葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

日本の円が攻撃されることはないのか

2012年01月30日 15時52分47秒 | 私の「時事評論」
 

 気になる円相場の崩壊

 ユーロが通貨ギリシャやイタリヤの国債の支払い不能危機が投機家たちの攻撃材料にされ、国際通貨市場でユーロ価格が相次いで暴落する騒ぎがあった。この影響で、今まで極端な円高に襲われ、円高対策に追われる日本経済はさらなる円高となり、政府や経済界は円高防止に必死である。

通常の常識では、経済が停滞し苦しくなれば、その国の通貨は下落(円安)して、国内はインフレになるのが常識に見える。日本はいままで、工業製品や商品などの加工技術力や細かい配慮などで、諸外国への輸出を伸ばし、それで少ない資源の国でありながらも経済を維持する方針でやってきた。しかしアジア諸国の発展などで、日本よりはるかに賃金が安く、しかも技術力も日に日に向上する国が出て来て、企業は国内生産での経営が不能になって海外へ工場を逃避させ、さらに米国などから金融の「国際化」という圧力で、日本経済の堅実性の基礎でもあった経済の基礎となる独特の金融制度を破壊せれ、「暖簾」や「信用」を基にしていた企業なども外国企業が簡単に参加できるものに変更させられ、しかも相次ぐ国際的な円高への誘導圧力がかかり、近年は厳しい状況に追い込まれている。

 それによってもたらされたのが経済活動の沈滞である。国内企業は常に不況感の中で経営を続けているが、とくに厳しいのが国家財政だ。税収が企業の停滞でさっぱり上がらず、企業の工場の海外逃避で従業員は続々解雇される状況となってきた。

戦後の環境の急変で人口構成が極端に高齢型になり、しかも国内の企業が相次いで大資本との競争により活動を停止、地方の商店街なども見る影もなくさびれてしまった我が国は、核家族化による高齢者のみの所帯、失業問題、大都市とその他の地域の格差の増大、社会福祉費用や医療費の急増などで大幅な税金を必要とする。それらの費用は税金が上がらぬので国債などで穴埋めされ、膨大な国債を積み残すことになった。


 さらに追い打ちをかける負担

 こんな状態で日本が財政ピンチ状況に追い込まれて久しい。そのためにいずれ景気が良くなるまでは国債に頼らねばならぬということになり、日本はいままでに1000兆円の未償還国債を抱えることになっている。

  だがこれに、新たな負債が大量に加えられねばならなくなった。東日本大震災の復興、これに伴う原発の放射能漏れ事故のもたらした膨大な費用。今でも総予算の4割しか税金で補うことができない政府は、このマイナスを国債で補わなければならない。

  我が国の国債は、そのほとんどが年金基金と銀行預金によって補われている。それはいままでわが国がデフレの低金利時代にあったため、ほぼ年間1パーセントほどの金利で賄われてきた。それでもすでに国の払う金利は年間10兆円に達している。だが、今の円は不当に高く買われているといわれる。金融投機筋の目がユーロなど西欧に向いているため、注目されていない円の危機的内情に目が向けられていないからこれで済んでいる。もし、世界の投機筋が日本に目を向けて円が売られたり、そのため日本にインフレの兆候が来たらどうするのか。

  最近になって世界の為替投機筋の目が「円は果たして大丈夫か」という点に向けられる環境になってきた。外国為替のコンサルタントなどに、ギリシャ、イタリヤの目に向けられていた投機筋の売りたたきの目が、円に向かう可能性が高くなったと警告する声が高くなりつつある。

 円安に進めば物価が上がり、インフレ方向に景気が動き金利が上昇する。国債の売買価格は急落する。先のユーロ安で、ギリシャ国債は、利回り30パーセントでも買い手が現れないほどに売りたたかれ、イタリヤは7パーセントで買い手がようやくついた。ギリシャは例外にしても、もし日本の国債が同じように売られてイタリヤ並みの7パーセントまで買いたたかれたらどんなことになるか。まず国債を保有している年金機構や金融機関は手持ちの国債の簿価を7分の1に修正し、大雑把にいえば700兆円近い評価損を計上せねばならない。年金などはたちまち払えなくなる。政府は毎年、利息だけで70兆円もの利子負担をしなければ次の国債は発行できなくなる。国債の発行は事実上不可能になる。

  政府が国民に対して「日本は国債の引き受けが安定しているし、国民総貯蓄が1400兆円あるので、国債発行に関するリスクはない」と説明している。だが貯蓄は国民のもので政府のものではないし、これは将来の行政への不安で国民がため込んでいるもの、国債赤字は政府の負債だ。これは相補う関係にはない。政府の楽観説は現状を正しく説明していないまやかしであるのは明らかである。

  こんな危ない状態だから実情を踏まえて、IMFは日本に対して、野田政権の消費税増額は増加率が低すぎるとの見解を表明したのだ。日本の現在の消費税は5パーセント、これを8パーセントから10パーセントに段階的に引き上げ、赤字を国債に依存する危険な体質から逃れようとするのが政府の方針だ。だがこれでは日本の国債依存体質はほとんど変わらないし、日本が現状の5パーセントを、すぐに20パーセントにでもすれば、税収は現状でも合計70兆円になり、税収と歳出は現状程度の国債発行の収支でもパニックにならずに収まるだろうという計算だ。だが、今の景気の状況下で、消費税を20パーセントにして、果たして税収が4倍になるかどうかは別の問題だ。
  ただ、参考までに西欧の消費税水準を見ておこう。消費税は現在、ギリシャ23、イタリヤ20、アイルランド21、スペイン18、英国20、フランス19・6、ドイツ19パーセントの状況にある。

  通貨政策を見ていくのには、こんな国債と税金の間のバランスも頭に入れて論じたい。

註  国債の現状に関しては、週刊ダイアモンドに書かれたこの解説がわかりやすい。とにかく目を通してみて貰いたい。
  国債の現状に関しては、週刊ダイアモンドに書かれた「シリコンバレーで考える 日本の能天気さはギリシャに匹敵する  安藤成弥」の解説がわかりやすい。とにかく目を通してみて貰いたい。  
 
   「 http://diamond.jp/articles/-/15744?page=2 」



航路なき日本の未来 ②

2012年01月26日 16時59分41秒 | 私の「時事評論」
暴走してしまった日本の負債

前章で触れたように、今の日本は政治の環境は行き詰まり、もうこのままでの小手先細工で生き延びようとしても、国を動かす政治体制そのものが、使いすぎた古タイヤのような状況になってしまっている。一か所がパンクしたからといって修理しようとしても、一か所に手をつけると、そこここに穴があき、タイヤそのものが姿をとどめなくなる。

戦後の日本は、占領時代に米軍の後押しで力を得た連中が、日本が再び西欧諸国と肩を並べ、一味違う国として時代を切り開くことができぬようにと行った政治を、占領中に手に入れた地位を守り続けるため、独立回復後もそのまま継続させようとした連中を、押し倒すことのできなかったわれら日本の維新勢力の力不足の結果とも見ることができる。

