葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

選挙間近で

2012年08月31日 11時17分14秒 | 私の「時事評論」

 軽かったのではないか自民党の読み

 参議院での野田首相への問責決議の通過で、いよいよ総選挙が近づいてきた感じだ。


 今回の問責決議は、自民党にとって実に説明のつかない重荷で訳の分らぬものになってしまった。自民・公明が民主党に注文をつけ、大幅修正を認めさせた結果の消費税アップの提案を可決させたことを最も大きな野田首相問責の理由とした決議案だ。その修正でほとんど自民党の提案を受け入れさせた自民党が同意したからできたので、私から見れば、これは自民提案のようなものになっていり。これまでは脅していうことを利かせてきたのだが、散々言うことを聞かせたらもう、利用価値がないと切り捨てたような形だ。


 これまでの国会での駆け引きに、自民党と同調していた公明党はさすがに自民党よりも辻褄合わせを考慮していたのだろう、この動きには一緒に動かずに棄権に回った。


 この結果、先の増税案にかかわる具体化へ必要な法案なども積み残し、いままでの積み上げは、このままで解散すれば、実効を上げにくいものになってしまった。どうしてこんな結果に自民党は転んで乗っかって行ったのだろうか。


 「一日も早い総選挙を実現させる」
と谷垣自民党総裁は語っている。その辺から私には今の自民党議員たちの腹が見えて来てしまう。そうだ、はっきり言って自民党は、いま、政府が出している選挙法の改正案を潰そうとしているのだ。

なぜつぶすのだ、それが議員の総数を40人以上も減らす内容になっているからだ。比例代表での当選議員を減らす。それは選挙区選挙では当選できなかった個人としては選挙区で力の弱い多くの立候補者を救う手段が大幅に小さくなる。そんな線上にいる選挙に弱い議員たちの危機意識に配慮しなければ、今の自民党執行部は、党内の議員たちをまとめきれないと判断したのではないか。自民党の総裁選挙は目の前だ。そう見られても仕方があるまい。


 国民の声にもっとも反応しない部分


 行政改革など、政治にかかる経費の削減は国民にとって当然の要求である。だが経費を既得権だと思っている公務員や議員たちにとっては、国民に不満があっても、自分らの地位を危なくしたり経費を絞られることは必死に抵抗して封じ込めたい問題である。お陰で議員たちが消極的でなかなか実現しない。そのなかで、もっとも合理化が遅れているのが国会など立法府の合理化なのだと指摘されている。


 これは議員たちが、国民の要望に反してでも守り続けたい、いままでに積み重ねてきた「お手盛り」の累積である。今回の自民党の、自分が工作して実現させた政府を、敢えて問責するのに賛成した動きには、自民執行部が党内のこんな動きに負けた結果だと私は見たい。


 「お手盛りは削れ」「議員総数も減らせ」「無駄な立法経費は減らせ」というのは国民の一致した声であると言ってよいだろう。加えて議員一人当たりの選挙区での有権者の数が、憲法違反になるぐらいに違いすぎているとの最高裁の司法判断も示されている。


 違憲判決に応ずるためには、議員の定数を調整して違憲状態に対処する新選挙定員案を作る以外にはない。その方法は議員を増やすか減らすかの二案しかない。そこで民主党は国民の受け入れやすい選挙区調整をやり、加えて比例区を大幅に削るこれも国民に受けのいい選挙区改正案を提出した。その背後には国民の声を利用しようとのしたたかな野田内閣の計算がある。野田氏の計算はすでにこの問題には触れたことがあるので繰り返さないが。
 

 首相は新しい事態まで読んでいるのか

 問責決議は参議院での決議だから、法的には野田首相の進退を拘束しない。さらに衆議院での内閣不信任案はつい先日に提出されたが、これには自民党も賛成できず、否決されているのだし、「何で首相任免の権利を持つ衆議院が不信任案を否決したのに、その直後に参議院の議決で政権を投げ出す必要があるのか」。これも野田内閣にとっては政権を存続させる根拠になる。


 結果として残るのは、最高裁から憲法違反といわれた選挙制度の改革案が残る。だが、いままで国会が何をやってきたのかも御破算にしても、ただ議員定数を減らさずにそのままの状態で選挙をやれと自民党が主張しているだけのような格好となってしまった。だが総選挙になったら、こんな恰好でどう戦うのだ。憲法違反をなぜ黙認しようとしたか。議員定数をなぜ減らさないのか。これに答える責任があるのは与党ではなく、どうやら自民党にされそうな気配だ。


 こんな国民心理を計算して野田内閣は動いている。野田政権の支持勢力は弱体だ。だが総選挙までの数日に、どれだけこのような環境を積み重ね、自派に有利な状況を作り出すか、野田氏は着々と動き、成果を積み重ねているように見える。


 総理に就任した時、「自分はドジョウのような総理を目指す」と言った野田首相は、なかなか執念深い活動をする。その先には既成政党が国民に飽きられて、新しい時代がやってくるかもしれないその場面に対しても、布石らしきものを持っているのではないかとさえ思えてくる。


夏も終わりに 閑話休題 

2012年08月27日 16時02分00秒 | 私の「時事評論」
 暑さも峠か

 振り返っても暑い夏だった。毎日の猛暑に、生きたまま蒸し焼きか干物にでもされるのではないかと思っていた今年の夏、だがそろそろ峠を越えたのだろう。朝夕には涼しい風が吹き抜ける時候になってきた。
 
 最近気になるのは、穏やかな温帯地方の時候がどこかおかしくなって、激しい気象が当り前になってきたこと。明治時代からの東京近辺の避暑地兼避寒地・鎌倉という都市圏と比較すると確実に2~3度以上、冬は暖かく夏は涼しい海と山に囲まれた隠居最適の街に暮らしているのだが、それでも暑さ寒さに愚痴のため息も出るようになってきた。
 
