天皇陛下の御手術
天皇陛下が手術を受けられる。心臓周辺動脈のバイパス手術、いまの心臓外科の技術水準でいえば、さほど難易なものではないという。一般的に言って、この手術は高齢者が受けても成功率90%以上の安全性の高いものだとされている。それを東大と順天堂大学のベテラン医師がチームを組み、万全を期して行うというのだから、さほどの心配もいらないのかもしれない。
しかし、国民の心配にはやはり大きいものがある。不安は確率論などでは解消されない性格のものだ。私も心からその成功と、無事な御快復、そして手術をやってよかったという素晴らしい御健康が、あとに訪れることを願わずにおれない。
今上陛下に対する国民の敬慕の心は極めて高い。国民の心を一つにまとめることのできる御存在は、陛下御一人を除いてほかにないように思う。先の東日本大震災に際しても、陛下の国民に寄せられたお言葉は、首相をはじめ他の国の代表者などとは全く位の違う格別の響きがあった。
これは陛下には、その個人的なお人柄に加えて、格別の重い日本に蓄積されている信頼感がしっかり引き継がれているからだと思う。最近こそ、日本人の国民意識が戦後続けられた宣伝工作、特に占領軍米国の指示による歪んだ教育、国の伝統を破壊する目的で押し付けられた新憲法などによって傷つけられてきている。加えて意味のわからぬ「皇室の民主化」などという矛盾だらけのスローガンによって、皇室像が捻じ曲げられて、陛下や皇族を、映画やテレビスターであるように扱う個人崇拝的要素が加わって来ている。皇室はそんな企てによって意図的に曲げられようとしている。
これは日本の将来にとって困った傾向だと思われるが、それでも天皇の日本人の大まつり主としての御性格、全国民の代表であり、日本の神々と民の中にあって、国民の祈りを神々にお伝えになるただ御一人であるという民族の信仰は、川の中におかれた岩のように、周りから少しずつ削り落されつつあるように見えるが、全体としてみると、まだ殆ど変わっていない。初代の神武天皇いらいの変わらぬ御帝(みかど)としてのお心を引き継がれて、国民のために祈り続けられるご高齢の陛下。手術が無事に終わって、お元気な御快復を衷心より祈念申し上げよう。
天皇陛下のお立場
天皇陛下に対する我々の忠誠の心は、陛下の玉体個人に対してのものだけではない。それは昭和天皇、大正天皇、明治天皇はじめ歴代天皇に対して祖先たちが抱いてきた心ともつながっている。長い間に日本に醸成された切れ目無き尊皇心、その核心となっているのが連綿として続く大御心(おおみこころ)への信頼である。歴代の天皇は、常に己のためではなく民のために神々に祈り、まつりをされてきた。初代の神武天皇いらい今上陛下まで、これぞ終始変わらぬ日本独自の天皇の本質である。神話の世界、神々が集われる高天原より、天照皇大神よりの御命令で「この日本の国に降りて、民を率いてこの国を浦安の国にするように」と皇室の御祖先瓊瓊杵命(ににぎのみこと)がこの地上に降られていらい、ひたすらまつりをされ、国民のために祈ってこられた伝統、民の中に苦しく悲しい境遇のものがいないのかと常に案じ、そんな不幸なものがいないようにと神々に祈り、まつりをされてきた数千年のしろしめすという独自のお勤めの積み重ねが、陛下に対する国民の不動の崇敬心の核となっている。
日本は素晴らしい国だ。そんな民を思って生涯を送られる天皇さまがどの時代にもおられ、そのお心は歴代の天皇に引き継がれて決して絶えることが無く続いてきた。一般の国民である我々が、お人柄に憧れ、真似をしようとしても真似られるものではない崇高な心をお持ちの方が天皇であり、その御歴代の思いやりの下に我々は暮らしてきた。
歴史をたどれば、そんな天皇が直接国民を政治や行政の面でも指導された時代もあったし、そんな御帝から征夷大将軍の委任を受けた武将が、俗務政治の部門を担当した時代もあった。そしていまは、選挙で選ばれた代表が天皇の認証を受け、政治を代わって取り仕切っている。ただ、そんないまでも神々に国民の穏やかで豊かな生活を祈り、浦安の国をひたすら祈念しておられるのは昔と変わらぬ天皇さまである。これは日本の建国以来、変わることなく続いている。
この日本という国の本質は、ともすれば世の中を上辺だけで見てそれで良しとする現代では見落とされがちではあるが、これを機会に、もう一度そんなことも思い深めてみたいものである。
