葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

鎌倉・孕み人行列

2013年09月18日 11時14分36秒 | 私の「時事評論」

 

16:34

No ba鎌倉・御霊神社

 

面掛け行列

 

 おなかが膨れて今にも生まれそうな妊婦を中心に天狗や七福神のような奇怪な人々が続く―――。秋晴れの今日、午後から鎌倉では県の文化財にも指定されている御霊神社の面掛け行列が行われます。

 場所は鎌倉駅より江ノ電で三つ目の長谷駅下車、徒歩5分の極楽寺へ向かう江ノ電の沿線にある御霊神社から2時40分出発して同神社の氏子区である鎌倉市の坂の下町内。日ごろは平日でもあり天候も優れぬときが多いので、必ずしも多くの見物人によく知られているということではないが、今年は台風一過の素晴らしい好天日、さまざまと鎌倉の地を愛して話題にする人は多いが、その一点の清涼剤的なエピソードとして、この話も組み入れておいたら面白いのではないか。

 なおこの日は御霊神社の例祭にあたり、この前一時からはこれも鎌倉・藤沢に伝わる地域伝統の神事・湯立て神楽が境内ではにぎやかに開かれる(午後一時より)。

 

 御霊神社の面掛け行列を地元の人は、「行列」、「孕み人(はらみっと)行列」、「乞食行列」などと呼ぶ。差別用語を含み、あまり表では派手には使いたくないが、地元の人々に親しみを込めて眺められている証拠でもある。衣装などは昔から同じものが長年使われているもので、屈強な男たちの数十年の汗で、とても息苦しいものになっているのだそうだ。

 話はここに幕府を開いた鎌倉時代に戻る。俗説にはさまざまな伝承があるが、鎌倉幕府を開いた源頼朝の手をつけてみごもらせてしまった女性及びその集団の行列だと伝えっる俗説が楽しい。

頼朝は武威をもって鎌倉に天下を支配する幕府を設けたが、終始彼にしたがって動き、彼の妻であり、また彼を支えてきた北条氏の娘・正子に目が上がらなかった。もちろん、男の甲斐性・浮気などをしようものならどんな仕打ちを受けるかもわからない。

 そんな頼朝が鎌倉を支配する地元の部族の娘にひそかに手をつけて子供を身ごもらせてしまった。さあ大変!。頼朝の家来たちは大慌てをしてその娘の部族と交渉、娘及びその一族の鎌倉における自由な行動を幕府が保証することで決着した。その故事を引き継いだ御霊神社の氏子たちはこうやって毎年妊婦とそれに従う天狗や七福神の行列を演じ続けて現代にいたっているという。

 ものすごく雑駁な記述だ。もう少しましなものが御霊神社の境内にも掲げられている。またこれに関する考証や研究もある。だがここでは、鎌倉での伝統的漁師たちの住む区域、坂の下の代々口から口に語り伝えて残されている伝承をおおざっぱに上げるだけにとどめたい。この神社には浜辺の漁業の守護神らしいこの種の話がほかにもいくつか残されている。

 

 ごちごちの鎌倉幕府さえもこの種の笑いの中に包んでしまう。これが日本の庶民の姿、新党はこんな要素も多分に持っている。

午後の行事、行ってがっかりするものになるかもしれないかとは恐れるが、私個人としては一見の価値ありと思う。東京から鎌倉までは一時間、鎌倉から長谷までは12分おきの江ノ電で6分の至近距離である。

 


オリンピックはイスタンプールにしてもよかった?

2013年09月09日 11時01分24秒 | 私の「時事評論」

こんにちは。

 

本当にお久しぶりです。二か月前に自宅で脳梗塞を発症し、これは症状が軽微なうちに、妻や嫁の対応もよく迅速に入院したのですが、いくら後遺症はないとお医者さんに言われて安心はしても、いやしくも脳梗塞は怖い病気です。入院、治療、退院は二週間、それからずいぶん時間がたつのに、まだ頭がモヤモヤしていて、すっかり気力が湧きあがらず、まだまだボケたくはない年齢だと思うのですが、「明日から、明日から」再起の準備をしようなどと、まったく決断しきれないでグズグズしているうちに二カ月が経過、9月も中旬になろうとしています。
このままでは、私自身が頭の中から腐って朽ち果ててしまい、これで生涯が終わってしまうかもしれない。そんな恐怖心にも襲われます。

 

おまけに、これも寿命がきたのか、時を合わせたように、私の意見発表や耳や目として協力してくれていたパソコンが、急にウンともスンとも言わなくなり、どうにも手が打てなくなってしまいました。

これは明らかにパソコンも程度の悪い脳梗塞になったようなものです。何とかしようと隣の街にある修理センターに持ち込んだのですが、「もう内部の機構や部品の消耗で修理はあきらめられたほうがよいでしょう」という話。これに腹を立てて、退院直後の朦朧とした頭で

「なんということだ。もうこんなものは要らない、やめた。捨ててしまえ」

などと愛機を廃棄してしまいました。このPC,中にはハードディスクが二本も入っていて、今まで数年間の自分の記録や文が閉じ込められていたというのに、後でどうするかも考えず感情のままに行動して・・。

あとになり、新しい廉価版のデスクトップを購入したのですが、機械を丸ごとわざわざ有料で処分、データがことごとく焼失してしまったので、使い慣れない新プログラムを前に、悪戦苦闘のま最中です。私とあのデスクトップパソコンとは、お互いにつながりあっていて、あいつもほぼ同時に発作を起こしたんだと自分の軽率さを恨みながらの作業です。

 

原発事故に対する世界の不安

 

 

ところでそんな私が、ついに短文を書く一つの機会が訪れました。

日本時間の昨日早朝に、次期オリンピックの東京開催が決定して発表されたのです。テレビも官庁も誘致に動いてきただけにえらく喜んでいる気配です。マスコミの宣伝力に踊らされているのか、国民の多くも深く考えずに素直にそれを喜んでいるようです。

それを見て、「おめでとうございます」、これを復帰第一号にしようかな。そんな風に思いました。

今度の東京誘致は、大変な苦労が伴ったようです。それというのも、東京は以前に一度開会しているし、先の東北大地震の後、津波の被害を受けた福島の原発から漏れ出した放射能による汚染が、日本を選択する大きな障害になり、オリンピックの候補地に選ぶにしても、不安視する空気が世界に漂い、候補地選定の唯一のマイナス条件だとされたからです。

日本人の大半は、もういつしか聞き飽きたのか無関心になりかけているので、世界のこんな空気がどれほど深刻なものであるかを実感し、共感することを忘れてしまっていたのかもしれません。残念ながら、日本人はそんな敏感な人々ではない。いつの間にか、そんな解決の技術もないのにそれさえも、「将来のことだから何とかなるさ」というような電気の安定供給のほうが生活全般よりも大切だと思う一時的勘違いに取りつかれた電力会社的発想に流されて日々を空費している。加えてこれに照準を合わせたような隣国の意図的嫌日作戦の効果も大きかったし、日本も最後には、政府を代表して首相自身が訪れ、世界に被害を抑え込むことを「公約」して、ようやく不安をぬぐい去ることに成功したような始末でした。この心理的側面についてはまた、書きたいところですね。

 

私は内心、今回の2020のオリンピックは、あまり有利に活動していないようだが、トルコのイスタンブールにこちら側から譲ってあげてもよいのではないかと思っていました。

今の世界はキリスト教とイスラム回教との文化圏の対立が人類文化の破滅の危機を迎えるところまで来てしまっています。その中間にあり、互いに国境を接した地域で、しかも回教圏にあるトルコは、「スポーツを通じて、世界が困難打破のきっかけを作ること」にイスタンブールでのオリンピックを利用したいと懸命に働きかけをおこなっていました。確かに、オリンピックはまだ、イスラム圏で開かれたことはありません。トルコでのオリンピックが、その尖兵になることができないだろうか。そんな気がしてならなかったからです。

「純粋なスポーツに、邪念や政治を持ち込むな」と言われそうですが、現実に今のオリンピックはそんなものになっていますからね。

それにトルコの人はかなりに親日的で、開催地が日本に決まった後、惜しくも敗れたトルコの人たちはがっかりしながらも日本に「おめでとう」と言ってくれています。今度は東京の次の24年の開催地を是非トルコに決めて、彼らの力に期待したい。

日本は今回以上に力を入れて、応援するくらいの国であってほしいですね。

 

 


ついに私も倒されてしまったの報告

2013年07月13日 14時50分10秒 | 私の「時事評論」

 突然脳梗塞で倒れて

 

 みなさん、御無沙汰してしまいました。実は「脳梗塞」というんでしょうか、一週間前に倒れてしまって有無を言わさぬ入院生活。毎日朝から晩まで一日10本にも達するほどの点滴を連続してようやく今日、数時間の帰宅を許されました。

 どうやら脳梗塞を食い止めることができたが、それらの作業はこれから、ふらふらしていますが、どうやら私の生涯の方はうまく未来へつながったようです。

 そんなことでしばらくの間、まともな対応もできそうにはありません。パソコンものぞけません。そんなわけで私のことを御放念いただきたく、お願いいたします。

 

 私の今回の発作は結構初期症状のものだったらしく、それにしては頭痛や吐き気で、どうなることかと思いました。幸いにして主治医の先生方もなるべく早期に退院できるよう配慮したいと言ってくれているので今月内にも復帰か農家などと指折り数えているところです。


日韓関係と他の諸外国関係との異質性 第三篇

2013年06月23日 20時40分41秒 | 私の「時事評論」

 国際社会に最初に乗り出した日本

 

 寛容こそ大切。それが彼らより一早く近代化を成し遂げ、白人のみで世界を独占する状態だった世界に食い込もうとした先人たちの思いに通ずる対応なのだと思う。アジア・アフリカの国々もやがては大人となり、国際的にしてはならない非礼な行為は慎むようになるだろう。そうならなければいつまでたっても友好国同士にはなれない。日本は孤軍奮闘の結果、先の大戦により、自国の健全な独立さえも失って、苦しいその後の時代を送ってきた。だが前回の大戦は、白人の独占して支配する世界に対する有色人種国家日本の真正面からの挑戦であった。敗れはしたが、その後に多くの有色人の途上国が名乗りを上げる結果にもつながった。それは結果的には、明らかに西欧白人だけの時代が終わりを告げる時代の転換期になったと解釈できるのではないだろうか。

 

 日本の明治以来の世界舞台への進出が刺激剤になり、今回独立に成功した国々は多い。その中で最も日本と近接する数国が、少々我が国の誇りを傷つける暴挙に出たと言っても、彼らとてやがては国際社会の現実とルールを知り、やがて自ら何を守り何を慎まねばならないかの国際常識を身につけることになるだろう。その時までは、近隣に所在していて、少々目に余ることがあっても、目をつぶらなければならないのが先に世界に乗り出したアジアの先進国・日本の義務だろう。そんな見識ぐらいは私も持っているつもりである。

 だが限度はある。日本国民として、さすがに我慢ができない限度を越す状態になると、私にも日本人としての愛国心やプライドがある。誇りや尊厳をそこまで傷つけられては我慢が出来ぬとの思いにもなる。そんな品格の劣る国とは国交も切って、鎖国してしまえと顔ひきつらせて叫びたくもなる。

 

 靖国神社問題への中韓両国の「国の戦没者への慰霊顕彰への理解を失した内政干渉、どの国においても国のために自らの命を失った人々を検証するな」と言わんばかりの行動には許しがたい怒りを感ずる。国の戦いに従って殉じたという事実」は、どんな国でも最も尊いものと扱わなければならない。また歴史的根拠の薄い捏造に近い事件を取り上げ、ときには作り上げての執拗に繰り返す一方的な対日攻撃や中傷、わが日本文化の核心である皇室への皇室の何たるかも知らずに繰り返す批判などは、日本文化を大切にしてきた日本人の穏やかな生存を妨害するものに映る、祖先から積み重ねてきた文化に対する許しがたい侮辱だと腹が立つ。どの国でも、国内で外に害なく実施されているものは独立国の内政であり、外からの批判は非礼である。

 そんな事件ばかりが実に多い。そんな中で、去る五月に問題となった日本が「原爆を落とされたのは当然の報いだ」と言わんばかりの韓国を代表する有力紙の論調には、尖閣列島の非常識な侵略、韓国との竹島の所有問題などよりも、ただ侮辱を目的とした品格なき発言であったためにはるかに私の神経を逆なでした。発言の品格を疑わせる質の低さをみて、こんなレベルの低い連中が国の世論を代表するマスコミにいても、あの国は平然としていて良いのかという怒りを覚えた。「言論の自由」などという高いレベルで論争するより前に、書いた記者は筆をとる資格のある人間であるのかと品格を疑ったからである。

 

 やりたくない大戦であったが

 

 もう七十数年前にはなるが、日本は国際社会を支配する米国はじめ主要国の一端に食い込もうとしたのを締め出され、当時の国連までを脱退し、彼らを相手に戦争をせざるを得ない状況に追い込まれ戦争を始めた。

 国内には資源も燃料も殆どない小さな島国日本は、米国を中心とする諸国に締め付けられて、国家存亡の危機に直面した。活路を見出そうとする日本は、結果的には西欧のドイツとイタリアなどファッショ国家とまで連携して対応しようとしたのだが(イタリアは途中で寝返ってしまった)、その行為の合否について、(私は批判的だが)それを論ずる場所ではないと思う。こんな環境で世界の大半を相手に戦うのは、著しく日本に不利だということぐらいは当時の日本政府も知っていた。それも無視したのが日本の指導者だったというが、それは日本の置かれた状況をしっかり見て、米国などの狙いをまともに見た上で論ずべきものだと思う。当時の米国は既に日本をなきものにする方針を立てていた。それには日本側から攻撃したとの事実を作らせようとの外交を展開、日本を潰して、環太平洋経済の指導権を固める作戦に没頭していた。

 日本は妥協を求める交渉を懸命にしていたが、米国が聞くわけがない。追い詰められた結果として日本は米国の仕向けるままに戦争を選び、そして壊滅的に国土を破壊され、三百万人近い尊い国民の命を失った。

 

 繰り返すが、この戦争は日本が選択すべきものだったか、あるいはあらゆる屈辱に耐えても歯を食いしばって、一時的にせよ米国の言いなりになるべきであったかに関しては、様々な見方があるだろうが、私はここでそこまでは触れない。ただ、この日本が大きく躓いた事態の顛末、そしてその大戦への戦い方は、今後の日本が同様な立場に置かれたときの、また日本以外の新興国が、世界の中で孤立させられる事態になった時に、どんな方策をとるのが望ましいかの大きな検討材料となると思う。外交交渉は相手がおり、ときには国の存亡にまで及ぶ残酷な副作用も残しかねないものだ。華やかな舞踏会や洒落た形容詞を連発するのが外交などと思う人がいるかもしれぬが、それどころではない。言葉で言うほどにきれいなものではないのだ。

