葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

天皇陛下の御手術を前に

2012年02月17日 12時47分21秒 | 私の「時事評論」
天皇陛下の御手術



 天皇陛下が手術を受けられる。心臓周辺動脈のバイパス手術、いまの心臓外科の技術水準でいえば、さほど難易なものではないという。一般的に言って、この手術は高齢者が受けても成功率90%以上の安全性の高いものだとされている。それを東大と順天堂大学のベテラン医師がチームを組み、万全を期して行うというのだから、さほどの心配もいらないのかもしれない。

しかし、国民の心配にはやはり大きいものがある。不安は確率論などでは解消されない性格のものだ。私も心からその成功と、無事な御快復、そして手術をやってよかったという素晴らしい御健康が、あとに訪れることを願わずにおれない。

 今上陛下に対する国民の敬慕の心は極めて高い。国民の心を一つにまとめることのできる御存在は、陛下御一人を除いてほかにないように思う。先の東日本大震災に際しても、陛下の国民に寄せられたお言葉は、首相をはじめ他の国の代表者などとは全く位の違う格別の響きがあった。

これは陛下には、その個人的なお人柄に加えて、格別の重い日本に蓄積されている信頼感がしっかり引き継がれているからだと思う。最近こそ、日本人の国民意識が戦後続けられた宣伝工作、特に占領軍米国の指示による歪んだ教育、国の伝統を破壊する目的で押し付けられた新憲法などによって傷つけられてきている。加えて意味のわからぬ「皇室の民主化」などという矛盾だらけのスローガンによって、皇室像が捻じ曲げられて、陛下や皇族を、映画やテレビスターであるように扱う個人崇拝的要素が加わって来ている。皇室はそんな企てによって意図的に曲げられようとしている。

これは日本の将来にとって困った傾向だと思われるが、それでも天皇の日本人の大まつり主としての御性格、全国民の代表であり、日本の神々と民の中にあって、国民の祈りを神々にお伝えになるただ御一人であるという民族の信仰は、川の中におかれた岩のように、周りから少しずつ削り落されつつあるように見えるが、全体としてみると、まだ殆ど変わっていない。初代の神武天皇いらいの変わらぬ御帝(みかど)としてのお心を引き継がれて、国民のために祈り続けられるご高齢の陛下。手術が無事に終わって、お元気な御快復を衷心より祈念申し上げよう。

 



 天皇陛下のお立場


 天皇陛下に対する我々の忠誠の心は、陛下の玉体個人に対してのものだけではない。それは昭和天皇、大正天皇、明治天皇はじめ歴代天皇に対して祖先たちが抱いてきた心ともつながっている。長い間に日本に醸成された切れ目無き尊皇心、その核心となっているのが連綿として続く大御心(おおみこころ)への信頼である。歴代の天皇は、常に己のためではなく民のために神々に祈り、まつりをされてきた。初代の神武天皇いらい今上陛下まで、これぞ終始変わらぬ日本独自の天皇の本質である。神話の世界、神々が集われる高天原より、天照皇大神よりの御命令で「この日本の国に降りて、民を率いてこの国を浦安の国にするように」と皇室の御祖先瓊瓊杵命(ににぎのみこと)がこの地上に降られていらい、ひたすらまつりをされ、国民のために祈ってこられた伝統、民の中に苦しく悲しい境遇のものがいないのかと常に案じ、そんな不幸なものがいないようにと神々に祈り、まつりをされてきた数千年のしろしめすという独自のお勤めの積み重ねが、陛下に対する国民の不動の崇敬心の核となっている。

 日本は素晴らしい国だ。そんな民を思って生涯を送られる天皇さまがどの時代にもおられ、そのお心は歴代の天皇に引き継がれて決して絶えることが無く続いてきた。一般の国民である我々が、お人柄に憧れ、真似をしようとしても真似られるものではない崇高な心をお持ちの方が天皇であり、その御歴代の思いやりの下に我々は暮らしてきた。

 歴史をたどれば、そんな天皇が直接国民を政治や行政の面でも指導された時代もあったし、そんな御帝から征夷大将軍の委任を受けた武将が、俗務政治の部門を担当した時代もあった。そしていまは、選挙で選ばれた代表が天皇の認証を受け、政治を代わって取り仕切っている。ただ、そんないまでも神々に国民の穏やかで豊かな生活を祈り、浦安の国をひたすら祈念しておられるのは昔と変わらぬ天皇さまである。これは日本の建国以来、変わることなく続いている。

 この日本という国の本質は、ともすれば世の中を上辺だけで見てそれで良しとする現代では見落とされがちではあるが、これを機会に、もう一度そんなことも思い深めてみたいものである。





