葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

二流国と四流国

2010年10月31日 17時53分39秒 | 私の「時事評論」
 中国の首脳会談ドタキャン
 ベトナムのハノイで開かれたASIAN+3会議、当該地域の各国首脳が集まって開かれたが、この会議の合間に、かねてよりギクシャクしている日中間の問題を話し合おうと日本がお膳立てした日中首脳会談、土壇場になって中国側が拒否を宣言、待機していた日本側を置いてきぼりにするという事態が生じた。
 中国側の言い分によると、午前中の前原外相と中国外相の日本側の発表が事実と相違したからなどが理由にされているが、この根拠は日本ではなく、中国側のマスコミが事実を捻じ曲げて伝えたものが基本で、根拠の全くないものだとされている。
 これに対して日本側は、遺憾だとしながらも、日中間は大切な連携すべき隣国同士であり、今後も誤解を解いて両首脳実現を考えたい旨の発表をしている。さらに会談が一方的に破棄された翌日、ASEANの会議場でたまたま中国の温家宝首相に会った菅首相は彼と十分間ほど会談し、日中関係の友好が変わらぬことを確認したなどとの報道をわざわざ行い、日中関係の修復に心がけている姿勢を示している。

 追い詰められている中国の内政
 菅首相が温家宝首相と会議の合間に話し合うというスタイルは、先の尖閣列島での中国側の日本国境侵犯、海上保安庁と巡視船への衝突事件の際も行われた菅首相流の作戦なのかもしれない。中国は国内での温家宝政府に対する不満のデモや騒動が、中国政府の尖閣列島領有主張の手ぬるさを批判する声と結びつき、政権そのものの存続にも大きな影が差していると国際的には観測されている。そのために日本に対しては非常識ともいえる無礼な対応をとって国内大衆の怒り(その背後には反政府の目的をもった政府の敵が潜んでいる)を鎮める行動を取らねばならぬ。しかしそのやりかたが、外交的には甚だ無礼であり非常識で、中国外交に関して世界の信用を失墜するものになりかねない。そこで、すぐ中国の非常識を責め、外交的に強硬策に走ることがない日本に強硬な姿勢をとり、この種の「ちょっと会い対談」で御機嫌を取り、事態を決定的対立にならないようにする作戦をとらざるを得なくなっているのかもしれないとも考えられる。
 尖閣列島への領有権の主張に関しては、現場の実務を担当している中国政府から見ると、予想以上に日本側の国民からの怒りの声が上がり、日本と友好関係がある米国も、クリントン国務長官らが、ここは日本の領土であることを認め、今回の会談の直前にもクリントン氏は日本の前原外相に対し、この列島の領土防備は日米安保条約による米国側の日米安保に定める日本領土に含まれていることを重ねて認める形になっている。
 これに対しても中国は、日本との首脳会談をキャンセルした直後、外相がクリントン氏と面会し、来るべき米中首脳会談を前にして、過激な発言をしないように申し入れ、政府系の新聞などを通じて、断固この列島の領土権を主張するとする前原外相に批判を集中する報道をさせている。明らかにこれは中国国内向けのポーズである。

 三流外交にならざるを得ない中国
 しかし、こんな作戦をとる中国外交は、明らかに外交的に見て三流国のそれだと言わざるを得ない。中国はじめアジア諸国には、国内の政権批判をかわすために日本を悪玉であると必要以上に宣伝し、国民の目を政権批判から日本批判に向けさせることによって、政権の安泰を図る国がいくらもある。本来はそんな政策をとれば、相手国からの決定的なしっぺ返しを食い、政権自体が苦境に追い込まれるのが普通だが、日本という国は特殊な国だ。日本の国が悪い、あるいは悪かったということが自分の新知識人ででもあるかの風潮が一部の日本の自分がインテリだと思っている層の中にある。島国根性と舶来趣味が奇妙な形でミックスされて、それが占領軍に支配された時代の中でのさばる形になったのだが、そんな連中が近隣諸国からの日本批判があると、必ず「日本の側にも非があるのだ」という声を国内であげることになるので都合が良い。
 そんな可笑しな声に遠慮してか、日本政府はしり込みを続け、圧力をかける相手国に対する強硬な反応に出られない。そのためにいつしか日本は、不安定な近隣諸国の政権批判をかわすために利用する絶好の国としての評価を得るところにまでなってしまっている。
 だが、こんな非常識にも限界がある。際限なくいじめられていては日本という国が成り立たなくなるところも出てくる。最近の対中国意識がそんな国民の声に押されて、徐々に変わってきたのは注視すべきだろう。