 

 戦いは米国の戦略に乗って進んだ。日本がはじめは奇襲作戦で有利な状態に立ったが、やがて事態は逆転して、日が経つにつれ日本の敗色は濃厚になっていった。ただその戦いを見ると、日本側は終戦ののち、再び日本の勝利か、少なくとも和戦に持ち込むことができれば、再び国際社会に復帰することも目的としていて、当時定められていた国際法の禁止原則などはどの国よりも順守して、戦後の摩擦は起こらないように行動した。だが反対に、相手の米国の姿勢はそうではなかった。

 戦いで、戦時国際法その他の定めや道義など全く無視した猛烈な攻撃は、日本にとって予想外に厳しさであった。法が特に厳しく戒めた敵方でも非戦闘員への犠牲を最低限度にする大原則は完全に無視され、老人や婦女子などの皆殺しを目的にしているとしか思えないような凄まじい攻撃に曝された。戦争中の軍事攻撃目標は、直接軍事行動をとっている正規軍など、戦争を遂行する能力を持った施設に限られる。だが爆撃は軍需生産施設もなく、戦闘を続ける上でも物理的にその援助になり得る所というよりも、木造の家が密集して大火災が起こるだろう住宅密集地、日本国内のあらゆる都市に向けられた。また、病院船、引揚者や避難する学童たちを運ぶ引き揚げ選、これらは旗や照明・標識で明らかに攻撃してはならない船であることを明示しているのだが、そんな船舶を狙っての潜水艦攻撃、空襲時の機銃掃射で逃げまどう婦女子を追いかけ、まるで残酷な人間狩りでも楽しむような行為、南方諸島における火炎放射機による人間役尽くし作戦などが公然と行われた。

 私もその時は既に小学生だったので、東京周辺での空襲などはこの目ではっきり目にしていて、熱でも出して寝込んだりすると、夢の中にいまでもそんな米国の攻撃が出てくるが、それは現代の人間社会では、あってはならない不法行為の連続であった。不法な攻撃をあえて採ったアメリカ兵は、日本人は我々白人ではない黄色人で、そのほとんどがキリスト教徒でもない。彼らの身につけている文明意識にとっては同じ人間とはみなさなかったのだろうと思っている。

 

 原子爆弾の投下

 

 加えて終戦直前の昭和二十年の夏、広島と長崎に原子爆弾が落とされて両市に住む殆どすべての人が焼き殺された。話はそれるがこの原爆投下を、米国の大統領以下は、戦争を早期に終結する正当な攻撃だと明言続けたし、現在の米国でも、日本への原爆投下は正当な行為だったと評価する世論が大半だという。人間たちの社会が文明化した、人権が尊敬される時代になったなどといわれるが、果たして人間は、そして文明意識はどこまで発展したのだろうか。

 

 ここで原爆に話を戻す。残酷な人道的に決して許されない「悪魔の兵器」の使用は、一瞬にして日本の浮上氏や老人など数十万人を焼き殺し、その放射能の害は、原爆投下以来六十年以上経過した現在までも被爆者たちの上にのしかかり、善良な日本人を原爆病で苦しめている。「悪魔の兵器}と言わずして、何と表現したら良いのだろうか。

 

 直ちに降伏してもこんな凶器の使用はさせるなとの陛下のお勅語。

 

 「神の罰」との発言への反論である。原爆投下を見られて昭和天皇は、それまではどんなに厳しい時でも、政府の政治決断には関与されず、立憲君主としての立場を守られ、憲法に従って国の姿勢をとられてきたのだが、内閣が決断力を失って混乱すると、初めて即時終戦を御決断、指示された。

 「原子爆弾などの使用を放置すれば、我が国民ばかりではなく、将来は人類そのものが    破滅する。これは誰が使っても、神々も先祖たちも決してお許しにはあらない」。

 陛下の御決断は詔書で国民に知らされ、我々にとって「耐えがたきを耐えねばならぬ」必謹すべき大原則となった。この天皇陛下の『終戦のご詔勅』は、人類最初の反核宣言として明記されるものだろう。

 これは未確認の事実であるが、この戦時下に、日本の軍部にも「原子爆弾」製造への動きはあったという。だが実験と中の大爆発によって、そのことが天皇陛下のお耳にも達した。陛下は「どんな条件下であってもそれはならぬ」と厳しく戒めのご命令を出され、日本は製造を中止したのだと私は先輩から教えられている。

 

 その人間が人間としてのあるべき限度を超えた残虐な原爆投下の行為、これを昭和天皇は厳しく受け止められ、日本国の運命そのものの重さをゆがめても、使ってはならぬと仰せ出された。私はこの決断を神道=まつり主の日本国民に示された大原則だと受け取っている。今次の日本の戦争は我が国だけの利益のための戦いではない、一億玉砕してでも、日本国の意思表示はやむを得ぬ、それを貫かねばならないと御決断された陛下が、原爆の使用は神々のお認めにならない行為だとされてその使用禁止を世界に訴えになられた。そんな重々しい凶器が原爆であることを我々は忘れない。

 

 日本に原爆が落とされたのは「神罰だ」といった韓国通信社

 

 そんな原爆に関して韓国の代表的な「中央日報」が、どこにそんな愚かな神がおられるのか知らないが、日本に落とされたのは「神罰」として当然だと肯定するような論を書き、それでも足りないと思ったのか、あれだけでは日本には落とし足りないというような表現までを書き加えた。おそらく彼は、そんな深刻な日本人の受け取り方は知るまい。

 常識のない一人の人間が巷間で無責任に喚いたというのならともかく、国民の声を代表する立場である有力言論機関が、こんな品格も情もない発言をして許されるのだろうか。私はこれに激怒した。腹を立てついでにあえて言わせてもらう。「韓国ジャーナリストはついに悪魔に心を売ったのか」、「それも言論の自由と履き違えるジャーナリズムの尊大さと質の低さは、うっかりすると自国の品格を貶めるものではないか」。「あの原爆では、当時日本人として戦っていた多くの韓国人までも犠牲になった。それも一緒に神罰などというのだろうか」。

「韓国も世界諸国と連携して核兵器廃絶の呼びかけを行っている。その主張とこの発言とはどんな関係にあるのだろうか」。

 

 

 韓国は国や通信社の公式見解でないと説明したが

 

 外国とお互いに信頼し合う関係を続けていくためには、このような日本人を怒らせて、ただじこくの品格のなさを表に出すような非常識な発言をしない相手を知る国にならなければならない。韓国と日本の間には韓国がまだ米国の占領地から一つの国として活動を開始し、南北朝鮮の激しい戦闘を経験している時代に、米国から指導者として認められた李承晩大統領が勝手に日本との間に李承晩ラインという国境線を引き、島根県の竹島を腕力で領土化しようとした。この竹島紛争などが解決のめどが立たずに両国間の領土問題として続いている。

 日本と韓国は別に戦争をしたのではない。それどころか先の大戦では韓国は日本領。多くの韓国人は日本人として米国など国連に対してたたかった。日本が戦争に敗れ、朝鮮半島が国連の支配する占領地になってから、三年ほどして現在の韓国の国土は米国から独立国として活動する許可を得て李承晩(大統領と称していた)の専制の下に置かれ、彼のあまりの横暴ぶりに、国を挙げての批判が起こり、対外的にも独立国としての体が保てるようになったのは1963年の朴正煕が軍を率いてクーデターを起こし、第三共和政を宣言した1963年ころからのことである。日本はこの朴正煕の韓国と日韓基本条約を締結、以来韓国とはこの条約を基本に国交を行っている。

 

 生かされていない両国の締結した条約の精神

 

 李承晩の時代に日本と韓国とは、米国の支配が三年間続いたのちに、米国の抜擢した李承、多くの親日派や良識派が李承晩の狂気の反共・半日独裁政治で粛清された韓国である。それでも韓国は米国の占領地から三年後に米国から独立を与えられ、朝鮮動乱などの厳しい時代を経て、二十年近い混乱の末に一応国際的にも発言できる国に成長した。そんな国に韓国を持っていったのは朴正煕だった。彼は日本との間に日韓基本条約をまとめ、これにより、日本の持っていた同半島の全財産を譲りうけ、①日本との先の大戦終了までの問題は、韓国政府がすべて引き受けて解決する、②日本は韓国経済発展のために多くの資金を提供し、また復興のための借款も行うなどの条件を締結し、お互いに協力し合う国と国との国交を開始した。

 この、当時の韓国にとっては、数年分の全予算上回るような日本の資金で韓国はそれ以来、急速に経済を発展させ、現在の地位の足場ができた。

 条約は日本にとって簡単には受け入れがたい厳しい負担を伴うものであったが、これを基本にして韓国が、一躍世界の市場にまで進出し、部門によっては日本を追い越す力を発揮できるようになったのだから、日本としては喜ぶべき事態だったともいえると思う。

 だが、基本条約の柱であった「昭和20年までの問題の解決」に関しての韓国政府の義務事項がなかなか守られず、もう決着がすんでいる問題が繰り返し蒸し返され、それが両国の国民の友好に大きなマイナスになっているのは残念至極な問題である。基本条約を結んだ両国の代表が存命していたら、何と言って現状を見ることだろうか。

 先にあげたように、政権を安定させる力を持たない政権は、えてして不満の矛先を外国に振り向けようとして、ときには政権自身がそんな国民を煽り、自らに課せられた義務までを逃れようとする。

 日本と韓国の問題で話題になるのは、ほとんどが韓国政府が責任をもって行動し、韓国の国民が理性を持った紳士として行動すれば、それで片のつく問題ばかりである。その他の竹島の問題も、外交的に誠意を持って譲り合えば、李承晩の国際法無視の狂気の行動を死守しなくとも、円満に解決しうる問題だと思う。問題は、両国間の真の友好関係を深くしていこうとする決意の不足である。

 それが韓国側に国民を指導しうる立派な政治家がいない、日本側にもしっかりした指導力のある政治家がいなくて、おかしな場当たりの発言をしては両国関係がいよいよおかしくなる事態ばかりが目に付いている。

 だがここにきて、日本側にもはっきりしたことを発言できる安倍首相が出現した。韓国側も、はじめてまともな国であるとの地位を固めた朴正煕の娘である朴槿恵が大統領に就任した。これを機会に少しは新しい友好の風が吹くことを望んでやまない。

 

(了)


日韓関係と他の諸外国関係との異質性 第二編  

2013年06月22日 10時54分10秒 | 私の「時事評論」

  

 これに加わる厄介な条件=中華思想 

 

 日本と韓国の両国が仲が悪いのは、多くの夫婦や兄弟がいつの間にか反目しあうように、ある程度は俗に言う歴史的「近親憎悪」の一時的結果でやむをえぬと思って半ば諦めた境地で眺めることもある。韓国は日本の明治時代末期に日本に併合されるまで、中国とは朝貢貿易関係をとり続けた国で、陸続きである強大国中国に、従わねばいつ潰されるかわからない主従関係の歴史を歩んできた。中国文明を支えてきた思想は中国を最新文明を誇る宗主国とする「中華思想」。簡単にいえば中国がすべてにおいて朝鮮に対して指導的立場に立つ。だがそんな朝鮮には、その宗主国には従わねばならない関係だが、中国からより遠い辺境の地にある日本には、中華文明の恩恵を教えてやったくにだという序列意識が強い。

 文明の最も遅れている辺境の野蛮国・日本は、朝鮮が中国に接するように、恭しくひれ伏すのが当然だと思ってきた。それなのに日本は、明治維新を勝手に実施して西欧技術でにわかに力をつけ、格下の国である礼儀を無視して、まるで対等かそれ以上の国であるような尊大な姿勢で接してくる。しかも日本は中国や朝鮮の文明も分からず許可も得ず、勝手に自らの抱く君主に「天皇」などという朝鮮が称すれば中国に厳しく戒められる敬称を作り上げ、その名において要求をしてくる無礼な国だ。こんな停滞的な序列意識は明治時代までの韓国・李王朝や、その宗主国である中国などに強く、自国が中国やロシアに頼り、日本の申し入れた要求を聞かずに動くと、常に結果は裏目に出て、世界の国々に反対されて、ついには国際交渉の能力がないと認知され、日本領に組み入れられて、国そのものが消滅させられた。

 いまの韓国はもう、李王朝の君主国ではないが、こんな屈辱の思いは韓国に強い。韓国ばかりではなく、かつてはその宗主国である中国にも、この種の反発心がたまっていて、自らの歴史を別の視点から検証するよりも日本に反感を持つ情況にある。

 

 政権に欠ける統治能力

 

 加えて、韓国や中国が、国際常識や歴史を無視して日本に、竹島や尖閣列島の領土権を主張し、あるいは我々にはねつ造としか受け取れない日本による残虐な行為などをを持ち出し、また平然と内政干渉をする背景には、国民の中に育っている自国への不満の爆発を抑えるために、自国の政権へ向くべき国民の不満を、日本への憎悪にすり替えようとする意図が濃厚だと推測される。不満が自分に向けられれば、政権自体が不安定で、明日への権力の維持ができない脆さを両国とも孕んでいる。そこで事実でないこと、主張に無理があることまでを持ち出して反日の意識をあおるという要素がある。私ら日本人からみると、韓国政府や共産中国政府は伝統的に、国民に正しく歴史や日本との拘わりを教えるよりも、国民に日本への敵意で団結させようとする非友好的姿勢があると思えてならない。

 

 こんな両国政権に踊らされ犬のように尻尾を振って、すすんで自国の悪口をねつ造し、隣国への接近を図る非常識で反日的なグループが日本にもいる。反国家的言論機関や国民は、世界のどこにでも必ず出てくるグループだが、歴史を検証すると、どこの国の歴史においても、最終的には怒った自国民につるしあげられ、悲惨な結果に陥ることは必然である。第二次大戦の際のナチスドイツに協力した連中とフランスはじめ西欧諸国の自国の独立回復のために働いたレジスタンスとの騒動の顛末、いまも多発している世界中の激しい闘争の裏面史などには、そんな悲劇的な結末を迎えた例は枚挙にいとまがないのに。

 

