葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

九州行脚の旅

2012年09月22日 16時15分22秒 | 私の「時事評論」

 夫婦での旅

 九州・福岡へ旅をしてきた。私は福岡県の出身、鎮座する筥崎宮に、江戸時代に入る以前から大分県の宇佐八幡の八幡大神に先祖がついて来て、それ以来筥崎宮に御奉仕した神職の家柄に属していると伝えられている。だから福岡には縁も深い。

 だが、生まれは東京、住所はずっと鎌倉だし、九州の地は遠いため、出かけるとなると私一人でのケースが多く、息子夫婦と同居していて、妻は幼い孫どもの世話に追われることになってしまう。

しかし、我々夫婦もだんだん年齢を重ねてきたので、昨年の後半部分を大病して入院していた孫息子の幼児が、無事退院ができたこともあり、祈願をかけた神社にもお礼をし、併せて九州人としての思い出に残る旅をしようと、九州本家での祭りへそろって参加を決めた。時まさに日本国が、戦後体制変革を必要とする終末期にも差し掛かり、尖閣列島や竹島の領土が周辺諸国に狙われ、大きな岐路に立たされ、国は苦難の中であえいでいる。

ついでというより、こちらがより大切な時の流れなのだが、日本という伝統的体質を維持しながら、独立を全うするには大切な時期にも差し掛かっている。国の安泰を祈る神道の世界に生涯をすごした身として黙視しがたい。


 700年前に、「元寇」といって、中国の下に隣国朝鮮までが加わった大軍が、日本を占領し、日本を中国の指揮下に入れようと、大軍を率いて攻めてきたことがあった。中国が元の時代だったが、あの状況と時は隔たっても、いまは同じような条件の下ではないか。


 国防能力は敵に対してはるかに劣り、しかも時代は鎌倉幕府末期の混乱の下にあった我が国は、それでも決然と防衛に立ちあがった。朝野を挙げて挙国一致で対抗をした。我が祖先の奉仕する筥崎宮はじめ全国の神社には、朝廷はじめ全国民が必死に独立の全うを祈念した。

それに神々が応じられたように御神威としての台風(神風)が、ちょうど彼らが攻めてきたとき、二度にわたって九州の戦場海岸に吹き荒れて、攻め来る連合軍は圧倒する威力があったのに壊滅し、お陰で我が国は独立を貫いた歴史がある。


 今回の我が国の尖閣や竹島への備えも決して強いとは言えないが、同じように心を一つにしてこの危機を逃れる道を探れるようにしたい。それにはやはり神々の御加護がほしい。こんな大きな希望も心の中にはあった。


 出かける前に

 日程を決め、航空券を予約して、さて九州に出かけようとすると、今年の暑さの影響か、用心してはいたのだが、数日前から体調が崩れて、夏バテの症状に襲われた。

出発の直前に、日露戦争での奮闘の功績者である乃木大将をまつる乃木神社の創建100年のお祭りに参列し、翌々日に蒙古来襲に対抗して活躍した武家たちの崇敬した鎌倉・鶴岡八幡宮の祭典に参列、精神統一をした上で直ちに出発と決めていたのだが、乃木神社の祭典の終わった夜に、かねて夏の疲れで弱っていた私の身体はついに限界にきて、食べたものはすべて戻して下し、熱までが出て倒れてしまった。

水以外何も飲まず食わずで鶴岡八幡宮の祭典に参列、終わってその足で福岡へ出発する飛行機に乗ったのだが、これがまた、折から九州を襲う大型の台風と重なって、飛行機は大揺れに揺さぶられ、ようやく到着した九州は、超大型台風直撃の寸前であった。最悪の気象条件の中の福岡行きになってしまった。

 いつもの元気は衰弱したわが身に感ぜられず、それでも予定した親族の行事には参列し、合間を縫って私独自の国家安泰の祈願の巡拝を行ったのだが、そんな行事日程において、不思議な偶然が次々に重なった。


 親族祭典を前に、ちょうど台風の襲来時刻に筑前一宮住吉神社に参拝し、次いで台風襲来で御社殿の扉などはすべて雨戸と閂で覆い、台風対応体制を固めている筥崎宮に正式参拝させてもらった。しかし、私らが行くと、不思議に吹き荒れている風が収まって雨も上がる。

