葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

悲しいこいのぼり

2011年04月29日 17時46分31秒 | 私の「時事評論」

 震災地の南会津にて
 一年のうちで最も時候の良い季節五月上旬。空は抜けるように青く、若葉が色づき、翩翻と翻る鯉のぼり。男の子の健やかな健康と成長を祈る鯉のぼりを眺めながら、辺りを散策するのが私は大好きだ。
「ああ、あそこでも期待されながら幼い子が育っている」
「ああ、ここにも鯉のぼりが」
庭先に掲げられた鯉のぼりを見て、母屋の中で子供を囲み両親祖父母が明るく笑っている端午の節句。表を歩く私までが、そんなシーンを連想するだけで明るい気分になる。
 だからこの時期、私は努めて表に出て、新緑の空気を胸いっぱいに吸いながら歩く。どんなところに鯉のぼりが立っていても、気がつけばちょっと足を止めて眺め入る。私は何を隠そう、鯉のぼり大好き人間だ。
 だが、今回紹介する南相馬の鯉のぼりには、すっかり心が滅入ってしまった。

 ぽつんと風に泣く鯉のぼり
 これはなんという光景だろうか。震災の大津波が街をさらっていった東北福島県の南相馬市。あれから五十日を越すのに、近隣の原子力発電所の放射能漏れの事故で、津波の後片づけさえもままならず、そこらに広がるのは海水の残る市街地と、積み重なった家や車などの残骸ばかり。聞くに津波に浚われた人たちの捜索さえもほとんど進まない。一面がまさに廃墟である。
 そんな津波の跡地にぽつんとたてられた小さな鯉のぼり、写真は縁あって親しくしている一人の男、この地で災害復興にいそしんでいる友人から送られた。津波に残った元邸宅の庭であった跡地、いまは塩水がまだ引かない荒れ地にけなげに咲いた水仙の小さな株の傍らに供えられていて、まるでうち震えるようにはたはたと泳いでいる。
 目を凝らしてよく見ると「祝」という字と名前が見える。津波に浚われた坊やをしのんで、家人がそっと供えたのだろう。小さな鯉のぼり、それは昨年の節句の祝いのときにでも贈られて、家族そろって喜びの宴でもした時の思い出の品か。おそらくこの子は津波でさらわれてしまったのだろう。お節句も近いのだが遺骸も見つからない。その子の帰還を待つ家人が、いつも愉しそうに遊んでいた屋敷の庭に、その子をしのんでそっと立てたものなのだろう。涙なくして正視できない。
 私はこんなに悲しい鯉のぼりを始めてみた。

 たくさんの子供たちが海のかなたに消えた
 よもやと思う東北地方の大津波はたくさんの子供たちをさらっていった。
 写真をくれた友人は言った。
「津波に浚われた人だって、浮いていられれば助かる可能性があったのです。だが、現地で救助活動をしていて感じたのだが、人はどうしたことか沈んでしまうんですね。そうなると家や漂流物の下、ドロドロの土の中にもぐってしまって見つからない。子供の遺体を探り当て、抱きかかえてそっと水できれいに洗ってあげるとき、悲しみがどっと襲ってきてたまらない気持になります。せめて、海上に浮かんでさえいてくれれば、多くの子供が救われただろうに」。
 多くの小学校などでも、津波に浚われた子供たちが出た。中には校庭に集合していて、学童が根こそぎ流されてしまったところもあった。津波の被害は想像をはるかに超えた。だが不幸にして波に流されても、浮かんで漂流していれば救助の確率は高かった。そこで友人は提案する。
 「学校などでは、津波の恐れのあるところでは、せめて緊急にライフジャケットを用意することです。飛行機や船などに常備してあるあれです。そうすれば津波に浚われても必ず浮かぶことができる。浮かんでさえいれば、数時間のうちに、船や航空機で見つけて救助することができるのです」。
 インドネシアの大津波のときでも、数日後に漂流して助かった例はたくさんあった。とにかく浮かんでいられるように。これは津波災害を受けた現地で学ぶ、災害地ならではの実感を伴った貴重な助言だと思う。大きな津波を想定して、いまの堤防の高さを倍にするのもよいだろう。だがそれには莫大な予算と資金を必要とするし時間もかかる。だが津波の恐れのある小学校や幼稚園に、ライフジャケットを整備する費用は比較にならないほど簡単だし、やる気になればいつまでも待つのではなく短時間で装備できる。
 子供たちはこれからの人間だ。我々よりはるかに長い期間を生きることができる、人類共通の宝物である子供たち。彼らの危険を半減させる東北よりの生きた助言を、ぜひ取り入れたいものである。
津波の危険が考えられる学校などは、至急このライフジャケットの整備をするべきだと思う。さらに一般の家庭にだって、危険なところでは津波に対する備えはほしい。日本は四方を海に囲まれている。津波に襲われる危険のあるところは多い。そんな家に地震のときにはすぐに着用するライフジャケットがあったなら、津波の犠牲ははるかに少なくなるだろう。
 あの小さな鯉のぼりだって、将来はもう、見なくてもよいことになるかもしれないのだ。
 こんな対応は明日にでもできることなのだから。

天皇陛下の震災見舞い

2011年04月28日 18時54分11秒 | 私の「時事評論」
< 4月27日、震災以来一日も早く被災者たちを見舞い励ましたいとの強いご意向を持たれながらも、救済活動の迷惑になってはならぬと遠慮しておられた天皇・皇后両陛下が震災後初めて東北の地に入られ、宮城県下に行幸された。
 両陛下は南三陸町の震災地を訪ねられ、その災害の激しさを目の当たりにされ、現地で犠牲者たちに黙とうをささげられたのち、同町の被災者を見舞われ、仙台に向かわれて、同じく避難している被災者たち一人一人に親しく状況をお聞きになり励まされた。
 天皇皇后両陛下のお見舞いに、被災者たちは感激、涙を流すものも多く見られた。両陛下は被災者から、細かい震災当時の話を聞きはげましておられたが、中の一人の婦人は、皇后陛下に震災に遭った我が家の敷地に咲いていた、水仙の花を差し出した。皇后陛下は笑顔でこれを受け取られ、大切に胸に抱いて会場を後にされた。
陛下は地元の人に気を遣われて行幸は日帰り。自衛隊の航空機でその夜羽田空港に着かれた皇后さまはその花をしっかり持って皇居に戻られた。皇后陛下と水仙の花は、先の関西大震災のお見舞いのとき、皇后さまが皇居に咲いていた水仙の花を持参され、そっと犠牲者たちに供えられたという皇后さまの優しいお心を象徴する思い出の花。贈った夫人ももちろん、当時のこのエピソードを覚えていて、両陛下のお気持ちをありがたく受け取ったとの思いを託してこの花を差し上げたのだと思われる。日本の皇室と国民との深い心の結びつきの質を強く感じさせる出来事であった。

