葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

理屈の身では割り切れぬ皇室論ーその2、立地条件からみた日本の皇室

2011年12月13日 22時20分44秒 | 私の「時事評論」
浦安の国を実現させた日本の地理条件。



日本のたどってきた有史以来の長い歴史を振り返ると、日本という国が二千数百年、一度も他国との戦争によって敗戦のみじめさを味わうことが無く生きてきたことが分かる。これは実に幸せなことだが、ある面からみると、世界の厳しさを知らずにノホホンと御人好しに育ってきたことにも通じている。いまの日本人の底抜けの人の良さも、ここからきていると思われる。

その一番の原因は何だったのか。私はそれを直感的に、日本の立地条件によるところが大きいと思って眺めることにしている。

海に囲まれた日本列島は西側には世界につながる膨大なアジア大陸が近接して存在している。大陸と日本列島の距離は数百キロ、決して人々が行き来できないほどの距離ではない。しかしその間にある海はかなりに深く、潮流も厳しい。もちろん、泳いでなどは渡れぬし、手漕ぎの船などでは渡れない。昔から、船で片道数日かけて往復する以外になかった。しかも日本海も東シナ海も潮流が激しく波も高い。安易に渡れる距離ではない。

この距離は海上を、危険を冒して乗り越えて往復しようとする人を拒むほどの距離ではなかった。往復は危険な船旅ではあったが、それでも人々は大陸と日本列島の間を往復し、大陸から多くの文化や技術を学んできたし、交易なども昔からあった。そのため、日本列島の住民は、大陸に生まれた最新の技術などを比較的遅れずに共有することができた。ただ、古い時代の、船での往復しかできないという条件は、一時に多くの人々をまとめて送るという条件には適さない。このため日本の存在は大陸には、古い時代から穏やかで豊かな土地だと知られていたが、大陸から、軍隊などを使って我が国を占領すること、民族が集団で移住して日本を占領するには大きなブレーキになった。かくして日本列島を囲む海は、日本にとって侵略に対する安全で強固な防波堤の役割を果たし、しかも反面、この海は海外から、多くの文化を移入する往復の窓口としても機能した。



しかも日本列島は海に囲まれ、穏やかな気候にも恵まれていた。冬暖かく夏涼しい温帯モンスーンに位置して周囲には魚類も豊富で植物の生育にも適していた。小さな列島にしては高い山も多く、豊かな森が安定して降る雨水をしっかり保存し、下流の大地を潤し、稲作はじめ季節に合わせての農耕作業に適していた。



最大の関心は五穀豊穣



このような列島に住みついた日本人の先祖たちは、やがて食物を農耕によって確保する技術を覚える時代になると、部族などが集団で農作業をはじめ狩猟・漁業などに従事した。彼らの何よりの関心は、安定的な豊作の確保で、それを集落総出で、集落の長を中心に太陽や山・川・森などに住むと信じた自然神に祈願の祭りをした。人々はやがて、集団となって分担作業をすることにより、個人の力では考えられなかった技術を駆使して農産物の安定的供給を確保し、それにより大勢のものが定住して食べていく方法を覚える。

まつりで祈る最大のことは五穀の豊穣、これは当然みたいに見えて実は大きな意味を持つ。大陸の荒野に住む人々ならば、異民族の連中、異邦の連中が大挙して襲ってきて、すべての作物を持ち去られる危険、住民そろって皆殺しにされる危険性もある。異民族の奴隷的な支配のもとに入らねばならない危険もある。まつりはまず、危険からの安全が最大の関心事になったことだろう。ところが先にあげたような日本の持つ立地条件は、異邦人が大挙してこの島に攻めてきて、日本そのものが彼らに奪われること、住民が皆殺しに合う危機などから人々を自然の要塞として守ってくれている条件下にあった。外地への往復や、時々外地からやってくる異邦の人は、ここ日本列島に住む人々にとっては、見知らぬ珍しいもの、新しい文化を伝えてくれる大切な人・客人と映った。日本の原始宗教、神道には見知らぬ人を大切に客としてもてなすまろうど(客人)信仰という特徴的な傾向があるとされる。本来なら排他的警戒感が強まる文化に、なぜこんな風潮が感ぜられるのか。それは穏やかな気風が立地条件によって培われたと考えてみるのも面白いではないか。



