葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

曖昧のまま六十四年

2009年06月30日 18時55分12秒 | 私の「時事評論」
 六十四年目の終戦記念日が来る。今の日本、あらゆる面で行き詰って沈没寸前に見える。これはいままで歩んできた日本の道に原因があるのではないか。
 徳富蘇峰の『終戦後日記』を手にしてみる。
 蘇峰は大正・昭和時代を代表する硬骨の言論人。敗戦に際しても自説を曲げず、当時の日本の指導者が無責任だったと断じ、この無責任体質のままでは日本は滅ぶとの厳しい警鐘を後世に残した男である。

 蘇峰は降伏の詔勅の出た日から、この終戦の現実を将来の日本人に残しておこうと戦中戦後の状況を懸命に書き綴った。彼は日本の軍部、政府、新聞などの指導者たちが、明治時代のように慎重に事に臨まず、責任を自覚せぬまま戦って、危なくなると自分の言ってきた言葉も忘れ、自分ら指導部の祖国に与えた責任をぼかし、曖昧にした姿勢、責任転嫁の連続が明治以来の日本の気風を歪めたと厳しく批判をしている。
 米国の挑発に乗って、軍や政府が万全の戦略なく戦争に突入したのは、愚かな無責任だったが今さら仕方ないとしても、その後の作戦や対応で責任ある決断をせぬままに降伏をした。そして負けた挙句に、国に忠実に従ってきただけの国民に「一億総ざんげ」をしろなど、自らの懺悔すべき責任を転嫁して保身を図る。
これは日本男子の取るべき姿勢ではないし、将来に大きな禍根を残すと痛嘆している。

 敗戦の後に続く戦後政治も、まさにこの無責任を踏襲だった。日本の指導部は、命がけでの責任ある対応はせず、国民に対しては実情を知らせず、マヤカシの連続に終始した。
 身体を張っても反対すべき問題がたくさんあった。戦勝国の法に反する報復措置を「正義」と強弁する戦争裁判にも抵抗せず、日本に自ら発意した振りをせよと命じられた違法の憲法条文の押し付けにも諾々と応じた日本政府。マスコミなどは日本の集団意識、道徳などを消し去ろうとする占領軍の対日洗脳を先取りして肩を持ち宣伝、自ら国の秩序を台無しにしてしまう無責任。これらの占領軍の行為は、国際法にも反するし、命をかけても抵抗するのが国を預かる者の義務である。
 戦後の政治は大切な決断すべき問題はすべて曖昧のまま、首をすくめて先送りに終始した。占領政治の歪められた日本の状況の見直しもせず、靖国神社の英霊追悼は放置し、皇室制度や憲法などもまともな姿に戻すのを放置して、日本は経済面こそ国民の努力で回復したが、国家の姿勢は曖昧のままに放置して六十余年、政・官界の指導者たちは、過去と全く同様に、自分の任期中が無難に過ぎればそれでよいと、明瞭な政治の見識も示さずに、国民にはごまかし答弁や説明ばかりを続けてきた。
 そう思って過去の足跡を眺めると、今の混迷の原因がどこから生じたのかがはっきり見えてくる。

 選挙で自民党か民主党か政権を争うのもよいだろう。だがその争いに日本にとってどんな価値があるのか。疑問に感ずるのは私のみではあるまい。私は戦後の時代のたどった足跡を見て発言する。加えて、戦後のマスコミの報道がどれだけ日本国民を惑わせたかも忘れてはいけない。彼らは完全に日本に対する愛情を捨てていた。そしてどんな報道をいままでしてきたのか。私はここではそれを繰り返さないが。
 日本はいま、世界の荒波を乗り越え進むか沈むかの分岐点に立っている。戦後の時代に国として態をなさなくなった病気に罹り、祖国を愛し仲間同士で睦む心を忘れ、そんな状態で世界の不況に見舞われているのだ。
 そんな日本に道を掲げ、立派に伸びる策を講ずる任務は政治にある。
 私は幸いに、日本の築き上げた数千年の文明の中に、産業革命以来の歩みで傷ついた世界文化の病状を治療する特効薬があると信じている。これからの世界の発展のためには日本の育んできたような文明思想・精神姿勢が必要なのだ。
 今回の選挙の後で、日本のたどった戦後の無責任や勝手放題の空気を矯正する空気が生まれ、政界にも新しい空気で日本国の立て直しに向かう機運が生まれる、そんな夢だけはまだ捨てていないでいる。捨ててしまったら、それこそこの世に残る生きた世界遺産のような日本文化はなくなってしまう。

