまき散らされるなど、やはり放射能を含んだまま拡散される。人類はまだこの放射能の無害化技術を発見していないのだ。それなのに、なぜこんな状況で原子力発電所を開発したのか。こんな決断は人類文明にとってなんの理解もない許されぬ暴挙であったと私は思っている。
 いままでに人類はフッ素ガス、アスベストを始め様々な有害物質など、放置すれば人類文明を破壊する恐れのあるものが出てくると、国はそれらを次々に製造禁止にした。それなのに、なぜ原子力発電所から出る危険な放射能物質が比較できないほどに有害であることを知りながら、これを実用に供することにしたのか。
 「電力需要があるからやむを得ない措置であった」という説明は論理の整合性が立たない。「いま、贅沢をしたいから、子供や孫の名で膨大な借金を作って遊び歩く」というのとよく似ている文明の将来を考えない弁解だ。残留放射能の安全な消去技術が開発されてから原発利用は北朝鮮のミサイルや今回のような地震や津波に対しても万全な対応措置を固めてのちにいうべき言葉であると私は思う。
 福島原発の放射能が消えるまでは、たとえ鉄筋コンクリートに密閉して保管をしておいても、密閉容器の耐久寿命のほうが短く、膨大な放射能物質があふれ出る危険性があるし、これは全国にある既存の原子力発電所にも共通する問題である。
 また、私は神道人である。日本人はすべてのものは神々が作られた大切なもので、それらは神々の感謝して大切に使わせていただいて、使用ののちには立派に元の姿に復元してお返しするのが常識だとの精神で暮らしている。だが、放射能物質は神々がお認めになる大地の資産といえるものだろうか。また、今回もなかなか原状に回復できない放射能に汚染された国土も、大切なその土地を見守られる神々の統べられるわが日本の領土である。それを人も住めない荒野にして放置する。これが神々のお気持ちに沿うことなのだろうか。天かける神々ばかりではない。そこには大切な我々の先祖の墓もある。先祖が子孫のために残した鎮守や美しかった田や畑もある。美しい山や海や川もある。神々は我々に御利益を与えてくださるだけのものではない。我々の行い次第では大きな神罰をもおあたえになるものであることも忘れてはならないと思う。

東北大震災から二年過ぎ(上)

2013年04月02日 20時43分45秒 | 私の「時事評論」


 天皇陛下と東北大震災

 先月、あの東北地方を中心に襲った大地震と、それに伴う巨大津波から二年目の記念日が過ぎた。災害に遭った各地、被災者が疎開する避難地、首都東京で多くの殉難者の慰霊祭があり、早期復興が誓われた。東京の国立劇場での慰霊祭には天皇・皇后の両陛下も臨席され、犠牲者の標柱の前に深い哀悼の意を表明された。
 天皇陛下は、現憲法では国政には関与できないことになっている。国政の責任を担うのは政府をはじめ国・県・市町村などで、とくにそれを束ねるのは首相の責任となる。だが式場での陛下は、災害の責任はすべて御自ら背負いになっておられるとの沈痛なご表情で、痛切な哀悼の言葉を述べられた。国のすべてを背おわれる「祀り主」としての伝統のお立場は、悠久の歴史の中のほんの一時、しかも一部分を律するにすぎない憲法などで定められた軽いものではない。そのことは全国民が知っていて、陛下のお言葉には被災者に対し、未曾有の災害からの救助のために懸命に復旧の作業に励む人々に対し、心からの励ましのお気持ちが込められていて人々の心を打った。
 今回の震災の一部始終を、外から眺めた外国の人々が最も強く感じたのは、あの驚天動地の大災害の中でも、日本人が蜘蛛の子を散らすように我がちに四散するのではなく、秩序を乱さずに行動したことであった。日本人の歴史文明の中で長い間に培われてきた行動方式は国民に遺伝因子のようにしっかりしみ込んでいて、緊急の事態に日本人らしい進退をはっきり示す。これは世界の他の異文化の地には見られない特徴だと外国人記者などは驚嘆して世界に伝えた。震災の報に接して天皇陛下が被災者に対してお述べになった言葉は、全国民を被災者救済へ力を合わさせるものになったし、被災地をお見舞いになった陛下のお姿は、何よりの被災者たちへの励ましとなった。首相はじめ政府関係者たちに対しては取り囲んで、遅々として進まぬ救済に苦情や罵声を挙げていた同じ被災者たちが、陛下のお見舞いには涙して感激する。これを見て、日本人が昔も今も、変わらぬ日本人であり、片片たる憲法や法制度の変更などでは変わらぬものであることを実感させられた。
 戦後の日本は憲法や法制度などを中心に大きく変わり異質の国になったなどと述べるものは国内にも多い。だが、戦後70年も経過して、現在の陛下と国民の間には、数千年も続いてきた同じ心がいまも生き続けていることが明瞭に示された。こんな日本の姿を見ずして、地につかない空想的復興策を練ってみたところで日本国の円滑な運営はできない。言葉を代えるならば、政治や行政も、その日本人である意識を軽んじて70年間歩んできたが、その空回りした復興策が、早急な成果を上げるのを遅らせる結果になっていると言えるのではなかろうか。
 顧みれば関東大震災で首都近辺が壊滅状態になった時、その復興の先頭にたたれたのは当時摂政の宮であられた昭和天皇であった。あらゆることに優先して復興に進まれる陛下、そのけん引力によって日本は素晴らしいスピードで事態を乗り越えることができた。関東大震災での死亡や行方不明者は10万5千人、その大変は火災による焼死者だったが、津波も神奈川県などで10メートルにも達し、1000人を超す津波による死亡・不明者を出した。それでも政府は全力を復興に当て、この震災が特に焼死者の多かった事実を見て、都市災害に強い街づくりを中心に、内外にも国債を大量に発行せざるを得なかったが災害強い都市づくりを基本に大英断を持って進められ、その復興の姿が今の東京の基礎となった。復興計画は震災直後から後藤新平など多くの指揮官の将来の都市つくりの基本プランに沿って進められたが、災害の悲しく暗い思いを転換させるにも、それを超えて人々に希望を持たせる未来への設計図は必要だ。それが示されたのが大きな力になり、陛下がだれよりも早期復興を願っておられるというお姿が復興を可能にした、これに比べて今回の震災直後、政治はお互いの批判合戦に終始し、復興計画には、国としての将来の東北発展の青写真も復興計画もはっきりせず、しかも放射能汚染といういつ解決するかも分らぬ危険は手をつけられずに放置されたままで進められている。これで災害を受けた人々に明るい気持ちを持たせることができるのか。どうも未来への期待も希望も感ぜられないような気がしてならない。
 
