葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

[閑話休題」もうちょっと発言に注意したら

2010年07月23日 21時47分43秒 | 私の「時事評論」




 毎日毎日、もうこれでもかという政治家の失言問題に振り回されている現在の日本の現状、何とかならないものなのだろうか。



 鳩山前首相、

 将来に自分の発言がどんな結果をもたらすかの配慮がなくて、軽率な発言で大混乱を招いた揚句自縄自縛、首相の座まで維持できなくなった口害首相。

 言わずと知れた基地移転問題や、公共事業の削減、公共支出の削減、高速道路無料化、地方自治体の強化、全てが並んで討ち死に状態。しかも自分に政治資金法の疑惑がかかるや、自分が野党時代に相手を責めた、同じ言葉を浴びせられても強引に無視、そして人気が急降下し、政治が行き詰ってついに退任。

 一時はよほど懲りたのだろう。一度首相までやったものは、次の選挙には立候補すべきではないと宣言してもう立候補をしないと決心して地元に戻り、今度はみんなに責められて
「引退宣言が軽率だった。もう一度皆と話し合い、よく考えた結果決断したい」とこれを撤回、東京に戻り、今度は菅首相と、彼に拒否されたと会おうとしない(鳩山氏が自ら引導を渡した)小沢前幹事長の間に立って、再び政治工作の話し合いする機会を作ろうとする(これも明らかな鳩山氏の前言撤回だ)などと、妙なところで積極的。クルリくるりとバレリーナのように発言は踊って、政治に影響力を残そうとの活動開始。
 育ちの良い軽率なお坊ちゃんだから仕方がないと評価する声もあるが、おもちゃにされているのは、国民の命がかかった生活だからたまらない。

 小沢前幹事長・党代表

 この人は方針転換の常習犯。法律に触れなければ何をやってもよいと、法のほかに道徳があることを認めない確信犯。
 しかしその割り切りを基に、強引に進める実行力は群れを抜いている。さすが田中学校の優等生。いつもその時局に応じ、自分の立場や権力を有利にする発言をするが、運が悪いのか好かれないのか、度々もう表舞台に出るなと引導を渡されて、それが重なりすぎたのか、引導というものの重みさえ分からない(そうだよな、引導渡されたのは裁判所の有罪判決ではないからね)。またぞろ民主党内の環境が変わってきたので、あわよくば自らの息のかかった体制作りにと動き出す。
 天皇を内閣の意思のままに動くロボットみたいに解釈して国民に嫌われて、平然としているところは彼の面目や駆除といったところ。余計なことだが法よりも国民道徳のほうが大切だと思う私は困った現象だと思っているが。

 菅首相

 自民党の谷垣総裁が国会で、消費税率アップやむなしと言い出したので、これがチャンスに嫌われ役を彼に押し付けようと消費税値上げを連呼して、さらに脱小沢権力政治を切り札にして参議院選挙に臨む。それまで鳩山政権の主要閣僚だったのに、彼の失政責任は当然自分にもあるのに全く「俺は関係ないよ」との姿勢に終始。不人気な「小沢さんは休んでいたらよい」など、全く責任は、新しく組閣した俺には無いとの姿勢で、ただ鳩山や小沢が辞めたというほっとした空気だけを頼りにして選挙。だが国民にそのやり方が無責任だと惨敗すると、消費税の増税はすぐやろうとしたのではないとズルズル撤回し、今度は批判した小沢とも話し合おうと動きだす。それになんと鳩山さんが仲介に出て。
 これって一体どう読んだらよいのだろう。

 難しいこと言っているんではない。理屈を述べているわけでもない。ただ何なんだよ、このめちゃくちゃぶり。

 輿石参院会長しかり、発言はどれを本当というのだろうか。他の閣僚もしかりだ。民主党は分からない。皆が指摘するように、中身は何もなく、ただ政権だけがほしいのだろうか。
 だが政治の混迷はそれどころではない。野党の議員さんもまたしかり。何が政策なのか分からないのだ。



 政治ニュースを新聞テレビの報道で見ても、これでは国民も、はたして政府はどこへ行こうとしているのか、野党はどうしようとしているのかさっぱり見当もつかないだろう。とうとう日本の政治からは、政治方針やビジョンまでが消えてしまった。



 政治家の発言

 政治家には、政治家としての発言の仕方があるのではないか。彼らが扱っている日本の政治は、彼らだけではない、一億以上の国民の生活に密接なかかわりを持っている公的なものである。扱い方によっては一億国民はいつでも国を喪い路頭に迷うことになる。それを扱うものは、公人である自覚がなければならないのは当然だ。

 彼ら政治家の発言は日本の政治に直接大きな影響を及ぼす。取り消しなどをしてはならない。いつも慎重に発言はしなければならない。一般の人が、ちょっと庭の模様替えをしてみようか、などと軽い気持ちで庭いじりをするように思いつくは許されないのだ。公人として充分に将来を考えて、一度発言したら断固実行するだけの責任が発言には無くてはならない。この大原則を貫いてほしい。

 ついでにマスコミへの注文も

 今までの政治家とマスコミとの間には暗黙のルールがあった。

 報道機関は国民にニュースを伝えるにあたって、誤った観測や予想で国民生活に混乱を招くことがないように政治家や担当者と深く接触する必要があった。そこで「報道しないニュース」として彼らが何をどう考えているのかという本音に関しての取材も大事だとして先輩の記者たちは懸命にそれをやった。本当に信頼してくれた政治家は、表に出す言葉ばかりではなく、オフザレコードで、表にできないことも語ってくれた。それを踏まえて記者なりに勉強をして記事を書く。それがベテランの記事であり、それが国民が先を見通す資料になった。

 それを聞き出し、今政治家はこのようなことを言っているが、意図するところはどこにあるのか、それを知った上で発言を報道する。そんな記事を書くことが記者の目標であり、それが報道する側の大切な見識であった。
 政治家だって人間だ。ときには個人としての愚痴を言ったりぼやきも言う。その中にはその政治家と、これからの政治を見る上での大きなカギになるものもあるだろう。政治家から、そんな愚痴が聞けるように信頼されるのは大切なことだ。だが、それを率直に取材するのは容易なことでなかった。
 そんな記者は、おかしな発言に接すると、それを単なる特ダネとせず、おかしなときは堂々と「報道するけど本当にやる気があるのか」と、確かめるぐらいの取材はしたものだ。その政治家と記者の緊張感も政治には大切な要素であった。

