葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

論を整理して新しい時代に備えようー③

2011年08月31日 11時59分36秒 | 私の「時事評論」
廃墟のままの震災地のあと

 政府が地震後の問題処理に取り組んでいる姿勢がよくないと、我が国内には政治不信の声が渦巻いている。

 被害にあった東北や北関東の人々に聞けば、その不満の声は怒りにも聞こえ、その背後には日本の行政機構に対してのあきらめの感情すらみられるようだ。
 千年ぶりと言われる地震に国土を破壊され、その上に十メートルを超す大津波になめつくされた被災地には、いまだに新しい建造物もたたず、津波に破壊された膨大なごみが山と積まれて異臭を放ち、風が吹けば砂塵で目も開けられない始末だ。

 通常の震災後なら、6カ月もたてば、後片付けや整地も終わり、そこここには再建の槌音も聞かれるところだが、津波に襲われたここ東北の市街地や農地には、地盤の低下の対策も打たれず、太平洋岸の港湾都市は津波に壊された漁業などの工場設備が無残な残骸として放置されている。

 都市整備工事は被害を受けた地域の再開発の設計図が定まるまで、みだりに手をつけるなというのが国の言い分のようだが、それなら、どのような再開発の方針で行くのかと言えば、そこはまだ青写真もできていないという状況のようである。

 国の指導方針が固まらなければ、指導を受ける県も市町村も勝手に動くことはできない。復旧のめども立たず、地方の自治体もため息をつくばかり。

 そんな行政の対応の遅れは、いまの政治状況ではやむを得ないと諦めざるを得ない。それなら民間の手で自主復興を応援しようと数千億円の救済の寄付が民間の手で集められたが、この種の寄付金も日赤やその他の団体にまでは集まっているが、肝心の被災地でどこにどう配分するか、誰に配るかなどの行政の対応が不十分で、なんと被災者の手元にほとんど渡されないというのだから、行政の力をなくした現状の及ぼす影響は深刻だ。

 さらに震災の結果起こった原発事故に関しては、いよいよ手のつけられない状況である。津波が襲って福島第一原発が破壊された。事故は最近になって、対応が遅れたために深刻化したことが明らかになってきた。

 事故の直後に米国が、在留する自国の関係者に「関西地方まで避難」を呼び掛けたのも、冷静に事故を眺めての対応だったようだ。日本政府や東電は、事故そのものが深刻なものであり、急遽万全の手を打つべき緊急のときに、事故責任者として、目の前で深刻な事故が起こっていることを信じたくなく、保身の反応に動く誘惑に勝てずに、事故が軽微なものであるとの希望的観測にとらわれてこれを発表し、深刻な事態への対応の決断が遅れて事態を悪化させたようだ。事故に直面してこんな姿勢で動いたのだからたまらない。

 事故は終息するどころかますます悪い方向に拡大、今度は政府自身が原発対応の深刻さに気をとられて、原発以外の震災復興の対応に手が回らないような事態まで生み出した。

 事故はまだまだ手が打ち終わらず良い方向に動いていないが、加えて事故の最初の段階の爆発で、広い範囲に放射能をまき散らす爆発が起こっていたことも見落としたためか、汚染は報ぜられるよりはるかに広く拡大し、いまだに食品や土壌の新たな放射能汚染の事実などが相次いで発覚、「安全である」という政府の発表が相次いで撤回されて、信用できなくなった国民層に、必要以上の政府不信の雰囲気が高まってしまった。


 もうひとつの日本国の権威

 政府の発表や対応は信用できないという不信の思いは精いっぱいに高まった。
行政というものはどういう性格のものか、それをしっかり認識しておくことは、政治の基本である。単なる視野の狭さや思い込みで、思わぬ欠陥ができていないか。

 そんな準備が政府の指導部にも、実務を担当する官僚にもできていなかったことが、今回の地震では狼狽を大きくすることにもつながった。
 
こんな事態に加えて、民主党の菅内閣は重なる失政を次々に重ねた。

 ECや米国の金融危機によって巻き起こった為替不安は、日本の景気後退に歯止めがかからず、景気がいよいよ停滞する中で、不景気なのに猛烈な円高を生み出し、日本経済の息の根を止めそうな勢いだ。

 国庫の赤字が限界を越して膨張し、不景気で失業が増え、税収入が激減し、加えて高齢化社会に突入し、国家財政がパンク状態になってきたのに、民主党は子供手当はじめ人気取りのバラマキ政策を際限なく続けようとし、公約の国の隠し預金の摘発はさっぱり進まない。

 思いつきの場当たり政策や空想的な独善政策を掲げながら、自らの不明朗な政治献金などが続出して国民の人気は下がる一方である。

 加えて首相が口先で議員をだましたような手法で内閣不信任案を交し、閣内不一致発言や相次ぐ失言、出来もせぬ方針などを連発、8月には戦没者追悼式で、首相自身が意味のないだらだら挨拶を辞めずに天皇皇后両陛下をお迎えしての戦没者への黙とうを約束の時間に出来なくさせるなどの、主催する立場を忘れた無責任ぶりを発揮、国民に「もう菅氏は首相の座にいてもらいたくない」と、しみじみ思う事態に発展した。

 こんな国民意識を逆なでし、混乱が最高潮に達しつつある我が国内の現在の情勢だが、注意して社会の動きを眺めると、そんな国政の展開とは別に、国民意識の中に、いままでとは違った動きが出てきつつあるのが注目すべき現象となってきている。

 それは日本中に、まともな政治を求める動きが少しずつ出始めていることである。

 一例をあげると、国民統合の象徴である天皇のもとに独立国として伝統を重んずる社会としてまとまっていこうとする傾向がだんだん濃厚に感ぜられるようになってきたことがある。

 今回の震災が起こった直後に、天皇陛下はテレビを通じて、国民に対してビデオメッセージを発表され、この厳しい国家的な規模の被災に、全国民が協力して立ち向かい、この災害を乗り切ることを訴えられ、日本人の伝統的に持っているお互いに協力し合い、育みあう心に訴えられた。

 その御発言以来、両陛下はすべてのお仕事を調整されて、お忙しい中を震災の被災者の見舞い、激励に集中されるような活動を展開された。

被災者には、お手元金からお見舞い金を送られたのは勿論のこと、那須の御用邸や関連施設を被災者救済に活し、食料援助やお風呂の提供などくつろぎの余裕が提供され、両陛下は行幸が救護活動の邪魔にならないようにと、はじめは被災者たちが避難している首都近辺の施設の御慰問から、津波の襲った千葉、茨城の各県、そしてやや落ち着いて東北各県を回られたが、政府の見舞いや視察にはあれほど冷たい視線を送る同じ被災者が、天皇皇后の両陛下には感激し、どこにおいても涙を流して感謝する姿が見られ、その差のあまりにも大きく対照的な光景である点が注目された。


 憲法などのもっと底にある国民意識

 どんな形に憲法が代わり、規定する法的な位置づけが代わっても、学校教育でいくらそんな時代ではなくなったと教えても、国民にとっての天皇陛下のお姿は昔と少しも変わっていないことが、全国民の前に示された。

自然の恵みに恵まれ、豊かな風土である日本は、それとともに地震や津波、火山の噴火等が頻繁に起こる天災の多い地形でもあった。

 そんな我が国では古くから、地震は我々の住む国土を統べる神が、そこに住む人々に対するお怒りであると解釈されてきていた。

 そしてそんな大災害が起こった時、我が国のまつり主であった歴代の天皇は、その災害は大御宝(おおみたから)である国民ではなく、その民を統治する天皇御自身の統治に対する神々のお怒りであると受け取って、神さまにお供え物をして、神さまのお怒りを和らげる厳粛なお祭りをし、あわせて被害にあった民の救済、もたらされた被害からの復興に力を入れられてきた。

 臣下はそんな天皇のお姿を見て、自らもそれにならって生活を質素にし、被害救済に力を入れてきた。
 こんな長い日本人の信仰の歴史、震災の歴史が日本の古典には多く残されている。

 そのような天皇のお気持ちは、古代から現代まで、変わることなく天皇のお心(=大御心)として代わることなく継承されてきている。

日本の皇室が、世界でただ一つ、古代社会から現代まで、連綿として継続してきた結果である。日本人は精神的には、どんな時代もそんな皇室の精神的な影響のもとにある。

 あの関東大震災が起こった時、当時は大正天皇が御病気で、お役目を摂政宮として執行されていた後の昭和天皇が、被害者の救済と事故からの復興に率先の力を傾けられた史実も伝えられている。

