葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

蜂の一刺し

2011年09月29日 22時39分11秒 | 私の「時事評論」
 朝駈けに
 「蜂の一刺し」。ロッキード事件だったか、どこかで有名になった言葉だが、まさか私がその激しい一撃を受けることになるとは思わなかった。

 最近恒例になっている朝の神社参拝、出かけるときは降っていなかったのだが、歩むにつれて雲行きがあやしくなり、とうとう雨が降りだした。
6時もまだ小半時ある前の時間である。人影もない。引き返すのは癪に障る。やむなく雨のしずくの少ない立木の陰などを縫うように歩き、家に帰って庭先でほっとした瞬間、手の指の間に激痛が走った。
見ると小さな蜂がいっぴき、尻からしっかりと私の指の間に刺さってぶら下がっている。手を振って振り払おうとしたのだが、そんなことでは離れない。やっとのことで生垣の枝を見つけ、それで濃さぐようにして蜂を引き抜いた。激痛は去らない。

 部屋に戻って患部をよく見るのだが、手の周辺一帯が真っ赤にはれてしまって、どこが傷口かさえもわからない。よく「蜂に刺されたら、針を探して抜き去ってよく洗え」と言われるが、一面が痛くて見当がつかない。
 女房殿に、「蜂に刺された。ぬる薬はあるか」と聞くと、「蚊に刺されたのならムヒがあるが、蜂に刺された薬はない」という。「キンカンならあるわよ」などと言うので、まあ、効かなくてもともとと、それをちょっとつけ、そのうち治るだろうと思って放っておいたが、治るどころかどんどん腫れが大きくなる。
 夕方には周辺の指が曲がらないほど太くなった。夜通し疼いて翌朝には手のひらまで太くなってきた。
 狙われたのが悪かったのだ。いつか治るだろうと放っておいたのだが、見てた女房が今日、内科の定期診療で病院にいって、診察の時に話をしたら、医師が飲み薬と塗り薬をくれて、「これで腫れが引かなければ、皮膚科の医者にかかりなさい」と言ったと薬を渡された。
 女房も、あのあさ、寝ぼけマナコで蜂刺されに「キンカン」などを差し出して、ちょっと反省していたのかな。

 雨を避けようと低木の生えるところを歩いたのが、蜂を引っ張り込む原因になったのだろうが、飛んだ災難だった。


 生兵法は大怪我の基という。
 「生兵法は大怪我の基」という言葉がある。蜂に刺されたということは、自分の目で確かめて分かっていた。朝が早かったので、すぐにというわけにはいかなくても、朝一番に皮膚科に行っておけば、こんなイタガユイ不快感に、三日も四日も悩ませられ、手に熱までもつこともなかったろう。
医者や薬剤師から、一度刺されるとそれがどこかに残っていて、次に刺されると、比べ物にならないように酷い症状になるぞと脅かされた。スズメバチなど、蜂の種類によっては、命の危機に遭遇することもあるのだそうだ。
何よりも迅速に対応するのが被害を小さくする秘訣なのだそうだ。

 それはそれとして、そんなお説教を聞きながら、まさに「泣きっ面に蜂」の心境である。症状は刺された時より悪い。医者でもないのに、知識もないのに、勝手な手当てをしてこじらせた。まさにこのことわざ通りを地でいっているのだろう。
「まるで政府の対応みたいだ」
と呟いてみた。
震災の直後、事故の報に接した首相官邸は、どう対応するか分かっていなかった。一分でも早く救助の手を差し伸べれば、波間に漂う犠牲者を何名かは知らないが救出できた。首相はそれを命令できる立場にいた。日ごろから、日本の危機への対応の責任を感じていたら、無駄な時間は費やさなかったはずだ。
だが、政府の対応は「まず、情報を集めろ」で始まり、そのあとは「事故への対応を協議し指揮する専門組織を作れ」であった。
悪いことをしたとは思っていない。ただ、そんなことに時間を費やしているうちに、多くの命が助かるところを助けることができなかっただろう。これは愚かな私の場合におきかえれば、「何蜂に刺されたのか調べろ」「どこでついてきた蜂なのか、場所を調べろ」などと言うばかりで、対応措置を後にすることになる。私はそんなことばかり考えていてその挙句、キンカンなどを蜂の針の上から塗って、いまだに痛い手をさすっている。
 因みにキンカンは、炎症止めやかゆみ止めには効果がある薬品なのだそうです。

朝のお勤め

2011年09月28日 22時27分07秒 | 私の「時事評論」
一転環境が変わった我が家

 まるで朝の仕事のように5時半ころに私は家を出かけていく。目的は我が家のすぐ近くに鎮座している二つの神社にわが、我が愛する孫息子の病気平癒などを祈願。それを一日の仕事始めにしているので・・。
 夏の初めの6月中旬、暑い真夏の日が始まった頃だった。我が家には昨年来、息子一家が同居するようになり、二人の幼い子供が加わって、我が家の生活をにぎやかにしていたが、その下の孫息子が突然倒れた。
 天真爛漫、やっとヨチヨチと歩き始め、毎日大きな歓声を上げて家じゅうをひっかきまわして歩いていた子の顔色が悪く、どことなく元気がない。いつも声をかけるとやって来て、私の胸に飛び込んでくる眼の中に入れても痛くない孫息子なのだが、顔色が悪くどこか元気がないのだ。さっそく街の小児科医院に行ったら、強い貧血だが、専門の病院で一度精密検診を受けるように勧められ出かけていくと、そのまま救急車で大学病院に入院させられることになってしまった。
 幼児の病気は急変する。うっかりポイントを見落とすと大変なことになる。その点では、倒れる前に連れて行ったのは運が良かったのかもしれないが、検査の結果、半年以上も点滴用の管をつけ、病院のベッドにつながれる状態になってしまった。

  この子は私ら夫婦にとって、何をさておいても可愛い我が家の宝物だった。この子が生来、身体が弱いことは聞いていた。上のお兄ちゃんと二人の子供を抱え、お兄ちゃんも幼稚園から小学校に進む時。長い間両親を独占する一人っ子で、可愛がられすぎて我儘いっぱいに育ったお兄ちゃんなので、この子だけの世話でも、家事が不慣れの息子夫婦には大変で、その上弱い赤ちゃんが生まれたのでは、下の子供に手が回らないかもしれない。しかも父親はいま、猛烈に酷使されている大企業の中間管理職、毎朝7時には会社に出かけて、帰ってくるのは深夜である。しかも客先の便宜を図って、休日は平日になっていて、学校に行く息子とはすれ違い、その上仕事のために、国家試験で難しい資格を取ろうと連休の一日は専門の学校に通っている。これではとても子供たちにまで手が回るまい。それが我が家での息子一家と同居を勧めた動機だった。
慣れるまで、我が家では、私ら老夫婦が下の孫の世話を見ながら家を見る。そう思ったから呼んだので、我が家はこんな環境になっていたし、下の子はそのため、よその家での両親と同じように、我ら祖父祖母になじんでいて、片時も離れたがらないような子に育っている。それが突然長期入院になってしまったのだから大慌てだった。

 病院は完全看護で肉親以外は面会もできない。立ち会えるのは指定された時間に両親と祖父母に限られる。時間は毎日午後3時から8時まで。休日はそれが午後1時から許される。子供に何より必要なのは家族の愛情だ。息子夫婦とも話し合って、その許された面会時間だけは、お互いに時間をとり合って、必ず誰かがそばにいて、子供に愛情のシャワーをかけ続ける計画を立てた。
病院への往復は3時間ほどかかる。それに面会が5時間から7時間。すべての我が家の日程を、この子の看護に重点を置き、そんな生活が始まった。

 朝の日課がこうして生まれた

 そんな事態になって見ると、私に出来ることはほとんど残されていない。
掃除洗濯調理など、いままで我が家の家事はすべて妻に任せてやってきたし、表での仕事一本に生涯を続けてきた私だ。しかも仕事は私生活が取りにくい新聞業、編集や経営。今はそれらの仕事も卒業し、我が家で時々原稿を書くことや、様々なコンサルタントに近いことをやるのみの身だが、振り返れば子供の世話一つ、自分の子供にはしてこなかった今風でない男だ。
 食事のあとに食べた皿を運んだり洗うこと、頼まれた食料を買い物に行くこと、掃除機をかけたり部屋の整理をすること、風呂を沸かすこと。そんな中途半端な手伝い以外に私に何ができるのだろうか。それだって、はじめてみれば皿を洗えば落として割るし、買い物に行けば量を間違え皆を困らせ、掃除機をかければ誤って障子を破る。私の手伝いは家の妻や嫁をこまらせるだけだ。
 そこでどうしたらよいかと思い迷いながら、鎮守の神社二社に参拝して、孫の病気回復を祈念して、孫の身代わりになれるなら、老いた私だが、わが身を差し出しても悔いはないと神さまに約束し、たのが毎日になり、二つの神社への早朝参拝のきっかけとなった。