 もちろん中国にも韓国にも、懸命に生きてきた歴史は豊富だろう。だがその歴史の読みかたは、我々の持つ歴史観とは決定的に違っている例も多い。これは両国の身を責めるわけにはいくまい。日本にだっておかしな歴史教科書が敗戦以来作られてきたし、国自身が占領軍の命令を基に国民をおかしな方向に走らせる教育に力を果たしてきた歴史がある。こんな日本の教育がゆがめられ、国がおかしな方向に引きずられていく傾向は、最近ようやく国を文化を伝統を大切にしようと活動する日本国民の熱意によって徐々に正されていく傾向が見られ始めたが。そうして前記したような我が国に巣くったグループが、自国文化を蔑み、日本国を周辺国に売り渡そうとするようなグループが国民の反感を買い、「教育の正常化」を求める声が徐々に高まってきたのだが。

 

 中国や韓国、歴史はそれぞれに、立派な文化も持っていて、日本文化の発展にも彼らの知恵が大いに力となったことは否定しない。おかげで日本人は文字を使用することを知ったし、古い時代には制度や文明そのものや技術が、日本文化の発展に役立った。そんな面では我々は両国に、国民として敬意を示さねばなるまい。だが、両国と日本の文化には決定的な違いがあり、日本人はそれを中・韓流に変えようとはしなかった。日本の国民のことをひたすら神々に祈る天皇の下に独自の文化を発展させるという特質を変更させず、輸入した外国技術も、その原則によって変質させることにして受け入れてきたのだ。

 すなわち「敬神崇祖」の文化の本質はどんな場合も変更しなかった。これに比べて中国も韓国も貴重なものを生み出した文化ではあったが、いずれも文化の継続性を欠いていた。次の政権を狙うものは、いずれも前の政権担当者を根絶やしに打ち滅ぼし駆逐して、そのあとに新しい自らの歴史を一から築くという連続性のない文明の積み重ねであった。そんな結果、韓国や中国から日本に逃れ、立派な技術を日本に伝えた両国の政治家や僧侶、学者や各種技術者などはきわめて多い。日本の文化はこんな優秀な外来人の援助の下にいよいよ発展してきた。

 日本では何千年の間、己を捨てて国民の安定と繁栄のために祈るお役目の天皇が一貫してまつり主であり続け、国内に政変があったとしても、次に行政の権に立つ者は、祭祀王の天皇より俗務である行政執行権を認められ、はじめて国を指揮するという連続性の理論が一環として続いた。この点で日本と両国とは決定的に違っていた。両国には文明が永続してきた連続性がないのだ。それは日本が外国と陸続きではなく、異民族から侵略されずに「浦安の国」を保ってこられた立地条件に恵まれたからだろう。これが日本文明が、韓国や中国と違っていた最も大きな条件だったと思う。

 

 こんな数千年の文化継続を保ってきた日本人として、現代の韓国にも中国にも望みたいことは、両国が国内に乱のない平和な国になってくれることである。我々はどんな政権が望ましいなどと内政干渉をすることはしないが良いと思っている。それは両国の政権が独自に決めることである。韓国も共産中国も、新政権で国を立ててから両国はまだ歴史が浅い。両国が日本を敵視しないでも長期ビジョンが描けるような新しい環境の安定した国になり、「過去の歴史を公的に清算したら、もう際限もなく繰り返さない」という世界共通のセンスで生きる国に成長する時が来るまでは、これらの国々に囲まれてしまっている日本は、地理的環境にある不運だと半ば諦めなくてはなるまいのかも知れない。

 

 西欧に対して同じ対応をしたらどうなるか

 

 だがつぶさに見ると、進んでそうしているのか、そうしなければ生きて行けないことを悟ったのか、それは不明というほかにないが、韓国や中国など日本の周辺の国々でも、文明そのものが異質だと彼らが認める西欧諸国が相手にする時は、「一時不再理」の意識や「契約は守らなければならない」との原則などがどこかに育ってきているようにもみえる。それがなければ現在の世界の環境が、基本的には急速に世界に躍進し、その収奪のとからにより世界の大半を支配した西欧諸国の中心である現状には食い込めない。日本に対するようなことを繰り返していたら、途上国は、帝国主義や植民地政策で現在の大国に育った西欧諸国に対してなどは、永久に友好関係には入れないことになる。

 いま日本に向かって行っているような結局は、解決するには威嚇か軍事衝突以外にはないということになってしまう。私は冷静な日本人のつもりだし、現代の我が国の一般人の世論のように「このままでは相手を武力で屈伏させる時代になるだろう」などと軽々しく言うつもりはない。これは難しいことだが、日本は、万一の場合を想定して軍備を固めるのは良いが、最後の最後までこの地域で韓国日本中国が仲良く共存することを理想に粘り強く接しなければならないと思っている。

 現代の世界知識の認識は、この両国にも育ちつつある。いったん定めた条約などは、両国ともに、西欧に対しては少しずつではあっても守るようにもなってきた。これを守らずに日本を相手にするように、際限もなく過去の収奪や不法を追求続けたら、その解決は全面戦争でも起こしてどちらかが滅びて消滅するまで戦う以外に方法はない。その前に、両国がその無理に気付いてくれればよいと思っている。現在の日本に対する執拗な感情的な攻撃は、彼らにとって、同じ東洋の精神文化があるから例外だとどこかで思ってきている節があるが、限度があることを知ってもらいたいものだ。

 (続く)


日韓関係と他の諸外国関係との異質性  第一編

2013年06月21日 11時05分55秒 | 私の「時事評論」

  

 近くて遠いが気になる国 

 

 時を逸した随想は無用のものになる。先月以来、何度も書き始めては中絶。そんな事情ではもう時効、わが記録としてだけでも残さんと思い記した文のなれの果てである。書かんとしたのは、簡単には親しくなれそうもない永遠の課題である日本と韓国(そして中国)との関係についてである。

 日本は韓国や周辺の国々に対しては、明治以来、大急ぎで身に付けた西欧理論や契約概念だけでは通用しない関係にあると覚悟せねばなるまい。とくにこれらの国とは、論争して理屈で言い争って勝ってみたところで、理屈とは別次元の感情対立の問題がその底にあるということを覚悟せねばなるまい。夫婦喧嘩をした二人に、仲裁をしてくれた人があって、不承不承に対立の根が取れた場合にどうなるかを想定する。また、円満で相思相愛の夫婦に戻れるか、そんな場合とよく似た関係を思い浮かべればよいだろう。

 

 現代の我が国民の思考は浅い。論で勝敗が決まれば心地よく友好関係が回復するような安易な誤解を持っている。国防論議などで話し合えば紛糾もが解決するとのマスコミや社民党などが常用する理屈がまかり通っているが、それは人間に感情がなく、機械のように方程式だけで動くと思いこんでいる空想論としか言いようがない。大切なのは、言い争った結果の決着よりも、むしろ両当事者が、親しくしなければならぬと思う感情が持てるかどうかの方が大きい。戦後の日本と韓国や中国の間には、日本から見れば、いままで何度も約束をして踏みにじられた思いが募っているが、それは条約や契約が彼らにとって日本と今後は親しく協力していこうとの思いを生みださなかったからに他ならない。どうやればそんな気分になるか、その方が大切なのだ。

 契約はどんな時でも守る。日本がその思いを相手にしっかり理解させないと、理屈で何度契約を重ねても意味がない。論理が決定的な武器になるとあまり評価してはいけない。教科書や書物だけで知識を得た人間には、気力と論理の重さを比較できない弱さがある。

 論理は人間の文明が生み出した道具にすぎない。精神や感情の基準にはなかなかならないものだ。隣接した異集団の共存関係や縄張り、そんなものは条約の概念もない動物集団の間にだってある。用は共存していかなければならないと思う環境なのだ。

 

 加えて、日本人には生来、穏やかな共存を望む文化的意識があるが、明治以来の日本が教科書で丸覚えしたようにして身に付けた論理には、上辺だけの輸入品である弱さがある。よその花を摘んできても、木に竹を接ぐようなことをしただけでは身について育たない。文明は人が生み出した作物であるなら、摘んできた花や実の姿だけを見ずに、その根も茎も、土のにおいまでも含めたものにしなければ力のこもった本物にはならない。

 

 日本が明治以来、取得した西欧文化には、とくに心や体臭がないことも忘れてはならない。それでも明治の時代には、日本は「和魂洋才」とのスローガンを立て、西欧から移入した異国文明を日本土壌に根付かせようと努力してきた。だから維新の創始者たちは、日本がいくら西欧技術を取り入れたとしても、その心の基本の土壌から西欧文化思想になる必要は感じていなかった。日本には独自に数千年かけて培ってきた大切な文明土壌があることを維新の先覚者たちは知っていて、その土壌を生き残らせるために欧米技術を道具として導入し、固有の日本文化の武装を試みたのだ。

 だが残念なことに、これは後に続く者、教えられて育ったには充分に理解されなかった。維新ののちに日本の大量に派遣した西欧文明摂取者及びその教えを受けた者たちは、ただ摘み取った花や実の華やかな姿のみに目を奪われ、それが西欧という土壌に咲いていることも理解せず、持ち帰っても日本の気質に合わせて育てるのを見落としてしまった。

 書籍などで覚えるだけで、香りも味もない表面だけの知識を習うだけ、文明の底の深さを無視した知識で、上辺だけを習っただけで現代科学技術を完全に吸収したと思った連中ばかりになった日本。西欧の本などをいくら読んでも、西欧の文化が、苦しみを乗り越えて西欧の共通の土壌を作ってきた背景などには触れていない。しかもその文化が、共通の価値観や思想・宗教を抱く者たちの間にだけは寛容で、その他の者には厳しく接する土壌に育っていることにも触れていない。日本は学ぼうとする西欧にとって、むしろ西欧が発展するために、従来利用してきた仲間たちが住む文化ではなく異郷なのだ。

 それをわきまえず彼らと接し、何度か契約を無視され煮え湯を飲まされたのが明治以来の日本の歴史だ。しかもその上に戦って敗れて、大人しく西欧文明に従って、そのために奉仕していればよいといわんばかりの憲法までを押し付けられ、半世紀以上その教えに従ってきたことも忘れてはならない。

 

 こんな環境自体を理解して、明治以来、在野の者と政府(知識人と思っているもの)の作り上げた文明をこれからでも、日本文化の土壌の上に移植して元気に育てるのが我々のやるべきことだと私は思っている。

 しかも、明治いらい、国を挙げて将来の道を模索したのは、当時残念ながら日本だけだった。それは日本という国が、様々な条件に恵まれて継続的に天皇のまつりを精神的柱として、独特の文化を中断させずに育てたからだろう。日本には失ってはならない文化があった。だがそんな時流には関係なく、アジアの韓国や中国の政府・そしてそこに生きる国民意識は、旧態依然の周りを読まない文化の中にいた。

 いまの日韓、あるいは日中関係には、そんな文化の違いも存在している。中国にとっても韓国にとっても、日本は昔ながらの中国が中心でその出先の国が韓国で、そのまた先が日本だとの潜在的中華思想が生きている。

 

 そんな前提の上に、根底に共通の文明の原則がないのに、日本は西欧国際常識に基づく条約などを結び、日本は条約を結べばこれで事態は解決するだろうと周辺国にも対応してきたが、ここは西欧ではなく中華思想や朝貢貿易で生きてきた東洋だということを見落としてしまった。ここにはキリスト教文明の土壌もなければ、西欧諸国のように、契約ではあっても、一度した条約は守ることに互いが努力しなければ、決定的に国は潰れるとの認識もない。

 

 (以下次号)


永久に仲良くして前を向かない

2013年05月11日 21時37分37秒 | 私の「時事評論」

なんとも非常識で子供じみた幼稚さだといわれるかもしれないが、最近目立つのは西欧と日本の周辺国・韓国や中国、それにプラスしてわが国も含めた国々で交わされている論争の質的な食い違い、迷惑なのだが、どうにもならない思いです。
私のFacebookにも書いたことですが、日本に対する中国や韓国の先の大戦までの歴史観の押し付けなどはその代表的な例です。その見方がよいか悪いかなどに関して今回は言っているのではないが、思いこまれたらもう、それで我が国はどうにもならない。おそらくこのままでは、大きな突発事件でも起こらぬ限り、日本は何をしても責められ続けることでしょう。

人間、そして国家同士の関係などには、お互いに対立して戦争をしたり、激しく憎みあったりしたことが歴史には数えきれないほどあったのは事実です。歴史なのだから、過去の問題は消しようがない。
そんな過去が累積し、何度も互いに苦しんできた西欧などでは、戦後処理によって決着がついた問題に関しては、いつまでも恨みあって過去を引きずって対立するのではなく、それはそれで決着してお互いに大人として将来を向こうとする。


ところがこの東アジアでの日本に対する周辺諸国にはそれがないようです。千年でも恨みとおすぞといった調子でそんな主張を繰り返すから逆に西欧などからの信用を失い、逆に常識のない駄々っ子だとして相手にされなくなる。


安倍首相のホームページに、そんな日本や中国に対してのフランスの指揮者の辛らつな評が出ていたので、それを紹介して
http://ashizujimusyo.com/newpag153.html
というブログを発表しました。

すると今度は、韓国人がイタリアのある商品が日本の旭日旗のデザインを使っているというので、戦争犯罪を肯定しているという抗議をしたとのニュースです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130510-00000008-jct-soci&1368189526

 どこかがおかしい。ちょっと考えてみたい問題だと思い、この欄にも紹介しておきます。これでは決して前を向いて歩けない。


世界遺産の蛇足として一言

2013年05月04日 11時35分44秒 | 私の「時事評論」


昨日は鎌倉が世界遺産から外され、富士山のほうが推挙されたことを鎌倉に住む立場から書いたものを紹介したが、鎌倉で世界遺産への動きの末端に加わっていた流鏑馬グループとしては、まんざらでもない情報を付け加えておこう。
富士山には、富士山本宮をはじめ、この山を御神体と仰ぐ浅間神社がたくさんあるが、その中では最古のものとされる旧県社の富士御室浅間神社がある。山梨県側の富士吉田口登山道二合目に奥宮があり、ふもとの川口湖畔に里宮があるが、ここ里宮での流鏑馬まつりは我々弓馬会の武田流が御奉仕している。
 なんでも平将門の乱を平定した藤原秀郷が帰路、お礼にこの神社に奉納した流鏑馬を復活させた。それにはここが武田信玄公の祈願所だった故実にちなんで、我々武田流の流鏑馬にお声がかかったと聞いているが、毎年4月29日に奉納される。
 そんなご縁もあって、我々としては、奉納する神様・富士山の此花さくや姫大神にはお祝いの言葉を謹んで申し上げねばなるまい。