 今上陛下が阪神淡路大震災や新潟震災の時に率先被害者のお見舞いに全力を傾けられたことは、我々の記憶にも新しい。すべて、歴代の天皇に脈々と通じて流れる大御心の発現なのだ。

天皇は日本国の祀り主として己を捨て国民のために祭りをされ、国民はそんな陛下のもとにあることを強く感じて生きていく。

 この心理関係が、表面的には過去の遺風である日本らしさを制度的には一新し、欧風一辺倒に変更したとされる日本の中に、依然として、しっかり遺伝子のように生きている。それは生きている我々の血液のようなもので、何でもないときには意識されないものなのかもしれない。

 だが、困難に我々が直面した時には大きな支えとなるものだ。

 その存在が今回の震災で証明される形となった。
 

これも陛下の終戦のご詔勅

 震災のあとに、天皇陛下がテレビを通じて発表されたビデオメッセージを、所功氏は昭和天皇の終戦のメッセージを例に挙げ、これと同等の貴重なものだと発表した。この所氏の受け取り方は素晴らしい。

 昭和天皇の終戦のご詔勅は、原子爆弾という前例のない残虐な兵器の使用を前にして、この状況をそのまま継続しては、人類文化が破滅するとして、戦争敗戦により、受ける痛みは甚だしく大きいが、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで」国民に再起のために立ち上がろうと呼びかけられた詔勅であった。

大きな震災発生のニュースに接し、天皇陛下がやむにやまれぬお気持ちから、国民に向けて発せられたお言葉であった。

 今回のメッセージも終戦のご詔勅も、その内容は酷似して、国民が受けた震災の被害は大きいが、全国民が結束してこの災禍から立ち直ろうとのお言葉であった。

 そして国民には、あの勅語と同じように受け取られた。

この現象を単に六法全書のみを見るようなセンスで眺めたのでは何も分からないが、社会全体を広い目で見ると、日本には今でも依然として、天皇の統治され、日本国民のために祈られる広い意味では社会の組織が、依然として古代から連綿として存在していることを浮き彫りにしている。

 憲法には天皇は国民統合の象徴ではあるが、国政に関する機能は持たないことが明記されている。

 実務の政治は国会議員や内閣の組織する憲法に基づく日本国が権限をもつものと規定されている。
しかしもともとこの国は天皇が国民を統率し、国民のために神々に対して祭りをされる国なのだ。

 そんな神話に基づく伝統的な日本人の意識が、神道的な社会意識が多くの変遷を経過した後であるのにかかわらず、変わることなく続いている。

 どうしてこの意識は日本人の意識から、何千年が経過しても消えないのか。

 それは日本中に何万という神社が変わらずに存在し、その信仰が天皇の祭りと結びついている。また同時に、全国の神社は、そこの参拝し、集い、祭りに参加する全国の人々の心の中に結びついている。

 こんな神社の存在と、日本の社会を構成している家庭や町内、学校、趣味の会から同窓会、歌やお茶、いけばな、芸事、趣味、など様々な横の組織、それを維持する先祖から子孫への家庭の縦糸、先輩から後輩への縦の糸、そんなものが組み合わされてできている日本の構造が、何千年の長期にわたる歴史を経て、法律や規則のような明文ではないが、不文の慣習として出来上がっており、それが同じく時代の流れを共有してきた皇室と、密不離につながっているからであろう。


日本における天皇の統治と行政の実権


 ここまで書いてきて思い出していただきたいことがある。それは日本においては、この国を統治される天皇と、その天皇の権能の一部である政治や経済などの実務の権限を行使する将軍との間に、「奪う奪われる」の紛争ではなく、比較的平準に権能の授与がたびたびおこなわれてきたという歴史である。

これは諸外国の王制とそこから実験を奪い取った新たな権力者との間ではかなり違っていることに注目していただきたい。

 日本以外の諸外国の例の多くは、権限の移譲は独裁支配の権限をもっていた従来の王などから、新たにそこの支配権を自力で固めた新たな権力者が、腕ずくでそれを奪い取り、それと同時に従来の王朝を廃絶させ、場合によっては腕力で根絶やしにした。ところが我が国ではそんな例は起こらなかった。この日本列島の中にはそんな発想をする新権力者は出てこなかった。

 天皇は全国民を集めた祀りの最終であり、文化や学問、芸能、生活全般を統括する立場である。

天皇はそのすべてについて、その御祖先である天照皇大神から、穏やかに平和に暮らせるよう統率せよとの命を受けて高天原からこの地上の国に下られた瓊瓊杵命(ににぎのみこと)→初代神武天皇(じんむてんのう)の御子孫にあたり、たとい新しい権力者に政治の実務を渡されても、新しい担当者の行った政治の責任まで、祭りにおいては天照皇大神に報告する義務がある。そのことを新権力者も納得した条件のもとに限られた政治の実務の実権をお認めになり(征夷代将軍の発想)、その上で実験行使をお認めになった。

 肩書はともかくとして源氏平家の時代から、織田・豊臣・足利・徳川幕府の時代、みなそうであった。私は戦後の憲法下に時代も、そのような天皇の政治の一変遷家庭と見ることができると思っている。

そんな戦後の時代が60年以上経過して、その間、自民党や連立内閣など、様々な内閣が出現し、それぞれ失政も重ねたが、時の征夷代将軍の地位にある民主党幕府の菅直人将軍が政治を誤ってついには失脚した。

 その間、天皇はそんな国内の情勢を、おのが力の至らないことではあるが、責任は我にあると天照皇大神初め神々にまつりで奉告(報告)されていたが、震災の時、実情を見かねて国民にお言葉を発せられ、皇室のできる範囲で精いっぱいに救済にもお力をお出しになっている。

 そんな事情を本能的に知る国民は、原価の政治環境に絶望をし、天皇陛下に大きな期待をもって接するようになってきている。
そんな風に時を読むべきなのではないだろうか。

(つづく)

論を整理して新しい時代に備えようー②

2011年08月30日 15時52分55秒 | 私の「時事評論」
舶来の技術が定着できた風土

遠からず近からずの日本列島

 何度か私のいままでのブログにも書いたことだが、日本列島は人々が集い、永続的な文化を発展させていくのには素晴らしい地理的条件の上に存在していた。

 いまでこそ世界は一つにつながれて、世界中どこにでも自由に往復できるような時代になったが、それは交通などの手段が格段に発達した現代のこと。

 それ以前は、ここ日本列島は文明が発達し、侵略されることなく発展していく上に、私は世界で最も優れた条件をもっていたと思っている。

四季のめぐりが穏やかで、規則的な気候に恵まれた風土であるのは勿論のことだが、ここは日本民族が住みついて以来、安心して独立を維持し、同時に諸外国の最新の技術文明をとりいれて発展していくことができるという、地理的にも恵まれた条件に合致する場所であったと思う。

 海を隔てて割合に近いところに、世界文明発祥の地の一つである中国大陸がある。

 大陸で発見され、発明された文明や技術は、船に乗った中国人、日本人たちの往来で、比較的容易に時間を経ないで日本に伝わった。

 文明が伝播するためには、その技術をもった人、その文明によって生み出された発明品を携えた人が、少人数でも、船で往復することができれば可能となる。

 日本と大陸とを隔てる海路は、そんな人たちの交流を可能にする程度のものであり距離であり、昔から、船で数日もあれば互いに到達できる位置関係にあった。

しかし日本の歴史をみると、外国からわが国に襲ってきた異民族によって、この日本が占領されたり支配されたり、人々が皆殺しにあって文明が断絶した歴史はない。

 過去には元寇のように日本占領を企てた攻撃もなかったわけではないが、これとても海に囲まれているという条件のために失敗せざるを得なかった。

 海は文明の交流路ではあるが、陸続きとは違って、日本にある国そのものを力で滅ぼすような大量の人間(軍勢)がまとまって一時期に攻めてくる危機に対しては防波堤の役割を果たし、日本の独立と文化の継続を保証して来た。

 そんな二つの側面は古代から、日本が黒船を迎えて開国の決断をした時代まで、日本は地理的条件に支えられていた。

世界を見回しても、日本のように何千年の文明が中断されずに続き、王朝や国内の制度が中絶をせずに継続的に発展して現代に至った国は世界を探して他にない。

 どこの国も五つの大陸と地続きであったために、集団で人々が往復することが可能で、その結果、戦争や侵略により文明は中途で切断されてしまい、また日本以上に海を隔てて、他の文明圏との接触が不可能であった新大陸や洋上の孤島の文化は、文明圏との往復交流が不可能だったために文明の発展から取り残されて、かえってそれにより文明を維持できなくなり、近代の大航海の時代に入って、異文明の西欧諸国の支配するところとなってしまった。



