葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

小沢さんは方針を変えたらよいよ

2010年12月25日 16時33分51秒 | 私の「時事評論」
予行演習にすぎない学級委員会や生徒会


 最近、国会が小中学校のクラス会に、内閣がまるで学級委員会のように、首相が生徒会長みたいに見えてきた私である。

 まだまだ親や社会に保護された子供たちの集まる小・中学校、少々世間知らずの非常識な集団で空論を話しあっても、これは大人になるまでの訓練時間であると考えれば、ある程度はみな、口もださずに我慢して眺めている。

 だが、それにしても最近の学級崩壊、いじめなどの頻発は憂慮すべき問題だ。放置ばかりはできないが。

 小中学校に通う子供たちが、親や先生や周りの社会の人たちの監視が薄まって、立派な大人に育つまでは、年齢にあった躾が必要との見守る監視力が無くなったので、野放しになってしまったからだろうが。

 人は、たった一人で生きるより、集団で生きるほうがはるかに暮らしやすいことを歴史に学んで集団を作った。集団の協力で、人類は世界の生物の中で段々大きく伸びていく力ができた。集団で生きてきたからこそ、力を併せて自分らより数倍強い強敵をも倒すことができた。しかもそのうち人類は道具を覚え、様々な技術を覚えた。それらの新しいものを集団に取り入れて仲間にも教え合い、集団として生きる文明を作り上げた。

 一人ひとりでは力がないが、集積された文明を生かして共同し、ここの生物では考えられないような力を発揮して協力し合って生きるのが人間の特徴だ。そんな基礎を身につけるのが学校教育の目的で、生徒会だって将来への準備である。

 原始人や類人猿から、文明人に急速に育てるために人が生みだしたのが、人間を育てる学校である。

 その学校では、社会に出る訓練として学級会やそれを集めた生徒会などの組織が作られ、学級委員や生徒会役員もある。これらは社会に出て、会議の運営や政治の制度などになじむ予行練習とみてもよいだろう。

 成人したものから見ると、ずいぶん浮き上がって未熟な面や、深刻なせめぎあいとはかけ離れたような面もあるが、それは学校の制度であり、未熟な予行演習であると見ればやむを得ないものと見ることもできる。




 大人の制度の学級委員会化

 だが、最近の国会や政府・内閣などを見ると、それが生徒会や学級委員会に似てきていると感ずるのは私ばかりではなくなっている。民主党の内閣なんて全く生徒会そのもののようで、その決断で日本という共同社会(国)の運命が定まるのに、それに対する緊張感もなく政府の座に座っている。これはまた、なんという退歩か。

 国会議員にも将来に対しての理想やビジョンや責任感はなく、選び出された首相も生徒会長並みであるから、いまや日本は追い詰められて、これだけ危険で不安な政治環境なのに、国民生活そっちのけのむなしい議論ばかりを続けている。

 付け加えるならマスコミもそうだ。従来のマスコミにはそれでも国の将来に関して、政府以上に厳しく眺め、国民に愚かな感覚で衆愚政治へ走るのを忠告する面もあったのだが、一転して最近の国政の低俗化は、マスコミの果たした悪しき業績そのものだと見なければならない。どんな政治があるべき姿なのか、そんなマスコミ自身が定見もないままに下らぬスキャンダルまがいのニュースで大衆をかき乱し、国政が堕落するのに拍車をかけている。マスコミの果たしている日本の白痴化衆愚化の責任は、マスコミが押して送り込んだ議員同様、あるいはそれ以上にさらに大きなものに数え上げられねばなるまい。

 

 愚かな小沢一郎論議

 そんな国政運営でいま、最も大きな癌の一つになっているのが、国会での小沢一郎をめぐる際限なきやりとりである。小沢が自分の持つ政治結社で、いかがわしい資金操作をやり政治資金規正法に違反したらしいという指摘があった。

 小沢は資金操作は適法に行ったと胸を張っていたが、マスコミなどの指摘によって、違法性の疑惑があるらしいということになった。小沢は検察庁などで調べられても、検挙されずにうまく逃げたが、マスコミの火をつけた世論がうるさく、ついに異例の再告発を受けることになった。

 法は道義ではない。小沢のように「法に触れなかったから私は正しい」と胸を張るのは法と道徳の混同した無知識と言わざるを得ないが、果してこの小沢の資金運用の適否が日本国のいまの国政を停止させてまで論議するべき価値があるものか。はっきり言って、今のレベルの国会で、検察以上に小沢をやりこめることはできっこない。それに、たかだか数億円にかかる不正疑惑に、100兆円の国民への国民の生きるための予算審議をあとまわしでもよいとする国会議員のセンスが狂っている。そんなに小沢つぶしのために審議追求がしたいのなら、小さな特別委員会でも作って、国政審議とは別の機会においてするのが常識である。

 それを言い出さない国会、あるいは指摘しないマスコミは、国民生活に背を向けた連中と言わなければなるまい。国民層で常識のあるものはみんな呆れている。



 小沢は場所を変えて戦うべきだ

 議員やマスコミが愚かであることを、小沢もそろそろ逆手にとるべき時期に来ている。小沢は政党を率いて国政のトップになり日本国を自分の思うように引きずりたい野心があった。その野心ゆえに、わざわざ危ない資金疑惑の網を潜り抜け、子分を率いて国会を制し、ボスの座を思うがままにしようとした。

 だが、表の世界で首相になり、国民を喝さいさせて引っ張るのには人気もまた必要である。追求の理由が正しくても正しくなかろうとも、ここまで小沢に対する国民のイメージを落とされたのでは、笑顔を絶やさず国民に微笑みかけても、もう首相の座について共和政治制度で国民を直接引っ張ることはできない。小沢は現状を逆手に取る時期に来ている。

 かくなる上は国会議員などという人気商売には見切りをつけて引退し、黒幕としての実力発揮に心すべきだろう。それこそ彼の得意とする法に触れずにあくどい金をもうけ資金を作り、それで愚かな議員どもを自由に動かし、自らの政治信念を力でもって発揮するようにすべきだと思う。

 かくいう私は小沢の政策には批判的だ。彼の政治センスには優れたものもあるが、彼の頭には日本の培ってきた独自の文化に対する尊重の心がない。皇室に対しての一連の発言と実績は、彼の認識が日本の歴史を知らず、しかも法に触れないことは良いことだと勝手に短絡する軽薄さを秘めている。さらに日中関係で露骨に出てきた彼の朝貢貿易的体質も、国というものの独立の価値を全く無視する軽薄なものである。土建屋談合政治から生まれ育った体質も、決して国民のためとはいえないものである。こんな欠点ばかりを備えた彼は、私にとっては彼が政治を志し続ける限り、最も批判し唾棄すべき政策の持ち主に見える。

 それでも、せめて国政をまともな首相に交代すれば、そしてまともな議員が出てくれば少しは生まれ変わって日本国が生き延びるためにも、私は彼に黒幕を目指せと強く求めるものである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