廃墟のままの震災地のあと
政府が地震後の問題処理に取り組んでいる姿勢がよくないと、我が国内には政治不信の声が渦巻いている。
被害にあった東北や北関東の人々に聞けば、その不満の声は怒りにも聞こえ、その背後には日本の行政機構に対してのあきらめの感情すらみられるようだ。
千年ぶりと言われる地震に国土を破壊され、その上に十メートルを超す大津波になめつくされた被災地には、いまだに新しい建造物もたたず、津波に破壊された膨大なごみが山と積まれて異臭を放ち、風が吹けば砂塵で目も開けられない始末だ。
通常の震災後なら、6カ月もたてば、後片付けや整地も終わり、そこここには再建の槌音も聞かれるところだが、津波に襲われたここ東北の市街地や農地には、地盤の低下の対策も打たれず、太平洋岸の港湾都市は津波に壊された漁業などの工場設備が無残な残骸として放置されている。
都市整備工事は被害を受けた地域の再開発の設計図が定まるまで、みだりに手をつけるなというのが国の言い分のようだが、それなら、どのような再開発の方針で行くのかと言えば、そこはまだ青写真もできていないという状況のようである。
国の指導方針が固まらなければ、指導を受ける県も市町村も勝手に動くことはできない。復旧のめども立たず、地方の自治体もため息をつくばかり。
そんな行政の対応の遅れは、いまの政治状況ではやむを得ないと諦めざるを得ない。それなら民間の手で自主復興を応援しようと数千億円の救済の寄付が民間の手で集められたが、この種の寄付金も日赤やその他の団体にまでは集まっているが、肝心の被災地でどこにどう配分するか、誰に配るかなどの行政の対応が不十分で、なんと被災者の手元にほとんど渡されないというのだから、行政の力をなくした現状の及ぼす影響は深刻だ。
さらに震災の結果起こった原発事故に関しては、いよいよ手のつけられない状況である。津波が襲って福島第一原発が破壊された。事故は最近になって、対応が遅れたために深刻化したことが明らかになってきた。
事故の直後に米国が、在留する自国の関係者に「関西地方まで避難」を呼び掛けたのも、冷静に事故を眺めての対応だったようだ。日本政府や東電は、事故そのものが深刻なものであり、急遽万全の手を打つべき緊急のときに、事故責任者として、目の前で深刻な事故が起こっていることを信じたくなく、保身の反応に動く誘惑に勝てずに、事故が軽微なものであるとの希望的観測にとらわれてこれを発表し、深刻な事態への対応の決断が遅れて事態を悪化させたようだ。事故に直面してこんな姿勢で動いたのだからたまらない。
事故は終息するどころかますます悪い方向に拡大、今度は政府自身が原発対応の深刻さに気をとられて、原発以外の震災復興の対応に手が回らないような事態まで生み出した。
事故はまだまだ手が打ち終わらず良い方向に動いていないが、加えて事故の最初の段階の爆発で、広い範囲に放射能をまき散らす爆発が起こっていたことも見落としたためか、汚染は報ぜられるよりはるかに広く拡大し、いまだに食品や土壌の新たな放射能汚染の事実などが相次いで発覚、「安全である」という政府の発表が相次いで撤回されて、信用できなくなった国民層に、必要以上の政府不信の雰囲気が高まってしまった。
もうひとつの日本国の権威
政府の発表や対応は信用できないという不信の思いは精いっぱいに高まった。
行政というものはどういう性格のものか、それをしっかり認識しておくことは、政治の基本である。単なる視野の狭さや思い込みで、思わぬ欠陥ができていないか。
そんな準備が政府の指導部にも、実務を担当する官僚にもできていなかったことが、今回の地震では狼狽を大きくすることにもつながった。
こんな事態に加えて、民主党の菅内閣は重なる失政を次々に重ねた。
ECや米国の金融危機によって巻き起こった為替不安は、日本の景気後退に歯止めがかからず、景気がいよいよ停滞する中で、不景気なのに猛烈な円高を生み出し、日本経済の息の根を止めそうな勢いだ。