 それに媚びれば四流国の運命
 日本の外交は世界の水準からみて昔からあまり上手とは言えない。明治維新からの日本の歴史をみると、維新当初には独自のプライドと理想をもつ人が外交を握り、副島外務卿のような人が、「日本外交ここにあり」と胸を張る対外外交を展開してきた。しかし外交が西欧模倣の日本の誇りをわきまえない者中心に移るにつれて、段々水準が低下して、それが満州事件から大東亜戦争の敗戦につながり、そして戦後の卑屈な外交に変化した軌跡は、今さら説明するまでもないところだ。世界の一流水準にあるとは思えない。
 だがいまは二流水準だとしても、今回の中国のような三流水準よりはまだましである。日本はまだ、世界外交常識に盾ついて、三流外交を展開するところにまでは落ちていない。二流水準のままでいる。
 だがここで、三流水準の国中国などに接して、それに媚びるために自らのプライドを捨て手玉にされる様な事をすると、三流に媚び屈した四流国になってしまうことを知らねばならぬ。国際法の常識さえも忘れて、押されればどこまでも後退し、強い無法な連中についていく。そんなことをすれば亡国である。
 日本よ四流国になって亡国の道をたどるな、私がここで主張する意味はそこにある。

孫可愛さの肉離れ

2010年10月25日 18時53分44秒 | 私の「時事評論」
孫坊主の育ちに夢中

 春先に我が家に迎えてきた孫息子、ダウン症だというので、なんとしても我々老夫婦が世話を手伝い、愛情だけは惜しみなく与え、育てる環境だけは欠けることをなくしたいと鎌倉への同居を勧め、孫の子育てに没頭してきたのだが、可愛い、可愛い。

 振りそそぐ愛情はすぐにこの坊やに伝わって、坊やはすっかり私らになつき、大きな声で笑いながら天真爛漫に育っている。我々が信頼されているので、両親やお兄ちゃんが、この子を預けて終日でも泊まりがけでも出かけたとしても知らん顔。逆に爺婆がいなくなると大騒ぎして、スッカリお祖母ちゃんとママを勘違いしてしまったような様子だが、まあ、同じ屋根の下に暮らす一つの家族なのだから、それもいいとするか。

 発育が大きく遅れると言われていた上に、この子が一か月の早産だったので、育ちは遅れていたのにかかわらず、引っ越し前の春先から預かるようになって、今では明るく健康に育ってつたい歩きを始めた一歳二カ月だ。朝から晩まで、じいちゃんばあちゃんを大声で追いかけまわして、丸々と太って大きな声をあげている。大きく口をあけて笑う笑顔がこの子のトレードマークだ。

 目が合うとにっこり笑い、大きな声を出すんだなあ。それに、なかなかこっちの真似をしなかったのが、ようやくチョチチョチアワワなんて一所懸命にやるようになって。この子をそれこそ眼の中に入れても痛くないのが私ども、朝早くから夜寝るまで、家にいるときはいつもこの子の相手をして、「這えば立て、立てば歩けの爺婆心?」に明け暮れている。

 運動不足が応える私

 ただ困るのはこちらももう若くないということ。おかげさまで体重も増え、10キロにもなるこの子を抱いていると、私も妻も足腰はガタガタ、孫はすっかり安心しているので抱いていても何の心配もせず暴れるし、うっかり油断していると、両手を広げて体当たりでぶつかってきて、二人の顔や手足に食いついてくる。爪もよく伸びるし引っ掻くし歯も6本も生えてきたから噛みつかれて、老夫婦そろって生傷が絶えない。

 生傷。床屋などに行くと、
「どうしたんだいこの傷だらけの顔は」
なんて聞かれて、孫の愛情表現による乱暴を白状する。
「そういえば、あんたの服もよだれだらけだ。いいなあ、孫付きで」
なんて必ずうらやましがられる始末。

 一昨日も、娘たちがこの甥のために買ってくれた、またがることのできる子供用自動車が大好きで、後ろからソロソロ押してくれとせがむので、正座もできなくなった悪い脚なのに膝をつき、何回も室内を押し歩いているうちに、なんと膝からまたにかけて肉離れを起こし、夜も寝られずウンウン言うありさま。

