葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

衆議院を通過して

2012年06月30日 16時08分25秒 | 私の「時事評論」


 野田内閣の提出した消費税の増税に関する提案類がようやく衆議院を通過した。与党内で、この提案に反対票を投じた小沢一郎率いる造反分子がこれからどう動くか、今週早々に行動を開始すると宣言している。どう展開するかは不透明だが、はっきり言えることは、この分裂した民主党の騒動により振り回されて、政府や国会が、国民の行政に専念する状況は当分まだやってこないということだろうか。
 だいいち、この増税案は直ちに実施するのではなく、再来年度から実施するという先の長いもの。しかも上げる率は当初は3%で、一年半してさらに2%、ここでようやく10%にしようという提案である。「赤字国債の累積が国家財政を救い難い破綻に追い込む前に対応しなければならないという緊急の要請に対応するために」と野田内閣が提出した法案だとされている。だがこの説明も釈然とはしない。増税を何に使うか、与党の民主党と修正をした自民・公明党とは言っていることが違っている。もし我が国が増税により、これで幾分でも福祉負担が圧迫する財政状況を改善させるのが目的なら、老人人口が増えてやがて若者一人が一人の老人を世話しなければならなくなるという現実を解消しない限り、それは焼け石に水のように思えるが、たとえ焼け石に水であっても、せめて赤字国債を抑えるために欧米並みの20%程度に直ぐ上げなければ意味がない。このままでは、赤字国債は減少するよりも、逆にどんどん増え続けるのは自明だからだ。しかもその増税の内容は、野党である自民・公明との修正協議によって、当初野田内閣の期待したものとは似ても似つかぬものに姿を代えての成立だった。
 数の上では圧倒的多数の衆議院の議席を占めている民主党だが、党内には共通の政治目標など無く完全に分裂していて、掲げる政策に関してまとまりがない。投票自体が党の指示通りにはならない政党である。国民生活は少しも改善されないので税収は下がる一方。民主党が公約した無駄な財政支出の圧迫だって官僚組織が言うこときかず、ほとんど手がつかないありさまだ。そのため野田内閣は増税もやむなしとしているが、これが政府の税収増に結び付くという保証もない。さらに党内の小沢一派、鳩山一派などは断固増税反対で、民主党自体が統一見解を出す能力の無い集団になっている。
 民主党の党内政策不一致は結党以来の伝統で、衆議院選での大勝による政権奪取の直後には、もう鳩山・小沢・菅の組んだ指導部の能力の欠如がだれの目にも明らかになり、次の参議院選では過半数を割る結果になるなど、とんでもない与党・民主党の姿である。
 今回の増税案も、参議院での議案通過が無理で、このままでは参議院で否決されるのは明白。やむなく野党の自民・公明の要求に全面屈服、法案を呑んでの修正になったが、この法案のどこに野田民主党らしさが残っているかは疑問の残るところ。議案は提出が野田民主党内閣である、将来消費税を上げるということのほかは、殆ど内容は骨抜きにされたものになっている。
 事態はとんでもないことになっている。日本国には、今でも国政を議する国会もあり、行政を担う政府もある。だが政治の現実を見ると、まともな国会審議は行われず、政府は次々に起こる政治課題に振り回されるだけで、利益団体の強引な要求だけは認めて、おかしな決断だけは踏襲するが、自分の力で意思発動の政治はできない。野田内閣としては、せめて形式だけでも自分が何らかの決議を行って、内閣指導で行政を実施しているという実績がほしかった。それがこの消費税関連法案の衆議院決議になったのだろうか。
 これがこのまま衆議院を通過しても、結果として何が残るのというだろうか。私はただ、野田内閣でも、政府でも法案を通過させることができたという実績だけが示されたにすぎないのだろうと評価をしているのだが。