国庫の赤字が限界を越して膨張し、不景気で失業が増え、税収入が激減し、加えて高齢化社会に突入し、国家財政がパンク状態になってきたのに、民主党は子供手当はじめ人気取りのバラマキ政策を際限なく続けようとし、公約の国の隠し預金の摘発はさっぱり進まない。
思いつきの場当たり政策や空想的な独善政策を掲げながら、自らの不明朗な政治献金などが続出して国民の人気は下がる一方である。
加えて首相が口先で議員をだましたような手法で内閣不信任案を交し、閣内不一致発言や相次ぐ失言、出来もせぬ方針などを連発、8月には戦没者追悼式で、首相自身が意味のないだらだら挨拶を辞めずに天皇皇后両陛下をお迎えしての戦没者への黙とうを約束の時間に出来なくさせるなどの、主催する立場を忘れた無責任ぶりを発揮、国民に「もう菅氏は首相の座にいてもらいたくない」と、しみじみ思う事態に発展した。
こんな国民意識を逆なでし、混乱が最高潮に達しつつある我が国内の現在の情勢だが、注意して社会の動きを眺めると、そんな国政の展開とは別に、国民意識の中に、いままでとは違った動きが出てきつつあるのが注目すべき現象となってきている。
それは日本中に、まともな政治を求める動きが少しずつ出始めていることである。
一例をあげると、国民統合の象徴である天皇のもとに独立国として伝統を重んずる社会としてまとまっていこうとする傾向がだんだん濃厚に感ぜられるようになってきたことがある。
今回の震災が起こった直後に、天皇陛下はテレビを通じて、国民に対してビデオメッセージを発表され、この厳しい国家的な規模の被災に、全国民が協力して立ち向かい、この災害を乗り切ることを訴えられ、日本人の伝統的に持っているお互いに協力し合い、育みあう心に訴えられた。
その御発言以来、両陛下はすべてのお仕事を調整されて、お忙しい中を震災の被災者の見舞い、激励に集中されるような活動を展開された。
被災者には、お手元金からお見舞い金を送られたのは勿論のこと、那須の御用邸や関連施設を被災者救済に活し、食料援助やお風呂の提供などくつろぎの余裕が提供され、両陛下は行幸が救護活動の邪魔にならないようにと、はじめは被災者たちが避難している首都近辺の施設の御慰問から、津波の襲った千葉、茨城の各県、そしてやや落ち着いて東北各県を回られたが、政府の見舞いや視察にはあれほど冷たい視線を送る同じ被災者が、天皇皇后の両陛下には感激し、どこにおいても涙を流して感謝する姿が見られ、その差のあまりにも大きく対照的な光景である点が注目された。
憲法などのもっと底にある国民意識
どんな形に憲法が代わり、規定する法的な位置づけが代わっても、学校教育でいくらそんな時代ではなくなったと教えても、国民にとっての天皇陛下のお姿は昔と少しも変わっていないことが、全国民の前に示された。
自然の恵みに恵まれ、豊かな風土である日本は、それとともに地震や津波、火山の噴火等が頻繁に起こる天災の多い地形でもあった。
そんな我が国では古くから、地震は我々の住む国土を統べる神が、そこに住む人々に対するお怒りであると解釈されてきていた。
そしてそんな大災害が起こった時、我が国のまつり主であった歴代の天皇は、その災害は大御宝(おおみたから)である国民ではなく、その民を統治する天皇御自身の統治に対する神々のお怒りであると受け取って、神さまにお供え物をして、神さまのお怒りを和らげる厳粛なお祭りをし、あわせて被害にあった民の救済、もたらされた被害からの復興に力を入れられてきた。
臣下はそんな天皇のお姿を見て、自らもそれにならって生活を質素にし、被害救済に力を入れてきた。
こんな長い日本人の信仰の歴史、震災の歴史が日本の古典には多く残されている。
そのような天皇のお気持ちは、古代から現代まで、変わることなく天皇のお心(=大御心)として代わることなく継承されてきている。
日本の皇室が、世界でただ一つ、古代社会から現代まで、連綿として継続してきた結果である。日本人は精神的には、どんな時代もそんな皇室の精神的な影響のもとにある。