鎌倉市 世界遺産の推薦ならず

2013年05月02日 18時37分55秒 | 私の「時事評論」
そんなにがっかりせぬが良い

 「武家の古都」として世界遺産の登録申請に地元鎌倉市、神奈川県や文化庁までが協力して運動を展開、「おそらく指定は間違いないだろう」と関係者は期待していた鎌倉市がユネスコの諮問機関・国際記念物遺跡会議(イコモス)指定対象答申から外れた。同時に指定を申請していた富士山は、めでたく指定対象に内定し、悲喜こもごもといった様相を呈している。
 国内の下馬評では、「富士山」より「鎌倉市」のほうが指定に距離が近いのではないかなどという声も強かった。富士山の環境は登山者の放置するごみで荒れているが、鎌倉市は数年前から指定に向けて、放置ゴミの減少や環境整備に自治体も熱心で、多くの民間団体が加わって協力しているし、市内の道路標識や案内板の整理だけではなく、最近大きな話題になっている将来予想される大地震や津波の襲来による観光客の避難などにも精一杯の努力をして、避難経路の道標まで整備を続けている。かねてより指摘されていた公衆トイレの不足や休憩者用ベンチなども鋭意整備を進めている。指定する環境としては整備の程度は高い。しかもここ鎌倉は日本人には憧れに似た感情で知られており、訪れる観光客も一年を通して多い。世界遺産に指定されたらあれもやろう、これもやろうなどとの準備も進められ、内定発表の日を心待ちにしていた今回の答申だった。

 欠けていた世界的視野か

 だが、世界遺産の指定をするのは日本の機関ではない。そこに通用する視野は世界の目から見た著名度だ。その点を取り上げれば、やはり鎌倉は現段階では国際的にはローカルで富士山より知名度は劣っていたといえるだろうか。「指定の基準が年々厳しくなっている」「申請の意図が十分理解されなかった」などとの声も聞かれるが、愚痴を言っても仕方がなかろう。イコモスと日本側の視点のずれも大きいとみなければなるまい。
 鎌倉は日本国内では評判が高い観光地だ。しかも最近は急速に増え、おそらく鎌倉に観光に訪れる人は全国観光地でも最も多いところになっているようだ。鎌倉に住んでいて、ほかの観光地などを訪れて比較すると、私自身、鎌倉の観光客の多さと急増ぶりには呆れさせられるほどだ。鎌倉幕府の時代以来、周りは山と海に囲まれた要衝の地であることは立地条件だから変更もできず、現代では道路などは細くて交通の難所となっている。平日でも市内の主要道路や観光道路は、鎌倉に遊びに見える方々であふれ返り、車はもちろん、満足に歩道も歩けぬ状況だ。それは私が毎日欠かしていない散歩にも、歩行時間にプラスして若干の渋滞による待機時間を加えねばならないほどの厳しさである。
 加えて鎌倉には首都東京の高級ベットタウンとして発展したためか、必要以上に近在の人々の憧れが強い。ペンマンや学者、芸術家など文化人の集まる街として、住まいを持つ街として著名でもある。海と山に囲まれて景色の良い街、昔ながらの寺宮の多い街、しかも東京から近い街、様々な魅力が重なっていて、観光客が集まる街となっている。
 そして鎌倉の観光客には特徴がある。それは鎌倉には様々な人を引き付ける面があるため、日帰りでの気軽な観光客が多いためだ。往復の電車賃だけでは観光はできまいが、東京から鎌倉までは千円札一枚でおつりがくる近さである魅力がある。
 これは観光客が気軽にやってくるが、気軽に訪れる観光客は夕方には早々と引き上げるという特徴も伴っている。土曜日曜の観光客の動向を見ると、土曜は日暮れまではまだ散策者の姿があるが、日曜などは夕方からごっそり引き揚げてしまい、夕刻前に鎌倉は閑散としてくる。その急変ぶりはここの海岸の潮の満ち引きのようだ。一泊する宿、じっくり腰を据えて夜に楽しむ酒を出す店などは極めて少なく、観光客相手の商店などは、日がまだ明るいうちに店を閉め、市内はまるでゴーストタウンのようになってしまう。夜は東京から帰ってきた人々に入れ替わるが、所詮は彼らは寝に帰るだけの街になる。鶴岡八幡宮や長谷観音、大仏などには最近多くの外国人観光客も増えたが、大型バスに乗ってきてぞろぞろ観光を済ませては夕刻前には姿を消して、箱根などの温泉地や、東京・横浜などで一泊という人が多い。
 散漫に話をこれ以上するのはやめよう。世界遺産の推薦をした国際機関・ユネスコの関係者は観光ににぎわう街であることは分かるが、「古都」という歴史を感じさせるのは市内の寺宮だけで、それを感じさせる雰囲気が市内全体に満ちているという雰囲気ではない、と関係者は語ったと報道されている。私はそれを見て「図星であり、的を射た表現だ」と思った。
 鎌倉時代からの歴史の継続を寺宮以外の街のどこに見るのか。鎌倉は観光地としては日本有数のところではあるが、寺宮以外のどこにそれは見られるのだろうか。日本人の中にある明治以来の積み重なった「鎌倉」への魅力と、外国人の見る「鎌倉の歴史の重み」とはどこかちぐはぐな感がしないでもない。鎌倉は先にあげたような日本人の描く様々な要素が組み合わされた日本の観光地なのではないだろうか。

 一時断絶を経験した鎌倉の市街

 歴史の記述によって鎌倉を眺めてみよう。鎌倉を居所にしていた源義朝の息子・頼朝が天下を統一して武家政権として12世紀に初めて鎌倉に幕府を置いた当時、鎌倉の人口は急速に膨れ上がり、一説によると30万人にも達したという。現在の鎌倉市は周辺の旧鎌倉以外の場所を統合して昔の倍ほどの広さになったが、それでも人口は17万人。大変な人口密集地であったことが分かる。
 だがそんな鎌倉も、幕府が移った後は急速にさびれ、閑散とした地域になった。江戸時代末期には寺宮の他には、鎌倉の谷戸(谷間)の各地に数百戸の家が建つ寒村になり、一帯が松や雑木林、雑草の繁茂する状態だったという。だが明治時代になって首都が東京に移り、東海道線とその支線ともいうべき横須賀線がここまで東京からおよそ一時間で結んでから、東京至近で環境に優れ冬暖かく夏は涼しい当地に家族の居所や避暑・避寒の別荘などを建てる人が増えて、再び都会地としての体裁を整えたことが分かる。
 旧市内には、明治以降、とくに大正末期以降の建物が大半を占め、道路にはまるで竹藪のように電柱が立ち並び、ユネスコのイコモスでなくとも、武家政権とは一味違う歴史の断絶を感ずるのが当然と言えるかもしれない。
 私自身も昭和の初期(14年)に鎌倉に移ってきた男であり、当時から鎌倉駅から1キロほど離れた長谷の地区・原の台という僅かに駅より小高い旧市内で少年時代からいままで過ごしたが、ここから駅まで、はるかに未開の草原地帯が広がっていたのを思い出す。
 歴史の断絶。これは明らかなようだ。鎌倉幕府の時代にできた寺や宮、そのほかの当時をしのぶ「偲び草」は山と海に囲まれた要衝の地を守るため、当時七口と言われた鎌倉に細い峠を越えてはいることのできたそれぞれの山を削った切り通しに設けられた侵入を防ぐ武士の塹壕などの跡や、合戦の首塚や膨大な当時の墓の跡ぐらいなものである。町は度重なる当時の合戦で焼けてしまったし、海には海路で輸送基地を作るため、投げ込まれた膨大な量の波消し用の玉石、現代のテトラポットの中世版ぐらいのものだ。

 大切なのは物ばかりではない

 世界遺産という言葉を単純に聞くと、どうしても何か断絶してしまった往時をしのぶ遺跡などに目が行きそうな気になってくる。古代エジプトのピラミッド、スフィンクス、ペルーのマチュピチュ、古代ギリシャ・ローマの遺跡からアンコールワット、万里の長城、こんなものがすでに広く知れ渡っているのが原因なのかもしれない。風景資源は別として、建造物は石ばかりで、それは石が残りやすいものだからだろう。最近は木造建造物なども取り入れられて、世界資産そのものに対する視野も変わりつつあるようだが、石の遺物にはもう、そのものに対する信仰も人々の日常性も消えうせ、中には作った民族さえいなくなってしまった信仰の消えてしまった宗教施設などが多いのも特徴だ。
 だから私は、本来ならば「世界遺産」というものに対して我も我もと名乗り出る現代日本の風潮に対してはかなり懐疑的だ。とくに日本の信仰施設などは木造のものが多く、人々の現代の暮らしと精神的に結びついて生きている。信仰の過去のものにされたものと一緒にされたくはない。
 だが、この鎌倉の世界遺産騒ぎには巻き込まれてしまった。というのも、私はここ鎌倉に本拠を置く流鏑馬(やぶさめ)という伝統神事を鎌倉時代の古式にならって奉納しようと日夜習練しているグループに30年近く関わってきている。私自身は「頼朝以来の古式にならい、武士道と神道を精神的基本として、俗念を捨ててそれを現代に生かす」ことが、現代日本の精神の再構築に必要だと信じて、その精神性の追求にまで目を向けて流鏑馬に関わってきたつもりなのだが、それが鎌倉の団体であり、鎌倉での神前奉納が中心であったために、ついつい協力して動いてきてしまったのが現実である。イコモスとは立場が違いそうだが、報道によれば、ものの見方として「鎌倉全体の歴史的普遍的価値が証明できない」という評が聞かれるようだ。そんな評を受けた鎌倉としては、この流鏑馬などは、周辺住民や鎌倉に来る人と歴史の価値を共有する数少ない連結器だったような気がするが、それが存分に認められなかったことも今回の結果なのだし、それは力不足と反省もしているところでもある。
 鎌倉市が、推薦した文化庁がこれからどう動くのかはわからない。何でも世界遺産は、一度申請して却下されたら、二度と申し出ることはできないことになっているのだそうだ。
 結論が公表される前に申請を取り下げて出直すか、それともこの申請以外のところで活動展開を狙うのか。これは国や自治体などが決めることだろうし私らの出る幕ではない。
 ただ、私としては、こんなことで騒ぎたくない。大切なのは骨董的な価値ばかりではない、もっと我々は本質にある精神性を掘り下げ、それを表現できる精進だと思っている。流鏑馬だけでも、神道精神、頼朝精神、それをしっかり基本にしたものにすること、そんな応援に集中したいと思っている。それこそ鎌倉の持つ歴史的普遍性・価値観を高めることにも、結果的にはつながるのではないだろうか。

腹が立つ韓国の内政干渉

2013年04月23日 22時50分47秒 | 私の「時事評論」
 お断りしておきます。FACEBOOKの転載です。

 安倍首相の靖国神社例祭への玉ぐし奉納、麻生副首相以下閣僚の参拝、ほかにも多くの国会議員がいるというので、韓国がわいわい言っていますね。
 韓国外相訪中を辞めるとか、いろいろと日本批判の発言をするものが出てくるとか。もう来なくていいよというのが率直な意見です。
 今更ながらこんなことを言ってもどうにもならないかもしれないが、内政も国交もけじめなき、こんなレベルの低い行動はいい加減にしてほしいと思いますね。隣国にいるのが恥ずかしいし迷惑です。
 よその国の連中が独立国の行動に対して、その国の中で、思うがままに行動をすることにケチをつけ、自分らのいいなりに発言したり思わないことに文句を言う。こんな連中に気を遣っていたら、日本はいつまでたってもまともな国になりませんよね。日本の政治家の靖国神社参拝が、北朝鮮の脅威と同じ種類のものだとは、まさか思っているのではないでしょうね。
 こんなことに問題を感ずる連中には、日本が独立国であり、韓国の属国ではないという日本のほこりなどは通じないんでしょうね。
 靖国神社は国(日本国)の主権行動のために国家の意思(個人意志ではないですよ)で戦って戦死した英霊に、その人にも個人としてはやりたいこともあったろうに、結果として殺してしまった国が「平和な時代ならそんなことはなかったことだろうに、おしいことをしてしまった」と悔やみ、亡くなった人に敬意を表するために設けた施設で、それ以外の問題はありません。国の制度が今、どうなっているか、祭神の中にイデオロギーや経歴を見て、何万分の一か、こくみんの統一された見解がまとまらない人がまつられているかいないかなどの見解のわかれがあるないかの論争が国内にはあるが、それは万分の一以下の例外であるとして別として、独立国として、国が持っていないことがおかしい施設なのです。
 日本人の祖国独立の大切さを守るためには、国は国民の一部の生命をを犠牲にしても国の独立とその他の人間を守らねばならない。独立維持のためには、命を失うこともあるというのが国の悲しい定めなのであって、靖国神社はそんな愛国心の象徴です。
 それは祭神個人の意志とは別次元の存在です。国が「祖国の独立」は尊いという意識を高める施設であって、どこどことの対立がよかった悪かったなどという政治判断は含まれないし、そんな低次元の崇敬施設ではない。
 だが、日本が敗戦以来、おかしな卑屈な姿勢を取ったことに付け込まれたのか、彼らだって言われれば自国も同じ英霊顕彰施設を持っているのに、、それも無視した馬鹿な近隣諸国が、公私のけじめ、国内と国外の立場の違いなどをもわきまえずに日本人が靖国神社を参拝するだけで騒ぎ、日本国内にも同じような偏見に流れる「国というもの」の尊厳もわからぬものがいるから、国に準じた英霊に対して、国も国民も彼らが自分の好みで死んだような取り扱いをしなければならなくなってしまっている。
 こうなれば、戦う以外にはないと思うのも一理あります。だがそれほどの決意もないのが日本の現状です。せめて日本はそんなことを言う国に対しては、鎖国でもしたほうがよいのではないでしょうか。

