葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

なぜ民主党などはミサイル事件に関して意見を語らない

2009年03月27日 22時27分02秒 | 私の「時事評論」
 北朝鮮が四月にミサイルを日本の上空を越えて発射すると発表して大きな関心を集めています。人工衛星の発射だと言っていますが、その時期に関し、またこれにかかわるコメントに関して明らかに日本などへの脅威を与えようとしていることははっきりしています。
 だが、それに関して、政府はそれなりに当事者だから責任逃れもできないと対応をしているのでしょうが、民主党はじめ野党各党が自党の立場もコメントも示していないのはどうしたわけなのでしょう。
 総選挙が近いというので、国民に対して、一つでも多く、重要な問題に関しては自党の立場をはっきり示して、国民に選択のチャンスを提供するのが義務のはずです。それもなくして票がほしいでは、それこそ小沢さんの言う議会制民主主義にはなりません。それとも、自らが腹の底を何にも示さないで、政権を取ったらそのあとでおいおいと自党の本音を出していこうとしているのでしょうか。気になるところです。小沢さんのお金のことはもうわかっていますが、民主党の国の独立に対する姿勢は闇の中です。
 ソマリア沖の海賊対策の自衛艦派遣で、憲法があるから行くべきでないと野党が騒ぐので(与党の大半もそのようでしたが)出かけてはみたものの、軍艦が武装はしていながら海賊に乗っ取られるなどという、前代未聞の珍事が起こるのではないかと心配していましたが、及ばずながらこの騒動に対応できたと思ったらこの事件です。
 過剰防衛は確かに問題があるかもしれない。だが、秩序を無視した野獣のような相手に、説得しか方法ないなんて言っていて、食い殺されたら世界のわらいものですよ。誰もほめてはくれません。
 

不況に加えこの行き詰り

2009年03月23日 21時43分16秒 | 私の「時事評論」
 散歩の途中の鎮守さま。山の中腹にある拝殿の前には街並みが開け、その先に広い海がのぞまれる。式内社という古社に神職は常駐していないが、境内は整備され、昔ながらの信仰の篤さが偲ばれる。神域には樹叢に包まれ清浄の気が漂う休日の朝。ポツポツと訪れる参拝者。著名な武将の産湯の水とされる井戸の傍ら、手水舎脇のベンチには年配のご婦人が熱心に雑談の様子。
          ○
 風景は五十年、あるいは何百年前と変わらなく見えるが、ご婦人の話題から、現世であることが分かる。近所の奥さんは足が弱り、お子さんが別居しているので介護の方が来ない時は籠りきりで部屋を這って動いている。その隣の老夫婦はついに夫が認知症で徘徊騒ぎになった。あの家の奥さんが寝たきりになり、夫が世話のため仕事を辞めた。あの九十過ぎの婆さんは身体の不自由な妹に専ら世話になり。どこの家庭にも子供はいるのだが、独立せず、親を食い物にする子供以外は寄り付かない。
 話題は何ともすさまじい。幸い息子や娘が近くに住んでいて、孫がいつも楽しみに遊びに来る我が家、この神社の祭りにも、孫共が子供神輿を担ぐのを楽しみに集まって賑わっている。だがいつあのような孤独な老人暮らしが襲ってくるやもしれぬ気がしてくる。
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 戦後の暮らしで急激に変わったのは我が国の生活環境であった。親子に孫を加えて三世代が共に暮らすのが、個人を殺す悪いことのように教えられ、子供と親は離れて暮らすのが新しい生き方と宣伝されてきた。家族制度こそが日本の後進性の象徴だと宣伝され、親孝行も封建思想だと否定された。核家族が礼賛されて、大家族で一緒に暮らす家庭が激減した。
 こんな現象は巣箱のような零細住宅を乱造させ、地域社会を破壊した。人々から子供と共に隠居して暮らす夢を奪い、これからは老いたら年金と貯金で生きる習慣で生きるべきだと教育された。話は飛躍するようだが、そんな絵に描いた餅みたいな社会に変えようとし、成功しなかった国の戦後教育指導の失敗が、今の時代に大きくのしかかっている。不況とともに伝えられる社会保障の行き詰まりも、不景気によるおびただしい住宅の売れ残りも、老後の不安の増加も、こんな国の戦後の指導方針と無縁ではないのだ。
           ○
 そんな中に起こっているのが現在の苦しい環境だと知らねばならぬ。循環的な不況の波の処理だけでも深刻なのに、今の社会はその上に構造的な難問を抱えている。景気後退を乗り切る当面の景気対策は大切だ。だがそれと共に、日本の戦後歩んだミスを反省し、明日を展望し直す作業が不可欠と思うのだがどうだろうか。
 国も社会も家庭も血迷ってしまった戦後の時代、それは日本の築き上げてきた個性の乱暴な破壊そのものであった。再び物を作るのは、壊すのとは比較にならない努力が必要だ。一度破壊された生き方をもう一度作り直すのには骨が折れる。
 だが、それを本気で考えなければならない時が目前に迫っているのではないだろうか。