 すべてを国民のために
 天皇陛下は、東北・関東大震災による国民の被災に心を痛められ、たびたび被災者に励ましのお言葉を述べられる、国民が協力して一刻も早くこの災難から立ち直ることをお望みになるお言葉を述べられ、さらに那須御用邸のお風呂を被災者たちに開放し、牧場や農場の食料などを被災者に提供され、東北・北関東の被災者たちに強いご支援のお心を寄せられてきている。また震災に伴い生じている電力不足にも率先して協力のご意向を漏らされて実行され、国民が協力して立ち上がろうと励まし続けておられる。
 災害を受けた人々には格別に深いお心を寄せられ、震災の直後より一刻も早く見舞いをしたいとのお気持ちを示されていた。ただ、自分が見舞いに行くことによって、災害復旧などに支障があってはならないと御懸念され、災害以来、東北から避難をして首都圏に来た被災者たちの見舞いなどを続けられて、皆を励まして回られてきていた。両陛下のこの種の見舞いだけでも二十数回を数えていた。
 災害も一カ月を過ぎ、去る14日には津波にあった千葉県の旭市に行かれ、22日には茨城県きた茨木市に行幸され、関東地方の行幸ののち、今回宮城県に行かれたが、予定によると、この後、5月2日には岩手県に向かわれ、釜石、宮古市などに行幸され、11日には福島県にお入りになることになっている。

 無私という陛下の特別なお立場
 震災の被災者たちをお見舞いになる両陛下の行幸が、被災者たちの感激を呼び起こしているのは特筆すべきことである。同じ時期、首相や大臣などが被災者への見舞いに出かけたケースとこれを比較すると、まさに天地の違いがある。
 天皇さま皇后さまが、被災者たちの前に同じ目線の高さになるように膝をつき、腰をかがめてお話になるのが、国民の胸を打つ大きな成果を上げているとの指摘はマスコミなどでよく指摘されるところである。
 もちろんそれもあるだろう。だがそれだけではない。だが、天皇・皇后のこの種の行幸には、そんな演出などはみじんもなく、お人柄が国民の心に大きな感動を与えると見るのが正しいと思う。より正確にいえば、その背後には日本に流れる皇室と国民の相互信頼の深くして長い歴史の作り上げた日本国の意識構造がある。天皇陛下は諸外国の王様とはまったく違って、国民のために常に自分を無にしてひたすら祈り、案じ、国民のことを神に祈られている唯一のお方である。日本国にだけ存在する全国民の上にあって、己を捨てて国民のために常に祈り続けられる存在であるとの意識、そのお立場を我々国民は祀り主とお呼びするが、そんなお方が日本には連綿と続いて存在している。我々ばかりではなく、数千年の昔から、我々の先祖たちも同じように皇室というものを抱いてきた。そしてこれは日本が日本である限り、続いていくものなのだ。そんな信念が生きており、それに基づく深い信頼感を我々国民が信じているからだと言わなければなるまい。

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閑話休題  3月11日首都圏

2011年04月21日 18時42分59秒 | 私の「時事評論」
震災の日に帰宅したか

3月11日の東日本大地震ははるかに離れた首都圏でも平均震度は5強以上を記録、通勤などの交通はマヒして大きな混乱を招いたが、このとき、地震にどう対応したかに関する興味深い調査がこのほど発表された。

なおこのような震災に対しては、近く東海地震が発生の危機があるとして、万一の事態にはどう対応するかが早くから計画が練られていた。予想される震災の規模は関東大震災に準ずるマグニチュード8(関東大震災は7.4)が想定され、それは今回の東北大地震よりかなり小さなものではあったが、大混乱を未然に防ごうと、毎年9月1日の防災の日などを期して、かなりの公開訓練が繰り返されていた上に経験した事態なのだということは忘れてはなるまい。



 道路はやはり混み合った

 この調査は労務行政研究所というところが行った結果だが、サラリーマンに「この日、貴方は帰宅しましたか」という調査に対して、「帰宅せずに泊まった」と答えたものが23.9%、帰宅したと答えたものは74.1%であった。

「泊まった」と答えたものの内訳は、「会社」が73.3%、「知り合いの家」15,4%、外部の宿泊施設5,4%。「帰宅した」としたものの中では、「徒歩のみで」37,7%、「自動車」22,9%、「自転車」13,9%、「交通機関(バスや電車等の復旧を待った)」が13,5%、「タクシーなど」が2.7%であった。

震災の日には無理をしてあわてて自宅に帰ろうとせず、落ち着いて行動することが望ましいとされ、帰宅困難者には宿所を提供するなどと準備も進められていたのだが、やはり我が家が心配で家に帰ったものが多かった。当日、これも予想されたことだが、電話が機能マヒしてしまい、家族との連絡が取れなかったものが多かったのもあるだろう。だがこの帰宅者でも、電車の開通を待ったり、歩いたり自転車などで帰宅したものはまだ迷惑はかけなかった。

 問題だったのは無理に車で帰ろうとしたもの。中には自宅から迎えの車を途中まで出すものなども多く、これが道路を完全に占拠して、すべての機能をマヒさせる原因となった。

 首都圏地区のサラリーマンの74%の帰宅者の中の、自動車とタクシーでの帰宅者は率からすると四分の一、全体からみると全通勤者の二割と少しにすぎなかった。だがそれであっても首都圏は車で道路が埋まり、身動きもならない渋滞になった。この日、震度が大きかったので、線路の点検などのため、鉄道はほとんどすべてが止まってしまった。道路という道路はすべて帰宅する車でいっぱいになって、東京では歩くよりも車が遅い始末で、道を埋め尽くした車のために、救急車も消防車もパトカーも動けず、救急防犯機能はゼロになった。
 これは都区内などのほとんどの地域で停電もなく、テレビやラジオの情報機関は機能していて、建物の倒壊などという事故もほとんど出なかった。交通信号などは、少なくとも主要部分は機能していたというに。

こんな中、夜に入って余震の一つでも首都圏で起こり被害が出て、停電でもが同時に起こっていたら、どんなことになっていたのだろう。

 緊急車両のために主要道路は開けておく、これは災害救助などには絶対の条件なのだが、原則は守られなかった。数は少なかったが、東京でこの震災で負傷して亡くなった人もある。私の知人も地震で亡くなった。電話は回線がパンクして通じない。救急車は来ない。レスキュー隊も来ない。これが何を意味するのかをもう少し考えて未然に防ぐ方策をとらねば、東京は大パニックになること必定である。



 今回の地震に対して、世界のメディアなどはその対応を見て

「日本人の規則を守って整然と行動しているのは驚嘆すべき現象だった」

などと報じている。どこかと比べればましだった程度に聞いておきたい。だがこんな状況を放置しておいて、震災などの事故対策は万全だったといえるだろうか。事故が首都圏に大きな被害を出さなかったのは、私には人々が整然としていて秩序が守られていたからだとはとても思えない。