「あすなろ」と馬鹿にされたくないが

2009年06月14日 17時51分55秒 | 私の「時事評論」
 親と子、隣人や仲間と共同体である意識、睦み合う心を忘れたような事件が次々に起こります。隣国の北朝鮮は世界を相手に(とくに日本や米国を)脅せば勝ちさと言わんばかりの事件を続発させ、ソマリアでは日本の生命線を揺さぶる海賊事件が起き、加えてこれまで大きく依存してきた米国経済が立ち直れるか否かの危機に直面し、不安は高まっています。
 そんな事態にいらいらし、国を挙げて対応しようとの空気もあるのですが、憲法が制約になるとか、今までの日本の原則に合わないとの反対があり、世界の物笑いになる状況はいよいよ進むばかり。お互いに結束して国や仲間を守る気持ちがない。この気風が日本の命取りになるのではないか、そんな心配は日々に強くなります。
 憲法はしょせん、国民生活を円滑にする道具にすぎません。国民が歩いていくための靴みたいなものです。だが日本では「靴のほうが大事だ。靴が合わないのなら国民の足を削るべきだ」というようなことが大真面目で主張されます。
          〇
 考えると、こんなおかしな空気を作り出しているのは、国そのものに責任がありそうです。一例をあげると夏になると毎年騒ぎになる靖国神社。国のために死なざるを得なかった人々の霊を祭るため、国が作った施設。世界のどの国でも最も大切に扱うこんな施設が、日本を占領した米軍の命令で「神道は宗教に当たるから政教分離原則徹底のため、維持してはならぬ」と命ぜられ国が放り出して、もう六十年以上が過ぎました。だれの責任で命を失わなければならなかったのか、そしてだれが作ったものなのかなど、大切なことには国は全く頬かむりをしたままです。
 こんな国自身が率先垂範の無責任はほかにもいくらもありますが、こんなことばかり国がするのでは、国民が国に敬意を表するわけがありません。
          ○
 キリスト教を国民の大半が大切にする国も、仏教を大半の国民が信ずる国も、今ではほとんどの国が同じ政教分離原則を定めています。でもどの国でも、大切な国の式典はキリスト教や仏教や回教、ユダヤ教など、その国の国民の中にある宗教にのっとって、真心をこめて盛大に行われているのが現実です。それを日本だけはやろうとしない。なぜなのかの真の原因をもっと別の面から考えてみる時期だと思います。おかしいのはそれらの神道儀式のプロである神主さんがたまでが、こんな歪みを見ても黙っているように見えるのですね。
 私はそれを日本人の頭がすっかり西欧かぶれになっていることにあると思います。何でもかでも欧米の真似をする。日本に従来あったものを軽視する。そんな意識が神道という、日本生粋のものを知らないままに蔑視する結果になっています。もしも靖国神社がキリスト教の施設だったら、もうとうに国の公然と維持するものに復活をしているでしょう。事実、日本では公然とキリスト教で維持されている施設や行事はたくさんあります。
          ○
 日本独自の長い環境の中で作り上げた文化を大切に思わずに生きる私らは、自国の文化を大切にする国からみれば、有色人種のくせに、いつも個性を無視して二流の西欧人に育ちたいと憧れている下らぬ人間に見えるでしょう。
 明治維新いらい、日本は西欧の近代科学を取り入れてある面では大きく国民の生活水準を発展させました。だが半面、外国ばかりをうわべだけ見て真似ることに熱心で、その間に失ったものもあまりにも多かった。ヒバという立派な名前がありながら、いつかはヒノキになりたいと思っていると冷笑される「あすなろ」のように、日本人は見えるのではないでしょうか。