 今の記者たちの質問や報道姿勢などを見ていると、ただただ記者クラブに属していて、みんな並んでメッセージをコピーしているだけで、取材の見識などはどこにも感ぜられない。ぞろぞろ群がって取り囲んで、素人のような発言、事前知識もない質問ばかりを浴びせかけている。

 政治の取材は芸能人のゴシップ取材とは違うのだ。自分の取材が明日の日本を考える国民の糧になる。さらに、報道の姿勢がまともな政治家を育てる側面もあるのだということを、もっと認識して勉強をしてもらいたいものだ。

 

天衣無縫 -私の祖父の思い出 3

2010年07月18日 00時05分30秒 | 私の「時事評論」
私の祖父の回顧 3



 事業者としては失敗ばかり


 祖父は自分の崇敬する筥崎宮のために、膨大な資産を得ようと数々の事業に手を染めた。

 満州の鉱山を経営して日本に大量の原材料を提供する事業、貿易業・・・。だがこれらはことごとくうまくいかなかった。祖父は斬新にして壮大な夢を描き事業に取り掛かる。しかし夢と現実は表裏しない。それに祖父は、冷酷緻密なそろばんと見通しを立てるようなことは苦手であった。
 祖父は一代で莫大な財をなした豪商の伯父に我が子のように可愛がられ、少年時代から彼の力によって様々な経験も得たようだが、そんな祖父も事業に成功することは一度もなかったようだ。中には満州の巨大な鉱山の権利を譲渡して、一時的には大きな資金を得たようなこともあったようだが、それらも資金ができると、その時でも筥崎宮の境内を拡張する費用などにつぎ込んでしまってやがてなくなり、相変わらずのやせ浪人のような仕事を続ける立場に戻っていた。

 中には祖父に機会を与えようと海軍や政府までが結びついての、こんな事業までが、うまくいかずに挫折した。
 それは、祖父の事業がなかなかがうまくいかないので、日露戦争以来の格別な深い交流がある海軍や、同じく祖父とは昵懇であった台湾総督府などが彼に手を差し伸べて、台湾の奥地に生える巨大な台湾ヒノキを切り出してきて本土に運び、神社や寺院を建築してはどうかというものだった。海軍の将官たちは、運搬に費用がかかるならば、最悪の時は台湾から、軍艦で材木を曳航してやろうかと言いだすほどの力の入れよう、総督府でも、伐採の権利は優先的に認め、切り出しなどにも次々に優遇措置を講じてくれ、全国の神社を統括していた内務省も協力的だったのだが、大体祖父自身がコツコツと事業を続けられるような性格ではない。発足数年で膨大な赤字を出して行き詰る結果となってしまった。

 この事業は行き詰ったとき、事業の関係者や債権者などが集まって、息子(私の父)が事業を引き継ぐならば、事業再建に協力しよう。だが祖父は引退せよとの申し出があり、結局事業は息子に引き継ぐことになり、それ以来祖父は実業からは手をひくことになったが、この台湾品気で社寺を作る事業はたくさんの協力者が各方面にいたことにもよるが、社寺建築、特に神社建築では日本有数の大手建設会社と肩を並べるところにまで発展した。あの靖国神社の神門などは日本の代表的大木造建築といわれるが、あれも父と祖父が協力して建設したものである。



 祖父の最後

 祖父は日本国のため、特に皇室や神社のためということになると、あらゆることを後回しにしあるいは無視して、夢中で取り組む男であった。採算や生産なども見えなくなる。そんな祖父の情熱と純粋さにほれ込んだたくさんの友人たちが彼の周りにはいた。地元福岡の維新精神を引き継ぐ巨匠の頭山満はじめ在野の活動家、歴代の首相や大臣を含む陸海軍の将官や内務省はじめ政府の幹部たち、宮中関係者、神職の人々、学者から思想家まで、広がりは大きく、こんな人々に支えられて生涯を活動した。

 そんな祖父は五十代の後半になると、身体を壊して床に就くことが多くなった。それからの十年ほどは、祖父の長男(私の父)が全力を投入して祖父のしてきた仕事や、病床の祖父の心を痛める天下の動きに関する働きまでをカバーした。そんな息子を得たのは祖父にとっての幸せであった。

 病状は日々に悪く、父が祖父のために用意して私らも同居した鎌倉の家には、祖父の病状の重いのを知って、相次いで見舞いに駆けつけるこれらの要人に対して、祖父はただ一つ、自分の死んだあとは、自分を助けて動いてくれた息子に対し、自分はすべて自分の理想を話し、俺とおなじ心を息子に託したので、自分と同様に接してほしいと懇願した。

 友人たちはそれに同意し、祖父同様に付き合うことを約束した。昭和15年のことである。

 ところでこれが、戦後の日本にも大きな影響を及ぼすことになった。
 祖父の息子、私の父は、日本が戦争に負けた時、占領下におかれた日本が、それまで伝統的に信じてきた日本の精神を精いっぱいに残すため、それ名で国の施設の一部であった全国の神社を存続させ、皇室に対する尊崇の心の拠点にもするために、それらの神社をまとめて一つの組織にしようと懸命に働いた。
 当時の神社には神社が日本の精神的な基礎になっているから、これをつぶさねばならないとの占領軍の圧力が厳しく、神社の入り口にはMPが拳銃を持って立ち、伊勢神宮の宇治橋を兵士がジープで強引にわたるような環境であった。

 一方、私の父はまだ三十代、そうそうたる経歴の神社の世界、政府の長老・役人に比べてはるかに若い年代であった。

 だがそんな父の話を聞き、それを助けてくれたのは、祖父が遺言し、父を祖父同様に扱うと決めた長老たちであった。
 彼らは父の話を聞くと、「お父さんもさぞや喜ばれるだろう」と二つ返事で父を助け、あるいは父とともに動いてくれた。
 それはあたかも、祖父が死して五年後に、再びこの世に現れて、活動しているような状況であった。
 (終わり)

 

天衣無縫 -私の祖父の思い出 2

2010年07月17日 23時55分08秒 | 私の「時事評論」
 私の祖父の回顧



 積極派の兄、実行型の弟

 江戸の封建社会の時代、仕事は固定し、代々家が相続するとされた中で、所払いをされ、無一物で石もて追われた一家、おまけに主人は病弱で寝たきりであった。兄の事件が心理的に及ぼしたものもあるのだろう。そのため生計は二人の男の子にかかることになった。