力不足のために、戦後の時代の六十年、我々は、祖国に命を捧げた靖国神社の英霊を国が鄭重に扱う状態も回復できず、愛国心や共同社会の尊重を再び国民に思い出させることもできず、ひそかに天皇陛下の宮中の御まつりを減らそう、伝統の儀式の復活を阻止しよう、家族制度の復活の機運を阻止しよう、皇室の皇位継承制度や古い慣習を変更しようという動きにもさしたる反撃もできず、教科書や教育方針に祖国への愛情を示すことにも成果を上げずに、神々を嘆かせ、虚しく遠吠えを続けている。私自身も日本が敗戦から独立を回復した後の長い時代、こんな自国文化の個性はすべて否定し、外国模倣の、しかも上辺だけの薄っぺらな空想を追い、将来の日本を破壊させる動きのままでは、日本再生へ伸びていく機運は育たないだろうと思い、日本に再び独立国としてのプライドを持ち、先祖たちが苦しみながら生み出してきた個性を生かし、なんとか今の路線を修正させたいと動いては来たのだが、非力でそれが果たせず老人になった。まずはその我が過去を詫びねば話にもなるまい。
米国の行った占領政策は、彼らが戦争の始まる前から、緻密に練ったとされる「対日占領政策」に基づいていたが、その方針はいまでは米国自身もやり過ぎであったと思っているような状況にある。だが、その国際法も無視した違法な占領政策を押し付けられた日本の方が、いまだにこれにしがみついている。社会の急激な変貌に適応できなくなっても、その方針を転向することなど思いつきもせず、いまだに占領政策が日本の基本方針として若い世代への教育などの柱になっている。全く珍妙な状況である。


日本文化の再生を阻む動きに

行き詰った社会を再生させるには、これから起こる新しい事態に対応することができるように、制度そのものも断固改革をしなければならない。だが、今の我が国にはそれが望みにくい状況がある。戦後の時代の政治家や、彼らと組んできた連中は、真剣に我が国の進むべき道を考え、それを推し進めようとするような情念に燃えた男たちではなかった。だから政治の実権を持っていたとしても、時に合わせて政策を思い切って変え、将来のために打って出るような気概はない。加えて政治家の下にいる官僚たちは、どんな政府に代わっても、終身雇用で役人であり続け、政府の命令を実施すればよいと思っている。

 それだけではない。最近のように政治が信用を失ってコロコロ政権が代わるようになると、経験の無い素人政治家のいうことなどは軽く見て、自らの職務で集めた発想をまるで政府の方針であるようにみせかけて、政治そのものを官僚で横取りしようとする空気までが生まれている。
政治家の無力と甘えた官僚の跋扈、こんな傾向が顕著に出て、舵を失ったような我が国は、どうにもならない方向に流されていく。

こんな日本の政治に、ただ方向性を与えているのは戦後の教育制度である。我が国の教育は占領中に洗脳された当時の戦勝国が命令したように、得てがってで我儘にやりたいことをするのが究極の生き方だと教え、従来の我が国教育が力を入れてきた国や社会や家庭などで、協力することが大事だと教え、将来の国家が勢いよく発展するためには、チームを組んで大いに努力しろとか、立身出世しろ、親や先輩、年長者を大事にせよなどとは教えない。こんなわがまま勝手主義で育てられた連中が、どんどん社会に育っていく。

政府はいま、膨大な国債の累積赤字の下、打ちつづく円高による不況と税収不足、財政難の中に苦しんでいる。これも戦後政治の「先楽後憂」政策の躓きの結果だ。日本は先の大戦に敗れた時、支払い不能の膨大な赤字国債に苦しみぬいた。日本は二度とこのような赤字国債は出さないことにしようと、厳しい規制を設けて戦後の経済生活をスタートさせたはずだった。

だが戦後の日本には改革の理想もけじめも無かった。政治家は占領時代の継続のままで新しい目標を定めることもせず、今までの政策をつぎはぎだらけにして、古くなっても使い続ける以外に手を打たなかった。それでも戦争で破綻した日本は、戦争で壊された破壊の中からの回復までは、なんとか進むことができた。だが、日本の急速な破壊からの復興に成功し、経済的には世界の最高水準にまで達した。それからは独立国としての新しい設計図が必要なのだ。だが、戦後の社会で教育でも、世界のほかの国々のように、自国の文化を自力で支え、自分らの育んできたものに誇りを持ち、犠牲を払ってでも個性ある文化を守るのだという気概を全く持たない国にさせられていた。

「日本人は勤勉で努力して、すぐれた力を持つ民族なのだ。その力でもって、日本は戦後の壊滅の時代から立ち直った」などと政府は胸を張って宣伝をした。だが、今の日本人のレベルは世界で決して高くない。戦後の回復を成し遂げ得たのは、新しい教育の効果ではなく、勤勉でまじめで組織力もあり勉強も熱心な、それまでの戦前の名残を持った日本の若者たちだった。日本を大きく発展させようとしてきた我が国の従来の教育を受けた者、そんな気風が残っている社会の育った若者が、まだ多数国民に存在していたからだ。

それらをまるで否定して、得て勝手、自分本位、本能的欲望にのみ忠実に生きるのが生き方だと毎日教えられ、立身出世を時代遅れとののしられ、加えて日本文化の持つ心や理想も教えられず、もう国民は、従来のように勤勉で立身出世のために先憂後楽、コツコツと石段を登る従来の日本人ではなかった。こんな中ではだんだん日本は国力を失う。それは政府が自ら行った教育の成果であった。


偶然に回復することができた戦後の日本

戦後の我が国の潮流は、私には卑屈な上に、上辺だけの西欧追従に終始した時代に見えた。上面だけで底の浅い西欧礼賛の気風に満ちた日本。私自身は日本主義だから感覚的に受け付けないが、西欧文化の模倣追随だってその底にはその文化を生み出してきた洞察や信仰、それに裏打ちされた価値観、哲学や宗教などの果たしているものを学ばねばならぬ。だがそれさえも正しく身につけることなく、無思想無信仰で経済利益のみを追い求めてきた日本は、米ソ対立のあらしの最前線の「風も吹かない台風の目」のような地理的条件に助けられて、朝鮮動乱の軍需景気で浮き上がり、米国のアジア戦略の最前線の衛星国として、奇妙に利益を上げてきた。

そんな日本がはじめて危機を経験したのは、長らく米国のドルの傘の下に入って、ブレトン・ウッズ協定で1ドル=360円の固定ルートに保護されていたのが外れた時からだった。1960年のベトナム戦争への出費でドルがインフレに見舞われ、ニクソンショックで1ドルが308円となり、1973年には250円を越し、イラン革命の進行で90年には160円、関西大震災のあとは120円、リーマンショックで80円台、そしていまでは70円台になってしまっている。米国経済から、今後はライバルであると見られた時から、日本は立てるべき独立した政策を持たなかった。日米経済交渉はじめ様々な交渉で、円は常に厳しい環境にさらされた。だが日本の体質は、政治的には安保条約などで、いまでもがっちり米国傘下にくみいれられている。

しかも日本はあれほど西欧に追随の姿勢をとり続けているのに、外交能力では西欧の巧みな駆け引きについていけない。しかも、西欧陣営についていく以外に、独自の政策を考えつけない体質にある。輸出で生きようとした日本は、御蔭で必要以上に円は高く位置づけられ、日本の景気はこれにより頭打ち、税収の低下が膨大な国債を生みだし、身動きならない状態にさせられている。