 祈願の毎日参拝を始めてみると、参拝に行かないでいると、鎮守の神さまから、「もう、お前の祈願は中止するのか」と言われているような気がしてくる。参拝は6月から、一日も明けることなく続けることになった。
雨の日も風の日も、どんなに条件が悪くとも続けなければならない。以来参拝は欠かさず続け、連続百日はすでに超え、いまでは毎朝の恒例行事になっている。時にはどうしても朝に参拝できない事態もあった。大切にお付き合いをしていた伯父が死に、私は旧来の大家族主義を頑なに守る一族の長男坊であるので、長野に通夜と葬儀に行かなければならなくなった7月のある一日があった。私はいろいろ考えて、妻に代参をしてもらうことにした。代参は森の石松の浪曲に出てきて、お伊勢参りによく出てくるような、信頼する第三者に代わって参拝してもらう制度のことだ。日本の神社参拝には面白い制度がある。それは必ずしも自分の正規の参拝と同様に扱うことはできないだろうが、征夷だけは通ずるようだ。そんな日が一日だけ、中に挟まってしまったが。
お百度参りが満願達成寸前になると、いろいろの予期せぬ支障が生まれてくるとの話はどこにでも多い。あと何日、指折り数えてその障害も乗り越えた。


参拝は私を元気にする副作用も

朝の参拝中に腹が痛くなったり、足が思うように動かなく感ずる時もあった。だが無理せずに続けていると、いつの間にやら、身体の調子も続くようになった。二社のうち一社、神明宮には60段ほどの石段がある。当初は途中で何度も立ち止まり、乱れる息を整えて参拝していたが、最近は割にゆったり登れるようになった。それに早朝の散歩は爽やかだ。出会う人はお互いに「お早うございます」と気軽にあいさつをするし、境内を早朝から掃除している人とも自然に話ができる。早朝の街が、魅力あふれるものであることを身体が理解するようになった。
最初は日の出の早く、5時と言っても日差しがきつかった周囲の朝も、最近はだんだん夜明けが遅くなって、時には出かけるときはまだ、あたりに夜が抜けきっていないように感ずる時もある。だが、朝参りを始めてから体調がよい。今のところ、神さまはこの私の寿命をお召しになるのではなく、私に日々の健康をお授けになってくださっている気配である。

孫息子も、入院当初は病院のベッドに縛り付けられるような状態だったが、その御管轄を開けて集中的に強い薬を点滴される合間には、週末の二日間など、我が家の味を忘れさせないために一時帰宅も許されるようになってきた。治療もほぼ、前半の段階を越え、あとの後半を残すのみになってきた。予断を許すことはできないが、少しずつ、元の健康を取り戻しつつある状況である。
今日も孫は我が家に戻っている。全快の日まで、私は参拝を続ける覚悟でいる。

回復しつつある社会規範の意識

2011年09月24日 15時18分04秒 | 私の「時事評論」
15号台風来る



 沖縄に停滞すること一週間、移動性の熱帯低気圧なのに自ら動くことを忘れ、周辺に雨風の被害をまき散らし、あとから発生した16号にまで追い越されていった台風15号が、急に動き出して日本列島を舐め尽くして去った。

 動き出したら活発で、猛烈な雨風を伴いながら西日本に大雨を降らせ、静岡の浜松に上陸してから箱根路を越え、神奈川、東京、埼玉、栃木、宮城と日本の動脈、新幹線沿いに首都圏から仙台までを走破、猛烈な勢いで東北沖合に抜け、北海道東部を襲って去って行ったが、久しぶりの猛烈な雨と風、いかにも台風らしい威力を存分に振るった台風だった。

 もちろん被害はかなりのものに達した。今年の夏は列島上に高気圧が防壁を作り、低気圧の侵入を強力に阻む。そのため日本列島にやってくる台風が途中で停滞し、その影響が長時間列島上に継続し、川を氾濫させ山崩れを残す例が多い。先の12号台風では紀伊半島などを中心に、西日本に未曽有ともいえる死傷者や被害を生じ、その爪痕が全く癒えない時期に来た台風だった。

おかげで今回のそれは、十数人の死者や行くえ不明者を出した大きな台風だったのだが、その割に国民の反応は冷静だった。東北関東大震災の津波で、万余の被害者が出て、国民意識が災害にマヒしてしまったのか、強すぎる災害の効果が、「襲われても天災だからやむを得ぬ」との間隔を沁みとおらせてしまったのか。


 ただ今回の台風が発達をした状態のまま東京・横浜などの首都圏を直撃、交通をマヒさせ、通勤者など大勢の人に爪痕を残したのは特徴的だったし、それに対しての人々の対応が、割に冷静だったのが目に付いた。





 首都圏の混乱の中での一例


 台風に直撃されたとき、私はたまたま横浜市の西端・金沢区の埋め立てに出来た大学病院にいた。二歳になった幼い孫が、夏の初めから長期入院しているので、午後の時間はこの子のそばにいて付き添い半分、遊び相手半分、病院で過ごすことが多くなっている。

今日もそんな一日で、雨風の中、孫の顔見たさに出かけて行ったのだが、そのうち猛烈な風が吹いて来て、台風が箱根を越え、東京横浜を直撃している。各地で停電になり、交通機関はすべて止まったなどの情報が入ってきた。

 どんな具合だろうと病院入口に行ってみる。自動ドアーを開けて外に出た人は雨風に吹かれてまともには歩けない。中には飛ばされて転倒する人も出て、大変な状態になっていた。

玄関口には、神札を終わった外来の人や、夕方で勤務明けになった関係者など、この猛烈なあらしで病院ビルから外に出られない人が徐々にその数を増していた。どうやら病院に接続する交通機関も止まって、かえるに代えられないといった調子である。

 「エライことになったよ。当分帰れそうもないよ」

病室に戻って、一緒に来ていた妻に報告して、夜中までの待機を覚悟した。面会時間が過ぎたからといって、まさか病院もこの天候の中に私らを叩きだしはすまい。しばらくそのまま病室にいて、夜が更けるまででも環境の回復を待つしかないことになるだろう。


そうやって再び病室に戻り、のんびりと孫のお相手に時間を使い、時間も終了し、子供も眠りについたので玄関口に出て来てみた。

 感心したのはその時に見た光景である。交通機関はすべて止まっている。横浜といっても、市の中心部からは遠く離れたぽつんとした東京湾の埋め立て地、タクシーもこの病院に行き来する人を乗せる以外にはほとんどようがない地域である。台風で利用したい人は市の中心部にたくさんいて、他が忙しいのだろう、ほとんど来ない。そんな中、病院では、ありったけのイスを玄関広間付近に並べ、そこに大きな掲示板と交通情報を書いた掲示板を設け、職員が数名出て人々の誘導にあたっていた。

情報は新しいものが入るとすぐに書き換えるから、最新のものが掲示されている。親切に病院と接続するモノレール・シーサイドラインや市営バスの状況ばかりではなく、その接続先の情報までが示されている。待機する人には、病院の人から順番を記入した交通整理券が渡される。

ほとんどタクシーはやってこないし、バスも半時間に一台程度しか来ないのだが、病院の中で待機して、受付カードの順に、番号を呼ばれた人が整理券をもって、職員に誘導されて玄関を出てその指示に忠実に乗車する。

 院内の売店も、規定の時間は終わったのだが、二百名を越す家に戻れない人のために、営業して、飲み物や食べ物などを提供していた。お腹のすいた人は、物まで選ぶことはできないが、とにかく空腹と水分不足を補っている。ここに混乱は全く出ていなかった。


 台風も通りすぎて一時間ほどが過ぎた八時半ころに玄関まで出てきた私も、整理券は受け取った。あと200番少々待つ番号だ。聞けばやってくるタクシーは一時間に4,5台、このままでは状況が改善されても十二時を過ぎる。放送では、目の前に駅のあるシーサイドラインが間もなく開通になる。とりあえず一台が動き出したが、その先での乗り換えは、まだJRや私鉄は動いておらず、乗り換え駅で、一時間少々待たされるのではないかなどと伝えていた。


 私はここから車でならば一時間ほどの所に住んでいる。電話をして家から車に来てもらうことにして、しばらくそこで待機して帰宅した。おかげで用意された椅子に座って待たせてもらう以外に、病院の人たちの善意にお世話になることはなかったのだが、その徹底したサービスぶり、それに従う人々の規則正しい動きに感心した。