 だが当時兄弟は兄が7歳、弟はまだ2歳だった。だが母親はあの黒田節の歌で知られる黒田藩士の娘で強い人だった。彼ら二人を懸命に支え、読み書きから学問を自ら教えた。また、二人を父や伯父が追放された筥崎宮に連れて行き、「伯父さんの無念を晴らすため、立派に育って神主になり、神社を天皇さまのまつりと同じまつりをするところにせよ」と励ました。

 一家は浜辺の砂浜の掘立小屋で暮らし始めた。二人の男の子は、毎日波打ち際に行き、海草を拾い集めて砂浜で干し、農家に肥料として持っていき、僅かの米を分けてもらい、それに近所の河原で人々が捨てた大根の葉などを集め、海の水で粥を作って一家で食べる糧にした。やがて二人が少し大きくなると、農家から除虫菊や野菜をもらって博多の町に売りに行き、そこで便所の人糞をもらって担いで帰り、農家に肥やしとして引き取ってもらって収入を得た。

 そんな苦労をしながらも二人は懸命に学び、無一文から行商しながら力をつけた兄は、大阪に出て行って幕末には一躍、大阪を代表する大商人で政商に出世した。兄の留守を守って病身の父を抱えて苦学をした弟は、自分は神主になろうと学を積み、郷土の尊皇攘夷の志士の仲間に入って動いていたが、やがて時代は明治維新となり、それまでの功績と才能を認められて抜擢され、黒田藩を代表して明治新政府と交渉する武士となり、やがて念願の筥崎宮の神主、しかもトップの宮司としての職に就き、全国の神社奉仕する神主さんを纏めるような仕事も始めた。彼の仕事の背後には、いつも大阪の兄がいて、自分に代わって神主になった弟を生涯応援し続けた。

 こんな二人の出世話はなかなか興味あるが、それを細かく書いていたのでは話が進まない。私のネットのブログ(葦津事務所 http://ashizujimusyo.com )に「大三輪長兵衛の生涯」という、私が書いた拙い本の出版案内が出ているので、興味のある人は覗いてほしいし、本も読んでくださったら、当時の状況が身近になると思う。



兄牛弟馬(えうしおとうま)



 地元福岡で活躍し、明治期の新聞人として鳴らした男に、福本日南という文筆家がいる。西郷隆盛に憧れ、民間の浪士として維新後の日本に維新の心を残そうと活躍をした頭山満の門下で玄洋社の人だが、その彼が「兄牛弟馬」と筥崎宮を守る兄弟のさまを絶賛し、地元では評判になったのが、私の祖父とその兄だった。

 その二人の弟馬と評されたのが祖父だったが、彼は社会的な肩書を持とうとしなかったが、陸海軍の将軍を始め、大臣たち、行政府の長官たちに、信じられないほど多くの友人、協力者を作り、天下のためにと様々なことを提言したりしてきた。彼と交わった仲間たちは、彼の純粋さ一本気な情熱を心から愛し、生涯にわたって彼と親交を続け、彼亡きあとは私の父をかわいがって応援してくれた。



 私の祖父は、父の伯父や、自分の一家の追放事件も叔父たちの力で解決し、明治維新からしばらくたった明治11年、家を再興した兄弟の弟・筥崎宮の宮司の家に生まれた。

 祖父は次男坊だった。兄は筥崎宮の宮司となり、神社界のボスとなったが、寡黙で常に泰然と端座している男。普段はほとんど口もきかず、重大な決断をすると、そのときだけはわき目も振らずに突進する様な男であった。弟である私の祖父は能弁快活で、人がどんなに無理だと思うことでも、遮二無二挑戦して実現させようとするような男だった。この二人の兄弟は無類に仲が良く、弟である祖父は、生涯兄の支援者として活動することを決めているようなところがあった。互いに相手が何を考えているか、いつも分かりあっていると信じていたというから驚きである。

 



直情径行、奔馬のように



 兄は「兄牛」、石のようにどっしりと座った男、それに対して我が祖父は「弟馬」、能弁にして行動的、自分は筥崎の大神さまのためになると思うと、全てを擲って行動する奔馬のような男だった。行動には、本当に神さまとは一心同体なのだと思えるようなところもあった。私の父が語っていた。

「親父はいつも筥崎の大神と俺とはいつも一緒だ。俺が喜ぶ時は神さまもご機嫌がよいし、俺が悲しければ神さまは悲しい」と。

そんな親父だが、一番の楽しみは毎晩の晩酌であった。そこで親父に聞いてみた。

「親父の晩酌は筥崎さまのためになるのか」と。

親父はぐっと詰まって考え込んでいたが、やや間があって、

「こんなに朝から晩まで神さまのためを一途に思い、働いて身も心も疲れている俺だ。それがこの晩酌でくつろいでいる。それを眺めて筥崎さまも大満足さ」と。



 こんな男だったので、生涯において、現代人には考えられないようなエピソードを次々に残し、夢想する浪人としての生涯を送った。こんな人生を送るようになった背景には、あの大阪の大商人にまでのし上がった伯父の彼に対する格別の寵愛と指導があったと私は信じている。 エピソードのいくつかを紹介しよう。



ロシヤの軍艦を奉納させた話



 日露戦争直前の頃、軍の行動は最高級の機密になっていた。祖父は昨今の情勢を見て、日露開戦は不可避だと考えた。だがロシアと日本の軍備はあまりにも違い、まともに戦ったら勝てそうにない。この戦にどうやったら勝ち進むことができるだろうか。

 彼はそれには筥崎さまのお力の助成がどうしても必要だと考えた。筥崎宮はあの鎌倉時代の蒙古来襲の「元寇」の時、実力ではとても敵わぬ蒙古の大船団を、二度にわたって神風を起こし、ちりぢりにされた神さまである。そのことは神門の「敵国降伏」の勅額とともに、当時の国民はよく知っていた。今度の日露大戦でも、ロシアの戦力の主力であるバルチック艦隊へ日本の連合艦隊が筥崎さまのお力で快勝すれば、戦況はうまく進むのではないか。

 そう思った祖父は、毎晩筥崎さまの正面の玄界灘に身を沈め、連合艦隊勝利の願をかけると、筥崎宮のお札をたくさん持って、極秘の中に佐世保港に集結している連合艦隊の基地まで出かけて行った。

 驚いたのは海軍である。これだけ徹底した秘密行動をしているのに、この男は海軍の機密をどこで知ったのか。だが彼から事情を聴いて幹部たちは疑いも消え、祖父の申し出を快く聞き容れ、終結した全艦船にお札をまつることを快諾してくれた。