 いまは歴史上、歪んだ時期とも言えそうだが



 世情は日本が歴史上、外国からの敗戦・そして占領を初めて経験したので、外国からの天皇制度に対する圧力がかかり、占領中におかしな政治制度にされたために、政治などには、ちょっと歪んだ形も出てきているようだ。国内の教育などが、教育の目的そのものを曲げられて、国の政体の破滅を理想とするような方針に置き換えられた結果がいまもって続いている。その結果、日本が軽薄短小、上辺だけを見て日本独特の天皇の本質を理解できない者ばかりの国になり、政治家や役人までが歴史を見ず、国の将来を見ない連中、軽薄にその場限りのことしか考えない連中ばかりになって、天皇の持っておられる崇高な御志が公的にはまったく教えられずに、日本の社会を私利私欲や身内の私閥の利益などに目を奪われて暴走、積もり積もって60年、とんでもない状況を呈する時代になってしまった。

頭でものを考えず、感覚的な触感のみで動き回るのだからたまらない。中でも政治や経済の世界は、将来などはまるで考えようとしない者ばかりが跋扈する状況になってしまっている。

現在の状況は、ある意味では日本の国が始まって以来、政治の質が最も低下した時代の一つだということができよう。政治を見るとよい。それを伝える報道を見るとよい。政治家は場当たり発言と朝令暮改を繰り返し、官僚は国民のことよりも、自分の地位の任期中の安定、官僚同士の閥の維持のために狂奔している状況に見える。政治がそうなら実業界などもそれに倣い、自らが生き残るために、国民のこと、公共のことなどに目がいきそうな気配が見えない。上がそうなら国民も国民、教育などでも公徳心や道徳などの重要性が教えられないので、いまが良ければそれでよいと、衝動に駆られてわがままにその日を暮らし、家庭や社会の秩序が壊れ、犯罪が増え社会摩擦が急増している。

そんな中で、ただお一人、朝な夕なに将来のこと、国民生活のことを案じておられるのが天皇陛下だ。

政治の混乱はほぼ頂点に達してきた。「民主主義になったからお前たちが主人公だ。選挙で立派な政治を自由に選べ」などとおだてあげられた国民も、何度も選挙を繰り返したが、「今の情勢がそんな自分らが選んだ結果だ」という現実を前にして、「これはどこかが間違っている」と思い始めた。政治家は口々に「国民の皆さん」などというおだてた発言をいまも繰り返しているが、それをまったく信用できない状況になって来ている。

それが天皇陛下への思いを強める結果にもつながっている。信じられない勝手な連中がたくさんいて、「国民のために」と口先ではいう連中が政治を行っているのだが、よく見るとそんな連中は国民のことなどそっちのけで、自分の地位保全のみに狂奔している。経済不況が深刻化しているというのに、日本国がその荒波を乗り切る方向は示されず、国民の平均的生活は日々に苦しくなり、将来への不安は増すばかり。大震災が起こっても、被災者は一年たっても放置されたまま、極端に寒い今年の気候の中で震えている。

まともな仕事が見つからず、生活保護所帯以下の収入で暮らす人、歳とって誰にも相手にされず、収入もなく、不安な生活を送っている。そんな連中に、政治の手は決して差し伸べられない。ただその中で、天皇陛下だけは、いつもそんな連中を心にかけられ、それらのものの幸せを祈りながら神に彼らの幸せを祈っておられる。





「天皇陛下のために」



 現在の法制度の下では、天皇陛下は俗務の政治には権限をほとんどお持ちにならないことになっている。そのためなかなか陛下のお心が、実務の政治には反映できないうらみがある。

天皇さまのことは、憲法の条文などに、天皇の国事行為などとして定めてある。実際はこの他にも、陛下は様々の政治にかかわる行事をしておられるが、その内容はともかく、憲法での表現は極めて礼を失したものになっている。こんな無礼な表現は一刻も早く変えなければならない。敗戦に伴う日本政府の卑屈な姿勢が生んだものだろう。だから私はいまの憲法が嫌いである。

私はそのような軽薄なくせに思いあがった政府の姿勢が排除され、政治がこの国は天皇陛下が見守っておられ、常に神々に対して、実務の政治の繁栄をも含めて、祈願しまつりをされていることの重さを政治が自覚し直すのが喫緊のことだと思っている。陛下のお心は美しく尊い。天皇陛下に尊敬をこめた姿勢で政府が接し、陛下のお持ちになる広い心を大切に政治に反映していくこと、その他の百官の人々もそれに倣うことを強く望んでいる。いまだって法令などには必ず御名御璽がつけられることになっている。それは単なる形式ではない。御名御璽を受けた途端に、法令は陛下がお求めになる崇高な志に清められることを念じて作られた制度なのだ。政治家や官僚はその重さを考えたことがあるのだろうか。





そして将来は



わたしは、政治の俗務から独立されて、天皇陛下専門の非政治的独立機関が生まれることを希望する。それは一時一局の政府の判断などに左右されず、国民の強い指示によって支えられる専門の部局だ。天皇のお仕事には現在の政治にかかわりの深いことと、政治行政の外の広い意味での日本の全般にかかわることの二側面がある。戦前は皇室は独立した宮内省によって運営され、大臣は首相と同格かそれ以上の見識の高い人が就任していた。

