葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

祖父の面影

2010年07月12日 11時15分27秒 | Weblog
我が家の祖霊舎

 祖父がこの世を去ったのは私が満三歳になった直後、6月30日の大祓いの日であった。
まだ幼いころの思い出だし、通常なら記憶の彼方に押しやられ、すっかり忘れてしまうところだが、父や母の話で、折にふれては記憶を消さぬ効果があったこと、さらに以来何度も祖父の眠る祖父の墓を訪れ続けていること、シャワーのように祖父の在りし日の私への祖父の愛情のエピソードを祖母や母が話してくれたことが重なり、さらに我が家では毎年、祖父の命日には父が必ず在宅し、祖父の子供・孫はじめ祖父とゆかりの深かった人々が集まって慰霊祭と祖父を偲ぶ集まりなどがあったこともあって、祖父は今でも私には忘れられない思い出の人、万一のときには私の守護神になってくれる貴重な存在になっている。
 祖先が眠る祖霊舎と並ぶ神殿、我が家の客間の和室にある床の間の位置に設けた巾一間の神殿、欄間には曾祖父、祖父、そして私が掲げた父ら三代祖先の遺影が飾ってある。父なき後は私が引き継いで、朝に神殿の榊の水を替え、月に数回、コメ、水、塩の神饌も替え、祖霊舎兼用の神棚とこれら写真に拝礼をする。それが我が家の主である私の仕事だ。何か神前に奉告することがあるときは両側の一対の灯篭にも火をともす。祖霊舎には、祖母や母の霊璽(れいじ=神道式の位牌のこと)、夭折した伯母の御霊も収められている。
 我が家で朝・夕食などが炊きあがると、私の孫が神前に供える役をする。嫁に行った娘たちの孫娘も、我が家に来ればそれに加わる。孫たちは明るい現代的な今の少年少女だ。だが指示しなくとも神殿の諸役をかって出る。孫たちは神前の拝礼の所作などもいつの間にか身につけていて、神社参拝などで神主さんを驚かせる。私は元来、神道の祭式には弱い。最近では、孫たちに負けてしまいそうな現状にある。

 家族中心主義の我が家

 我が家は先祖伝来の家族中心主義だ。別に堅苦しいものではないのだが、家は主人(現在のところは私)が中心になり、妻や子供夫婦、孫たちのことを考え、その意見も聞いて責任もってすべてを決定する。親戚との社交から、社会とのつながりについても配慮する。家では長幼の順を立て、社会に立派に生きていける若い人材の育成に配慮する。家事などの分担を決め、ともすれば過重になりがちな妻や嫁さんの負担を軽減する。それは家のまつりを担当するものの務めである。
 そんな暮らし方は祖父母、父母から受け継いできたもの。形式ぶったものでも主人のワンマンを許すものでもない。現に私は父母がそうであったのを見習って、幼い孫たちの世話も遊び相手も率先してする。「じいちゃん」は孫たちのもっとも人気のある役でなければならない。そのためには本気で孫に接しなければならない。そんな対応も実は私のじいさんが率先して私に教えてくれたものなのだ。
 私は東京の父が経営する会社に接続する家に生まれたが、当時祖父は身体を壊して療養中であった。私の写真には初孫が生まれて大喜びの祖父が集めたたくさんの武者人形や桃太郎、金太郎に囲まれたもの、近年まで残っていたどこに柱を立てればいいのか呆れるぐらいの大きな鯉のぼりなどが残っている。生まれて以来、祖父の愛情の中で育ったようだが、私自身の思い出は残っていない。
 そんな私が祖父祖母と同居したのは、父が療養する父と同居するために鎌倉に大きな屋敷を購入し、私どもも鎌倉に引っ越した昭和14年の暮からだった。そこは数百坪の大きな庭があり、目の前には広い芝生があり、背後には折り重なる大きなつつじの樹叢、そしてたくさんの樹木が背後にある離れのついた和洋混交の家であった。