 規律意識が蘇りつつある

 東北関東大地震、その後につづいた多くの災害、今年はまだ数カ月を残すが、災害の多い年だった。そのために人々は、これまでは災害へどう対応するかの準備もせずに、他人のことのように思っていたきらいも多く、かなりの混乱が各地で見られた。慌てたのである。

だが日本人は、本来は共同社会での混乱を最低限度に防ぐ力を歴史的に養ってきていた。それはまだまだ我らの身体にしみ込んでいる。パニックになりそうな時に、どうすれば無用な被害の拡大を防ぐことができるか、そこに必要なのは、勝手に一人で騒がずに、慌てず冷静に動くことだ。

 そんな知識はここ数年、「集団より個人優先」のエゴが大切だとする風潮の中で、ともすれば忘れ去られようとしてきていたが、相次ぐ災難の発生により、だんだん基に戻る傾向がみられるのではないか。

 今回の首都圏の台風の余波は、首都圏の交通機関に半年前の東北震災パニックと同じような全面ストップのマヒを呼び起こした。しかしその事態に随伴する混乱は、当時に比して全く軽微であった。

 人々の社会に対応する認識は、打ちつづく災難により、大きな変化をしてきている。此処、私の経験した横浜の例ばかりではなく、台風による交通機関の混乱は多くの場所でも起こったのだが、今回の場合は、人々の我がちに争ったり秩序を無視する騒動で、混乱によりいよいよ拡大される加速度を生まず、穏やかなうちに収束した。

 ここ数十年の生活の中で、現代のわれわれの周囲にあった秩序の意識は崩れてしまった。そんな風に思いこみたくなるような現代日本の環境である。だが、政治を見たり経済を見ていると、これが日本の姿であるのかと慨嘆することも多いのだが、そんな中で、いつの間にか秩序正しいかつての日本人の意識の一端が戻って来つつある。日本にはまだ期待のできる可能性がある。こんな気がした台風であった。

 病院には9時ころになって、息子が車で迎えに来てくれた。帰路、猛烈な暴風のため、道路の信号が曲がってしまい。ねじれてしまった信号が90度動いて、同じ方向に二方向の信号が並び、赤と青が並んでつくような信号もいくつかあった。

 だが車は注意深く徐行して譲り合って進み、おかしな衝突事故などが起こっている気配はどこにも見えなかった。こんなところに日本人の性格がある。それが一時は消えるか、ほとんど見えなくなってしまっていたのが、今年は急速に復興の気配だ。

 新しい潮流として眺めてみるべきだと思った。


 

奇怪な行列ー鎌倉面掛け行列

2011年09月16日 21時08分54秒 | 私の「時事評論」
 鎌倉の異様な神賑行事

 堅苦しいものばかり書いたから、少し肩の凝らない話を書こう。鎌倉・御霊神社の例祭日(9月中旬)の御神幸行列、「孕み人(はらみっと)=面掛け行列」である。
 鎌倉由比ヶ浜海岸の最も西側、稲村ケ崎の半島がつき出るあたりを坂の下海岸という。その昔、西から鎌倉に来る街道は、江の島から七里ガ浜、稲村ケ崎海岸を過ぎて、極楽寺坂という切り通しを越えて鎌倉に入った。ちょうどいまの江ノ電がその通りに沿って鎌倉に入ってくるが、その江ノ電が路線の中のトンネル、極楽寺坂を越えて坂を下るあたりから長谷の駅に至る間が坂の下である。
 その線路沿い、江の島側からトンネルを抜けたところに坂の下の鎮守・御霊神社(権五郎神社)がある。長谷観音に隣接する昔ながらの風格をどこかに感じさせる神社だ。
 この神社の例祭の御神幸行列が孕み人行列だ。神奈川県の無形文化財に指定されているこの行列は、神輿渡御とともに、異様な仮装をした連中が進む奇妙な行列として人気がある。今年は9月18日午後に行われる。
 

 異様な風態の行列が

 きらびやかな鮮やかさは期待してはいけない。昔は鶴岡八幡宮の放生会でも行われたものだが、これは明治に廃止され、ここでは海岸の漁業関係者や農民たちに支えられていまの姿に発展したという。

 なるほどと思われる。古いお面をつけた今の言葉でいえば仮装行列のようなものだが、服装も古いもので、元の衣装は鮮やかだったのだろうが、いまではくすんだ服装ばかり。異様なお面をつけた連中が、道開きの神である猿田彦の先導により、天狗、獅子、そして面掛け十人衆と言われる爺、鬼、異行(いぎょう)、鼻長、烏天狗、翁、七好男(ひょっとこ)、福録(ふくろく)、阿亀(おかめ)、女という順番で進む。

 舞楽面行列などがここでは土俗化して変形したと学者などは言うが、地元にはこんな言い伝えがある。


 彼らの集団に属する大事な娘に頼朝が手を出して子供を身ごもらせた。しかし妻の政子は嫉妬深くとても彼女を引き取ることは頼朝にはできない。そこで彼ら一族に特権をひそかに与えてそれで手を打つことにした。そのため彼らは自由に鎌倉の街の中を歩きまわっていた。


 豊作祈願の行事が変化か

 孕みっとは「おかめ」である。手弱女役なのに行列の中で屈強で大柄な男が、腹の膨れた女の姿でのっしのっしと歩くさまは笑いを誘う。「おかめ」の大きなお腹をさすれば安産間違いなしなどと伝えられているが、農業の実りを祈願したものが変わってきたものだろう。後ろにつく「女」は産婆役だそうである。

 御霊関神社は後三年の役の頃、鎌倉はじめ関東地方で武勇を誇った鎌倉武士団の長、鎌倉権五郎景政を祭神とする。景政は戦闘の時、敵に右目を矢で射抜かれたが、ひるむことなく矢を抜きもせず奮戦して陣地に戻り、味方に矢を抜いてもらおうとした時、抜こうとした武士が彼の顔に足をかけたのに対し、強くたしなめた逸話で有名である。

 神社は漁業漁師たちの強い信仰で有名であり、それに関しては境内に石上神社があり、特殊神事もある。また豊作祈願の鎌倉神楽などでも有名だ。アジサイの名所、ご社殿の周りには多種類のアジサイが咲き、境内の鳥居の前を江ノ電が行き来する。そこも一面アジサイで、カメラマンが時期にはいっぱいになる。一度は参拝してみたいお社である。参拝は江ノ電長谷駅下車、徒歩5分ほど。また街道に出ると、昼でも星や月が写っていたと伝える「星月の井戸」がある。こんなところから「星月」は鎌倉の枕ことばにもなっていて有名だ。
[写真は」WEBより。


鎮守のまつり、年々盛んに

2011年09月12日 18時05分02秒 | 私の「時事評論」

 私と鎮守の神社

 まつりの華やかさで全国に知られた有名神社ではない。どこにでもある郷土の鎮守で常勤の神主さんもいない。だがそれを支える人たちが熱心で、最近、毎年祭りが賑やかになっていく。
 そんな光景を目の当たりにするのはなかなか楽しいものだ。とくにいま、まつりに取り組んでいる中心人物のひとりI君(仲間もいるから、特定の個人の力とは表現し難いので、特に名を上げない)は私の小学校時代の同級生で、代々この町に住んでいる男。私が彼と知り合ってもう65年を越すが、いつも笑顔で話しあう幼馴染だ。

 場所は神奈川県鎌倉市、神社はこの町の昔ながらの古い地区、大仏や観音はじめ多くの社寺があり、海にも近い長谷地区にある。神社はここに源頼朝が幕府を立てて、多くの寺宮が建立された鎌倉時代より以前から、奈良や京都から南関東や東北地区に向けて旧い東海道がこのすぐ前を通っていた和銅年間(710ころ)創建とされ、日本最古の神社名簿の載る延喜式神明帳にも式内社として名を連ねる甘繩神明宮である。

 鎌倉時代の武士たちもこの神社を大切にしていて、頼朝も参拝を欠かさなかった古社であり、由緒もそれなりにある。境内も整い、背後の山・神輿ヶ嶽の中腹の拝殿からは眼下に相模湾をはじめ、三浦半島から伊豆の大島、半島の伊豆や天城の連山、由比ヶ浜に面する鎌倉の市街が一望に見張らせ、いまは境内から住宅街の細道になってしまったが、参道を降りて長谷大通りに達し、いまはここまでで参道は終わるが、さらにまっすぐ南に伸びる路地を進むと、五分ほどでやがてまっすぐ由比ヶ浜海岸の稲瀬川河口に接する。