宮内省では皇室の行事を皇室の府中(政治とのかかわりのあること)、宮中(天皇陛下のまつり主としての行事)のふたつにわけ、宮中の行事には、政府であってもかかわることを自重する空気があった。この概念はいまはあいまいにされ、宮中のことが役人の歴史に関しての無知や特定の独断により、軽んじられる傾向にある。これは日本の皇室が、今まで持ってきた大きな機能をいつしか失って、薄っぺらな見せかけだけのものへと移っていく危険性を持っていると思っている。三千年の積み重ねられた日本人の知恵が、一時の役人の思いつきなどで変更されることは許されるべきことではないと思う。

皇室は世俗の目先ばかりに気を取られる政府などからは独立して、特に宮務行為などに関しては、お世話する機関自身が独立の財源を持ち、また寄付や皇室独自の財源を確保して、時の政府などに影響されずに活動される期間になるのが理想だと思う。憲法に、天皇の国事行為として定められているような事項に関しては、それは府中の行為に関するのだから、政府の予算を充て、それを宮内の府に渡せばよい。政府は宮中にお願いして、陛下の御承認を受けて政府の国事行為を陛下に執行していただく。それが本来の筋だと思う。

以上、天皇陛下の大手術を機会に、思いついたことを並べてみることにした。

母の命日

2012年02月09日 17時49分01秒 | 私の「時事評論」



   あれから42年

  二月七日、母が幽界に旅立ってから四十二年目の命日であった。
  母は私三十二歳のときに五十二歳の生涯をとじた。
  いらい毎年、母の命日には家に弟二人の夫婦・家族も招き、母を偲ぶのを年中行事にしてきたが、もう母の遺影が私の娘のような年ごろに見える時期になった。
  だがなかなか母への思いは消えないものである。
  今でも母と共に暮らしている夢を何度も見る。

  昔の日本人は家族を弔うときに、その遺骸を埋葬した上に植樹をしたという。
  集落が見える小高い雑木林には、そんな先祖たちを偲んで植えた木々が何本も生えていた。
  子孫たちは父の木、母の木、先祖の木を覚えていて、その木の前でいまは亡き家族を偲んだ。
  だが、やがて時がたち、家族も代が進んでいくと、いつの間にかどれがその木であるか分からなくなった。
  その間、四~五十年ほどだろうか。
  雑木林の中のこの木の見分けがつかなくなった時、それで故人はすっかり自然に還っていく。

  そんな時代が繰り返されたという話を聞いたことがある。
  いかにも自然と共生し、木々とともに暮らしてきた我々の先祖たちの話として、何かストンと私を納得させる話だったので、忘れられずに覚えている。
  日本らしい輪廻の信仰である。

  それから思うと、もう、母の思い出もそろそろ薄れて、自然にかえって良い時期だとは思う。
  だが母はまるでこの世に強い未練があるごとく、私たちに強烈な印象を遺して逝った。

  鎌倉の我が家から、二十分ほど歩いた北東の丘の中腹に我が家の祖父母と両親の墓がある。
  雑木林のすぐ横にある墓地は、日当たりのよい遠望のきく丘陵地である。
  命日を前に、思い立って一人で墓掃除に行き、草をとり、落ち葉を払って掃除した。
  この世に未練の強くのこる母だから、まだ当分は浄まって、自然には帰らないだろうなと思った。
  父母の展墓は格好の私の散歩のコースである。


   母倒る

  節分の夜、まだ若く健康だった母は、一年前に両親と同居するようになった私ら夫婦の二人の子(兄は四歳、妹は二歳)を相手に、まるで子供に還ったように豆まき行事を楽しんだ翌朝、父の新聞社の印刷工場に出向く私を何事もなく見送った後、突然倒れた。
  くも膜下出血、若い人でも、突然起こる症状だ。
  数日前から「風邪かな?」などと言いながら、医者にもかからず、近所の親しい魚屋から好物の近海のアワビをもらってきて、トントンとまな板で刻んで、それを肴に酒の飲めない父をしり目にブランデーなどを飲んで痛みを散らしていたが、あとで考えるとすでに出血の予兆の痛みは出ていたのだろう。
  本人も全くそれには気づいていなかった気配だった。

  思えば戦中戦後の厳しい時代、我が家の状況はことのほか厳しい環境だった。
母の結婚当時こそ、我が家も満たされた環境にあったのだが、父が戦時中は戦争継続に反対して憲兵や特高に追われ、戦後は米国の占領政策から神道と天皇制度を守ろうと、無収入で飛び回っていたので、母は女手一人で我が家を支え、父の戦前からの古服を裏返しに細工して着て奮闘していた。家の雨漏り修理から庭の植木屋、大工仕事や土木工事、家計の管理や買い出し、祖母の世話、それに父の原稿整理など、寸暇を惜しんで働いていた。
 