 私は愛煙家なのだが受動喫煙が怖いと大きなガラスの外のテラスでたばこを吸っていると、その硝子戸に内側からおでこで体当たりをしてきてごつごつ顔を当て、キャッキャと騒ぐ。ハラハラしてタバコもゆっくり楽しめない。

 風呂も私らが入れると引き受け、なんと自分の子供さえあまり世話しなかった私が、湯船で妻からこの子をもっぱら預かって、タオルにくるんで連れてきて身体を拭く。

 夜は息子の帰宅が深夜になるので、それまで我らの寝室に預かって、寝相が悪く、顔をけられて世話をする始末。この子が体調を崩せば、私は直ちに寝室を妻と子に貸し切り、どこか別室でひと眠り。

 だけど、どんなにわがままされて困っても、やっぱり孫はかわいいなあという孫馬鹿のお粗末。

 でも今のところは順調に

 孫馬鹿だと言うなら言え。笑わば笑え。

 家族とはこのようにしていたわり合い、慈しみ合って共同生活をするところだ。愚痴はないさ。

 我が家での分担で、食事当番は若い嫁さんの仕事。それにお兄ちゃんの世話も私たちはほとんど手を出さない。見かねて私が時々怒鳴りつける程度。だがこれがお兄ちゃんには効くらしい。

 小学校に入ったばかりのお兄ちゃんにどっぷり甘えさせていままで団地生活をしてきたために、お姑さんに料理など仕込まれた経験もなく、食事は肉、肉、肉。脂ギトギトの炒め物、カレーライスと相場は決まっていて、夫婦そろって糖尿の君のある我々には、何を食べるか戸惑うが、また食事が終わるとお兄ちゃんが、意外なほどの臆病者の甘えん坊、お母さんが一緒でないと眠れないと、母子して寝室にこもってしまい、後片付けまで老妻が引き受けなければならなくなるが、そんなことはどうでもよい。

 それでも、いずれは若い家族たちにも私の理想とする相互扶助の日本型の家庭の在り方を教えるさ、あせらずにコツコツと、粘り強く。

 小さな坊やも順調に育っている。足が弱いのが気になるが、つたい歩きもちょっとずつ覚え始めた。私に向かって何やら懸命に話す動作も見え始めた。いたずらやおふざけをして楽しく笑うことも覚えてきたようだ。



 居間に掲げた我が祖父の辞世

 大きな我が家の居間の壁には、私の祖父の辞世の歌が掛けものにして掲げられている。

 毎年6月30日のまつりが終わると良く年までしまっていたのだが、今年は掲げておいたほうが良いと思ってそのままに。

 「天地の 道に二つはなかりけり 慈しむてう ことのほかには」

 みんなが優しい心で慈しみ合うと言うほかに道はないことを知って生きていってほしいという祖父が最後に一家に残した教えの歌だ。
全てはここから始まると思う。これが私のモットーだ。
こんな家族にしてみせる。 


   写真 見てくれよ、この元気な顔
  









チリの救出劇ー大統領のパフォーマンス

2010年10月16日 10時12分39秒 | 私の「時事評論」
世界の技術を動員して

 チリ北部のサンホセ鉱山の落盤事故、地下700メートルの坑道に閉じ込められていた作業員33人が全員、無事に救出された。

 8月5日の事故発生から69日ぶりの救出で、その模様は世界にテレビで中継されて、かたずをのんで見守る視聴者たちが「奇跡の生還劇」に拍手喝さいをした。

 事故そのものは坑道の落盤事故という管理体制の不十分から起きた、あってはならない事故、世界で多くの工夫・作業者が多発するこの種の落盤事故で命を失っており、決してほめられたものではない。
 だが、チリ政府はビニェラ大統領の率先陣頭指揮で救出に当たり、これに世界の最新技術が提供され、600メートル以上も縦穴を地上から寸分たがわず掘り下げ、それを通して人が入れるカプセルを現場まで投入し、一人づつ収容するという離れ業を見事成功させた。これは快挙だ。世界の技術水準を併せれば、ここまでできるという見本を見せた結果になった。

 また、69日間にわたる救出劇は、その間の地上と地下に閉じ込められた人たちとの相互通信技術、必要な物資の供給から作業員の肉体的精神的な健康管理、二次災害の防止など様々な技術が動員され、それらのニュースが常に世界に向けて公表され、大きな関心を招くこととなった。