あの関東大震災が起こった時、当時は大正天皇が御病気で、お役目を摂政宮として執行されていた後の昭和天皇が、被害者の救済と事故からの復興に率先の力を傾けられた史実も伝えられている。
今上陛下が阪神淡路大震災や新潟震災の時に率先被害者のお見舞いに全力を傾けられたことは、我々の記憶にも新しい。すべて、歴代の天皇に脈々と通じて流れる大御心の発現なのだ。
天皇は日本国の祀り主として己を捨て国民のために祭りをされ、国民はそんな陛下のもとにあることを強く感じて生きていく。
この心理関係が、表面的には過去の遺風である日本らしさを制度的には一新し、欧風一辺倒に変更したとされる日本の中に、依然として、しっかり遺伝子のように生きている。それは生きている我々の血液のようなもので、何でもないときには意識されないものなのかもしれない。
だが、困難に我々が直面した時には大きな支えとなるものだ。
その存在が今回の震災で証明される形となった。
これも陛下の終戦のご詔勅
震災のあとに、天皇陛下がテレビを通じて発表されたビデオメッセージを、所功氏は昭和天皇の終戦のメッセージを例に挙げ、これと同等の貴重なものだと発表した。この所氏の受け取り方は素晴らしい。
昭和天皇の終戦のご詔勅は、原子爆弾という前例のない残虐な兵器の使用を前にして、この状況をそのまま継続しては、人類文化が破滅するとして、戦争敗戦により、受ける痛みは甚だしく大きいが、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで」国民に再起のために立ち上がろうと呼びかけられた詔勅であった。
大きな震災発生のニュースに接し、天皇陛下がやむにやまれぬお気持ちから、国民に向けて発せられたお言葉であった。
今回のメッセージも終戦のご詔勅も、その内容は酷似して、国民が受けた震災の被害は大きいが、全国民が結束してこの災禍から立ち直ろうとのお言葉であった。
そして国民には、あの勅語と同じように受け取られた。
この現象を単に六法全書のみを見るようなセンスで眺めたのでは何も分からないが、社会全体を広い目で見ると、日本には今でも依然として、天皇の統治され、日本国民のために祈られる広い意味では社会の組織が、依然として古代から連綿として存在していることを浮き彫りにしている。
憲法には天皇は国民統合の象徴ではあるが、国政に関する機能は持たないことが明記されている。
実務の政治は国会議員や内閣の組織する憲法に基づく日本国が権限をもつものと規定されている。
しかしもともとこの国は天皇が国民を統率し、国民のために神々に対して祭りをされる国なのだ。
そんな神話に基づく伝統的な日本人の意識が、神道的な社会意識が多くの変遷を経過した後であるのにかかわらず、変わることなく続いている。
どうしてこの意識は日本人の意識から、何千年が経過しても消えないのか。
それは日本中に何万という神社が変わらずに存在し、その信仰が天皇の祭りと結びついている。また同時に、全国の神社は、そこの参拝し、集い、祭りに参加する全国の人々の心の中に結びついている。
こんな神社の存在と、日本の社会を構成している家庭や町内、学校、趣味の会から同窓会、歌やお茶、いけばな、芸事、趣味、など様々な横の組織、それを維持する先祖から子孫への家庭の縦糸、先輩から後輩への縦の糸、そんなものが組み合わされてできている日本の構造が、何千年の長期にわたる歴史を経て、法律や規則のような明文ではないが、不文の慣習として出来上がっており、それが同じく時代の流れを共有してきた皇室と、密不離につながっているからであろう。
日本における天皇の統治と行政の実権
ここまで書いてきて思い出していただきたいことがある。それは日本においては、この国を統治される天皇と、その天皇の権能の一部である政治や経済などの実務の権限を行使する将軍との間に、「奪う奪われる」の紛争ではなく、比較的平準に権能の授与がたびたびおこなわれてきたという歴史である。
これは諸外国の王制とそこから実験を奪い取った新たな権力者との間ではかなり違っていることに注目していただきたい。