  ここに女学校を卒業したばかりで嫁に来た母に、父はまるでわが子に教えるように自分の流儀で社会を見る目を教え、世界の文学を読ませて籠められている思いの読み方を教えた。そんな環境に育った母は、すっかり父と我が家に傾倒して、世界で最も素晴らしい男は自分の夫だそこに嫁に来た自分は果報者だと信じ込み、外で働く夫を支え、家では夫の信頼できる秘書として育ち、存分に活動した。

  そんな中で私ら三人の子供たち(いずれも男児)に、父のように育てとは言わないが、父を辱めない立派な男に育てと厳しく育てた。ようやく子供も社会人となり、そんな母の影響もあり、私が数年前に家庭を持ったのを機会に、サラリーマンから父の仕事の一部だけでも手伝いをしようと、この鎌倉に戻ってきて、ようやく母も人なりにゆとりの時間も持てるようになったかとおもった矢先のことだった。
 戦後の二十年以上、ドンキホーテに仕えるサンチョ・パンサのように夫を支え、自分の青春のすべてをつぎ込んだ母にとっては、これからが本当の意味で、苦労してきた人生の収穫を楽しむ絶好の時期であるところだった。
  註 母の思い出に関しては、昨年二月、「亡き母を偲ぶ」との題で、私の作った手作りのブログ http://ashizujimusyo.com/sub26.html に書いたものが残っているので、関心のある方はここで母の一面を知ってもらいたい。

  「もう少し、もう少し。しっかりしろよ、母さん」。
  意識が戻るまでもう一歩のところまで何度か行くのだが、母はその壁を乗り越えられず、そのうちに再出血して、我々と幽冥分かつ存在となった。
  付き添った我が一同のショックは大きかった。
  父などは、あれほど戦中戦後を気丈に過ごした男だったのに、妻の死はよほどのショックだったのだろう。一度に何十歳分も老け込む落胆ぶりで、それはその後の人生にも大きなショックとして残り続けた。
  最も信頼していた妻に去られ、葬儀の後も、妻の遺骨を墓地に納める気になれず、しばらく寝室に飾っていた。だが、まだその時存命であった母(私の祖母)や縁者たちが、これでは父まで母とともに人生を終わってしまうと懸命に勧め、私も強くすすめたので、半年たった八月に、ようやく遺骨を鎌倉の祖父の墓地に収めることに同意した。
  母は岐阜の人柄にすっかり心酔していた。結婚以来しばらくの間、一途に慕っていた義父の許ならば、我慢してそろって家族を見守っていてくれるだろうと思ったからだ。
  だが埋葬のその日、うちつづく絶好の快晴の真夏の一日だったのだが、私らが母の遺骨をささげて墓に近付くと、突然にわかに天候が変わり、快晴の空が急に曇って、激しい雷が相次いで、足元の道を川にする豪雨が我々を襲い、一同は全くのずぶぬれになった。
  母が号泣している。この世にいかに未練を残しているのか、痛烈に思い知らされる一幕だった。


   去りたくない死

  母の未練は私の胸にも強く残った。
  母を送った後も、私は毎夜のように幽界に去りたがらない母の夢を見た。
  夢での母は、生前の明るい表情で、我が家の庭に出て来て、私の二人の子供たちと無心に楽しそうに遊んでいた。
  私の夜の帰宅の時など、我が家はバス停を下りて百メートルほど細い路地を進んだ先を、またそれぐらいの背の高さを越す両面に珊瑚樹の生垣を通ってその奥にあるのだが、その長い生垣に入る路地の途中で、私はたびたび母に会った。
  「どう、みんな元気にしているかい。少しはお父さんの手伝いができるようになったかい。子供たちは元気にしているかい」。
  そのたびに私は
  「うん、御蔭さまでみんな元気だ、母さんも安心してくれ。母さんを心配させることはしないさ」
などと思わず答えることがたびたびであった。
  祖母は、私のそんな私の話を聞いて、
  「お母さんが淋しがって、孫を連れに、貴方を迎えに来ているのよ。いくらお母さんと親しくても、それだけはいうこと聞いちゃだめよ」
などと度々私に真顔で注意した。

  祖母は生真面目な人で、嫁が大好きであったが、そんな風に思えたのだろう。だが私には、母が幽界に呼びに来ているとは思えなかった。
  それどころではない。母の姿は美しく、その本性は私らの守護霊その者のように思えたものだった。

  母が見てくれている。母が見ているから母の失望するようなことはしていけない。
  そう思ってそれからは、それまで以上に生きることにした。

  父のショックはなかなか消えなかった。
  そんな父を今度は私ら夫婦で支えながら、母がいない空白を何とか埋めようと夫婦で励まし合ってきた。  そしてそれから母をかぞえの百歳で送り、父を母の待つ許に送りだし、今年は父の二十年祭を迎えることになった。