 この地震がもう少し首都圏に近く、しかも時間が昼間でしかも食事の終わった後であり、最も明るく人が落ち着いて行動できる時でなかったら、どんなことになっていたのだろうか。停電した夜の地震、ビルの倒壊やエレベーターの閉じ込め、火災の発生などがあったらどうなったのだろう。



 恐ろしい津波対策

 私の住む神奈川県湘南地区は停電になり、住む人はラジオやテレビで地震情報に接することができなかった。街は信号が消えて車が交差点などで入り組んで、地震直後から道路は機能しなくなった。警察官や消防士には無線がある。一部には防災用の放送塔もある。だが警察消防より地震がどこで起きたどの程度のものかの通知は住民に対してなされず、放送塔は大津波警報が出たことをただ伝え、具体的内容を全く伝えなかった。

しかも警官も消防士も消防団も、津波警報で海に集まってしまい、町から姿が見えなくなった。幸いにして地形が幸いしたのか津波の害はなかったのだが、事前に調べていなかったのだろう。あるいはもっと軽微な津波しか来ないと軽く見たのだろうか。間違えばわざわざ被害を招くような避難までが現れた。

皮肉にも市では、この震災の直前に防災マップを印刷して、そこに津波の警戒地域を示して全戸配布を行った。それは先の関東大震災でここに大きな津波の被害が出たのを参考にして、その時津波が襲った地区のみを危険地域とし、その前には天保など江戸時代にはもっと大きな津波がやってきたのだが、それはまったく相手にしていないものだった。

それを見ていたのか、地震だというので、地域の小学校などでは、全生徒を校庭に集めて列を組ませて座らせて、地震の去るのを待ったという。

ちなみに私の孫が通う小学校は、天保の津波の際には家が次々に浚われた地域にある。大津波警報が出ているというのなら、校舎は三階建の鉄筋なのだし、警報発令とともにそちらに異動させるのが常識だろう。現に東北地方の港町でも同じように校庭に子供を集合させ、校舎は上だけ残ったが、子供たちが波にのまれた悲惨な例があった。一歩間違えばとんでもないことになるところだった。

今回の地震は歴史的にも未曽有といわれる規模のもので、津波も観測史上初めてのものだった。そんな地震にまであらかじめ、巨額の予算を用いて準備することはできないかもしれない。だが、孫の小学校のように、5メートルまでの津波ならやっと逃げられる校庭に集めるよりも、初期の振動が収まったら、10メートルの津波にも耐えられる校舎の最上階に子供らを避難させるぐらいの対応は準備するのが普通ではないか。大津波警報が出されているのだ。

考えてみるに防災マップが逆に、こんな危ない場面を導いたのかとも思えてしまう。



未曽有の地震とあきらめる前に

 東北地方の震災は本当にお気の毒だった。だがその他の地区の防災関係者は、この大きな災難から真剣に学ばなければ、東北の多くの犠牲者の御霊を慰め、二度と同じ過ちを重ねないと誓うこともできないではないか。もしこれが私の住む地域で地震が起こっていたら、いったいどんなことになってしまっていただろうか。これで本当に良いのだろうか。迅速な情報網とともに、万一の際の対応のために、もっと本気で準備を密にすべきだとしみじみ思った次第である。


風評被害考――これは立派な醜さだ

2011年04月20日 13時23分26秒 | 私の「時事評論」

 人間というものの特徴
 人間は一人一人を眺めてみれば、ほとんどが心の優しい人間である。他の人を傷つけないように生き、協力し合って生きる心を生まれながらに持っている。それは人間という生き物がこの世に生れて、大いに種族を増やして生きていこうとする意識、生物が持つ、生き残るが上の本能と密接につながったものとも言えると思う。何も人間に限らず、この世に生きる動物も植物が生まれながらに身に付けた「種族保存」の本能とも密接につながっている意識なのだろう。
 だが、個々にはそんな善意の人間も、何人もが集まって集団になると、なりそこなって群れとなり、個々の人間の個性の集合体とはまったく異なる性格を帯びた集団としての性格を発揮することになる。
とくに人間は、他の生物と比較して、生き延びるために他の生物とは全く違った進化の歴史をたどってきた。人間の群れはライオンやトラなどの群れとは違い、頭の中で考えるという行為を武器にして、道具を使い言葉を使い、身につけた知識を子供や孫に伝え、自らの身体を鍛えるよりも、道具を作り出して協力し、個々の生物個体では考えられぬ猛烈な力を作り出し、これによって生き延びる方法を生み出し発展してきた。
 自分を冷静に見てみるがよい。身体を守る毛も生えていない。走る力も飛ぶ力も、噛みつく力もなく、フグやサソリのように相手を倒す毒も体内に持ってはいない。他の動物から見たら、まるで無防備な美味しい餌そのもののような格好をしている。寒さにも暑さにも抵抗力もない。けれども群れをなし、服を着て家を作り、道具を使い交通機関や通信機械までを使って、他の生物とは全く違った文化を作り、独特の進化をしてこの世界を我が物顔にのさばっている。
 陸上のいたるところに家という巣を作り、学校を作って知的武装をし、道路や鉄道という行き来する施設を張り巡らせ、船や飛行機などを使って海の果てまで交流し、暖房・冷房で身を守り、農業や林業、漁業や畜産業などで他の生物までを支配する、他の生き物から見たら恐ろしい存在だ。

 けだものと人間の差はどこにある
 他の動物を「けだもの」などと差別する人間たちの力の源泉は、頭を使った集団による知識の蓄積とその教育、それらを生かし合った集団としての共同生活を快適に過ごす社会を作る生物だ。神をつくり道徳を生み出し、生み出した技術を積み重ねて共有し、途方もない力にまで発展させて武装している。他の動物にも家族はある。集団もある。だが人間以外はそんな武装力を積み重ねなかっただけに、人間と他の生き物には、これだけ大きな差が出てしまった。
 人間でもそれぞれ各地の集団には、それぞれ独自の生い立ちと発展史があったが、やがて各地の集団は、互いに交流する時代となり、互いにさらに影響も受けて発展する現代になった。それぞれの集団は、よく見ればそれぞれ個性を持っている。そんな中で、天然の地理的半鎖国状態の中で、激しい人間同士の争いを経験せずにすみ、一貫してユニークな歴史を続けてきたのが日本だった。そんな条件の文化圏である日本に、今回大きな地震が訪れた。そんな前提条件で見てほしい。