 さらに大きな天皇の存在

 もうひとつ大きな日本の個性となったのは天皇制度の存在である。

 日本の天皇制度は古代に成立した古い制度だ。

 日本のほかにも、同様の文化的起源をもつ君主は過去には存在したのだろうが、現存するこの種の元首は日本の天皇制度だけだ。そんな天皇制度は長い間にいよいよ制度的には磨かれて、現代にも立派に生き、国民の等しい尊崇を受けて日本統合の柱として機能し続けている。

 この世界の国の、どこももう持たない天皇の存在が、今後の日本の文明の繁栄を保証し、行き詰っているかに見える我が国の起死回生の特効薬になるというのが私の確信するところである。

ところで日本の天皇制度はどのようにしてできたのか。

 敗戦までの我が国では、日本の神話「古事記・日本書紀」などとともに、その成立史とその後の歩みは気味教育で教えられていたのだが、いまではほとんど教えられない。

 西欧文明、日本独自文明否定の風潮が日本の教育現場を支配しているからである。

 だが、最低限度、この論を進めるにあたって、必要となるところだけを踏まえておこう。

 日本列島は温帯モンスーンの中で、大きな目で見れば四方を海に囲まれた土地であり、ここに住んでいた人々はこんな気象と地勢の中で、同じような原始的な信仰をもって発展した。自然の恵みなどを、自然現象をつかさどる神々からの恵みとして受け取り、農耕などの豊作を神々に祈り、また収穫を感謝する信仰が日本列島の信仰の中心であったが、その日本列島上でもいくつかの同様な信仰をもっていた各地の文明圏が、ヤマト民族により一つにまとめられて日本という国が出来上がった。

 そうして出来上がった日本には、日本をまとめたヤマト文明圏のまつり主であり長である代表が初代の天皇という役につき即位した。

 天皇は統一された国内の様々な文明圏の、祭りの対象であった神をまつる施設を、それぞれ天皇はじめ、その信仰の発生した地域の大切な神社として維持し存続させ、やがてそれらの神々を天皇自身の祖先神である天照皇大神を天上の高天原で補佐する神々と規定して、ここに地上の国日本の統治形態と表裏するような形での全国の神々の位置づけも固められた。

古代国家日本はそのような形で建国され、天皇はそのようにして位につかれた。

 日本の国土はそれぞれ、神々への祭りを中心とする共同社会によって、それまでも山の頂上から海の河口まで、地域地域の共同体の作業を中心に整備されていたが、天皇はそんな従来の制度もおおむね存続させ、祭りと行政の両面を失うことなく国としての制度を整備させ、これに加えて中国文明から漢字や文章をはじめ様々な制度、信仰、技術や文明品など様々なものをとりいれて、日本国の環境や制度に合うように充分吟味して国内に普及された。

 ここに舶来の文化が、日本に吸収される際には、天皇の府・朝廷という濾過装置を経由して、文化を壊す害悪としてではなく、日本の国にプラスになるものとする日本独特の制度が固まった。

 前章で述べたように日本には古い時代から、海外からの舶来品に強くあこがれる風習がある。

 それに対して「日本人の島国根性だ」などと卑下する声もあるが、それは当たっていまい。

 日本人は古い昔から新しい文明、異国の文明などに関してはそれを積極的に取り入れる気性があった。

 古代の神道の信仰の研究などを見ると、日本には古い時代から見知らぬ人にも温かく接し、その持っている良いところがあれば進んで取り入れる気風にも通ずる「客人(マロウド)信仰」などというものが記されている。

 ただそれは相手が海外となると、異教や異なる価値観の移入などにより日本自体の生活環境を破壊する心配も強い。

 日本人は海外から侵略されにくい環境の中に文化を積み重ねてきたし、諸外国のように警戒心をもつ必要がなかったし、穏やかで素直な人の良さを特徴としている。

 そんな外からの免疫がない日本文化の欠陥を埋めたのが朝廷による海外文明の取り入れであった。

 日本は信仰も行政も新技術も、文明一般のまとめ役は朝廷であり、多くの新文明が朝廷自らの積極的な態度によって移入され、また外国からの伝播も、外国が朝廷に対してそれを提供するという形で行われ、朝廷を通じてすべてのものが国民全般に普及していた。

 この原則は時代が下り、新たに武家の進出により、我が国で朝廷が、国を統治する全権のうち、世俗的な行政などの俗権行使を、権力をつかんだ武士に譲ることが多くなったのちも続き、武家政治の後半までほぼ続いたが、これが日本文化の破壊を防ぎ、根本的な断絶を防ぎながら、国内に新しいものを広めた効果は見落とすべきではないと思う。



 条件がなくなってしまった開国以降

 日本の文明に関する説明をここまでで終わりにしたら、平安時代以来の日本文明史をすべて端折ることになり、文としては甚だ不釣り合いなものになる。

 だが今回の私の論は文明の歴史について述べているものではないので先を急ぐ。

 そんな日本国の海外文明との接し方には、朝廷などの介在により、日本国にとって、日本文明によって導入は是か非かの判断がいつも付きまとっていた。

 この風潮は朝廷に代わって行政・経済政策などの世俗面を征夷代将軍としてゆだねられた武家層にも強く影響し、日本は海外文明の日本に対する危険な面は、事前に取り去られるというチェックは厳しい国であり、そのため日本の独自の文化の国柄(国体)は維持されてきた。チェックされた厳しい例は封建時代に日本のとった鎖国がもっとも特徴的なものであり、そのほかにも「儒学」「仏教」「漢文」などの解釈の変更、徳川時代に水戸藩の武家たちが「朱子学」の放伐論の示す天の解釈を、中国のいわゆる「天」の意から、天皇に読み替えて解釈することにしたこと、様々な例をあげることができるだろう。



 ただ圧倒されて西欧礼賛に流れた力

 だが、注目しなければならないのは幕末に、西欧に起こった産業革命の結果、蒸気機関をはじめ多くのいままでには人間文化が開発し得なかった巨大な力を身につけることのできた西欧諸国の武装した黒船が、日本へ開国を迫ってきた頃からであった。

 その膨大な武力は、軍艦一艘で日本の当時の各藩の戦力を沈黙させるだけの威力を身につけていた。

 日本の薩摩、長州などの諸藩はこんな諸国の軍艦に攻撃されて、たった一艘の力で藩全体の反撃を沈黙させるほどの力を示されて、彼我の力の違いを知らされた。

 この力の違いを知って日本は武装して鎖国を継続することはできないと開国を決断せざるを得ないことになる。

 従来の日本の文化圏の持つ戦闘力と西欧への力の強さの格差を知って日本も負けずに西欧技術を取り入れて、「和魂洋才」の原則をたて、日本のもち続けてきた文化や伝統を、日本も西欧の強い力を自らも取り入れて身につけて、その力でもって西欧の植民地政策に対抗しようと日本が明治維新を決断することにもなるのだが、現実はその「和魂洋才」の原則を貫き通すことのむずかしさを知ることにもなった。

 維新により、天皇のもとに強力な力をもつために、維新でできた明治政府は、大量の役人軍人学者知識人などに西欧の新技術を積極的に取り入れさせる方針を採用したが、このようにして採用した明治政府の期待した日本への西欧技術取り入れを期待した連中のなかに、守るべき日本の国体を忘れ、日本の従来持ってきた守るべき対象を忘れて、ただただ西欧の力に驚嘆し、日本の個性を捨てて日本自身も西欧の追随国にした方がよいというような勢力を生み出してしまった。

 明治維新ののちの政界、財界、軍部、マスコミ、教育界、官僚の世界などが特にそんな傾向になった。

 西欧文化の無目的な取り入れや西欧礼賛追従の気風は、尊王攘夷の明治維新の目的とは全く違うが、無視することのできない日本の潮流となった。それは政治の指導者や新進の役人と言われた維新の役人にまで及び、盲目的に西欧追随の姿勢を模倣することが日本の近代化だと愚かにも思いこんだものがどんどん増える。新設された日本の軍部にも、新設された大学など学問の世界にも、こんな西欧礼賛者があふれることになった。

こんな傾向をよしとしない維新の精神的指導者たちが、維新の英雄西郷隆盛を担いでの西南戦争を戦い、同じ維新の盟友で欧化推進を掲げた大久保利通などの文明開化派に敗れる時代になると、その後はいよいよ目立つ潮流になった。