行き詰ってしまった現在の政治機構の力では、もうお伽噺に出てくるうち振ればいくらでもお金が出てくる「打ち出の小槌」でも持ってこなければ、今の国政では、この難局を打開できないのではないだろうか。

戦後六十五年、走り続けてきた日本は、制度がだいたい日本を弱くしようと採用させられた占領政治を後生大事に継続してきたがために、そして自らが歩んでいる路線で、果たしてこれからの国の発展が期待できるかという慎重な模索も無かったために、制度を整備しなおすことを怠って、つぎはぎ細工を繰り返しながらそれをいままで続けてきた。

この日本の政治・経済・社会体質を見直す以外に、将来の発展は期待しがたいのではあるまいか。日本の国が、我々の住む社会がどんなものになっていくのか、そして我々はそれを眺めてこれからどんな対応をしていけばよいのか。真剣に考えなければならないときである。


ドイツにおけるファッショの台頭

一般的に、歴史の史実からこんな状況になった国が、どんな道筋をたどるかを十九世紀以降の歴史で探すと、最も起こりうる可能性のある状況はファッショの時代か革命の時代、あるいはヒステリックな独裁政治を選択する時期が来るということなのだろう。もたもたして不毛の論議に明け暮れる国会の状況はまさにレーニンの指摘したような国民を欺くための「お喋り小屋」にすぎなくなっている。官僚政治は陥りやすい悪いところをさらけ出している。国会は国民が投票を通じて自分らの政治主張を政治に反映する唯一の制度ということになっている。だが一体どこに国民の政治の意思が示されたのだろう。

卑近な例が第一次世界大戦に敗北したのちのドイツである。1914年からの第一次大戦で、世界を相手に戦ったドイツ帝国は、世界の諸国を相手にし、緒戦は有利な戦局で展開していたが、最終的には世界中を敵に回すという形となって敗戦した。第一次世界大戦は世界を巻き込んだ巨大な消耗戦で、これにより、中世から西欧に続いてきたドイツ、ハンガリー、オスマン、ロシアなどの国々の王制が倒れ、ロシアに共産革命が起こって世界で初めての社会主義国家が生まれ、さらに戦争の破壊された秩序の中から、ファッシズムが台頭した激動の時期であったが、その戦後ドイツの例は、日本の戦後の条件と酷似した面を多分に持っていた。

戦争に敗れたドイツでは、この戦いを名実ともに指導してきた王制が倒れ、ドイツはワイマール憲法という戦後の日本憲法の手本になったとされる憲法の下で共和政治、議会制民主主義の国として再出発をした。憲法は民主主義・自由主義の立場に立ち、国民の権利を最大限に認め、絵に描いた理想を条文にしたためたようなものだったが、国土は戦争により壊滅的に破壊され、戦争の結果多額の賠償を負わされた国内は、決して理想した極楽のような状態にはならず、政治情勢は混乱し、経済の貧窮は国民を苦しめ、政治の腐敗はとどまるところを知らなかった。

そんな中、憲法の言論・政治の自由を利用して国民の不満を巧みに利用し、国民の熱狂的な支持の下に強いドイツ、正義の国ドイツ、ドイツ民族の誇りを訴えて政権をとったのがナチス・ドイツのヒットラーであった。名門の出でもなく、特別の力を持っていたわけでもなく、当初は選挙でも泡沫候補にすぎなかったヒットラーだが、国内で国民は苦しんでいるのに、利権をむさぼってぜいたくな暮らしをしているものを捕まえて縛り上げて公衆の面前で糞尿を振りかけるなど、決してほめた方法ではなかったが、その狂気のような行動力が国民の不満に歓迎され、徐々に人気が出てくると、当時国内で財貨や実権を持っていたユダヤ民族の浄化、ドイツ民族こそ選ばれた優秀な民族だと、映像や音楽その他の武器を巧みに利用して支持を集め、たちまち独裁権力を握ってしまった。

その後のヒットラーのドイツがどのようなコースを歩んだかは世界史を見る人には周知の事実だが、このファッシズムこそ、ワイマール憲法の落し子であった。

日本でも戦後、形だけはよく似た形で戦争に敗れ、国土は破壊されて占領軍にワイマール憲法のような新憲法が米占領軍によって押し付けられた(ただ憲法において天皇制だけは国民が圧倒的な支持をしていたので、それまで廃止させると逆に占領政策が躓くと、米国は天皇を象徴という地位にとどまらせ、その力も利用することに決めた)。そして日本民族の過去の努力を悪しざまに扱う占領政権の歪んだ教育宣伝が徹底的に実施された。そして独立後の日本は、この政策から解放されず、新憲法の体制下で、日本独自のものを見出し得ないような状況が続いている。

 そんな中、政治は占領中からの継続である自民党や、同じ新憲法体制化の社会党やその他の党派によって維持されている。

 そんな中で、いままでも全共闘や極左暴力集団などの手により、その後はオウム真理教などにより、ヒットラーが政権をとった時のような国民を動揺させて天下をねらう試みが繰り返されてきている。幸いにして日本の過激派たちは、ヒットラーのようにチャンスを巧みにつかむ力が無かった。それに日本は天皇制度の下に、穏やかな平和を求める気風にあふれた国である。それが戦後の時代はよく似ているが、過激な思想に一気に汚染される危機を避けてきたのかもしれない。だが、現状を眺めると、安心ばかりはしていられないような気になってくる。


制度を見直さなければならないのでは

大震災が起こって、その影響で壊滅的な被害に苦しむ東北地域、その影響を受けて沈滞の底に沈んだ日本の活気。根本的な日本の政治や経済の新しい時代に向けた制度の見直しができず、官僚主導のつぎはぎだらけの延命のみが目標ともいえる対応の連続でついに行き詰まり、コロコロ日替わりランチのメニューのように首相を代えて、倒れてしまった自民党主導の日本の政治。それを受けて、我らこそ、日本を抜本的に変えると宣言して異常とも言える選挙の得票を集めて躍り出た民主党政治。今の日本では政治がもう、信頼できない状況にある。

関東大震災の時を振り返ってみる。首都圏は異常な事態に見舞われた。震災の救済に先ず率先して活躍されたのは、当時大正天皇の摂政の地位におられた昭和天皇だった。昭和天皇は即座に動かれ、被災者を激励して回られた。また、その時政治は山本首相の下に新内閣の組閣中であった。前回述べたように、閣僚たちはこの厳しい時に、即刻対応して難局を切り抜けた。それは教科書を丸覚えし、前例踏襲をすることしかできない今の政治家や役人のまねのできない仕事ぶりであった。金もなく途方に暮れるものが増えれば世上の混乱はどうなるか。思い切った手段が次々に打たれた。次々に打ち出された緊急策、これがデマに揺れ、騒動に発展する被災地を最小限の騒動で食いとまた。内相や東京市長をした後藤新平はどう出たか。震災後十カ月が近づくのに、いまだに援助策が地につかず、庶民が拠出した救援資金までも生かされずに中に迷った今回の場合と比較してほしい。これが政治というものである。

奇妙な具合に円高が続いている。それも元をたどれば世界の国がそろって不景気になり、世界の通貨が下がっているからなのだ。円の力があるわけではない。日本だって、この国の財政は危ないといわれてたたき売られたギリシャやイタリアと比べて、信頼できる状態ではない。政府は、円高対策とともに、国際相場の投機市場の見方が代わって、急激な円安に急変する、そんな時のことも充分考えて進まなければならない。いまの日本のかじ取りは一つの事態を単純に追いかければよいという時代にはいない。座標軸は一つだけでは済まない時代になっているのだ。