復旧できるものできないもの

 大津波から二年が経過したが、被災地からは、復興が遅々として進まない情報が続々と伝えられ、被災者ばかりではなく、全国民の心を暗く沈んだものにしている。日本という国はそこに住む人々が心をつなぎ合って、苦楽をともにしながら築き上げてきた共同して助け合うことを基本にした国である。避難のために四方に散っている東北地方の人々が震災前の故郷に戻り、希望を持ち明るい気持ちで心から楽しみ、日々を建設的に暮らすことができない限り、日本はこの災害を乗り越えることができたとは言えないだろう。いまでは昔住んでいた地域に、まとまって住む土地さえ確保されていない状況だが、そこに人々が戻ってきて、再び人々の明るい共同社会が復興されて、はじめて震災の爪痕が埋まったと見るのが常識だろう。
 今回の復旧には時間がかかりすぎている。全国の人々、さらには外国の人々までが被災者の救助、被災者の立ち直りの資金募集などに協力をした。応援の手は世界中に広まった。だが、そんな善意はどのような形で生かされたのだろう。私もささやかで取るに足らないものかもしれないが精一杯の協賛をしたし、復興支援協賛のためのイベントなどにも積極的に加わって集めた資金を自治体などに提供をした。国自身も膨大な応援をしたのだと思う。だが現在の被災地の光景を見て、一体それらはどこに消えてしまったのかと、ため息をつきたい思いでいる。
 復興には、同胞たちの支援、諸外国の応援も生かされて、もっと効率的にかつ迅速に効果的に当たらねばならない。もたもたした姿ばかりが目についてならない。聞くに、従来のままの状態に復興しようと、最低限度の復興を目指しても、集まった資金はまともに振り向けてはもらえずに、中間にいる役所などが「書式や制度などが整わず、合理的な再建企画に合わない」などと言って滞ってしまっていると聞く。善意の資金が官庁の定めた将来の復興計画に、「有効て使えるか」などとの会議費や会合費などに使われてしまったり、災害復興とは直接つながらない部門に費消されたりして、存分に被災者の復興に活用されていないとのニュースも多い。これでは行政がこれでは復興を阻害しているといわれても仕方がない現状ではないか。
 どうすればよいのか。災害には復興できるものとできないものがある。あの大震災、とくにそれに伴って起こった大津波において、行くえ不明者を含む二万人の尊い人命が失われた。これなどは復興できないものの最たるものである。犠牲者には多くの子供たちや老人が含まれている上に、自分だけなら逃れることができたのに、同胞・仲間たちの避難を進めるために命を失った人柱も多い。だがこれらの命はもう、冷たいようだが以前に戻すことができないものだ。これに対しては、そんな人たちが生きていたら、おそらく全力で助けようとしただろう遺族たちの世話を行政が負担して、応援するだけでやむを得ないとする以外にない。そんな部分に支援の資金が使われることには意義はない。
 ただ、それだけでは足りない。次にはそのような犠牲者が増えないように、今回の犠牲の教訓から現段階でなしうる最低限度の教訓を学び、次の災害で急増して増えることのない対応策を固めて、次には現在も30数万人もいるといわれる避難被災避難者の一刻も早い故郷復帰を図りながら、東北復興の未来に向けた青写真を即刻立てて取り組むべきなのではないだろうか。
 地震や津波に襲われた被災地には以前にも勝る活気ある街を作り、そこで人々の明るい営みを再興させる策に万全を期すことだ第一だ。併せて、次に災害が襲ってくるときには、どう対応するかの、災害の程度に合わせた準備にも手をつけておかねばなるまい。