   家族というもの

  そんな思い出が重なったため、雑木林に植えた記念樹の話のように、簡単に母を忘れることができないでいる。
  今年も弟たちと母の思い出話に花が咲いた。私と一緒に育った弟たち、彼らにとっても、母は私の思うように映っていただろう。
  一つの当たり前の家庭の姿なのだと思うが、そんな心の交流を共にして生きるのが、日本人の昔からの家族であった。

  人から見れば何の変哲もない話、当たり前の日常時をつづっているだけのことであるが、それが繰り返されるのが家というものなのだろう。
  春も近い。

立春に期待をかけて

2012年02月05日 18時23分26秒 | 私の「時事評論」

立春の日に

日本海側の人は豪雪被害などで大変な時、こんなのどかな発言をしては申し訳ないが、湘南地方で暖流の恩恵を受け、北風は背後の山で遮られる鎌倉市は風もなく、暖かく穏やかな一日だった。折から続いていた全国的な寒波の影響か、ここでも朝は霜柱が立ち、当地ではめずらしく薄い氷が、路面にまかれた水に張るほどの寒さであったが、雲もない空からは、さんさんと陽の光が注ぐと、一転、急速にあたりの空気が変わってきた。縮こまっていた身体を思い切り伸ばし、「ああ春が始まるのだな」という期待を抱かせる陽気である。

立春、この日から一年は、暦が代って新しい年が始まると言われる。壬辰(みずのえたつ)の年、易者や暦学者たちはいろいろ言っているが、壬は「妊」という字と同意で、女性が身籠って腹がふくれるという意、さらに字音から「水」に通ずる。辰は「土用」の春一番を指し、これから「立つ」という出発の時期を指すそうだ。そうなると、昨年は東北地震に伴う津波で我が国は大いに苦しんだが、その災害を乗り越えて、今年は復興の上に新しい出発をする年ということになろう。なぜその字があてられるのか、偶然ではないかなどいろいろ言う説もあるだろうが、縁起の良い出発の年である。

周りを見れば良いことどころではなく、悪いことばかりが充満したような環境にいる。
日本の政治に関しては、どこをどう弄ってそんな見通しを作るのか、政府は依然として国民の実感とはやや違う楽観的な見通しなどを発表し続けているが、こんなものは役人の、だれもがもう信用しない作文だ。悪いと言うと政治の無策の責任を問い詰められるのでそう言っているだけ。日本経済の前途には黒雲が横たわり、もう長い間、国民は実感的に苦しい苦しいと感じ続けている。数年来、景気が良くなったと発表されたときも実感が無かった。日本経済の地盤沈下と雇用縮小が年々進むので、安定した経済社会からはみ出した人々が巷にあふれてほぼ平等が売り物であった日本で、貧富の差が大きくなって問題化している。

 また、日本を戦後の時代に、破壊から回復へと持っていった人々の多くが老人になり、日本は急速に高齢化社会へ移行している。
 なりふりかまわず突き進んできた成長路線は行き詰まり、社会不安や犯罪増加、ギスギスした人間関係が日本中に及んでいる。それに政治の将来を展望する力が無力化し、円高や税収が落ちて国債の急増などで、総額は国民の貯蓄総額に迫るような大赤字ができて、政府の財政にのしかかっている。

 もう何年も前向きの決断は何一つできず、混乱で身動きならぬ政治である。あまりの酷いその無能力さに、国民は怒りもあきらめすっかり愛想を尽かしている。そこに加わって降ってわいたような昨年の、神さまがこの国の運営ぶりにお怒りになったような、とんでもない災害である大地震だ。おまけに未曽有の津波や原発の放射能拡散事故までが付随して。これには政府だけは復興が進んでいるように言っているが、国民は政治の無力に諦め顔だ。


  良いことなんて見当たらない時だから

  「良いことなんて見当たらない。それが現状というものだ。そんな時期にノホホンと、新しい年に期待して、夢物語を妄想している、お前は馬鹿か」という者もいるだろう。「良くなるなんて考えられないではないか。現にお前の書いているブログだって、お前は悲観をあおりたてるような記述ばかりしているではないか」。

  そんな批判は一見ごもっとも。だが、ちょっと考えてほしいのだ。私はいまが明るいとはいっていない。  いまは夜明けの前の世の中が最も暗い陰の極、これから明るくなることに期待をしようといっている。日本にはまだ回復力がある。私はそう信じている。それに期待する空気がやって来るだろうと私は信じている。

  いまの日本の暗い局面は、西欧の産業革命以来、資本主義経済の持病である景気波動の波が、訪れるたびに、副作用がだんだん大きくなってきて、ついにそろそろ回復しにくい状況になったと読むべきだ。地球上にある限られた資源である化石燃料採掘の限界が見えてきたところに、今まで西欧のみが独占していた資源を利用して、世界の国々が追随しはじめた。もうそろそろ主役の座が、いままで開発の遅れたアジアやアフリカ諸国などに移るのは必至。いままでの資本主義国西欧のお客様が、みんな西欧とおなじ供給陣営に加わって、それまでこんな途上国への輸出などで潤っていた西欧経済や日本は、もう成長ができなくなり、加えて地球資源の枯渇や排気ガス、排水などの汚染も深刻化し、産業革命以来の発展時代が最終局面に近づいている。