 神明宮はかつて、相模湾から江の島、鎌倉、さらに房総や奥州への街道を通る人々や周辺の住民、海岸の漁業関係者にも深く信仰されていたのだと思われる。鎌倉に頼朝が幕府を作るはるか前に、源頼義が当社に祈願した結果、八幡太郎義家が生まれたなどという話も伝わっている。もちろん、義家もこの神社を大切にした。

 神社には私も、小学生の時代から、ステッキを杖にゆっくり散歩するようになった現在まで、遊び場として、散歩道として、そして思索の場所、参拝の場所としてすっかり慣れ親しんできた。

 私は十年ほど前に、同じ鎌倉市内で家を見つけて転居をしたが、この神明宮が大好きであったので、ここ長谷からよそに動くことは考えられず、新しい住居も以前の住所からほど近いこの神明宮を挟んだ反対側のマンションに移った。それほど私には離れられない神明さまだ。いままでに何百回、ここに参拝をしたことか。


 信仰を示す境内の結構

 父ばかりではなく祖父も曾祖父も、遠く鎌倉時代以前から、九州の八幡様に奉仕してきた祀職の家に私は生まれた。しかも父の後を継ぎ、全国の神社をまとめる中央組織に40年近く勤めてきた。そこで戦後の神社界と日本の社会との接点の役割を担当した神社とはきれない立場にある私だが、東京に通っていたので地元の神社には失礼だが深いかかわりはなく、折に触れ個人的に参拝し、行事の折に奉賛する程度しかつながりがない。

 逆にこの地区に住むI君は、この地域には先祖の時代から住みつき、昔からの地域の要職を務めてきた家の出身で、この神社の祭りや運営には若いころから熱心だった。やはり若いころはサラリーマンで、一流企業に勤め、ここ鎌倉から通勤していた。神社の境内でばかりではなく、通勤の途中などにも何度かは会い、同級生のよしみで、いろいろと話し合っている仲だ。彼はサラリーマン時代も地元との付き合いには熱心で、町内会や神社の祭りや運営には深くかかわっていたので、彼から地元の話や同級生の情報などを、私は自然と教えて貰う立場にあった。

 そんな我らも年を経て、ともに勤めていた仕事も終わり、地元で悠々暮らす時代になった。彼は鎮守の神明宮の実情を話し、この神社の祭りを大きく盛り上げて、神明さまの神威を広く高めようと思っていた。格別の特殊神事をもっている神社は別だが、全国の神社の大半は、初詣と例祭日に地元の参拝者が集中し、それがない時は閑散としている。これではもったいないと思っているのだろう。

 神明宮は頼朝によって、頼朝が「伊勢別宮」と定めて社殿を整備したと伝えられるが、いまでも長谷地区の人は神明宮への篤い崇敬心をもっている。戦前に、地元の大工が集まって再建したご社殿は、いまでも補修されて立派な姿を誇っている。その補修にあたった大工が戦前から我が家の隣に住んでいたので、生涯の誇りとして語る自慢話はよく聞かされた。手水舎、神輿庫、灯篭、石段、石玉垣、石鳥居、掲示板、社号標や、北条時宗産湯の井戸と伝える古井戸や握舎、由緒版なども整備されている。境内にたつ社務所こそ、いまでは長谷地区の公会堂になってしまっているが、これだってこの神明宮が歴史的に地元の人の揃って集う集会の地であり、地域の出征兵士などを町民あげて見送りした、神社と町民の結びつきの名残だろう。立派な出征地元戦死者たちを慰霊する忠魂碑も境内にはある。


 まつりで神社を活性化しよう

 I君らは、普段は参拝者もまばらで、鎌倉に集まる多くの観光客たちも素通りをするこの神明宮を活性化しようと、長谷地区の町内会や子供会などとも相談を重ねた。明治以降、立地条件の良さから東京に集まる要人たちの別荘地として多くの家が建てられ、次いで文士や画家、俳優や学者、官僚、実業家なども競って別荘を建てた鎌倉だ。だが戦後の復興の時期を経た後で眺めると、この種の大正・昭和初期の新住民たちの多くは、最近は地元の人たちと昵懇になったが、やがてそろって高齢化していった。戦後は老人・子ども・孫の三世代で住む人は急減し、街は隠居した老人ばかりの時代になった。そのうち周辺地区では、海の家や保養所だった場所、広い敷地が老人たちの隠居所だった谷戸や丘陵地、僅かに残っていた農地などが小さく刻まれて相次いで売りに出されて、一部の地域、とくに市の周辺部では、若い人口も増えてきたのだが、肝心の長谷は東京に通っていた人たちの隠居の村で、年々住人の老化が進むばかりだ。生まれた子供たちはそんな親から独立して都心や横浜などに出て行ってしまう。

 ただそれでも鎌倉は、そこに暮らした経験のある人たちにとっては環境もよく、魅力の土地だ。出て行った子供たちを見ていると、週末や連休、学校の休みなどがあると戻ってくる。休日などは多くの家から賑やかな子供の声が聞こえる。子供たちが祖父や祖母のところに遊びにやって来て、家は結構広いので、遊んではまた日曜夜に戻っていく。首都圏の最も人気の行楽スポットとしても知られる立地条件が働いているようだ。

 I君や町内会の人たちは、こんな若い層、特に子供を神社に集める神社の活性化計画を進めていった。


 まず一年は初詣の増加から

 彼らは正月の初もうでと9月の神社の例祭に先ず手をつけた。大晦日の夜から正月三が日は拝殿の扉を開けて、参賀の人に自由に拝殿で参拝をしてもらい、子供たちにはミカンなどをあげる。希望する人には神明宮の神札やお守りなども頒布した。参道の石段の下の広場では三が日、町内会の連中が主役で参賀者に甘酒とお汁粉を無料で参拝者に配るサービスを開始した。「初詣はまず鎮守さま・甘繩神明宮から」とのポスターが氏子内長谷地区の掲示板を飾った。成果は年々目に見えるものとなり、最近の正月は家族連れの参拝が引きも切らず、町内会の用意するお汁粉や甘酒も、前年より多めに用意しているのだが、いつも品切れになる盛況である。

 初詣で神社を身近に感じた人たち、特に子供は、口々にその印象を他の仲間にも報告をする。またおまいりしようと集まってくる。加えて町内会も商店街もこの神社の由緒や存在を様々な機会に人に伝える。氏子の老化が進み、陽の陰り出した神明宮への参拝は、おかげで近年、年々増加が見えてきている。

 それは一つの好循環のきっかけともなった。観光のため、鎌倉を訪れる人の流れも、鎌倉の雰囲気は好きなのだが、いつまでも同じコースでは飽きてしまう。しかしやはり休みになると鎌倉に行きたい。雑誌やテレビもそんな特集を組みだして、人が少しずつ神明宮に向かい始めた。

 「鎌倉で一番古い神社」、「頼朝が鎌倉の伊勢別宮と崇敬していた神社」、「北条時宗が産湯をつかった井戸のある神社」、「八幡太郎義家も崇敬し、吾妻鏡にも出てくる神社」、「境内から海や市街が見渡せる神社」として訪れる人も増えてきている。人々の鎌倉散策のコースもこれに応じて、大仏、長谷観音から、神明宮を経て鎌倉文学館へと歩くコースもにぎわってきて、昔からある長谷大通りの商店街も、こんな人たちを相手に新規開店する店舗で、徐々に伸びつつある現状である。


 祭礼に集まる子供の急増現象

 9月の祭りの急速な活況傾向は初詣を越えている。もちろん、正月の影響もあるだろう。さらに警察が暴力団対策に取り組んで、神社の祭礼に集まる露店の出店までテキヤ対策として規制を要請するような時代となると、それに応じた地域の人々の活動が、大きく注目されるようになってきた。それまでの神明宮の祭礼は、長谷大通りから直進する参道に夜店の屋台が並び、町内氏子たちによって宮神輿、各町内子供会の子供みこしなどが供奉して町内を一巡する恒例の祭典だった。だが、夜店の屋台は消え、高齢化により宮神輿の担ぎ手もいなくなり、子供みこしも担ぎ手がいない。こんな事態にI君たち祭典委員会は当面させられた。

 彼らはまず神輿の担ぎ手から始めた。それまでの長谷の祭りは、色彩としてはおおむね氏子である旧来からの氏子たちだけの手で行われていた。私ら昭和の初めに住みついたものは「新住民」と言われてきた古い体質の鎌倉のことだ。町内会自体にまで戦前からのこんな体質が強く感ぜられた土地のことである。このままでは神社の神輿は動かずに、子供みこしも大人が混ざって担がねばならない時代の到来であった。