 どこに防御の節目を作るか

 そう思うのだが、いまでも津波の被災地は閑散とした膨大な原野が広がっている。再びあの大津波が押し寄せてきたらどうするか。これを考えるのは大切だ。ただその対応策にのみ時間がかかり、街の復興にまでブレーキがかかっているような現状をどうするか。考慮しなければならない問題が多い。
 今回、東北を襲った大津波は、ところによっては山を越す30メートル、40メートルの高さに達したという。そんなものを防ぐ防波堤などを完璧に作るプランを立てようとしたら、日本領土の沿岸は、見上げるような防波堤で取り囲まれてしまい、国土全体がまるで監獄のように殺風景なものになってしまう。それに第一、そんな大工事をするだけの原材料も資金もない。それを延々と協議する間待てというのか。これに関して、今回の地震や津波では「想定外」という無責任な言葉が政治家や関係学者の間で流行した。この言葉は無責任以外の何物でもない。災害に対しては、数年に一度程度は起こるもの、100年に一度程度は起こるもの、数百年に一度程度起こりうるものなどの程度に応じた対応策を「想定」し、それぞれに応じた対応を準備しておくのが行政の義務だと思う。
 特定の限界をもうけてでも、一刻も早い、そして災害にも耐える街づくりをして、直ちに対応方針は定められなければならない。そこの明るい暮らしを復旧するためには、数年に一度クラスまでの津波防御策を良く調べ、それらに加えて台風、高波などへは安全な機能を復活させ、まずその対応策を立てるべきだ。そして一生のうちに一度あるかどうかわからないそれ以上の大津波に対しては、避難体制をしっかり固め、避難道路の整備をするなどの順部が求められるだろう。加えて、老人や子供など避難弱者には、それ以上の事態がやってきて、万一彼らが不幸に流されても、攻めて命だけは安全なライフジャケットなどを要所に配備して、一日でも早い復興を期すべきであると思う。



 今回の大津波に際しても、調べてみると、海面からはそれほど標高は高くないところでも、被害に遭わなかった地域も多い。昔からの神社などが多く被害から免れて残っているし、古い集落が新しい住宅より津波の被害が明らかに小さい。津波の跡をつぶさに見ると、我々の知識は、先祖たちの知識にはるかに及ばなくなってしまっていたことを痛いほどに知らされる気がする。先祖たちの歴史には、その長さ故に蓄積された知恵が込められている。日本人は最近、身近にあるもの、郷土の歴史がかたりかけようとしているものを無視して、西欧科学知識にのみ依存して、それらの語りかけるものを無視しすぎたのではないか。
 対応策には、そんな我が国の歴史の知恵も生かすべきだと思う。
 また今回の津波では、津波による水死者が他の死者に比べて圧倒的に多かった。それらの死者を増やさない最も簡便な方法は、ライフジャケットの活用である。ライフジャケットというと首をかしげる人も多いと思うが、あの飛行機や船には座席の数だけ用意され、それをつけていれば水が来ると自然に膨れて水に浮き、しかも頭が水面上に出て、装備されている無線機で数日にわたり浮いている場所を発信続け、救助の人に救助を促す。これを装備していれば、8割9割の人が助かることは統計的に確かめられていて、しかも費用は一着当たり数千円の代物だ。これを学校や病院、養護施設をはじめ各家庭に装備しておけば、命だけは助けることができるのではないか。
 他にも、災害ごとに様々な工夫も浮かぶことだろう。
(次回に続く)