日本以外の諸外国の例の多くは、権限の移譲は独裁支配の権限をもっていた従来の王などから、新たにそこの支配権を自力で固めた新たな権力者が、腕ずくでそれを奪い取り、それと同時に従来の王朝を廃絶させ、場合によっては腕力で根絶やしにした。ところが我が国ではそんな例は起こらなかった。この日本列島の中にはそんな発想をする新権力者は出てこなかった。
天皇は全国民を集めた祀りの最終であり、文化や学問、芸能、生活全般を統括する立場である。
天皇はそのすべてについて、その御祖先である天照皇大神から、穏やかに平和に暮らせるよう統率せよとの命を受けて高天原からこの地上の国に下られた瓊瓊杵命(ににぎのみこと)→初代神武天皇(じんむてんのう)の御子孫にあたり、たとい新しい権力者に政治の実務を渡されても、新しい担当者の行った政治の責任まで、祭りにおいては天照皇大神に報告する義務がある。そのことを新権力者も納得した条件のもとに限られた政治の実務の実権をお認めになり(征夷代将軍の発想)、その上で実験行使をお認めになった。
肩書はともかくとして源氏平家の時代から、織田・豊臣・足利・徳川幕府の時代、みなそうであった。私は戦後の憲法下に時代も、そのような天皇の政治の一変遷家庭と見ることができると思っている。
そんな戦後の時代が60年以上経過して、その間、自民党や連立内閣など、様々な内閣が出現し、それぞれ失政も重ねたが、時の征夷代将軍の地位にある民主党幕府の菅直人将軍が政治を誤ってついには失脚した。
その間、天皇はそんな国内の情勢を、おのが力の至らないことではあるが、責任は我にあると天照皇大神初め神々にまつりで奉告(報告)されていたが、震災の時、実情を見かねて国民にお言葉を発せられ、皇室のできる範囲で精いっぱいに救済にもお力をお出しになっている。
そんな事情を本能的に知る国民は、原価の政治環境に絶望をし、天皇陛下に大きな期待をもって接するようになってきている。
そんな風に時を読むべきなのではないだろうか。
(つづく)
政府が地震後の問題処理に取り組んでいる姿勢がよくないと、我が国内には政治不信の声が渦巻いている。
被害にあった東北や北関東の人々に聞けば、その不満の声は怒りにも聞こえ、その背後には日本の行政機構に対してのあきらめの感情すらみられるようだ。
千年ぶりと言われる地震に国土を破壊され、その上に十メートルを超す大津波になめつくされた被災地には、いまだに新しい建造物もたたず、津波に破壊された膨大なごみが山と積まれて異臭を放ち、風が吹けば砂塵で目も開けられない始末だ。
通常の震災後なら、6カ月もたてば、後片付けや整地も終わり、そこここには再建の槌音も聞かれるところだが、津波に襲われたここ東北の市街地や農地には、地盤の低下の対策も打たれず、太平洋岸の港湾都市は津波に壊された漁業などの工場設備が無残な残骸として放置されている。
都市整備工事は被害を受けた地域の再開発の設計図が定まるまで、みだりに手をつけるなというのが国の言い分のようだが、それなら、どのような再開発の方針で行くのかと言えば、そこはまだ青写真もできていないという状況のようである。
国の指導方針が固まらなければ、指導を受ける県も市町村も勝手に動くことはできない。復旧のめども立たず、地方の自治体もため息をつくばかり。
そんな行政の対応の遅れは、いまの政治状況ではやむを得ないと諦めざるを得ない。それなら民間の手で自主復興を応援しようと数千億円の救済の寄付が民間の手で集められたが、この種の寄付金も日赤やその他の団体にまでは集まっているが、肝心の被災地でどこにどう配分するか、誰に配るかなどの行政の対応が不十分で、なんと被災者の手元にほとんど渡されないというのだから、行政の力をなくした現状の及ぼす影響は深刻だ。
さらに震災の結果起こった原発事故に関しては、いよいよ手のつけられない状況である。津波が襲って福島第一原発が破壊された。事故は最近になって、対応が遅れたために深刻化したことが明らかになってきた。