「敵国降伏」の神額で名高い筥崎宮などは、穏やかな薄日も漏れる状況になった。そして終わって神職さんと雑談をして退下すると、また再び暴風状態に復元する。

 そのあと親族の祭典が終わり、また少し時間が余ったので、妻を伴い東公園にある蒙古来襲への祖国守護の祈りの中心であった「敵国降伏」の御辰筆を書かれた亀山上皇の像と、元寇に懸命に対抗した日蓮上人の像に参拝したのだが、その時も天候は急に好転した。


 あまりの偶然の連続、これは勝手な思いこみかもしれないが、私は祖国再建への我が願いが、あの原稿と時と同様に、我が国の神々にお聞き入れいただけ、「努力して活動をすれば、神もまた、応援をしていただけるというお約束のように聞こえてしまった。

 そう思うと、今回の福岡出発を前にしての私の苦しみも、大型台風とともに訪れた福岡訪問も、皆筋書きが整ってくる。台風は尖閣諸島から原稿来週の福岡・玄界灘を通り、日露戦争での勝敗を決した宗像大社の沖ノ島を通って韓国へと去って行った。


 余談を付け加えると

 私と筥崎宮には、個人的に忘れられない御神縁がある。私は筥崎宮の末社の一つ、乙子さまによってこの年まで生き続けることができたのだと思っている。

 私がまだ4歳のとき(戦前であるが)、難病とされるネフローゼという病気にかかった。当時の致死率は90%を越えていた。父は全国に医者や治療法を求めて走り回ったが、病状はいよいよ悪くなり、個々福岡市の筥崎宮の末社・子供を見守る乙子さまに、「わが身に引き換えても、この子が世の中のことが理解できる年までの余命をお与えください」と必死に祈願した。

 私は病床に年ほどで、父が捜してきた秩父の山中の山寡の秘薬によって、奇跡的にこの難病を克服し、何といまでは70代の半ばを過ぎた。

 私の同居する孫息子が、一歳半の幼児で昨年突然倒れ、横浜の大学病院に入院することになった。これも大変な難病であった。私は思い余ってこの子の命と私の命とを交換してほしいと鎮守さまに毎朝祈願を続け、またはるか福岡の乙子さまにも父と同様の祈願をした。ところが孫はこの難病に打ち勝って、半年後には元気に退院することができた。

 そんな御縁に恵まれている私は、個人的に筥崎宮にお願いをするのは、もう欲張りすぎることを知っている。

 だが、そんな私でも、一国民として、日本国のためにお願いするのは、鎮座される筥崎の八幡の大神
もお許しになるのではないか。そう思ったので大神さまに、個人的なお礼は頻りに謝しながら、心をこめてお願いした。

 日本の国は、いま戦後のおかしな意識の横行で病んでいる。それは個人の次元に比べれば、私や孫の幼児の時代のような病状なのかもしれない。

 だが日本という国は必ず目覚めるときが来るだろう。その日の一日も早いことを、私も一億国民の一人として精一杯に推進しよう。だが、物理的に眺めて、我々の積み上げた努力だけではここはどうしても間に合わない。どうしても神々の我々日本国民をお守りいただいた大きなご神意におすがりするしかない。

 これが今回、無理をしてでも九州に行こうと、私が決断した背景であった。

 無事にその日程も終え、今日は秋の彼岸の日である。

 先祖の墓標に花を供え、澄んだ心で頭を下げていまこの文を書いている。



 写真は神風の福岡・筥崎宮の楼門。亀山上皇の「敵国降伏」の御辰筆が掲げられている。

民主・自民両党いよいよ総裁選

2012年09月15日 13時10分33秒 | 私の「時事評論」


 民主党と自民党の総裁候補が出そろった感じである。だが、あまり変り映えがしないなあ。いつもの通り、政策の焦点がはっきり見えぬ具体策なき総裁選は、国会での議会制度の終末的衆愚政治による分裂状態が反映して、やたら大勢の候補者たちが乱立して。


 先ずテレビで民主党の候補者が、そろい踏みした格好で政権を発表していた。野田首相はいつもながらの「俺のやり残した政治は俺がやらなければ」といった調子で話していたが、対立候補者たちは野田氏とは対立する立場の連中。それが何と、彼とは共に内閣を組んできたはずの同じ政党の閣僚経験者なのだから「なんだろうねこの党は。党に羅針盤はあるのだろうか」といったことになってしまう。それでもこの党は、今日までに、70名という造反者を切り捨てて「民主党が与党である」体面を整え続けてきたというのだから分かりにくい。よくこれらのメンバーで、数年間でも政治ができてきたものだ。彼らが政治的にはどんな立場なのか、それは党の公約を見るより、個人個人の過去に所属した政党で判断するほかない。一致点はただ一つ、政策はどうあれ、公約は反故にされても、俺らが束になって政権の座に居座り続けたいという思いだけにも見える。


