葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

関ヶ原の合戦以下だね

2009年02月27日 21時10分40秒 | 私の「時事評論」
 マスコミ報道を見ると、現在の麻生政権への国民の支持は十パーセント台に落ち込んでしまっているという。だから、国民は一刻も早い総選挙を待ち望んでいるのだと伝えようとするのがマスコミの意図と思えます。だが、こんな報道に接しても、「どうだかな、また世論の操作狙ってるんじゃないの」と眉に唾をつけたくなるのは、何も私が天の邪鬼だからとばかりは言えないような気がします。
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 先日のこと、用があって国会議事堂の前を通りました。厳重な警備がされていて、多くの警察官が周囲を固めて警備していました。国政の基本政策を定める立法機関なのだから当然のことかもしれない。だがこんな警備までした国会でどんな論議が行われているのか、毎日のわれわれ俗人でもくだらないから遠慮するような論議ばかりしている国会。そう思うと私は、膨大な国費浪費の現場に立っているような気になりました。
 衆議院と参議院で与野党比率が逆転しています。野党が多数を占める参議院は、当然首相を決める実権を持つ衆議院を解散総選挙に追い込み、こちらも参議院並の議席数にしようとするでしょう。だが、そのために国会が機能マヒをしたのでは、国民への満足な行政ができません。ましてや現在は歴史上例を見ないという世界不況の嵐の中です。緊急に打たねばならない対策は山のようにあります。
 だが現実の国会では、そんな国民の不安など全く無視し、野党は首相に、何もできずに政権担当を諦めさせようと審議拒否やドタバタ騒ぎのみを進めています。総理大臣が個人的に給付金を国民なみに受け取るのかだとか、あなたはこの漢字読めるかなんて。開かれている両院の議会では、こんなことばかりのんびり言い合っていて野党はまともな政策など何一つ示さず、論議する気配もありません。
 国民の焦りを尻目にこんなことばかり、もう何年も繰り返している政治ですから政治は停滞、責任者である首相の人気が上がる可能性はないでしょう。マスコミはそんな政治を責めるのが任務のはずですがそれをせず、世論調査を繰り返しては、こんなに支持率が低いのだから早く首相は政権を投げ出せと大合唱を続けるばかりです。
 だが世論調査の結果は、確かに政府に批判があるとは言っているのだが、野党なら信頼できるといっているのではありません。ただ大変な時期なのに、まともな政治が行われない現状に国民がいらいらしていることを示しているにすぎません。
 昔、関ヶ原の大戦のとき、豊臣と徳川の武士たちは、生死をかける戦で、百姓のためにと田畑を踏みつぶしての殺し合いを避けて、双方合意して場所を移動して戦ったと伝えられています。天下の政治を志す者は、どんなに激しく戦う時も、国民のことを片時たりとも忘れない。何せ誰が支配者になり彼らを治めるかの戦いですから、それだけの人間になることを双方共に忘れなかった。どんな時でも農民のことを忘れない。これが統治という政治にかかわる日本の武士の誇りでした。
 それが今の政治家にはないのです。そしてそれを伝えるマスコミも、国民を第一に考える本来の使命を完全に忘れている。誰のためのマスコミなんだ。そこに現在の危機があるように思えます。
 私は日本の国の政府が、何党の政権になれば良いかなどということには深入りしません。だが、政治を放り出して国会でバタバタ下らぬ騒ぎをすることにだけは腹が立ちます。痩せても枯れても与野党の議員だってあの関ヶ原の血を受け継ぐ日本人です。天下の政治を志すのなら、国民に対する政治を優先して、政策を掲げあい、国民の暮らしを見守りながら堂々と論議し、男らしくその信を国民に問う武士としてのプライドだけは持っていてほしいと思います。