事故の直後に米国が、在留する自国の関係者に「関西地方まで避難」を呼び掛けたのも、冷静に事故を眺めての対応だったようだ。日本政府や東電は、事故そのものが深刻なものであり、急遽万全の手を打つべき緊急のときに、事故責任者として、目の前で深刻な事故が起こっていることを信じたくなく、保身の反応に動く誘惑に勝てずに、事故が軽微なものであるとの希望的観測にとらわれてこれを発表し、深刻な事態への対応の決断が遅れて事態を悪化させたようだ。事故に直面してこんな姿勢で動いたのだからたまらない。
事故は終息するどころかますます悪い方向に拡大、今度は政府自身が原発対応の深刻さに気をとられて、原発以外の震災復興の対応に手が回らないような事態まで生み出した。
事故はまだまだ手が打ち終わらず良い方向に動いていないが、加えて事故の最初の段階の爆発で、広い範囲に放射能をまき散らす爆発が起こっていたことも見落としたためか、汚染は報ぜられるよりはるかに広く拡大し、いまだに食品や土壌の新たな放射能汚染の事実などが相次いで発覚、「安全である」という政府の発表が相次いで撤回されて、信用できなくなった国民層に、必要以上の政府不信の雰囲気が高まってしまった。
もうひとつの日本国の権威
政府の発表や対応は信用できないという不信の思いは精いっぱいに高まった。
行政というものはどういう性格のものか、それをしっかり認識しておくことは、政治の基本である。単なる視野の狭さや思い込みで、思わぬ欠陥ができていないか。
そんな準備が政府の指導部にも、実務を担当する官僚にもできていなかったことが、今回の地震では狼狽を大きくすることにもつながった。
こんな事態に加えて、民主党の菅内閣は重なる失政を次々に重ねた。
ECや米国の金融危機によって巻き起こった為替不安は、日本の景気後退に歯止めがかからず、景気がいよいよ停滞する中で、不景気なのに猛烈な円高を生み出し、日本経済の息の根を止めそうな勢いだ。
国庫の赤字が限界を越して膨張し、不景気で失業が増え、税収入が激減し、加えて高齢化社会に突入し、国家財政がパンク状態になってきたのに、民主党は子供手当はじめ人気取りのバラマキ政策を際限なく続けようとし、公約の国の隠し預金の摘発はさっぱり進まない。
思いつきの場当たり政策や空想的な独善政策を掲げながら、自らの不明朗な政治献金などが続出して国民の人気は下がる一方である。
加えて首相が口先で議員をだましたような手法で内閣不信任案を交し、閣内不一致発言や相次ぐ失言、出来もせぬ方針などを連発、8月には戦没者追悼式で、首相自身が意味のないだらだら挨拶を辞めずに天皇皇后両陛下をお迎えしての戦没者への黙とうを約束の時間に出来なくさせるなどの、主催する立場を忘れた無責任ぶりを発揮、国民に「もう菅氏は首相の座にいてもらいたくない」と、しみじみ思う事態に発展した。
こんな国民意識を逆なでし、混乱が最高潮に達しつつある我が国内の現在の情勢だが、注意して社会の動きを眺めると、そんな国政の展開とは別に、国民意識の中に、いままでとは違った動きが出てきつつあるのが注目すべき現象となってきている。
それは日本中に、まともな政治を求める動きが少しずつ出始めていることである。
一例をあげると、国民統合の象徴である天皇のもとに独立国として伝統を重んずる社会としてまとまっていこうとする傾向がだんだん濃厚に感ぜられるようになってきたことがある。
今回の震災が起こった直後に、天皇陛下はテレビを通じて、国民に対してビデオメッセージを発表され、この厳しい国家的な規模の被災に、全国民が協力して立ち向かい、この災害を乗り切ることを訴えられ、日本人の伝統的に持っているお互いに協力し合い、育みあう心に訴えられた。
その御発言以来、両陛下はすべてのお仕事を調整されて、お忙しい中を震災の被災者の見舞い、激励に集中されるような活動を展開された。