 昨年は6月に一緒に暮らす孫の幼児が何万人に一人という急病に倒れ、横浜の大学病院に長期入院の夏であった。息子夫婦と日程表を組んで、毎日この子の見舞い・付き添いに日を過ごした。暑い夏だったのかもしれない。病院への往復、昼前に家を出て夜8時を過ぎて家に戻った。まだ2歳にもならない孫息子が懸命に治療している。それを思うとわが身が暑い環境にいることなど考える余裕もなかった。孫は懸命に治療に耐え、病院は最新の技術で対応してくれ、年末には無事に退院をすることができた。私は生涯を神道の国・日本のため、浦安の日本を築くためと神社の世界で筆をとって来て、引退の後もその余韻を引いて暮らしている男だ。だがそんな私だが、この幼い命が無事健康を回復して我が家に戻ってきたことが、天下国家よりも貴重な神々よりの宝物に思えた。
 
 この子はすっかり「爺ちゃん子」になりきって、私の溺愛の中に我が書斎に入り浸り、退院後の経過も良好で日々明るく暮らしている。
 
 この夏は、私どもが住むマンションに付属するテラスの庭で、子供プールでの水遊びに興じている。木が多く藪蚊が多いので蚊取り線香を何本も焚き、傍らのロッキングチェアーでたばこを吸いながら孫に水をかけられるのが日中の楽しみである。昼寝をすると書斎に戻って好きな文章などをパソコンに打ち込んでいるが、すぐに孫がやって来て、私の膝によじ登り机に上がって、パソコンのスイッチやキーボードなどを押しまくり、ネットで童謡などの動画をせがむ。私のパソコンにはこの子好みの歌の動画や電車やバスのショートカットが100曲以上並んでいる。
 

 朝起きると、陽が高くならない早朝に妻を伴いお宮参りに行く。私が幼児のころから通いなれた神明宮と御霊神社だ。両社には以前からよく散歩に通ったが、孫の入院以来、毎朝欠かさず散歩を兼ねて病気平癒の参拝に行き、昨年6月からまだ1日も欠かしていない。

 こうなると、やむを得ぬ所用があっても、お参りしないと御祭神に誠意が欠けると判断されそうで、ありがたいとともにちょっと迷うことがある。孫の入院中、父の従兄弟にあたる伯父と同じく父の従兄弟の夫になる方がなくなった。我が家は江戸時代以前からの九州の代々神明に奉仕していた神道の社家、血の繋がりは濃い。特に私の曽祖父以来、その類縁の方々とは、いまでも緊密な連絡を取り合って生きている。だが葬儀となると方や長野でもう一つは福岡、通夜と葬儀は一泊二日はかかり、遠隔地のため参拝は無理だ。私は葬儀の日だけ妻に代参を頼み、やむなく計二日は代参で過ごした。今年は九月に九州で同様の法事ごとがあり日程は4日。
 
 今度は私ら夫婦もいつまで九州に直ちに駆けつけることができるか分からぬので、妻も誘っていく予定でいる。今度は妻に代参は頼めない。ちょっと悩みにしているので付け加えた。

 
 今年は暑いが、孫に無理は禁物と鎌倉で過ごした。息子一家がこの子の健康回復のお祝いにと一泊で軽井沢に出かけたが、我々夫婦はその二日間を休養するために我が家でのんびり。

 
 
  さるすべり咲く

 以前は北に山を背負い、広い庭のある近くの家に住んでいた。父が死んで10年して、程近いマンションに転居した。北側に山を背負い、南が開けた広い敷地、そこの3階建で10世帯が入っているのだからまあ贅沢な家。一階なので専用の庭があり、我が家専用の外から直接庭に入る通用門もある。
 
 そこの今まで住んでいた庭から持ってきた思い出の木々を植えた。その一つ、一尺にも満たない百日紅の小枝の挿木が花をつけた。六月に台風が来て塩害で新芽がすべてダメになった。懸命に手当てをして新たな芽が育ったのだが、遅ればせながら思い出の花の色だ。

 
 高さがもう二階にまで及び、すっかり成長した百日紅はかつて住んでいた昔の頃を思い出させてくれる。
 テラスにおかれたロッキングチェアー、これは二十年ほど前に娘が部品を刈って来て組み立てて私の誕生日プレゼントに贈ってくれたものだ。

 
 ギッコンギッコン、椅子を揺らせてもう60年近く、止められずに続いているたばこを吸う。目の前でキャッキャとはしゃいで私に水をかける行水中の孫、まあこんなところが私の行きつく至福の限界なのか。
 