斎藤吉久「天皇の祈りはなぜ簡略化されたか」を読んで

2009年02月13日 20時19分56秒 | 私の「時事評論」
「天皇の祈りはなぜ簡略化されたか」を読む

 天皇制度は諸外国の王制度とは全く違う出自を持っていて、しかも外国王制とは比較にならぬ歴史を持っている。天皇に関しては、私の事務所から出ている葦津珍彦(あしづうずひこ)の「日本の君主制」が、現代人にも理解し共感できる論によって明瞭に論証しているが、一番の特徴は、諸外国の王が、民を権力的に支配した覇王の後裔であるのに比べて、天皇は国民のためにひたすら己を捨てて祈り、祭りを行う祭祀王として二千年以上の歴史を歩んできたという独特のもの、その結果、国民の信頼の蓄積の上にあることだろう。
 しかし、そんな日本の日本らしい個性である天皇のまつりが、今危機にさらされているというのが、この斎藤氏の主なテーマである。何かのことがあるたびに、なんと天皇のお世話をする立場にある宮内庁によって、天皇のまつりがどんどん簡略化され、天皇の基本となる性格が歪められてきているという報告が生々しく語られている。
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 どうしてこんなことが平然と進められているのか。それには敗戦での米国占領時代の日本の従来の憲法を廃止させ、米軍が作った憲法を採択させたことが、きっかけとなっている。米国は日本を占領すると直ちに日本に対して彼らが作成した新憲法を採択することを迫った。それは日本が今後、国として発展していくことよりも、外国から攻撃されても反撃はしない、国が一つにまとまることができないようにしようとの目的をもった憲法で、国の制度を固める基本法というよりは、政府が活動することに制約を付した占領基本法のようなものだった。米国の軍事支配がどんな性格のものなのか、ベトナムやイラクなど、その後の米国の占領行政を知る者にはそれは容易に理解できるものだろう。
 天皇のまつりの話なので、憲法の欠陥に関してはここではこれ以上ふれないが、米国には当時日本が、国民の頭の中を狂信的に変え、死ぬまで戦わせる特殊な宗教である神道が支配する国で、その神道が権威を振るうカルト集団国家と映っていたようだ。日本人にとって迷惑この上もない偏見だが、こんな偏見に基づいて憲法に天皇条項を定めてしまった。そのため天皇の第一のお務めである「民のために祈る行為」は国事行為の中にも入れられず、しかも政教分離の原則は歪められ、日本では神道だけは、アメリカや諸外国のキリスト教、回教や仏教の国の儀式のように、国の儀式の場で使うことも許されずに追放された。その上に政教分離は神道だけを排除するものと解釈させる独断的な洗脳教育までを行った。私は神道の信者だし、神道こそ世界で最も穏やかな生き方を示していると信じているが、いやはやとんだ濡れ衣を着せられたものだ。
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 そんな恐ろしい環境を、その後も日本に定着させてきた力は、占領行政による公職追放の嵐の中で、新たに政治の推進役になった進歩派といわれる人たちであった。彼らは先輩が再び力を盛り返せぬように、スクラムを組んで力を保持し、マスコミや官界、教育界などに、占領解除後も占領当時と同様に、米占領軍のかつての方針そのままに、日本を維持することに力を入れた。例えば公務員試験、役人登用で圧倒的に力を持ったのは東大で、その中で憲法を教えたのは戦時中日本の暴走に理論的な根拠を与えた宮沢俊義氏だった。彼は誰よりも激しく戦前の解釈(それは宮沢氏が中心になって建てた論)を批判し、彼の法学を学んだものが、戦後の公務員の主流となり未だにその地位にある。宮内庁ももちろんそうである。
 新憲法には天皇第一のお勤め、「ひたすら民のために祈る祭り」の規定は外されている。しかも個人のためではない公の天皇のまつりと、個人救済のための祈願とを性格的に別のものとすることすらしない。そんな中で宗教儀式と宗教活動、どちらも憲法に出てくる用語だが、その二つの厳密な区別もなくそれを運用する。こんな乱暴な行政が行われてきた結果、ますます天皇の祭りは役人たちにとって、無用で混乱を招く前世紀の遺物に見えてくる。まして現代の日本人はすべからく底が浅く、欧米礼賛一辺倒の風潮があり、日本人の心の中に育まれてきた大きな力に対する敬意などは薄い。だが、祈る天皇が祭りから遠のくに従って、日本の皇室と諸外国の王制との区別もあいまいになってきて、天皇制度も底の浅いものになりかねない。
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 陛下のお祭りの着々と進む簡略化は、斎藤氏のデータを積み重ねた記述によると、昭和時代から進められているが、特に陛下のご高齢やご病気によるご公務の簡略化が大きな影響を持っている。そんな時にほかのお仕事よりも優先しておまつりが減らされたり簡略化されて、それがその後も復活されないことになる場合が多いという。陛下のご高齢化など、やむなく祭祀が一時的に簡略化される面は避けがたいこともあろう。だが、なぜそれが条件が変わったり新帝が即位されても御復古されないのか、そこに考えなければならないものがあると思っている。
 天皇の祭りは、陛下が陛下として行われる伝統的国民のためのお祭りであって、宮内庁が廃止や変更などを陛下に先立って決めることのできる性格のものではない。天皇には政治を超えた文化、社会、国民生活、精神面などはるかに広い国民的な広がりがある。他方お世話する宮内庁は官庁にすぎない。政治や憲法に取り決めた内容は、政治的に裁量できてもそれ以外のものが皇室にはある。政治は天皇の一部門にすぎない。宮内庁は、政府の官庁であるとともに皇室の仕事をお世話する下部機構でもある。宮内庁はそんな広い面でも天皇のお持ちになる働きを知って、その妨げがないようにお世話をしなければならない。
 もう一つ、これは民間への要望もある。天皇を崇敬する国民や団体は、当面する陛下のご公務削減により陛下のお祭りに一時は影響があっても、それは暫定的なものにすぎないとの宮内庁からの確約を得て監視するぐらいの運動は当然すべきなのではないだろうか。陛下のお祭りは大変なお務めであると聞く。だが、それをどうやって維持していくのかは、宮内庁の判断だけで決めて良いものではないと思っている。
 斎藤氏の本からは少し外れたが、何としても大切なことと思ったので一筆書きくわえておこう。
 参考、同書は並木書房よりいま発売されている。