 祭典委員や町内会は、まつりを広い層の楽しみに待つ、威勢の良いものにしようと企画を練った。その結果、各町内会や子供会が、新しくこの土地に住みつくようになった子どもたち、おじいちゃんおばあちゃんの家に、まつりを楽しみにやってくる子どもたちに対しても、門戸を開くことに枠を緩めた。宮神輿は、まだ古い神社の神輿は、お囃子に続いてつぎの車に乗せられて粛々と移動するが、そのあとから、町内の氏子衆を中心に周辺の祭り好きの若者男女たちが組織する神輿保存会のメンバーも一緒に担ぐ大神輿が進む計画に変更、警察などとも連絡して、車や人は最も混むが、その大半が観光客で少々の混雑増加は甘んじてくれる土曜日、日曜日に御神幸祭を派手に実施することに決定した。

 ついでにちょっと説明するが、この地元の氏子ばかりではなく、他の氏子区や藤沢などの同行の市も担ぐ大神輿は、神奈川西部の寒川神社などでも担ぐ浜降り祭などでも主役の金具を鳴らして長距離を進む勇壮なもの、進むよりは錬ることに重点を置く江戸のものとは少し違った型のようだ。甚句に合わせて足並みをそろえて踊るように進む独特の風景はいかにも神奈川県湘南地区の祭りであると感じさせる。

 祭典委員たちはこれにあわせて、様々な行事を子供らが中心の日、宵宮、神輿渡御、例祭の数日間に分けて行うことにした。

 夜店や屋台などは土、日ではなく、その前の木・金二日の夕から夜まで実施する。これには長谷の町内会や子供会が自ら主宰役になり、子供会を通して雪洞を募集して参道に並べる、輪投げ、金魚すくい、ヨーヨー釣りなどの縁日の行事、綿あめ、焼き鳥、ビール、ラムネ、おつまみなどの売店、それらもほとんど最低価格(ビール以外は100円)で関係者が自ら実施する。いくつかの出店には出て貰うが、趣旨をよく話して、安価で気持ち良い対応を望む。境内ではご婦人がたのための民謡踊りも実施する。

 こんなふうにして自主的主催に踏み切り、子供会に属するお母さん方や青年部の若者、各町内会の関係者など総出で運営に当たりだした。集まってくる子どもたちには祭典委員会から一人一人にお菓子やジュースなどをプレゼントするが、それには氏子町内会中の条件などは一切付けない。

 このため鎌倉に泊まりに来ている孫たちをはじめ、広く隣接の町内などから誘い合い、続々子供たちが集まって、年々参加者が増えて、いまでは鎌倉で最も混雑するたのしい初秋の年中行事となってきた。町内あげての協力で、みんながしっかり子供たちを見ているので、安全で事故もなく喧嘩も起こらず、子供たちは安心してのびのびと境内を飛び回っている。射幸心をそそって子供が必要以上にお小遣いを使うこともなく、小学生や幼稚園児、それ以下の子供たちにとっての天国だ。マザコン時代を反映してか、子供のおともでたくさんのお母さん方も集まってくるが、雰囲気が危険を全く感じさせないのか、売店でビールやおつまみを買って、あちこちで車座になり、おしゃべりに夢中。子供のことなど忘れたように、中には酔いで出来上がってしまうお母さんまで出てくる始末。今年などは境内は足の踏み場もないほどの大混雑だった。一体、どこからこんなに大勢の子どもたちが目を輝かせて集まってくるのだろう。

 祭典委員の中心であるI君はこんな風景を眺めながら、まつりを興して、それを基礎にして明るい集団ができればいいんだがなどと、激励に訪れた私に語ってくれた。



 {註として最後に}
 翌々日の日曜日、神幸祭も盛大に無事に終了した。大人も子供も、クタクタになるまで祭りを楽しんだ。
なおこの書き込みは横で第三者として眺めていた私の印象記であり、細かいところでは私の憶測違いの部分があるかもしれない。そんな点があればご容赦を。

 なお鎌倉ではこの長谷地区の隣に、またちょっと違った形で活発な活動を続ける御霊神社(権五郎神社、宮司さんも在勤)という古い歴史をもつ神社もある。地元坂の下海岸の漁業信仰者の崇敬が篤く、いまでは周辺の人も協力して、氏子は少ない地域だが、活発な活動が感ぜられる神社だ。やはり神社が中心になり、街がまとまりを強めつつあるように見え、私が毎朝起きるとすぐに、神明様とともにご挨拶に参拝する神社だが、こちらには「孕み人行列」(面掛け行列)という文化財としても興味のある頼朝もびっくりのユーモラスな仮装行事も付随して、我が甘繩神明宮の一週間後(今年は18日)に例祭が行われる。

冷静に興奮しよう

2011年09月11日 11時31分06秒 | 私の「時事評論」

はじめに(前提にある現状)

 腹の立つことばかりが多いこのごろである。

 お昼の定食ではあるまいに・・。一年ごとに、素材は変わらぬ日替わりメニューのようにクルクル代わる日本の首相。
 「今度のお勧めは○○内閣ランチ」、メニュ―は変わるが味(政策)はいずれもまとまりがなく、飽きられて嫌われて、首相や閣僚などのメンバーは、目標が見えずに疲れ果て、再生には滋養の補給を必要とする日本に、何の美味しい味も栄養分ももたらさないで交代する。よくあるでしょう。商店街の一角で、ここに設ける店はなぜか失敗して店をたたむという場所。日本国の政権の座は、いつにかそんなデッドスポットになってしまったようだ。

 大地震が起こり大津波で大きな被害が出た。政府は回復への意欲はあるよとのパフォーマンスは見せても、具体的な積み上げる政策もなく実効はさっぱり上がらない。山の麓でこの山に登るぞと叫んでみたが、登頂のルートも知らず登山技術もなく、ウロウロしているといった格好だ。

 津波のあとの元市街地の復興整備をどうするか、原発事故でまき散らした放射能汚染をどう始末するか、行政の不安が招いた風評被害が起こらぬ基盤はどうすればよいか。政府は、国民に信頼されて、ついていけば安心だとの信用を取り戻すことが第一なのだが、全くそれは感ぜられない現在の政府だ。
 津波の復興計画など、お上が基本を定めるから待てと言い、市民の復興をいつまでたっても許可しない状況だし、原発事故でも肝心の原発の撤去への目途などは全く見えない五里霧中だ。

 それだけではない。景気の行き詰まり、円高、企業の外国への逃亡など、経済対策にも「断固たる決意で」などの言葉は虚しく踊るが、いずれに対しても基本政策がないので何のプラスも期待できない。周辺諸国をはじめ外国との関係にも、国としての基本が示せないので周辺諸国に国境を侵され、外国からは一貫性がないので不信を招く行為が続く。国民に対しての、立派な成人になる為の教育環境だって整備されていないので、苛立つような事件ばかりが起こる。

 だがこれは、日本国の政治という世界、それが商店街のデッドスポットになっているという地理的な条件と見ることはできないだろう。はやらないのには理由がある。だがそれが何かがわからずに、時はいたずらに過ぎていく。
 希望の見えない空気の中で国民意識は停滞するし、社会全体が行き詰まりと将来への不安から暗い空気に浸っている。


 これでは無政府状態以下ではないか

 国民の目から見ると、我が国の政府は、何もしないよりまだ悪く、望ましくない対応ばかりを積み重ねているように不評である。民主党内閣成立のときは、鐘太鼓でチンドン屋みたいにはやし立てたマスコミも、飽きやすいもので、あまり内閣に近寄ろうとはしない。これには当然、政府の側からの反論もあるだろう。だが、そう言われても仕方がないような体の現状が続いている。想定外の現状なのだと。

 想定外。この言葉は、政治や行政の逃げ口上になってしまった。だがもっとよく見ればすぐにわかる。それを生み出しているのは、プロであるべき政治の指導者たちの政治に対する専門的知識の不足だ。政治家は票を集める技術ばかりではなく、政治家になる知識と素養を磨かなければならない。それなのに何だい、思いつきで基地移転などを準備もなく発言し、原発はやめるなどとこれも準備もなく発言して、ただ混乱と不信だけを造成する不用意さ。政治家自身の政治資金名出先など、身辺の未整理と脇の甘さ。要人のほとんどが叩けば埃が出る状況で、これでも独立国の政治を行うプロの資格があるのかと疑われる事態までが加わっている。

 その上に、いまの政権の周辺の人は、ほとんどがおかしな戦後の日本に米国など西欧諸国に日本の強さを骨抜きにしようと強行された「日本弱体化政策」を、これは大変な毒のある虚無思想なのに、毒を薬と見間違えたまま、その毒物の放射能におかされていて、結果的に、前述したようにマイナスばかりを付け加えている。