 やがて開戦、日露戦争は祖父の予想通り、筥崎宮のはるか沖合で連合艦隊がバルチック艦隊と激戦、これを撃破して日本が勝利した。

 祖父とは親しくなっていた海軍は、筥崎さまのおかげだという祖父の説に同意し、そのお礼にと、日本海海戦で捕獲したロシアの巡洋艦を筥崎宮に奉納することになり、軍艦は筥崎の参道脇の海の鳥居のところに係留された。また、祖父の勧めで連合艦隊は旗艦三笠の羅針盤を海戦の行われた地区の神さま・海の神さま宗像大社に奉納、これは今でも神社の神宝館に飾られている。

 だが、軍艦の奉納を受けた神社や地元の箱崎村は、この船の係留にかかる膨大な経費に参ってしまった。軍から軍艦を奉納された名誉はまたとないものでありがたいが、このままでは神社も村もこの維持費で破産する。祖父を怒らせないようにこの船を処分するのに、大変な苦心をしたという、皆が困った後日談もある。



 朝鮮神宮の話

 

 朝鮮神宮は日本の韓国統治時代に、日本が韓国人の皇民化政策の柱として実施したものだとし、それを推進したのは日本の政府や神道人だとされて甚だ評判が悪い。だがこれは事実を全く逆に曲解した偏見である。この神社ができると聞いたとき、真っ先に反対したのが私の祖父であった。

「聞くに政府はこの神社に天照大神と明治天皇をまつり、朝鮮人に参拝させることによって皇民化を推し進めようとしている。だが朝鮮には昔からの譚(たん)君への信仰というものがあり、人たちの中に深く浸透している。日本が彼らの精神的一致を図ろうとするのなら、譚君こそその祭神であるべきだ」。

 祖父はそう主張して全国の神社界の賛同を得て、地元の頭山満はじめ各界の人たちの賛同を得、政府に祭神変更を強く要望した。祖父は初代の朝鮮総監になる伊藤博文や総督の斎藤実に会ってはこの主張を熱っぽく説得した。彼らは祖父の話を座布団も外して正座して謹聴、「なるほど」と変更を約束したのだが、話は官僚たちによりどんどん進められて、神社人の「日本の神さま以外をまつれ」との声は無視されてしまった。

 戦後の日韓関係の摩擦などで、朝鮮神宮の話が引き出され、まるで日本の神社関係者も、これを進めた協力者のように勘違いされて宣伝されている現状を見て、残念に思うことしきりである。

 

 靖国神社への僧侶たちに集団参拝など

 

 祖父は個人としては生まれつきの極端な神道人であった。じっと座っていると神さま方と直接対話しているような心境になり、神のお告げを聞いたように感ずることも度々であった。よくはじめての土地などを歩いていると、「昔はここに風の神様を祭っていたあとがあったはずだ」などと突然言い出す。疑いながら皆が掘ってみると、その下から、古代の人がそこで祭りをした跡などが出てきた。風の神、山の神、田の神から次々に出てくる。聞かれると、「神さまの声が聞こえてくるのだ」などと語った。日本の古代、人々はそんな感じで山や自然を神と感じて祭りを始めた。祖父の頭は古代人と通じていたのだろうか。

 そんな祖父であったが、現実の日本を見る上には、自分の直観的本能とは別の自分、冷静な自分もまた持っていた。一例に靖国神社をあげる。靖国神社は日本全国にある神社とよく似てはいるが、それらは近代日本国の祭祀施設であり、神社ばかりではなく、どんな寺院や教会を信ずる人にとっても、大切な日本国の公的なまつりの施設で、神社以外の人に対しても、同じような重さを持つべきだという信念を祖父は持っていた。昭和になって、祖父は日本の仏教各派の代表たちにそろって靖国神社に参拝してもらうイベントを企画、仏教各派の協力を得て実施した。神社界の中には「異教に同せず」と批判的なものも多かったが、祖父は構わず強行した。

 祖父にとっては、靖国神社は、神道の施設をモデルに作られてはいるが、教義や教団などを超越した近代型の祭祀施設で、日本国民ならば、誰に対しても門戸をとずべきではない近代日本の国家施設と映っていたのかもしれない。
 そうでなければ、日常生活ではあれほど仏教に否定的だった祖父が、あんな企画を実施することなど、考えられない私である。写真は先祖が流刑死した玄海の孤島
 (続く)


天衣無縫 -私の祖父の思い出 1

2010年07月12日 13時07分34秒 | 私の「時事評論」
①家風というもの

 我が家には「家風」といったものがある。そう書くと封建時代そのもの、世界遺産の生き残りといったようなカビ臭い奴、役に立たない骨董品を崩れかけた裏庭の土蔵から持ち出してきたようなおかしなことを言っている奴だ。お前それでも正気か、現代人として生きていけるのか、そんな眼差しで私を見る人が多いかもしれない。

 だが、私は正気も正気、まともな話をしている現代人のつもりでいるのである。

 日本中、どこに住んでいる者も、ほとんどは家庭で育ち、社会へ巣立っていく。その家庭には必ず個性というものがある。「俺はそんなところで育っていない。ごくごく当たり前の普通の家で育った」といわれるかもしれない。だが、いくら普通といったって、それぞれの家に特徴がある。特徴がない個性のないものなどは存在しないのだ。そこで成長したからには必ずその影響が身に付く。独特の体臭のようなもの、それを私は家風と呼ぶ。
  家に生まれ家族と暮らし、大きくなるにつれ、どうも自分がほかの人と、く似ているがどこか違うと気になり始めたのは、小学校に入ってから、今までは接点を持たなかった友人がたくさんでき、友人がそれぞれ少しずつ違っているのに気付いてからだった。それは育った家の匂いのようなものだった。

②島流しの流人の子

 私の祖父は、私の就学前に既に幽界に去っていたが、祖母や父からよく我が家の先祖の話を聞かされた。先祖は福岡県の筥崎宮という神社の神主をやっていた。かつては全国八幡宮のご本家である大分県・宇佐神宮の神主だったが、ここ筥崎にその御分霊がまつられる足利時代についてきて、いらいここの神主になった。
 だが、徳川時代になり、徳川幕府の政策で仏教寺院が今の市役所のような役目を果たすようになり、住民の戸籍なども寺の台帳が用いられるようになると、寺の勢力が強大になり、神社にも僧侶たちが入ってきて取り仕切るようになり、神社のまつりもお経をあげて香をたく仏教風に変わっていった。それに我慢がならず、昔ながらのまつりに戻そうとしたのが幕末の我が家の先祖であった。