 二大政党を夢見たのだが
 日本の政治はこの方、二大政党を目指して進んできたと言える。健全な二つの政党が並立し、保守的な党と進歩的な党が選挙によって交代して政権を掌握する。そんな物語が政治家やマスコミなどで夢見られていた。民主党はそれを唯一のスローガンにして、我こそは自民党の後釜を引き受ける政党だと主張し続けて、ようやく政権を握ったが、あまりにも行政能力が拙劣で、日本をとんでもないところに追いこんでしまった。これは主として小沢一郎氏などの画策で、選挙制度などを大きく変更して実現したものだったが、現実は無残な結果に終わってしまった。今の日本に二大政党制などはありうることなのだろうかとの疑問が残る。
 それまでの日本は名称こそ日本自由党、日本進歩党、日本共同等、自由民主党などと時々変更され、集合離散も繰り返してきたが、戦後体制の総合体であるいまの自民党という巨大政党があって、残る半数以下を少数政党が議席数を分け合うという変わらぬ構造で進んできた。自民党は占領後、追放されずに米国の占領政治に従った政治家や戦後派親米勢力の集合体だった。日本人は民族的に対決闘争を得意としない。できることなら一つになって集団をつくり、その中で様々な立場のものと調整を図り、それで共同社会をつくっていく癖がある。それが占領以来の自民党という集団なのだ。西欧の51%が49%を支配するという支配権を奪い合う発想が馴染まない国なのだ。これは日本という国に住む者の民族性なのだから仕方がない。
 そんな日本が戦争に負けた。日本を占領した戦勝国アメリカは、日本の政治制度を根本から変えた。日本国民の意思でではない。米占領軍の命令で制度を代えた。その体制を継承しているのが自民党だ。その後日本に戦勝した米国とソ連圏が対立し、日本にもソ連の影響を受ける社会党や労働党、共産党なども生まれるには生まれた。そして米ソ対立が米国の有利に展開、ソ連と中国が対立し、ソ連が崩壊し、種々の変化も世界には起きた。それらのいわゆる左翼政党は、選挙においては常に少数派、国政には殆ど影響力がなかったが、日本が自民党の独裁政権であることを隠蔽する隠れ蓑の役割を果たしてきたと言えるだろう。占領体制は国内に網の目を張り巡らせた官僚や財界、業界、その他と結びついて組織が固まって現在まで続いてきた。
 この絡み合った戦後体制が生き残り、官界はじめ政界、財界、学界、マスコミなどに大きな力を果たしている。それらは生き残るために根をほつれ合わせて生きている。それを分断する以外には、日本はいつまでたっても一党独裁の国であり、二大政党の構想などは生まれる余地のないものなのではないか。自民党の長期政権はそんな日本の戦後体制がもつれ合いながらも一つになって日本の政治を取り仕切ってきた姿であった。
 確かに自民党の独裁的な支配体制は、長く続きすぎて飽きられて力を失い、そのたびに様々な連立工作を繰り返しながら伸ばせるだけ寿命を延ばし、反米で対決していたかつての共産政権の追随者なども自民グループと交わるようになって、表面だけは姿が変わり、ついに崩れて今回の民主党への政権交代になった。
 だが次に政権を担った民主党は、新しい思想を担った新勢力ではなく、戦後体制という枠組みの中で、自民党という我が国を支配してきた戦後体制から時々の争いで脱落した落ちこぼれが集まって、自民党が政権の座を取り落としたときに、それを拾おうとの思惑だけで有象無象が集団をつくっただけの組織であった。二大政党に立候補しても、受け皿になれるだけの力がなかったのだろう。そう思うと、今の民主党政権がひ弱であるのも当然と思えるようになってくる。

 健全な二大政党制になるためには
 建前通りに議会が国政の立法機関の中心となり、議会が政府を選出するという制度をとって運営されるためには、健全な受け皿が日本にもできて、機能しなければならない。
 私はそれは日本を戦後65年間独占する形で政治を担ってきた戦後体制を支持する者と、占領政治をうち払って、日本がそれまで求めようとして求めきれず、軍国主義や西欧礼賛主義などのために夢を果たしきれなかった日本の本来の伝統保守主義者との二大政党に求めるべきだと考えている。それは私の頭が古く、まださらに新しい未来に生きる政治理想を掲げる勢力があるというのならそれを加えて三党対立ででもよい。そんな中から国民の選択により、未来が決せられるのでなくては、今のように、辛うじて既得占領政策にしがみついているものと、その落ちこぼれとの間で、どちらが良いかと争うような状態では、ろくなことになるとは思えない。
 どんどん国にとって大切な課題が積み残されて、何も解決されずに大騒ぎのみが繰り返され、国民の政治はどんどん放置されて腐っていく。そんな政治はそろそろ国民の知恵で追放すべき時期なのではないか。
 少しまだ消化不良の論ではあるが、私はそんな感想を持って今回の騒動を眺めている。