日本の明治維新は、看板だけは維新当時のままに掲げられ、この精神に基づき帝国憲法が新たに制定され、議会制度をはじめ様々な制度も整備されていくが、その中身を慎重にみると、微妙な欧化の流れを感ずるものに変質していくことになった。

 そんな流れが、日本が描いた明治維新の夢が、それとは似ても似つかぬ西欧模倣の空気に流されて、結局は先の大東亜戦争を経て日本が現在のような状況に至る大きな流れの骨子になるのだが、こんな日本のたどった道は、日本が先の大戦に敗北し、充分な歴史の検証もせずに上げて米国などの占領時期に入ったために、ほとんど検証されずに現在にいたっている。

 そんな流れの中の現在の西欧かぶれの行き詰まりである。

 私は、その日本歴史の冷静な検証なくしては、日本の将来の青写真は描けないと、固く信じている一人である。

 (つづく)

 


論を整理して新しい時代に備えようー①

2011年08月29日 17時08分11秒 | 私の「時事評論」
伝統の神道精神を発揮するため
 
混迷の世相

 いまの日本の世相は混乱してしまっている。

 日替わり定食のように一年ごとに政権をたらいまわしした自民党政治のあとを受けて、政治が本来どのようなものでなくてはならないのかも考えず、軽率に思いつきを実行してみて、「失敗したらごめんなさい」と頭を下げて交代すればよいと思っているような民主党の鳩山政権が生まれ、その軽率さと慎重さの欠如のゆえに、防衛問題などで国内ばかりではない、次々に内外の顰蹙を買って行き詰まり、政権を投げ出したあたりから、この傾向はクライマックスに達した。

鳩山首相の失脚、それまで鳩山首相の無知ゆえに生ずる数々の日本の権威失墜の暴走を内部の要職にありながら止めるのではなく、明らかにこれでの失脚を待っていた同じ民主党の要職の菅副総裁が、連帯責任を負うことも忘れて立候補し首相のあとを担当したのだが、彼とてもまともな統一的な理想もなく、全学連や市民運動時代のような政治の基礎をわきまえぬ場当たりで、大衆の空気に媚びる政治しかできない男、しかも党内には、野党以上に彼と憎み合う小沢・鳩山のグループを抱えた協力を欠く民主党の内閣だ。地についた政治は何一つできず、政治が何であるかの政治学の歩みも御存じないのかも。官僚組織を動かすイロハも知らないで、彼らに怒鳴るばかりの指導者だった。

 国内経済は、長期方針無き迷走行政でズタズタになり、税収も上がらず国民の信頼もなく、その上足許を見られて中国ロシア韓国などから大事な国境まで脅かされ、まともな対応もできず右往左往を繰り返す始末。予算や法律を決める国会も、与野党がてんでに国民のための自分らの責任とは遠い、党派利益や低次元の政府への攻撃のみに終始する中で、「有言実行内閣」と自称しながら、何もできない内閣が追い詰められたところに東北北関東の大震災が起こった。

すると死に体で、加えて個人的にも彼にまつわる疑惑が発覚、絶体絶命状態だった菅首相は、この国家的危機、あわせて起こった大津波や原子力発電所の大事故から、国民が結束して立ち直ろうとする空気を利用して、これを自らの政権延命の道具にしようと居直って、統率する指揮能力が自分にはないのをものとせず、思いつきの行政指導を連発し、さらには国民に素直に被害の実情や対応がどこに向いているのかさえも知らせずに(本人もそれをつかんでいなかったのかな)、緊急の被害者救済や被害からの回復など、時を争うべき問題にも無関心なのではないかと思えるほどの放任を連ね、その結果、野党ばかりではなく、与党の一部も呆れて協力し出された内閣不信任決議にも、それがこのまま通りそうになると、
「私はすぐに自ら辞める決意だから、与党内でまで私を引きずり下ろさないでくれ」
との発言で切り崩す。
 これでようやく乗りきり保身に成功すると、喉もと過ぎれば何とやら態度を即日転換、
「やめるといった覚えはない」
と居直って、大騒ぎになっても知らん顔、挙句に
「詐欺だペテンだ」
とまでののしられても、ひたすら自分が首班の政権維持を図ってきた。この政権をとられまいとする粘りだけはまねのできない彼の真骨頂だった。

 だが打ち上げる方針は、出しては虚しく消えていく「打ち上げ花火」のようなもので、成果は上がらず四面楚歌。
 無能な菅首相の退陣がもう決定的な状況に達し、ついに万歳したのがこの前で、今度は党是なき政党・民主党内部が、二年前の国民ヒステリーの結果勝ち得た衆議院での多数を利用して、もう一度民主党内で政権をたらいまわししようと動き出し、またも国民への政治は二の次で、だれが首相の座に就くか、鳩山菅のあとを受けた第三次民主党首相はだれにするかの点に、目先の国政の停止も忘れて大騒ぎ。

 その間のここ二年有余の事情は、新聞で、テレビで、だれの目にも明らかなので、これ以上の細かい点にまでここで、ここで再説は遠慮するが、
「エライことになってしまった」
という感情は、国民の共通するところとなっているということができるだろう。



 軽卒に西欧を羨ましがって嵌った日本

 この状況は前述したように、直接的には二年前、国政に関する政党としての統一見解も持たず、ただ軽薄なマスコミの風潮に便乗し、政権政党であった自民党への感情的批判だけを党是として一緒になった民主党が、出来もしないような絵空事「税金も上げず、バラマキを増やし、国庫の赤字を減らす」と云う、まるでお伽噺の打ち出の小槌でも持っていなければできない空想を公約として選挙に臨んだ時に、マスコミの宣伝に乗って雪崩のように投票してしまったことから始まった。

 そんなヒステリックな選挙の結果、政治への知識や経験があろうとなかろうと、「民主党」を名乗った候補者はほとんど当選して、衆議院民主党の議席数は倍増以上に膨れ上がり、議会の三分の二にまで達するほどの勢いになった。

 状況が出てくる背後には、浮ついて簡単に揺れ動く戦後政治の体質があった。鐘太鼓でマスコミがはやしたてれば、いとも簡単に信じ込み、その宣伝に乗せられてしまう国民意識。マスコミはマスコミで、あまり深く物事を考えず前後も見ずに、安易な表面だけの取材で情報を垂れ流す。

 こんな風潮は突き詰めれば、戦後政治のたどってきた結論でもあった。マスコミは敗戦まで、国のコントロールのもとにあり、国の意思に従う宣伝機関として食ってきた。ところが戦争が敗戦となり、日本に戦勝した米国・占領軍が入ってくると、今度は占領軍の言いなりになった。

 その転向は、日本のマスコミが深くものを突き詰めない、上辺だけの判断で動く軽率さが彼らの体質になっていることの証拠であった。政治というものには時々の気分だけでなく、慎重に歴史の継続の中でプラスマイナスをまともに見ることも必要だし、ましてや言論を武器とするマスコミは、それを突き止め、報道する任務をもった機関のはずだった。

 だがそんな歴史は放棄して、無責任に国政を運営するのが良いとして、記者クラブや特別体制にこれは便利だと安易に乗って踊り、衆愚政治を追いかけたのがここ数十年のマスコミだった。

 マスコミがこんな具合であったのが、根が従順な日本人にも影響した。日本人は先の敗戦で米英諸国に占領され、当時の朝日新聞の呼びかけの標語ではないが、「一億総懺悔」させられると、占領軍やその命令で動く連中が指導する下で、戦後教育が徹底された。そこで洗脳されて、日本を変えると乗り込んだ占領軍の命令が、理想の政治制度・民主政治だと信じ込まされ、60年以上暮らしてきた。

 占領中の洗脳政治から時は流れて、そこで育った連中ばかりの国に日本はなった。戦後政治の代表選手が鳩山や菅など民主党の面々であり、国会を占める大部分の議員たち、そして日本をリードしてきたマスコミや戦後の進歩的文化人たちの面々である。



こんな悪口をいまさら言ってみても始まらない。なぜならさらに遡ってものを歴史的に言うならば、この現在の国政行き詰まりは、65年前に日本が選択させられた占領政治の洗脳工作の結果であるとともに、舶来に無批判に憧れてきた、日本の知識人と称するものにより作り出された近現代日本史のたどらずにはいられなかった結論でもあったと私は思う。

 日本の戦後の軽率に流れてしまった動きの基本には、長い歴史を重ねて、日本人が日本らしい社会意識を積み重ね、日本に最も適した日本流の「天下太平、万民和楽」を求める道を追い続けてきた過去の歴史を、深く考えずに軽々と放棄して、安易に歩んでしまった結果でもあった。