 こんな不満が蓄積されて

 こんな空気はまだ当分の間続くだろう。日本を覆い尽くした戦後体制の軽薄さと汚染(本当は軽薄なものではなく、日本に戦勝した米国などが、二度と日本を表舞台で活躍させまいと、計画的に行った占領政策の結果なのだが)それは呪いのように我が国に覆いかぶさっている。国民にこんな国ではたまらないと、その不快さが実感され始めたが、気風を一洗するのには時間もかかる。何せ先の大戦で300万人もの日本人が殺されて、その上に押し付けられた体制なのだから。

 そんな日本の歴史であったが、それでも戦後の国土の壊滅的な破壊から、立ち直るまでの一時期は、勤勉を知る戦前からの国民だけはまだ生きていた。彼らに教えられた子供たちもいた。彼らは一致して結束して、目まぐるしい復興を成し遂げ、国民所得は上がり、全国に中流意識があふれ、所得はほぼ均等に国民に行きわたり、国民の大半が中産階級に属して豊かな暮らしだけは回復させた。

 だが最近の日本は社会の世代も交代し、戦後の占領軍の命じた教育環境で育ち、意欲もないし努力も不足する連中ばかりになってきた。自力で先を切り開こうとの進取の気も薄く、組織までがだんだん変って、落ちこぼれて夢のない暮らしをさせられる人々、日本国が教育で目指した通りの新しい国民が急激に増えてきた。

 先日発表されたデータを見ると、年間250万円以下の収入しか稼げず、所得税も払わない層の人が国民の40%を越えている。これでは彼らが結婚して家庭をもつこともまともにはできないのは当然だ。生涯にわたって雇用が比較的安定していた我が国でも、自由化、効率経営、終身雇用や年功序列の廃止という空気の中で、安心して生涯をはたいて暮らせることのできない人も半数に達した。人口は高齢化し、年金生活者は激増したが、かつては日本の復興に寝食を忘れて働いてきた人々も高齢化して、寿命は延びたが年金も福祉も、それを受けたい者ばかりの世の中になって、逆に働く健全な階層が減り、しかも補給する国家や企業の財政は火の車だ。国の赤字は国民一人当たり1000万円に近くなり、鐘がないので身動きできない。増税して赤字を埋めたくても、それを払うことのできる余裕がいまの国にも国民にもない。


 だがこれは戦後の教育の目指したものだったのだ

 これでは国民意識が暗くなるのは当然である。65年前、日本国の「弱体化」の目的で進められた教育の成果が効いてきた。苦しい中でも日々修練し努力を重ね、明日のために努力するなどは意味のないものだとの教育が徹底し、いまの国民は子供の時代から、基礎からの勉強もせず、何も知らないうちから自主的との名のもとで我儘が放任され、集団より個人を大切にせよ、結束するより個人で好きに生きろ、日本の歴史など封建的なものだったと教えられ、耐えること、努力をすること、協力することを知らない者ばかりになってしまっている。

 何も知らない幼児期に、自主的なんて教えるから野獣になるほかないだろう。努力することなどそこからは出てこない。教育ママなどが出てきても、その目標はエゴから出た社会を出し抜くことが目標だ。国際比較などを見ても、往年は世界で有数な知識水準をもち、世界に注目された勤勉な日本人のレベルがすっかり低下して、その評価は年々低下してとどまるところを知らない。人間的なレベルが低く、国に対する愛情もなく、社会に生きていく常識も知らない無教養な集団だと、世界での見直しの風潮の中にある。


 不満の声だけは湧き上がる空気に

 「末は博士か大臣か」。共同社会の中で、衆目の認めて、尊敬される人になろうと皆が勤勉さを競い合って立身出世を夢見ていた明治以降の日本で、努力すればだれでもなれる立身出世の目標とされ、それだけ社会の尊敬を集め、威厳を集めてきた首相や閣僚、国会議員、それに国のために働いていると胸を張っていた役人たちも、時代の変化とともに認識され方が代わってきた。政治家になるのだって役人になるのだって、国民のためというよりいまでは自分のためだ。

 いまの首相や政府、国会議員に対する悪評はそれこそ巷にあふれているが、彼らを選びだしたのは国民の選挙への投票であった。政治家や役人は公僕だ。国民のために奉仕するのが役割なのだ。そう教えられてきた教育にも影響されたか、最近のインターネットのブログなどを見ると、現在の政治への批判を書き込んだブログがきわめて多い。

 誰もいまの政治が国民のために配慮されたものとは受け取らない状況だ。中には同じような不満をもつものが集まって、その不満を競って書き込むことで一般の方が注目してそれを読み、なるほどと思うようなものもはやっているようだ。

 ツウィッターやフェースブックなどという世界の人が自由に書き込むメディアが、チュニジアやエジプト、そしてリビアなどの独裁政権転覆のきっかけになったりする最近の風潮の中、大いにそこに期待をかけているのだろう。日本も国民の声によって、気に入らない政府など、追い払ってしまえとの勢いが強くなってきたのだと見ることもできよう。そのために情報をお互いに交換して補い合い、また仲間を得て元気づけあっているのだろうが、第三者で、これに目を通す人も多いようだ。


 目立つ極端な悪口雑言

 だが、そんな書き込みを見て思うことがある。一連の同じような連中ばかりが集まる中にいて、愚痴を競い合うような環境の中にいると、ただ罵詈雑言の威勢のよさばかりを競い合い、気をつけなければ論そのものは軽くなる。また、当初は現状への不満を強く訴えて、まともな道へ、国を社会を正していこうとの狙いをもった書き込みだったのであろうが、政治を担当する相手をけなし、さらには見下す快感からか、だんだん当初の目的が見えなくなっていく。

 逆に現在の政治家をけなす言葉の根拠になる論の甘さから、けなしている本人の素養のなさばかりが表に出てきて、効果としては逆効果になっているものも多くなってきた。

 いまの政治に腹が立ち、一日も早く祖国・国民を大切にし、皆で協力し合って日本の国を育てていきたいという気持ちはわかる。だがそれならば、読む人には同意され、ともに動こうと決意させる書き方を考えて書いてもらいたいものだ。書き込まれた文章に反感をもち、「こんな下品な連中と一緒に動くよりは、現状で行くのも仕方がないではないか」と思われるようになったなら、何をしているのか分からなくなる。政治家に対しての批判は、一般の人にあててのものよりも、公人であるためにプライバシーその他での規制は低い。だが最近、そんなことを加味しても、「これでは個人中傷だけではないか」と思うものや、調子に乗って彼らに接近し、日本の政治を動かそうとする第三国の陰謀を嫌うあまり、その国自体に対する礼儀を失ったとしか見られぬ書き込みも目につくことが多くなった。エロ・グロなど、個人の尊厳を傷つける根拠の薄い書き込みも、読んで気持ちの良いものではない。

 そんな思いがしてならないので、皆に自重を求める書き込みを、聞き苦しいと思われるかもしれないが、一筆させてもらうことにした。

きれいでない顔

2011年09月06日 15時40分20秒 | 私の「時事評論」


 毎朝、5時ころには起き出す。早朝の神社参拝を日課にしているからだ。

 すぐ近くに長谷地区の鎮守である甘繩神明神社と、我が家からは神明神社とほぼ等距離、甘繩さんが東側に鎮座するのに対して、逆に西方4~500メートルに御霊神社が鎮座している。三月前、この二社に入院中の孫息子の無事平癒を祈念していらい、巡拝することを日課にしている。甘繩さんが山の中腹、麓から石段を六十段ほど上がったところに鎮座し、拝殿の前からは広い相模湾から伊豆半島や大島が見渡せるのに対し、御霊神社は海近く、漁業関係者などの信仰も篤い神社だが、山を背にした平地にある。

 けさ、起きぬけに洗面所の鏡に映し出された自分の顔を見て、澄んだ顔でないのが気になった。もう七十代の顔であるしいつも何もしていないから、若々しい表情でないのは分かっている。皺や染みの多いのも当然のことだ。そんなことは一向に気にしないが、眼の色が、いつの間にか、輝きを失ってしまっている。さわやかな眼の色が無くなってしまっている。
 「どうしたことか」
気にはなったが、いつものように、明けたばかりの朝の街並みにステッキ片手に参拝と散歩に出かけた。


 穢れが顔の表情に出たのか

 カタツムリが這うように進行速度が遅く、進路にあたる列島上に居座る夏の高気圧に阻まれて、どこに行くのか予報のたびに西へと進路が変わる台風が、当初予定されていた首都圏襲撃からどんどん西にずれ、そのためらう間も進行中も、紀伊半島や四国・山陽・山陰などにまた想定外、年間降雨量に匹敵する大雨を数日にわたって降らせて、大変な被害を生み出した後に、結局四国から鳥取と北上し、日本海に出てやや方向を変えて北海道に至ったのは昨日のこと。