ちょっと弁解ーー前回の投稿に関して

2012年06月17日 09時32分53秒 | 私の「時事評論」
お早うございます。梅雨のうっとうしい空も今朝は一段落。
 
さて昨夜はうっとうしい随想をブログに載せました。あとで考えてこれは発表するよりも心のメモであって、何も表に出すものではないと思うのですが、人生には節目というものがある。私はいま、自分が75歳という年を迎え、しかも同時に父を見送り、20年という年を過ごし、これからは「老人」ということを自覚して進むべき天気に来ています。
 
75歳を越して人生や環境は変わるのか。一般には「連続の中の数字的区切りにすぎないから、そんなに変化はないだろう」と、特に若い人は当然思うでしょう。
 
だが、これが変わるのですね。肉体的、頭脳的にも大きな転換点であることは自分も意識するし、見回すと我が家の家庭環境も、身体の弱い孫息子が生まれて、「一緒に暮らそう」と息子一家と同居して、老夫婦二人、子供や孫が遊びに来ること、散歩をし、また部屋や庭を眺め、読書すること」などを楽しんできた人生が一変した。収入が年金だけになったら、ここにきて介護保険、健康保険、予想もしなかった法定福利費が急増し、冠婚葬祭などの社交も急増する。どうしても生活ペースを計画的に立て直さねばならないところに追い詰められたような気がする。
 
生活設計は物理面だけではない。心の持ち方も必要なのではないか。今までは人から教わることを中心にした私の素養というものがあり、それを基準にしてやってきたのだが、いつ終わるかもしれない最後の人生期に、自分で習得した生きざまの特徴を生かして終わりを迎えたい。
 
そんな思いがあったので、父のまつりに際してのメモを記しました。
 
私は生涯を日本の基礎信仰である「神道」のかかわりを持って暮らしてきた男です。自分では神道についてのものの考え方や解釈は一通り身につけ、それを正しいと思って暮らしてきた男です。
 
だがいま、人生のこの時点に来て自分を眺めると、「常識」という概念の上に、自分なりのオリジナルな解釈で味付けし、それを自分のものにして生きてみたいという欲望を感じます。大量生産された車や家電製品でも、それぞれの人の好みで色を選んだりアクセサリーをつけて個性化を図るように、私の日本人、神道人としての人生観にも私なりに色付けし、私個人のものだという愛着を持ちたい。
 
それがあの文章の父親感、先祖感、そして「まつり」の個人的アクセサリーになって来ているように感じます。
 
日本人は殆どの人が「神道」という言葉でくくれるかどうかわからないが、神道的なセンスを持って暮らしています。それを共通項で整理していけば、共通の「神道」というものにになるのでしょう。敬神崇祖、万民和楽、天下泰平、尊王の気風。
 
いろんな表現ができるでしょうが全国の神社が共通に掲げるような信仰の姿です。それは神社庁や神社本庁などが掲げているものなのですが、個人個人にとってみれば、共通項目というだけで色が無い。そこの自分なりの特徴や個性が加味されてそれが本当のその人のものになります。
 
その色付けがほしいと思う心が、昔からあって自分なりには求めて来ていたのですが、いよいよ強烈に欲しくなってきた。
 
そんなところだと思います。だから、それは他の色の車に乗りたい他の人に対して、「赤い車に乗れよ」と勧めることは出過ぎているように、他人に押し付けようとするものでないことをお断りしておきます。

ちょっと弁解ーー前回の投稿に関して

2012年06月17日 09時19分15秒 | 私の「時事評論」
お早うございます。梅雨のうっとうしい空も今朝は一段落。
 
さて昨夜はうっとうしい随想をブログに載せました。あとで考えてこれは発表するよりも心のメモであって、何も表に出すものではないと思うのですが、人生には節目というものがある。私はいま、自分が75歳という年を迎え、しかも同時に父を見送り、20年という年を過ごし、これからは「老人」ということを自覚して進むべき天気に来ています。
 
75歳を越して人生や環境は変わるのか。一般には「連続の中の数字的区切りにすぎないから、そんなに変化はないだろう」と、特に若い人は当然思うでしょう。
 
だが、これが変わるのですね。肉体的、頭脳的にも大きな転換点であることは自分も意識するし、見回すと我が家の家庭環境も、身体の弱い孫息子が生まれて、「一緒に暮らそう」と息子一家と同居して、老夫婦二人、子供や孫が遊びに来ること、散歩をし、また部屋や庭を眺め、読書すること」などを楽しんできた人生が一変した。収入が年金だけになったら、ここにきて介護保険、健康保険、予想もしなかった法定福利費が急増し、冠婚葬祭などの社交も急増する。どうしても生活ペースを計画的に立て直さねばならないところに追い詰められたような気がする。
 