 日本社会の美点はどこに
 日本文化の特性は、様々とある世界の文化の中で、最も共同社会での調和した皆の生活を尊重する点にあった。困っている人がいれば皆が心配し、彼がうれしい顔をすれば、それを自分のこと以上にうれしく感ずる心が色濃く感ぜられる社会ができた。今度は逆に、自分が困って行き詰った時は、他の仲間が同じように優しい心で助けてくれる。そんな心理が文化を支配した国だった。日本をまとめる首長としての天皇がいたが、天皇の役目はそんなみんなの心の代表としてまつりを行い、皆の幸せを祈ることだと信じられてきた。こんな天皇ができ、こんな文化が育った。それが日本の特徴だった。
 だがこんな日本の文化も、世界の様々な文化と交流する時代となった。世界の中には文明が日本とは別の方向を目指した国もあり、そんな文化の中で、特に仲間のことより自分を優先し、将来のことより今を優先して生きる文明もあった。そんな文化は派手に見えて羨ましくも見え、それにあこがれるものも増えた。将来の皆のために我慢するよりも、目先の楽しみを追ったほうがよい。そんな気風も流れ込んできた。
こんな日本に今回大震災が訪れた。もちろん今でも日本人の社会は、養い培ってきた文化の特徴は色濃く残している。だがそれとともに、あのかつては人間どもの恐怖の天敵であった野獣の心、「俺さえうまくいけば、仲間などはどうでもよい」との心や、正確な知識であるかを考えず、「周りの人が傷つかないだろうか」との配慮もない行動がやけに目に付く現象になった。これは日本が少し変わったからだろうか。野獣の心といえば世界には、百獣の王ライオンに憧れ、それを国の紋章にした国などがいくらもある。それを眺めて私はそんな思いさえ感ずるのだ。
 大規模な津波で街がいくつもなくなってしまった。つぶされた家の下、海に流された人を助けるためには燃料が要る。家もなく身を寄せ合う人が暖をとる為にも燃料や食料が要る。そんな情報が伝えられると、従来の日本人なら、彼らの救済のために、無駄遣いはやめて資源を回せばよいと思うところだ。だが現実には、まったくこれには関係ない地域に住む人がガソリンスタンドに行列し、おかげで救助用のガソリンまでが手に入らなくなった。
同じくスーパーや食品店に行列ができ、必要以上に皆が食品などを買いあさり、被災者救済の食料確保も困難になった。
原子力発電所の放射能が漏れているとのうわさが広まると、今までなら、安全な地域の人は、危ないところの人を自分のところに受け入れようとするところだ。ところが汚染された水が出たというと、心配ないところの住民までがペットボトルの水を買い集めた。
こんな現象が次々に起きて、救助活動を遅れさせた。もちろんこんな現象は多くの善意の中での特殊な例と言えるかもしれない。だが、いくら小さな動きだとはいっても、実に不愉快な現象だった。
 原発の放射能漏れの影響は、一週間経てばまったく問題にならない水準に戻るという。何カ月も水を買いためてストックしてみても、結果は無駄遣いと他人への妨害以外の何の役にも立たないものだ。それなのになんでこんな馬鹿げた買い占めに走るのか。この日本に住む人の心が汚染したことにほかなるまい。
正確な科学知識も放送され徹底されている。なんで正しい情報に耳を傾けないのか。心が穢れて、冷静な知識に耳を傾けられなくなったのか。
原発の放射能漏れで避難した人たちがのがれてくると、そんな人たちを「汚染されている」と排斥し、汚染された伝染することがない照明をしてほしいと拒絶する地域があったという。ただでさえ悲しい思いをしている被災地の人の傷つけるようなこんな自治体や住民たち。放射能とはどんなものか、そんな知識も身につけようとせずに、わざわざ悲しい思いでいる避難者の心を傷つける行為がこの日本にあったのだ。

 風評被害、自分らが愚かであり、人の痛みに対する思いやりに欠けるばかりに、困った人を傷つける行為、こんな話を聞くたびに、これでも日本は、人々が睦みあい、協力し合って生きる文化が残っている国なのだろうかと悲しくなる。

 見落としてしまった共同体意識
 一人一人を見る限り、我らの仲間は善良な人たちだと私はこの分の冒頭に書いた。だがそんな中からこんな動きが出てきてしまう。これは現代の日本が、集団で生きる場合の研究、共同社会で皆で寄り添い合いながら生きる心の寛容を忘れて、大変なわがまま放射能に汚染されてしまったことを示しているように思われる。
 今回の震災からの復興には被災地の以前以上の状態への復興がまず第一であることに異論はない。だがそれだけではこの日本はよい社会に回復したとは思えない。日本中にいつしかはびこりつつある悪しき心、配慮を忘れた軽率な心、正しい情報と誤ったデマを見抜けない愚かさ、こんなものから解放される祓いをしなければならないのではないだろうか。
 

震災地へ鎌倉からのメッセージ

2011年04月18日 13時06分59秒 | 私の「時事評論」
震災地へ鎌倉よりのメッセージ

 さわやかな朝
 さわやかで少しひんやりとする鶴岡八幡宮の朝だった。今日の行事の成功を祈念して皆の集合場所に行くと、素手の仕事用の衣装に着替えてきびきびと皆は立ち働いている。本日の主役の馬たちはこの気候がすっかり気に入ったらしく、いつもより張り切っているように見える。
 朝礼の後本日の射手たちは馬とともに流鏑馬の参道に。ここの馬場は南北に連なる神社の参道に直角になる東西方向に参道と正面でクロスしている。800年前の頼朝の時代から、流鏑馬を奉納するために設計された馬場であり、1、2,3と続く三つの的の2の的とかつては頼朝も眺めたとされる正面席を過ぎたところで鎌倉海岸から山上のご本殿まで一直線に続く表参道を横切る。
 そのため、馬が馬場を駆け抜けるときには、参道にロープを張って参拝者を規制しなければならない。鎌倉の八幡宮は古都鎌倉の中心的名所で、首都東京からも近いため、全国で参拝者の最も多い神社である。しかも季節は花の候、東北大震災に遭った人の気持ちに配慮して一カ月ほどはここ鎌倉も自粛ムードが漂って、観光客も激減していたが、自粛ばかりではかえって日本の経済は縮小し、復興の力も出ないとの呼びかけで、花の候とともにまた、参詣に来る人も急に増えてきた。参道の遮断は彼らに負担をかけることになるが、みな快く協力をしてくれた。
 神事は午後の一時から始まる。だが境内は昼前から、東北復興協賛の「天長地久、鎌倉から」と刷り込んだリストを買い、馬場に設けられた椅子に座って開催を待つ人、あるいはせっかくだから練習風景だけでも参観しようとの人たちでごった返し、要所に設けられた募金の箱には見る見るうちに参拝者の浄財が集まった。

 盛大に行事始まる
 午後一時、参進開始、その昔、静御前が九郎義経をしのんで舞を奉納したと伝えられる舞殿で復興早期祈願の神事の後、ぎっしり詰めかけた協賛の拝観者、それにこの機会に拝観しようとの一般参拝者の前で流鏑馬の披露、終わって射手たちも復興義捐金の募金に協力した。参道には我々のほかに、鎌倉観光協会の呼びかけにオール鎌倉として参加した地元鎌倉市をはじめ各主団体、鎌倉まつりが中止されなかったら各種行事で活躍が期待されたミス鎌倉はじめ多くの人も加わったが、装束のままで演武を終わったばかりの射手たちと協賛ののち一緒に記念写真を撮る人などが続々と続きなかなかの盛況。予定の時間が過ぎても続々と申し出でがあってどこでけじめをつけるか迷うほどの活況。鶴岡八幡宮での神前での東北地方へのエールは、久しぶりの明るい雰囲気を醸し出していた。
 私も今回の復興企画に流鏑馬の奉納奉仕をした大日本弓馬会にかかわる者の一人である。この鎌倉の地から、縁故も深い東北の地に送った「元気を出して復興に励んでください」との励ましの声が、鶴岡八幡宮の大神さまの後押しを受けて、そのまま伝わることを確信した一日だった。
 行事が終わり、事故もなく盛大に行事が終えられたことを大神さまに感謝し、皆で無事成功を祝い合うささやかな直会には、鎌倉市長や観光協会の会長も喜んで参加してくれた。
 一日晴天の中を走り回った身体にしみこむような酒の味だった。