  全能のゴッド(造物主)のお許しがあるから、地球(自然)と戦い、それを征服するのが当然だ、という乱暴勝手な理念に支えられてきた文明が終焉し、新しい文明に代わらなければならない時期の達しているのだ。


  新しい文明の哲学が要る

  資源を使いたいだけ使いまくり、大量生産で勝負する。これが産業革命以来の西欧型の哲学理念だった。だがこんなやり方が普及して、最近になって世界の国々が同じような競争に加わって、加速度がつき恐ろしいことになってしまった。産業革命の初期においては、それまで弓や刀で戦っていたのが銃器という武器ができ、遠方の敵まで倒すことができるようになり、風を帆に受けて走る木造船が蒸気機関で走る鋼鉄船に代った。それが今では原爆やミサイル、ロケットやジャンボジェット機の時代になった。使用する燃料や原料も猛烈に増え、従来の数年分のものが一日で消費される。限られた資源がこんなことを続けていって続くはずがない。

  これからは、乱開発で手傷を負った我らの地球を癒し再生させながら、万物と共生しながら人間は生きていかなければならないのだ。それができなければ我々人類の将来は終わって、他の種族の時代が来る。人類が生き延びるためには、新しい形の哲学が、「自然には戦い挑み、屈服させるもの」という西欧の独善的哲学の代りにうちたてられなければならない。それを建て得たところ、それを実現したところがこれからの人類の優等生でありリーダーになる。


  日本文化の哲学

  今まで何度か私はこの問題には触れたが、他の文明圏からは征服されない立地条件にあり、それでいて大陸の文化が、小舟の往復などで入手できた日本では、西欧では醜い民族同士の征服合戦の中に消えてしまった「自然そのものを神として提携し大切にする文化」が、消えることなく続いてきた。日本も二百年前の幕末になると黒船騒ぎがあり、明治維新の後は西欧型の模倣の嵐に巻き込まれたが、それでも我が国には数千年来の自然を神と畏れ、慎みながら自然を畏敬し、共生する気風が今でも強く生きている。

  その発想の核となるものが日本にだけあって、世界のどの国にもない「天皇制度」とそれを支える「神道」である。それをしっかり見てほしい。

  急速に進んだ産業革命により、西欧文明の神を畏れぬ科学の技術水準はかなりの加速度を持って発展し、その結果、地球そのものを人間の暮らしていけない荒廃の巷に変更させそうなところにまで進んだ。だが、実は黒船以前の我が国でも、西欧化にどっと文化を切り替える前に、かなりの文明技術は発展していた。我々の先祖たちは、神を通して自然に接し、祭りや神社を通して日々の生活にメリハリをつけながら、日本流の村や町づくりをし、在来と同様に外国の文明や技術を我が国に合うように工夫をして取り入れ、少しずつ発展を続けてきていたのだった。

  私はそんな気風がまだ、我々現代日本人の心に遺伝子のように強く残り、生きているのを足掛かりに、世界の諸国よりも一歩先を歩く形で来るべき時代を作っていくべきだと考えている。


  目先の対応と長期展望

  目先の政局や経済界の動きは混とんとしている。官僚やいまの流行の学者たちの発想には、私のいうような視点はそれこそ想定外、ほとんど考慮されていないと思ってもいる。それはそれで仕方の無いことだ。彼らはあまりにも西欧的思考に、さらにそれを通り過ぎて、あの敗戦を日本が経験して以来続いている「占領政策思考」に漬かりすぎている。徐々に在来的雰囲気を回復させながら時を待とう。彼らから、新しい転換は出てこまい。何せ彼らは骨の髄まで西欧型の「過去の優等生」たちだ。

  しかし、日本の在野から、新しい思考を持った者がそろそろ出てくるのではないかと私は思っている。環境をじっと見ていると、機が熟し始めている。それが今年にかけている私の期待なのである。

  これを機会に日本人は、西欧史や西欧科学ばかりに目を向けないで、もうすこし日本の育んだ歴史を広い視野で読み、そこから先人たちの知恵を学ぶ訓練をするとよい。

  そうすれば、ただ贅沢にお金の無駄遣いをするのは放蕩であり、できるだけたくさん食いものを食い大量の大便を排泄するのは食い意地にすぎず、本当に自分の好きな相手が見つけられないので手当たり次第にくっついて離れを繰り返すのは色気違いに他ならない。ゲームにのぼせ現実を忘れるのは社会逃避であり、そんなものは本当の幸福追求にはならないことを知るだろう。現代の思考は、いつしか野獣のようになっている。そして幸福も見つけられない貧しさから、もう少し増しな生き方があるのではないかと考えるようになると思っている。
  立春の日の期待である。
 