こんな日本列島には各地で同じような生活をする人々の集団がいくつも生まれた。どこの集団も囲まれた環境は似ているし、日が経つと近隣の集団との交流も始まる。水源地の山奥に暮らす人々、肥沃で広い原野で暮らす人、海辺で漁業などをする人に分かれていたが、互いに相互の連絡や、物資の交換もするようになる。そんな中、人々は集まって自然の神々に穏やかで恵まれた気象で、多くの作物が取れること、五穀豊穣を祈念した。それがいまもわが国に伝わる「神道」の基本である。



神さまへの「まつり」と「まつりごと」



祭りの場で、人々は食糧を確保し、農作業を集団で行う様々な取り決めなどを話し合った。日本では「まつり」と言えば神社への祭事を指すが、それと同時に「まつりごと」という用語は政治のことも指している。祭政一致、どのようにしてこれから協力してやっていくか。そんなことが神前で話し合われた。政治に類する者も自然に集団での「まつり」と結びついていたのだろう。

こんな祭りを主宰し、祭典を行い、神の見ておられると信ずる場所で共同作業や人々の間の取り決めなどを話し合ったのが集団の長(おさ)であった。その中の有力な一人が日本列島をまとめてこの列島の祭祀王(で統合者)として即位した。それが現在まで続く天皇制度の発祥であろう。こんな風に見ていくと、日本の天皇という立場が、どんな性格のものだったのかも分かるし、自然に理解できるのではないか。



天皇を中心とする国家の建設



天皇は当初は日本全国隅々までの統率者ではなかったが、徐々にその影響力を拡大して日本全国の統率者になった。その統治の拡大の様子は日本最古の史書である『古事記』や『日本書紀』などに記されている。以前は文字もなく口伝で伝えられていたものを、日本に文字が中国から伝わってきた後、西暦7世紀の天武天皇の時代に文字を仮名表記(万葉仮名)の日本語で記した『古事記』、地方の資料なども参考に漢文で編纂した『日本書紀』がそれだが、それを見ると日本の建国されてきた様子がよくわかる。

天皇統治の拡大は、同じような祭儀を行っていた日本列島の祭りの統合でもあった。

天皇は新しい地域を統括下に取り入れると、取り込んだ土地の祭りの場・神社の祭神を自らも祀り、新しい包含された地域のかつての長に、引き続き名誉ある地域での祭儀の長などの地位を残し、行政の実務は朝廷に集めていった。全国の神社の祭りは、それぞれの地域の長などがその地の祭りを担当し、それらの祭りを統合して日本全国の祭祀王という立場での祭りをするのが日本の祭祀王たる天皇の仕事になった。

天皇の朝廷が支配下に入れた地域の神を都に招き、鄭重に祭儀を行うことにより、祭政一致であった当時の統治の体系内に新しい地域を組み入れる形で、比較的穏やかに列島内を統合している例はかなり多い。天皇の住む都(みやこ)は同時に全国の神社の集うところともなり、天皇の統治は世俗の支配のみでなく、人々はこれにより信仰面でも統一されていく仕組みとなっている。これも統一という荒業を比較的穏やかに実現した手段だったのであろう。

天皇は建国された日本の長であったが、それは各地に育っていた神社をまとめ、それらをまとめた神社(伊勢の神宮や宮中でも祭り)の祀り主でもあった。神々とより近い立場の存在だから、この世の神のような存在・現人神としても尊崇された。こんな関係は日本人の心にしみ込んでいて、今でも国民の天皇崇拝の大きな核となっている。



天皇の行ったこと



日本の天皇は特徴的な性格を持っていた。一言でいえば「大御心・おおみこころ」と言えるだろうか。天皇は国の住民たちの統治・支配と同時に、その国に生活するすべての住民のために、神々に祈る祭りの長としての立場を持っていた。

かつては天皇といえども、苦労して国を統一して支配権を固めるまでは、どこの国の支配者にもある支配権をめぐっての争いごとも経験したであろう。それはもう、二千年近く前のことなので、ほとんどの日本人には実感として伝わるものではなくなっているが。