被災者には、お手元金からお見舞い金を送られたのは勿論のこと、那須の御用邸や関連施設を被災者救済に活し、食料援助やお風呂の提供などくつろぎの余裕が提供され、両陛下は行幸が救護活動の邪魔にならないようにと、はじめは被災者たちが避難している首都近辺の施設の御慰問から、津波の襲った千葉、茨城の各県、そしてやや落ち着いて東北各県を回られたが、政府の見舞いや視察にはあれほど冷たい視線を送る同じ被災者が、天皇皇后の両陛下には感激し、どこにおいても涙を流して感謝する姿が見られ、その差のあまりにも大きく対照的な光景である点が注目された。
憲法などのもっと底にある国民意識
どんな形に憲法が代わり、規定する法的な位置づけが代わっても、学校教育でいくらそんな時代ではなくなったと教えても、国民にとっての天皇陛下のお姿は昔と少しも変わっていないことが、全国民の前に示された。
自然の恵みに恵まれ、豊かな風土である日本は、それとともに地震や津波、火山の噴火等が頻繁に起こる天災の多い地形でもあった。
そんな我が国では古くから、地震は我々の住む国土を統べる神が、そこに住む人々に対するお怒りであると解釈されてきていた。
そしてそんな大災害が起こった時、我が国のまつり主であった歴代の天皇は、その災害は大御宝(おおみたから)である国民ではなく、その民を統治する天皇御自身の統治に対する神々のお怒りであると受け取って、神さまにお供え物をして、神さまのお怒りを和らげる厳粛なお祭りをし、あわせて被害にあった民の救済、もたらされた被害からの復興に力を入れられてきた。
臣下はそんな天皇のお姿を見て、自らもそれにならって生活を質素にし、被害救済に力を入れてきた。
こんな長い日本人の信仰の歴史、震災の歴史が日本の古典には多く残されている。
そのような天皇のお気持ちは、古代から現代まで、変わることなく天皇のお心(=大御心)として代わることなく継承されてきている。
日本の皇室が、世界でただ一つ、古代社会から現代まで、連綿として継続してきた結果である。日本人は精神的には、どんな時代もそんな皇室の精神的な影響のもとにある。
あの関東大震災が起こった時、当時は大正天皇が御病気で、お役目を摂政宮として執行されていた後の昭和天皇が、被害者の救済と事故からの復興に率先の力を傾けられた史実も伝えられている。
今上陛下が阪神淡路大震災や新潟震災の時に率先被害者のお見舞いに全力を傾けられたことは、我々の記憶にも新しい。すべて、歴代の天皇に脈々と通じて流れる大御心の発現なのだ。
天皇は日本国の祀り主として己を捨て国民のために祭りをされ、国民はそんな陛下のもとにあることを強く感じて生きていく。
この心理関係が、表面的には過去の遺風である日本らしさを制度的には一新し、欧風一辺倒に変更したとされる日本の中に、依然として、しっかり遺伝子のように生きている。それは生きている我々の血液のようなもので、何でもないときには意識されないものなのかもしれない。
だが、困難に我々が直面した時には大きな支えとなるものだ。
その存在が今回の震災で証明される形となった。
これも陛下の終戦のご詔勅
震災のあとに、天皇陛下がテレビを通じて発表されたビデオメッセージを、所功氏は昭和天皇の終戦のメッセージを例に挙げ、これと同等の貴重なものだと発表した。この所氏の受け取り方は素晴らしい。
昭和天皇の終戦のご詔勅は、原子爆弾という前例のない残虐な兵器の使用を前にして、この状況をそのまま継続しては、人類文化が破滅するとして、戦争敗戦により、受ける痛みは甚だしく大きいが、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで」国民に再起のために立ち上がろうと呼びかけられた詔勅であった。
大きな震災発生のニュースに接し、天皇陛下がやむにやまれぬお気持ちから、国民に向けて発せられたお言葉であった。
今回のメッセージも終戦のご詔勅も、その内容は酷似して、国民が受けた震災の被害は大きいが、全国民が結束してこの災禍から立ち直ろうとのお言葉であった。
そして国民には、あの勅語と同じように受け取られた。