いまは歴史上、歪んだ時期とも言えそうだが
世情は日本が歴史上、外国からの敗戦・そして占領を初めて経験したので、外国からの天皇制度に対する圧力がかかり、占領中におかしな政治制度にされたために、政治などには、ちょっと歪んだ形も出てきているようだ。国内の教育などが、教育の目的そのものを曲げられて、国の政体の破滅を理想とするような方針に置き換えられた結果がいまもって続いている。その結果、日本が軽薄短小、上辺だけを見て日本独特の天皇の本質を理解できない者ばかりの国になり、政治家や役人までが歴史を見ず、国の将来を見ない連中、軽薄にその場限りのことしか考えない連中ばかりになって、天皇の持っておられる崇高な御志が公的にはまったく教えられずに、日本の社会を私利私欲や身内の私閥の利益などに目を奪われて暴走、積もり積もって60年、とんでもない状況を呈する時代になってしまった。
頭でものを考えず、感覚的な触感のみで動き回るのだからたまらない。中でも政治や経済の世界は、将来などはまるで考えようとしない者ばかりが跋扈する状況になってしまっている。
現在の状況は、ある意味では日本の国が始まって以来、政治の質が最も低下した時代の一つだということができよう。政治を見るとよい。それを伝える報道を見るとよい。政治家は場当たり発言と朝令暮改を繰り返し、官僚は国民のことよりも、自分の地位の任期中の安定、官僚同士の閥の維持のために狂奔している状況に見える。政治がそうなら実業界などもそれに倣い、自らが生き残るために、国民のこと、公共のことなどに目がいきそうな気配が見えない。上がそうなら国民も国民、教育などでも公徳心や道徳などの重要性が教えられないので、いまが良ければそれでよいと、衝動に駆られてわがままにその日を暮らし、家庭や社会の秩序が壊れ、犯罪が増え社会摩擦が急増している。
そんな中で、ただお一人、朝な夕なに将来のこと、国民生活のことを案じておられるのが天皇陛下だ。
政治の混乱はほぼ頂点に達してきた。「民主主義になったからお前たちが主人公だ。選挙で立派な政治を自由に選べ」などとおだてあげられた国民も、何度も選挙を繰り返したが、「今の情勢がそんな自分らが選んだ結果だ」という現実を前にして、「これはどこかが間違っている」と思い始めた。政治家は口々に「国民の皆さん」などというおだてた発言をいまも繰り返しているが、それをまったく信用できない状況になって来ている。
それが天皇陛下への思いを強める結果にもつながっている。信じられない勝手な連中がたくさんいて、「国民のために」と口先ではいう連中が政治を行っているのだが、よく見るとそんな連中は国民のことなどそっちのけで、自分の地位保全のみに狂奔している。経済不況が深刻化しているというのに、日本国がその荒波を乗り切る方向は示されず、国民の平均的生活は日々に苦しくなり、将来への不安は増すばかり。大震災が起こっても、被災者は一年たっても放置されたまま、極端に寒い今年の気候の中で震えている。
まともな仕事が見つからず、生活保護所帯以下の収入で暮らす人、歳とって誰にも相手にされず、収入もなく、不安な生活を送っている。そんな連中に、政治の手は決して差し伸べられない。ただその中で、天皇陛下だけは、いつもそんな連中を心にかけられ、それらのものの幸せを祈りながら神に彼らの幸せを祈っておられる。
「天皇陛下のために」
現在の法制度の下では、天皇陛下は俗務の政治には権限をほとんどお持ちにならないことになっている。そのためなかなか陛下のお心が、実務の政治には反映できないうらみがある。
天皇さまのことは、憲法の条文などに、天皇の国事行為などとして定めてある。実際はこの他にも、陛下は様々の政治にかかわる行事をしておられるが、その内容はともかく、憲法での表現は極めて礼を失したものになっている。こんな無礼な表現は一刻も早く変えなければならない。敗戦に伴う日本政府の卑屈な姿勢が生んだものだろう。だから私はいまの憲法が嫌いである。