 決定的にいまの状況へと流れた動機は、確かに先の戦争で西欧諸国や連合国に敗れた結果、日本国の弱体化政策として米国が準備した洗脳政策が日本に適用されて、たどった結果ともいえるだろう。だが、それは日本人の言い訳になる。それなら独立回復の時点で、同じように戦争に負けたドイツのように、再び憲法を戻して自立の道を歩かなかったのか。
 上辺だけで、派手で華やかで羨ましく見えた西欧諸国に幻惑されついていこうとしたた背後には、国民の大半が簡単に舶来尊重の気風に流されてしまい、一億そろって肌の黄色い二流の西欧人になろうとしてきた日本人の潮流があったと見なければならない。

 舶来文化にもそれを生み出した基礎には長く、苦しい積み重ねの歴史がある。それがあってこそ西欧には西欧の文化ができた。その苦しみの部分も見ずに、しかも舶来欧米文化には、いままでの日本では考えられない欠陥もまた、含まれていることなどとの文化比較も全くせずに、野次馬が流されるように、自国の文化を捨てて安易に西欧についていこうとしたのが日本だった。

 欧風追従にどんどん流れていけば、いつかは自分らだって、あのハリウッド映画に出てくるような、西欧文化の末席に連なって生活することができる。あの「あすなろ」の木のように、いつかは、見劣りはしても二流の檜にならなれる。こう思って深く考えることなしに暴走してしまった日本の歴史はどこから出てきたのか。

 日本人が追い求めようとした夢それ自体が、安易に木に竹が接げると考えた空想であった。こんな馬鹿げた軽薄さが、煎じつめれば今回の混乱挫折の原因になった。そこをしっかりと見定めて、これからの時代を我々は、日本人が築いてきた伝統的な歴史に連続する文化を再び見直し、その基礎の上に健全な歴史をたどるように心掛けなければならない。


  
 上辺だけ見た日本の西欧追従

 努力もせずに楽をして、立派な日本文化ができるはずがない。文化が花開くには、それを生み出す土壌があり、営々と育てていく努力が必要だ。それとは違う土壌の上に、長い文化を築いてきた日本が、その文化を途中で切断し、全く異質の文化を築こうと安易に動けば、文化は接ぎ木することができずに枯れてしまう。これから我々はどう生きていけばよいかの知恵を集める以外にはないのではないだろうかと私は考えている。

 いまから65年前の敗戦後の占領中に、我々は親子や家族がまとまって暮らす家族主義の心を捨てさせられた。それが最近の社会犯罪の増加につながった。

 個人ばかりではなく、社会の決まりを大切にする心を古いと捨てさせられた。それが日本の社会を他人のことなど構いもしない現代の風潮を生んだ。

 様々な日本人が生み出した公衆道徳さえも封建的だと廃棄して日本の社会は共同社会の秩序を忘れ、ただ皆が集まっているだけの動物の「群れ」にすぎなくなってしまった。

 立身出世も否定して、自らを厳しく律する気質を失った。

 そんな日本の方針変換が、いまの混乱の基礎にあるのではないだろうか。

 たのしく穏やかに安らかに生きるためには、皆が協力して生きる負担も努力も必要である。それに目覚めることも必要ではないのだろうか。



 上田敏という明治大正期の翻訳詩の天才が訳したドイツ新ロマン派の詩人カール・プッセの詩にこのようなものがある。

 山のあなたの空遠く 「幸い」住むと人のいう

 ああ、我ひとと尋(と)めゆきて なみださしぐみかえりきぬ

 山のあなたになお遠く 「幸い」住むと人のいう。

 世の中にはコツコツと積み重ねた多くの努力以外に、よそからポンと持ってきて役に立つようなものはほとんどない。この詩はドイツ人の詩ではあるが、日本人の外国文明に気質をよくあらわしていると思う。



 前にも書いたが、日本人には持って生まれた「舶来嗜好」というものが根強くある。。

 異文化のものに憧れると云う気質はどの民族にでもあるが、それらはどこかに危ないものをもっていて、あやしく光る美しさとともに、その中に危険な毒も持っていて、その毒により、いままでの文化を破壊するような副作用も持つものであるのが一般である。テレビドラマではないが、「隣の芝生」は羨ましく見えるものである。


 だが、簡単に「木に竹を接ぐ」ような行為は、実際にはできるものではないのである。





                     (つづく)


 


菅首相は日本の悪質なガン細胞である

2011年08月20日 07時54分19秒 | 私の「時事評論」
あの戦没者追悼式の無礼

 新聞などではほとんどとりあげようとしない。

 だがこれってすごく大切なことなのではないだろうか。

 こんな首相が国の予算を握り、動かせていると知るだけで腹が立つ。


 平成23年8月15日の全国戦没者追悼式。両陛下の前で、黙とうに先駆けて挨拶していた菅首相が、毎年、全国民が時を合わせて天皇皇后両陛下とともに黙とうすべき時刻になっても、なんとまだこの男しゃべっている。

 終了しなければならないのは午前11時59分45秒。この追悼式は政府(責任者は勿論首相)が主催する国での最も大切な儀式行事とされるもので、秒刻みで事前に綿密に計画が練られていて、全国でこの式典にお出ましの陛下とともに昭和天皇の終戦の詔勅が放送された正午を期して、全国の戦没者に対して、全国民が黙とうをするのが、我が国の恒例になっている。

 ダラダラと内容空疎な菅首相のあいさつはそれでも延々と続く。黙とうに定められた「正午」を20秒以上も過ぎ、やっと首相のあいさつが終わり、黙とうが始まった。



 国が国としてのけじめを壊した首相。

 全国で正確に時を合わせて行う戦没者慰霊の行事である。振り返って、黙とうが遅れたのは昭和天皇の最晩年に、今回とは違い、ほんの数秒遅れたことが一度あったがこれはミス、こんなに堂々と国の儀式が破壊されたのはもちろん初めてのことだった。以前の遅れは昭和63年。昭和天皇が御不例で倒れられた直前の追悼式のことだった。那須で御養生中であった陛下は、この式典だけは欠かせたくないと、御無理をされてヘリコプターで式場の日本武道館にお出ましになり、黙とうの時間に合わせようとされた。だが、もう御身体が衰弱されていてお足下がおぼつかなく、御登壇の直前で思わぬ時間がかかり、ほんの数秒遅れた。これは陛下のご病状をお察しして、事前に準備をして調整するのを怠った関係者のミスだった。それでもひたすら時間を守られようとされた陛下は、ほんの僅かだが間に合わなくなり、黙とうがひと呼吸、時報より遅れた。誰もそのひと呼吸のずれに、政府の充分な準備不足を感じたが、遅れたこと自体に文句など言う者はいなかったし、戦没者の御霊だっておそらく同じであったと思う。

 だが菅首相は、この式典をする政府を代表するキャップではないか。国のけじめを守るのは首相の大切な任務だ。それがその役柄にも気を配らず、たった一人の個人勝手な行動で、6000人の招待者が集う政府主催の追悼式でミスをして、全国では、この時にあわせるためにみんなが緊張して待機する中で、厳粛な儀式の雰囲気をたった一人でぶち壊してしまった。

 国を代表する主催者としてミスであり、弁解する余地などは全くない出来事だった。彼自身の国に対する侮辱、戦没者に対する非礼の行為である。何でこんな男が偉そうに、国の姿勢などを語る資格があるのだろうと呆れてしまう。菅首相の平和主義など、まさに絵にかいたモチに過ぎない。行動はまさに「ダラ菅」とのニックネームにふさわしいもので、英霊に対する敬意も感ぜられない無礼な行為であった。

 口と態度が一致しない彼は、あいさつで、何をことさらしゃべろうと思っていたのか。なぜマスコミはこんな首相の非礼を大きく伝え、菅の無礼を厳しく責めないのか。呆れてものが言えない。
 日本の国の権威を維持し、大切にする新聞などは、こんな無礼を一面トップで批判して、国会は、問題が問題なのだ、与野党一致して、無礼な首相を即刻首にする決議をするべきだったと私は思う。大体恥を知る日本人なら、式典が終わってすぐに、首相自らがそれを謝罪し、腹を切れとまでは言わないが、責任をとって辞職するのが人の道だと私は思うが。

 だが、どうしたことか、新聞の批判は低調だったし、国会議員の動きも見られなかった。菅首相がその失態を英霊にわび、天皇陛下にお詫びしたという報道にも私はまだ接していない。