そんな努力をやりながら、私は日本が、六十年も遅れてしまった独立国として生きていくための見直しを、遅ればせながら始めるべきだと思っている。それは性急に憲法改正の運動をまずやらなければならないというのではない。ある意味では既存の体制を手直しし続けながら基本的な変更に至るのも手だとも思う。幸いなことに、戦後六十年以上たった今でも、憲法などよりはるかに国民行動の基本になる、日本人的行動様式は憲法などにぶつかりあいながら生きて国民常識として生きている。それを基に日本の在り方を見直す目を養うこと、これなどは政治の欠陥を補う大きな方法になると思う。

終り


 
 

航路な気日本の未来 ①

2012年01月24日 16時50分19秒 | 私の「時事評論」
  どうなっているのだ「日本の政治」

 新聞やテレビには毎日のように政治や経済、社会などのニュースが流れる。

 昨今は野田内閣の改造人事が、これからの日本の政局にどのような影響を与えるかが主な話題のようだ。
 今回の内閣改造は、国会の運営機能が行き詰まり、身動きならなくなった内閣が、情勢打開のために行った苦し紛れの妥協劇だ。国民は一刻も早く、政府が主導して「政治」や「行政」を日常的な機能マヒから救い、進退不随の我が国が、僅かでも目先の状況立て直しに力を果たしてくれるのをイライラしながら待っている。だが国会は脳梗塞状態で、国会議員はそろって個人的な政党や派閥の争いのみに集中し、国民のことを本気で考える気配は見えない。
 「挙党一致」などという言葉が聞かれるが、言葉を正直に額面通りに聞いてはいけない。本音はどの党も次の選挙での議席の保全などに気を奪われて国の将来どころではなく、口先だけだと読まねばならない。政治が何もできないのは、赤字で金が無いからばかりではない。政治の方式そのものがもう時代遅れになってしまったので、動く力がもうないのだ。何とかしてくれなければ総倒になるという国民の切迫した気持、政治が国民から離れているとの強い不満を察して、行き詰った国会審議を前にして、自らのことはさて置いて、国民のため国のため、意欲的に動く気配が見られないのが今の環境だ。考えても見ればよい。議員定数の削減や議員の経費の圧縮、官僚の人件費抑制などは膨大な資金を生み出す。これが金が無ければできないことか。

 政府も口先ばかりの「国民のため」という言葉を虚しく発するのみ。そういえば最近は、「国民の皆さん」という政治家の意味不明の発言が、必ず顔を出すようになった。内閣の下にある行政機関は、動きたいが書類が整わないとか、自分らが存分に動くには条件が満たされていないとかの責任逃ればかりは並べるが、時間を空費する実りの無い小田原評定を繰り返し、税金から人件費だけは使っているが、行政には何の効果も生み出さない。

 国民は荒海に放り出されておぼれそうな危機にさらされている。だが国会議員も政府も役人も、「お前がだめだから国民は死ぬではないか」とお互いにののしり合って動かない。


  不景気のさなかに災害が起こって

 震災の被災地を訪ねるがよい。津波が襲ったあと、原発が壊れた周辺、一年近くが過ぎたというのに、いまだに膨大な瓦礫山積の見渡す限りの空地や人のいないゴーストタウンが広がり、どう復興すればよいのか見当すらもついていない。被災者は仕事も将来のあてもなく、避難小屋のような仮設住宅で寒さに震え、あるいは故郷から避難させられて暮らしている。日本を襲った円高は天井知らずに進み、国際投機の対象にさせられて、御蔭で仕事はないし蓄えもなくなった。

 日本は産業の空洞化してしまった。国民人口構成の極端な高齢化と少子化のため、今後ももうこのままでは好転しないのではないかと憂えられている。明日へ希望を持って展望することができない。震災や不況による失業や生活保護所帯より収入の低いパートタイマーの急増。戦後我が国の社会制度、教育制度の影響を受けて、日本人の国際的な能力レベルは急速に低下している。この混乱した窮状から脱出するには、人々がこの地で再生のために精魂込めて働く環境の整備、掲げられる明るい未来の設計こそが何よりの急務だ。

 だが雇用の確保、景気の回復という内容の無いスローガンは連発されるが、それには目の前の惨状に、どこからどう取り組めばよいかという施政方針はない。時間ばかりがむなしく過ぎて、国民不安は急速に高まっている。

 その典型的例を震災被災地に見る。人たちは働くすべを失い、仕事の機会も与えられず、やむなく明日の回復へのきっかけもつかめず、失業救済の保険にすがって食いつなぐ始末だ。そんな被災者に、
「このまま保険を出し続けては、受給者の自主再生の気力をなくす」
と、政府は失業保険の打ち切りを始めるという。

 何という無残な対応か。行政が、復興の方針と再雇用の機会を与える能力が無く、それができない自らの無能を棚上げして、被災者に責任を転嫁して責めている格好だ。


  六十年以上の愚かな政治の結論だ

 政治はこの課題にどう取り組むべきか。国会も内閣も、少々国民の目線に立てば、自らを恥ずべきこと、日本の政治がもう、国民をまとめるには古ぼけてしまっていることに気がつくはずだ。そうだ、いまこそ国としてまとまって、夢を掲げて一致結束し、乏しい資源を融通し合ってでも、日本国の力をつけ直さなければならない。

 戦後政治をつぶさに見れば、そんな事態が来ることはすでにはっきり見えていた。納税の義務と義務教育を受ける義務しか国民には求めず、あとは膨大な国に義務ばかりを並べた憲法の下、何の国民生活の体力も考え的なかった我が国。それは将来に我が国を行き詰らせる危険な罠でもあったのだ。だが、それを後生大事に押し頂いて、放漫政治を続けてきたのが日本だった。

 今回の不況と震災のダブルパンチだって、国際投機にさいなまれる円高嵐の前に、結果的には何の手も打てず、国の経費がかかるからと国債ばかりを乱発して食いつないでいたところにこの震災に見舞われた。いまでは永田町や霞が関に閉じこもり、口先ばかりの抽象論議に終始して、対応策もすべて手遅れ、ほとんど何の目立った成果も上げ得ず、時間のみを徒に空費させて現在まで来てしまっている。
 予算ばかりを空費して、から騒ぎの後に国会が、そして内閣が動き始めた暁にはどうにかなるのだろうか。「もう今からでは遅い」といわれるかもしれないが、もうすこし根本から考えなくてはならないのではないだろうか。


  国の姿勢を捨てた戦後の日本

 目先の対応は、憲法から考え直すなどというのんびりしたことで時間をかける以外はないだろう。日本の歴史には、こんな苦しい中でも、必死に我が国の健全性を回復した前例もある。とくに関東大震災の時の、摂政の宮であった昭和天皇、その下で組閣中であった斎藤内閣、即座に郵便貯金を使って国民の混乱を抑えた犬養郵政相はじめ閣僚の働き、廃墟になった東京を一挙に将来の発展の柱に復興させた後藤新平など、参考にするべき資料はいくらもある。それらを基に精一杯に手を打つことだ。