しかも日本という土地は、全くの共通点もなく、違った価値観を持つ部族たちとの非妥協的な争いに明け暮れる厳しい争いに明け暮れる環境にはなかった。大陸などと比較して、穏やかな暮らしが続くところであった。国内各地で発生した自然神である神々への信仰にも、多くの共通点があるところであった。

そんな地域の長になった天皇の任務は、長になったからにはすべての民のために、己は捨てて、ひたすら民のために神々に祈り、神々に全国民の祀り主としての任務を果たすことであった。日本の神々は八百万(やおよろず)といって限りなく多いが、それらは山川草木天地日月風雲など自然の働きをつかさどる自然神と、我々の先祖たちの御霊(みたま)に二分される。天皇は神々の集う高天原の長・天照大神から、地上のこの国の長として稲作など農作業で人々の住みやすい国を作れとの神勅を受けて降りてきた天照大神の後継者・瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、その後裔のだとの自覚を持っていた。

そんな立場の天皇にとって、この国に住む者の生活を向上させ、文化を向上させ文明を発展させるのは大切な任務とされた。天皇は進んで国内ばかりではなく、外国の未知の文化や技術を率先して我が国に取り入れて、日本の文化の向上を図った。日本文化に合わない面があるとみなされたものは改良し、日本に合うように工夫するのも朝廷の仕事だった。日本の文化は天皇を通じて民に広まる。そんな日本の朝廷の機能が広まった。

民の向上のためにひたすら祈り、祭りをし、民の暮らしの水準を高め、一人の取りこぼしもないようにと己を捨てて祈り続けること、これが天皇の任務とされた。そんな天皇の使命とお心を日本人は大御心とよんでいる。そんな態度で天皇さまは日々祈られ祭りをされている。それが徐々に国民にも広まって、皇室への敬慕の気持ちが高まった。



日本人には面白い慣習がある。「蘇りの心」とでもいったらよいだろうか。心は物や人から独立して存在し、いつまでも生き続けるという観念である。古い時代から伝わっている心なり霊性は、新しくそれを伝える媒体(神社、制度、継承者など)が新しくなれば、活力を得て蘇り強まって輝き続けるという考え方だ。伊勢の神宮が二十年に一度、社殿からすべての用度・備品を式年遷宮により新調して御神威を高め、いよいよ元気に継承される。天皇さまが大御心を継承しながら、先帝から新帝へと継承されて、歴代お持ちの大御心をそのたびに活性化させ、いよいよ輝かせる。伝統的に伝わる精神を、継承する者が代替わりしてもう一度燃え立たせる。

そんな慣習があるので、御帝(みかど)に対する忠誠は、いつしか単なる天皇お一人お一人への個人崇拝的崇敬ではなく、御帝の持つ統治者としての心がけ・大御心に対する崇敬にまで質的に高まった。苦しい逆境にある人々は、天子さま(天皇)だけは私の苦しさを知り、私のために日夜祈ってくださると確信するようになった。



民の皇室への敬愛、これは決して一方通行ではなかった。天皇は国民の苦しみ、大災害さえも、自らの統治行為の失敗が神々の怒りを招いた結果ではないかと思って、ひたすら慎む姿勢を貫いた。古い文書を見ると、大地震、火災、基金などに際して、天皇がそれを己の政治の不足が自然の神々のお怒りを買った結果として、神々への祭りで、「罰されるのなら責任の無い民ではなくて、私をお罰しください」とひたすら念じ、民を救うために全力を投入した事績は限りなく多い。そんな天皇を民は現人神と仰いでひたすらに忠誠を誓った。今回の東日本大震災に際して、天皇皇后両陛下をはじめ、皇族方の被災者の身を案ぜられるお心には感激させられたが、このような皇室の心は一貫して続いており、それが日本の皇室の特徴となっている。



天皇制度が時代を経ても、決して権威を薄めることなく継承される背景には、このような日本人の精神構造がある。もうここまで来ると、外国からやって来て国を征服支配して王位についた諸外国の王制などとは、比較にならない存在となっている。これに関しては我が父・葦津珍彦の著書・『みやびと覇権』などを参考とされたい。

