毎日毎日、もうこれでもかという政治家の失言問題に振り回されている現在の日本の現状、何とかならないものなのだろうか。
鳩山前首相、
将来に自分の発言がどんな結果をもたらすかの配慮がなくて、軽率な発言で大混乱を招いた揚句自縄自縛、首相の座まで維持できなくなった口害首相。
言わずと知れた基地移転問題や、公共事業の削減、公共支出の削減、高速道路無料化、地方自治体の強化、全てが並んで討ち死に状態。しかも自分に政治資金法の疑惑がかかるや、自分が野党時代に相手を責めた、同じ言葉を浴びせられても強引に無視、そして人気が急降下し、政治が行き詰ってついに退任。
一時はよほど懲りたのだろう。一度首相までやったものは、次の選挙には立候補すべきではないと宣言してもう立候補をしないと決心して地元に戻り、今度はみんなに責められて
「引退宣言が軽率だった。もう一度皆と話し合い、よく考えた結果決断したい」とこれを撤回、東京に戻り、今度は菅首相と、彼に拒否されたと会おうとしない(鳩山氏が自ら引導を渡した)小沢前幹事長の間に立って、再び政治工作の話し合いする機会を作ろうとする(これも明らかな鳩山氏の前言撤回だ)などと、妙なところで積極的。クルリくるりとバレリーナのように発言は踊って、政治に影響力を残そうとの活動開始。
育ちの良い軽率なお坊ちゃんだから仕方がないと評価する声もあるが、おもちゃにされているのは、国民の命がかかった生活だからたまらない。
小沢前幹事長・党代表
この人は方針転換の常習犯。法律に触れなければ何をやってもよいと、法のほかに道徳があることを認めない確信犯。
しかしその割り切りを基に、強引に進める実行力は群れを抜いている。さすが田中学校の優等生。いつもその時局に応じ、自分の立場や権力を有利にする発言をするが、運が悪いのか好かれないのか、度々もう表舞台に出るなと引導を渡されて、それが重なりすぎたのか、引導というものの重みさえ分からない(そうだよな、引導渡されたのは裁判所の有罪判決ではないからね)。またぞろ民主党内の環境が変わってきたので、あわよくば自らの息のかかった体制作りにと動き出す。
天皇を内閣の意思のままに動くロボットみたいに解釈して国民に嫌われて、平然としているところは彼の面目や駆除といったところ。余計なことだが法よりも国民道徳のほうが大切だと思う私は困った現象だと思っているが。
菅首相
自民党の谷垣総裁が国会で、消費税率アップやむなしと言い出したので、これがチャンスに嫌われ役を彼に押し付けようと消費税値上げを連呼して、さらに脱小沢権力政治を切り札にして参議院選挙に臨む。それまで鳩山政権の主要閣僚だったのに、彼の失政責任は当然自分にもあるのに全く「俺は関係ないよ」との姿勢に終始。不人気な「小沢さんは休んでいたらよい」など、全く責任は、新しく組閣した俺には無いとの姿勢で、ただ鳩山や小沢が辞めたというほっとした空気だけを頼りにして選挙。だが国民にそのやり方が無責任だと惨敗すると、消費税の増税はすぐやろうとしたのではないとズルズル撤回し、今度は批判した小沢とも話し合おうと動きだす。それになんと鳩山さんが仲介に出て。
これって一体どう読んだらよいのだろう。
難しいこと言っているんではない。理屈を述べているわけでもない。ただ何なんだよ、このめちゃくちゃぶり。
輿石参院会長しかり、発言はどれを本当というのだろうか。他の閣僚もしかりだ。民主党は分からない。皆が指摘するように、中身は何もなく、ただ政権だけがほしいのだろうか。
だが政治の混迷はそれどころではない。野党の議員さんもまたしかり。何が政策なのか分からないのだ。
政治ニュースを新聞テレビの報道で見ても、これでは国民も、はたして政府はどこへ行こうとしているのか、野党はどうしようとしているのかさっぱり見当もつかないだろう。とうとう日本の政治からは、政治方針やビジョンまでが消えてしまった。
政治家の発言
政治家には、政治家としての発言の仕方があるのではないか。彼らが扱っている日本の政治は、彼らだけではない、一億以上の国民の生活に密接なかかわりを持っている公的なものである。扱い方によっては一億国民はいつでも国を喪い路頭に迷うことになる。それを扱うものは、公人である自覚がなければならないのは当然だ。
彼ら政治家の発言は日本の政治に直接大きな影響を及ぼす。取り消しなどをしてはならない。いつも慎重に発言はしなければならない。一般の人が、ちょっと庭の模様替えをしてみようか、などと軽い気持ちで庭いじりをするように思いつくは許されないのだ。公人として充分に将来を考えて、一度発言したら断固実行するだけの責任が発言には無くてはならない。この大原則を貫いてほしい。
ついでにマスコミへの注文も
今までの政治家とマスコミとの間には暗黙のルールがあった。
報道機関は国民にニュースを伝えるにあたって、誤った観測や予想で国民生活に混乱を招くことがないように政治家や担当者と深く接触する必要があった。そこで「報道しないニュース」として彼らが何をどう考えているのかという本音に関しての取材も大事だとして先輩の記者たちは懸命にそれをやった。本当に信頼してくれた政治家は、表に出す言葉ばかりではなく、オフザレコードで、表にできないことも語ってくれた。それを踏まえて記者なりに勉強をして記事を書く。それがベテランの記事であり、それが国民が先を見通す資料になった。
それを聞き出し、今政治家はこのようなことを言っているが、意図するところはどこにあるのか、それを知った上で発言を報道する。そんな記事を書くことが記者の目標であり、それが報道する側の大切な見識であった。
政治家だって人間だ。ときには個人としての愚痴を言ったりぼやきも言う。その中にはその政治家と、これからの政治を見る上での大きなカギになるものもあるだろう。政治家から、そんな愚痴が聞けるように信頼されるのは大切なことだ。だが、それを率直に取材するのは容易なことでなかった。
そんな記者は、おかしな発言に接すると、それを単なる特ダネとせず、おかしなときは堂々と「報道するけど本当にやる気があるのか」と、確かめるぐらいの取材はしたものだ。その政治家と記者の緊張感も政治には大切な要素であった。
今の記者たちの質問や報道姿勢などを見ていると、ただただ記者クラブに属していて、みんな並んでメッセージをコピーしているだけで、取材の見識などはどこにも感ぜられない。ぞろぞろ群がって取り囲んで、素人のような発言、事前知識もない質問ばかりを浴びせかけている。
政治の取材は芸能人のゴシップ取材とは違うのだ。自分の取材が明日の日本を考える国民の糧になる。さらに、報道の姿勢がまともな政治家を育てる側面もあるのだということを、もっと認識して勉強をしてもらいたいものだ。