国民支持を失った原発利用の再開
福島原発の大事故、放射能漏れがきっかけになり、日本中の原発が点検のために稼働を停止。国民の反対で再運転ができなくなり、一般国民の原発に対する恐怖や危険感と、政府、その周辺にいままで巣くってきた原発関連族、それを後押しする財界などの思惑が、はっきり対立する雰囲気になってきた。いまではまだ、その趨勢は決定的な形になったとは言えないように見えるが、大勢は原発廃止に向かわざるを得ないと私は観測している。国民の言い知れぬ恐怖は強まることはあっても減ることはない。ここはそんな心理面の動向も、数字のデータ以上に国民生活に密接に響くことを知るべきであろう。
政府をはじめ、原子力発電を、何としても存続させたい連中は、放射能漏れということの及ぼした深刻な影響を、一部は国民にひた隠しにまでしながら、
「原発は安全だ。コストも安い。それに日本に原発が無くなれば、国民の電力需要にどう対決すればよいのだ。経済成長にブレーキがかかるではないか」
と国民の原発への素朴な疑念に証拠となりうる懇切なデータも出さず、問題意識を持たせぬように現状にふたをして目隠ししたりすり替えて、原発を維持していくことに必死だ。
だが福島で、放射能というものの恐ろしさ、それがこれから何千年もそれ以上も人間の生活を蝕み続けることに気づいた国民は、今までのように簡単に学者や偉い人の発言だから聞いて従っていればよいと納得はせず、本能的に背後に隠れた放射能の恐ろしさに気付いたようだ。放射能の被害、それは今から65年ほど前、昭和天皇がと広島・長崎の惨状に接し、「全人類破滅の凶器」と終戦の詔勅を出されて、害がこれ以上に広がらぬためにと戦争停止を宣言され、全国民がそのための敗戦の御命令に従った悪魔の科学の生みだしたものであった。
この連休から全国の原発は、定期点検のために運転を停止の状態になるが、継続にはいずれも目に見えない大衆、サイレントマジョリティーの「待った!」がかかり、見動きができなくなってしまうのではないか。
原発の構造は原爆と同じ核爆発を力に代えて発電する。通常は格納容器の中だから安全だといわれているが、炉の中などには、原爆とおなじ放射物質が残ってただ容器で密閉されているだけだ。万一原発の事故が起こってまき散らされる放射能は、私たちは勿論、将来の子供たちに永遠の被害を及ぼし続け、それこそ昭和天皇のお言葉のように人類破滅の凶器としていつまでも存続する。何千年もの半減期を持った放射能が原発からは出てくるのだ。だが、それはどんな被害だか、誰も安心できる説明などはできていない。放射能被害を瞬時に無害化する技術があればよいのだが、まだ人間の現在の知識では、放射能の無害化技術は発見できていないのだ。
福島では、事故に伴う放射能除染の除去作業が大騒ぎで進められている。だが、放射能を無害化する方法そのものがないのだ。水で洗い流して広い地域に薄めてばらまき、海に流して一部の地域の放射能を薄めて世界中にばらまき、汚染された土を削って除去してコンクリートの厚い容器に閉じ込めてどこかに保管する方法が試みられているが、水で流すということは、問題の場所から放射能を余所に持っていって拡散するだけの作業。地球規模で見れば、何の解決にもならないことなのだが、これ以外に方法が無いし、保管するにしても、土中にせよ山中にせよ、そこは将来にわたって、人の近づけない恐怖のスポットになる。
しかも、どんなに汚染除去の作業をしても、事故を起こした福島原発周辺には、当分は人がとても安心して暮らすことのできない地域がかなり残るだろうことも、政府自身が発表せざるを得ないことになった。
放射能の閉じ込め対策だって、たかが百年か数百年しかもたないコンクリートや金属の素材で包んで処理しても、保存容器の寿命の何十倍もの間、恐ろしい放射能を出し続ける汚染物質を、容器の寿命が来たらもう一度取り出して処理をし直さねばならないのだが、それを取り出してどうやって処理するのか。それは未解決のまま、将来の子孫たちに厄介な負の遺産として託すほかに方法が無いのが現実なのだ。
さらに情報を見ていくと、今回の福島の事故は、まだその後の完全な事故処理が終わっていなくて、今でも近寄ることもできず、危険な状態が放置されているという。危険な状態にあるところがあるが、公表されないのだという情報も多い。このままでは、いつまた重なる危険な状態になるかわからない状況だという。
昨年の地震と津波は、日本の豊かな国土の大きな部分を、原発があったために人が住めない土地にしてしまったといえるだろう。津波や地震の被害は痛ましいが、人々の知恵と努力で再び美しい国土に復元できる。だが、偶々我が国が悪魔の技術のような原子力発電に手を出したばっかりに起こした放射能の被害は、数千年先の我々の子孫まで、厄介で大きな負担を残すことになったという責任を我々は忘れてはならないと思う。