運転免許更新高齢者講習を受けて

2013年04月20日 17時37分05秒 | 私の「時事評論」


 忍び寄る老化どころではない

 運転免許の期限切れが目の前に迫った。実は自家用車は息子一家が我が家に転入してきたのを機会にすでに処分した。三年前、彼らが同居してすぐの時期、老妻と乳飲み子の相孫を乗せて、通い慣れた鎌倉市内の目抜き通りの三差路を右折するとき、雑な運転で車の右腹をぶつけ、そうそうあれは初めての高齢者講習を受け、免許を更新した直後に己が老化を知らされた最初の事態だった。知りたくない、そして認めたくないのだが、事故を起こして私は自分が忍び寄る老化現象にすっかり侵されている現実を痛切に知らされた。
 それまではあまり事故もなく運転を続け、30年間無事故無違反で県知事表彰まで貰った私だ。それがこの時、やっちゃったのだ。前方の信号では、車の流れが円滑に流れずに一信号で一台か二台しか左折できない。その先の車が思うように進めず入り込めないのだ。そこで信号直前まで左折しようと、細い一方通行の道路の交差点直前で左の車幅を大きくとり準備していたのを、とっさに右折の裏道から帰ろうと変更し、確認をいい加減に安易に右折、右の後輪付近を視線の下にある、頑丈な歩行者向けの鉄の柱にぶつけてしまった。ガツンと音がしたのに驚いたが、面倒なのでさらに前に進んで抜けようとして大きな損傷。

 息子一家はここから二時間ほど高速道や渋滞道を通り、東京郊外の旧武蔵野・多摩川沿いの団地にあった。そこまで昨秋に彼らの引っ越しが決まって以来、毎週週金曜の夕方と日曜夕方には往復していたのであまり老化による不注意の増加の意識はなかった。一家が引っ越しの荷物整理ができるように、小学校入学を前にした長男の孫や、今回同乗させていた生まれたばかりの息子を預かるために往復していたのだ。だが、自分に忍び寄る避けられない影はどこかで意識していて、注意をしているつもりだったのだが、ほんの目の前の駅裏の買い物だという気の緩みが、背後に影響していたように思う。

 私はそれまでは自分の足代わりにしていた車を手放し、ただ免許証があるので息子や嫁が駅まで行くのに同乗してそこから家まで戻ってくる帰路や、どうにも運転を頼めないときの臨時の買い物運転などに限って、息子たちの車を借用するだけで三年を過ごしていた。

 そこにやってきた今回の免許切れだ。もう本格的な運転をしようとは思っていなかったが、大家族で過ごしていて、娘も二人近所にいて、彼女等も頻繁に駅から我が家にやってくる。息子夫婦もここ鎌倉に慣れてきたし、嫁さんのストレス解消にも、スープの冷めない同じ市内にセカンドハウスでも設けて、ときには「鬼の居ないところでの息抜き」も欲しいというので、緊急時の運転をもう三年だけは、免許証の更新だけはやってみるかと考えて老人講習に参加した。

 恐ろしい変化

 だが結果は自分にとって驚かされる状況だった。一口で言うと、三年の間にここまで人間の体は老化するのか。それを痛感させられるものだった。講習は満70を超えた老人に義務化されている。認知症など、口は悪いが「ボケ検査」というもの、視力がまともかという「眼の検査」、それに運転に耐えられる「反応検査」ともいう機械を使ったシュミレーションテストという三本の柱が中心で、それに自動車教習所が会場だから、そこで運転の実技を再確認して終了する。
 「呆けテスト」16枚の絵を次々に見せる。そのあとすぐにはテストせず、数字を並べた表を見せて、そこから指定した複数の数字をチェックするテストをして、それが終わったところで先ほどの絵をどこまで思い出せることができるかという二つのテスト。
 数字のチェックは簡単だった。時間のうちにすべてが終了。次の順不同であっても良いから16枚が何の絵だったかという思い出しテストも、次いでそれらの絵のうちの乗り物は何だったか、果物は何だったか、楽器は何だったかという書き込みテストも、何とかす一つ少ない15問だけは書くには書けたが、なんとどちらも一つずつの図柄が思い出せないではないか。ど忘れというか、私の日常生活を振り返っても、思い出そうとすればただそう思って焦るだけで、いよいよその記憶がその場では浮かばない。それは確実に脳の老化ということなのだろうが、痛感させられるものであった。帰ってきたテストの結果は、これだけは5段階評価の5になっていたが、採点が良ければ安心というものではない。時間が残ってしまっても思い出そうとすると頭が固まる、自分の年齢が痛感された。そうだ、この誕生日、私は77(数え)の喜寿の年だ。長寿祝いは数え年でする。頭の柔軟性にもどこかくたびれが出ているのだな。
 視力、とくに動体視力や反応テストはひどいものだった。眼が確実に悪くなっている。眼鏡の度も合わなくなった。一週間前に角膜に傷がついて眼医者に行って、いま角膜を保護する粘膜を点眼している。反応テストの条件を間違えて、テスト中に気がついて修正した。弁解しようとすればいろんな条件も重なったが、教習所の教官は「大丈夫ですよ。これなら通りますよ。ただ、眼鏡の度だけはできれば調整しておいた方が良いですね」などと言ってくれるのだが、3年前と比較して、その進行ぶりに愕然とした。

もうやめた方が良いな

 物理的に免許を更新することは可能だろう。だが、ここでの免許の更新は良いのだろうか悪いのだろうか。考えさせられう数時間であった。
 私は一人で生きているのではない。人が集まり協力し合う社会の中で暮らしている。その中で、こんな不安を持っていることを承知して、それでも免許を更新してよいのだろうか。不注意に子どもが路地から飛び出してきた時にどれだけ対応できるだろう。二つ三つの危険な条件が重なった時に、どれだけ機敏に正確に動けるか。
 いま、自分の周辺で起こった経験が、何やら「いい加減にあきらめろよ」との神の暗示であるような気がしてくる。大体、眼の中に入れても痛くない孫息子を乗せながら、三年前にミスをした。あれだってもう、運転をやめろよという暗示だったのではないか。この講習の直前に、朝方急に目が痛くなって、慌てて眼科に診断に行った。どうしたことか、私は眼科が大の苦手で、この年になるまで、進んで眼医者に行ったことはないし、目薬を注そうと思っても眼を開けられない臆病者だ。それが迷わず眼医者にかけ込まなければならない気になったあの痛みは何だったのか。「もうやめておけ」との暗示と受け止めるべきなのではないか。
 あと誕生日までは一週間、おそらく免許の更新は諦めることにするだろう。いくら免許証など持っていても、夜などすれ違った直後の動体視力などは、呆れるほどに低下している。年よりはハンドルを持つよりも、夜の晩酌を楽しんで、ゆっくり過ごすのに適している。どうしても動かなければならないのならタクシーを呼べばよい。
 高い高齢者呼び講習だった。だが、免許更新を諦めたら、なんだかスッと肩の荷が取れたような気になった。

基本となるのは日本の精神気流復古

2013年04月11日 21時08分27秒 | 私の「時事評論」

  
葦津泰國

 はじめに
四宮正貴編集長の求めに応じて、雑誌『伝統と革新』11号に掲載した原稿です。校正の段階で数行書き換えましたが、私の思いをストレートに出しているものであり、しかも発売後なので紹介しておきます。

 神道指令に伴う紀元節の廃止

 二月十一日「建国記念の日」。日本が米軍の占領下におかれたときに、米国国務省が戦時中から準備してきた対日占領に関する日本弱体化政策に沿って、軍の武装解除を完了し、抵抗できない環境が完成するや発令したものに「神道指令」があった。米国は、日本の神道と天皇制、神話に基づく民族の連帯意識を消し去り、国が再びまとまって行動できないバラバラな集団にする準備をしていたのだ。指令で我が国の社会が捨てさせられたのが、国の誕生日「紀元節」であった。日本最古の史書『日本書紀』に、初代神武天皇が即位された経過が記されている。この時以来、日本は二千六百年という長い歴史を、国民全体の「まつり主」である天皇を中心として生きてきた誇りを捨てさせられた。キリスト教思想を基礎に成り立つ米国には、認める対象ではなかったのだ。
 米国の対日占領は、将来にわたる日本の戦闘力も完全に奪い去ることを目的にしていた。それには生産力や経済力を徹底破壊するだけでは足りない。日本人の精神文化そのものを破壊し、日本人のから西欧文化と異質なプライドを消し去ってしまおうと考えた。それは日本を胸を張って世界の強国に復活させないための施策でもあった。日本軍の解体の他に、「憲法や皇室法の改定、日本人の精神の基礎である神道の弾圧」も取り入れられた。軍の解体以外のこの種の行為はは国際法で戦勝国に禁じた行為であり、うわべだけ西欧を学んだ形式主義の日本政府の関係者や法学者などは、「想定外」と思っていたものだった。

 敗戦と同時に一人対米戦を覚悟した男

 だがここに、戦時中から独特の政治活動をしてきた一人の反骨の民間人がいた。彼は敗戦の必然を知り、ポツダム宣言などから米国が、日本の精神破壊を目標に計画的に占領を行うと確信していた。葦津珍彦という当時三十代の私の父である。肉親の父親の話を公の場で記すのは気が進まない面もあるが、父は開戦までは、日本が伝統的日本文化の美風を失い、西欧的な帝国主義へ傾いていくのに猛反対、国会でビラをまいたり地下出版を続けるなど激しく政府に食いつき、戦時中は無条件降伏になる前に早期和戦をすべきだと訴え続けていた。日本も帝国主義化して日米対決になった対米戦争には、日本にも言い分はあるが、戦は時期的力学的に見ても敗戦必至の亡国の道になると訴え、憲兵や特高に追われながらも活動していた。彼は伝統的日本土着精神を愛する頭山満はじめ在野の実力者に可愛がられ、政府内でも閣僚や軍上層部、外交官、官庁の幹部、それに新聞社の幹部の一部などから私的には好意と便宜を受けていて、軍や政府が逮捕しようとしても、巧みに逃げて、なかなか捕まらない。背後で見守る人々の好意もあって、戦局の生々しい情報も知っていた。彼は、日本が敗れたのちの占領行政は、まず日本軍の戦闘力を完全に奪い去り、次いで日本の政治構造、国民の精神構造の徹底的破壊を進めてくる。対象は天皇・神道・憲法を柱とするものになるだろう。相手は軍だ。作戦としての占領行政は迅速に進められる。その前に先手を取って全国の神社を残し、皇室を中心とした日本の精神文化を守らねばならない。そう戦後の抵抗の第一歩を決意した。自分は民間の一人の若者にすぎない。ただ代々の神職の家で育ったため、先祖の残してくれた人縁がある。それを活用してまず神社界を守ろう。神社が残れば日本人の心の中に、皇室を中心に守り伝えてきた精神気風が残り、やがてまた日本文化の再生も可能になるだろう。
 覚悟を決めた彼は父や祖父の友人であった神職の長老はじめ神社人に説いて急速に民間の全国神社の団体である神社本庁を作ることから占領政策対抗の準備を進めたが、その道半ばで追いかけるように「神道指令」が発表された。数日遅れれば、潰される極めて危ない環境での必死の対応であった。父はよく私に、「俺の対米戦争は終戦から始めった」と苦笑したが、苦心して神社本庁設立の後は、その活動を評価した神社界の幹部から、組織の目となり口となる機関紙・神社新報社を全面的に任された。
 葦津は戦時中から彼を大切に見守ってくれた人々などに応援されて、天皇制や神道の擁護者として懸命に働いた。だが廃止させられた紀元節がその二十年後に「建国記念の日」として復活されると身体を壊していたので退職し、第一線から退いた。だが平成五年に、天皇陛下の御代変りも過ぎ、それを見届けるまで自ら筆を執り続け、また若者たちの指導に当たって生涯を終えた。

 占領中にともに戦った男たち

 葦津が神社をいち早く、神社を国から離れた民間の統一組織にまとめたのは、占領中の抵抗の足場を作ることになった。占領軍が神社を国を使って規制しようとする試みは神社本庁という組織が中に加わり、命令が円滑に伝達できない規約などで武装していたので成功せず、日本側の予想しない間に突然指令を出して神社をバラバラな組織に分裂させようという目標も不可能にした。新設された神社本庁のもとに、用心深く、「紀元節の復活」をはじめ様々なことを将来復活させる活動を準備する道が開けた。
 紀元節の復活に努力をまずはじめたのは神職の有志、その最先端は神社新報の記者たち、神社新報の別組織に集まっていた先輩たちだった。それはまだ、GHQが神社への参拝などに厳しい規制を加えている占領の最も厳しいときから、合法・非合法の手段を尽くして展開され始めた。
 この日本版レジスタンスの由緒ある新聞社に、私は縁もあったので先輩たちに勧められて入社、途中からだが自分の生涯の働き場として生涯をささげてきた。そんな私にとっては、紀元節(建国記念の日)は、他のいくつかの運動とともに、格別に重みを感ずる記念日である。
 「紀元節」廃止の当時、私はまだ小学生であったが、渋谷の神社本庁ビルの片隅の部屋で、作戦の指導を受ける先輩たちの姿を覚えている。古い旧日本軍の外套などを着て、当時米軍総司令部(GHQ)を訪れた新報の記者は、「占領解除の後は、まず紀元節を復活させたい」と公言して憚らなかった。これにはGHQのスタッフたちも、「お前たちはいったいこの占領から何を学んだのだ」と絶句し怒りの表情を隠さなかったそうだが、彼らは屈伏させられない論を持ち、米軍支配の時代を逆転させる捨石になろうとの信念を持っていたので、ひるまずに取材を続けたという。彼らの中には軍の指導教官だった者もいた。彼らの指導を受け、後輩の戦友は戦場で戦死した。学徒出陣し、特攻隊の出撃順番を待つ間に敗戦を迎えた者もいた。靖国神社で戦友たちが待っている。記者の中にはそんな経験者も多く、生き残ってしまった自分は、これからどうしたらよいかと、神社本庁ビルに葦津を訪ねてきて、そのまま記者になった者もいた。

 土民の首狩り宗教に国際法は適用されない

 米国の占領政策は明白に国際法から逸脱していた。そのため、国際法を当然守るべき原則としていた日本政府や法学者たちは、「よもや先進文明国の米軍がここまで乱暴な違法行為はしないだろう」とタカをくくっているうちに、守るべきものの殆どを失う形となったのは先に触れた。西欧知識を身につけた日本の「自称インテリ」層の多くは、本で読んで知識を頭だけで身につけたような連中だった。うわべだけの西欧を習い、基礎にある彼らの生活観や規律や気風を歴史を見て学ぶほど、深く西欧を見ていなかった。西欧人が共通信仰をもつ者には寛容でも、異教徒や無神論者に対しては冷酷に無視又は敵視するのが当然とする感覚でいるなどとは、どの本にも書いてない。もっとも日本が戦争に敗れた時は時代の転換期で、これ以降の世界情勢は、国際法への順守意識が極めて希薄になっているといわねばならなくなってきているが。
 国際法の浅い理解は占領軍にも共通していた。神道指令や憲法改定の違法性を神社新報に突かれると反論に窮し、「国際法上の戦勝国の禁止条項は、お互いに文明国同士の場合に適応されるもの。首狩り習俗の宗教を持つ土民の文明には適応されない」などとうそぶき、だから我々は「日本を文明国並みに民主主義化してやったのだ」などと勝てば官軍、何をやっても良いのだと言わんばかりに応答した。拙父と占領軍民間情報局のバンス氏との応酬で、新報社員には忘れることのできない言葉が語り継がれている。摂父もよほど頭に来たのだろう。そののち新報社から『土民のことば』という著書を発行した。「土民なら土民でもよい。土民らしく堂々と世界に生きようではないか」というプライドががその背景に流れている。だがこんな米軍であったが、さすがに神社新報は弾圧すべき対象の機関紙ではあっても新聞社だ。その「思想の自由」を無視して、公然と弾圧処罰しそれが世界に広まるのは、占領が世界中に「民主主義の徹底のため」と自称しているだけに、避けねばならなかったのだと思われた。渋谷で活動した記者や有志の中から、逮捕者は出なかった。