 だがそれだけでは不充分だ。いまの政治の行き詰まりは六十五年前の我が国の敗戦と、それにつづく占領下の時代に端を発している。何でこんな時代が六十五年以上も続いてしまったか。もちろん戦勝国の米国の在来の我が国体質破壊への指揮監督の下におかれていた数年間は、どこの国にでもある敗戦国が戦勝国の命令に従う義務のある時代だったのでやむを得なかったとしても、占領時代はその後七年で終わり、日本はふたたび独立し、主権を回復したはずだった。
 戦後のあらゆるものが戦勝国の下におかれ、反抗が許されなかった時代である。この時期に日本は、二度と欧米と肩を並べる国に復興しないように、徹底的に占領政策で骨抜きにされた。占領は戦勝国にとってうまくいった。我が国内に戦勝連合国に尻尾を振り、彼らの権力の下に群がって我が国の指導層を固めた連中がたくさん出たからである。だがそんな彼らが日本が主権を回復した後も、自らの保身のために結束し、主権を回復した後の我が国の独立回復への動きを妨げてしまったのは異常な現象だった。

 政治の独占をしていたのは、のちの自民党や社会党、マスコミや教育界、学界や官僚の世界の人々。彼らは占領中に以前の指導者が大量に追放された後にその後釜に座ったが、占領中に手に入れたものを、戦後も維持するために結束していまのような体制を守ろうとした。いままでに敗戦の経験のある民族ならば、そんな動きは戦勝国に媚びた汚い売国者の行為だとして批判されるのが当然だ。無論それを独立後も続けたいと彼らが動いても、国民が許さないだろう。だが日本は二千年以上、外国に占領される恐怖など殆ど感ぜぬ立地条件の下で、平和な独立を維持してきた国だ。厳しく戦勝国に媚びる空気を責める機運を育て得なかった。

 明治維新の際に日本が、西欧文明の世界支配にのみこまれずに独特の文化を維持して独立を保持していこうとした見識は、日本の独自の誇りのはずだったが顧みられず、そんなことは何の足しにもならんと捨て去られ、自ら好んで西欧の属国であり続ける道を選んでしまったのが日本だった。誇り高き日本の文化の特徴の回復を否定し、先祖たちの試行錯誤のなかに積み上げてきた伝統を軽視して、プライドもなく、国の誇りが傷つけられていることさえも無視してしまった。

 日本人はお互いに助け合う共同社会を営みながら、家族の単位をしっかり固め、日本的な固有の道徳を重んじ、助け合いながら生きていく姿勢、公的な共通社会では国民道徳である神道を重んじ、個人個人ではそれぞれの先祖たちが代々信仰の柱にしてきた仏教各派やその他の信仰を大切にし、全国民のために祈りまつりをされる歴代天皇を統合の祀り主といただく姿勢を貫いて生きて来ていた。そんな民族として貴重なものを否定し続けて、六十年近くも生きてきてしまった。

 長い日本の文化とともに、その結束の柱として尊崇する天皇陛下。その天皇陛下の終戦のご詔勅、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、祖国の復興に力を入れよう」と諭された。そのお言葉があったので日本人は戦争で倒れた多くの同胞たちがあったのだが、従順に戦勝国に従った。それは、もちろん日本国の生き方、日本人の生き方までも変えよといわれたものではなかったのだが、陛下とともにこの苦しい時期を耐えていこうと心に誓った。日本に進駐してきた占領軍は、そんな従順な国民を利用して日本国を骨抜きにし、将来再びたちあがることのできない国にしようと国民洗脳を試みた。占領軍は行きすぎた勝手主義、何より大切なのはお金、下剋上の気風も自由、信仰などは迷信にすぎぬ、腹いっぱい食うのが何よりの幸福、まるで野獣のような教養なき人間を育てようとするもう宣伝した。我々は国の理想も忘れてそんな言葉をまともに受けて過ごしてきた。いやいまも、過ごしている気風は濃厚にある。

 精神的な独立の気風、国を愛する心、靖国神社の英霊に対する国の無礼、全国民の祀り主としての天皇の地位の再確認、占領中に強引に変えさせられた国際法を無視してまでも戦勝米国が押し付けた「新憲法」の再検討、国民意識の再生など、独立を回復した時に、当然回復しなければならないことはたくさんあった。それらのすべてを、我々は回復することができず、世界から「エコノミック・アニマル」と評されるのをまるで勲章のように誇って今まで過ごしてきてしまった。それが現在の姿である。


  国民気質を冷静に見る力が育たなかった

 私は独立回復時に、あのすべてを失った戦争の狂気の時代に再び戻れと単純に言っているのではない。明治維新後の日本が、西欧文明が世界を制覇している中にあって、独立国として生存権を主張しようとして変質していった姿には、世界の調和を愛する日本としても、考えなければならない問題点もあったのだと感じている。特に欧米文明に追い付き追い越そうとした官僚や学者・軍人・マスコミ・その他の中に、性急さのあまりか、守るべきものを見失って西欧と肩を並べることのみを追求し、日本らしさを軽視して、欧風礼賛の空気、日本の穏やかな文化を軽視する空気が強くなった点は問題だったと思っている。それが勝ち目はほとんどないことを知りながら、戦争に突入してここまで祖国を蝕んだ大きな過ちの基礎にもなった。そのコースには反省すべき点もあっただろう。独立の回復を機会に、その陥ってしまった欠点の種を分析し、より日本らしい維新の「実」を追うべきだった。現にこの戦争がきっかけとなって、それまでは欧米の支配下にあって、彼らの独占の下に虐げられていた非西欧の多くの国が新たに活躍できる場がやってきた。日本ももう少し先を読む力がほしかったと悔んでいることは強調しておきたい。

――続く。

理屈のみで割り切れぬ皇室論ーその⑤

2012年01月09日 16時45分35秒 | 私の「時事評論」
女性宮家の受け止め方

生きている古代神話の伝承


 我々日本人が生きてきた歴史を祖先の残した歴史書で見ると、肇国(ちょうこく=国の始まり)以来、いや、はるかにその昔の時代から、日本人は皇室のもとに暮らしてきたと伝えている。

 世界の大半の国の歴史も、その国の初めを歴史書で探ると、その国々の神さまの時代にさかのぼる。祖先が猿のような類人猿から進化したとか、ゾウリムシみたいな単純な微生物が人間に進化したなどとは書くよりは自分らの育ててきた文化を誇る精神面に重点を置いた記述となっている。人間が他の動物たちと比べて、知識を積み重ねて子孫に伝え、やがて言葉や文字を作り出すことにより、文化を積み重ねて発展させてきたことの重要性を歴史は次の世代に教え残そうとしているようだ。

 それは歴史学上から見れば、正確でないといわれるかもしれない。歴史の初めが哲学につながっていて純粋学問的なものになっていない。だが私はそれがよいのだと思っている。考古学や生物学、医学など、特殊な分野を探るときには、物理的な歴史を探ればよい。我々の人知の及ばぬ大きなものがこの世界には働いている。
 それを人々は神と感じて恐れ慎んで暮らしてきた。いまだって我々の知り得た知識は世の中の様々なことの小さな部分に限られることだろう。人間があたかもすべてのことを知り得たように慢心し、思いあがったら碌なことはない。現代西欧文明が発展した結果、地球の環境が破壊され、人類ばかりか、様々なものが生き続けられない世の中が来るのではないかという不安な予想が世界を覆っている。自然の環境、木や森や水や風、気象などを神と仰ぎ、それと調和して生きる日本の文化が見直される機運にある。日本の神・神道は、西欧の進化論などの学問では、アミニズムなどという人類が発展していく未熟段階の通過宗教だなどと一時はいわれていたのだが、私などから見れば、これからの人類が行き詰らずに発展していこうとするならば、こんな自然と調和して、自然の中に生きる慎みが人類に求められる時代になったのだと思う。


