震災地の南会津にて
一年のうちで最も時候の良い季節五月上旬。空は抜けるように青く、若葉が色づき、翩翻と翻る鯉のぼり。男の子の健やかな健康と成長を祈る鯉のぼりを眺めながら、辺りを散策するのが私は大好きだ。
「ああ、あそこでも期待されながら幼い子が育っている」
「ああ、ここにも鯉のぼりが」
庭先に掲げられた鯉のぼりを見て、母屋の中で子供を囲み両親祖父母が明るく笑っている端午の節句。表を歩く私までが、そんなシーンを連想するだけで明るい気分になる。
だからこの時期、私は努めて表に出て、新緑の空気を胸いっぱいに吸いながら歩く。どんなところに鯉のぼりが立っていても、気がつけばちょっと足を止めて眺め入る。私は何を隠そう、鯉のぼり大好き人間だ。
だが、今回紹介する南相馬の鯉のぼりには、すっかり心が滅入ってしまった。
ぽつんと風に泣く鯉のぼり
これはなんという光景だろうか。震災の大津波が街をさらっていった東北福島県の南相馬市。あれから五十日を越すのに、近隣の原子力発電所の放射能漏れの事故で、津波の後片づけさえもままならず、そこらに広がるのは海水の残る市街地と、積み重なった家や車などの残骸ばかり。聞くに津波に浚われた人たちの捜索さえもほとんど進まない。一面がまさに廃墟である。
そんな津波の跡地にぽつんとたてられた小さな鯉のぼり、写真は縁あって親しくしている一人の男、この地で災害復興にいそしんでいる友人から送られた。津波に残った元邸宅の庭であった跡地、いまは塩水がまだ引かない荒れ地にけなげに咲いた水仙の小さな株の傍らに供えられていて、まるでうち震えるようにはたはたと泳いでいる。
目を凝らしてよく見ると「祝」という字と名前が見える。津波に浚われた坊やをしのんで、家人がそっと供えたのだろう。小さな鯉のぼり、それは昨年の節句の祝いのときにでも贈られて、家族そろって喜びの宴でもした時の思い出の品か。おそらくこの子は津波でさらわれてしまったのだろう。お節句も近いのだが遺骸も見つからない。その子の帰還を待つ家人が、いつも愉しそうに遊んでいた屋敷の庭に、その子をしのんでそっと立てたものなのだろう。涙なくして正視できない。
私はこんなに悲しい鯉のぼりを始めてみた。
たくさんの子供たちが海のかなたに消えた
よもやと思う東北地方の大津波はたくさんの子供たちをさらっていった。
写真をくれた友人は言った。
「津波に浚われた人だって、浮いていられれば助かる可能性があったのです。だが、現地で救助活動をしていて感じたのだが、人はどうしたことか沈んでしまうんですね。そうなると家や漂流物の下、ドロドロの土の中にもぐってしまって見つからない。子供の遺体を探り当て、抱きかかえてそっと水できれいに洗ってあげるとき、悲しみがどっと襲ってきてたまらない気持になります。せめて、海上に浮かんでさえいてくれれば、多くの子供が救われただろうに」。
多くの小学校などでも、津波に浚われた子供たちが出た。中には校庭に集合していて、学童が根こそぎ流されてしまったところもあった。津波の被害は想像をはるかに超えた。だが不幸にして波に流されても、浮かんで漂流していれば救助の確率は高かった。そこで友人は提案する。
「学校などでは、津波の恐れのあるところでは、せめて緊急にライフジャケットを用意することです。飛行機や船などに常備してあるあれです。そうすれば津波に浚われても必ず浮かぶことができる。浮かんでさえいれば、数時間のうちに、船や航空機で見つけて救助することができるのです」。
インドネシアの大津波のときでも、数日後に漂流して助かった例はたくさんあった。とにかく浮かんでいられるように。これは津波災害を受けた現地で学ぶ、災害地ならではの実感を伴った貴重な助言だと思う。大きな津波を想定して、いまの堤防の高さを倍にするのもよいだろう。だがそれには莫大な予算と資金を必要とするし時間もかかる。だが津波の恐れのある小学校や幼稚園に、ライフジャケットを整備する費用は比較にならないほど簡単だし、やる気になればいつまでも待つのではなく短時間で装備できる。
子供たちはこれからの人間だ。我々よりはるかに長い期間を生きることができる、人類共通の宝物である子供たち。彼らの危険を半減させる東北よりの生きた助言を、ぜひ取り入れたいものである。
津波の危険が考えられる学校などは、至急このライフジャケットの整備をするべきだと思う。さらに一般の家庭にだって、危険なところでは津波に対する備えはほしい。日本は四方を海に囲まれている。津波に襲われる危険のあるところは多い。そんな家に地震のときにはすぐに着用するライフジャケットがあったなら、津波の犠牲ははるかに少なくなるだろう。
あの小さな鯉のぼりだって、将来はもう、見なくてもよいことになるかもしれないのだ。
こんな対応は明日にでもできることなのだから。