 仏教の輸入された「唐(から)ごころ」に汚染されず、皇室を中心に日本で育った伝統の姿に神社を戻せ」という新しい学問は、賀茂真淵、本居宣長などが生みだした江戸中期の「国学」という日本で初めての国産の神道学でもあった。そんな新しい学問の影響も彼には強かったが、幕府は神主がこんな学問をして、幕府の仏教政策に反して独自の動きをするのを禁じていた。幕府には日本独自の精神や学問を深めることよりも、仏教利用の便利な行政を重視したからである。
 それを無視して、昔ながらの神社の祭りを復活したい、皇室のまつりと相通ずる神道のまつりを復活したいと活動をして京都にまで行き、幕吏につかまり唐丸かごに入れられて連れ戻され、座敷牢に入れられ、それでもまた、「神さまのことだ、止めるわけにはいかぬ」と活動をして捕まり、今度は島流しになり、島で死んだのが私の祖先だった。幕府も尊皇のまつりに復活させたいと活動したからといって、打ち首にするわけにもいかぬ。島流しにしてからも、「詫びたら釈放してやる」と説得したのだが、「俺は神主だ、神さまへの信仰に妥協はない」とこれを拒否、ついに島流しになったままで一命を絶ったのだった。

 もちろん、わが一門は断絶した。私の先祖は彼の弟だったが、封建時代の掟だ。連帯責任を取らされた形で家屋敷財産すべて没収、神社の仕事ばかりではない、村の付き合いからも放逐された。家にいた二人の男の子(数え12と3歳)兄弟、母親に生まれたばかりの女の子がいたのだが。
 二人は両親、特に母から「伯父は決して間違ったことをしたのではない。いつの日か家を再興して、筋の通った神社にせよ」と日々教えられ、川に捨てられた野菜や、海で打ち上げられた海草などを食べながら、それでも病気の父を抱えて、歯を食いしばって働きながら勉強した。そして兄は大阪に出て幕末から明治にかけての屈指の大商人に出世、弟は勤皇の志士として活動ののち、明治維新ののちに、再び筥崎宮の宮司に返り咲いた。波瀾に満ちた生涯だったが、二人は力を併せて無念だった両親、先祖たちの汚名をぬぐった。

③男の生きる道とは

 こんな日々を繰り返したのが我が家の先祖である。資料も結構残っている。我が家では正月に、雑煮の前に先ず一家そろって大根の葉のかゆを食べる。流人とされた先祖たちは、少年の拾ってきた河原の大根に切り捨てた葉や、近くの海岸の海草などのかゆを食べ、歯を食いしばって自活しながら家の復興に全力を注いだ。その志と執念を子孫は忘れないために必ず食べることになっている。
 これが家風の基なのだ。家風は生きている。家再興の二人の兄弟、その弟が私の曾祖父だ。その子、私の祖父はそんな弟(筥崎宮の宮司)に育てられ、その兄(大阪在住の明治の大商人・政治家)に子供のように可愛がられ、浪人をしながら生涯を尊王攘夷の実践に打ち込んだ。耕次郎も二男で、兄が父の奉仕する筥崎宮を引き継いだので、生まれながらに心の中に膨れる情熱を抑えることのできない彼は、無類の敬神家であったが、野にあって兄を助け、全国の神社を盛り上げようと一生を過ごした。この前に当ブログに書いた私の祖父、耕次郎がその人である。

 祖父は情熱のほとばしるままに行動し、悲しんだり苦しんでいる人のことを思っては、それが知らない人、隣国の民であっても涙を流し、これこそ人道的な方針であると思えば、例え首相や大臣であっても直接訪問しては情熱的に道を説く直情一本の男だった。

 日本が朝鮮を領土に組み込み、そこに朝鮮神宮を立てようとしていると聞くや、そこに日本の神々をまつろうとしているのに反対し、
「朝鮮の人には朝鮮の大事な信仰がある、その神々をまつるのこそが友人としてのとるべき道だ」
と、全国の神社に奉仕する神主さん方の同意を取り付けて直接政府にお容認に説得したり、日露戦争が近いと感ずるや、お札を持って連合艦隊のひそかに集結するさせ歩に行ったりした男だが、そんな話しは次に譲ろう。

(続く)
上の写真は先祖が流島死した玄界灘の一孤島

祖父の面影

2010年07月12日 11時15分27秒 | Weblog
我が家の祖霊舎

 祖父がこの世を去ったのは私が満三歳になった直後、6月30日の大祓いの日であった。
まだ幼いころの思い出だし、通常なら記憶の彼方に押しやられ、すっかり忘れてしまうところだが、父や母の話で、折にふれては記憶を消さぬ効果があったこと、さらに以来何度も祖父の眠る祖父の墓を訪れ続けていること、シャワーのように祖父の在りし日の私への祖父の愛情のエピソードを祖母や母が話してくれたことが重なり、さらに我が家では毎年、祖父の命日には父が必ず在宅し、祖父の子供・孫はじめ祖父とゆかりの深かった人々が集まって慰霊祭と祖父を偲ぶ集まりなどがあったこともあって、祖父は今でも私には忘れられない思い出の人、万一のときには私の守護神になってくれる貴重な存在になっている。
 祖先が眠る祖霊舎と並ぶ神殿、我が家の客間の和室にある床の間の位置に設けた巾一間の神殿、欄間には曾祖父、祖父、そして私が掲げた父ら三代祖先の遺影が飾ってある。父なき後は私が引き継いで、朝に神殿の榊の水を替え、月に数回、コメ、水、塩の神饌も替え、祖霊舎兼用の神棚とこれら写真に拝礼をする。それが我が家の主である私の仕事だ。何か神前に奉告することがあるときは両側の一対の灯篭にも火をともす。祖霊舎には、祖母や母の霊璽(れいじ=神道式の位牌のこと)、夭折した伯母の御霊も収められている。
 我が家で朝・夕食などが炊きあがると、私の孫が神前に供える役をする。嫁に行った娘たちの孫娘も、我が家に来ればそれに加わる。孫たちは明るい現代的な今の少年少女だ。だが指示しなくとも神殿の諸役をかって出る。孫たちは神前の拝礼の所作などもいつの間にか身につけていて、神社参拝などで神主さんを驚かせる。私は元来、神道の祭式には弱い。最近では、孫たちに負けてしまいそうな現状にある。