この現象を単に六法全書のみを見るようなセンスで眺めたのでは何も分からないが、社会全体を広い目で見ると、日本には今でも依然として、天皇の統治され、日本国民のために祈られる広い意味では社会の組織が、依然として古代から連綿として存在していることを浮き彫りにしている。
憲法には天皇は国民統合の象徴ではあるが、国政に関する機能は持たないことが明記されている。
実務の政治は国会議員や内閣の組織する憲法に基づく日本国が権限をもつものと規定されている。
しかしもともとこの国は天皇が国民を統率し、国民のために神々に対して祭りをされる国なのだ。
そんな神話に基づく伝統的な日本人の意識が、神道的な社会意識が多くの変遷を経過した後であるのにかかわらず、変わることなく続いている。
どうしてこの意識は日本人の意識から、何千年が経過しても消えないのか。
それは日本中に何万という神社が変わらずに存在し、その信仰が天皇の祭りと結びついている。また同時に、全国の神社は、そこの参拝し、集い、祭りに参加する全国の人々の心の中に結びついている。
こんな神社の存在と、日本の社会を構成している家庭や町内、学校、趣味の会から同窓会、歌やお茶、いけばな、芸事、趣味、など様々な横の組織、それを維持する先祖から子孫への家庭の縦糸、先輩から後輩への縦の糸、そんなものが組み合わされてできている日本の構造が、何千年の長期にわたる歴史を経て、法律や規則のような明文ではないが、不文の慣習として出来上がっており、それが同じく時代の流れを共有してきた皇室と、密不離につながっているからであろう。
日本における天皇の統治と行政の実権
ここまで書いてきて思い出していただきたいことがある。それは日本においては、この国を統治される天皇と、その天皇の権能の一部である政治や経済などの実務の権限を行使する将軍との間に、「奪う奪われる」の紛争ではなく、比較的平準に権能の授与がたびたびおこなわれてきたという歴史である。
これは諸外国の王制とそこから実験を奪い取った新たな権力者との間ではかなり違っていることに注目していただきたい。
日本以外の諸外国の例の多くは、権限の移譲は独裁支配の権限をもっていた従来の王などから、新たにそこの支配権を自力で固めた新たな権力者が、腕ずくでそれを奪い取り、それと同時に従来の王朝を廃絶させ、場合によっては腕力で根絶やしにした。ところが我が国ではそんな例は起こらなかった。この日本列島の中にはそんな発想をする新権力者は出てこなかった。
天皇は全国民を集めた祀りの最終であり、文化や学問、芸能、生活全般を統括する立場である。
天皇はそのすべてについて、その御祖先である天照皇大神から、穏やかに平和に暮らせるよう統率せよとの命を受けて高天原からこの地上の国に下られた瓊瓊杵命(ににぎのみこと)→初代神武天皇(じんむてんのう)の御子孫にあたり、たとい新しい権力者に政治の実務を渡されても、新しい担当者の行った政治の責任まで、祭りにおいては天照皇大神に報告する義務がある。そのことを新権力者も納得した条件のもとに限られた政治の実務の実権をお認めになり(征夷代将軍の発想)、その上で実験行使をお認めになった。
肩書はともかくとして源氏平家の時代から、織田・豊臣・足利・徳川幕府の時代、みなそうであった。私は戦後の憲法下に時代も、そのような天皇の政治の一変遷家庭と見ることができると思っている。
そんな戦後の時代が60年以上経過して、その間、自民党や連立内閣など、様々な内閣が出現し、それぞれ失政も重ねたが、時の征夷代将軍の地位にある民主党幕府の菅直人将軍が政治を誤ってついには失脚した。
その間、天皇はそんな国内の情勢を、おのが力の至らないことではあるが、責任は我にあると天照皇大神初め神々にまつりで奉告(報告)されていたが、震災の時、実情を見かねて国民にお言葉を発せられ、皇室のできる範囲で精いっぱいに救済にもお力をお出しになっている。
そんな事情を本能的に知る国民は、原価の政治環境に絶望をし、天皇陛下に大きな期待をもって接するようになってきている。
そんな風に時を読むべきなのではないだろうか。
(つづく)