私はそのような軽薄なくせに思いあがった政府の姿勢が排除され、政治がこの国は天皇陛下が見守っておられ、常に神々に対して、実務の政治の繁栄をも含めて、祈願しまつりをされていることの重さを政治が自覚し直すのが喫緊のことだと思っている。陛下のお心は美しく尊い。天皇陛下に尊敬をこめた姿勢で政府が接し、陛下のお持ちになる広い心を大切に政治に反映していくこと、その他の百官の人々もそれに倣うことを強く望んでいる。いまだって法令などには必ず御名御璽がつけられることになっている。それは単なる形式ではない。御名御璽を受けた途端に、法令は陛下がお求めになる崇高な志に清められることを念じて作られた制度なのだ。政治家や官僚はその重さを考えたことがあるのだろうか。
そして将来は
わたしは、政治の俗務から独立されて、天皇陛下専門の非政治的独立機関が生まれることを希望する。それは一時一局の政府の判断などに左右されず、国民の強い指示によって支えられる専門の部局だ。天皇のお仕事には現在の政治にかかわりの深いことと、政治行政の外の広い意味での日本の全般にかかわることの二側面がある。戦前は皇室は独立した宮内省によって運営され、大臣は首相と同格かそれ以上の見識の高い人が就任していた。
宮内省では皇室の行事を皇室の府中(政治とのかかわりのあること)、宮中(天皇陛下のまつり主としての行事)のふたつにわけ、宮中の行事には、政府であってもかかわることを自重する空気があった。この概念はいまはあいまいにされ、宮中のことが役人の歴史に関しての無知や特定の独断により、軽んじられる傾向にある。これは日本の皇室が、今まで持ってきた大きな機能をいつしか失って、薄っぺらな見せかけだけのものへと移っていく危険性を持っていると思っている。三千年の積み重ねられた日本人の知恵が、一時の役人の思いつきなどで変更されることは許されるべきことではないと思う。
皇室は世俗の目先ばかりに気を取られる政府などからは独立して、特に宮務行為などに関しては、お世話する機関自身が独立の財源を持ち、また寄付や皇室独自の財源を確保して、時の政府などに影響されずに活動される期間になるのが理想だと思う。憲法に、天皇の国事行為として定められているような事項に関しては、それは府中の行為に関するのだから、政府の予算を充て、それを宮内の府に渡せばよい。政府は宮中にお願いして、陛下の御承認を受けて政府の国事行為を陛下に執行していただく。それが本来の筋だと思う。
以上、天皇陛下の大手術を機会に、思いついたことを並べてみることにした。
天皇陛下が手術を受けられる。心臓周辺動脈のバイパス手術、いまの心臓外科の技術水準でいえば、さほど難易なものではないという。一般的に言って、この手術は高齢者が受けても成功率90%以上の安全性の高いものだとされている。それを東大と順天堂大学のベテラン医師がチームを組み、万全を期して行うというのだから、さほどの心配もいらないのかもしれない。
しかし、国民の心配にはやはり大きいものがある。不安は確率論などでは解消されない性格のものだ。私も心からその成功と、無事な御快復、そして手術をやってよかったという素晴らしい御健康が、あとに訪れることを願わずにおれない。
今上陛下に対する国民の敬慕の心は極めて高い。国民の心を一つにまとめることのできる御存在は、陛下御一人を除いてほかにないように思う。先の東日本大震災に際しても、陛下の国民に寄せられたお言葉は、首相をはじめ他の国の代表者などとは全く位の違う格別の響きがあった。
これは陛下には、その個人的なお人柄に加えて、格別の重い日本に蓄積されている信頼感がしっかり引き継がれているからだと思う。最近こそ、日本人の国民意識が戦後続けられた宣伝工作、特に占領軍米国の指示による歪んだ教育、国の伝統を破壊する目的で押し付けられた新憲法などによって傷つけられてきている。加えて意味のわからぬ「皇室の民主化」などという矛盾だらけのスローガンによって、皇室像が捻じ曲げられて、陛下や皇族を、映画やテレビスターであるように扱う個人崇拝的要素が加わって来ている。皇室はそんな企てによって意図的に曲げられようとしている。
これは日本の将来にとって困った傾向だと思われるが、それでも天皇の日本人の大まつり主としての御性格、全国民の代表であり、日本の神々と民の中にあって、国民の祈りを神々にお伝えになるただ御一人であるという民族の信仰は、川の中におかれた岩のように、周りから少しずつ削り落されつつあるように見えるが、全体としてみると、まだ殆ど変わっていない。初代の神武天皇いらいの変わらぬ御帝(みかど)としてのお心を引き継がれて、国民のために祈り続けられるご高齢の陛下。手術が無事に終わって、お元気な御快復を衷心より祈念申し上げよう。