 時々サッと涼風が吹く。

どちらが有利だ

2012年08月24日 14時47分22秒 | 私の「時事評論」


明白なのは機能の麻痺ということだけ


無意味だが民主党有利の国会論議


またぞろ可笑しなことをやっています国会は。いまさら国会がまともなことをするなんて考える方がおかしいのかもしれないが。
選挙法の改正に対して。民主党が単独で50議席を減らそうという案を審議始めた。一票の重さの比で格差が大きすぎるとの最高裁の判決があったので、これを代えるのは立法府の義務である。だが出し方が良くないとその他の諸会派は揃って与党民主党に文句をつけ、審議にも出てこない。だが、このやり方はおかしいと「早期解散に追い込む」と動いている自民党やその他の諸党は、結果的に違法状態を継続させたいと思っているのだろうか。
国政の定められた場で国民に分かりやすく説明し、納得のいく説明をしなければ、国会はいよいよ政治とは無縁の存在になってしまう。
民主党は改正案を衆議院に提出したが、衆議院で可決しても参議院では可決をする議席数が足りないから通らない。深くその辺も見る人は、通らないのに提案するのは、政府・民主党には国民世論を尊重し、最高裁判決も大事にする姿勢を貫こうとしたが、他の諸党が邪魔をするから出来なかったとの来る選挙での宣伝だけはできるとの計算だろうと見ているようだ。しかも民主党案は定員減で国会の経費節減につながるという国民に受ける内容になっている。
日本の議会制度を再建するのには今回の民主党の改正案でも物足らない。日本の社会には二大政党が対立する方式の政治方程式は合わないし、再び中選挙区方式に選挙制度は改定し、参議院制度はむしろ大選挙方式が望ましいと私は思う。
だがそれは長期ビジョンの話。いま国会の議席を占める各党が、全て国民に対してどう自らの主張を分かりやすく説明し、支持を集めるかも忘れて、そのくせ目の前の選挙に右往左往する様は。とんでもないところに国会が入り込んでしまった姿を示しているようだ。

利用されている弱腰日本――考察編

2012年08月19日 22時09分33秒 | 私の「時事評論」

 日本が占領されている間は

 いま、日本に対して執拗に繰り返されている周辺諸国の内政干渉や領土権の要求は、日本がまだ米国の占領下にあるときは提起されることのなかった新しいものであることも記憶しておきたい。近隣のアジア諸国が、米欧諸国に対しては出すことをためらう要求が、日本を相手になら出してもよいと判断する根拠はどこにあるのか。私はこんなところにも世界の諸国のゆがんだ姿勢を感じてならないのだが。今回はその中で都合により他の二つとは異質の北方領土の問題を外し、尖閣列島と竹島を例に挙げながら論を進めたい。
 
 領土問題の中の尖閣列島は、ここが沖縄県の一部として米軍の支配下にあり、その後日本に返還されるまで、中国や台湾から、一度もその日本領土であることに抗議は出ず、日本に返還されるときも問題にもされなかった。外務省から発表されているもの、あるいは書籍やネットなどの多くの論を見ても、なぜそれがここで領土主張が日本に対して持ち出されるようになったのか、明瞭につかむことができると思う。竹島問題もはっきりしている。竹島は戦後の昭和21年1月、GHQのSCAPINN677号により日本の行政権から外されて米軍指導の新政府の下にあったが、26年9月に調印したサンフランシスコ条約で朝鮮の日本領土からの分割独立を認めた時に、そこで分割され放棄させられた朝鮮の領土にも含まれていなかった。
 しかし翌27年になると、韓国の李承晩大統領が国際法を無視した強引な領海宣言を行い、この区域を自国領に組み込んだ。この中に竹島が入って以来、日本との間に何度かの紛糾の末に韓国の実効支配の時期が続き、いまでも日韓の間で紛争になっている。
 ただ、竹島問題を見る際に、気をつけたいことがある。ここから100キロほど離れた養生には鬱陵島があるが、この島が以前は竹島と称されていた時期があること。ここには韓国王朝の以前からの実効支配の歴史がある島である。しかも問題の竹島の方は、以前は松島と呼ばれていた時期がある。東京の日比谷公園ほどの大きさの、人も住みにくい崖ばかりの無人島であるが、周辺は豊富な漁場で知られている。その厄介な混同は明治以前の文書を眺めるのに、厳重に注意すべき点があることを見落としてはなるまい。
 尖閣列島は明治以来、無主・無人の諸島だったのを、日本が清朝にも領土外であるのを慎重に確認の上、沖縄県に組み込んだ諸島である。その後敗戦により米軍から施政権を取り上げられていたのが沖縄とともに日本に返還されたが、そこに中国が領有権を主張し始めたのは、その後十七年を経過した昭和43年以来のことである。
 このように、どちらの領有主張も、歴史考察などとは関係が無く、近年になって急に持ち出されたところに共通性がある。

 紛争といえる種類の資料は見当たらない

 領土以外の騒がしい日韓などの話題を見てみよう。韓国で近年取り上げられている従軍慰安婦の問題は、これは実証できる正確な史実というより、証言段階から冷静な信憑性が満たされないものになっている。現段階の資料ではむしろ感情問題から生み出された内容のものではないかといえるものであり、冷静な論議にはなり得ない性格のものとなっている。しかもこれも近年になって提起されたもの。日韓関係においても、日中の間にも両国の間で、もうこの辺でお互いのつつき合いはこれで終わりにし、今後はお互いに協力していこうとの話はすでに終わっている。それがまた、いつかまた新しいもの、蒸し返したものが頭をもたげ、終わることのない紛糾が繰り返されるもどかしさがある。私は当時の状況を見、証言がころころ変わる状況を見て、これはとても国際間で論争する話題にするには証拠にならないと個人的には思っている。日韓の間には、少しその歴史を調べてみれば、この種の事実とは言えない曲がった話が多すぎる。私が調べた日韓史と、彼らが主張する日韓史にはあまりにも異質のものが多すぎる。それは韓国が以前は漢文の文化圏であったのに、いまはハングル文化の国になり、歴史が現代に正確に伝わっていない事情にもよるのでないかとも思われる。さらに正直に感想をいえば、世界には、この国と付き合っていると、一応決着を見たそのあとに、新たに転移した癌が残っていたようにまた同じ話題で再度騒ぐから、これでは相手国でが、「うそ」をつかれたような気分になり、契約しても信用することができない国だという印象を与える事態が頻発する。これは中国などにもいえそうだが、韓国が世界での信用をどうしても蓄積できず、世界が韓国や中国と話をまとめる際に、日本や既に両国に進出し提携している西欧諸国や企業が後ろで保証人にでもならない限り、うっかり信用できないとの感を持っているのもこのせいであろう。「あの際しっかり契約したのに」という契約が反故にされ、信頼感の欠如が埋まらない。いま、発展しているかに見える経済的地位も、これではいつ失速するかわからないというものにも見えてくる。
 