生活設計は物理面だけではない。心の持ち方も必要なのではないか。今までは人から教わることを中心にした私の素養というものがあり、それを基準にしてやってきたのだが、いつ終わるかもしれない最後の人生期に、自分で習得した生きざまの特徴を生かして終わりを迎えたい。
 
そんな思いがあったので、父のまつりに際してのメモを記しました。
 
私は生涯を日本の基礎信仰である「神道」のかかわりを持って暮らしてきた男です。自分では神道についてのものの考え方や解釈は一通り身につけ、それを正しいと思って暮らしてきた男です。
 
だがいま、人生のこの時点に来て自分を眺めると、「常識」という概念の上に、自分なりのオリジナルな解釈で味付けし、それを自分のものにして生きてみたいという欲望を感じます。大量生産された車や家電製品でも、それぞれの人の好みで色を選んだりアクセサリーをつけて個性化を図るように、私の日本人、神道人としての人生観にも私なりに色付けし、私個人のものだという愛着を持ちたい。
 
それがあの文章の父親感、先祖感、そして「まつり」の個人的アクセサリーになって来ているように感じます。
 
日本人は殆どの人が「神道」という言葉でくくれるかどうかわからないが、神道的なセンスを持って暮らしています。それを共通項で整理していけば、共通の「神道」というものにになるのでしょう。敬神崇祖、万民和楽、天下泰平、尊王の気風。
 
いろんな表現ができるでしょうが全国の神社が共通に掲げるような信仰の姿です。それは神社庁や神社本庁などが掲げているものなのですが、個人個人にとってみれば、共通項目というだけで色が無い。そこの自分なりの特徴や個性が加味されてそれが本当のその人のものになります。
 
その色付けがほしいと思う心が、昔からあって自分なりには求めて来ていたのですが、いよいよ強烈に欲しくなってきた。
 
そんなところだと思います。だから、それは他の色の車に乗りたい他の人に対して、「赤い車に乗れよ」と勧めることは出過ぎているように、他人に押し付けようとするものでないことをお断りしておきます。

父の二十年祭

2012年06月16日 20時56分29秒 | 私の「時事評論」

 墓掃除の日々
 
 父の二十年祭を迎えた。
 
 父は、平成三年秋の大嘗祭など即位の諸儀式が、まだ戦前の旧皇室典範の時代から見れば、歪んだものではあったが、ほぼ前例を踏襲して行われたのを見て、何とか旧典範失効後もこれらを継続させる努力で体力を使い果たしたのだろう。その後は憔悴著しく、翌平成四年、自宅の庭が春のツツジで化粧するのを愛でた後、アジサイが咲き始めた六月十日に、喉頭がんで静かに幽界へ旅立った。
 あの日から二十年たった。残された三人の息子どもは、共同で父の二十年祭を実施した。
 長男である私はもう七十五歳、ほぼ隠居の歳になった。弟たちも老いた。
「父のまつりを俺たちが人を招いて行うのは最後なのかもしれない」
 そんな気がしたので、これを兄弟がそろって行う父のまつりの最後にしようと話し合っての実施だった。区切りをつける思いで親類や縁者の主だった人にも案内状を出した。父とつながりの深かった弟子たちは多い。皆に声をかければ大変なことになるが、二ヶ月前に、彼らが当地で父を偲ぶ会をしてくれたので、まつりは親近のものだけを中心にすればよい。
 祭典は墓地のある鎌倉の海に近いクラシックホテル。戦前から一家が暮らしていた旧宅近隣で、実は父の十年祭もここでやった。かつての我が家同様、数寄屋造りの和室と大正風洋風建築の洋間を持つロビーや応接間をつなげた建物で、庭園には広い芝生のあるいかにも鎌倉らしい以前は多く見られた場所を選んだ。
 祭典は昼に実施するが、同じ市内にある墓に展墓の人も多いはず。父の死後も鎌倉を去りがたく、同じ市内の旧宅近隣に住む私が墓の掃除をしようと決めた。弟や我が家人などの応援も受けたが。
 そこは両親、祖父母の眠る墓地である。私らは盆正月ばかりではなく、何かことのある時は、必ず墓に眠る先祖の御霊に報告に行く。墓前に額ずき静かに端坐すると、自分が一人ではなく、両親や祖父母の見守る環境に囲まれて生きている実感がわく。
 私も父の死以来、毎月のように墓参りはしているが、ちょうど六月は雑草が最も伸びる頃、たいしたこともできないが、せめて草もなく、すがすがしい環境で皆にお参りしてもらおうとゴールデンウィーク明けから掃除に通った。