皇室へ寄せる国民の強い崇敬心を維持するためには、この「それを伝えて動かれる媒体である天皇御自身が、伝統的連続性を持っておられる方である」ことが何よりも必要である。

それを、従来の男系継続の王統から、女系も継承へと変化させて、「これでも大御心は変わらない。男女同権の時代なのだから」と説明しても、国民の心情は変わらないだろうか。心の底に流れるほんの少しの違和感もないと言い切れるだろうか。私はそれに疑念を持っている。

日本の天皇制は日本が時代とともに、母系社会から父系社会へと変更された時点でしっかりしたものに固まって現在まで続いている。それはどちらに合理性があるかを求める論理の世界ではなく、それで霊性は継承されると思う感情の世界の話なのである。天皇陛下にかける尊厳の背景には、合理性があろうとなかろうと、現人神として尊崇する気風が大きく作用している。これは論理の世界ではなく、信仰の世界の問題なのだ。

こちらの方が合理的現代的だから変更せよなどといって代わって生き続ける性格のものではない。

理屈のみで割り切れぬ皇室論ーその1(はじめに)

2011年12月10日 15時10分34秒 | 私の「時事評論」
皇室の基盤が壊されて



皇室の今後のあるべき姿について、最近、私から見ると軽々しい様々な改革論が目に付くようになってきた。
 明治憲法制定の時、日本の国柄を研究した上で定められていた憲法が、進駐してきた米国軍により、ただ日本をまとまった統制力の無い国に陥れようと、国際法の規定などは、白人ではない野蛮国に適用する必要が無いとばかりに無視した圧力により改定を命ぜられ、これに併せて皇室の基本を定めた皇室典範までが廃止され、新たに従来の重い法規から、すぐに変更できる一般法に転換させられたのが敗戦の結果だった。
 これで二千年以上日本に根付いていた皇室の位置づけまでが法的面では軽くなり(日本の精神的な柱であった神社も大変な誤解を受けて苦しめられたが)、これは敗戦という事態に遭遇した我が国のやむを得ぬ情勢だったが、それ以来、在来は予想もしなかった軽々しい論が、頻りに流行るようになってきた。
 これに併せて、日本国が依然として立憲君主国の体制を維持しているのにかかわらず、まるで憲法の変更で共和政治の国になったかのごとき宣伝が行われ、「皇室の民主化」方針などという、概念を正確に掴むことがしにくいおかしな論が流行するようになって、日本の体制はどんな国柄であるのかさえ見失った状態になってしまった。

おかげで小泉内閣の時代には、敗戦までは万一の皇位継承難の時、重要として存置されてきた多くの宮家が皇族から切り離され、皇族は昭和天皇の男系兄弟とその子孫のみに絞られた。その結果、皇位継承に不安が出てきたのを受けて、従来の宮家を復活させるのではなく、女系や女帝を含む皇位継承への皇位継承制度の改定論が出て、これでは日本の皇室が、西欧などの王制を見習った神聖さを失った異質のものに変質するのではないかと心配されるような、当然日本が再び主権を回復した時には、前もって準備しておかねばならない準備が欠落したまま放置されていたために起こる事態が訪れた。

日本のように古代社会から続く天皇を国の文化の柱として存続してきた国が、安定的で円滑に現在の文化を維持していくためには、天皇制度そのものも同質の連続性の下に維持していかねばならない。だが、政府が進めようとした皇位継承法の変更は日本の天皇制度ができて以来、一貫して維持しようとしてきた日本の皇室制度の本質を無視するものであった。日本の歴史を振り返ると、緊急時に女性の天皇が就任された例は僅かではあるが存在するが、歴代皇室と男系でつながらない天皇が即位した例は未だかつてない。何でこんな大切なことを国の政府までがそれに安易に同意しかねない危機が生じたのか。歴史に対する無知か無神経という以外にないだろう。
 幸いこれは、たまたま論議が生じたときに、新しい親王殿下がこの時期にあわせたように御誕生になり、当面の皇位継承の危機が遠のいたとして沙汰やみになったが、同じような危険がまたまた憂えられて現在にいたっている。