 靖国神社国家護持への目に余る中韓からの横やりも、内政干渉そのものである。先の大戦は不幸なものであった。日本としても、反省すべきことは多いだろう。だが国家間でこの問題は政治的には一段落して、もう過去を忘れて新たな協力の姿勢で進もうと、何度も確認し終わったはずである。
 あとはお互いに内政への干渉を避け、契約や法知識が無い自国民がいる場合には、国がしっかり冷静な法解釈を説明をして、相手国に迷惑をかけず、摩擦が無いようにすべき問題である。日本国の慰霊の施設である「靖国神社」を我々国民がどのように扱うか、それは日本人自身の定めることで、我が国民の意識を基礎にして、外国の声とは切り離して決めなければならないものである。
 ところがこの「心の中」と「表に出る政治や法にかかわる対外行為」との区別も分からぬ日本にも問題がある。どこで教えられたのか特に政府までが、靖国神社をどう戦後の復興後の姿にするかの問題で混乱して、国民の大半が熱望した国家護持の問題に大きなミスを犯した。そこに中曽根首相の公式参拝への対応の際に中国が動き、政府がまた揺れておかしな対応が起きて混乱が起こって以来、まるで靖国神社の問題に、外国までが発言して良いかのような混乱した事態になり、馬鹿げた騒ぎに発展した。
 この種無名戦士の墓のような施設の取り扱いに、外国が干渉するような非礼な行為は、論理を重んずる西欧諸国が相手なら、中国や韓国も決しで公式には取り上げない性格のものだろう。戦争は国家が決断した行為であり、この種の戦没者が個人的に発意して起こしたものではない。英霊は国への忠誠に伴う犠牲者である。長い歴史をお互いに持つ国と国の間には、お互いに戦う不幸もあったかも知れぬが、しかも英霊たちは、それぞれの国のために国の命で殉職した。戦争は個人の恣意で起こしたものではない。その愛国の事実に対して、国はどこでも当然の義務として顕彰している。異国の代表が外国に行ったときなどは、たとえ自分らと戦った英霊がまつられていても、英霊には敬意を表するのが国と国との儀礼になっている。
 この種の問題を前にして、我々はもっと冷静にならねばならないと思う。法治社会というものは、人々の心の中を取り扱うものではない。お互いに、心でしっくりいかないことが残っていても、それが行動で出ない限りは批判せず、内政干渉、人の心の中には土足で踏み込まず、仲良く付き合って生きていくものだと思う。
 日本と近隣諸国の間の紛糾の多くは日本人の一部が、国内に日本の培ってきた伝統社会の復活を嫌い、何が何でもそれを破壊しようと外国の手までを借りようとする日本人の介入を含んでいることにも注意すべき問題がある。

 日本攻撃もピークに達して

 大東亜戦争が終わって、日本の周囲には新しく独自の政権を立て、国際社会に参加する国がいくつもできた。アジアの多くの国々。それらの国は戦争により全ての蓄積を壊滅に近い状態にまで破壊してしまった日本と、六十数年間、競うように成長を目指してきたが、中でいち早く急速に躍進したのはやはり日本であった。日本はすでに国民の間に新しい時代に対応する教育や常識、契約の観念、そんな基礎となるものを身につけた国民層ができていたからだった。終戦以来十数年で、その水準は欧米諸国に肩を並べるところにまで回復し、その後は日本もまた周辺諸国の経済発展に援助をする側に回り、それらの国々を日本の経済グループにも組み込んで諸国の発展に協力をする時代が到来した。
 現在はそんな時代もようやく過ぎて、アジアの諸国も、多くの新しい技術も身につけ、国際的にも対等に勝負ができるものを作り出せるところにまで近づいている。だが、残る問題は彼ら周辺諸国の民度というか、世界に対する信用度が、まだ世界の信用を得るところには至っていないという面である。世界の諸国が持っている独自の特許や技術を公然と盗用して秩序を乱して気にもしない国もあるし、先にあげたように一度公式に確認した契約を公然と無視する国もある。近代国家環境の下で共存し繁栄していくためには、国や国民がどうやって信用を積み重ねていくかは大切な条件となる。日本のアジアで果たすべき仕事は、まだまだ大きいと言わなければならない。先に築いたノウハウをこれから続いて発展していこうとする国にも指導助言をしていく仕事、それを説明し教えていくことも大切だと思っている。
 だが、そんな信用の違いを見るにつけ、後に続くアジアの諸国は、時には「何で日本だけが信用されるのか」とイライラを感ずることもあるだろう。それらは先の号で私が書いたように、西欧社会の中に生きていくために、苦労を重ね、譲るすぎるほどの譲歩をしなければならない場面も乗り越えて、日本がやっと勝ちえた信用なのだが。それはなかなか理解されない。その裏返しのように日本に対する我儘にも見える内政干渉や批判の声も続くだろう。
 だが、そんな場面に遭遇して、理由もなく譲歩をしていては日本にとっても、干渉してくる国にとっても良い結果は生まない。もう少し、毅然とした態度をとるべきだ。私はそう考えている。