神威よ東北の地に輝きたまえ

2011年04月16日 17時17分05秒 | 私の「時事評論」
 震災早期復興祈願のやぶさめ

 急きょ、鎌倉で東北関東大地震早期復興祈願の流鏑馬をやることになった。

 東北の震災復興祈願になぜ鎌倉で、しかもなぜ流鏑馬なのか、首をかしげる人もあるかと思う。

 だが、実は大いに関係がある。

 鎌倉は源頼朝が栄耀栄華をほしいままにする「奢る平家を」に代わり、質実剛健な武家の幕府を築いた場所である。彼はここに関東武士や東北地方の武士に支えられ、幕府を立てた。鎌倉時代、源氏を支えた大きな力を東北の武士たちは果たしていたのだ。

 その頼朝が一途に尊崇の誠をつくしたのが鎌倉の鶴岡八幡宮である。頼朝は八幡宮に天下泰平、万民和楽、五穀豊穣を祈念して流鏑馬を奉納した。疾走する馬上から的を射抜いて日ごろ磨いた技能を神さまに見ていただく。この伝統はあれから八百年、いまに継承されて、ここ鎌倉の八幡宮には、春と秋には鎌倉武士の誇りを受け継ぐ流鏑馬が奉納されている。

 秋は八幡宮の大祭に奉納されるが、春は鎌倉まつりが鎌倉観光協会の主催する鎌倉まつりのメインイベントとして、毎年私らの流鏑馬が奉納されている。



 今年も四月に実施の予定であったが、三月に予期せぬ東北大震災が起こり、東北・北関東地方に多くの被害が起きたため、この鎌倉の春祭りは華やかな行事は相応しくないと一旦は中止となった。だが、中止になってみて、黙って静かにしているだけでは震災被害者に遠慮をして謹んでいるだけで何の力にもなることはできない。流鏑馬は神さまに祈願をする神事である。これを費用は皆が負担して、八幡さまに東北の震災からの早期復興を祈願して、東北復興のための募金活動をし、願意とともに浄財をすべて被災地に送ろうではないか。

 そんな声が四月に入ってから強く上がって、急きょ流鏑馬を実施しようということになった。自粛ムードはそれだけ経済を緊縮させ、まわりまわって災害復興の活力を損なうことになる。東北へ、ゆかりの鎌倉からエールを送ろうではないか。流鏑馬が行われることになった環境である。



 通常の演武ではない。

 春の流鏑馬を主宰してきた観光協会が呼びかけ人になって、それに市長はじめ鎌倉市も協力、地元の様々な団体が協力することになってたちまち従来に倍加する団体なども協力することになり、かくして祈願奉納行事が急きょ実施されることになった。私もこの鎌倉の流鏑馬の団体には縁がある。それに生まれたころからの鎌倉住まいのフアンだし、戦前からの鶴岡八幡宮の崇敬者、頼朝公は私の尊崇する武人である。鎌倉武士に思いを寄せるだけに、流鏑馬を修業している団体の指導者の方たちとは親しいし、付け加えて私の中学校の恩師の一人はここの師範でもある。秘伝の技法を継承し、さらに苦労して研究を深め、この鎌倉に活動の本拠を構えた創始者とも、様々な点で御縁も深かった。ついつい力も入ろうというものだ。

しかも奉納の願意は頼朝公もお喜びになる。八幡大神も御嘉納になる。今回の流鏑馬は通常の行事に加えて被災地への義捐金募集も内容に含むため、作法などには前例の記録もなく、苦労する面もあり苦労もしたが、関係者と協力して準備を進めた。

 交渉は切羽詰まった時間との勝負でもあった。私のように神事と行事のはざまにあって、どうすれば神事の格式を維持しながら、神様もお喜びになり、参加者や拝観者にも効果があるかなどという面を担当する役はまだ楽である。だが裏方として主催者間の調整をし、費用をねん出して馬を集め、道具を運び、馬場を整備する役、神社や各団体への打ち合わせなどを進める役は大変だ。そんな手配に駆け回る人は、連日追われっぱなしの忙しさであった。だがいよいよ挙行は明日。本日皆で馬場の整備状況を眺め、したく準備の部屋の状況を見、神社と打ち合わせをしてきたが、天気予報も問題なし。鶴岡八幡宮の桜も満開は数日前に終わったがまだ花をつけている。新緑も美しく境内を飾り始めた。

 

 いよいよ実施を明日に控えて

 急きょ決まった行事だったが、幸いにして一般の方々の反応は順調のようだ。拝観席の予約券は順調にさばけているし、当日は日曜日、一時は止まっていた鎌倉への観光客もどっと集まってくるだろう。皆の奉仕の結集が、東北地方の復旧にお役に立つことができそうな見通しである。

 そうそう、当日拝観の人々に配るものは、腕の巻く小さな白いアームバンドが一つ。そんなところにまで費用をかけるわけにはいかない。ただその腕飾りには「天長地久」という流鏑馬の祓い詞、それに「鎌倉から」という言葉が記されている。

 天地の邪悪を祓い、再び神さまの威力が東北の地にみなぎるように、鎌倉からの願いを込めてともいうメッセージだ。いまだに余震が続くこの土地が、再び麗しき国土に復活するために、あすは一日、全力をささげるつもりでいる。


井の中の蛙

2011年04月15日 07時16分42秒 | 私の「時事評論」
<f人間に大切なのは引け際の美しさだと思う。



 見事な進退を成し遂げた人は

後々までも人物として語り継がれる。

逆に老いや迷いの無残な最期を選んだ人は

過去の業績までも評価されなくなる。




 民主党にもほとほと困ったものだ。

 「菅が首相をやっているのではこの危機的状況は乗り切ることができない。」

鳩山氏と小沢氏が鳩首会談して話し合ったというニュースが流れた。おれたちが再び国政の表舞台に出ようじゃないかというのだろう。

 前半の部分はまあ、正常な現状分析だと言えるだろう。まともな人なら、現在の多くの危機に見舞われて翻弄されている日本の状況を見て、そう思う。

 日本は国民を乗せ、津波に呑まれて翻弄されている一艘の船のような状況だ。百戦錬磨のベテランの船長が見事に舵を操作して寄せくる大波に対処しなければこの船はやがて木っ端みじんになって海の藻屑に消えそうなところだ。だが、日本丸の船長菅直人首相は海を知らない、航海術も操船能力もない。ただ、彼にあるのは、国会でやっと手にした首相の椅子の座り心地と、日本丸の船長という、皆のトップとされる地位にありたいという執念だけだ。