 そんなことで今朝は台風一過というわけにはいかないが、天気は数日ぶりに晴れ。だがどこか私の心の中は曇り空。一体どうしたのだろう俺の顔は・・。そのうちひょっと気がついた。

 「そうだ、私の書いている時評のせいだ」。

 私は神社界の週刊新聞に時評を毎回書いてきた。それは退職してから、もう八年前までになるのだが、その後はネットやいくつかの神社の社報で、似たような文を書き続けてきた。だが御承知のように昨今は乱れた社会の状況である。日本人の心情に長く息づいている心情などは無視して、暴走を続ける世相で世の中は日に日におかしくなる。勢い批判の文章が多くなる。

 社会はかくあるべしと思う自分の素直な思いから書く文であるのは間違いない。いまの社会の混乱は、大半は日本人が育ててきた日本の文化というものの情緒豊かな本質を忘れ、暴走を始めたことに起因すると私は確信している。だがその批判を書いていると、年齢が重なり、自分の先が長くないと思う故か、冷静であるべき評論が感情的なものになり腹が立ってくる。あまりに調子が外れた行政を見て、これは日本などで取るべき方針ではないと腹を立て、それをぶつけた文を書くことも多い。そんな中に、私の心のゆがみがいつしか生じ、私の心の穢れになり、それが私の表情に出ているのではないだろうか。あの時の鳩山さんや菅さんのような、虚ろで神経だけがピリピリしているような顔が鏡の中にいる。

 神道人として、気恥ずかしい思いがした。

 日本には日本独自の信仰である神道がある。穏やかな環境の中、先祖たちがこの土地の風土に合い、もっとも豊かな収穫が得られ、多くの人がそれで暮らせる稲作文明をとりいれたのは数千年前からであろう。いらい集団での集約型の共同作業を積み重ね、自然をつかさどる神々に豊作の祈りをささげ、祭りをしながら改良に改良を重ねてきた信仰である。この日本型の稲作共同体は、精神的統一の柱として祭祀王としての天皇を生み出し、信仰を「赤(明)き浄(清)き」心でまつりをすることを柱に成立、発展してきた。

 天皇は日本の国民一人一人を大御宝(おおみたから=最も大切な宝物もの)と常に思われ、その末端の末端までの人々の心を知り、苦しみを共有することに心がけられ(しろしめすという意味)、その民のために、おのれの私心を捨てて神々に対する祭りをされてきた。それが日本文化の柱であるし、そのお心は歴代、変わることなくいまも引き継がれている。

 民はみな、全国民がはらから(同じような仲間たち=同じ母から生まれたような仲間たちの意)と意識して、相携えて睦みあい生きることを道として生活してきた。こんな君民融合の形が我が国では理想とされ、それをひたすら追求してきたのが日本の歴史を貫く柱だった。

 ところが私は、そんな社会の中に生きていて、しかもその大切な民族の心・神道のごく近いところで生活を重ねさせていただいて、いくら方針が違うからと言っても、首相なり指導者なり、ある対象の行う政治などの進め方に反対するだけでなく、そんな個人に対してまで露骨な反感をもってしまったのではなかろうか。彼らとて、同じはらからであるという睦みあう意識から脱線したのではあるまいか。

 それが私の顔を歪めたもとではあるまいか。あかき清き心であるべき私の心が、いつしか罪穢れに汚染している。
 

 「穢れ」は祓い去るべきもの

 ショックであった。神道は性善説に立っている。本来はだれだってみな善人なのだ。だが、そんな無垢な身体にもいつしか穢れがまといつく。そのためいつも清浄を求める心を失わず、祓いを常に忘れてはならない。

 「憎し」と思う心を抱くことは穢れである。「その偏狭な自分の気持ちがすでに相手の本性と相手についた穢れとの峻別もできなくなっているのではないだろうか」。己の心の穢れを痛感させられた出来事であった。

 早起きは、自分の心を朝日に照らし、鏡に映して眺め直す機会にもなるようである。

論を整理して新しい時代に備えようー終

2011年09月01日 04時40分05秒 | 私の「時事評論」
洪水のあとの川の流れは


 日本列島は山から海まで距離はそんなに長くないがたくさんの川が流れている。距離は短いが流れはきつい暴れ川が多く、放置すると大雨の時に、流域に大きな反乱の被害を巻き起こすことも度々ある。
 また雨の日が少ないと流域の田畑が、干ばつのために干上がってしまう。そのため、保水量を蓄積調整する山の植林から流域の田畑への灌漑の工事、堤防の増強など、治山治水の工事は、わが国の昔から集団でおこなう最も大切な行事の一つとされ、農業国日本に集団での共同作業が根付いた基であったなどとの説までがある。

 ところでこんな我が国で、雨のため、河川が氾濫したあとを見に行くと、洪水のあと、川の流れはいままでとは違ったコースをたどって流れていることに気づく例が多い。
 水の流れの流体力学やその他の科学も進んだ現在、川の流れる場所は水害も起こらぬよう、最も合理的に計算して定められているはずなのだが、いったん水害を経験すると、そのたびにそのコースは、予定された水路から外れてしまう。

 しかも聞いてみると、その移動した流れの場所は、現代の科学で計算して定められたコースを外れて、昔の川の流れに戻る例が大半なのだという。

 筑後川の流れる熊本県を訪れた時、加藤清正の治水の話を聞いた。
清正は治水計画の名人で、熊本の治水工事を行うときに、水の流れを充分に知ってそのコースを設定し、堤防を設けて管理した。
 それは曲がりくねったものであり、現代になってこのコースを、物理の計算に合わないと直線的に変更すると、洪水のたびにその変更箇所から氾濫がおこり、大きな被害が出るという。そして川は清正の設計した位置に戻ろうとするのだそうだ。

 我々の近代科学では読み取れない条件がまだたくさん残っているようだ。   


無理な流れの変更は元に戻る

 何でこんな政治とはあまり関係なさそうに見えることを冒頭に書いたのか。それが政治のコースとよく似ていると思うからである。

 政治のたどるコースは、その民族が過ごしてきた歴史的気風によって、この川の流れがもとに戻るように、その国特有の形に戻ろうとする傾向がある。
 日本の歴史にも、この川の流れのように、独自のコース、進めば円滑に流れる道があるように私には思えるからである。

 いまはもう、その仕事を人に譲ったが、私はかつて週刊新聞で時評のコラムを担当していた。それで様々な国のこれからを論ずる機会があったのだが、それを見るのには、現状だけを見るのではなく、その国のたどってきた歴史を見て、その固有の特徴によって、独特の動きをすることを考えながら判断するのが常だった。
これはよく、政治学では言われることだが、政治の目的はその国、その民族集団にある国家意思=国民意思=一般意思ともいうが、その国にとって最も理想的な政治方式を求めるところにあるという。
そう漠然と言葉でいうのは簡単だが、それをどうやって求めていくのかは難しい。

 日本では理想の制度であるようにいう民主主義自体が、西欧で、一般意思をどうして突き止めるかに苦労したが難しく、どこに求め方があるのかがわからないので、妥協の政治的選択として「少なくとも国民の多数が求めているものは、少数が求めているものよりも幣害が少なく、一般意思に近いものではないかと」いう政治的な結論の結果であるとされている。

 日本は古代より天皇制度を基本に様々な状況を乗り越えてきた歴史があり、日本の地理的な条件、たどった歴史などにより、独特のコース、川の流れに例えるならば、伝統的な固有のコースをたどって歴史を刻んでおり、これからも、同じコースをたどる可能性が高いと思う。私はそれが、日本という国の、固有の一般意思だと思っている。


日本での一般意思は天皇のもとの政治

 日本は、いまから3万年とか4万年とか前の時代に、日本民族の先祖たちが定住して、日本らしい自然風土の環境下に文明を築き始めたと考古学者は推察している。そうしてこの地に住みついた日本民族は、やがてこの国土に最も合った収穫量の高い稲作農業を開始して、それに集落挙げての共同作業で営みながら、自然を畏怖して大切にする神道という独自の信仰を作り出し、その神道を中心にした生活とまつりの集団をまとめた天皇が生まれて即位した。

 人々は天皇を祀り主として神々に敬虔な祈りをささげ、共同で髪を招いて祭りを行い、祖先たちを大切にし、彼ら祖先が努力と経験の中から新技術を生み出した果実を積み重ね、また異文化の技術をも摂取して、日本らしい社会基準を作って発展してきた。
 そんな天皇が、祭祀王として祭り主をつとめる日本の文化は、やがて天皇が、ある時期にはその内部から現れた力あるものに、実務の行政の部分を代将軍としておまかせになられたり、任せた政治が日本という国の流れからはずれれば、再び天皇のもとに大権を返上させたりしながら、従来からの一貫した軌道を維持して現在まで歴史を重ねてきた。