そろそろ国家としての自覚を固めねば。

 それとともに、日本そのものの国の進路に対しても、日本は考えねばならないところに来てしまっている。戦後の日本が経験した占領期間、それは日本国にとって初めての屈辱の体験であったし、敗戦を知らなかった日本はそれから解放されるのに60年以上の年月を要した。しかしその結果、敗戦というものがどのようなものであるかを身をもって体験する結果となった。
 今回私が取り上げた、周辺諸国から「攻撃しやすい国」だとみられ、西欧諸国などでは受けるはずもない攻撃を受ける国になってしまっているのも、敗戦の結果だと言えなくもない。いまの日本は敗戦後、ダラダラと60年も続いた敗戦状態が曲がり角に来て、大きな混乱期を迎えている。このままでは続かない。日本はこれから大きく動く時期を迎えるだろう。

 仕方がない。謝罪が無ければ韓国との関係は切ろう

 弱腰の日本が、敗戦の卑屈のままにこれからも生きようとすれば、日本は育んできた文化そのものを破壊されてしまうだろう。そんな分岐点にも来ていると思う。
 そんな中に、韓国大統領の日本国民を心の底から怒らせてしまうような発言が出た。それは各紙に報道されたが、以下、産経のニュースの転載である。
【ソウル=加藤達也】韓国の李(イ)明(ミョン)博(バク)大統領は14日、天皇陛下の訪韓に言及し「(天皇陛下が)韓国を訪問したいのなら、独立運動で亡くなった方々に対し心からの謝罪をする必要があると(日本側に)伝えた」と述べた。韓国大統領が公の場で、直接的な表現で天皇陛下に謝罪を求めたのは初めて。
 中部・忠清北道での教育関係の会合で、竹島(韓国名・独島)上陸の感想を尋ねられた李大統領は、天皇訪韓に触れ「(天皇陛下が過去に表明した)『痛惜の念』などという単語ひとつを言いに来るのなら、訪韓の必要はない」と述べた。
 また、竹島上陸については「2、3年前から考えていた。思い付きで行ったのではない」と強調。国賓としての訪日は実現していないとし「日本の国会で言いたいことを言わせてくれるなら行く」とも述べた。
 李大統領は2008年の就任の前から「(日本に過去をめぐる)謝罪や反省は求めない」と言明。2008年4月の訪日の際は、天皇、皇后両陛下と会見し、韓国訪問を直接招請した。
 しかし、昨年12月に韓国の市民団体がソウルの在韓日本大使館の路上に「慰安婦」を象徴する碑を建立し反日世論が高まるや、直後の日韓首脳会談で野田佳彦首相に慰安婦問題について「誠意ある措置」や「解決策」をとるよう求めた。
 韓国では昨年末以降、李大統領の実兄や親族などが不祥事で逮捕され、大統領の求心力は低下している。今回の発言の背景には、竹島上陸に続き対日強硬姿勢を見せ“愛国的大統領”として任期を終えたいとの考えがちらつくが、天皇陛下への謝罪要求により日韓関係は一層冷え込みそうだ。

以上のようなニュースであった。だが、こんな発言まで他国の大統領にさせて、日本は黙っているのだろうか。そろそろ、日本伝統の「外国への忍従」が通用しない時期が来たように感ずる。日本文化の核となる日本人の名誉そのものである天皇陛下までを引きずり出した韓国は、ついに虎の尾を踏んでしまったようだ。
 旧憲法でも新憲法でも、天皇は国を代表するが君主の政治的責任は追及されない。これは法学の基礎である。しかも日本の天皇は日本国の名誉そのものである。ことわざに「君辱められれば臣死す」という言葉があるではないか。
 こんな無礼な発言を聞き、私はもう、日韓関係を切るのもやむないと思うに至った。韓国が、こんな無礼な言葉を吐いた責任を取らなければ、私は残念なことではあるが、日韓国交断絶もやむを得ない事態になったと思っている。


利用されている弱腰日本――歴史編

2012年08月18日 18時04分32秒 | 私の「時事評論」


 諸外国から狙われる隙?

 政権維持が不安定な為政者は、外国に統一して対抗すべき仮想攻撃目標を作り出して、自らの政権への攻撃対象をすり替えて、自らの弱体政権の維持に努める。これは弱体政権での政権維持を図る上での常套手段である。
 そんな周辺の諸国の格好の目標にされているのが日本という国だということができる。隣国である韓国、北朝鮮、中国、ロシア、時には米国まで、日本を取り囲む周辺の国々は、いずれも冷静に状況を見、自国が逆に同じような攻撃をされれば「非常識で野蛮な行為だ」と怒り狂うに違いない。それでも常に、無い制維持のため、仮想目標敵国に日本を取り上げて対日批判を繰り返す。日本の周辺の大半の諸国がいずれも安定した政治環境になく、統治能力に欠け、政治に関しての国際的技術に欠ける。しかも国内の民度がいまだ成熟していないことが、こんな愚かなことが繰り返される原因だろう。だがそれだけではないことも知っておかなければなるまい。日本側にも問題がある。日本が、その種の外国からの攻撃に対して、毅然とした態度をとる決断力に欠きオロオロし、利用する相手にとって、しっぺ返しをされない攻撃目標として相応しいと映ることが、大きな原因として存在しているのではないか。領土の問題、靖国神社の問題、内政干渉に類するその他の問題、円や経済制度に対する攻撃、在日外国人労働者の問題、戦時中の行為に関する終わりのない批判の繰り返し、皆そのたぐいである。