天皇陛下のお立場
天皇陛下に対する我々の忠誠の心は、陛下の玉体個人に対してのものだけではない。それは昭和天皇、大正天皇、明治天皇はじめ歴代天皇に対して祖先たちが抱いてきた心ともつながっている。長い間に日本に醸成された切れ目無き尊皇心、その核心となっているのが連綿として続く大御心(おおみこころ)への信頼である。歴代の天皇は、常に己のためではなく民のために神々に祈り、まつりをされてきた。初代の神武天皇いらい今上陛下まで、これぞ終始変わらぬ日本独自の天皇の本質である。神話の世界、神々が集われる高天原より、天照皇大神よりの御命令で「この日本の国に降りて、民を率いてこの国を浦安の国にするように」と皇室の御祖先瓊瓊杵命(ににぎのみこと)がこの地上に降られていらい、ひたすらまつりをされ、国民のために祈ってこられた伝統、民の中に苦しく悲しい境遇のものがいないのかと常に案じ、そんな不幸なものがいないようにと神々に祈り、まつりをされてきた数千年のしろしめすという独自のお勤めの積み重ねが、陛下に対する国民の不動の崇敬心の核となっている。
日本は素晴らしい国だ。そんな民を思って生涯を送られる天皇さまがどの時代にもおられ、そのお心は歴代の天皇に引き継がれて決して絶えることが無く続いてきた。一般の国民である我々が、お人柄に憧れ、真似をしようとしても真似られるものではない崇高な心をお持ちの方が天皇であり、その御歴代の思いやりの下に我々は暮らしてきた。
歴史をたどれば、そんな天皇が直接国民を政治や行政の面でも指導された時代もあったし、そんな御帝から征夷大将軍の委任を受けた武将が、俗務政治の部門を担当した時代もあった。そしていまは、選挙で選ばれた代表が天皇の認証を受け、政治を代わって取り仕切っている。ただ、そんないまでも神々に国民の穏やかで豊かな生活を祈り、浦安の国をひたすら祈念しておられるのは昔と変わらぬ天皇さまである。これは日本の建国以来、変わることなく続いている。
この日本という国の本質は、ともすれば世の中を上辺だけで見てそれで良しとする現代では見落とされがちではあるが、これを機会に、もう一度そんなことも思い深めてみたいものである。
いまは歴史上、歪んだ時期とも言えそうだが
世情は日本が歴史上、外国からの敗戦・そして占領を初めて経験したので、外国からの天皇制度に対する圧力がかかり、占領中におかしな政治制度にされたために、政治などには、ちょっと歪んだ形も出てきているようだ。国内の教育などが、教育の目的そのものを曲げられて、国の政体の破滅を理想とするような方針に置き換えられた結果がいまもって続いている。その結果、日本が軽薄短小、上辺だけを見て日本独特の天皇の本質を理解できない者ばかりの国になり、政治家や役人までが歴史を見ず、国の将来を見ない連中、軽薄にその場限りのことしか考えない連中ばかりになって、天皇の持っておられる崇高な御志が公的にはまったく教えられずに、日本の社会を私利私欲や身内の私閥の利益などに目を奪われて暴走、積もり積もって60年、とんでもない状況を呈する時代になってしまった。
頭でものを考えず、感覚的な触感のみで動き回るのだからたまらない。中でも政治や経済の世界は、将来などはまるで考えようとしない者ばかりが跋扈する状況になってしまっている。
現在の状況は、ある意味では日本の国が始まって以来、政治の質が最も低下した時代の一つだということができよう。政治を見るとよい。それを伝える報道を見るとよい。政治家は場当たり発言と朝令暮改を繰り返し、官僚は国民のことよりも、自分の地位の任期中の安定、官僚同士の閥の維持のために狂奔している状況に見える。政治がそうなら実業界などもそれに倣い、自らが生き残るために、国民のこと、公共のことなどに目がいきそうな気配が見えない。上がそうなら国民も国民、教育などでも公徳心や道徳などの重要性が教えられないので、いまが良ければそれでよいと、衝動に駆られてわがままにその日を暮らし、家庭や社会の秩序が壊れ、犯罪が増え社会摩擦が急増している。
そんな中で、ただお一人、朝な夕なに将来のこと、国民生活のことを案じておられるのが天皇陛下だ。