春の彼岸の活況を見て

2009年03月21日 19時05分14秒 | 私の「時事評論」
春彼岸に思うこと
 三月彼岸の三連休、ここ鎌倉でも大変な人でした。不況に突入したといっても、まだまだ庶民の深刻さは、経済界のデータと比較すると、手ぬるいものがある。しかしさすがに従来のように、将来のことをまったく考えずに贅沢三昧の豪遊をするというのも気が引ける。そこで東京から一時間程度で行かれる観光地が格好の場所として注目されるのでしょう。因みに都内から鎌倉までの交通費は片道890円、往復していくつかの寺宮を拝観するだけなら一人3000円程度で済みます。もうちょっと経ち、桜をはじめ春の花がいっせいに咲き競う時候になれば、平日でも市内は行楽客で一杯になるでしょう。ただし、多くの人は集まるが、財布の紐は固いよというのが地元の商店街の人の共通の声でした。
 
 鎌倉など東京近郊の観光地の人出が他に比べて急に多くなってきたというのは近年の傾向です。中でも昨日今日は、車も渋滞で身動きできず、人は歩道からあふれ出すような盛況です。特にこの時期は春彼岸の時期で、鎌倉周辺は最近急速に増えた集団公園墓地や従来の寺院墓地などが大盛況なので大にぎわいです。お彼岸やお盆休日の翌日などは一面の墓地がお供えの花で花盛りの大賑わいです。

 一方の南側が海で、三方が山に囲まれた鎌倉は、その山地が昔から寺の部分でした。加えて最近、住宅が法によって建てられないので大規模な墓地開発が進められました。おかげでこの時期は、車で鎌倉に入ろうとすると、必ずその前に墓参渋滞に巻き込まれます。

 日本人の意識から、古いもの、伝統的なものを大切にする気風が衰えたといわれる中で、この風景に接すると、私はあまり混雑は好きではないのですが、少しホッとした気分になります。
 春のお彼岸は、昔から先祖の靈に感謝し、これから一年間の作物の豊かな稔りを祈願する大切な日でした。彼岸や盆は仏教伝来とともに伝わってきた仏教的風習のように一般では思われていますが、事実は、仏教伝来とともに、仏教の行事に日本にあったものを積極的に取り入れたもので、日本にはそのはるかに以前から、生活の中から自然に生み出されて、大切にされてきた独特の行事です。日本中には、どう見ても仏教以前からの生活密着の行事だといわなければならないような風習が、いまでもたくさん残っています。今のお彼岸の墓参りは、時代が変わったので、農耕信仰から独り立ちして、なにやらレジャーをかねた家族ピクニックのような雰囲気になってしまっていますが、それでもそこには明らかに自分たちの父や母、祖父祖母などの先祖に対する敬意が、まだ、私たちから消えていないことを証明しています。だから墓参りに行くのでしょう。この背後には確実に日本人のDNA的なパターンがあります。

 最近の日々のニュースを眺めていると、日本人はいったい、これからどうなっていくのかと心配になってくる世情です。親殺し、子殺し。暗い家族内のいがみ合いの結末の悲劇的な事件がニュースを埋め、あちらにもこちらにも家庭崩壊の事例が頻発して、人々の心の中には、自分を生んでくれた恩だとか、育ててくれた感謝の心などは何十年前に消えてしまったような雰囲気です。みんなが誰の世話にもなっていない、勝手に生きればいいんだという思いで生きることが当たり前とされ、野獣のような暮らしをしています。いやいや、そういう言い方は野獣に対して失礼でしょう。野獣たちは、自らの種族を守るために、群れを作って庇いあって生きている。だが今の日本の人たちには野獣本能もなくなってきつつあるようです。
 