なぜ女系皇位継承は容認できないのか



あまりこの点は力説されていないようだが、女帝はともかく、女系の皇位継承は、日本の皇室の性格を根本から変えるもの、日本人の文化概念とは馴染まないものである。
 それは法制度上の「男女同権」のごとき、権利義務関係の論議と安易に混同さるべき問題ではない。
 女系の皇位継承は日本的な祭祀や、連続してきた祖先との霊統などにおける不連続につながり、信仰的に在来の皇室を、女系天皇の継承によって従来の皇統を廃絶したという国民意識に追い込みかねない危険なものだ。
 「女系の継承も男女平等で良いじゃないか」などと巷で軽々しく論ぜられる背景には、日本の天皇の地位が、物権など論理的ものとは異質の面も持っていることを、こんなに国民の身近にありながら、充分に理解せずに論ずる皇位への深みの認識欠如から生まれるものである。我々は日本史に一度も前例が無い女系の皇位継承の持つ意味をなぜなのかもう一度深く検討しなければならない。
 我々は先の小泉内閣下で女系容認案が検討されたときに、「天皇制度を似て非なるものに変質させて連続性をここで中断させる危険なもの」と断定して精一杯に警鐘を鳴らしてきた。

ところがこの論議が中絶して数年たつと、今度は皇族のお仕事が最近多くなり、女性の皇族方も御役を担って引き続きご活躍願いたいとの声が出されて、女性宮家創設論が出されてきた。
 この新宮家創設の提案が、皇位継承の男系破壊へつながらないというのなら、それにことさら反対する理由はない。新女性宮家は単純に政治的要求を満たすもの、一代限りで消滅すべき性格のものである。女性の宮様が、男系の皇統に連なる方とご結婚され、男系の皇族への条件を満たさない限り、存在の必要はなくなるだろうからである。

女性宮家の創設論は一見、出されたものを眺めればまことに見える。
 なるほどいまの皇室には式典や会合はじめ、国民が尊崇する皇族方の御出席を求める行事が多い。それらすべての行事に現在の両陛下や皇族方のお出ましを願うことはできないだろう。いまだって、将来ご結婚されれば皇族を離れられる未婚の女性皇族も多くの会合に臨席され、お忙しく御働きだ。女性皇族の宮家も、皇位継承権をお持ちにならない一代限りのものなら、国民心情が望むのなら、検討されてもよいように受け止められるものだった。そして伝えられる宮内庁筋からの声も、たとえば羽毛田宮内庁長官のコメントなど、このような条件を見て提案されたものだと説明されていた。

だが、その話がいったん表に出ると、話はだんだんおかしな方向に動きだしそうな気配だ。
 いつの間にか、いま御活躍中の女性皇族のお立場維持の前提がぼやけて、三笠宮の姫君さまなどを外した天皇陛下のお子様とお孫さまに限るなどと言い始めている。新聞の報道などをつぶさに見るがよい。



これではまるで、小泉内閣時代の女系皇位継承論へ移行する伏線みたいなものだ。
 だいいち女性皇族は減少する。それらはみな、日本の伝統的皇室に関する研究や国民心理の深い洞察がなされたものとはいえず、日本の皇室制度の特徴を深く理解しようとせずに、日本の皇室を安易に西欧王制を模倣のものにしようという類の論ばかりである。

日本国の文化には、国の発生以来、連綿として続いている個性があり、それが日本文化に果たしてきた比重の大きさを考えてみるがよい。
 日本文化の個性の柱でもある皇室制度を、目先だけの軽率な判断で変更してしまって良いものだろうか。連綿と続いてきた皇室制度は、一度壊れてしまったらもう二度と、かつてのような影響を日本に残す制度ではなくなってしまうだろう。安易に皇室の制度を変更することは極めて危険で、取り返しのつかない暴挙に見える。