 日本の背負った宿命

 この日本の弱腰は、明治以来の近代日本の抱えることになった大きな弱点で、なんでそうなったのかの根は深い。腹を立てるだけではなく、どうしてそうなったのかの歴史も眺めておきたいものである。
 明治維新で日本は鎖国を廃止して、これからは世界の諸国と肩を並べ、その中で力を得て伸びていこうと開国を決断した時代は19世紀の後半であった。
 世界はすでに西欧諸国が世界を跋扈して、その権益をほとんど掌中に収め、西欧諸国が世界中を実質的に支配する状況にあった。大航海の時代の植民地活動、産業革命による強力な工業力などで、地球の大半は先進の西欧諸国の権力の支配下に入れられ、その他の種として有色人種の後進国は、相次いで力ずくで押さえつけられていて、ほとんどが植民地や属国とされていた。
 そんな中に我が国だけは独立を維持して、国際社会に入り込もうとした日本は、当然、すでにできていた既得権を守ろうとする西欧諸国の目の敵になる立場に立つのを避けられなかった。
 日本はそれらの西欧諸国に潰され、支配下に組み入れられないためには、いわれなき攻撃をされる口実を与えてはならないと、国際法や西欧近代国のルールなどを学び、厳しく守って出発した。当時その枠組みがほぼできていた国際法などの秩序を破れば、潰されても仕方がない立場に立たされる。西欧諸国以上に忠実に守り、攻撃の口実を作らないように精一杯に「規則を守る国」としての立場を貫き、精一杯の信用を受けようとの方針は、たとえば「鹿鳴館外交」への批判など、我が国内では大きな不満を生むことになったが、それでも日本の地位を西欧諸国に認めさせるのに力になっていた。また当時は西欧諸国の支配や影響下にある独立を夢見る後進諸国にも、世情に目覚めて独自で自由に世界で羽ばたく希望の星として映り、西欧の高度先進国による世界独占の構造に風穴を開ける有色人国家のエースであった。
 日本は白人優先の社会から人種差別の無い社会へ、後進諸国の西欧諸国並みの発展への道開きなど、現在では世界の常識になっている様々なテーマを、常に提起し続けた。それらは西欧人の論理で考えても、世界の発展のためには望ましい提案であった。しかしそれを認めれば世界の西欧諸国による独占状態は崩れる。そこで提案は次々に西欧諸国、その中で最も豊かな力を蓄えて成長をしていた米国などの反対で悉くつぶされた。
 そんな環境が明治から、昭和の前半までの国際基調であった。人種差別撤廃、有色人の自由な移民の拒絶撤廃、人身売買の禁止、国際平等の実現などを日本は次々に働き掛け、それらは次々に拒否をされてきた。
 こんな厳しかった歴史の事実、依然として植民地政策が流行するなかで、日本が周辺後進国にどんな接し方をしてきたか、そんな近代史は、日本人が自分の国を知るために、一度は調べて身につけておきたい事実である。

 そして戦後の現代

 パイは一つしかない。そしてそれは僅かな西欧諸国の独占するところとなっている。しかしパイを食べたい国はその何倍もいる。日本は「俺たちにもその権利がある」と割って入ろうとする国々の代表のような格好であった。そんな日本に対する世界の発展途上国の期待が一身に集まったのは明治の末期に日本が西欧諸国の一方の柱であったロシアに対して日露戦争で勝利を収めてからのことだったと言える。「有色人の国であっても、白人と対等な活動ができる」。独立を求める世界の途上国の人たちの目覚めを生み、現代の多くの国が国際間で肩を並べるきっかけとなった日露戦争は世界史上、大きな時代の変遷をもたらすきっかけとなった。
 だが逆に、日本に対する西欧からの風あたりは強くならざるを得なかった。とくにその中で大きかったのは、太平洋やその宴会のアジア諸国をめぐって、日本と真っ向から対立する米国であった。米国にとって日本が、仮想敵国になったのも日露戦争以降であるが、太平洋の各域で、あるいはアジアの中国や東南アジアで、その対立は年を重ねるごとに厳しくなった。
 また、それと同時に、そんな日本の中にも、特に大正から昭和の時代になると、西欧諸国を模倣するように、中国、満州などで露骨に動いた軍部などの歴史もある。それは結局、日中戦争や大東亜戦争の時代に日本が進まねばならなかった動機にもなってしまったのだが、概して日本の姿勢、国際社会が認めた周辺地域の統治政策などは西欧の対応と異質なものだったことも付け加えておこう。
 日本は新たに日本の統治に組み入れる権利を国際社会から認められた地域への政治において、日本流の地域向上・発展策を採用した。それはその地域の住民ではなく、そこを統治する日本のセンスに基づいたものであったかもしれないが、その地に住む人々の生活や民度の向上に努め、将来は日本の同胞としての力をつけて、西欧の白人本位の独占状態打破に共に戦ってほしいと、本気で期待する方策であった。これは従来のこの地域からの収奪の御を考える西欧の植民地政策、帝国主義的支配とは全く異質のものだった。生活環境の整備、インフラの整備、識字率や保健衛生の質の向上、学校教育の普及、その地域のあらゆる民度向上に力を入れた。
 だが、そんな政策をとるからなおさらともいえるのだろうが、日本に対する西欧の締め付けは厳しく、大正から昭和に入って、西欧からのいよいよ露骨な風あたりに日本は立たされた。その日本締めあげの中心が米国である。それはインドのパール博士の正当防衛論に基づく指摘のように、あんな方法で迫られたら、どこの国であっても当然戦わざるを得ない露骨な日本締め付けとなり、戦ったら常識的には物量の差で、完敗必至と考えて我慢してきた日本も、ついには開戦を決意するに至り、そして計算通りに叩かれて、日本はとにかく白人勢力に負けてしまった。これが昭和二十年までの日本の歩んだあらすじである。
 その結果、日本は中心になって日本を潰そうとしてきた米国の占領下になって、彼らは目的通りに、日本の大変要やアジアへの進出の能力をたたきつぶし、日本の世界での自主独立を求める牙を抜き、日本を米国の属国にしようとした。
 だがこの戦争は敗戦まで、日本の支配下または占領下にあった諸地域が独立国となるきっかけとなり、世界の西欧独占体制は急速に崩壊した。その中に、米国の指導で独立した韓国や台湾、ソ連が後押しした中国や北朝鮮、それに共産中国などが出現したが、それらの国も、やがて西欧から独立して、自分の道を歩むようになった。
 それらの国々が、国際社会に地位を得たことは、日本が戦争に負けるまで、求め続けた理想であった。あの日本が昭和の時代、国の総力を挙げて戦わざるを得なかった戦争も、「大東亜戦争」と命名され、アジアの後進途上国の独立を目指したものであるともされていた。
 だが、途上国の次々に独立する時代は、日本が西欧支配の独占態勢に勝ちえた成果としてもたらされたのではなく、この戦争で世界の力のバランスが変化したために起こった現象といった方が正しいものかもしれない。
独立した新しい国々は、それまで背後にあった大国の影響力が弱まると、それぞれ自由にその国独自の方針で動き出したが、いずれも自国を一本にまとめて動くだけの力を持っていなかった。そこでこれらの国々のいくつかでは弱い政権を維持するために、日本に対する国民の不満を作り盛り上げ、政権を維持していこうとする国々になっていった。その結果、皮肉なことに、日本はその国々の世界の発言力強化を目的に戦いながら、その事態のために、窮地に立たされる結果になっている。
 