 人間とほかの哺乳動物を比べてみると、力に於ても運動神経においても、自然に対する抵抗力においても、決して優秀であるとはいえません。それなのにどうして人間は他の動物よりも大きな勢力になり、現代生活の主役になることができたのか。道具を使うことを覚えたとか、言葉を話して連絡を取り合うことができたとかいろんなことが言われています。だが初歩的な道具はサルやゴリラだって使うし、言葉は大概の動物は鳴き声でそれなりに知らせあっています。確かにこれらも大切な要因だが、もっとも大きな力となったのは、人間以外の動物は、知識や経験を積み重ね、累積的に蓄積することができたからだと思います。家族という集団が祖先が習得したことを教えられ懸命に覚えて、蓄積してその上に次の世代が生きられるようにと伝えてきました。またそんな人たちが共同して作った社会でも、一人ではなくみんなが協力したり、さまざまなノウハウや知識を集積し、子孫は先祖の功績と苦労を乗り越えた上に、何世代もの積み重ねにより、新しい文明を積み重ねてきました。これが人間とその他の動物との大きな差を作ることになりました。
 その知識の集積、技術の積み上げ、何千年の継続的な積み重ねが人間の文明を他の動物より発展させたのだと思います。

 それだとしたら、そんな発展の母体になった最も基礎的な単位である家庭。先祖から子、孫、ひ孫へとつながる時間的なたての帯を大切にし、また共同生活を可能にしてきた社会との横のつながりを大切にする、それにもっと心がけなければならないのではないでしょうか。

 教育は愚かしいインテリと称する空論ばかりを言うものが支配する中にあって、完全に歪んでしまっている日本ですが、先祖を大切に思う気風がまだ人々の間に消し去られずに残っているうちに、みんなが勝手ばかりを求めずに、社会を大切にする心を養わなければ、とんでもないことになる。「サルにも劣る」といわれることは、人間にとって最大の侮辱だと思われているようですが、すでに多くの面で実際にサルにも劣ってしまっている日本人。頑張らなくてはいけませんね。
 いつも考えていることなのですが。

 

信用も守らない新聞

2009年03月11日 20時47分13秒 | 私の「時事評論」
 漆間官房副長官が記者たちと会って、オフレコの条件で話したことが、恣意的に歪曲されて朝日新聞に抜かれた。しかも、それは漆間副長官の話したことを誇張して拡大し、言いもしないことを言ったように書いた報道で、しかもその記者はこれを問題と食い下がったなどとありもしないことまでが書き加えられたものだったという。
 話の内容は西松建設の小沢民主党党首秘書逮捕事件の捜査が、自民党にも及ぶのかどうかということについて。漆間氏は一議員として、おそらく及ばないのではないかと一議員の立場だと断って語ったのが、それをまるで及ばないと元警察庁長官である彼が、職務上連携して知りえた秘密情報ででもあっるかのように報じ、これは民主党や小沢氏が言っているように、政府と警察とが通じ合っている証拠ではないかと取り上げられて大騒ぎになる騒ぎとなった。
 事態の詳細は産経新聞などにかなり詳しくも報じられているので、ここで現場にいたわけでもない私がこれ以上深くは触れない。だが、こともあろうにオフレコ発言で、しかも慎重に話したのを題材にして、しかもほかの記者からも内容は全く違ったと否定されるような報道が、また朝日新聞だというのだからあきれてしまう。あの新聞社はとうとう、人の心を持つ常識人、約束を大切にするものもいない所になってしまったのだろうか。
 オフレコをすっぱ抜くような不誠実な反社会行動をとる記者が自分のところにいたのなら、社会的責任を大切にする新聞社なら、書いた記者、それを扱ったデスク、報道責任者などには厳しい処分をしたうえで、堂々と国民にわびを入れ、二度とこの種の汚いことをしない新聞社に更生することを全国に誓うべきところである。
 それにこの種のオフレコを巡る最近の不誠実な記者が問題になることもあり、わざわざ先月には新聞協会がお詫び自粛の共同声明まで出した直後のことなのだ。
 だが、今までこの種の行為は何度も犯し、それにはばれても頬かむりを続けることが社の伝統になってしまっている朝日新聞のこと、今回もまた、あいまいにこそこそ逃げる姿勢に終始するのだろう。
 新聞とは、彼らが伝えるニュースとはいったい何なんだろう、こんな事件をたびたび眺めていると考えてしまう。新聞とはわざわざ国民からお金まで取って、誤った情報を流し、社会を混乱させて誤解のうちに暴走させる社会の公器ならぬ凶器なのだろうか。