 チリ大統領の政治的利用

 今回の救出劇で特に目立ったのは大統領の演出であった。事故が起こると真っ先に、総力を挙げての救出を訴え、折に触れてはこの早期救出を情熱をこめてメディアを通して訴える。そして救出前夜には現場に駆けつけて、地下の作業員の関係者を励まして回ったり、救援隊を応援して回り、遭難者がカプセルで地上に降り立つとすぐにそのそばに走りつけ自らの存在を示す。そんな姿がテレビを通じて世界中に放映され、しかも現場には大きなチリの国旗までが飾られていて、演出効果は万全。

 報道によると大統領は就任したすぐ後で、ちりの財閥でテレビ会社なども持つ男なのだそうだ。チリの主力産品、国営またはそれに準ずる鉱山での大事故は、その管理体制の不備などで大統領の責任が問われ、場合によってはこれが政治的に不安定なチリの政情では混乱のもとになり、失脚の引き金になりかねない問題を、見事自分の宣伝にプラスになるよう切り替え成功した手腕は大したもので、また運もよかったというべきだろう。事実この事件で大統領の支持率は以前より10%増加して、5割を超すことになったという。その人気がいつまで持続するかは分からないが。

 こんな大統領のパフォーマンスに、これは事故の政治的利用ではないかとの批判の声も強いという。確かに私がテレビを見ても、そんな匂いは強く鼻について離れなかった。だがそこは、もう少し冷静に眺めてみる必要もあるのではないか。



 30秒の差

 これも報道で知ったので私自身が取材したのではない。そのためあまり偉そうなことは言えないのだが、今回の報道合戦には世界のメディアが集まったが、チリ政府に取材を許されたのは、各国の国営通信やそれに準ずる報道機関としてチリに認められたところに限られていたという。政治クーデターなどが日常的に起こる情勢にある国の政府としては、この混乱に乗じて何かの騒ぎが起こるのを厳しく規制したのだろう。

 それだけではない。世界に向けて放映された映像やニュースは、現場からの直接送信という形を取らず、わずか一分前後(30秒と聞いたが)あとだが、時間をおいて送信されたという。これはチリの政府が万一の勃発的な不祥事が起こった場合、ニュースをカットする備えをしながら世界に配信を認めたということになる。

 いつテロやゲリラ、そして大統領失脚の目的で襲われるかもしれないとの危険を身近に感じている者にとっては、このわずかではあるが微妙な時間を確保しておくのとおかないのでは、天と地ほどの違いがある。
 チリという国では過去にも我々にも記憶に新しいゲリラによる官邸襲撃人質事件や、その被害者を地下トンネルを掘って特殊部隊が救出した強硬解放事件、フジモリ大統領の逮捕事件など、多くの事件が頻発している。

 時間差報道は、全く意識をしていなくても、電波の状況や中継局の都合などで、日常でも、やむを得ぬ事情によって、数秒程度は度々起こる状況にある。
 そのために、平穏な日常生活に慣れ切って、緊張がゆるんでしまっている我々には、さほどの大きな問題ではない、遅れたって僅かではないかと思う者もいるかもしれない。
 だが、実はそこに様々と注意して考えるだけの価値もあるものだと私は思っている。



 選挙制度の宿命

 チリ大統領のパフォーマンスは、道徳的に批判するべきだと思う人もいるかもしれない。確かに選挙目当ての宣伝臭はかなり強烈に鼻についた。

 だが良く見ると、今回の事件にだって、外国にも同様のパフォーマンスはかなり濃厚に感ぜられた。米国オバマ大統領は迅速に事故への人道的救済応援を声明、NASAの最新技術を提供するとした。日本も中国も欧州諸国も様々な協力をした。ローマ法王は祈りをささげた。それらはよく見ると、人道援助というよりは、これを機会に自らを、あるいは自国をチリに世界に宣伝するという意識が強く働いたものだと見ることもできよう。全世界のメディアが集まっているそこは、下手な国際博覧会などよりインパクトがある。

 選挙の票や人気が自分の背後の力になると思う者は、どうしても自らの心の中にある「これを利用したい」という価値判断に左右されてしまう。人道的な心は、その背後にわずかに見えることになっているのかもしれない。