 これほどまでに、だらしない国に日本はなってしまったのか。

 私はいままで、自分のコラムで、批判すべきは奸物菅直人一人だけではなく、それを取り巻き、すべてを菅一人に押し付けようとする今の政治家はじめ、国の政治にかかわる全国にみなぎる空気であると主張してきた。その批評を撤回しようとは思わない。

 だが、こんな事態を見てつくづく思う。それにしても菅は悪い奴だ。一刻たりとも、こんな男が日本の首相であり続けてほしくない。何もできない無能力者であるから、彼が首相にふさわしくないとせめているのではない。国の恥である。骨の髄から得てがってな悪い奴である。日本国の穢れであるから一刻も早く消えてなくなれ。顔も見たくないし声も聞きたくない。あいつは日本国を殺す悪性のがん細胞だ。

八月盆の候の流鏑馬

2011年08月18日 11時39分31秒 | 私の「時事評論」
 流鏑馬の神事奉納にかかわってかなりになるが、毎年静岡の三島大社に奉納する流鏑馬は暑さとの戦いである。狩衣装束、腰には鹿皮まで巻いて疾走する射手はもちろんだが、何度も疾走させられる馬も、行事を手伝う諸役も、そして見学者も、巻き起こる砂塵の中で奮闘で汗と泥にまみれる。
 孫の突然の入院騒ぎにとりみだし、こもる我が家で水も飲まず、クーラーもつけずにぼんやりしてみたり、調子が出なかくて分もまともに書けなかった私も、久しぶりに出かけて行った流鏑馬だった。

 三島大社は源頼朝の崇敬神社、ここから出陣した頼朝が鎌倉に幕府を作り、鶴岡八幡宮神前で、武士たちに奉仕させて流鏑馬を盛んにおこなった。その流れを守り伝統を継ごうとするる我々にとっては、ここのお宮への奉納は大変名誉あることである。三島大社の流鏑馬は、そんな伝統を持つ神事である。

 炎天の中、今年もたくさんの方が見学に集まっていた。私は行事の中心になる奉行台の横、報道陣や招待者の席のところの座に座るのが常だが、その後ろには、一般の見学者がびっしりと立っている。ところが今日は会場の放送設備の不良でこの辺りには説明が聞こえない。
 夏休みの子供たち、小さな孫にお馬さんを店に来た老人同道の人たち。私の一存で場所を代わってあげることもできないので、後ろが気になり、落ち着かないでいたのだが、何んと今年はここにある放送が故障で聞こえない。思い切って歩いて行って、一般の人たちに説明役をしてみることにした。

 鎌倉幕府と私たちの流鏑馬、頼朝がそれを三島大社と結ぶ縁。伝統そのままの流鏑馬だが、実際は馬が小柄な和馬から現代の競走馬に変わり、いよいよ速度が速くなって、定まった馬場ではなかなか難しくなっている現状。射手たちはサラリーマンや学生が多いが、ここで披露するまでには、みな十年以上も休日はすべて練習に打ち込んで一年中上達を夢見ていることなどから、用具の話、神事の規則、そんなことを説明始めた。

 反応がすごい。あちこちからそれこそ矢のように質問が飛んでくる。将来、皆に流鏑馬が好きになってもらいたい、三島大社に常に頭を下げる人になってもらいたい。そんな思いからそれらに方はしわかるようにお答もした。報道関係の方からの質問もあった。

 流鏑馬が始まる。疾走する射手たちの姿に歓声を上げながら、質問はいよいよこちらも的を射たものになってくる。
 これは内緒の話だが、報道陣や主賓たちには都合で途中で席を立つ人が多い。こんな空席が目立つと、「私は会場整理の責任者である三島大社のものじゃないから、お宮の人から戻れと言われたら、すまないけれど戻ってね」と、赤ちゃんを抱いている人や老夫婦をあいてる席にこっそり座らせ、赤ちゃんには熱中症にならないように紙コップで、冷やした麦茶をそっと手渡したりのサービスも。主催責任の神社の方も見ておられたが、黙認されているようだった。
 二時間ほどで、最後は最も難しいとされる素焼きの皿を二つ合わせて包み、中に五色の紙テープを入れた的が、疾走するもと競走馬にまたがる射手によって目の前で割られ、あたりに紙吹雪が舞う中で競射は終了した。ひときわ上がる歓声。

 「さあ、これで馬場での協議は終了。私は今日は途中まで見て、三島は水のきれいなところで有名だから、近くの柿田川にでも抜け出して顔を洗って水を飲み、涼んでから、何食わぬ顔で戻ってこようと思ったのだが、マイクの故障のお陰で、みなさんと楽しくお話ができ、それ以上の楽しみでした。みなさん、また流鏑馬を見に来てくださいよ。そしてそれ以上に、この昔からみんなが信仰する三島大社へお参りするのですよ。私らも恐らく来年も奉納に来るからまたお会いしましょうね」
と言って自分の席に戻った。
「他の神社ではいつ、どこでやるの、先生はさっき、的の砕けた破片は、奉納した神社の神さまを大事にする限り矢が災いを散らして呉れるお守りになると言われたが、もらって帰っていいのかい」
など、いろんなことに答えながら。

 ところがである。それから一時間ほど経って。境内を見に行こうと皆のたまり場から出て外に出ると、そこに二十代と思しき若い女性がペットボトルを持って立っていて、私の姿を見つけると小走りにやってきた。

 「先生、説明が忙しくて柿田川に行かれなかったと言われたのをお聞きしたから、代わりに冷たい水を汲んできました。飲んでください」
というのだ。正直これは実においしかった。富士山の伏流水は有名である。私も何度もそれを賞味した。でもこれは、名前も知らぬ初対面の人が、わざわざこの水を飲ましてあげようと優しい思いやりで汲んでくれた水である。

 「先生、また来年も来てくださいね。再会を楽しみにしてるから」
 オヤオヤ、富士山を間近に仰ぐ三島大社で、しかもお山の神様で絶世の美女と言われたコノハナサクヤヒメのような方から、富士山の名水をいただいてしまった。
 私自身も大変なご神徳をいただいたようだ。邪心で心が穢れないよう、しっかりお祓いをもう一度受けて、ありがたい後利益に感謝しなければならないななどと思いながら。

盆の海辺で(その二)

2011年08月16日 21時09分39秒 | 私の「時事評論」
休日の過ごし方

 いままでサーファーと言うと海辺の跳ね上がり者、規則も守らず、海水浴にくる子供や女をけがさせたり、波の荒い日、人の制止を聞かないで潮に流されて、地元の救助に当たる人を巻き添えにしたり、秩序を乱す連中ばかりだと思い込んでいた私は、黙々と集まるカラスの軍団のような中年サーファーには気がついていなかった。毎日すれ違ってはいたのだが、海辺にわずかにいる道楽者ぐらいに思って無視をしていた。だがこの数は。ちょっと別の見方もできるようになってきた。
 サーファーにもいろんな連中が混ざっている。その中にはもう50台を越して、すっかりこれに病みつきになって、住所まで鎌倉に持ってきてしまい、人々に迷惑がかからぬ時間にサーフを楽しむ人も多い。二十年か、あるいはそれ以上の経験を積むもので、鎌倉にアパートや小さな家を購入して、一年の間、身体の体温を保つウェットスーツを着て、仕事の合間、あるいは海水浴シーズンなどは、他の人々の海を使用する時間を外して地味に楽しんでいる。
 鎌倉は谷戸の町と言われる。海に面したわずかな平地の背後は重なる山に覆われていて、ほんのわずかな平地であった旧市街地の先は、ほとんど谷間の谷戸という切れ込んだ谷の間にしか住むところがない。古都であり様々な規制もあって、山を切り開いて家を建てることなどは許されていない。私の住む長谷も、大谷戸や小谷戸など、多くの谷戸の入り口になる。その谷戸の奥からも、夏冬を問わず多くのサーファーが自転車にボードを積んで集まってくる。朝や夕方に散歩をするとよく彼らに会うが、彼らは善良な鎌倉市民で鎌倉の大好きな連中だ。
 ただそんな流行に乗って、周りの既成も無視するように休日の朝などに車でやってくる若者たちの間には、人の迷惑を考えないようなものも多い。そちらの公害は考えものだ。
 