選挙対策でいいではないか

2009年03月09日 21時34分45秒 | 私の「時事評論」
 国会では注目の定額給付金が通過して以来、また役にも立たない論議に明け暮れている。給付金は内閣が発表をして以来、マスコミと野党が揃って選挙目当てのばらまき行政で、国民だって7割は反対していると口をきわめて反対したものだったがようやく成立した。
 私はこの半年の行政の中で、国会が決めた唯一のプラスの政策であったと評価する立場である。現に給付が決まって以来、国民はおおむねこれを喜んで、「これで一時だけでも助かる」と満面の笑みでこれを受け取っている。それほど深刻ではない人も、不景気に顔をしかめる日常生活の中にあって、この時だけは明るい顔をしている。それを見ていて思うのだが、マスコミの報ずる「国民だって大反対だ」といった国民はどこに行ってしまったのだろう。
 今の国会をめぐる情勢や、これを報ずるマスコミの姿勢、これには大きな一つの共通した欠点がある。それは国民がいま、当面させられている危機や恐怖の実態を、全く実感してともに見ていないということだ。どうしてこんなにずれるのか。これはマスコミに従事する連中も、それを指導するインテリも、国政を論ずる議員たちも、行政の指導管理をする役人たちも、一般の国民とは違って、ちゃんとたっぷり給料がもらえるし、失業の危機はない。保障などはどこにもない一般国民と恐怖や危機を共有できない立場にいるということなのだろう。そうでなければこれほど国政審議の場が、国民生活から浮き上がってしまう事態は考えられないことではないか。
 国民は予想される経済危機に早くも振り回され、職を失ったり食べられなくなったりして喘いでいる。世界的な不況に加えて、わが国特有のいままでの無計画な行政の積み重ねたひずみまでが時を合わせて表面化して、二重のパンチで苦しんでいる。これが日本なのだ。国民に一人でも悩む者がいれば、それをおのが不徳と神々に祈ってこられた天皇の存在に支えられてきた同じ国なのだと思うとため息が出る。事態は、昭和の不況と大戦前の状況にどんどん似通ってきた。放置していたら二の舞だろう。
 そこで、国民の苦しみなどはどこ吹く風、たがいに上げ足取りの引っ張り合い、自閉症的な論議ばかりを繰り返している国会に皆で要望しよう。選挙対策であっても何でも構わないから、国民の喜びそうな政策を知恵を絞って出してくれ。互いに、それをわが党の成果だと競い合うような競争をしてほしい。西松建設の及ぼす波紋など、いくら格好をつけあって見ても、国民はもう、どうせどっちの党も議員たちも、大半はそんなことばかりしているのだろうと思っている。だが国民は、誰も便利な西松建設を持っていないのだ。お金の入る道がない。
 でも、政府や官僚の政策予測が間違ったので、社会保障までがおかしくなった。それだけではない。明日から医療が受けられなくなるかもしれない、失業で明日からは食べるものもない、住むところもない、働く仕事もない。こんな生活したいが、それを維持する道がないと苦しんでいる国民に、○○党ならば無理をしてでもこのサービスだけはすぐに始めるというカタログを示してほしい。
 それを眺めて総選挙に臨もうではないか。どこかのインテリが言っていた。
「ばらまき行政では国家財政が破綻してインフレになる。選挙目当ての公約なんかにつられるな」
だって。
 何言ってるんだ。国家財政なんて、もう充分に赤字じゃないか。それにインフレが進めば、真っ先に困るのは金持ちだ。持っていた金がどんどん減るからだ。まともな給料稼いでいたものも、相対的に収入が減る。だが、金のないものはあまり困らない。それに円高は、どんどん物価が上がれば、円を買うものがいなくなる。解消せざるを得なくなるではないか。
 選挙だって、本来選挙で選ばれたものの政治とは、いつも選挙目当てにしなければいけないものだ。国民のために政治をしようとしないで、変に格好つけるから西松建設みたいなもののために政治をする結果になる。日常の政治、それが選挙対策であって何が悪い。