 家族中心主義の我が家

 我が家は先祖伝来の家族中心主義だ。別に堅苦しいものではないのだが、家は主人(現在のところは私)が中心になり、妻や子供夫婦、孫たちのことを考え、その意見も聞いて責任もってすべてを決定する。親戚との社交から、社会とのつながりについても配慮する。家では長幼の順を立て、社会に立派に生きていける若い人材の育成に配慮する。家事などの分担を決め、ともすれば過重になりがちな妻や嫁さんの負担を軽減する。それは家のまつりを担当するものの務めである。
 そんな暮らし方は祖父母、父母から受け継いできたもの。形式ぶったものでも主人のワンマンを許すものでもない。現に私は父母がそうであったのを見習って、幼い孫たちの世話も遊び相手も率先してする。「じいちゃん」は孫たちのもっとも人気のある役でなければならない。そのためには本気で孫に接しなければならない。そんな対応も実は私のじいさんが率先して私に教えてくれたものなのだ。
 私は東京の父が経営する会社に接続する家に生まれたが、当時祖父は身体を壊して療養中であった。私の写真には初孫が生まれて大喜びの祖父が集めたたくさんの武者人形や桃太郎、金太郎に囲まれたもの、近年まで残っていたどこに柱を立てればいいのか呆れるぐらいの大きな鯉のぼりなどが残っている。生まれて以来、祖父の愛情の中で育ったようだが、私自身の思い出は残っていない。
 そんな私が祖父祖母と同居したのは、父が療養する父と同居するために鎌倉に大きな屋敷を購入し、私どもも鎌倉に引っ越した昭和14年の暮からだった。そこは数百坪の大きな庭があり、目の前には広い芝生があり、背後には折り重なる大きなつつじの樹叢、そしてたくさんの樹木が背後にある離れのついた和洋混交の家であった。

 節句の後の鯉のぼり事件

 家の西にあった私どもの寝室から、南側の長い廊下をとんとんと走っていくと祖父の寝るベッドがある洋間に達する。私は毎朝、目を覚ますと一番に大好きなおじいさんのところに挨拶に行った。足音を聞くと、病床の祖父は相好を崩し、ベッドで起き上がって待っていて、私が胸に飛び込むのを迎えてくれた。鎌倉暮らしはそんな日課から始まった。
 やがて来た4月は私の誕生日である。祖父は広い芝生に東京から鳶職人を呼び、大きな柱を立てて特大のこいのぼりを作ってくれた。カラカラと音を立てて回る風車、庭一杯に翻る吹き流し、真鯉に緋鯉、有頂天になる見事な鯉のぼりだった。こんな楽しい環境の中で私は誕生日と端午の節句を迎えた。ただ残念だったのは父が、全国を飛び回る仕事に忙しく、大自慢のこいのぼりを父に見せることができないことだった。
 やがて節句も終わり、東京から再び鳶職人が来て、この鯉のぼりの取り壊しを始めた。父に見せる前に鯉のぼりはなくなってしまう。私は祖母や母の止めるのも聞かず、懸命に「壊さないでくれ!」と叫び続けた。大声で泣きわめいて抵抗したと祖母や母は言うが、私には記憶がない。
 しかしその声は窓越しに休む祖父の耳にも入った。祖父は祖母からその話を聞くと、即座に命令した。
「壊してしまった鯉のぼりをすぐに立て直せ。子供が父に見せたいと懸命に頼むのに、その子供の父への愛情がわかっていながら、社会通念だ常識だなどとこれを壊すとは何事だ。子供の気持ちを大事に思うなら、鯉のぼりがいつまで庭に残っていてもよいではないか。大切なのは、子供の心にある父への愛情と信頼を、大事に育てることなんだ」。
 かくして、一度撤去された鯉のぼりは節句を過ぎてもう一度庭に建てられ、鯉のぼりは節句を過ぎた青空に再び翩翻と翻ることになった。

 こんなおじいちゃんも、それからわずかにふた月も立たず、幽界に去った。さびしい霊柩車の行進、近所の墓地での埋葬のシーンを、私は今でもはっきり覚えている。

 スサノオノミコトのようなじいさんだった

 天地の道に二つはなかりけり
 いつくしむてふことのほかには

 祖父が残した辞世の歌である。
 お互いにいつくしみあって生きる。このほかに天地のしかるべき道はない、という辞世を祖父は家族や子供たちを集めた前の病床で書きあげると、
「私の思いや心はすべて長男の珍彦に引き継いだ。思い残すことはもう何もない。今後は珍彦を私だと思って、仲良く慈しみ合いながら生きていってほしい」
と一同に語り、家人たちに自分の身体をささえて床の上一尺ほどに持ちあげさせ、静かに目をつぶると、「よし」と一声いって床の上に降ろさせ、すぐに眠りに就き、そのまま幽界に去って行った。
 思ったことはすぐに実行し、自分を信仰する鎮守の氏神様(九州・筥崎宮)の第一の家来で、喜びも悲しみも神様とともに感じていると信じていた祖父は、神社の神職の家に生まれたが、兄が神職を継いだのでその兄を助けて一生を過ごすと宣言、自分は兄がまだここに奉職する前にはこの神社の主典という、最も地位の低い神職の地位に留守番としてとどまっていたが、その後は浪人に近い生涯を過ごし、決して神職にならなかった。ただ、神道の信仰=人々がいつくしみあって生活し、助け合って良い社会を作るという思いは人一倍強く、その情熱はあの郷土の浪人・頭山満をはじめ神道や哲学の学者、当時の内務省の大臣や高官たち、神職、軍人などに多くの心の通ずる友を作り、存分に働いて一生を過ごした。そのエピソードは今後、折に触れて紹介したいが、そんな慈愛あふれた祖父を私は尊敬している。だが、私における祖父の思い出は、鯉のぼり事件のように、個人的な家族の思い出がたくさんそれに重なっている。
 祖父の名は葦津耕次郎、享年昭和15年6月30日、今年70年祭を迎える。

続 神さまが存在しないことは証明されただって!