 盆の日の生活に与える鎮み

 そんな私は、自分の目でもう一度あの海の主役交代のさまを確認しようと昨日また、海に行った。江ノ電の駅前にある小さな寺、そこの墓地には花が供えられ、先行の紫煙がたなびいていた。
 そうだよな、今日は盆の日だ。昔から盆は先祖の御霊を招き、ともに過ごして慰霊する安息の日に指定されている。家にいるのが原則とされた。それにしても今日も人が多いな。御先祖様はおいてきぼりのお留守番か。そんなことを思いながら、ぼんやり歩いていて思い出した。「そうだ、今日は泳いではいけない日なんだ」。
 子供のころから我々の世代のものは、盆の日に泳いだりしてはいけないと教えられてきた。我々は盆の日を前に祖先の墓にお参りし、墓を清めて、祖先の御霊を盆の間中、我が家の仏壇の前や霊璽の前に招いて供え物をし、そこに侍って祖先を慰霊をした。そして夕方になれば、送り火をともし、御霊を再びその墓に鄭重におくりだす。地域によっては祖先の霊舎縁者の霊を水に供物を積んだ船に乗せて送り出すところもある。大文字焼きなども、そんな盆行事の締めくくりなのだ。
 だんだん足が重くなった。現代の生活には、こんな風習なども消えていく傾向にある。私は子供の頃、お盆に海に遊びに行こうとして酷く祖母に叱られたことがあった。
 「盆の日に海などに遊びに行くと、先祖の御霊に引きずり込まれるぞ」と。
 海には波に浚われたり溺れて大切な肉親にも会えず知られずに亡くなった多くの御霊が眠っている。そんな仏教でいえば成仏できない例が引きこむから、盆の間は海や川、沼などには近づいてはいけないと、さんざん教えられていままで育ってきた。
 しかもこんな視点から見ると、今年は東日本大震災があり、万余の人の御霊が一瞬のうちに津波で海のかなたに運び去られ、その多くは最愛の肉親にも引き取られないままで行くえ不明となって、その悲しい初盆の時期に当たる。そんな中で、どうして海に遊びになど行けようか。それに加えてこの盆は終戦記念日にあたり、海の藻屑と消えた数十万の英霊の御霊安かれと全国民が戦で海に屍と消えた人々の御霊の安鎮を祈る日でもある。

 だが現実の海岸は

 だが、思い足を引きずって行ってみた海岸の風景はそんな私の思いとはまるで違った光景だった。海は無心にはしゃぐ若い家族たちでいっぱいで。
 何事もなかったように、たのしく水と戯れ、海岸に寝そべる人々の前には、私の抱く盆への思い、日本人の風習とは無関係の風景だった。そこには私の描いた盆の景色は全く見られなかった。
 あまりの極端な風景に、私は思考停止のままに足を引きずって家に戻ってきた。
 それに対して、最近の日本人は日本民族の心を失ったと怒りをぶつけることは簡単だす。だが、そんなことを書きなぐって見たことで、この現実は少しも変わらない。
 ただ絶句するのみで、この文章を締めくくっておいた方が、よほどましだと思います。日本はいつの間にかいままでとは全く違った国になっていきつつある。
 サーファーという層が新たに出てきて驚いたばかりではない。私自身の方がいつの間にやら浦島太郎になってしまっている。この報告は、結語を省いて締めくくっておこうかと思い筆をおく。

盆の海辺で(その一)

2011年08月16日 21時07分16秒 | 私の「時事評論」
真夏の観光地風景

 今年は連日猛暑が続いている。東京から電車で一時間、片道1000円もしない料金で手軽に来られる鎌倉市は、アジサイブームの大混乱が過ぎてしばらくは、訪れる人々の数も減り、震災後の不景気の中での景気の後退や自粛ムードの余波がどうやらここにも及んできたのかと思わせていたのだが、また、急激にやってくる人たちが多くなって大変なにぎわいになっている。
 夏休みが子供たち専用の7月から8月になると、職場をはじめ大人にまで及ぶようになってきたからだろうか。節電ブームや景気後退が夏休みを増加させている結果か、観光客が急に増え、盆休みと重なるいまの時期になると、鎌倉の観光の目玉の一つ、江ノ電の長谷駅、長谷観音の長谷寺、露座の大仏光徳院、鎌倉文学館はじめ観光スポットが集まるこの辺りでは、車道は行きかう車で身動きならず、寺社巡りの人も歩道をはみ出して車道にまで膨れるほどの大混雑だ。沿道に並ぶアイスクリーム屋や小物を並べた土産物店などは終日人があふれている。陽射しを覆う雲もなく、照りつける太陽のもとの道路には、いくら東京の喧噪地より温度は低く、涼しい海風が吹いているからといって、快適な行楽の雰囲気というのには暑すぎる。流石に帽子をかぶり日傘をさし、インドやアフリカ地方の布を身体にかぶる服装のような無国籍のスタイルをしていると云っても、身にこたえないはずはない。だが、行きかう人々の表情を見ると、混んでいること、皆が集まっていることにどこか満足し、安らぎを感じているような風がある。日本人は集団の中に入ることにより落ち着きを得る人種なのだと実感される。
 集団の中に埋没し、自分もその仲間であることによって、世間から外れていないと体感して安心している群れたがる群集心理のもたらす安心感か。メッカへの砂漠の巡礼の行列の如く、ひたすら行列して進む人々の姿に、見慣れているつもりでも何か異様なものまで感じてしまう。かく言う私は、もう動物の世界では、群れから離れた老人世代になってしまったからなのだろうか。

 由比ヶ浜海岸の二部利用

 盆の入り数日前の夕方、商店街の肉屋での話。創業は昭和になってしばらくだからもう80年、そこが雑誌やテレビの特集などで観光客のコロッケ立ち食いのスポットと紹介されて、本来の肉やハムを陳列して売る業務より、その副業で知られるようになった店である。終日若い観光客で混雑しているが、何せ一個200円もしない商品を一個ずつ揚げているのだから景気の方は保証をしない。ただ人の出入りも多く地元の情報は詳しい。家から近い路地の入口にあり、我が家の出入りを監視する関所のようなところにあるので、客の空いたときなどは、ミスターケンタッキーのフライドチキンの看板男のような主人にお茶などを入れてもらって雑談するのが日課みたいになっている。
 「もうすぐ5時になりますね。5時になると海岸のお客さんがガラッと変わるのをご覧になったことありますか。」
親父は冷たい麦茶を置いてあるマグカップに注ぎ、グイと私に突き出して質問する。
 「ほら、海水浴の事故防止のため、夏の浜辺のサーフィンは禁止でしょう。それが5時に解除される。海水浴時間が終了となるんです。それを待ちかねて待機しているサーファーが繰り出す。この辺にはサーファーに憧れて移り住んでいる人も多いですからね。サーファーは夜明けから海水浴場が開くまでと5時から海を使うとして、一般の人と住み分けているんです。見てくださいよ」
と表を指す。自転車にサーフボートをつけた若者が道路をいっぱいにして海に向かっている。中にはウェットスーツの良い年したじいさんばあさんもいる。
 「あなたはどこか気分的に隠居風になってしまっていて、そんな変化に気づかないのだなあ。俺も歳だが、まだ彼らと付き合っているから。」
肉屋の親父にからかわれる。彼によると、これから海に行く人、ここで海から戻ってきて一服する人、どちらもがこの店の客であり、それがともに集中するのがこの時間帯なのだという。
 
 盆というのに

 やはり自分の目で確かめなくてはとステッキをついて海岸に行く。海はここから5分くらい南に広がっている。鎌倉海岸のこの辺りは由比ヶ浜と呼ばれている。鎌倉市街は南を海に背中は山を背負って扇型に広がっているが、真中を鶴岡八幡からまっすぐ海に向かう若宮大路で仕切られて、その右側が由比ヶ浜、左が材木座となっている。海に向かって市街には小さな路地がいくつか通じているが、そんな道が黒いウェットスーツなどに身を固め、手にサーフボートをもち、あるいは特製のフックのついた自転車にボードを結び付け、灼熱に日焼けした中壮年の男女が海に向かう。海からは今日一日を陽に焼けて、真っ赤な肌を水着に包んだ海水浴帰りの子供連れが、派手な水着の若い女性がゾロゾロ戻ってきてすれ違う。両者の姿は極端に異なっていて、微妙なコントラストを作っている。「なるほどこれが新風景か」。
 海に出る。水平線がだんだん黄金色に輝いている。海は、いつしかあまり声も立てずにひたすらやってくる波に乗ろうと待ち受けるサーファーおじさんたちの姿でいっぱいになっている。海岸はいままでの喧騒がうそのように静かである。そんなサーファーがまるで水鳥の群れがやってきたように群がって浮いている。
 なるほど、これから真っ暗になるまでの一時期と、夜明けから朝食までの数時間が、求道社のような連中に占拠される時間なのか。(つづく)