 墓は奥深い鎌倉の谷戸の奥、ほぼ南に開けた公有の山地にある。裏に雑木林を背負い、前には谷戸一帯が見渡せるが、墓としての整備はほとんどされていない千坪ほどの原野。放置すれば雑草が生い茂り墓と原野との見分けもつかなくなる。市の管轄下にあるが、市有の墓地は他に無く、公園課が管理しているのだが、草取りまでは手が回らない。そこに十メートル四方ぐらいの我が家の墓が、北側に崖を背負って鎮座しており、その倍以上の周囲の土地を勝手に境内地(?)として利用させてもらっている。神道墓地なので、敷地は戦前に祖父を埋葬した時に父が植えた榊の生け垣に囲まれ、南には台湾檜の神明鳥居が建っている。残念ながら電気や水道は備わっていない。
 鳥居をくぐると五段重ねの石灯篭が両側にあり、玉砂利が敷き詰められている。ここだけは七十年前に祖父の埋葬のために墓を設けた時から、コンクリートを敷き玉砂利が敷かれているのだが、その外は一面の草原だ。通路は墓参のたびに草を抜き、周囲も度々刈り払っているが、一ヶ月も経つといまの時期ではどこを刈ったのか分からなくなるほどで、藪蚊も多い。
 草刈りに鍬や鎌を使っても足腰が弱った老体はすぐに息切れがする。しかも細かいところは手で抜き去らねばならない。私は膝が弱くなりかがめないししゃがめない。毎日のように墓に通って、蚊取り線香を周囲に数本焚いて、ビニール風呂敷を敷いてその上に座り込んで2~3時間ずつ草むしりをした。
 
 
無改父之道は厳しい
 
 一事に無心に集中することは良いものだと思う。気分が集中できるし過去のことがいろいろと思いだされる。父は昭和十五年に、その父を喪って以来、毎週、時には毎日自宅からこの墓に参り、父の墓碑の前に額ずいた。
 父は自分の進退を決する時、必ず墓参した。ここには彼の父・葦津耕次郎が眠っている。祖父は生涯を信仰者として一直線に激しく生き、その純粋で直言実行を迫る一直線なもの怖じを全くしない行動で思想界や政財界はじめ多くの人々の親交を得た。そんな祖父は、父が祖父の養生のために用意したここ鎌倉の家で、最後の床に就いた時、
「私と息子の珍彦は同じ思想と信仰で生きている。死に際してたった一つお願いがある。私の死後は、信頼する息子を私として、私同様にお付き合い願いたい」
と見舞いに来る彼の友人たちに希望した。友人はそれに同意した。
 
 祖父の友人は西郷隆盛や中江兆民の維新の志を継承する頭山満、神道界の巨柱今泉定助、明治神宮宮司有馬良橘海軍大将、神職の長老高山貴、吉田茂内務大臣、朝日新聞主筆の緒方竹虎、警視総監池田清、その他明治大正の時期を支えた人物がそろっていた。そんな人たちが祖父の願いをしっかり守り、息子のような年齢の父珍彦を支えてくれて、それが戦後の父の活動を背後で支え、父は敗戦という人が動揺して将来が見えなくなるときに、思い切って占領軍に先行して神社をまとめ、日本の生き残る道を作ることができた。父はそのような縁を作ってくれた我が父の霊魂と真剣に対面して生涯行動をした。
 
 私はそんな父を常に見て育った。二十年祭に際して、毎日父祖の墓の草を取りながら、生前に父が「無改父之道可謂孝矣」との自筆の書を示し、「お前はおれの死んだあと、鎌倉で老後は墓守でもして暮らせ」と言い残した言葉の意味を悟ろうとした。墓には千年の昔から、八幡宮の神職として、作法ではなく、信仰の心の真髄を継いで進退しようとしてきた我が一統の先祖からの思いが満ち満ちている気がしていた。父は墓参を単なる故人の霊に対する表敬儀礼だけでは充分でないと思っているように私には見えた。その霊前に坐して、
「あなたならこの事態にどう対応されますか」
と生きている人に対するように問い、
「自分はこう進退すべきだと思います」
とあらゆる考えられるケースを想定して考え抜いた結論を示し、御霊の同意を得たと確信したら迷わない。そんな決心の場に墓参を利用していた。そうだよな。神社に参ると神殿には必ず鏡がある。神に接するときはそこに映った己にも接する。それは己の心にも向かい合っている。
 