歴史の無いところに見習う日本



「どこの国の王制でも、女系や女性を認めるようになってきたのが最近の傾向ではないか」との乱暴な反論が出るかもしれない。
 だがこの問題をあまり軽々しく論じてはいけない。王位継承は基本的には世界でも男系を基本としている。男系とは家の集団の長はその家の血筋の男性が当たるという考え方。王位は「継承法」という法規でどの国でも定められているが、それは殆ど男系の一族による相続が基本となっている。
 ただ、諸外国の王制の場合、男性が中心である王室の後継者が近親にいなくなった場合、近隣諸国の王族や、王族に嫁いできた王妃などに王位を譲る場合もあるが、その場合は勿論、王族が変わるから王朝が変わって新しい家の新王朝となる。世俗の王位はこれでも継続するが、精神的、王の一族一家の相続・積み重なった先祖との連続の縦糸は断絶する。
 日本の場合は皇室は一つの男系の一家、歴史を見ると、暫定的に皇室の父親の血統を継ぐ女帝(独身)が皇位を継いだ歴史はあるが、そのあとは女帝の子孫ではなく、歴代天皇の男系の子孫がそのあとを継承して行為をつないできた。
 日本の皇室には姓が無い。皇族が変わることはないからだ。国自体を家のような概念「国家」と呼び、それは男系により先祖伝来の神霊を継ぐという日本独自の精神風土は一貫して継承されてきた。精神的継承が断絶し、霊や神との祭りの連続が不可能になり、天皇に天皇の血筋以外の父親ができる現象は、継続のためにも、公平無私の立場で天皇が奉仕されるためにも避けられてきた。

これは日本の天皇が国民統合の祀り主であったこと、そして日本が独特の家族制度の国であったこと、日本の公的な国の祭りが神道という独特の信仰であったこと、神話の時代から現在に至る御霊(みたま)の継承、天皇のお心(大御心・おおみこころ)の継承が、とくに重要であったことなどとつながっている。

私はそんな日本の独自性をわざわざ破壊して西欧王室の模倣品に変更しようとする行為は、文化の継続することの価値を全く理解することのできないものの暴挙であると思っている。
 しかも歴史も伝統もある日本の皇室制度を、歴史のはるかに浅い諸外国のまねをして、皇室の大切な柱・国民もそれを信じている精神的権威を壊してしまうのは納得できるものではない。世界を見回しても、人類の文明がいまだ発展せず、石器時代にあった時にうまれ、人々の柱となったような制度が、天皇制度のように今まで連綿と歴史を重ねてきた例は他にはない。
 それは諸外国の王制などと比較して明らかに違う日本文化の継続が生み出したユニークな制度である。

世界には日本の制度とはどこか似た王制をとる国はいくつか存在する。
 だが外国の王制は、歴史が古いものでも僅か数百年の歴史しか持たない。
 しかし日本の天皇制度はどんなに歴史を短く見ようとしても、石器時代が終わり、稲作の弥生文化が始まる頃からの二千年を越す長い歴史を持っている。その成立以来の特徴を基本に、日本の文明を基礎に発展してきたものだから、これを単純に諸外国の近代的産物の王制と同じような共通の尺度で論じ、日本などとは無関係な文明の歴史をたどった西欧で発達した哲学や論理学を基礎としたものの見方で論じようとしても無理が行く。

現在の日本には日本文化を軽視する特徴がある。世界中が日本の育んできた独特の文化の価値を高く評価し、諸外国ではとうの昔に廃れてしまった貴重な価値を日本文化に見出して賞賛のまなざしで眺め始めている。
 皇室はそんな日本文化の中核である。特に学者や政治家などの世界に極端なのだが、日本が長い歴史の中に文化の土壌にあわせて育んできた日本人らしい知識や生活、感性や思考法などを全く理解せず、学問や知識と言えば西欧の育んできたものをそのまま模倣するものだと偏屈に思いこみ、日本文化の育んできたものは時代遅れの遺物にすぎないと思うようなものばかりが中心になっている。幸いなことにそんな連中の風潮は国民の多数を占める沈黙せる大衆の心にはしみ込まず、辛うじて日本の文化の特性は維持されているといえそうだが。

このままこんな風潮の中で、皇室改革論などが弄ばれ、軽率に彼らの近視眼的思いつきで変更されるようなことになったなら、日本の皇室はいままでのように国民の絶大なる尊崇と愛情の中に生き残ることができなくなるのではないか。

そんな思いがするので、ここに私の思いを基に、筆をとることにした。