 いまはそんな流れの中で昭和20年、日本が戦争に負け、占領してきた米軍の力で国の基本を定めた憲法までが変更されて、試行錯誤の体験譲渡中の時期に当たるというべきだろう。
 だが、そんな日本ではあるが、よりはるかに民族に精神的な潜在力をもち、日本人の生活の歴史に重みをもっているのは、やはり日本の歩んできた歴史の流れの産物であろう。
 近年、戦後の体制では日本国の進むべき進路も見えず、為政者の無責任さに混迷を極めるようになってくるのに応じて、国民の中にいまの体制への大きな不満が高まり、私は源流復帰のコースが求められ始めたのだと感じている。


日本における政治、二つの捉え方

 いまの社会の状況を見ると、日本には二つの政治の中心があるような印象を受ける。
その一つはもちろん日本政府の刻んでいる憲法に基づく政治である。憲法はじめその他の法によって日本列島を代表する国の行政機関と定められていて、国民や企業から税金をとり、それを基にして国民の生命財産を守り、生活する社会の規律を維持し、国の経済活動を支援し、経済政策や国際通貨の安定などの仕事を行っている。

 だがその背後に、日本人の一般意思(不変の道)が理想の政治を求める動きも常に働いている。強まったり弱まったり、表面だけを見ると不安定だが、これは消えることのない日本の、民族の作り上げた一般意思、ルソーの掲げたボロンテ・ゼネラールである。

 日本に二つの政治があるように見える現在の政局、それはいまの政治が、日本民族の常に求めてきた居心地の良い政治と現在の政治が食い違い、国民の不満が無意識のうちに高まっていること、新憲法下の体制に天皇がお任せになった政治の行使が、決して国民のため、国のためになっていないことを示している。

 繰り返すようだが、日本の歴史を見ると、日本の既成の秩序が乱れ、社会が混乱し、国民が不安と絶望の中に毎日を過ごすようになると、国民の中に、政権を再び、天照皇大神から委託された天孫の継承者である天皇にお返しすべきだとの力が高まってくる。それは日本の天皇が強い力をお持ちの独裁者で、潜在した力を自ら出されて動かれるという形ではなく、天皇が古代から現代まで、一貫して全国民のためを思って己を捨てて神々に祈り続ける祭祀王であり、いつも民の守護者であると国民が信じているから出てくる自然の動きであると考える。

 日本は戦後、よき社会、住みやすい国づくり、己を抑えてもお互いに協力する社会、一致して国の発展に努力する国柄、先祖や先輩を大切にして生きることを忘れて、親も子もないみんなが個人、己の欲望を満たすことが何より大切との我儘に行動することこそが一番というような暮らしを求めて突っ走ってきた。
 その結果、社会道徳は年々崩れて、いままでは、住民はみな善良な人ばかりであるから、窓を開け放って寝ていても安全であるなどと言われた国だったのに、寝るどころではない、いつどこで襲われるかさえ分からない不安の満ちた国になり、親殺し子殺しはじめ殺人や犯罪、弱い者いじめや社会的弱者の無視などはどんどん増えて、シルバーシートには若者が寝そべって携帯電話に没頭し、高齢者や病人は注意すると暴れて危険だからと、それを眺めて目を合わせないようにする、子供は周囲の人に誘拐されないように、口を利かずに逃げて帰るのが当たり前の社会になってしまった。先の地震の際の行動は、それでもまだ、社会秩序がしっかりしていると外国プレスなどに報道されたが、それは古い時代の名残がまだ、庶民の間に何年弱まりながら残っているだけで、これからどう進みかは明らかだ。

 政治の状況は書いてきた通り、国民の安心確保などはそっちのけで、あからさまな利権争いと、国民生活に対しての思いやり不足のみが目に付く始末だ。
 そんな不満が大きく育つようになっている。


私の願っていること

 私は先にもあげたように伝統尊重の保守主義の男、日本がもう一度、穏やかな相互のいたわりや礼儀に満ちた「天下太平、万民和楽」を理想とする社会に戻ってほしい。
 そのためには大御心をもっと生かすべしと願っている一人である。国民の声を反映する選挙制度は生かしながらも、国は秩序と礼儀、神聖なものへの敬意を尊重する姿勢を率先垂範しなければウソだ。
日本の環境を変えなければならない。徐々に、和やかに睦みあいながら生きていく気風を強めなければいけないと思っている。

 昔に戻りたいといったからとて、もちろん窮屈すぎる生活を我々に強要する反動社会を望んでいるのではない。いたずらに国民の自由を圧殺する戦時中のような日本に戻って、自縄自縛のような国を作るのは反対だ。

 精神的にも肉体的にも、のびのびと国民が毎日を暮らせる社会、礼儀と思いやりが満ちていて、天皇陛下のお人柄のように、お互いが相手を大切に自由を認め合い、神々に対しても恥じない暮らしができる社会にしたい。

 そんな社会を理想に進むためには、私は神道という伝統の社会信仰ともいうべき道を、もっと社会が活用するようになることを望んでいる。神道は天皇陛下の信仰に通ずる共同体の信仰だ。日本人が先祖の時代から、工夫を重ねて作り上げてきた共同社会を営む上の、日本人が礼儀正しく睦まじく生きていくための常識である。個人救済を求める個人個人の信仰を大切にしながら皆で求めていくべき日本意識の原点である。
 御存じのように日本の神道の象徴的な精神的な拠点は、全国に10万社と言われる神社である。神社は日本だけにあって世界にはない不思議な純国産の信仰施設である。
 神道の信仰的柱は何であるか、神道にも難しくその信仰を説く人もあり、何やら一般の人に理解できない解釈を試みる人もいる。だが、そんな理論は専門家にひとまず任せて、神道のもつ基本的な考え方、価値観などを皆に分かってもらいたいと思う。

 神道の信仰はこの世の中にあるすべてのものは、それぞれに存在する価値があり、それらにはそれぞれ霊力があり、大切にしなければならないという信仰がある。海も山も水も空も星も生き物たちも人間も、みな神さまに見守られて存在する。それらに感謝し、人間もその一部だということを理解して、人間である我々も、その調和を大切にしながら生きることがまず基礎にある。これは近代化された現代社会が、原子力や新技術などをどう活用するか検討し、自然を生かしながら発展するためのモラルでもある。

 神道に関しては説明が足りない。こんな書き込みを見るだけで天皇や神道に関して尊崇の念をもつ人はいないだろう。これらの説明には最低でも、この数倍の説明を必要とするが、それはまた、次の機会に譲るし、全国の神社をお守りしている神主さんに、分かりやすく説明してくれるように求めてもよい。それを一般の人に伝えるのが、お宮に奉仕する神主さんのお務めだから。

 この文で私は、日本という国には、おのずから定まった法則があり、我々国民が大切にこの国のことを思って暮らしていれば、世の中の進むべき道は定まっている。これから日本は、混迷の中から、あるべき国の姿へと戻っていくときなのだと説明をした。
 年齢も過ぎてきた私にとって、あまり長い文章を書くのは骨が折れる。今回はこの辺までにして、足りないところは次の機会に譲りたい。

追記

 国民が日本に古代から連綿と流れている日本固有の神道の何たるかを理解し、そろって日本の神を大事にし、皆で祭りを盛んにし、それに参加することを楽しみながら日本人であることの意味を理解していく。
 そのためには全国にある神社が門戸を広く広げて全国民の集まり、参拝し、心を休めることによってその空気になじみ、違和感なくなじめるところ、数千年の日本人の伝統を、ただそこに行くことだけででもしのべるところにしておかねばならない。
 そう考えると全国の神社は、個々の選択の余地ある甲論乙駁の政治の末梢には、日本の根本姿勢の維持に関係ある皇室や国の基本の本質的な問題をのぞいて遠慮して、誰もが公議公論を遠慮なしにする余裕を残した場にしておく必要があると思う。神社の中にセクトに属する政治主張をことさら持ち込む過激な主張を掲げたり、ある特定の宗教団体のみを支持する場所にして、一般常識をもつ人がよけて参拝を遠慮する主張を並べたりするのは、あまり望ましくないと愚考する。
 神社の関係者とて個人的に主張をし、活動することは自由だし、私はそれを止めようとは思わない。それは神道に反しない限り、自由に行ってよいものだ。だが、神社は私が述べたような天皇さまが行う公の祭りと「祈り」を共有する厳粛な場所である。そのことだけは忘れずに、広い窓口をもち、誰もが参拝して良い気持ちになれるところにしておいてほしい。