 だがこの人気を狙い売名したい心を醜い行為であると批判し禁止すれば、選挙制度の道徳的規制が、逆にこの種の活動の進展の足を引っ張ることにもなりかねない。

 選挙制度とはそんな特徴をもつものだと眺めておいたほうがよさそうである。





脱官僚論の混戦

2010年10月10日 16時07分47秒 | 私の「時事評論」
 民主主義政治と言われるが

 国の行政が官僚たちの思うままに左右されてしまっている。国民は建前として
「日本は民主主義だ。国民の投票を通しての意思表示が国政を動かす国だ」
などと言われているのだが、現状は全く違ってきているのではないかとの不満の声が、最近にわかに強まってきている。

 選挙で選ばれた国会議員の中から選び出された首相は、大臣を選んで組閣して、国会で各省庁に分かれた政治課題への取り組みを羅列した施政方針を読み上げる。
 大半のそれは各省庁提出の文章のつなぎ合わせだ。
 それに対して国会議員が質問をすると、閣僚たちは、事前に質問者から提出された質問要旨に関して、所轄の役人が作った回答や問答集の中から関連する個所を棒読みして答弁する。
 それでも足りないと突っ込まれると、政府委員として担当の役人が出てきて、うまく回答して予算を通す。予算が通ると、付随する法案が出るが、これもほとんどは省庁が作って、提出したものだ。

 これが日本で長く続いてきた国会の審議の実態である。これが全国に放送されるのだから、見た国民から、これでは役人のお膳立て通りだとの不満の声が起こるのも当然と言えば当然だ。
 だがそれは国政の場である国会のみの現象かというとそうではない。府県や市町村議会などもみな同じ状況で、地方議会などでは、議案に対する質問まで、提案した役人たちが準備するのが礼だというところも多い。

 そのほか国政や県政などに、民意を反映しようと設けられた公聴会、各種諮問機関や重要な問題の検討委員会などの審議までが、みな役人がおぜん立てして人選し、委員は言われるままに発言したり合点首をしたりしている。
 こんなときに目立つのは、事前の筋書きや根回しから、議事の内容、結論の出し方に至るまで、まるで芝居の脚本家のようにちょろちょろ工作に走りまわる役人の姿だ。ここでは特に名前はあげないが、私が仕事で取り組んだ課題に関する諮問機関などは、なんと諮問される委員を誰にする段階から、筋書きをつくる役人の行政が動きやすい意見を言ってくれしうな人が有識者などの肩書で選出され、役人のレクチュァーで、彼らの仕組んだ意のままの結論を出し、ただその政策の民主主義的箔付けするのみにされているものも多かった。



 操り人形扱いの議員たち

 こんな状態になってしまうと、議員や委員たちはもう、狡猾な役人たちの操り人形にすぎなくなる。

 法律を見れば、民意によって運営される制度は形では整備されている。しかし実態は前述したような状況だ。
 議員たちがよほどの覚悟と信念をもって取り組み、そこに政治家としての自分の意思、あるいは投票者に対して約束した公約を生かそうと努力しない限り、やられるほうが通常だ。
 役人たちは終身雇用で専門にこの部門に通じており、議員たちより実務に遥かに強い。継続的な蓄積の上に仕事をしている役人に逆に操られて、指導性を発揮するどころではない状況になっていることを知るべきだろう。それに役人たちは勉強もしているし、採用試験の厳しい制度を通り抜けた頭脳をもっている。さらに他の連中ともしっかり組織を固めて結びついて、連携しながら動いているのだ。



 官僚たちの組織

 私は某官立大学を卒業した。法律経済分野の学部だが、同期の者の相当部分が中央地方の公務員試験を受けて役人になった。彼らは卒業後も先輩とも連携をとり、役人の組織網の末端で仕事をしてきた。
 もう彼らは70代に達し、官僚組織は卒業しているはずなのだが、いまだに後輩たちと連絡を取り、まだ現代も○○委員などという、民意を聞くためにと役人が設けた席や、天下りとの批判も受けている各種法人やその関連企業などで、役人だった経歴を生かし、名誉職についている者もいる。