加えて、日本中に散在する原発が、これから危ない目に遭う可能性は、地震や津波ばかりではないことを知るべきだ。テロやゲリラの攻撃目標にされたらどうする。ミサイルが誤って飛んできたり、流星などが偶然落ちてきたら、それだけで想像もできない状態になる。そればかりではない。スイッチ一つ入れ間違えたら、原子炉の一部などで何らかのミスで傷がついたりしたら、福島と同様か、それ以上の事態になりかねないのだ。福島の原発事故では、技術者や監督者の「想定外」の事故だったという無責任な言語が繰り返された。だが、何でそんな愚かな「想定」をしたのかという、肝心のかかわり合った者たちの知恵の限界を指摘する声は不幸にして起きなかった。そんな安易な頭のままの責任者に安全だなどといわれてみても、信ずる方がおかしいと思う。
しかし、そんな事情がだんだん国民の知るところとなってきた。大衆は残念ながら特定の問題に関して専門家ではない。だが本能的に受け取る感受性は存外鋭いものを持っている。日々の生活をしっかり生きているからだ。そんな不安が重なって徐々に国内の意識も変わって来た。いくら、原子力を飯の種にしている連中が、この事故が起こったらどうにもならない原発を「想定外のことが起こらぬ限り安全だ」と叫んでも、自分の命、我が子や孫、その遠い子孫たちのことを大切に思う国民が、薄々ながら「これはおかしい」と気付いてしまった気配が見える。それは、今の人間の知識では「絶対に安心だ」と胸を張ることのできない不安なのだ。事故が起こったら回復できない現代の頭脳。それを国民は知ることになった。おそらく不安は徐々に高まっても、消えることはないだろう。再び「原子力発電は安全だし不可欠だ」と思う時代はもう来ないだろう。それに、いま、全国にある原発は、一体どうやって稼働中止の後に、安全な状態に戻せるのだろう。中止した旧原発が、全国の「穢れの租界」になり続けないのだろうか。人間はまだその無害化の技術を身につけていないのだ。考えれば考えるほど、原発の採用は軽率な文明破壊の危険をはらんだ軽率さであった。
とらわれてはならないさかさまの発想
こんな状態になっても、「原発が稼働中止になれば、人類文化の安定的成長は維持できない」という人がいる。需要は聖なるものだと頭を固定して、それを何とか埋めようという側面だけでものをみる考え方だ。経済界などにそんな人が多い。だがそれは理屈にならない屁理屈だ。電力不足以外の面に置き換えて考えてみるとよい。「食料が充分に国民に行きわたらない事態が訪れた」とする。それが干ばつなどの凶作であれ、為替相場などで輸入ができなくなった条件であれ、「起こった食料不足が悪いのだ」などといって見ても始まらない。それよりも、少ない食料で国民がどうやって生きていくかを必死で検討するのが我々のしなければならない第一のことである。
電力不足の事態だって、そんな問題として受け止めなければならない。それをうかうかとおかしな論に乗せられてしまい、原発継続に反対の人々には、太陽光発電やその他の発電でその発展を身代わりしようと声高に主張して、筋道が立ったと思っているものが多い。だが技術的には、これらの代替エネルギーの将来性には、現段階ではまだ問題もある。大切なのは「我慢をしてでも悪魔の狂気に身を任せるな」と主張することである。それが無いので、見ていると「そんなものでは今後増えても減ることはないとみられる電力需要を補完することができないではないか」といわれて沈黙させられているケースが多いようにも見える。
しっかりしてほしい。足りないものは足りないのだ。それでも大切な国民生活を精一杯守っていくことなのだ。そしてどうやって生きていくかは次の問題なのだ。
無駄を削る第二段階の作業
現在の我が国の電力不足の状況が新聞などにはよく発表される。眺めると不足する電力量は存外に少ない。この電力需要の総量を少し圧縮して、やがてその不足が埋まるときまで待つというのは、そんなに苦労なことではないのではないか。いまほど大量に電気エネルギーを使いまくらねば、人間社会は維持できないのかということを前提にした論議にはもう少し内容を考えて踏み込んでいくべきだと思う。人間は周りの環境に目もくれず、なんでも使いまくることを許されているのだろうか。そんな姿が電力消費には見えるからだ。それは生きる姿勢をどうとらえるかの問題とも絡んでいる。
最近の我が国では、近年特に猛烈に電気使用量が増えている。工業の技術革新は勿論だが、これに加えて家庭用の電気需要も著しい。我々の日々の生活はまるで電気漬けのようになってきている。生活環境は電気の力で、夏は涼しく冬は暖かく、しすぎるようにエアコンなどを入れて生活しているし、温めた部屋には冷凍庫や冷蔵庫があって、食品は冷たくして保管されていて、食べるときにはそれを逆に熱くする。いたるところに使われている用具は電池で動くし、家から出たらすぐに車で動く。テレビや携帯電話、パソコンなどは使いっぱなし。夜は昼より明るいようなライトアップも進んでいる。私は最近、あまり飛行機に乗らないが、空から見ると、夜でも人の住むところは、まるで昼間ではないかと思うほど、まばゆい電気が煌々とついている。これらのエネルギーは元をただせば太陽エネルギーや地球の持つエネルギーから消費されている。天地万物、その他が集まるこの大きな世界を、それらの動きに逆らって、最近、急速に使い尽くし始めたこの行為、人間だけが横暴に無視して、こんなに暴走して許されるものだろうか。