 「この波には面舵がいいです、いやとり舵がいいです。前進です、後退です。」

とワアワア騒ぐ指揮下の閣僚や役人、彼の能力などはまったく信用していない部下たちがてんでにわめいているのに振り回され、

「抜本的に、理想的に技術の粋をつくして無事に操船にあたれ」

など中身の全くない命令を出し、船は右や左に勝手に舵を取りながら、スクリューを前進や後退を意味なく繰り返しながら大波に流されていく。

 日本丸に乗っている国民たちは不安だ。船長はマイクを持って船内に

「大丈夫です。万全に安全な港に着けるよう取りうる抜本的方策を検討しています」

などと放送しているが、誰も彼を信頼していない。運が悪かったためにこんな船に乗ってしまったと後悔している。こんな状況といえるだろう。



 菅首相の幸運、国民の不運

 東北地震がなければ、国会内部の大地震で、首相は予算関連法案が通らなくて政権を投げ出さなければならないところだった。

 だが、歴史上初めてという大地震がやってきて、こんなときに政権争いなどやっている暇があるかとの国民心理に支えられて首相引き下ろしが一休みとなり、首相として震災復興の旗振りをしようとおそろいのジャンパーなどを着こんでみたのは彼にとっては幸運だった。

 だが、彼には実力も指導力もない。今を見て将来を見ての指導性などとても発揮することができず、一刻を争う救済策は進まない。おまけに地震で壊れた原子力発電所は、これを再び稼働させることなどをもくろんで、瀕死の病人に場当たりの延命治療のような対応策をしているうちに、事態はいよいよ深刻化して、当初はほんのちょっとした事故だと言っていたのが、そのうちあそこも壊れここもダメで、発表するたびに、世界が恐怖を感ずる重大事故に重症化していくばかりだ。こんな素人的な対応策はどうやらあきらめたようだが、国民の不安は解消に向かっているとは思えない。

それどころではない。震災被害者の救済までが、放射能の漏えいが日を追うにつれて深刻化して、前に進めないで頓挫している。一体どうしようと思っているのだ。

 それでも事態を乗り切りたいと思ったのだろう。国会では野党の自民党や公明党などに閣内協力を呼びかけたのだが、その後に行われた統一地方選で、各地で想像以上の敗北を喫し、与党にはもう、国民の支持がないことが示された。野党各党は協力するよりも、いまは政府をいじめて息の根を止めたほうが早いと、協力にまでしり込みを始めた。また決断が長引く。事態は混乱する。国民にとっては重なる不運だ。

 その上に、大きな余震も収まらず、国民の不安を煽る。適切な啓蒙もしないので、被災しなかった地域での風評被害や買いあさりが状況をいよいよ悪くし、自粛ムードで国民生活はいよいよ縮み経済は縮小、国民はモブになっていよいよ状況を悪くしている。

そんな中、政治を助けてくれる援軍もなく、政府は孤立状態に陥っている。残るは首相の並はずれた権力の肩書に対しての執着心だけ、こんな状態だと見るべきだろう。



 いまさら出てきて何になるか

 そこにきての冒頭に挙げた小沢・鳩山鳩首会談だ。伝えられるところによると、二人は菅民主党内閣に介入し、積極支援を話し合ったようなのだ。

 援軍ができそうなのだから心強いと見るかもしれない。だが思いだしても見てほしい。彼ら二人が今まで与党でどんな働きをしてきたたかということを。彼らはあの一昨年(もう遠い昔のような気がするがあれから二年も経っていない)、初めての民主党内閣の創設から、その幹部として登場し、民主党内閣への国民の期待を無残な失望と怒りへと転換させた張本人なのだ。彼らへの失望と怒りが、彼らが公言した沖縄基地で、朝貢貿易的外交で、財政逼迫下のバラマキ垂れ流し財政で、自らの立場もわきまえぬ皇室に対する不敬で、ありとあらゆる失政で、国民の怒りを次々に買った張本人だ。彼らが政権の座にあった時、党内でじっと我慢して沈黙をしていた、ただそれ故に菅直人は首相になるチャンスをつかんだ。そして菅が我慢の甲斐あって、首相の座に就いた以降は、二人はなんとか菅を引きずり降ろそうと、国民への政治責任などはまったく無視して、党内抗争のみに明け暮れてきた。

 思い出しても見てほしい。彼らがその後に取った行動や、国民不在の失言の数々を。

 こんな連中がいまさら党内立て直しなどと言って出てきたところで、党勢が上向き、国民が歓迎することなどはあり得ない話だ。さすがに彼ら二人を政権の座に就かせるために、鐘太鼓ではやしたてたマスコミも、今度は簡単に踊らないだろう。

 彼ら二人がそろってやることで国民に歓迎される方法は、くだらない党派内外の抗争などは一時やめて、今の英知を結集しての内閣でも作り、菅首相には俺らと一緒にもう、政治の世界からは手を引いて年金暮らしでも始めるほうが、国民のためになるよと助言することぐらいしか残されていないと思う。

 大震災とそれに続く余震は、この日本を見守る神々の、民主党の、そしてその他の政治家たちへの怒りを象徴しているようだ。また、それと同時並行して起きている様々なご判断や人為的ミスなどの人災事故は、判断ミスはもう、彼らに任せておいては避けられないことを示している。


 日本列島大祓いの勧め

 政治の世界を見回して、良いことなど見当たらないのが現実だ。そんな日本でも、今回の大震災で目に付いたのは、国民生活、社会意識の面では、どんな苦しい時であっても、秩序を乱さず整然と行動しようとする日本の長い歴史が作り上げてきた共同社会の一員意識が発揮され、お互いを同じ日本に暮らす同胞として、助けあって行こうとの国民意識が大いに燃えあがったことであった。

 羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くという言葉があるが、戦後の政治は先の大戦に日本が負けたのは国民が一つにまとまっていたからだと短絡的に反省し、日本人の養ってきた国民性を否定して、一人ひとりの国民が、共同生活の一員であるより前に、個人主義的西欧的な意識、合理主義の精神を持つべきだと、周りのことより自分のことを大切にする社会を目指して活動してきた。教育も宣伝も、そんなことばかり訴えて、そしてそれがかなりに深く浸透した背景が、今回の政情混乱の基礎となり、今の民主党政府につながっていた。

そんな政治の目指した状況がたどった先が菅内閣なのだ。そして戦後60年以上の政治教育が全く効果を上げず、国民にまだ残っていた近代合理主義者からは「封建性」と批判され蔑まれてきたものが、最近再び大きな美点として国民に意識されるようになってきた。それが今回の地震で発揮され、世界が注目した震災時の日本社会の動きであると見なければならない。