 同窓会などで集まると、彼らは何人か集まって、酔った勢いもあるのだろうが、
「俺があの議員を動かして、こんなことをした。こんな実績を果たした」
などと、いかに天下を動かしたかとの自慢話をする者も多い。
 私が「現役時代、頑なな官僚の教条主義が壁になり、運動をしようとした時の大きな壁になった。中途半端に頭が良くて、そのくせ非常識な役人連中には苦労したよ」
などと中に入って皮肉交じりに混ぜ返すと、
「おまえは組織というものを知らなすぎる。単独でただ正面玄関から入ってみようとしても、そんな素人は相手にされないのが当然だ」
などと、平然と答えるのだから呆れてしまう。
 官尊民卑というのかもしれないが、官僚組織とは、こんな意識をもつ連中で固められている。

対中国の国交に思う

2010年10月01日 18時33分43秒 | 私の「時事評論」
 
 日本の国民意識と外交のセンス
 尖閣列島沖における中国漁船の領海侵犯事件、日本政府の対応がまともに処理せず、下手くそな日本的な遠慮した対応をしたおかげで、逆に中国側の強引な対応に押し切られた形で終わったのは無念残念なことであった。領海侵犯という国際法判断を掲げず、その法違反の取り締まりにおける従たる公務執行妨害などで逮捕するから、筋道の立たないことになってしまった。明らかなミスだと思う。
 だがそれだからといって、あまりおかしな騒ぎをいつまでも展開し、客観性を忘れて大騒ぎするのはいかがなものか。その後のニュースを見て思っている。ここは冷静に今後の日本の体制をしっかり整備し、これからは少しは増しな対応ができる国のあり方を検討すべき時なのではないか。
 中国が日本に対して非常識と見える強硬な態度をとってきたのには理由がある。それは中国政府が国内に大きな政治的不満を抱えており、その不満が中国政府の対日弱腰対応などという中国大衆が飛びつきやすい問題をとらえて爆発すると、収拾できない混乱になり、下手をすればそれが起爆剤になって、一気に政権転覆にも結び付きやすい情勢にある。中国国内はまるで点火されたら一気に爆発する火薬庫のように、様々な不満が渦巻き、それを利用してでも政権を奪取しようとする勢力もあり、実に危ない状態にある。
 そのため中国政府は、ちょっと無謀な対応だと知りながら、日本国が相手なら、少々常識に反するが、大衆の不満の対象を反らし、外に向けるためにこんな強硬な方針に出た。そう判断してもよいだろう。だが中国は、日本を仲間にひきこんだ現状の体制のまま、国際社会に向かっていかねば、せっかく伸びてきた国内経済の成長がショートする。いま、政府批判から反らした国民の目を、政府批判に向かうことがないように、いかに消火するかに苦慮している。そんな収拾策を政府は探りだしたと私は思って、船長釈放その後の政府の対応をみたりもしている。
 中国は尖閣でとった対日強硬策を、波風立てぬように引き下げようとしている。日本工業の生命線の一つ、希少金属の対日輸出規制も、事件がすめば解除することを見越して声明などを出さず、ジンワリ感じさせていたものを、黙ってまた元に戻した。軍事基地の撮影容疑者も、尖閣列島での日本側の逮捕劇と同じように、まず拿捕した一般船員を日本が放したように、これに準じて首班以外を三人を釈放し、次いで首班を十日ほど遅れて釈放または国外追放する。そんな方向に行くのではないか。国内で大衆から抗議の声が上がれば、「日本がとった行動への対応措置だ」と言うつもりだろう。
 中国側も、かつて中国が領有権の主張を始めた直後、周恩来や小平が日本側に話した約束は忘れたわけではない。実効支配が現に日本側にあることは認めるが、それは独占的領土権を日本に認めたというものではない。自国のボスがかつて明言した言葉をこのように解釈し、日本に資源の共同利用権を求める交渉に弾みをつけるつもりか、私はこのように解釈している。尖閣列島に対して、彼らがベトナムやフィリッピンの行った態度とは若干の温度差をつけてくることも充分に考えられると思うのだ。
 だが、それには日本がどんな対応を貫くかにかかってくる。中国側のやりにくい対応をすれば、いつでも彼らは方針を変えるだろう。