 そのような真摯な対決をしていた父だから、父のまつりをするときは、自分も父の精神の継承者として、これから父の代わりに生きても畏れない覚悟が必要なのだ。たとえ自分が父に比べて非力であっても、まつりに友の参列している者、あるいは自分とともに動いてくれる者の力を結集してでも、父の心を継承していく覚悟を固めることが、父のまつりを行う者の務めなのだ。それには余所事みたいに世情を憂えて愚痴など言っている他人面は許されない。そんなことを考えながらの草むしりであった。精神的にはかなりこたえた。
 
 蚊取り線香に周囲を囲まれて雑草の中に座り込み、「ヨッコラショ」などと掛け声を出しながらもの草に動く自分の草取り姿は、外から見たら老醜であったかもしれない。草をまとめて立ち上がるときにはステッキにすがってよろよろ身体を起こす身の重さ、時には疲れて仰向けに雑草の上に大の字になり、毎日枯葉と泥と草の実でドロドロになった。
 
 だがまつりをしようとする心境にはプラスするところがあったと思う。私は中学生の頃、ふと墓に詣でた時、母が同じように雑草の上にあおむけになり、咥えたばこから紫煙をくゆらせている姿に出会ったことがあった。母は、
「お祖母さんに云うんじゃないよ。祖母さんは私がたばこを吸うことを知らないからね」
と言ってにやりと笑った。父の生涯をおのが生涯として、ひたすら秘書役までも引き受けて生きた母。父より二十五年も早く亡くなった母だが、父の心をよく知る母は、父の指導のもとに、暇を見つけては墓地に通い、父の思いを祖父の霊に伝えていたのだな。そんなことをふと思い出したりもした。次から次に祖父母や両親のたどった後を偲ぶ、そして自分を眺め直す草取りだった。

 
 にぎやかな直会の席を終えて
 
 祭典の前日は冷たい雨が終日降り、掃除の最終日には墓前の生花を代えて草を抜いた後のところを爪切りで爪を摘むように新しい草の芽を摘もうと思っていたのだがそれはできなかった。雨の中、父を慕っていたS君らが墓参をしたいというので鎌倉駅まで出迎えに行き、展墓の後、ちょっと残念だが「もうこれで良し」と納得したのでそのまま帰ることにした。S君は墓前に父の好きだったタバコをわざわざ供えてくれた。彼はいろいろと考えるところがあって祭典参列は遠慮すると言っている。明朝、ずぶぬれになっていなかったら、祭典の神饌に準備した煙草に加えてこれも祭壇に並べ、彼の気持ちも霊前に伝えよう。

  翌祭典当日は昨日の雨がうそのように晴れて、陽射しの厳しい日和になった。午前中、息子娘家族を含めて一同で墓参、準備のために会場に向かう。私の従兄弟にあたる東伏見稲荷の宮司以下の奉仕によって厳粛な祭典、簡素な出張先のまつりであったが、墓の草取りでの心理効果があったのか、良い祭りであった。終わって会場の大広間を埋めた参列者は、父の遺影に献杯の後、父を偲び、一族の話題、様々と広がる話題に存分に語り、かつまた飲み食って午後の時間を過ごしてくれた。老いも若きもみな良い顔をしているように私には思えた。
 私がわざわざ父に供えようと、生前父が好んで食した和菓子をひと盛り、わざわざ注文しながら取りに行くのを忘れ、祭典終了後に電話がかかって来てようやく思い出すなどというミスはあったが、祭典そのものは大いに盛り上がり、一つの区切りをつけることができた。
 「やれこれで、私も若いものにまつりを引き継ぐことができるか」
と、思うはずだった父のまつりであった。
 だが、父の御霊を迎えて、鏡に自分の姿を映して頭を下げた私は、世相に不満を言い、周りに愚痴を言いながら過ごす、「自分を客観者にする隠居」には、まだ当分の間なれそうにない。

私の生誕の地が(閑話休題)