 なぜ日本は甘くみられるのか

 彼らは歴史を通じて、日本が国際的にギリギリ追い詰められるまでは、日本が強く自国の権利を主張せず、何とか諸外国の批判をかわして自らの独立を図ろうとしてきた過去の歴史を知っている。その上日本が、対米戦の敗戦により、いよいよ戦意を失い、骨抜きにされ、弱い国になっていることも知っている。
 これが、日本が彼らの政権維持のため、いつも仮想攻撃目標に利用されてしまう動機になっているのだろう。

敗戦記念日の所感

2012年08月15日 06時59分03秒 | 私の「時事評論」
今日は八月の盆の日、それとともにいわゆる我が国の敗戦記念日。

敗戦の日の関してはいろいろの説がある。

米国戦艦ミズリーで我が国代表が降伏文書に署名した日がそれだとか、講和条約締結の日だとか、そのほかにもある。

だが天皇陛下がラジオを通じて全国民に終戦の御詔勅を発表された今日が、国民にとって大切な記念日であるとする説も、定着しているからよいでしょう。

もう一度、あの日のことを思い出し、詔書に込められた昭和天皇のお言葉の内容をかみしめたいものです。いまの我々にとって、それは決して古いものではなく、忘れてはならない覚悟の日、亡くなられた先人たちに向かって、その後を生きる我々が忘れてはならない「誓い」を思い出す記念(祈念)の日だと思います。

日本という国がたたかった戦争でした。靖国神社の御社頭には多くの国民が集まって、先の戦いのため、命を失った英霊に対して、終戦の詔勅が陛下により読み上げられた時刻、正午を期して頭をたれます。あの日以来、毎年続いている光景です(写真)。

我々は、生き残った。だが先の大戦では300万人近い先人が命を失い、国の戦いに参加して、国のため、我々のためにたたかって命を失った多くの英霊を生みださねばならなかった。それらの御霊はこの靖国神社に鎮まっています。

終戦以来、それまで戦った相手であった米国の占領する国となり、彼らの下で過ごした間に、色々おかしなことがあって、国の中にはおかしな論理がはびこっている。だからと言って、それまでの日本がすべて良かったなどというのではないが、我々は大事なものまで失いました。

本来なら、真っ先に全国民あげて、まずなくなった英霊たちに、いまわれわれが生きてその後の日々を暮らすことができている幸せを報告し、あの戦いをおさめるきっかけである終戦の詔書を思い出し、その後の我々がそれをどう受け取り、どう暮らしてきたかを誠意を持って英霊たちに報告し、礎になられた英霊たちに心安らかに眠っていただくのが第一だと思う。

だがそれもできずに67年。申し訳ないことである。

言い始めたらきりがないが、小難しい論議などに今日は立ち入る気はない。だが今日は少なくとも英霊たちに、決してまともな国になりましたと胸を張ることはできないさびしさ、申し訳なさを感ずるが、とにかくこうしてみなさんの優しい思いを受けて、英霊たちの子や孫や、愛人恋人の後裔の人々である国民が、この日本にお陰さまで生きていることを報告しよう。

我々の頭の中が偏屈な理屈に占拠されていて、占領中の洗脳にも汚染され、なかなか素直になれないでいるので、靖国神社は敗戦時のまま、決して英霊たちが安らかに鎮まっていられる環境にないかもしれない。

そんな不満が現在の日本は、何んと自分の力で自分の領土も守れずに、竹島や北方領土や尖閣諸島などのすっきりしない我が国の苛立つ心も生んでいる。

だが少なくとも、今日一日は国民という立場からみれば、共通の祖先に当たる英霊たちに、一国民として、

「お陰さまで、我々は、ご先祖が首を傾げられるかもしれないが、何んとか生きています」

と頭を下げて、今すぐに立派な国民意識で一つになることなどはちょっと期待できないかもしれないが、まじめに日本国民であり続けることを誓おうではないか。

さすが黄金の国・日本(オリンピック余聞)