 蛇足になるが、少しここで米軍の日本文化の読み違いに一筆しよう。米軍は兵力や資源もなく西欧的合理主義からみれば、抵抗は無意味と思う状況でも、「全滅」「万歳突撃」「特攻攻撃」などを含めて戦意を失わずに戦い散って行く日本人の力の根源・「大和魂」は、狂信的な国家宗教・神道に基づく独裁的な天皇制の強制があり、武士道の延長線上の行動でもある」などと愚かにも確信していたようだ。だが戦争を指導した軍や政府の教育を受けた幹部たちは一応除外して、大半の国民は妻や子、両親など家族や同胞を戦禍の犠牲から守るため、己を捨てて戦ったのが事実だ。しかも彼らの大部分は伝統の武士の出身ではなく、明治期までは地域の内戦にも加わったことのない赤紙で応召された平民だった。一般の国民は武士道には縁薄く、当時の指導者層のように、西欧知識などにも縁は遠い。ごく平凡な日本人だった。数千年以上続いた農耕や漁業中心の集団生活の中で、協力し合い家庭や集落を大切に生き、毎年村を挙げて「五穀豊穣」を祈り、社会の決まりや秩序を大事に生きてきた。そして神々に、代々己を捨てて祈り続ける帝を慕い「浦安の国」を念じ続けてきた人々(常民)だった。米国が的を射た占領政策をするのなら、明治以降の日本の知識人の中にはびこった、うわべだけの西欧文明への憧れから、髪が黒く顔は黄色くても自分らも帝国主義化しなければならぬと突っ走った欧米追従の知識人の知識の浅さを再教育して、本来は穏やかで平和を好む集団である日本人の文化を暴走させない教育をしたほうが利口だったのではないかと愚考する。命がけで抵抗する日本人を見て、戦闘力旺盛な戦闘的恐るべき民族と勘違いした際には「窮鼠猫を食む」という現象を想起すべきであった。
 相手の文化をしっかり見て対応することは大切である。日本での占領行政が成功したのは、国民が尊崇する陛下が、「耐えがたきを耐えて復興せよ」との証書を出され、率先占領政策に従われたからだ。米国は、なぜ占領が日本では成功したのかの分析ができず、日本で行った占領政策と似たようなことをその後も世界で実施してことごとく失敗した。この文明理解の見間違いが二十世紀以降の米国の諸外国への占領政策をことごとく挫折させた原因となったと私は見ている。

 明治以降の日本の文化

 西欧植民地抗争が熾烈を極めた江戸時代、日本も西欧諸国の圧力で鎖国を続けられない環境となり、維新を断行して国際社会の一員となった。進んだ西欧の「技術や知識」を取り入れて、西欧白人国家が中心である世界に仲間入りして独立を確保せねばならない時代になったと判断をした。日本は「和魂洋才」の大原則を掲げて西欧技術をも積極的に取り入れることになり、西欧白人の寡占状態であった世界地図に、有色人種の伝統的な文化を持った独立国として生き残ろうと決断した。これが明治以降の大雑把な歴史である。
 だが日本の西欧列強の独占する社会への食い込みは、当然西欧白人諸国の反発を受ける。人種差別の意識や文明の異質性など、従来にはなかった問題も生まれる。その摩擦の中で理想を求めて日本の苦しんできた歴史は、明治以降の外交史を一読するだけで分かる。日本の敗戦後、多くの非白人の国家が世界で活躍するようになったが、これは我が国の敗戦ののちにその影響として世界が変わった結果であるといえる。
 だが日本と西欧との間には、そればかりではない。西欧技術を急速に取り入れようとした日本にも大きな混乱を生んだ。日本文化の継続のために西欧技術を習得に行った者の多くが、華々しく見える西欧近代文明に幻惑されて日本を忘れた西欧文化の礼賛者になってしまったことだった。「和魂洋才」を国是とした日本が、国が期待した人々によって、浅薄な西欧理解に基づく「洋魂洋才」の国になってしまったのだ。
 そんな傾向は日本の知識人とされた政治家・軍人・官僚・学者・新聞人・教師・技術者・言論人の間に特に強くなり、一般国民の意識とは合わない方向に国が動き始めた。国民には「和魂洋才」の国是は生き続けていて、在野の民間人には国民の支持のもと、維新の精神で外国とも接しようとする日本人も多く存在し、日本旧来の社会意識が国民底辺に定着しているのに拘らず、国の方針がこれと少しずつ離れていくような現象がだんだん顕著になってきた。アジア外交などでは同じ日本の在野の活動家と西欧を模倣した国とが反対に動く場面なども見られるようになった。
 日本が「和魂洋才」の大原則を失いかけた結果が大戦に発展し、昭和の敗戦を迎えてしまったのは、そんな結果だと考えている。また、在来の日本の知識人なら、敗戦を迎えてもすぐ戦勝国にすり寄って、祖国の文化をつぶそうとするようなものはほとんど出てこないだろう。だが日本の戦後はそんな風には進まなかった。そしてその弊害が、いまの我が国の社会問題の種となっている。

 政治の表面だけを追いかけてもダメだ

 話を紀元節に戻そう。日本人を精神的に骨抜きにするには、占領軍も紀元節の禁止を大切な柱に据えたし、日本の精神文化を取り戻そうとした先輩方も、この復活を足掛かりに日本の復活を夢見た。紀元節は占領中の片山内閣時代の世論調査でも、存続を望む国民が九割を超し、「民主的」とのポーズを示したかった占領軍が、拒否権を使って排除せざるを得なかった記念日だった。
 「紀元節」復活を望む先輩方はその復活を占領解除後に求めた。だがこの日は占領解除とともには復活はしなかった。与野党政治の駆け引きの道具にされて祝日法は通らず、この日が「建国記念の日」として祝日に復帰したのは昭和四十二年の暮れであった。
 日本人の心を失った国会議員のため、建国記念の日として紀元節は遅れに遅れてようやく成立したが、国民の大切に思う精神回復の決議が国会での与野党の政治取引の道具にされて何年もつぶされ結局は見送りになるるという悪しき慣例の基礎ともなった。こんな傾向はその後も続き、「靖国神社」法案は廃案を重ねている間に復活を強く望む遺族たちは次々に死亡し、その後に新たな問題も起こって、いまだに手がつけられていない。
 それでも私はこの日には必ずどこかの奉祝大会や祭典に顔を出すことにしている。神社の紀元節祭や様々な奉祝大会に参列するが、どこでも集会は神前や特設祭壇で「紀元節祭」、皇居と神武天皇即位の地橿原を遙拝、文部省が明治時代に官報に乗せた「紀元節奉唱歌」を歌い、戦後に占領軍に実質的に押し付けられた憲法の改正、愛国心の涵養、国防力の強化、戦後の変更教育の是正などが声明として採択されたり決議される。それらの一つ一つを取り上げれば、どれも政治的に大切なことだと思うし、熱心に集う若い人たちの姿に、将来への期待を感じはする。
 特に最近は戦後政治が様々な面で行き詰まりの様相を示し、日本はバラバラだと甘く見る風潮が周辺国に強まってきたからか、国民一人一人が「こんなことで日本には将来があるのだろうか」との不安の意識も高まって、いままではどこか上滑りの感を与えてきた「自主憲法の制定」の問題や、日本人の集団意識を解体することのために教育をしているような「教育の正常化」などの問題にもうまくすれば実現できそうな気配も見えてきた。掲げられたそれらの課題は現在日本の政治上の体制を一つ一つ変えていくことは、続けていきたいものである。
 だが、それだけを私らが進めようとするだけで、果たしてこれで日本という国は我々が夢見た浦安の国、人々が睦みあう国になるのだろうか。一抹の不安を持って式場を後にすることが多い。

 政治制度を変え、法律を作るだけでよいのか

 それは今の日本があの終戦直後の世論調査の際のように九割を超す国民の支持に支えられ、あるいは昭和二十七年の講和条約の締結直後のように、三分の二を超す人々が靖国神社の国家護持の復活を求める請願に署名するような環境にいま、日本国があるとは思えない状況に私がいるからではないか。法は政治の規律であり、政治は国民生活の一部にすぎない。私は日本の社会が、いつの間にか従来の美しい心を失い、道徳も消えかけている国になってきているのが気になってならない。
 世界には立派な憲法条文を持つ国も、良き政治制度を持った国もたくさんある。だが、それだけを見てその国を評価するわけにはいかない。法律・政治の制度は大切なものだ。だが国の文化そのものは、そんな部分だけではないのを忘れてはならない。住み良い国になるためには、ここに住む人々、我が国でいえば日本人がどんな精神で生き、日本の文化を作り上げていくかだと思う。それが今、問われていると思う。
 私は日本という国が断絶ない歴史を重ね、その間に代を重ねてきた途方もない数の先祖たちが、一粒一粒の砂粒を積み重ねて作り上げてきた日本文化が大好きである。それはあの大鍾乳洞の石灰岩の柱が、一滴一滴の水滴がもたらすわずかな石灰質が何千何万年も積み重なって見上げる高さの輝く石柱になったように、日本人の先祖たちの思いが積もり積もって出来上がっているもので、祖先からの思いが積み重ねられて生きている何にも代えがたい日本の宝である。
 時まさに現代文明は、自然とは征服の対象であるという基本姿勢を基にした、あるいは一人ひとりの個人の独立を第一としてきた西欧文明の思想だけでは加速度的に発展を遂げた人間の文明が、人類破滅へと急転換するのではないかとの危機感が急速に強まり始めた時期でもある。そんな中で人類文明が生き残る道は、私は日本文明の持つ自然と調和して生きる精神的姿勢を取り入れる以外にないのではないかと思っている。
 地球で生きているのは人間ばかりではない。動物や植物、あらゆるものが懸命に生きている。山も川も海も石もそれぞれに存在を主張しているし、天候も気象も生きている。日本の文明はそんな前提に立ち、それらの万物、すべてに霊(命)がありその背後には神性があるとして、その調和の中に我々も暮さねばならないと思って生きるのが神道だ。また、人間同士は一人一人はささやかな能力しかないが、祖先が子孫を思い、夫が妻を思い子を思い、隣人から集落、国家を思い、お互いに心を配り、結びあい、協力し合う精神で連帯していくことが大切だと考えるのが日本文化の特徴だ。そんな思いが人々の間に様々な道徳や秩序を生み、まつりが生まれ、まつり主ができ、日本文化が形成された。
 いまこそ日本の文化が世界に役に立つものを提供する時代になったのではないか。私は同じ文化を世界に作れと言っているのではない。ただ、こんな我々の発想の中から、世界の文明が何かを学んでほしいと思っている。

東北大震災から二年過ぎ(下)

2013年04月02日 20時54分34秒 | 私の「時事評論」

 西欧の自然観と我が国の自然観

 今回の東北地方の大震災を見て、我々日本人の現在の意識が、従来の日本人の持っていたそれと比べて、いかに浅い上面だけのものになってしまっているかを痛感させられたのは私だけではあるまい。それは現代の日本人が、従来体質的に身につけてきた自然に対する恐れや慎みの意識を忘れ、自然を整復し、ともすれば対決的になりやすい西欧的知識にいつしか組み込まれてきていることに始まっていると思う。
 前回にも触れたことだが、あの地震が起きた後、東北東関東の被災地においても、今回程度の大津波が何度かあったことは、日本の文献や伝承に明瞭に残されている。その中で最も特徴的で、記録の詳しいものは貞観11年(869)、陸奥の国に大地震と津波の記録だ。時の清和天皇はこの報に接し、天災が起こるのは己が罪だと自然を掌る神々のお怒りと慎み恐れて、神社への祀りを徹底して行われ、その罪は我にあり民にはないとして、復旧に力を入れられた。その陛下のお姿を見て、藤原良房以下当時の官僚たちは、それは陛下だけの罪ではない。我々民にも自然を掌られる神々への慎み惧れが足りなかったのだろうと、自分の俸禄の減額を申し出、被災地救済に力を入れた。この地震の一部始終や多くの記録が日本の史書(三代実録)などに残されている。
 天皇のご姿勢、そして国に仕える百官の公務員たちの気持ち、それは現在の公務員や学者・専門家たちの姿勢とは全く違う。だが近代の学者たちは、西欧の技術のみに的を絞り、我が国の貴重な記録などは軽視して、自らがこの種の震災にどう接するかの気持ちも忘れて進んできてしまった。

 「想定外」の言葉の持つ意味

 これは現代日本の大きな欠陥であると思う。西欧を先進国とみて、西欧のみを見て日本の歴史を見ようとしない傾向が今では強く、その弊害は日本の各部門に出ている。地震や津波に対する対応も、ほとんどが関東大震災以降の西欧的統計数値のあるものだけに絞られ、これに基づき避難法などが練られてきた。こんな発想をして、全体を見ようとしてこなかった学者たちは、今回の災害に「想定外」という言葉を連発している。だが、その背後には西欧の自然科学のみに依存し、日本の歴史を軽視してそれで良しとしてきた彼らの頭の固い「想定の偏向」がある。「想定外」とは、専門家と称する者の視野が狭かったことを糊塗する無責任な弁だと知るべきである。
 明治維新ののち、一国だけで鎖国の夢を追って生きていけないと知り、国際社会に生きて独自の国柄を維持していく覚悟をした日本は、「和魂洋才」を基本的姿勢にして今後は進んでいくことにした。西欧の最新技術も存分に取り入れながら、精神面、国民生活の意識においては、大いに日本らしさを生かして日本文化の個性を保持していこうと決断したのだが、いつしか西欧技術の前に日本の文化意識を見失ってしまい、西欧に礼賛してかぶれてしまった。こんな日本の新知識人によって、いつの間にか日本は伝統軽視、西欧追従の形になってしまった。
 先にも触れたように、日本文明はこの世界を「万物の調和の下での共存」を基本として出来上がっており、この世の中にあるあらゆるものは、我々人間と同様に、すべての動植物から石や海山川、風雨や空気が価値のある大切なものであり、人はそのことを忘れずに、また仲間同士で協力し合って生きていかなければならない」との基本姿勢に立っている。そんな思いから「すべてのものには皆、霊性があり、それを掌る神がいるとする神道が文明と価値のある大切なものであり、人はそのことを忘れずに協力し合って生きていかなければならない」との基本姿勢に立っている。そんなすべてを掌る神がいると大切にする神道的感覚が文明と不離一体になって継承されてきている。