鎌倉(稲村ガ崎)からの富士

2009年02月10日 16時17分24秒 | 私の「時事評論」
 鎌倉にはもう戦前の昭和15年からですから、もう70年も住んでいることになります。
 新聞社に勤めていたころはなかなか忙しく、ゆっくり鎌倉の雰囲気を楽しむことができず、ただ休日や原稿が思うように進まないとき、何か頭の整理をしたくなったときなどに散歩して海岸を眺めるか、庭に出て風の音を聞く程度でしたが、五年ほど前に社長の座を譲り、かねて副業にしていた趣味をかねたささやかな出版事務所だけを残すことにして以来、時間ができたのでブラブラ散歩するのが楽しみになりました。
 こんな鎌倉の景色の一つが、まるで絵ハガキみたいですがここの海岸からはるかに富士山を仰ぐ景色です。我が家近接の由比ガ浜海岸からは、周りを山に囲まれた要塞の地鎌倉らしく、右手に稲村ガ崎の半島が邪魔になって富士は見えませんが、そこを越え、七里ガ浜に近づくと、その整った容姿を惜しげもなく示してくれます。お風呂屋さんの絵みたいにも見えますね。
 私は日本の日本らしいものが大好きで、この独特の日本が近年、人々の生活感から締め出され、日本中がまるで黄色い顔をした西欧人をあこがれるような浮ついた雰囲気を苦々しく思っています。同じ近代化でも、木に竹を接いだようなものではなく、日本に根ざした本物の日本文化を皆が作り出してくれればと常に思い、それを求めて文を書いてきた男です。そんな私にとって、富士はまるで私の憧れを絵に描いた姿のように感じられます。

皇室でのおまつり

2009年02月10日 15時41分00秒 | 私の「時事評論」
天皇陛下のおまつり


 大変な変化が訪れています。毎日伝えられるのは、経済環境悪化の報道ばかり。それも景気波動のように徐々にではなく、まるでつるべ落としのように急に企業や業界が墜落する話です。日本も世界と共に地雷原を歩く感じです。
 国民の精神的な不安は限りもなく高い。明日がどうなるか分らないから、確りして欲しいのは政治です。だが、これがまた悲惨です。政府がだめというだけなら、政権が交代すれば期待もできる。しかし野党はどんなに国民が困ろうと、ただ自民党を潰す以外には何の目標も持たぬ連中の集まり。おそらく選挙の結果、政府が野党に移っても、これでは良くなることはないでしょう。世直し能力のある野党なら、もうとっくにこんな馬鹿騒ぎばかりはしていません。明日はどうなるか、国民はいまや、ただ神々に祈るだけの有様です。
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 しかしその祈りの世界にまで、大問題が立ちあがっています。有史以来、国民のために己を捨てて祈る日々を過ごす日本の祭り主・天皇陛下のご容体が思わしくなく、お仕事を減らさねばならぬ事態が起こっています。昨年来、宮内庁は相次いで陛下のご公務を軽くして戴く対応を発表しているのですが、それが陛下の国民に対する伝統的な信頼の基礎がどこにあるかに無理解で、お仕事から削る対象が専ら陛下の国民のための御祈りの軽減中心に向いているのです。
 いま、陛下にまずは国民のために神にお祈りをされる時間から減らして頂こうとする行為は、国民にどんな精神的な作用を果たすのか、考えてみたいものです。
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 陛下のご容体思わしくない今、お仕事を減らす努力は当然です。だが、何から始めるかは、実は我が国の天皇という制度をどのような性格のものかと認識する視点を基礎に見なければなりません。その選択には天皇制度の理解が明確に出てこざるを得ないからです。
 昭和天皇以前の天皇はほとんど宮中から出られませんでしたが、最近は天皇陛下もその他の皇族方もお手伝いされて、公の場へのお出ましが急に増えてきています。
 できるだけ多くの人に接し、少しでも国民の役に立とうとの大御心がそんな形になったのでしょうが、ご高齢でご体調が悪いという時は、それらの後から付け加えられたお仕事を一時的に中止され、または他の皇族方に暫定的にご委任願って、陛下は皇室の歴史とともにその御任務の柱であった国民のために神々に幸せをお祈りになる祭祀中心にお仕事を絞っていただくのがお傍に仕えるものの当然のやり方ではないでしょうか。
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 ほかのことは陛下以外でも代行できる。だが宮中の祭りは、日本人の精神生活の基本、上御一人、陛下だけのなされる尊いお務めなのです。祈りや祭りは、お金儲けのように、物質的な効用は証明できないが、人々が生きていく上の心の柱となるものです。陛下のお傍にいる官僚たちも、一時の憲法などよりもはるかに重い陛下の精神的権威がそこにあり、そこに陛下が国民とともに歩んできた力があることを十分に知って対応して貰いたいと思います。