迷走する中国新幹線の事故ーー対応方針大転換の背後

2011年08月01日 22時01分01秒 | 私の「時事評論」
 車両を調べず土中に埋めてしまう作戦

 中国で日本などから最新の技術を導入して敷設した高速鉄道(新幹線)が、同じ路線を走るカナダ技術の列車に追突して脱線転覆して、多数の犠牲者が出る大事故があった。この国では、いろんな国の車両が輸入されて同じ線路を走っている。

 事故が起こったのは浙江省温州市で週末の7月23日のこと。ところが中国の鉄道省は事故の起こったことは報道し、それが「雷が落ちて事故が起こった」と曖昧な発表をしただけで、その事故の詳細な検証をし、事故原因を正確につかんで再発防止への対応を発表するよりも、この事件を一気にもみ消す動きに出たようであった。

 鉄道は,軍事上の重要な国家機密を含む機関であり、しかもいま、中国政府はこの高速鉄道技術を、自国で使用するばかりではなく、日本などよりはるかに安い価格で、独自に開発した安全で格安な中国の輸出産業の目玉として育てて、大いに利益を上げようとしていると言われている。そのやり方が特許や技術を持つ日本や西欧諸国との大きな論争点になりつつあるが、この事件での雑音はこんな方針にも水を差すので広がってもらいたくないとでも思ったのか。事故による死傷者の満足な救出作業が終わるのも待てないように、慌てて衝突した車両を現場で切り刻み、高架線から下に引きずり落として、先頭車両を切断して現場近くの土中に埋め、残った車両をもち去って、壊れた高架線の軌道も大急ぎで修理、事故翌々日の25日の月曜日には、もう鉄道を復旧してしまった。

 私は復旧したとの中国のビデオをテレビで見て、その一号車に乗っている中国人旅客の、怖いけれども乗らねばならないと言いたげな泣き笑いのような表情を見て、簡単に「無事に復旧して良かったね」ともいえず、複雑な心境でそのシーンをながめた。

 ここまでの事故から復旧までの作業は、外部への細かい説明もなく、中国鉄道省の手で秘密の中に迅速に行われた。だがこれらの作業は、人知れず処理する方針で進められたが、外電やインターネットで事故に関するニュースは、中国政府の意図に反するかのように、あらゆる手段を利用して広く世界に報道され、その結果、中国のこんな事故隠ぺいの対応は強い批判を浴びることとなった。

 さらに加えて、この証拠隠ぺいの埋設作業が行われる中で、事故現場から、生存する二歳の赤ちゃんが発見されて、人命救助もいい加減にして、急いで証拠隠滅を図ろうとするように見える鉄道省の行動に、国内ばかりではなく、世界の批判が集中した。

 中国では鉄道省は鉄道に関しては警察権なども含むすべての権限をもっている。そこだけで対応にあたろうとすれば、外の組織から干渉されない権限も持ち、かなり乱暴に動けることを、私は今度の事件で初めて知った。

 ところでこの生存者はもう残っていないとされ、救出作業を打ち切りののちに発見された二歳の女児の赤ちゃん、実は中国のインターネットの注目の人だった。母親とこの列車で旅行中であったが、事故の起こる直前に、中国版のネットで携帯電話やパソコンで自由に書き込む中国版のツウィッターともいえる「微博」という欄に、車内から、この子が興奮してたのしそうに遊びまわるさまが書きこまれていた。それがたまたまこの列車が事故に遭ったので、「微博」ばかりではなく、この書き込みを見て転載されたニュースなどで多くの人に紹介され、皆に注目されていたていた赤ちゃんだった。事故が起こると「微博」の愛用者ばかりではなく広い人々に「あの女の子はどうなった」と、注目の的になっていたこの子供。母親は遺体で発見されていたが見つからず、捜査が打ち切られてもこのこの子のことは報道されず、注目されていた女の子だった。

 それが車体を取り除こうと切断解体作業中に、まだ生きたまま、まだ車両の中に残っていたのが発見されたのだ。ネットに注目していた中国国民は大騒ぎになった。「何人殺せば気が済むのだ!」、「列車の中に本当にもう同じような人はいないのか」そんな声は秘密裏に急いで処理を進める鉄道省批判の大合唱に発展した。

 また事故の被害者がこの種の事故としては異常に少なく、発表された犠牲者のほかにも、まだ多くの犠牲者がいたのではないかなどという疑惑もあがり、いつもはなかなか解決しない被災死亡者に対する補償金までが開通に合わせて発表されたが、これも事故への遺族の不満を早急に消し去ろうとするものだと逆に国内の不満に火をつけることになった。



報道の自由や国民の自由を認めていない国

 中国は御存じのように、自由主義・資本主義体制をとっている国ではなく、マルクス・レーニン→毛沢東の共産党の一党独裁体制の政治がおこなわれていて、国民の自由は大幅に制約され、報道などは国の厳しい規制を受けている。

 そのためこれまでにも、様々な事件や暴動などに際して、自由主義諸国では考えられないような報道規制が行われ、国民に対する武力発動、報道や発言規制、弾圧や処分などが簡単に行われてきた。それらをここでは紹介しないが、今回の事件に際しても、政府は国営通信社である新華社の報ずる情報以外を国内の新聞やメディアに掲載することをしないように強く求め、国による報道統制を徹底しようと取り組みは進められた。

 だが、今回の事件は中国が事件が世界に知れ渡るのが早く、なかなか思うように効果が上がらなかったようだ。情報が中国社会に与えた衝撃が大きかったし、こんな政府の指示が出るその前に、まだ中央からの厳しい規制が徹底する前に、内外の報道機関が激しい取材合戦を行い、すでにニュースは世界を駆け巡っていたために、そしてまた、今回の鉄道省の急速に取ろうとした事故の隠ぺい作戦が、あまりに露骨であったために、国内の報道組織の傘下にある新聞などにも鉄道省に強い抗議をするところなども出て、事故の報道にブレーキはかからなかった。

 さらに政府は、かねてより国の体制を崩す危険なメディアとして警戒しているインターネットなどの通信網に監視を強め、政府批判の書き込みがあるとただちにそれを消すなどの応対をしていたが、政府がいくら書き込みを次々に強引に消しても、またすぐにどっと書き連ねられ、いくら消しても情報が次々に伝わるため、この政府の命令は効果を上げることができなかったことも付け加えられる。眺めてみると、中国のいまの国内の情勢は、いまの既成で押しきれないほどの情勢にまで変わってしまっていたといえるのかもしれない。



あわてた当局の方針転換

 そんな中、このままでは政府そのものへの国民の不満が集中すると思ったのか、中国政府は方針をがらりと変更することに転換したようだ。

 国民が納得せずに政府に対して抗議の声を上げる。こんな情勢がはっきりしてくると、中国は突然この問題に関する姿勢を転換した。それまで事故をほとんど表にしなかった中国政府は、温家宝首相が事故現場に赴き花輪をささげて頭を下げ、

 「11日間の間、私は病気で寝ていたので、すぐにはやってこられなかった。だが私 は今回の この事故は、明らかに人災だと思う。隠すことなく事実をすべて公開し、事故原因をはっきり させて責任者を処分するつもりだ」

という態度を表明した。

 いままでのもみ消しを図った方針を中国政府そのものの方針とはせず、政府は事故究明に積極的であり、二度と事故の起こらぬように徹底的に調査すると云うもの。

 この方針に基づいて、一旦は現場の土中に切断されて埋められた事故車両も掘り出され、調査のためとして現場から運び出され、遺族に対する補償なども、かなりに増額に変更された。この声明にあわせるように、鉄道省では、信号故障や操作ミスなどを発表した。

 湧き上がる不満の声が、政府をして、ここは世論にあわせると云う作戦に変更させる力になったということなのだろうが、この事件が今後の中国に与える影響はかなり大きいとみられている。

 

 私は中国問題の専門家ではない

 この事件はこんな形をたどって進んである。だが私はこの欄で、細かい状況を説明し、読者に正確な情報を提供する知識と能力は持っていない。資本主義国と共産主義国との違い。日本と中国の違いなどに関しては、専門に調べている人がいくらもいるので、そんな解説を読んでほしい。

ただ、最近のニュースを見ていると、世界のいたるところで、従来の社会の体制が大きく変わる気配を見せ始めていることに気が付く。「ははあ、そんなことがあるのか」などとぼんやり見逃しにせず、どう動くのだろう、今はどんな時期なのだろうかと考えるセンスがほしいと思う。

 ただこの事件の背後には、事故そのものに加えて、大きな様々な注目点が存在する。そう感じたので、消化不良の一文を載せさせていただいた。