 西欧では自然は挑戦し克服する対象

 西欧の学問はキリスト教の旧約聖書を基礎にして自然に対して「人間が挑戦し征服する相手」ととらえる発想で成り立っている。それは日本と西欧の人々の歴史的な複雑な相違から生じたものだが、厳しい自然に対しても、完全と勇気をもって立ち向かい、これを征服することによって自らの存在を主張するというのが精神的基礎にあるといえるだろう。集団を重んずるわが文明よりも、多くの民族が共存していたため、人の発想がどうしても一つの宗教の信者に絞られて、自立した個人を追及する文明精神の上に成り立っているが、それでも最近はかなりの異教徒間の広がりも出てきた。
 そんな違いに対する前提の認識もなく、西欧の産業革命以来の素晴らしく発展した技術の発展を状況を見てあこがれて、己たちの積み重ねてきたものを忘れて暴走してしまったのが我が国の専門家や公務員など、いわゆる日本の知識人と自認する者には多い。その軽薄さが露骨に表に出てしまったのが今回の地震・洪水騒動であった。
 だが、その西欧文明の積極果敢な自然に対する勇気は評価するとしても、現実的にそれでは人間がどれだけの力を持って自然そのものと対抗するだけの力を持つことになったのかは冷静に知らねばならない。
 地球上では異常気象といわれるような現象が繰り返される。水害ですべてを流される事故、旱魃で農作物が全滅する事態、台風や竜巻、地震、津波・・・・。異常な生物の突然の発生、地球上にはこの種の我々人類にとっての予想もできない事態はいつ起こるかは分からない。だが人間はまだ、それらから身を守るためにあらかじめ天気予報や地震予知などで被害を事前に予知することもできないし、ましてや台風ひとつ、そのコースを変えることなどまだまだ当分できそうにない。
 自然のもたらす災害に対しては、人間のエネルギーではとても「征服」などできるものではない。人間と大自然、その持つ力はあまりにも違いすぎる。そうなれば、我々は傲慢な力を持って自然の威力を押しつぶすより、その膨大なエネルギーの前に、我々がいかに被害を受けずに生き延びて、ほんの少しずつであっても、治山治水に努力して、環境を住み易いものにするために自然を汚す水や空気を浄化して、いま、急速に増加しつつある人間の営みのもたらす地球汚染の累積が、人類そのものの将来の絶滅から逃れうるかに努力する以外にないのではないだろうか。そうなればその結果は、西欧文明で行こうとしても、日本が今まで自然そのものに霊性があり上がいるとして、その神々のために祭りを欠かさず、神を敬い、また神を畏れて生きていくという方針と同じ道を歩む以外にないのではないだろうか。
 私が決して「和魂洋才」の精神を日本人は忘れてはならないと主張する根拠はここにある。

 今回の東北大震災に向かって主張したいところ
 
 二年前に起こった東北・東関東大震災に対しても、私はあの清和天皇の同地に起こった震災に対する基本姿勢を基に、全国民が協力してことに当たる純粋な精神姿勢を維持するべきだと考えている。そして恐れ多いことだが、天皇陛下の報道されるご日常を漏れ聞くに、陛下はあの時の帝と同様のご姿勢で、地震からの民の生活回復を祈り続けておられるのを感ずる。今上陛下のこれらの災害に対するご姿勢は、中越大地震においても、関西大震災においても、その他の災害においても変わらないし、これは日本国の歴史とともに、代々続いてきた日本国統合のまつり主として少しも変化することがなく続いてきている。
 問題はそのもとに行政を担当する役に就いていた百官の役人たち(政府や地方の公務員、政治家や専門家と称する集団を含む)の精神姿勢、そして国民たちの取り組みである。貞観地震のあの時のように藤原良房以下時の官僚たちが、自らの報酬を辞退してでも、一刻も早く津波や震災に襲われた地帯の原状回復に身命を賭して打ち込んでいるのだろうか。それを見て企業や国民が「震災の解決がなければ日本の明日がない」との思いを共有して震災復興にすべてに優先して取り組んでいるのだろうか。どこまでの復興を持って良しとするのか、どの程度の耐震・対津波対策を立てて、それ以上はどのような対応をするのかなど、具体的なことにまでは触れない。科学技術は1200年前とは比較にならないように進んでいる。それに応じて耐震・対津波対策も相当当時からは発達している。情報量なども比較にならない。そんなものに基づいて精一杯に進めるべきだろう。一刻も早い、避難している被災者たちが再び集まり、明日に向かって明るい笑顔をして和やかに働ける郷土の復活、明るい笑顔のあふれる被災地への復活を望むものである。

 最後に原発について

 今回の東北大津波に関して、我々が最も大きな反省をしなければならないのは原子力発電所のもたらした処理不可能な事態への収拾策である。まき散らされた放射能は現代の科学技術では完全に回収して無害化できないものである。汚染処理などという作業が進められているが、それは危険な放射能を含む物質をかき集めるだけで、まだ集めたものの無害化はできず、また除染などと言って水で洗えば最終的にその水はその水は海中にまき散らされるなど、やはり放射能を含んだまま拡散される。人類はまだこの放射能の無害化技術を発見していないのだ。それなのに、なぜこんな状況で原子力発電所を開発したのか。こんな決断は人類文明にとってなんの理解もない許されぬ暴挙であったと私は思っている。
 いままでに人類はフッ素ガス、アスベストを始め様々な有害物質など、放置すれば人類文明を破壊する恐れのあるものが出てくると、国はそれらを次々に製造禁止にした。それなのに、なぜ原子力発電所から出る危険な放射能物質が比較できないほどに有害であることを知りながら、これを実用に供することにしたのか。
 「電力需要があるからやむを得ない措置であった」という説明は論理の整合性が立たない。「いま、贅沢をしたいから、子供や孫の名で膨大な借金を作って遊び歩く」というのとよく似ている文明の将来を考えない弁解だ。残留放射能の安全な消去技術が開発されてから原発利用は北朝鮮のミサイルや今回のような地震や津波に対しても万全な対応措置を固めてのちにいうべき言葉であると私は思う。
 福島原発の放射能が消えるまでは、たとえ鉄筋コンクリートに密閉して保管をしておいても、密閉容器の耐久寿命のほうが短く、膨大な放射能物質があふれ出る危険性があるし、これは全国にある既存の原子力発電所にも共通する問題である。
 また、私は神道人である。日本人はすべてのものは神々が作られた大切なもので、それらは神々の感謝して大切に使わせていただいて、使用ののちには立派に元の姿に復元してお返しするのが常識だとの精神で暮らしている。だが、放射能物質は神々がお認めになる大地の資産といえるものだろうか。また、今回もなかなか原状に回復できない放射能に汚染された国土も、大切なその土地を見守られる神々の統べられるわが日本の領土である。それを人も住めない荒野にして放置する。これが神々のお気持ちに沿うことなのだろうか。天かける神々ばかりではない。そこには大切な我々の先祖の墓もある。先祖が子孫のために残した鎮守や美しかった田や畑もある。美しい山や海や川もある。神々は我々に御利益を与えてくださるだけのものではない。我々の行い次第では大きな神罰をもおあたえになるものであることも忘れてはならないと思う。

東北大震災から二年過ぎ(上)

2013年04月02日 20時43分45秒 | 私の「時事評論」


 天皇陛下と東北大震災

 先月、あの東北地方を中心に襲った大地震と、それに伴う巨大津波から二年目の記念日が過ぎた。災害に遭った各地、被災者が疎開する避難地、首都東京で多くの殉難者の慰霊祭があり、早期復興が誓われた。東京の国立劇場での慰霊祭には天皇・皇后の両陛下も臨席され、犠牲者の標柱の前に深い哀悼の意を表明された。
 天皇陛下は、現憲法では国政には関与できないことになっている。国政の責任を担うのは政府をはじめ国・県・市町村などで、とくにそれを束ねるのは首相の責任となる。だが式場での陛下は、災害の責任はすべて御自ら背負いになっておられるとの沈痛なご表情で、痛切な哀悼の言葉を述べられた。国のすべてを背おわれる「祀り主」としての伝統のお立場は、悠久の歴史の中のほんの一時、しかも一部分を律するにすぎない憲法などで定められた軽いものではない。そのことは全国民が知っていて、陛下のお言葉には被災者に対し、未曾有の災害からの救助のために懸命に復旧の作業に励む人々に対し、心からの励ましのお気持ちが込められていて人々の心を打った。
 今回の震災の一部始終を、外から眺めた外国の人々が最も強く感じたのは、あの驚天動地の大災害の中でも、日本人が蜘蛛の子を散らすように我がちに四散するのではなく、秩序を乱さずに行動したことであった。日本人の歴史文明の中で長い間に培われてきた行動方式は国民に遺伝因子のようにしっかりしみ込んでいて、緊急の事態に日本人らしい進退をはっきり示す。これは世界の他の異文化の地には見られない特徴だと外国人記者などは驚嘆して世界に伝えた。震災の報に接して天皇陛下が被災者に対してお述べになった言葉は、全国民を被災者救済へ力を合わさせるものになったし、被災地をお見舞いになった陛下のお姿は、何よりの被災者たちへの励ましとなった。首相はじめ政府関係者たちに対しては取り囲んで、遅々として進まぬ救済に苦情や罵声を挙げていた同じ被災者たちが、陛下のお見舞いには涙して感激する。これを見て、日本人が昔も今も、変わらぬ日本人であり、片片たる憲法や法制度の変更などでは変わらぬものであることを実感させられた。
 戦後の日本は憲法や法制度などを中心に大きく変わり異質の国になったなどと述べるものは国内にも多い。だが、戦後70年も経過して、現在の陛下と国民の間には、数千年も続いてきた同じ心がいまも生き続けていることが明瞭に示された。こんな日本の姿を見ずして、地につかない空想的復興策を練ってみたところで日本国の円滑な運営はできない。言葉を代えるならば、政治や行政も、その日本人である意識を軽んじて70年間歩んできたが、その空回りした復興策が、早急な成果を上げるのを遅らせる結果になっていると言えるのではなかろうか。
 顧みれば関東大震災で首都近辺が壊滅状態になった時、その復興の先頭にたたれたのは当時摂政の宮であられた昭和天皇であった。あらゆることに優先して復興に進まれる陛下、そのけん引力によって日本は素晴らしいスピードで事態を乗り越えることができた。関東大震災での死亡や行方不明者は10万5千人、その大変は火災による焼死者だったが、津波も神奈川県などで10メートルにも達し、1000人を超す津波による死亡・不明者を出した。それでも政府は全力を復興に当て、この震災が特に焼死者の多かった事実を見て、都市災害に強い街づくりを中心に、内外にも国債を大量に発行せざるを得なかったが災害強い都市づくりを基本に大英断を持って進められ、その復興の姿が今の東京の基礎となった。復興計画は震災直後から後藤新平など多くの指揮官の将来の都市つくりの基本プランに沿って進められたが、災害の悲しく暗い思いを転換させるにも、それを超えて人々に希望を持たせる未来への設計図は必要だ。それが示されたのが大きな力になり、陛下がだれよりも早期復興を願っておられるというお姿が復興を可能にした、これに比べて今回の震災直後、政治はお互いの批判合戦に終始し、復興計画には、国としての将来の東北発展の青写真も復興計画もはっきりせず、しかも放射能汚染といういつ解決するかも分らぬ危険は手をつけられずに放置されたままで進められている。これで災害を受けた人々に明るい気持ちを持たせることができるのか。どうも未来への期待も希望も感ぜられないような気がしてならない。
 
復旧できるものできないもの

 大津波から二年が経過したが、被災地からは、復興が遅々として進まない情報が続々と伝えられ、被災者ばかりではなく、全国民の心を暗く沈んだものにしている。日本という国はそこに住む人々が心をつなぎ合って、苦楽をともにしながら築き上げてきた共同して助け合うことを基本にした国である。避難のために四方に散っている東北地方の人々が震災前の故郷に戻り、希望を持ち明るい気持ちで心から楽しみ、日々を建設的に暮らすことができない限り、日本はこの災害を乗り越えることができたとは言えないだろう。いまでは昔住んでいた地域に、まとまって住む土地さえ確保されていない状況だが、そこに人々が戻ってきて、再び人々の明るい共同社会が復興されて、はじめて震災の爪痕が埋まったと見るのが常識だろう。
 今回の復旧には時間がかかりすぎている。全国の人々、さらには外国の人々までが被災者の救助、被災者の立ち直りの資金募集などに協力をした。応援の手は世界中に広まった。だが、そんな善意はどのような形で生かされたのだろう。私もささやかで取るに足らないものかもしれないが精一杯の協賛をしたし、復興支援協賛のためのイベントなどにも積極的に加わって集めた資金を自治体などに提供をした。国自身も膨大な応援をしたのだと思う。だが現在の被災地の光景を見て、一体それらはどこに消えてしまったのかと、ため息をつきたい思いでいる。
 復興には、同胞たちの支援、諸外国の応援も生かされて、もっと効率的にかつ迅速に効果的に当たらねばならない。もたもたした姿ばかりが目についてならない。聞くに、従来のままの状態に復興しようと、最低限度の復興を目指しても、集まった資金はまともに振り向けてはもらえずに、中間にいる役所などが「書式や制度などが整わず、合理的な再建企画に合わない」などと言って滞ってしまっていると聞く。善意の資金が官庁の定めた将来の復興計画に、「有効て使えるか」などとの会議費や会合費などに使われてしまったり、災害復興とは直接つながらない部門に費消されたりして、存分に被災者の復興に活用されていないとのニュースも多い。これでは行政がこれでは復興を阻害しているといわれても仕方がない現状ではないか。
 どうすればよいのか。災害には復興できるものとできないものがある。あの大震災、とくにそれに伴って起こった大津波において、行くえ不明者を含む二万人の尊い人命が失われた。これなどは復興できないものの最たるものである。犠牲者には多くの子供たちや老人が含まれている上に、自分だけなら逃れることができたのに、同胞・仲間たちの避難を進めるために命を失った人柱も多い。だがこれらの命はもう、冷たいようだが以前に戻すことができないものだ。これに対しては、そんな人たちが生きていたら、おそらく全力で助けようとしただろう遺族たちの世話を行政が負担して、応援するだけでやむを得ないとする以外にない。そんな部分に支援の資金が使われることには意義はない。
 ただ、それだけでは足りない。次にはそのような犠牲者が増えないように、今回の犠牲の教訓から現段階でなしうる最低限度の教訓を学び、次の災害で急増して増えることのない対応策を固めて、次には現在も30数万人もいるといわれる避難被災避難者の一刻も早い故郷復帰を図りながら、東北復興の未来に向けた青写真を即刻立てて取り組むべきなのではないだろうか。
 地震や津波に襲われた被災地には以前にも勝る活気ある街を作り、そこで人々の明るい営みを再興させる策に万全を期すことだ第一だ。併せて、次に災害が襲ってくるときには、どう対応するかの、災害の程度に合わせた準備にも手をつけておかねばなるまい。