 神さまの神勅を受けて建国

 この話はさておいて、少し日本の神話をのぞいてみよう。歴史に先んずる概念・信仰・哲学などの色彩の強い神話の時代、我々の先祖たちは神々が住まれる異次元の世界・高天原(たかまがはら=神々が集まる神の世界)から、天照大神(あまてらすおおみかみ=高天原の代表神、伊勢の神宮に天皇によって祀られているほか、全国の神明宮などの神社に祭神として祀られている)より神勅(神さまの命令)をうけ、これを主食として民を率いてむつまじく暮らせと稲の穂を授けられてこの世に降りてきたと伝えられている。

 天孫降臨の話である。この世に降りろと命令されたのは瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、彼は日本の列島に住みつく主に任命され、天照大神より鏡(伊勢神宮の御神体)をはじめ三種の神器(三種の神器とは、前記の鏡のほかに剣と勾玉を指す。剣は熱田神宮の御神体であり、鏡と剣の複製と勾玉は、天皇のおしるしとして、いつも歴代陛下のお側にまつられている)を渡され、「これを育てて暮らせ」と稲の穂を戴いて、部下たち(神軍)を率いてこの日本に降り立った。列島の瓊瓊杵命が降り立ったのは九州・高千穂の峰と伝えられているが、瓊瓊杵命の子孫である神武天皇が、九州日向の国から国をまとめようと東に向かい、その前からこの日本列島に住みついていた人々をも統治のもとにまとめながら奈良の地にやって来て、ここで初代の日本国の天皇として即位された。以来、日本は天皇制度の下にまとまって歴史を刻んできているという。そしていまはそれから数えて二千六百七十二年になるという。

 この記述には考古学的歴史と照らし合わせて数百年ほどの誤差があるとか、記述が歴史の裏付けに乏しいという歴史学者もいるようだが、神話が歴史の時代につながっていく記述である。それもある程度やむを得ないかもしれない。それよりも注目すべきは、隠して日本に人々をまとめた国が出来上がるが、日本が建国いらい、は天皇の統治する国であったこと、そして二千年を越す歴史があるということだ。二千数百年以上の古い昔から、日本人は皇室とともに一貫して存在し、その統治のもとに生活をしてきている。


 大御宝(おおみたから)を守るために祈る天皇

 天皇と国民との関係がどんなものかと歴史的に眺めようとすると、あまりにもその歴史が長く、しかも影響を与えた分野が広いため、なかなか断定的に語りにくいものがある。ただ、信仰・祀り・行政・文化・暮らしなど様々の面が未分化であった社会制度の成立当時から我々の祖先は天皇とともに生活を営んできた。新しい制度なら、その分担する分野がある面に限られたものになるが、それ以前のものは絡み合っているのが普通だ。それは親子の関係、夫婦関係などが法で割り切れる分野のみで無いのに似ている。国民の日常生活、文化のあらゆる面に天皇の影響は及んでいて、なかなかひとことで説明することができないものだった。

 面白い話がある。私の父は戦後、日本中の主張がみな西欧的な学者や論者のものばかりになり、天皇制に容赦ない批判ばかりが続いたときに、天皇擁護の論を西欧論理で主張し、その結果彼らと「思想の科学研究会」で天皇制に関して、天皇制に批判的な現代の学者たちと話し合った男だったが、父と彼らとの討論で、その場に集まった思想傾向でいえば父とは全く反対の立場にいた人たちが異口同音に語ったことは、日本の文化の各面にはすっかり天皇制に結びついているという共通認識だった。まるで一木一草、みな天皇と結びついていると天皇制の反対者たちもしみじみ語ったという。私には印象深い記憶である。

 日本での天皇は一貫して支配が及ぶ地域の祭祀王として神々への祭りを司る役目をまず主な仕事として行う存在であった。天皇は先に紹介した神話の話で分かるように、神々ともつながる高天原の神々の一員の子孫であるとされ、しかも高天原に命ぜられた日本を統治すべき統率者であり、国民も天皇こそ神々に最も親しく、神と国民の中に立つ人・現人神であると信じられて来た。そのために天皇は日本の神と向き合う我々との間に立ち、神をまつり直接交流する存在だと信ぜられてきた。

 神々との継続的な交流と継承とそれを背景にしての民の統治する者は、神との合意を得られる者でなくてはならない。天皇制ができたころは稲穂を持って皇祖がこの地に降り立ったことでもわかるように稲作文明の初期、男系家族制度が固まった時期に重なる。その集団・家族の霊統は男系によって継承される制度になっていた。当時、縄文末期の人々は、天皇を祀り主にしていたばかりではなく、後に天皇の下に統一されるほとんどの地域が、氏族社会を形成して、それぞれの氏族の代表がそれぞれの氏族の祭祀を執り行う氏族内の祭政一致の生活を始めていた。男系制社会では、肉体的には母系でもつながるが、神の認められる祭祀の連続は、男系でなくては継承されないと信ぜられてきた。そのセンスが皇室制度維持にも影響して、皇位継承制度は男系継承に固まることになったのだと思う。そんな意識がその後、現代まで二千年以上継続し定着して日本人の意識が固まった。ちなみに日本の家族制度に、一般の民の世界では養子による家系継承制度などがあるが、皇室にはそれが無い。男系の霊統が消えてしまうからであろう。

 だから現代になっていま、急にこれとは全く関係の無い「男女同権」などの理屈を持ちだして、女系でも伝統の祭祀の継続ができるなどと主張しても、理屈がどうであるということからは離れてしまって、伝統的国民意識には合わない。「男女同権」の思想は、男と女の民法や社会的待遇などの俗権における差別を廃止しようというキリスト教文明から生まれた平等思想の一種であり、「霊統」などとは無縁の存在である。

 王位の男系継承は日本とは全く違う世界の王制などにも存在する。よく知られるように、我が国皇室には苗字が無い。男系継承の王室であるから、男系の霊統は論ずる必要が無いからである。だが諸外国の例などでは「○○家の王に王の出身家が変更されるというような例もある。そのような例を「王朝が変わる」と称する。家は代々の一系の王家ではないが、他の王家が継承する結果になるからだ。

 日本で現代の政治上の必要などでの女系承認論が出されると、
「それはそういう理屈かもしれないが、なんだか似ていても違うような気がする」
という異質だと思う不信の本能が残ってしまう。これは無意識に霊統の不連続があることを人々がわからないながらも気づくからであろう。それが合理的などという説明がなされても、神々への祭りを司る面で考えると、高天原とつながらない継承者は、合理的とか否合理とかいわれる程度の世界の話ではないのだ。日本では神武天皇から現天皇まで125代、男系の天皇制度は一度も切れることなく続いてきている。また、この男系を維持してこれからも皇位を継承していこうとすれば、それはそれで可能だということも忘れてはならない。