 野田氏に対抗する候補者たちには、対抗するだけの実力者はいないという。結局は野田氏が総裁であり続けるというのが、この総裁選の展望だ。ただ、騒動のたびに仲間が減っていく民主党、いつしか過半数を割ってしまった。今度の総裁選でまた、大量の造反者が出てくることはないのだろうか。民主党にとって、切り捨てるべきは小沢・鳩山の影である。これある限り、小沢の影を消さない限り、この政党はまとまらないし政治はできない。いまでは自分の党よりも、自民・公明などの力に頼り、与党内をまとめなければ政治が運用できない内閣なのだから。


 自民党も行き詰っている。いや、こちらも政党という形はすでに崩れて、自ら行き詰まりを認識する能力さえもないのかもしれない。こちらで目立ったのは、現職の総裁であった谷垣氏が自らの政治の成果を国民に信任不信任の成果を問いたいとしていたのに、「俺が次の首相になりたい」と露骨に動き、それさえも聞かない連中に振り回されて収拾がとれず、「党をまとめるには俺が引くしかない」と早々に立候補をあきらめたことぐらいか。何しろ党内では、総裁の懐刀であるはずの石原幹事長までが、総裁に「立候補を見送れ、俺が総裁になる」と頑張って、総裁は泣く泣く辞職を決めたほどだから。


総裁の任務の実行役であった石原幹事長の動きだけではない。党内では町村氏は安倍氏に立候補をするなと迫り、石破氏も安倍氏に牽制球を投げ、溺れながら互いの足を引いて沈め合う泥仕合だ。だが、毅然たる政策はでてこない。それでいて谷垣氏が立候補を取りやめると、そろって「谷垣氏の政策は引き継ぐ」などと合唱をしたりしている。ならば谷垣氏が出れば分裂する必要もないし、話が分かりやすいではないか。
 下馬評は石原氏一歩有利などといわれているが、その石原氏が、「尖閣を国有化しても、ここには人が住んでいないのだから中国軍は来ないだろう」などという頓珍漢な失言などをしている。これはもう、国防の基本概念そのものさえも逸脱している。
 自民党を見ると、「どうせこれからは一党でイニシアティブをとれない。政党再編で別の概念の政治地図ができるか、与野党合従連衡の政府ができる。その時までは自分の旗色をはっきりさせるより寝技に終始しよう」と決めているようにも見える。


 政党政治が時代遅れになったのか

 国民は何をしようとしてもできないいまの政治に飽き飽きしている。もういい加減で互いに対立しあう政策を掲げ、実行しようとする連中が競い合い、そのどれをとるかを国民が選挙で決める国民の声を生かした政治をする日本国になってもらいたいと願っている。


 だが、いまの選挙戦を見る限り、それは政治家たちとは全く合わない希望になってしまっているようだ。
 何でここまでおかしな国会になってしまったのか。議員たちが寄ってたかって選挙制度を代えたからである。どこかの外国の祭事姿勢が全く違う二つの党が、どちらが勝つかを選挙で決める制度を、全く異質の文化県にある日本に採用した。「政治は腹芸だ」などといわれていた対立より調整を重んじた文化にこんな鬼っ子がのさばって、ただ国民の声が、政治に反映しない制度ができた。
 そんな中での選挙も近い。ひとつここでは政治家たちを選別するいくつかの「リトマス試験紙」を示しておきたい。


 先ず私は政治を自分の生活の飯のタネにするような政治家を信用しない。発言をするたびにテレビに向かって微笑んで、「国民の皆さん」という、とってつけた言葉を頻りに連発する政治家、これは言葉とは反対に、国民の持っている票が欲しくて「ほれ!餌をあげるよ」と猫なで声で発しているのに等しい。彼らは票のためには主張も変える。議員は彼らにとっていまでは就職先なのだ。ゆくゆくはまず、中選挙区制を復活させなければ、日本での政治はうまくいくまい。だが、それまではこんな無意味な騒動を繰り返すのもやむを得ないところなのだろう。