2010年07月09日 16時15分38秒 | 私の「時事評論」
日本の神社の神さま(私の私説)

 さてこんな西欧科学の分野で論争している神さま論議から離れて、それでは日本の神さまはどんなものだと私が考えているのかに触れていきたい。

 日本の神話をみると、神様が失敗をしたり、間違ったり騙し合ったり、いろんなシーンが出てくる。そこに出てくる神々はみな、我々と同じように、ひどく人間的な存在として描かれている。もっとも尊いとされる太陽神だとされる天照皇大神だって、弟素盞嗚の神に、騙されかかったり、疑ったり、物事を読み違えたりして親しみやすい。

 日本の神々は自然崇拝や祖先崇拝から出てきたものと言われる。祖先たちがいろいろの時点で自然の威力に接し、とても自分ら人間だけの手には負えない大きな働きを持っているのを畏れかしこみ、それら偉大な働きを神の司られるものとしてまつりをした。そんな神々にかけてきた畏怖の思いの集積が、そのまま神話として伝えられて現代に来た。日本人のこんな完成には、人間だけがこの世の支配者だといった思い上がりやおごりはなく、自然や環境と調和していこうとする世界がこれから目指そうとする最も大切な基本姿勢が込められている。

 日本人はこの日本列島という四海を海に遮られた島国で、独自の努力で知恵を育み、さらにそれらの知識を先祖から子孫へと積み重ねながら長い間生活をしてきた。縄文時代に何があったとか弥生時代はどうだったというような厄介な分類は引き出さない。狭い地域でたくさんの人々が暮らすのには、集約され、研ぎ澄まされた生きる知恵が大切である。農耕をするにせよ狩猟漁労をするにせよ、これからどんな時期が来るのか、その未来を精いっぱいに知り、襲ってくる大雨や旱魃、天災などにどう対応するかを懸命に知ろうとし、その対応の中で、自分らで改良できるものはないかを探ろうとしてきたのは当然のことだった。
 先祖たちは自然の持つ習性をとことん調べ、それでも自分らの力ではどうにもならない大きな自然の力を知り、その働きを神の働きにたとえて、何とか穏やかにして貰おうと、自然を司る神々を招いて、皆で集まってまつりの儀式を行ってきた。さらに先祖たちは、単純に自然を畏れて逃げ惑うのではなく、そんな中でも、一緒にまつりをする仲間たちが力を合わせてその災害をまぬかれるために、まつりの場において神々の見ておられると信ずる前で誓いを固め、共同作業で治山治水に力を入れ、日常的に皆で協力して、よりよい生活を目指してきた。

 そんな中の謙虚で勤勉な生き方の中に日本の神々が生まれ、神を中心に人々は生活する事になった。そんな皆で祭りを行った跡が、いまでも全国に残っている神社となっている。

 日本の神話は、それがある特定の教義を広めた布教者がいて、その人間が作り出し布教したのではなく、日本という地で、その中の各地で自然に起こった自然や先祖たちを神として敬う共通に近い信仰が、だんだん纏められて、今の形にまとまったものだと私は思っている。そしてこの信仰は世界遺産の大半のように、過去における遺跡ではない。今も人々の心の中に生き続けて、我々の生きる指針になっている信仰なのだ。

 神話の記述は時系列に従って記述されているが、それは昔の日本に、知識を伝える方法として、哲学や論理学などの概念が未整備だったので、以前から信じられてきたことの表示=「昔々あるところに」と語り伝えるような時系列による表現という方法以外がなかったこと、さらに歴史物語に近い表示形式をとることによって、一般の人にも、物語のように伝えやすいという事情があってこんな形にまとまったのではないだろうか。よく見ると、神話に書かれていることは単純に過去にあった既に終わったことではなく、今でも通ずるし、今でも大事な指針とされるべきことが、ただ、時系列方式を利用して記されていることにも気が付く。たとえば、神話に出てくる神さまは、古い過去のものではなく、今も立派に生きている。



 古いとされたことが大過去なのではない

 ちょっと話はずれるが、日本の神話をみると、はじめに何もない混とんとした空間が最初にあり、そこに結びの神が出現して世界ができる環境が整い、やがて国土の自然をつかさどる神々が生じ、稲作、植林その他の技術を教える神が生じ、人が生まれ、人が神々の指導のもとに、一体になっていまの社会が出来上がって行く様が描かれている。驚くべきことに、その日本の天地人創造の神話は、最も新しい近年の自然科学による地球誕生、そして人類発生の研究と軌道を一にするように酷似している。なんと素晴らしい世界観を日本人は描き、作り上げたのかと驚嘆させられる。一度ゆっくり、そんな観点から日本の神話を読み直していただきたい。日本の先祖たちがそのようにしてこの国が生まれたと、言い伝え、語り残すものが、体系的に示されている。
 
 我々の先祖たちは、そのように経験を積み重ねて知り得たこと、人間の生活は、自然の大きな力に常に影響されることを知って、自然の威力にあいたいするまつりを通して、精いっぱいに穏やかな日々の来ることを自然をつかさどる神々に祈り、治山や治水、農耕作業など、自らが協力してなし得ることには共同してこれに当たる決意を神々に誓って実行してきた。


 日本には古代から現代まで、こんな文化が断絶することなく続いてきた。古代が現代まで継続的につながっている。そしてこんな文化を精神的にまとめる権威として二千年以上前から天皇制度があり、それは祭祀社会と密接につながっている。
 一つ一つの小さな共同社会では、その長が中心にまつりを行い、それを大きくまとめるのが、大まつり主としての天皇だったのだ。日本語では今でも政治のことをまつりごとという。そんなセンスは昔から変わらずに伝わっているのだ。
 そんな神に祈り、また共同して作業に当たる誓いの場として神社があった。また日本は祖先崇拝が生活の大きな比重を占めているが、祖先はみなが一つにまとまる基本としての家族を作った人であり、自分らに積み重ねてきた知識や技術の集積を伝えてくれた大切な存在であった。



 このような神を、日本人が意識してきた神を、簡単に現代の方程式などの論理で、「存在しない」と断定することができるだろうか。

 日本の神は単なる布教者が概念上で生み出した、「あがらうことが許されない絶対的、宿命的な我々を統治し服従させる超能力者」と概念づけられない存在だと私は受け取っている。

 人間はこの地上において日夜努力して多くのことを知ろうと努力を重ね、そんな知識を時代に時代にと積み重ねて、かなりの知識を得ることに成功した。だが、そんな現代においても、われわれにとっていまだに未知なるもの、あるいはわかっていてもそれを動かす力には程遠いものがいかに多いことか。そんな我々ではどうしても動かすことのできない働きに敬意を表し、それに従いながら、精いっぱいの努力でよい生活を求めようと誓い努力する。それが日本の神さまへの信仰の中心なのだと思うのだが。


神さまが存在しないことは証明されただって!