2012年06月01日 21時23分14秒 | 私の「時事評論」


 いま、若干スカイビルの陰に隠れた感はあるが、新し物好きの連中に流行っているスポットの一つが「渋谷ヒカリエ」がある。女性を対象にした新感覚のビルだそうで、ファッションやグルメなどがいっぱい詰まっているのだそうだ。
 そんな特徴を誇示するビルが、いま時だからどこにでも続々できるのかもしれない。だが、私にとってこのビルの誕生は穏やかでない個人的事情がある。気になるのだが、行きたくない気持ちもある。何でそんな気になるのかといわれれば、それはここの土地は、私が生まれたかけがえのない誕生の地であるからだ。
1937(昭和12)年4月、私はここ、ヒカリエの敷地の中、駅から向かって正面左の奥、地下鉄銀座線が、モグラがびっくりして表に出てきたように、急に宮益坂から地上に這い出て渋谷の東急ビル三階の終点に飛び込んだような、そんな線路の地上部分の隣に沿った、ここからは地上に出て、高架で渋谷駅に向かうポイントすぐそばに建つ父の家で呱呱の声を挙げた。旧住所は東京市渋谷区金王町36番地。坂と谷の多い渋谷でも、ここは駅の目の前にある岡の上、見下ろせば駅前の「明治通り」には市電(都電)の終点があり、付近に渋谷小学校の校舎があった。駅前広場から南にまっすぐ石段を登っていくと、正面にたっていたのが父の事務所の本社兼住宅だった。正面はしゃれた洋館二階建ての事務所。父はヒノキでつくる神社寺院の建築事業をやっていた。クラシックだが当時としては最新建築で、私の生まれるいまから75年前に、この家は全館石炭が燃料のスチーム暖房が入っていて、ロビーや応接間は欧風の気取ったもので、設計室では大勢の人が大きな机をいくつも囲んで近代的な最新建築を求めて働いていた。ステンドグラスや出窓なども豊富にはめ込まれたこの洋館の後ろには接続して大きな和室の建物、昔ながらの頑丈な土蔵や、水の流を引き込んだ和風庭園などがついていた。
 そこの和室の二階で私は生まれた。その場所は、ちょうどこのヒカリエビルの前身の東急文化会館のプラネタリウムの建っていたところにあたる。いまでもそこの二部屋を埋め尽くすような五月人形の中で、うれしそうにほほ笑むあまり可愛くない私の幼姿、表の事務所の入口の階段、ここからは駅を越して向こうにいつも秩父や丹沢、箱根や富士山が望まれたが、そこにおしめが取れたからか、父が作ってくれたダブルの背広を着て、ふんぞり返る生意気な我が立像の写真などが残っている。
 だが栄枯盛衰、戦争が激しくなり、空襲が多くなったころから、私は鎌倉の別宅に引っ越し、此処には定住はしていなかった。だが大好きな渋谷の家で、父に連れられて通ったものだ。やがてこの家も空襲で焼かれて、戦後のどさくさに焼け跡と我が家との縁も切れた。だが、私自身の心の中にはこの家の思い出が焼き付いている。
一帯はまだ野原や木立の残る住宅地だった。付近には私も初宮もうでに行った金王八幡宮があるが、そこまで虫かごを持って赤トンボを追いかけにいったり、モグラのような地下鉄がトンネルから勢いよく出てくるのを眺めにいったり、楽しい遊び場でもあった。
 ヒカリエより、私の方が75年も古い。だが、私の記憶は戦争で断絶、その後この地が焼け野が原になって断絶、文化会館に代わって断絶した。渋谷は私の学生時代に過ごした街だ。大学時代、複雑な思いも感じながら、通い詰めた私の東京だった。それが、またこんな形で変わってしまった。
思い出の糸を手繰りながら、今まで何度かこの近辺を歩いてみた。だが往時といまとの断絶が多く、なかなか故郷の実感に浸れなかった。だがそこが、今度は爺である私とは何のゆかりもない女性の街になるらしい。
そのうち、私がヒカリエのビルの片隅でぽつんと産み落とされたように、孫の孫どもが渋谷を眺めて錯覚する時代が来るかもしれない。
いまNHKの朝ドラで、ミニチュアの東京の戦後直後の時代がでてくる。そこには戦後はまだ我が国ではほとんど見られなかったオート三輪などという車が我が物顔に走っている。店の看板も左横書きだが、当時はほとんどが右横書きだった。時代考証は難しいものだから。