小沢さんの秘書が捕まった

2009年03月03日 21時31分59秒 | 私の「時事評論」
 民主党の小沢党首の公設秘書が逮捕された。このところ話題になっているあの西松建設の使途不明の脱税額の捜査のあおりで、多額の資金が彼のところに違法に流れていたという疑いによるという。ありそうな話だと思う。かねてより小沢氏の政治資金に関しては不透明なところが多々感ぜられていたが、マスコミもこの問題にはなぜか触れようとせず、不審な念を残しながらも放置されていたからだ。
 今のマスコミはニュースをまんべんなく伝えること、これは報道にとって大切なことだと思うのだが、そんなことはもう放り投げて、ただセンセーションに自分らの取り上げたい問題のみを報道し、結果として、国民を世論指導するような体質が濃厚にあるからだ。伝えられない国民に知らせなければならないことは多く、無視したり見過ごしてはならないことが、つまらない大きな見出しの記事の陰で消えていく。往年の朝日新聞、ここは小さく扱ってでも、ニュースの連続性には配慮をしているので、その報道の角度には種々の意見があったがそれなりに評価をされていた。それが大人の新聞だと評価されてきて、新聞全体にもそんな気風があったのだが、いまは朝日にもそんな報道者としての良識は感ぜられない。

 折から参議院の委員会では政府の出した予算案が否決された。ニュースは、さてこれから予算案が再び衆議院に回されてはたして三分の二を確保できるかどうかの問題のみに向けられているようだけれど、私は参議院がばらまきの給付金を除くほかの予算はすべて承認し、これを除いた予算案はわざわざ可決したことに注目している。
 今回の予算80兆円は、わずかな給付金を除いて、ほとんど審議らしい審議もしないで、政府の出したものを審議もそこそこにすんなり通してしまったからだ。

 これは何を意味するのだろう。私は自民党にも民主党にも争うべき政策の違いなどはほとんどなく、ただ役人の作ったものを深く審議もせずに通してしまう共通の体質があると思うからである。給付金の問題は確かに麻生内閣の目玉として出されたが、マスコミが揃って総選挙目当てのばらまきにすぎないと批判し、与党の中にも賛否があった。それはただ、麻生首相を選ぶか他の首相を選ぶかという個人的な人気投票にすり替えられてしまっている。


 今の国会は、以前のそれと違って、中身を吟味して、審議によって内容を厳しく見るということをしなくなった。この傾向が極端になってきたのは小泉内閣の時代からだと思うが、それによって、郵政民営化や今回の給付金などのように、一部のことには皆が注目するが、その他のことは、国会議員自身が何を可決したかわからないうちに、国政にかかわる様々なことが、官僚の作ったそのままの形で、安易に通ってしまう傾向も持っている。高齢者医療の制度、これに関わる健康保険制度、裁判員制度、男女雇用均等法など、後になって、なんでこんなものを安易に通してしまったんだと国民が騒いでも、すでに審議も満足にされずに通ってしまったものが実に多い。そして長い審議はただ、審議拒否や、政治とは直接つながりの薄い言いあいなどで終始する。

 これは、国会という場が、ただだれが首相になりどの党が与党になるかという人気投票に堕してしまい、政治そのものはどの党が与党になっても官僚が実質的には握り、左右していくということを、政治家自身が認めてしまっていることを証明しているのではないだろうか。

 そんな中で、その今の議員さんにとっては国民生活よりも政治よりも大切な、どの党が与党になるかという「人気投票」に大きく響く事件が起きた。そんな視角で眺めていきたい。