日本列島は大祓いするべきだ

今の日本に必要なのは、やや神道的表現になるが、日本列島大祓いの実施であると私は思う。戦後政治の誤りによって、けがれ果てた様々な埃がこの国土の上に積もり積もっている。けがれの最も大きいものは、思い上がり助長の唯物主義だ。この日本はこの土地を見守られる神さまの見守られる国土であり、我々は昔から、自然を管理し見守られる神を通じて天然自然を大切にし、それと調和しながら謙虚に生きるというセンスを否定し、人間こそ、個人こそがまず何よりも大事だとして、勝手気ままにわがままに動くことを正しいとする気風を捨てることだ。人間もこの神々の見守られる自然の中の一員である。日本人の悠久の昔から大切にしてきた意識、我々は個人である前に先祖から我々、そして子孫へとつながる家庭や共同生活集団の一員である。そんな我々はその地域の神様への共同の祭りを通じて人間同士、また神様とも一体になって行動するという原則だと思う。

固いことを言おうとしているのではない。協力し合って和やかに暮らす中にあって、みんなが豊かに発展することを何よりも大切と思い、そんな地盤の中で自分の向上発展を目指す。そんな生き方を取り戻すことだ。我々日本人はそんな社会を目指してきた。

精神的な気分転換、今の政治の求める行き方の否定、そんな大祓いが必要なのではないか。

そのひとつの鑑として、私は震災に際して呼びかけられた天皇陛下のことをいつも念頭に置いている。短いコラムでここまでは触れないが、やがてこの問題にも目を向けて一筆したい。


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挙党内閣論に対して

2011年04月04日 21時38分22秒 | 私の「時事評論」
災害時と平常時のけじめ――東北関東大地震への提言



 はじめに

 三月に起こった東北地方大地震は、もうあれから一カ月になろうとしているのに、被害の集計はおろか、犠牲者の収容作業すら終わらず、加えてどんな災害にあっても大丈夫と言われた原子力発電所が大破して、放射能漏れという、あってはならない事故までを起こし、対応のめどすら立たない。時間ばかりがいたずらに経過している。

 もう、これだけの時間が経ってしまったのだから、瓦礫の底に生き埋めになり、洋上を漂う生存者を救助する可能性はほとんどない。我々は無能な政府を放任し、指揮系統さえ固まらないままで大震災を迎え、必要以上に犠牲を多くした責任をひたすら痛感するばかりである。

 被災した何十万の人の中には、大勢で集まっている避難所に暮らす人の外にも、傾いた家で救助の手から忘れられて放置されている人、知人・親類などのもとに着のみ着のまま避難している人もたくさんいる。マスコミなどはどうしても、多くの人の集まった避難所などの取材ばかりに傾きやすい。より深刻な状況にいるかもしれない人々の救助・救済の対策は漏れのないように慎重な気配りが人道上も必要とされる。それにしても思うのは、災害などの非常時と平常時の違いをはっきり認識し、非常時に秩序を整えて国民を引っ張ることのできる政府の必要性だ。



 事故発生以来、政府は首相官邸に対策本部を作り、精いっぱいの対応をしようと取り組んでいる。その姿勢は評価してもよいが前向きではない。何せ菅内閣に対する信頼感は最低で、各省庁に対する指揮系統すら破壊され、官僚たちは反発し、国会は理性を失くした与野党の国民無視の風潮で予算も通らぬ騒動の中で起こった災害だった。内閣自体が地震に先駆けて政界地震に遭ったような状態の中であった。しかも首相は国民に夢を与えるよりは「最小不幸社会」のスローガンを掲げるなど、後ろ向きであった。

 平常時の対応すらまともにできる機能を喪失している中での今回の非常時だ。政府は震災前からすでに機能停止の状態であったと言ってよいだろう。

「これは大変な事態が発生した」という国民の非常事態意識に後押しされるように、災害救助本部は発動し、それに国民の中にあるボランティアの動きなども加わっての救助活動は始まったが、どんな目標を立てて災害復旧に取り組むか、中央からは見えない現地での細かい配慮をどう取り入れるか、さまざまな問題が表出したのは当然だった。こんな政府だったので現状では、閣僚がおそろいのジャンパーを着て動き回る程度以上の、際立った成果を期待するのは酷なのかもしれない。平常時の政治をまともに円滑にできないものに、急に非常時の対応への取り組みを求め、あれこれ批判するのは酷に過ぎる。

私が入手するニュースでも、首相が平常心を失ってヒステリックに喚き散らしているとか、記者会見などででも、形容詞を連発するだけで、具体的な独特の政策や方針は何も出せず、官僚的な報告待ちばかりだなどとの評のみが聞こえるが、やむを得ないといわねばなるまい。悪夢のように思えるが、それが今の日本の実情なのだ。



 しかしここではまず、政治に不満を言う前に、東北地方に地震災害の報に接して、ただちに応援を申し出た諸外国など国際間の様々な協力、黙々と救護活動に従事して、今まだなお困難な状況下で活動をしてくれている自衛隊、自治体、その傘下の警察、消防、運輸、輸送、通信、各種業界、民間団体や個人などの活動に感謝するのが先であろう。

 国際的な救助の申し出の陰には、人道意識のほかに日本という国が今まで諸外国に対して、親切に対応し、困った時には援助も惜しまなかった行為の積み重ねがある。こんな日本の姿勢が、この未曽有という大災害の実情を見て、百数十の国々から、直接間接に応援を受ける地盤となった。私は平素、ODAなどの日本の援助に、無目的な顔の見えない垂れ流しであると批判をし、国際的な企業展開などにも批判的な意見を多く書いてきたが、こんな効果は認めざるを得ないと思う。

また自治体職員はじめ自衛隊や警察、消防などの救助機関の活動の背後には、まだ日本人の心の底に残っている国民意識の影を感じた。「困った時はおたがいさまさ」。これには全国民に大きな影響を与えた先の天皇陛下の大震災に関して出されたお言葉の効果などとも重なるが、日本民族の心の底にある国民性にも大きく影響していることだろう。もちろんこれだけで日本独自の意識とは言えないが、それは日本の長い歴史がはぐくんできた独自の共同体意識とつながっている。



 平常時と非常時の区別

 最近になって、「政治家や国会議員の能力が極端に低下した現状だから、この際せめて超党派の与野党連立の内閣でも作って、事態収拾に挙国一致で動いたらどうだろう」という声がしきりに上がるようになった。そしてその動きはまだ水面下ではあるが、だんだん国会などから表面にもみられるようになってきた。これは先日、菅首相が野党自民党の谷垣総裁に、閣僚に加わってくれないかと電話で打診、谷垣氏がこれを拒否したころからだんだん表に出てきているが、私はこれも考えてみてもよい方針だと思っている。というのも、今の国会にはまともに政治を国民のために実施することのできる人材が極めて乏しい。しかも彼らが与野党の二つに分かれてしまって対立しており、国会は国民のための政治を行うことなど先送りして、ただ相手をつぶすことのみに狂奔してきてしまったさなかにこの地震が起きた。