 どこに防御の節目を作るか

 そう思うのだが、いまでも津波の被災地は閑散とした膨大な原野が広がっている。再びあの大津波が押し寄せてきたらどうするか。これを考えるのは大切だ。ただその対応策にのみ時間がかかり、街の復興にまでブレーキがかかっているような現状をどうするか。考慮しなければならない問題が多い。
 今回、東北を襲った大津波は、ところによっては山を越す30メートル、40メートルの高さに達したという。そんなものを防ぐ防波堤などを完璧に作るプランを立てようとしたら、日本領土の沿岸は、見上げるような防波堤で取り囲まれてしまい、国土全体がまるで監獄のように殺風景なものになってしまう。それに第一、そんな大工事をするだけの原材料も資金もない。それを延々と協議する間待てというのか。これに関して、今回の地震や津波では「想定外」という無責任な言葉が政治家や関係学者の間で流行した。この言葉は無責任以外の何物でもない。災害に対しては、数年に一度程度は起こるもの、100年に一度程度は起こるもの、数百年に一度程度起こりうるものなどの程度に応じた対応策を「想定」し、それぞれに応じた対応を準備しておくのが行政の義務だと思う。
 特定の限界をもうけてでも、一刻も早い、そして災害にも耐える街づくりをして、直ちに対応方針は定められなければならない。そこの明るい暮らしを復旧するためには、数年に一度クラスまでの津波防御策を良く調べ、それらに加えて台風、高波などへは安全な機能を復活させ、まずその対応策を立てるべきだ。そして一生のうちに一度あるかどうかわからないそれ以上の大津波に対しては、避難体制をしっかり固め、避難道路の整備をするなどの順部が求められるだろう。加えて、老人や子供など避難弱者には、それ以上の事態がやってきて、万一彼らが不幸に流されても、攻めて命だけは安全なライフジャケットなどを要所に配備して、一日でも早い復興を期すべきであると思う。



 今回の大津波に際しても、調べてみると、海面からはそれほど標高は高くないところでも、被害に遭わなかった地域も多い。昔からの神社などが多く被害から免れて残っているし、古い集落が新しい住宅より津波の被害が明らかに小さい。津波の跡をつぶさに見ると、我々の知識は、先祖たちの知識にはるかに及ばなくなってしまっていたことを痛いほどに知らされる気がする。先祖たちの歴史には、その長さ故に蓄積された知恵が込められている。日本人は最近、身近にあるもの、郷土の歴史がかたりかけようとしているものを無視して、西欧科学知識にのみ依存して、それらの語りかけるものを無視しすぎたのではないか。
 対応策には、そんな我が国の歴史の知恵も生かすべきだと思う。
 また今回の津波では、津波による水死者が他の死者に比べて圧倒的に多かった。それらの死者を増やさない最も簡便な方法は、ライフジャケットの活用である。ライフジャケットというと首をかしげる人も多いと思うが、あの飛行機や船には座席の数だけ用意され、それをつけていれば水が来ると自然に膨れて水に浮き、しかも頭が水面上に出て、装備されている無線機で数日にわたり浮いている場所を発信続け、救助の人に救助を促す。これを装備していれば、8割9割の人が助かることは統計的に確かめられていて、しかも費用は一着当たり数千円の代物だ。これを学校や病院、養護施設をはじめ各家庭に装備しておけば、命だけは助けることができるのではないか。
 他にも、災害ごとに様々な工夫も浮かぶことだろう。
(次回に続く)


「閑話休題」 水難用ライフジャケットがやっと子供の手に

2013年03月05日 23時43分02秒 | 私の「時事評論」





 津波を想定していなかったわが町

 先日、孫が通っている小学校の父兄通信を何気なく見ていたら、そこにライフジャケットが子供たちに贈られた話が出ていた。息子は鎌倉市の第一小学校在学中、学校は鶴岡八幡宮から、源頼朝が妻・政子のために設けたという由比ガ浜海岸にまっすぐ延びる太い参道・段鬘(だんかづら)を海に向かって一直線に進む途中、一の鳥居のすぐそばにある。段鬘は太い国道の真ん中が神社へ参拝する人専用の桜並木の参道になっていて、その両側を車は左右に分かれて通る。真ん中は参拝者専用に使用した通常の道路とは一味違った参道だ。こんな参道は一キロほど、鎌倉駅の手前で終わるが、そこから二キロ近く、太い国道が一直線に昔の砂浜の後を海岸まで通じている
 鎌倉は東西、北を重なる山に囲まれ、その山から海までの狭い平地を、この参道を中心に街づくりされている。問題の小学校は大きな津波がやってきたならまず、そこを通過することが避けられない、以前は海岸から砂浜が続いていた地域にあり、昔からの様々の地震や津波に関する伝承なども多い地域だ。中には未確認の話もあるが
 そこで二年前の東北地震の時、震度5を超す自信が来たのだが、驚いたことに、学校では子供たちを校庭に集めて地震がおさまるのを待機させた。津波など、全く想定していなかったのだ。学校はほとんど海面から高くないしかも付近を川が流れる土地にある。しかも低い手いつなので、時々来る台風の高潮の時には、直ぐ横の滑川は増水し、私の記憶する豪雨のたびに学校付近は冠水し、床上浸水などの被害が続出する。震災の津波に関しても、この近辺が襲われたという古伝承もいくつかある。しかも海は湾になった一番奥で、右と左から戻る波を加えて、もっとも危険といわれる地形なのだ。もう60年も前になるが、私も私の弟たちもこの小学校に通い、津波の話はたびたび聞いていた。
 校舎は最近、鉄筋三階建てに改修されたが、わざわざ子供たちは校舎の屋上ではなく、最も津波に弱い校庭に集められていたのは、関係者はまったく津波など予想もしなかったのだろう。
 その話を聞き、そしてテレビでは、同時に起こった東北の激しい津波の話を見て聞いて、鎌倉に運よく津波のこなかった幸を思うと同時に、何とかしなければこのままでは次の震災はどうなるだろうと深刻に思った。

 東北津波の話に胸痛め

 ここまでが前段階の話である。実は私は今回の津波に襲われた南会津に極めて親しい後輩がいる。これからの日本、そしてこれからの世界を思い、なんとか浦安の世界を実現しようと地道な活動をしているグループのリーダーで、私のところには毎月のようにやってきては、私の話を聞き、聞くだけでなく実践活動を展開している。
 彼らは砂漠の中近東の地で、自分らの手で緑豊かな大地に復活することを夢見、何十年も前から現地でコツコツと活動し、自分らで開発した機械で海の水を淡水化し、その粘り強く堅実な働きで中近東アラブの世界で大きな信用を得、アラブの王族や指導者たちから絶大な信用を得るまでになったグループのリーダーだ。その活躍の中心はアラブのオマーン国とその周辺に広がっている。彼らは現地の指導者たちに、「現在の日本はエコノミックアニマルといわれて、すっかり商人になってしまい、商売のやり方などもえげつなく、決してきれいではなくなってしまったが、君らは日本の文化にはぐくまれた『武士道文化』を持つグループだ」と評価されて信頼され、格別な待遇を受けている。
 そんなグループの指導者が良く私のところにやってきては、日本人の心を世界に認めてもらうのにはどうすべきか、と、数年前から通ってきてくれている。
 私は私の思う通りの日本文化論、集団で生きる日本民族論、日本人の理想観、明治維新に際して先人たちが考えた日本人の求めるものなどを語り、オマーンからたびたびやってくる彼らから、逆に貴重な話を聞き、またときには素晴らしいプレゼントや珍味なども頂いたりして、その活動に微力ながら協力をさせていただいていた。
 そんな訪問者の彼は東北・南会津の出身者、そこには彼を支える協力者がたくさんいる。彼自身、今回の震災で、とくに津波で壊滅的な被害を受けた地域の出身者であり被災者でもある。彼は砂漠の緑化活動などにも、東北のまじめな中小企業者が工夫を重ねて作成した塩水から真水を作り出す機械などをコツコツと利用して、オマーンはじめ周辺の砂漠を再び緑の大地に戻し、農園を作り、時の王侯貴族を始め人々に高い信頼を得ていた。
 その彼が私に震災後会いに来て、力を込めて話したことの一つが、ライフジャケットの話だった。
 東北の津波は、想像をはるかに超える大きなものだった。防波堤を作ろうといっても、あんなものにやられない防波堤を作ったら、東北地方全体が監獄のようなコンクリートの壁の中に入ってしまう。今回の震災で、とくに津波で東北は大きな被害を受けたが、彼も本気で地元ばかりではなく周辺の震災の跡を見て回り、大きな被害が出たのを見て真剣に考えた。せめてあの災害の中から、人の命だけでも助かる方法はなかったのだろうか。
 そして思いついたのがライフジャケットの各地への整備だった。飛行機や船などには必ず積んであるあれ、あれさえつけていれば、必ず津波でも体が浮き、身につけたジャケットの発する電波が数日間は被害者の存在を救助隊へ知らせ続ける。カタログ通り全員ではなくとも、8割以上のものは確実に救助ができる。
 しかもライフジャケットは数千円(3000円少々)のもので、なんと日本の東北や北陸地方で世界中に出すものが作られている。東北は日本漁業の中心地でもあったからだろうか。いま産業が壊滅状態にある東北で、これを増産して日本中の津波に危険な地域の、せめて子どもたちや老人たちに配布したら、何十年もかけて何百兆円の防波堤を作るまで待たなくとも、数十分の一以下の資金投下で日本人の生命の防災機能は格段と高まるし、それを東北でつければ、東北地方の産業もこれで大きく元気が付く。
 彼は東北の被災関係地を見て回り、その中には事前にジャケットを準備していたところ、これを機会に準備することにしたところなどの話をし、この話をしたら、彼の活動の本拠地オマーンの王侯たちも、「日本を再び明治維新当時の活気ある国にするお役に立てば」と、進んで協力する話になったという報告だった。

 首都圏の鎌倉でやろう

 私は彼と、彼の地元にである南会津に救援活動に行ったこの鎌倉のボランティアたち、そして鎌倉の市長にこのことを伝えた。津波の危険も高く、観光地としても名高い鎌倉でこんな運動のはしりができたら、それが大きな展開のきっかけになるのではないか。
 オマーンの国や大使館も大いに賛成し、まずは数百着のライフジャケットを鎌倉市に提供したいと申し出て、一昨年の秋には大使館がわざわざ鎌倉市長を招いて贈呈式と激励のレセプションを開いてくれた。市長も、まず鎌倉から、そして相模湾沿岸の諸都市にもこの動きを広げたい、と積極的姿勢を示してくれた。
  だが、話はその後消えたようになってしまっていた。
 「やっぱり今の我が国の行政機構では、市民のための本気の安全策などは進まないのか」
 「あのライフジャケットはどうなってしまったのだろう」
などと思っていたら、ここにきて、ちょっと話が変わった形にゆがめられてはいるが、ライフジャケットを子供たちに配る話が初めて表に出た。読むと学校近辺の有志の方から寄贈を受けたと書いてある。そうなると、オマーンの小学校への寄贈と話が別のもののようにも見える。オマーン国の王様以下の日本にかける思い、それに懸命にその実現に努力した私の友人などの話は出てきていない。
 それは彼らの情熱を知る私としては残念だが、私はそれでも良い話だと思う。彼らも立派な武士たちだ。日本にもまだ「武士がいる」と信じて動いてくれた人々だ。オマーンの王侯貴族だってこれは前進のあかしだと素直に思ってくれるのではないだろうか。何かおかしな道に脱線していきつつあるが、役人が介在しているから仕方がない、そう考える度量があると期待している。
 オマーンの国の人々は度量が大きい。地震のあったそのあと、オマーンの国は日本の外務省に、震災地の水を確保するなど、機材の提供を申し入れたそうだ。それはもちろん、東北地方で私の友人が生産し、オマーンに提供していたあの機械だ。だが日本外務省はオマーンに対し、「我が国は高度工業先進国だ。貴国からの物資の提供はお断りする。くれるなら金にしてくれ」と答えたという。オマーン大使館は傷ついた。だがそれでも、アラブ諸国に諮って石油をタンカー一艘分満載にして寄贈をしたと聞く。
 そして、工場を津波に流され、多くの行員の命を失った水再生産の東北の工場に対し、工場を新規に拡大しても何年もかかる量の真水製造機をわざわざ発注してくれた。それは単にオマーン国用だけではなく、周辺の彼らの友好国にまでオマーンが積極的に注文を集めてくれての発注だった。しかもその条件たるや。「震災で困っているところがあれば、君(私の友人)がそちらに回して存分に使い、中古になったものでも最後に納めてくれればよい。それを新品として受け取ろう」という内容だったという。

 本当は胸を張りたいところだったが

 最後に蛇足、その友人を通じて、私どものところにオマーンで流鏑馬を奉納してくれないかとの内診があった。私はしばらく考えてお断りした。彼らは日本にまだ、明治維新までの「武士」の心そのままの日本人がいて、私どもの本物の「東洋の道義」「日本人としての伝統的な進退」があると強く確信してくれている。
 だが現在に日本はどうだろうか。私は流鏑馬の関係者であり、神道に関わるものだ。胸を張って、これが日本人の本来の姿だと示すのには、いささか心が傷ついている。
 うれしいけれども胸が晴れない。そんな心境で過ごしている。

写真はライフジャケットの広告より