葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

さあ総選挙だ

2012年11月24日 19時31分03秒 | 私の「時事評論」
予想通りに時は流れているのだが


 この一ヶ月余りの間、ブログ書き込みを御無沙汰してしまった。原因は少々体調を崩したことがきっかけ。体調不全はたいしたことではないのだが、私の気力が、これに伴って萎えてしまっていた。


 そんな間も、時はいま激変の時期に差し掛かっている。けじめなくダラダラ暮らしていれば良いと、文明の後退をあえて求める我国にはびこるポツダム体制後遺症のグウタラ時代も、このままでは進まなくなり、破綻が誰の目にも明らかになってきた。将来に向かって文化を維持し、生きていこうとする未来志向の努力が何も見えない日々を、ここまで続けてきたのだから当然と言えば当然なのだが。目の前に控えた総選挙に向けての各党の公約などを見ても、以前のように目先のことばかりではなく、日本の体制を大きく変えようとする憲法の改正や、うっかり舵を取り間違えると、日本経済を大きく昭和の初めに戻ってしまう劇薬にもなる日銀の国債引き受け、国防問題など根本的な体制そのものの見直しが見られるようになった。


 野田首相が今まで逃げ回っていた態度を一転させ、衆議院の即時解散を決断、年末の総選挙に向けて、これであわただしい空気が始まった。この選挙に漂う雰囲気は今までとはいささか様相が違っているようだ。先ずいままでは二大政党による政権の交代劇を理想として、民主党グループと自民公明グループが選挙法まで変えて積み重ねてきた動きが一変した。選挙法こそ変える準備は間に合わなかったが、数えてみると十四もの政党が名乗りを上げ、大勢は俄かに多数政党の時代へ。それら新興政党の大半は、本年になってはじめて表に出だしたもので、積み重ねられた準備もなく、政権にしがみつく野田内閣を見て、総選挙はもう少し先だろうと思ったのに、急に目の前に来たというので、慌てて見切り発車の形で名乗りを上げたようなグループであるが…。


 国民の政治に向ける姿勢が変わったのに、政治の体制は対応が鈍く、国民のいら立ちについていけないでいる姿だ。そんないかにも時代の転換期によくあるような雰囲気の中の総選挙だが、今後の我が国の行方を眺めるのには、今回の総選挙は大きな転換点になりそうな気配である。



 


 自爆テロのような衆議院の解散
 


 それにしても従来とはいささか趣の違う野田首相の解散劇であった。私にはそれは野田首相の最後に決断した自爆テロのようなものに見える。


 振り返れば三年前に、マスコミが音頭をとって津波のような民主党待望のコールが起こり、それに国民が乗せられて絶対多数の議席数を抑えた民主党は、鳩山、菅、野田の三代の首相の下に行政権を掌握したが、政権取得後に対しての準備が全くなかったからか、政権発足直後から、これでも政治のプロなのかと首をかしげるようなありさまであった。とくに鳩山・菅両内閣は酷かった。政策が実現可能か否かの事前の慎重な検討もなく、素人のような前後も考えぬ思いつきの連発で、何も実効を挙げ得ず、自ら自分を殺してしまった鳩山首相。鳩山時代にはそれには全く努力せず、転がり込んだ政権も、民主党をなめてか下剋上と不服従の官僚組織を抱えて、イライラしながら空転を続けた菅内閣。民主党という政党自体が、ただ戦後のノー天気であるだけが共通な綱領で、現実と空想とのけじめも分からぬ団体であり、政権与党の体をなさないもので、与党内野党の小沢氏を含むから当然と言えば当然だが、三代目の野田首相が政権の座に就いた時にはもうすでに、与党という機能をまったく失っていた。


 そんな中で三代目の首相の座に就いた野田首相は、それでも一年有余、先ず与党の取りまとめ一本化に取り組んできたが、それが不可能だと知ると、解散を餌にして野党の自民・公明と取引を重ねて、辛うじて野田内閣の維持を試みてきた。