今の与野党はどちらも目立った政策上の対立はなく、国会の場での争いも、ただ各政党が徒党を組んで、何党が首班となり政治を取り仕切るかの一点だけで争い合っているような国民不在の状況下にある。そんなことならこの際、せめて国会に残っている頭脳を一つにまとめ、日本国の復興という一点に絞って協力したほうが早いと思っているからだ。

 だがこれには条件がある。いつまでもこんな与野党一致状況を続けていたのでは、やがてこの一致政府にはカビが生える。翼賛会のような政治をするのでは、政党政治は共産圏のような状況になる。あるいは大正末期から昭和の時代の西欧模倣追従の時期につながる可能性も無きにしも非ずとの懸念も捨てきれない。今の衆議院の任期がくる二年半ののちにでも、今の自民と民主の枠組みにこだわる必要はないが、復興後の行き方を含めて、政策の違いを明瞭に国民に示し、必ずその期限が来たならば政権を譲渡するとの条件付きでの賛成になるが。

 

 まず取り組まねばならないこと

 復興の進め方にもいろいろあるだろう。だがまず、いま取り上げる目標は、政策の違いなどは現れにくい共通の目標である。それはいままであった状況への復興であり、災害でマイナスになったものをプラスに転ずるその前に、ゼロの水準にまで回復させる作業である。ここまでは、過去の状況からの回復が参考になるから計画が進めやすい。我々が初めて経験したという大規模な震災と、これに伴う津波によって東日本の国土はほぼ崩壊した。その国土の、再びそこに住んでいた人々が明るく暮らせる復興事業である。ゼロへの復興と簡単に言っても、昔のままの復興は無理だと言える。また、これだけ地震の津波が猛威をふるったそのあとに、いくら千年に一度の大津波といっても、また同じような津波が来たら、必ずまた今と同じになる街へと再興することは無駄である。津波への要塞のような国土を作ることは無理かもしれない。だが、災害の恐ろしさを知った人々が、最低限度の被害で無事に災害を乗り切れる備えとそこに住む対応策を固める、これがなければ災害の教訓は生きない。

あの大正時代の関東大震災の直後、東京市長であった後藤新平は内閣に入り、震災に強い東京への再生を目標に大復興計画を立案した。道路は広く、建物は震災や火災に強く、その他多くの震災の教訓を生かし、被害を最低限に抑えようとしたものであった。これはその後の政局の混乱で原敬首相の暗殺事件などがありそのままでは実現されず、規模がかなり縮小され、それが東京大空襲などの被害をいよいよ大きくする原因にもなってしまったのだが、せめてこの後藤プランの決定辺りまでの段階を、超党派政府の復興とみてもよいのではないだろうか。もう少し津波に強く、人々が再び簡単に波にさらわれにくい街づくりをして、再びこの地に戻る人は避難対策なども徹底して戻る必要があろう。

それらの力、資金は、政治の積極的な介入により、主として震災に遭わなかった国民の負担を重点にして進められるべきであろう。



 東北と北関東の今回の被災地は、今回の地震の後遺症ではっきりしたが、いつしか将来の日本の発展の基礎にも大きく関わりを持った地域になっていた。そんなこれからの期待がもたれてきた東北・北関東の沿岸は、地勢上、今回のように近海ばかりではなく、海に面した太平洋一帯の津波の災害をまともに受けやすい地形でもある。日本国の頭脳を結集した回復策が与野党一致の応援のもとで進められることを期待する。「臥薪嘗胆」という言葉がある。我々はこの言葉をもう一度国の流行語にすることを求められているような気がする。



 日本の進路を再び見直すためにも

 そこまでの回復には、挙国政府のもとの取り組みがよいと私は考える。これはまた、いまの日本の状況を見て、厳しい災難であったが、我々が古くから信仰し、共通に信じてきたこの国土を見守りうしはく(=見守られる)神々の啓示であるとも言えると思う。戦後、といってももう戦後は65年にもなるのだが、それまでの日本の独特の民族性であったともに暮らす家族や隣人、共同社会などの生活をことさら否定し、周りの者のことなどを考えず、ひたすら己の欲望を満たすことのみを追求することが近代的な生き方だと徹底的に教え込まれ、それまでの先祖の育んできた郷土や共同社会との一体感を「封建的な遺物」として否定し軽視してきたのが日本であった。自然を恐れ、神として謹んで敬うことを放棄して、自らが何より大事な主人公と思いこんできた我々の思い上がりへの警告でもあった。

 無神論の唯物主義、そんな空気が学校教育などでも進んで教え込まれ、日本の風土は荒んできていた。そんな日本の社会が行き詰まり、あらゆる面でぎくしゃくし、親が子を殺し、子が親を殺す非行事件は急増し、社会になじめない若者は急増、老人は若者から疎外されてぽつんと暮らし、勤勉な労働の蓄積で蓄えられていた国民的財産は使いつくされ、政治は呆れるような状態で停滞し、不満ばかりが高まっていた現在である。

 そんな中、国民の中からは、かつての同胞が睦みあい、いたわり合い、村祭りを楽しみ、善意で生きることに憧れをもつような空気が生まれ、様々なボランティアなどが日本の社会の心の隙間を埋めるものとして意識されるような中で起きた今回の震災であった。

 このコラムは、今我々が当面する非常緊急時としての挙国一致の内閣が望ましいか否かを論ずるもので、日本の歩んできた歴史の中の長短を論ずるものではない。そのためあまりここに深く入り込むのは避けようと思うが、そんな日本を築き上げてきた先祖たちの善良さを慕い、ここでもう一度日本という国の進路を国民として眺めなおすためにも挙党態勢は望ましいと思う。



いつまでも挙党では困る

 だが、いくら国民が一致して団結して事に当ろうといっても、いつまでをそれを続けるのには反対しておこう。それは往々にしてヒステリックな独断と偏見の押し付けをもたらし、競争心を欠如させ、創意工夫を殺してしまうからである。社会の発展には皆がさまざまの意見を出し合い、競い合う競争状態にあることを必要とする。また競争に打ち勝って大いに発展しようという空気があることが、明るい雰囲気を社会にもたらす大きな力となる。挙国一致で復興に着手する日本にも、必ず甲乙、どちらの方法をとるのが望ましいかの国民の選択を求める時点は生じてくる。

 私はそんな状態を今回の衆議院が任期を迎える二年半ののちが望ましいと思っている。

 二年半ではもちろん、今回の災害で被害を受けた地域の再活性化にはまだまだ早い。復興の計画は設計図ができ、インフラの整備に着手した時点であるかもしれない。だがそれでも、政治にも経済にも創意を生かし、発展をするためにも体制の転換が望ましいと思う。

 挙党体制で持って皆が設けた回復路線を認めたうえで、その後の立ち直りに弾みをつける。社会を徐々に平時体制に切り替えていくのにそんな時期が必要なのではなかろうか。