政治の混乱はほぼ頂点に達してきた。「民主主義になったからお前たちが主人公だ。選挙で立派な政治を自由に選べ」などとおだてあげられた国民も、何度も選挙を繰り返したが、「今の情勢がそんな自分らが選んだ結果だ」という現実を前にして、「これはどこかが間違っている」と思い始めた。政治家は口々に「国民の皆さん」などというおだてた発言をいまも繰り返しているが、それをまったく信用できない状況になって来ている。
それが天皇陛下への思いを強める結果にもつながっている。信じられない勝手な連中がたくさんいて、「国民のために」と口先ではいう連中が政治を行っているのだが、よく見るとそんな連中は国民のことなどそっちのけで、自分の地位保全のみに狂奔している。経済不況が深刻化しているというのに、日本国がその荒波を乗り切る方向は示されず、国民の平均的生活は日々に苦しくなり、将来への不安は増すばかり。大震災が起こっても、被災者は一年たっても放置されたまま、極端に寒い今年の気候の中で震えている。
まともな仕事が見つからず、生活保護所帯以下の収入で暮らす人、歳とって誰にも相手にされず、収入もなく、不安な生活を送っている。そんな連中に、政治の手は決して差し伸べられない。ただその中で、天皇陛下だけは、いつもそんな連中を心にかけられ、それらのものの幸せを祈りながら神に彼らの幸せを祈っておられる。
「天皇陛下のために」
現在の法制度の下では、天皇陛下は俗務の政治には権限をほとんどお持ちにならないことになっている。そのためなかなか陛下のお心が、実務の政治には反映できないうらみがある。
天皇さまのことは、憲法の条文などに、天皇の国事行為などとして定めてある。実際はこの他にも、陛下は様々の政治にかかわる行事をしておられるが、その内容はともかく、憲法での表現は極めて礼を失したものになっている。こんな無礼な表現は一刻も早く変えなければならない。敗戦に伴う日本政府の卑屈な姿勢が生んだものだろう。だから私はいまの憲法が嫌いである。
私はそのような軽薄なくせに思いあがった政府の姿勢が排除され、政治がこの国は天皇陛下が見守っておられ、常に神々に対して、実務の政治の繁栄をも含めて、祈願しまつりをされていることの重さを政治が自覚し直すのが喫緊のことだと思っている。陛下のお心は美しく尊い。天皇陛下に尊敬をこめた姿勢で政府が接し、陛下のお持ちになる広い心を大切に政治に反映していくこと、その他の百官の人々もそれに倣うことを強く望んでいる。いまだって法令などには必ず御名御璽がつけられることになっている。それは単なる形式ではない。御名御璽を受けた途端に、法令は陛下がお求めになる崇高な志に清められることを念じて作られた制度なのだ。政治家や官僚はその重さを考えたことがあるのだろうか。
そして将来は
わたしは、政治の俗務から独立されて、天皇陛下専門の非政治的独立機関が生まれることを希望する。それは一時一局の政府の判断などに左右されず、国民の強い指示によって支えられる専門の部局だ。天皇のお仕事には現在の政治にかかわりの深いことと、政治行政の外の広い意味での日本の全般にかかわることの二側面がある。戦前は皇室は独立した宮内省によって運営され、大臣は首相と同格かそれ以上の見識の高い人が就任していた。
宮内省では皇室の行事を皇室の府中(政治とのかかわりのあること)、宮中(天皇陛下のまつり主としての行事)のふたつにわけ、宮中の行事には、政府であってもかかわることを自重する空気があった。この概念はいまはあいまいにされ、宮中のことが役人の歴史に関しての無知や特定の独断により、軽んじられる傾向にある。これは日本の皇室が、今まで持ってきた大きな機能をいつしか失って、薄っぺらな見せかけだけのものへと移っていく危険性を持っていると思っている。三千年の積み重ねられた日本人の知恵が、一時の役人の思いつきなどで変更されることは許されるべきことではないと思う。
皇室は世俗の目先ばかりに気を取られる政府などからは独立して、特に宮務行為などに関しては、お世話する機関自身が独立の財源を持ち、また寄付や皇室独自の財源を確保して、時の政府などに影響されずに活動される期間になるのが理想だと思う。憲法に、天皇の国事行為として定められているような事項に関しては、それは府中の行為に関するのだから、政府の予算を充て、それを宮内の府に渡せばよい。政府は宮中にお願いして、陛下の御承認を受けて政府の国事行為を陛下に執行していただく。それが本来の筋だと思う。
以上、天皇陛下の大手術を機会に、思いついたことを並べてみることにした。