 だがそれももうこれ以上は無理だ、与党は野党以上に協力的ではないと知ると、総選挙後の新しい可能性を模索するべく一転解散に踏み切った。解散は、与党内で一日でも政権の座に居座り続けたいとする、野田氏とは主張を同じくしない民主党内の同志に対する絶縁宣言だと見てもよいだろう。その動きは解散後の野田体制の執行部の動きに明瞭に出ている。


 


 マスコミに踊らされるな



 今回の総選挙で注目される点は多々あるが、私が注目するところは、現在の我が国民の政治に関する認識ではないかと思う。


 国民は今の政府が、国民の負託に応え、国民に直結する政治課題に直接応える能力を持たなくなってしまっていることを知った。このままでは我々がいま、かじ取りを明確にすべき課題に政府が応え、強力なリーダーシップを発揮する結果には至らないだろうとの不安も持ったと思う。マスコミの指導のいい加減さも知ったはずだ。だがそれは、国政に関して国民が無関心になることではない。あるいはマスコミの宣伝に踊らされて、唯々諾々と軽々しく動くことではない。三年前のオール民主党支持のマスコミの指導が我々にどんな結果となって跳ね返ってきたか。忘れてはならないことである。


 選挙のたびに付和雷同して、マスコミの指図に忠実に右や左に票を集中させ、結果的に国政をいよいよ国民の声から遠いものに振動させていると、それがいよいよ集団ヒステリーの傾向を助長させ、第一次大戦の後の厳しい景気の中に西欧諸国でファシスト政権を誕生させたあの二の舞に陥る恐れがある。要は冷静に日本の政治を眺めてみて、この日本の政治に欠けているものは何であるかを見極めることだと思う。


 マスコミの間からは、今回の選挙くらい「選挙速報」がやりにくい選挙はないとの声を聞く。開票も始まらないうちに当選が出る速報なんて何の役にも立たないが、それだけマスコミ側は先の選挙で果たした役割を反省しているというのなら、それもまた評価すべき点なのかもしれないが。



 


 日本文化を大切にする人を選ぼう


 


 今の我が国に欠けているものは何か。私はいまの日本があまりにも日本の文化に対しての評価が低く、そのため日本の国の個性が次々に消えて行ってしまっていることこそ、それが最大の欠陥だと思っている。


 日本人は数千年の間、縦と横の社会を大切にしてに生きてきた。横軸としては家庭や隣人、村や町、隣人、友人などを大切なものとして育て維持し、縦軸としてその日本文化の不滅な延長を願い、祖先や先祖、年長者を大事にし、未来のためにも我が国の立派な繁栄を維持し、発展させ、残そうと営々と努力してきた。それは農耕民族としてお互いに和して生きる道でもある。


 この日本文化の我々に果たしてきた効果は途方もなく大きく、それが日本の文化が穏やかで未来永劫に栄える基本の柱となってきた。それを占領した外国に命令されたからとて、いとも簡単に捨て去って、目先のこと、自分だけのことのみを重視するように全ての組織を整備させ、六十年以上にわたって維持してきたのがわが日本の現代史である。


 今の政治や経済の行き詰まりもそこから生じているし、その影響は政治の分野にとどまらず、日本人の心を蝕み続けている。それは幅広く、社会全般を蝕み続けている我国の元凶である。


 困っている人がいればお互いに親切に助け合い、将来の不安は今に生きる我々の不安と同様にその種を摘み、未来のために準備する。そんな社会を理想として国民が生き、それを政治が応援をしていく。そうならなければ不安の種は尽きないものだ。


 こんなことをここで長々と書きつづっているわけにはいかない。だが、そんな日本文化を大切に守り育て、復活強化していくものを国政には大勢送りこみたいものだ。


 今回の総選挙は続いての選挙法改正後の次の選挙に続くべきものだ。一度で社会が大きく変わるものではない。だが、そんな正常化の転換点になるのならと、私は若干の期待をかけている。