 国により全く違う社会意識
 中国は日本と隣接していて、同じような顔形をした人々が住み、日本人は中国に発生した漢字を使用する環境にある。日本はかつて、長い間直接中国から、そして朝鮮半島を経由して様々な新しい文化を吸収してきた。そんな歴史や環境があるから、日本には、中国文明と日本文明は非常に似た近いもの、共通点の多いものとの認識をもつものが多い。そしてそんなに近い中国(そして韓国も一緒だが)だから、以心伝心、腹の底では同じ感覚を共有していると簡単に思いこんでしまう人も多い。だがそれは、大きな勘違いのもとだと私は思っている。
 勘違いは、両国の異質のものを見落としているところからきている。最も大きな異質性は環境が作る文化の精神性だ。日本は周りを海に囲まれた島国で、日本文明はこの海により、押し寄せてくる異民族の脅威にさらされずに何万年の穏やかな歴史を刻んできた。それに対して中国は、世界で最も大きな大陸につながり、陸続きの異民族との交流・衝突の興亡史の中に歴史を刻んできた。
 長い間、のんびり太平天国が続き、それが当然のように保障された環境の中に育ってきた日本人と、いつ敵が攻めてくるかもしれない、外来民族に殺されるかもしれないと日夜怯えて過ごしてきた中国人の意識が、何千年かかっても同じようなものだとは考えるほうがおかしい。警戒心、抜け目なさ、ものの考え方、常識などに違いが出てくるのは当然である。
 一つだけ例を挙げる。日本人の伝統的信仰の中にあるものとして注目されるのは客人(まろうど)信仰である。客人は自分らの持たない新しい技術、考え方などをもつ貴重な存在として、日本人は古代から大切にし、それは信仰の中にまで取り込まれてきた。そこには外来のものを、征服される恐ろしい敵、自分らをつぶしかねない脅威として恐怖する意識はすこぶる希薄である。そんな思い込みが海の外とは隔てられた安全だった日本では有力な共通意識となり、これが中国や朝鮮の文化を安心して取り入れる基本となったし、今でも日本人には舶来尊重意識や西欧礼賛主義の温床の基礎になっている共通本能が存在していることを見てほしい。知らないものは敵だと疑う、警戒心の強い大陸文化とは徹底的に違う。
 そんな違いをもつ両国である。中国には中国流のものの考え方、日本には日本流のものの考え方の違いが歴然とある。その前提を忘れてはなるまい。


 だが今は鎖国時代ではないのだ
 これが鎖国の時代なら、日本人はその殻に閉じこもって、独自の穏やかな暮らしを楽しんでいればそれでよかったのかもしれない。だがそんな日本が海の外からの開国圧力に抗しえず、鎖国に踏み切った後が現在なのだ。世界を見ると、日本のように四海に囲まれて穏やかに数千年の安穏な文化を育み得た国などはほとんど存在しない。探してみればそれはインカ帝国ぐらいのものかもしれない。新大陸という他の文明と交流なく過ごした土地で、山の奥地で文化を開いたインカは日本と似たような環境で、結果はまんまと文明を廃絶させられてしまった。
 日本が今、そんな穏やかな文化意識で過ごそうとするのなら、少なくとも外交交渉や外国との交際では、激しい摩擦と警戒の中で育った異文化への、異質性の理解だけはしっかりしておく必要がある。鎖国を解いたのちの日本の生き残る条件である。
 外交などはそんな激しさが、最も端的に示される世界だ。それは外交が、諸国間の対立する諸問題の解決を、競い合って解決する手段であることからもはっきりしている。
 外国との外交には日本の社会だけに通用する腹芸や、以心伝心、はっきり言わずに感情を伝えあう芸などは通用しないものと知るべきだろう。日本の政治家はそのことを十分知っていなければならない。
 
 外交に当たる態度
 外交関係に当たる基礎的常識は、国際法の権利義務の考え方に基づいて、日本の中だけに通用するおかしな芸を使わないことである。プラスとマイナスに基づく連立方程式の論理を利用して、それ以外のことにはとらわれず、我らの欲するところを真正面から相手に示し、両者の示し合う条件を照らし合わせて、両者納得のいく妥協点を求める。大陸の諸国で育った論理は、このようにコンピューターのようにプラスとマイナスの組み合わせからできている。その点に集中し、日本人の好む中間色のような考え方は、外交からは排除すべきだと私は考える。
 そしてその背後では、相手の国の事情、なぜ相手がそんな要求を出してくるのか、その主張の出てくる背景をしっかり突き止め、相手の立場にたっても同意しうる結論を求めるべきである。
 日本は世界の諸国の中でも、外交の下手な国との印象を持たれている面がある。日本の外務省は、まるで鹿鳴館時代のようなセンスだとも評されることも多い。充分に世界の潮流を研究し、そこで生きていく技を磨きたいものである。