2012年08月03日 13時05分50秒 | 私の「時事評論」
 
  金メダルより銀銅メダルを次々に

 人間らしい穏やかな営みとは別次元

 
 いま、ロンドンではオリンピックが開かれている。
 新聞・テレビなどはその騒動でもちきりだが、筆者はそれほど大きな関心をオリンピックに対して持っているわけではない。世界を包み込んでのお祭り騒ぎは悪いことではないが、あまりにも戦いが熾烈になってしまって、どのようにしたら一歩でも早く走れるか、泳げるか、運動能力を最大限に発揮できるかに最新技術までを持ち込んで激しい競争をしなければ勝者になれないのが当然のようになり、もうこれは我々アマチュアの日常の運動とは別個の競技になってしまっている。素手で戦う競技が大半だが、その背後には各国が総力を挙げて開発する最新の科学技術が存在し、それを基にした研究を積み重ね、人間の体を鍛え上げて「限界」をギリギリまで追い詰めなければ、競技の覇者にはなることができない。
 国内の運動会などで、我々がグランドを囲んでワイワイと応援するのと、この国威発揚の機会だとばかり、国を挙げて取り組む国も多いオリンピックは、いまではもう、異種類のものだと思った方がよさそうである。
 お陰で競技などの記録は次々に塗り替えられていく。100分の一秒単位で精密に計算し、記録向上を狙う各種競技からは、同じオリンピックでも昔は見られた選手同士が勝敗より、お互いの友情や思いやりを尊重して男(女)らしく爽やかに協議したスポーツマンシップのエピソードなどをいつしか無縁のものとするものになってしまった。何事も古き良き時代ばかり追い求めるのは老人臭いが。
 スポーツマンシップ、人間として、心の中に育まれた思いやりの心も、競技の出場者よりも、背後で選手を支配する「勝つための技術」や「人間らしくない競技への執念」の方が大きいのだろう。バトミントンの競技やサッカーその他いくつかの競技で、真剣に力を出し合うより、次の試合や決勝のためにいまの競技の手を抜くプレーの続出は、わざわざ世界各地から真剣な採鉱技術の競技を楽しみにやってきた参観者を憮然とさせるものだった。今回、こんな種類のニュースが多く報道されたのは、一つのオリンピックの特徴であったが、オリンピックが世界の人々にまだ注目をされている間に、こんな全力で戦わない方が得をするなどとの雑念を生じさせる国の競い合いの生みだす不快さを閉めだす努力が望まれる。
 また、オリンピックの開会式などを見ていて、これも開催国の国威発揚や観客やテレビ放映権を釣り上げる商業心理の産物なのかもしれないが、派手派手しい押し付けがましいイベントの詰め込みも、ほどほどにしてもらいたいとつくづく思った。こんなことを書くと、そういうお前も開会式を見ていたから言えるのだろう。それが放映権を高くして、これで費用を出そうとした成果なのだ、などといわれるかもしれない。然り。夜明け前から朝が過ぎるまで、テレビを点けっ放しにして、節電が求められる中、無駄な電力を消費続けたのだから偉そうなことは言えないが。

 金メダルより銀・銅メダル


 オリンピックに選手たちが出ていくときに、我が国のマスコミは彼らにロンドンの檜舞台に出場するからには優勝を期待し、選手たちも壮行会などで「金メダルをぜひわが手に」と勇んで英国に旅立った。
 国内では今回のオリンピックは、前回の北京でのその不首尾を埋めて大きな成果を期待したのだが、現在のところ、金メダルはまだ体操などで一つは確保できたものの、ほとんどが二位、三位の銀・銅メダルのラッシュといった塩梅である(昨日までのメダル獲得は、金こそ2個と好かないが、金銀銅の合計総数は米中に次いで三番目だ)。
 金メダルの少なさを見て、国内では、英国オリンピックもわが国代表は総合的に不首尾に終わるかとの落胆の声も上がり始めているようだ。
 だが、天の邪鬼の筆者はこんな声とは全く反対の意見を持っている。懸命に力を振り絞ったのならそれでよいではないか。それにこれはヨーロッパで開かれるオリンピック。ヨーロッパでは我が国ジパングは13世紀のマルコポーロの『東方見聞録』の時代以来、国中に金があふれ、お城ばかりではなく一般の住宅までも金で作られているほどの夢の島であると憧れていた。これが大航海の時代などに、金の島に憧れる旅行者や冒険家、商人たちが日本に憧れ、続々アジアをはじめ異郷の地に出てくる大きなきっかけになった。

 これはポーロが、日本に対する伝聞で、中国に広がっていた平泉の中尊寺の話などが伝わるうちに大きなものとなり、こんな話となったものだなどと伝えられている。まあ、話がどうして生まれたのかどうかはともあれ、これを逆に取って、西欧の連中には言ってやろうじゃないか。我が国は金よりも、銀や銅の方が大好きなのだよとね。強引に日本人の心、武士道に通鶴所のあるスポーツマンシップをないがしろにして金メダルを追うよりも、もっと大切なものをオリンピックに求めているのだとの負け惜しみを。


 それにこれは私としては事実だと思うのだ。身体も大きく力も強く、他人より図抜けた背後の力を持っていれば、金メダルを取ることは可能だろう。図抜けて強くなれば可能だからだ。だが、二位や三位はとりたくても簡単にとることのできないくらいだ。
 日本は幸いにして金のあふれる国だと宣伝されている。そこで苦労してもなかなか取れない銀や銅のメダルを確保しようと、力いっぱい努力をしているのだよと。
 国会でも大型電算機を開発しようというプロジェクトに、「世界一ではなく二ならいけないのですか」といった発言があって、流行になった国なのだから。
ロンドンで、エリザベス紹鴎もびっくりするほど何回も、我が国と皇室を称える「君が代」が流されるチャンスを失うことはちょっぴりさびしいが。