街中にも最近子供を見かけることが少なくなった。人間だってこの世界に生きる動物の一つだ。そこら中を駆け回り、身体を使い仲間と交わり、経験を積みながら育っていた子供は、いまではテレビやゲームなど電気漬けで、自然環境など無縁の日々を過ごし、自然人としての素質はすっかり退化し、機械とエネルギーの膨大な供給がなければ生きられない姿になっている。天然自然の生みだす力で、それを上手に利用しながら自然と調和しては生きられない生物にどんどんと変わって来てしまっている。この傾向を安易につき進めることが、果たして人類の進化ということができるのだろうか。ここでは一例として子供たちの例を挙げた。だが現実には子供だけではなく、我々すべてがこんな傾向を著しく強くしている。
人々の考え方もおかしくなってきた。我々人類は、独特の知恵を集積するという技術を習得し、その積み重ねで様々のものの理屈を、一代限りで習得した技術を充分に子孫に継承できない生物たちの中にあって、この地球の支配的な独占権を揮うことができる力を身につけて、我々よりも力が優れ、生命力が強い連中を抑えて地球での支配権を維持し続けてきた。だが、人間の習得した知識には限りがある。身につけ得た力にも限度がある。
原子力について、まだどう扱うかもわかっていないのも事実なら、物理化学が、自然の姿を充分に解き明かせていないのも事実である。空に漂う雲一つ、人間の力では追い払うこともできないし、天災などを予知し制御することなどは当分の間我々には不可能だろう。そんな程度の知識しかまだ身につけていない人間が、未知の力の多いことを知り、慎んで生きてきたのが最近になって、すべてのことを知っているような慢心に溺れ、世界が見えなくなってきた。
原子力発電もそんな発想の一つの姿なら、人間がわがまま勝手に生きるためには、なんでも勝手に利用して、この世界を使いつぶして良いと思う傲慢な発想におかされて来ているのも、溺れてうぬぼれた現代人の姿なのではないか。
われわれは、おのれのできる範囲で暮さねばならないし、その力を冷静に見てその範囲で暮らすことが人の生き方である。我が国の電気使用量などは、我々の今の状況で再生産のできる範囲を想定し、その範囲で需要を抑制するのが本来の姿でなければならない。現在の我が国電力の需給論は、完全に逆立ちしているといわねばなるまい。
日本人の育んできた思想
自然とともに暮らす、自然の声に耳を傾ける。自然を大切にし、自分も自然と調和して生きる。これが我々日本人の文化の特性であった。以上あげたような概念は何も日本文化だけにではなく、世界の文化にあることだという声もあるだろう。その通り、人間も自然の中から生まれた生き物であり、どこでもだれでもそんな要素は持っている。だがその中で、自然を最も大切に思い、自然と調和して生きてきたのが我々の文化だった。
欧米などでは、自然を人々と対立したものと捉える考え方も強いのだが、そんな中で我々は「常に共生」の意識を持って自然に接してきた。太陽も月も星も風も雨も嵐も山も木も水も原も川も水も沼も海も、我々はそれぞれに聖なる存在感を持ち、それをつかさどる神がいると信じ、そんな中に我々も同じように暮らし暮らさせてもらっていると信じてきた。そんな生活を続けるにあたって、我々は祖先の代から自然の神々へのまつりを行い、自らの生活のために農業や漁業などを行うに当たっても、神々をもてなすお供え物やまつりをして、神々へのまつりをして、神々の恩恵の基に万物と調和して生きようとの姿勢で人生を送ってきた。
生活のために木を伐るときは、木の神さまにあいさつし、切った後には必ず木を新たに植えて自然を復元し、むやみに自然を壊さずに自然も我々とともに美しく維持することを心がけてきた。そんな我々の意識は、この我々の住む国土を戦う相手だとして、暮らしのために征服するとしてきた文明とはかなり違った特性がある。
これからの文明をどう伸ばし、発展させていくときには、そんな我々が先祖から受け継いできた感性を生かしたものを目指したいと思っている。
現代の我々は、とかく明治以来の要学思想におかされて、我々が身につけてきた発想とは違った方向を目指しているようなところが多くなっている。この原子力発電の問題もそうだが、基本から、考えてみる必要がありそうである。
スペースが限られたこの欄で、すべてを述べることはできないので、それはこれからの文に委ねるが、終末思想などが訪れがちな洋学を離れ、「我々も自然の一部なのだ」という日本的なものの考え方を生活にもっと復活させたいものである。
写真は事故に遭った福島原発。