女性宮家の持つ二つの顔


 さてここで現代の話題に移ろう。羽毛田宮内庁長官が昨年10月に、皇族の減少を補うために、野田首相と女性皇族の結婚後の宮家設立について話し合ったことが表にされ、これに宮内庁記者クラブの記者どもが飛びつき、
「皇位の女系相続への道をつけるのか」
とひと騒ぎになっているようだ。

 羽毛田長官自身はこのような軽率な判断をする記者たちに対して、
「そのような皇室典範の改正などにかかわることに関しては宮内庁などが意見をさしはさむつもりはない」
と対応に慎重を求め、従来の宮内庁のとってきた公式見解を繰り返して、マスコミの憶測にブレーキをかける見解を表明した。
 だがかつて小泉内閣の時に、小泉首相自身が皇室の伝統に対する理解不足、男系と女系の違いの我が国の皇室に及ぼす決定的な皇室信仰や宮中祭祀の論理では説得できない微妙な側面がわからずに、安易に女系継承論に傾いた経緯がある。そのため伝統の重みを考えない軽薄な皇位継承制度の変更が日本の伝統を変質させる危機が心配されたことがあった。
 その当時の環境と現在とを比べて、現代の日本人の伝統への理解がどれほど進んだとは決して言えない状況にある。この問題が脱線して、皇室の伝統に関しての現在政治家の軽薄な取り組みが大きな問題に発展しそうな動きも起こりうるものと注目される。

 前回の動きは、ちょうど皇位継承制度の変更が論議されているその時期に、秋篠宮家の悠仁さま御生誕により、若き皇位継承権者が増加したことにより中絶したという経過がある。あの当時、世俗の権力や制度としてではなく、日本人の培ってきた信仰の側面から強い危機感を持った我々は、男子ご誕生を皇祖神霊のもたらされた神風であると感激したが、その機になぜ女系の皇位継承が日本の皇室を根本的に変質させてしまうのかを国民に十分に納得させることはできなかった。現在の日本に、世俗政治と信仰の差、外国元首(特に国王)と代々祀り主であった天皇の違いを充分に理解してもらうことができなかった。西欧論理のみが支配的になってしまった我が国で、我が国独自の精神世界での国民心理の重みを存分に説得できなかったのである。

 その宿題は、いまも手がつけられずに残ったままである。皇室の皇位継承に関して、ただ目先だけの感情論に流されずに、歴史を踏まえた日本の皇室史も充分に考慮して、日本の皇室を、軽率な一時の判断のみで中絶させないような慎重な理解と取り組みが必要であると私は強く望んでいる。古くより続いてきたという伝統の糸は、一度切断してしまったらもう二度とつなぐことはできない。いまの伝統とよく似た模造品を持ってきて、これと今までの伝統と交換しようとしてしまったら、物理や論理の世界では「ほぼ似たものに交換しただけだ」と言うだけなのかもしれないが、神として崇敬するものとして皇室を敬っているものは、大きな精神的幻滅を感じてしまう。どんなに性格は変わらないと説明しても、従来とは違えてはならないものが信仰や崇敬という世界にはあるものを見落としてはいけない。世俗と超世俗との二面性が皇室にはあることもちょっと眺めながらこの問題を見ていきたい。


 女性宮家の任務とは

 現在の皇室には外交や内政などに多くのお仕事が集中している。外国の王族や代表の来日の御接受から国事行為やそれに付随する行事まででもかなりに多く、また日本という国が二千年以上の一貫して継続した皇室の下に国の体を維持してきたこと、これが国民の心理に深く刻み込まれていることから、様々な文化・社会行事にも天皇陛下をはじめ、皇族方の御出席を仰ぎたいという国民の要望も強く、皇族方はそれぞれ手分けをされて連日のように飛び回っておられる。

 こんな憲法や政府、自治体、各種団体などからの声に、皇族方が精一杯に答えてくださることはありがたいことであるが、その要望は膨大な量である。

 それらの声に対応するために、本来なら御結婚とともに皇族の地位を去り、一般人のお仲間に入られる女性皇族のご結婚の際に宮家を立てて、皇族としてそれらの行事に立ち会う機会を増やしたいというのなら、そのことに限れば問題とするには当たらない。

 いまの日本の世俗政治は国民の声を受けて、国民の支持で首相になったものが長となった政府が皇室の事務的お世話も行うことになっている。国民からの強い求めがある限り、そして国民が有難いと思って既婚の女性宮家を迎える限り、それはプラスに作用すると考える。

 ただそれは、伝統にのっとった皇位継承とは全く次元の違う世俗政治に対応した一代限りの宮家である。確かに新しい宮家を立てられた女性皇族は、伝統的男系継承の血筋を引いた男系の皇族である。だが、その皇族が遠縁であっても皇位の男系の血筋を引く夫と結婚をされていない限り、伝統的皇族とは皇位継承上は無縁の存在にならざるを得ない。

 したがって皇位継承権は、宮家を作ったからとて生まれないと見るのが正当だろう。そんな場合には、御一代限りの宮家であるのが本来の姿だといえる。

 ただ、現代の政府の行うことは、国民の目くらましばかりだという批判の声も、耳を傾けなければならないのではないか。

「これはそのうち曖昧に女性宮家を設けておいて、女系の皇位継承を認めようという第一弾になるのではないか」
という不安の声は極めて大きい。

 国民の目をくらませて、ごまかしたように皇室制度の本質を骨抜きにしようという危険性があるのなら、認めてならないことである。日本にも皇室の問題にまで、こんないやらしい術策を用いようとする政治家や役人が出てくる可能性が疑われる時代になったということは大変悲しいことではあるが、目は光らせなければなるまい。

 そういわれて慎重に眺めれば、女性宮家を新設できるようにしてみても、ほとんど何の効果もないことだって見えてくる。わざわざ宮家を称しなくとも、皇族の無い親王や女王が御結婚のあとは「元内親王・元女王」というお立場で公式に御臨席いただくことにすれば、何の不自由も残らないはずである。新聞などの報道では、女性宮家を新設した場合、結婚される夫の立場、お子さんの立場をどうするかなどの問題点が残るという。だったらいよいよ「元内親王」で良いではないか。

 皇室制度の取り扱いは、こそこそ進めてはならないものだと思う。皇室は日本人が心の底から最も大切なものだと思っている存在であり、目先で政治家などが簡単に変更してはならない重い国家の基本となる制度なのだから。