2010年07月09日 16時11分16秒 | 私の「時事評論」
電車内のつり広告

 いつもの電車の吊り広告に、大見出しのようなショッキングな文字が躍っていた。1輌の半分くらいの大きなスペースを占めて、何枚も掲げられた車内広告によると、こんな本がいま、ベストセラーになっているのだという。

 気になったので家に帰って調べると、ゲーテルの不完全性の定理とかが基本になった理論て、数学で「体系の内部矛盾が存在しないことを、体系自身では示すことができない」という定理が成り立つので、これを神さまにあてはめると、神の存在が全知全能だとすると、それはこの数学理論に合わなくなる。だから神は存在しようがないということになるのだそうだ。

 数学に弱い私にはわかったようなわからない話だが、少なくともこれは、神を全知全能の絶対的存在であるというキリスト教など海外の絶対神を基にした宗教観に基づき、神父や牧師さんなどが聖書などに沿って大衆にわかりやすく説明する説教に出てくるような神さまは、人間の作り出した数学の理論で証明しようとすると、いないことになるという、神さまに前提条件をつけなければ納得させうる説ではないようだ。条件付きの学問の分野で、条件の制限のないものを考える。私には分かったような分からないような話ではあるが。



 神様の概念の違い

 神さまとはそもそもどんな存在なのか、神の概念には統一された一つのものがない。様々な信仰団体がそれぞれに勝手に神さまを規定している現状では、全ての神に適応するように論じてみても、前提条件が違うのだから、いろんな説が出てくるのが当然である。

 「神は無謬である」などとよく言うが、私が尊崇する日本古来の神道の神々などは、そもそもこんなキリスト教の絶対無謬の神の概念などとは全くつながらない。神道の信仰は誰かが個人が作り出した(唱えだしたといったほうがよいかな)ものではなく、自然の中で暮らす日本人の祖先たちが長い歴史の中で、集団で感じたことを積み重ねてきたものである。古事記や日本書紀などのいわゆる神典といわれる古典の中の神話をみると、そこに出てくる我らの神などは、しょっちゅう人間のようなミスを繰り返している。神さまも、うれしいといっては浮かれ、悲しいといっては泣かれる。個人崇拝型の絶対神、教祖や伝道者が布教した他の信仰の神々とは全く違う人間性溢れる性格のものなのだ。

 そんな信仰が日本にあることを見て、「日本の神はアミニズムで古い型で時代遅れだ」などと西欧のものを何でも優秀とし、日本の神さまは時代遅れだと決めてかかった連中からは批判されている。余計なお世話だ、俺たちは君らのために神様を尊崇しているのではない」と腹立ちまぎれに文句を言いたい批判が我が神々には重ねられてきたのだが、今度は、彼らが近代的と自慢する西欧型の唯一絶対神信仰に対しての批判の定理が示されると、そんなことも無視して、根拠もなく我が神々にまで否定の論として使おうとする。全く迷惑この上もない。

 それでなくとも現代の日本は、信仰など精神面に関する認識がすっぽり欠落して国民の中に浅く、目先の物理現象に動物的に反応するのみの傾向が顕著で、一般的に神を知らず、上滑りの社会になってしまっているというのに。俺の気付く以外のものは存在しないのも同様だ。いや、存在そのものを認めないのだという、物理化学の世界だけしか見ない井の中の蛙、それが今の日本人の目指している近代的文化の実態なのだから。



 科学万能思想におかされてせまくなっている人々

 神を擬人化して絶対者、超能力者のごとく大衆に説く布教のやり方は、遮二無二信じろと頭ごなしに信じさせる強引なやり方で、話が手っ取り早く、くどくど説明しないでもすむ。しかも絵本などでそれを映像としても示すことができ、偶像化しやすいので、どこでもよくつかわれる手段である。日本の神々のご神徳説明にも、そんな教化がよく行われている。私だって神さまと聞くと、あのだぶだぶの白い服の手首と足首を細くしたような古代衣装を身にまとった神さまの姿が目に浮かんでくる。

 だが、物理化学が万能のように思いこむ狭い科学知識万能観が徹底した現代に、この無理やり神を信じろとの方式一本やりで、どこまで人々をひきつけていくことができるのだろうか。失礼だが、聖書に言うキリストの復活なども、非キリスト教徒の私などからみると、現実に生身の肉体をもったイエスが死後に再び生き返ったと、物理・自然科学上の疑問に答えて、合理的な納得させ得る説明をするには、ちょっと難しいような気がする。

 「神様がいらっしゃるのかどうか」。それを説明するのには、神を物体(偶像)としてではなく、概念や理想として説明する方法が必要のようだ。愛情、勇気、思いやり、苦しみ、悲しみ、知恵、生き方、愛国心などの概念、いずれも物質として説明はできないが、現実にはそれを信ずる人には確実に存在し得る。また国、郷土、民族、社会などの概念も同様だ。神さまがそんな抽象的だがはっきりした思いをかけるに足る概念で受け止められるときは、人の生き方を律する存在として立派に存在するし、例え非科学的とされる全知全能とされる神さまであっても、在来の他愛ない無制限の絶対能力に制限がつけられるとしても、明らかにそれを信ずる人がいる限り存在している。

 そんな概念上のものは、物ではなく、形や重さがあるのではないし、そんなものは存在しないと信ずる人の心の中には存在し得ない。愛情が大切だなどといっても、「世の中にあるものは金の大小だけだ」という人にはそんなものはこの世に存在しないといわれるのと一緒だ。もっとも、「金の価値とはなんだ」と重ねて質問されれば、今度は彼らが詰まって、同じような論理を使用して説明しなければならないだろうが。

 神さまは明らかに存在する。



 全能の神といっていられなくなった神々

 神を人間に似せて擬人化し、しかも全知全能であると説明することは、その代表である現代のキリスト教文明が、その金縛りから逃れようという人々を生み、そんな親をキリスト教とする鬼っ子である自然科学によるおかしな方程式など巻き起こす論争に巻き込まれる時代となった。さらに世の中は変わってきた。今までは神と人、異教徒などを顧みる必要もなかった排他的な宗教も、より広く異教徒異民族を含めて人類全般のこと、さらには地球資源全般を眺めて将来を論ずる視点がなくては現代社会に合わなくなるところになってきた。人類はその対応次第で地球をつぶしかねない大きな勢力をもつようになってきている。全能である神さまも、こんな時代の変化にはお気がつかれなかったのか。

 ある意味で、神さまの受難の時期なのかもしれない。

 これからの神さま像は、こんなこともあり、従来よりも、もう少し広い視点に対しても、耐えうるものに発展していかなければならないのではないだろうか。
 現にそんな動きは世界の各教団に最近顕著にみられる傾向である