 節句の後の鯉のぼり事件

 家の西にあった私どもの寝室から、南側の長い廊下をとんとんと走っていくと祖父の寝るベッドがある洋間に達する。私は毎朝、目を覚ますと一番に大好きなおじいさんのところに挨拶に行った。足音を聞くと、病床の祖父は相好を崩し、ベッドで起き上がって待っていて、私が胸に飛び込むのを迎えてくれた。鎌倉暮らしはそんな日課から始まった。
 やがて来た4月は私の誕生日である。祖父は広い芝生に東京から鳶職人を呼び、大きな柱を立てて特大のこいのぼりを作ってくれた。カラカラと音を立てて回る風車、庭一杯に翻る吹き流し、真鯉に緋鯉、有頂天になる見事な鯉のぼりだった。こんな楽しい環境の中で私は誕生日と端午の節句を迎えた。ただ残念だったのは父が、全国を飛び回る仕事に忙しく、大自慢のこいのぼりを父に見せることができないことだった。
 やがて節句も終わり、東京から再び鳶職人が来て、この鯉のぼりの取り壊しを始めた。父に見せる前に鯉のぼりはなくなってしまう。私は祖母や母の止めるのも聞かず、懸命に「壊さないでくれ!」と叫び続けた。大声で泣きわめいて抵抗したと祖母や母は言うが、私には記憶がない。
 しかしその声は窓越しに休む祖父の耳にも入った。祖父は祖母からその話を聞くと、即座に命令した。
「壊してしまった鯉のぼりをすぐに立て直せ。子供が父に見せたいと懸命に頼むのに、その子供の父への愛情がわかっていながら、社会通念だ常識だなどとこれを壊すとは何事だ。子供の気持ちを大事に思うなら、鯉のぼりがいつまで庭に残っていてもよいではないか。大切なのは、子供の心にある父への愛情と信頼を、大事に育てることなんだ」。
 かくして、一度撤去された鯉のぼりは節句を過ぎてもう一度庭に建てられ、鯉のぼりは節句を過ぎた青空に再び翩翻と翻ることになった。

 こんなおじいちゃんも、それからわずかにふた月も立たず、幽界に去った。さびしい霊柩車の行進、近所の墓地での埋葬のシーンを、私は今でもはっきり覚えている。

 スサノオノミコトのようなじいさんだった

 天地の道に二つはなかりけり
 いつくしむてふことのほかには

 祖父が残した辞世の歌である。
 お互いにいつくしみあって生きる。このほかに天地のしかるべき道はない、という辞世を祖父は家族や子供たちを集めた前の病床で書きあげると、
「私の思いや心はすべて長男の珍彦に引き継いだ。思い残すことはもう何もない。今後は珍彦を私だと思って、仲良く慈しみ合いながら生きていってほしい」
と一同に語り、家人たちに自分の身体をささえて床の上一尺ほどに持ちあげさせ、静かに目をつぶると、「よし」と一声いって床の上に降ろさせ、すぐに眠りに就き、そのまま幽界に去って行った。
 思ったことはすぐに実行し、自分を信仰する鎮守の氏神様(九州・筥崎宮)の第一の家来で、喜びも悲しみも神様とともに感じていると信じていた祖父は、神社の神職の家に生まれたが、兄が神職を継いだのでその兄を助けて一生を過ごすと宣言、自分は兄がまだここに奉職する前にはこの神社の主典という、最も地位の低い神職の地位に留守番としてとどまっていたが、その後は浪人に近い生涯を過ごし、決して神職にならなかった。ただ、神道の信仰=人々がいつくしみあって生活し、助け合って良い社会を作るという思いは人一倍強く、その情熱はあの郷土の浪人・頭山満をはじめ神道や哲学の学者、当時の内務省の大臣や高官たち、神職、軍人などに多くの心の通ずる友を作り、存分に働いて一生を過ごした。そのエピソードは今後、折に触れて紹介したいが、そんな慈愛あふれた祖父を私は尊敬している。だが、私における祖父の思い出は、鯉のぼり事件のように、個人的な家族の思い出がたくさんそれに重なっている。
 祖父の名は葦津耕次郎、享年昭和15年6月30日、今年70年祭を迎える。