財産を食いつぶしてしまった戦後の時代

2012年02月02日 22時40分21秒 | 私の「時事評論」
  


悲惨な日本の人口推計

 五十年後、日本の人口は4000万人も減る。その中で働ける人は人口の半分になる。予想はしていたものの驚くべき人口予測が発表された。
 深刻な高齢化社会の到来、高齢者を支える若者の急減、かねてより予想されていたが、これは惨(むご)い。いまの人口に占める高齢者の比率は4人に一人。これが急速に進んで、日本は老人ばかりの国になるというのだ。
 これでは50年後には皆が一人の老人を支え、この上に子供たちの世話をしなければならい国になる。社会保障費用が膨大なものになるというデータを裏付けるため発表されたものだが、どうすればこの苦境を生き抜いていけばよいのか。
今の政治家は「将来の世代に負担をかけてはいけない」などと口先だけではうまいことをいってきたが、今でも、もう1000兆円に近付く返済のあての無い国債を将来の世代のために残してしまっている。乱暴に眺めれば、これはもう、一年間の国民総生産にも匹敵する額に近付いている。しかも現状は一歩間違えば国家破産になる状況だ。政府はここでの消費税の増額がやむを得ないという説得のためにこのデータを示したのだろうが、それどころではない。
データを見ると、これを将来、負担する国民は急激に減少し、現在の半分程度の労働人口になる。いまの延長線上に物事を考えれば、日本人は行き詰って死ぬしか他にないではないか。政府は年金開始を65歳に伸ばそうとか、選挙権を18歳からにしよう(実質的に18歳以上は働く人口に組み入れるという意味につながる)などといっている。だが、こんな対策は焼け石に水だ。


  戦後の時代は何だったのか

 今から65年前、日本は戦争に負けた。占領軍は日本に来て、日本が再び西欧の脅威に復活しないために、日本人の勤勉でそろって明日のために伸びていこうとする国民性を破壊し、野獣のように本能のままに生きることが大切だとの洗脳教育を徹底的に行った。
占領国は米国、代表的西欧人だ。日本人は舶来品に弱い。背が高く、鼻が高く、ぜいたくな生活をしている彼らのようになりたいと日々、思ってきた。こんな西欧人の命令だから、自分がどんなに突っ張っても白人にはなれないし、髪の毛が金髪にもなれないのに、東北地方の「あすなろ」の木のように、「明日は我々ヒバの木も、憧れのヒノキになれるかもしれない」などと思ってこれについていった。まるでイソップ物語の現代版である。いままで実直に生活をして、爪に火を灯すような苦労をして、コツコツ生活を向上させ、家族や共同体で助け合いながら一歩一歩這い上がってきた成功への地味な努力を捨て、享楽に酔いしれて明日のことを考えないで生きてきた。その結果が、現在である。
 こんなデータを見せられて、いまさら「現実は厳しい」と思い知った時はもう遅い。占領中に変更された新憲法の前文にはこんな風に書いてある。
 「日本国民は、恒久の平和を祈念し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの生存を保持しようと決意した。」
 なんと愚かな判断だろう。占領アメリカ軍がそう教えた。だから言われるように信じてきた。だは今の日本に対して、どの国がそんな甘ったれた勝手な日本に手を差し伸べてくれるのだろうか。教えてくれたアメリカが?、北朝鮮か、ロシアか、中国か、韓国がか、これが現実だ。享楽に溺れてしまった我が国に同情し、自国のことよりも優先して日本を救ってやろうなどという国はない。
 戦後の日本の過ごしてきたコースを、ほめてくれる外国などはないだろう。65年間、我々は一体何をやってきたのか。明日の日のために、一体何を積み立ててきたのだろう。


  無残なり今の日本

 日本は美しい山河に恵まれた国土であり、まるで箱庭のようなこの日本列島に、あちらこちらに集落があり、そこにはお祖父さん、お祖母さん両親や子供たちが一緒に暮らす家があった。僅かずつでも庭があり、そんな家が集まって集落ができていて、周りには自給自足を中心にする畑も田んぼも林も小川も小道もあった。人々は集まって鎮守での祭りを楽しみ、隣の集落とも親しく交流し、そんな地域の日用品を供給する商店もあり、学校もあった。
 家のカギなどかけなくとも、誰もがよく知った人々で、泥棒などが入ることもなく、女性や子供が一人で歩いていても、村中の人が自分の娘や子供同様に見ていてくれるので、心配しなくとも済むような暮らしであった。小学校の運動会や入学式、卒業式、村の人たちが集まって、その来賓は駐在所や交番のお巡りさん、時のお医者さんや郵便局長、駅長さんや神主さんやお坊さん。穏やかな日々が過ごされていた。
 こんな暮らしがわがまま勝手主義の65年間に一変した。こんな明日に備えた暮らしをしているので、日本人は封建的で遅れてしまう。こんな住民意識は時代遅れの後進性だ。家族や近所などに気を遣っていては、何時まで経っても自立心は生まれない。親のいうことばかりを聞くと自主性が無くなる。独り立ちしろ、隣人などは赤の他人だ。そんなことより自分のことを考えやりたいように生きるのだ。坊主や神主のいうことなど相手にするな。母親のように夫や家庭に奉仕するのは、もう時代遅れの従属主義だ。独立心を培うのだ。徹底的なこんな洗脳を受けた結果、日本人の生活環境は一変した。その行きつく果てが現在の姿なのだ。
 あまり広く論ずるのは話が雑駁になるので問題を絞ることにするが、占領政策が家族制度を天皇制や神道と同様に、国民の団結力の大きな要素として破壊の対象とし、親孝行は時代遅れ、親のいうことなどに捉われずに独立して望む通りに生きるのが家庭の民主化だと徹底的に教えた結果、戦後のわが国では世界にその例を見ぬくらい核家族化が進んだ。これが現在の老人が取り残されて夫婦だけ、あるいは最後は一人で孤独に暮らさなければならない第一の要因になっているが、これはこの他にも思わぬところに波紋を呼んでいる。
戦後のわが国ではこのために親から離れて生活する子供たちが急増し、猛烈な世帯数増を生み出した。親とは別の生活を子供たちが求める。そのために今まで皆で暮らしていた家は、子供らが出て行き、がらんとした廃屋のようになり、庭や菜園などは雑草だらけ、維持費がかかるので売りに出る。そのあとはいくつにも細分されて、庭もない小さな家がたくさん建った。
いままではゆとりや余裕もあり、家や庭の屋敷林にも独特の個性が感じられていた家並みは、壁面すれすれにびっしり四角い箱のような家が密集するゆとりに欠ける街並みに変貌した。家の数が増えた分だけ、どこの家にも便所やふろ場、台所や玄関などのスペースがついている。その分結局はどの家も庭が減り、部屋のゆとりが減り、部屋の面積は小さくなる。戦後の我が国は異常ともいえる住宅建築ラッシュに支えられてここまで来た。しかし、それを冷静に眺めると、従来の豊かな町並みを破壊して、全体の統計的には、客間や仏間、庭の部分が破壊され、日本中が風呂と便所と台所、それに駐車場ばかりに占められる結果になったのではないだろうか。
 そうそう、家が大きなものから小さくたくさんになった結果として、どこの町も電柱や電線が、クモの巣のように張回せられ、空に張り巡らされる結果にもなった。


 人間らしい生活を取り戻すには

 前述した暗黒の未来。お金は先祖たちが未来の分まで借金をして食いつぶしてしまった。そして将来は、老人扶養や医療のために所得の大部分を税金に取られ、文明を発展させる労働力もなく、沈滞した中で暮さねばならない。いまのままではそれこそ国債の債務弁済と福祉のための税金に、所得の半分もが税金に回っても足りない未来もやってくる。こんな時代がやってくると予想された中にあって、未来の日本人は何を目標に生きていけばよいのか。
 それを真面目に考えるべきときなのだと思う。そんな未来に向かって、もう一度我が国の景気が猛烈に伸びる輸出の利益により繁栄して、再び昭和のような右肩上がりで急速に回復するかもしれないということをただ一つの希望として、それのみを追いかけるのは勝手である。だがそれは自殺行為である。
 今の文明は石油や化石燃料などを乱掘して使い果たし、資源が無くなるまで飲めや歌えの大騒ぎをしてきた文明である。それは西欧の産業革命以来のものだといえる。だがそれは、遠からずして行き詰る。ここにきて、我が国のみならず、世界で猛烈な人口増と工業化のあらしが盛り上がって来ている。時代は将来の子孫たちへの無責任な、現代人の無軌道放蕩文明が終末期を迎えているということもできよう。これでもう、人類文明は終わりでもよい。あとは自然を思い切り破壊して、他の動植物に迷惑をかけた責任をとって自滅すればよいというのなら、子供や孫には不憫だが、一つの人類史観だろう。
 だが、いやしくも、これだけの文明を花開かせて、大きく発展をしてきた人類である。少しは工夫があってもよいのではないか。私はそれを我々日本人がたどってきた、地味ではあるが堅実な生活態度の復活に、視点を置くことに求めたいと思う。
 動物も植物も山や野も川も海も、同じ地球の中に共生している。彼らの中にも命があり、彼らも神の生みたまわれたものだとの信仰を持ち、人間の分限を保ちながら自然と共生してきた我々日本人の祖先たちの姿勢を、もう一度思い出すべき時なのではないだろうか。
 たくさん食べるのが幸せだ。ごみを多量に出し、無駄遣いするのが幸福だとの野蛮ともいえる思いから抜け出して、心愉しく明日のために、希望を持って生きるのにはどうすればよいか。新しい人生観を持つべきなのではないか。
 否、新しいことなのではない。我々が65年前に失ったもの、それを回復するところから、必ず心豊かな未来は開かれる。私はそう確信している。