理屈の実で割り切れぬ皇室論ーその4

2012年01月08日 13時57分10秒 | 私の「時事評論」
祈りを無視した皇室改革は文化を壊す
 
  日本には古い気風が生きている。


 奇妙な形へ時代が変わり、現代の学者や文化人、そしてマスコミ人や政治家たちが揃って、まるで日本の古来、営々と育んできた知恵の集積を無視する姿勢を競うように見える世情となった。彼らは、日本文化の持っている個性や特徴がどういう条件で出来上がったのかさえ考えようとはせず、文化の断絶がどんな結果をもたらすかも理解できない集団である。そのくせ自ら自分のことを知識人と称し、自らもそう思いこんでいるのだから困ったものだ。日本文化の持つ基本的遺伝因子を見失って、叫びまくる彼らの主張は危険なものだと思うのだが、なぜか日本ではこんな空論が愚か者扱いされずに、日本の進路を惑わす結果となっている。
 だが表面的にはこんな暴論が主張されているのにもかかわらず、日本人の大部分を占める沈黙せる大衆の中には、祖先たちが営々と築き育ててきた独自の古典的文化の特性が、殆ど傷もつかずに厳然と生きている。日本文化、それは世界のどの文明のコピーでもなく、独自の地理的条件などによって育まれたユニークな特徴あるものだ。独特の日本文化、先祖から蓄積してきたものを大切にし、自然や神と共生して集団で睦みあって生きてきた歴史が生んだ独特の文化は無意識のうちにしっかり継承されている。こんな日本に育った価値観や道徳などを知り、それに親しんだ人には、世界の文化がそれぞれ影響しあう現代であっても、地についた暮らし方をする。穏やかな環境が保守的な日本人を作ったのかもしれない。従来の文化の中にどっぷりつかって生きていくのに居心地がよく、新しい変更をとりいれるとしても、それは従来の文化と共存できるものに限られていて、簡単に先祖たちが築き上げたものを、検討も充分にせずに廃棄したりする気風は見られない。



  文化を複雑にした初めての敗戦の経験

 何でこんな相いれない二潮流が国内に存在するのか。その大きな原因はいまから六十五年前に、日本にとって国が始まって以来初めてという外国への敗戦があり、そして外国の支配のもとに組み入れられたという厳しい経験があったからであった。それは西欧文明諸国に対する敗戦(大東亜戦争=第二次世界大戦)によってもたらされた。
 日本は西欧文化圏を相手に総力戦で戦うはめになり、力尽きて敗戦したが、日本を占領した占領軍は、このアジアの小さな非西欧文明国が、想像を絶する抵抗力を示したことに驚いて、この国が再び力を取り戻して自分らの脅威に育たないために、日本文化の特徴をこの国から消すそうとする強硬な占領政策を実施した。

 敗戦というものはどんなものか、そんな経験の無かった日本人は負け方を知らず、国内には占領軍が進駐すると、彼らの方針に安易に追随する者が多く出た。そんな占領軍にコロリと転向して追随する連中に日本の在来の指導層が入れ替えられて以来、先祖を尊び、長幼の慎みを重視し、家族を大切にし、隣人のために己を捨てて努力する日本人の心は「封建的な専制政治の復活を許すもの」として公然と否定されることになった。

 周囲の人のために己を捨ててひたすら動くことは、西欧的個人主義に目覚めない日本人の自分を大事にしない愚かさだ。家の方針や指導者の方針に忠実についていくのは自分が無い証拠である。この際、国内にある封建的なこんな組織は否定しなければいけないというのだ。この洗脳は占領軍の命令の下に学校教育や新聞・マスコミなどで国民に対して徹底されたが、天皇制と国民の面からみると、まるでこれは日本の中で最も自分を捨ててひたすら過ごす日本の象徴・天皇陛下、日本人が理想の人間像、日本文化の核である祀り主の徳性を非常識だと否定するようなものだった。

 勝ったり負けたりの経験が豊富な西欧諸国などでは、こんな勝利して進駐した外国軍による国民洗脳はうまくいかないだろう。どの国にも自国の文化を愛し、誇り高く生きる意地がある。また、強硬な圧力で占領期間中、そんな政策を強制されても、国が独立を回復すれば、必ず元に戻す動きが出てくる。しかし歴史上もいまだ敗戦経験の無い日本には、そんな抵抗を示す冷静さもなかった。そのため占領目的の教育や洗脳が徹底され、独立回復後もそのまま日本は占領中の政策を後生大事に受け継いで、そんな状況が六十年間以上も続いてきた。

 占領政策が最も力を入れたのが、国のまとまって動く力をそぐことだった。それは日本を統治する天皇陛下の影響力をそぎ、その天皇制度を精神的に支える日本独自の信仰・神道の力を社会から追放することだった。

 ここは占領政策を主として論ずる場所ではない。だから天皇制のみに絞って論を進めるが、占領軍は国民洗脳のために、国際法で禁じられた憲法の変更による政治体制の変革、宗教干渉など様々な圧力を日本にかけた。憲法の改定においても政治の実際においても、最も力を入れられたのは天皇の政治的権限をそぐことだった。そして日本人への洗脳工作において、痛烈に批判する対象であったのは、天皇陛下のように、己を捨てて国民のために、ひたすら祈り、皆を元気づけて歩かれる存在は決して望ましいものではないという思想を吹き込み、日本人を自分本位な野獣のような集団に変更することであった。

 だがそんな日本において現在でも、日本人がもっとも尊崇してやまないのは天皇陛下となっている。国民は天皇陛下のお人柄を仰ぎ、理想の生き方をされる方だが、まねたくてもまねられない存在として仰いでいる。しかし学校教育などでは、それに反した野獣のような人間になることが理想と教えている。ここに現代日本のゆがんだ構造がある。


 木に竹はつながらない


 だが、そんな日本に深く根付いている気風を無視して、日本文化に木に竹を接ぐような乱暴さで、どこぞやの国ではやった異質の改革を無理に輸血しようとするのが、戦後追放された連中に代わって、占領時代に力を得た連中やその後継者たちが集う牙城である政界や官界、教育界、マスコミなどのグループであった。それがなかなか成果をあげえないのは、その企ては本来の日本人の遺伝因子や血液型に不適合なものを強制しようとするからであった。ここは天皇論を書いているのだからそれに絞るが、戦後占領軍によって皇位継承を不安定にし皇室を弱体化しようと皇族なども大幅に縮小され、多くの宮家が皇族から離された。それで皇位継承が不安になって、いま、継承者への女系や女帝の導入案が出されたり、今回注目されている女性の宮家壮立案もそんな一連の提案として出されているようだが、そのままでは決して育つわけがない。それは沈黙せる国民大衆にとって、深く考えると、どこかシックリ来ない内容のものであるからだ。これらの案は西欧諸国の王制などでも採用されていると説明される。そんな提案を盲目的な西欧文明礼賛の連中がいくら宣伝しても、ここは世界で最も古く、独自の文明を築き維持してきた日本である。日本文化は西欧のキリスト教やそこから派生した唯物論の価値観から見ると、古ぼけた時代これの文明になるのかもしれないが、いまでも連綿として生きていて、他国とは異質の特徴を発揮しながら、現代の世界に結構適合して生きている。

 現在の日本でも、文化の行き詰まりといわれるような問題は多々生じているが、それらのほとんどは、そんな日本が、自国の文化との適合を深く吟味せず、軽率に西欧文明を模倣したけっか生じているものがほとんどであり、祖先たちが苦心の結果生み出した文化が悩んでいるのではないことを知るべきである。我が国において、従来の日本文化の改革を試みるときは、いままでのような深い吟味もせずに飛びつく軽率さを避け、日本の文化の特性を十分わきまえ、新しい試みに適応できるかどうかを充分に考えなければならない。


 日本文化をもう少し我々は知らねばならない


 日本にはまだ、従来からの日本人の特徴を持ち、日本らしい思考で行動をする人々がたくさんおり、どんな時でも生き続けてきた文化が土壌として生活している。「日本の伝統を安易に変更するのは良くないと」と思っている伝統の重要さを主張する人が、日常生活の表面だけでは少数のように見えたとしても、それは変化を加えることに国民が賛成しているということなのではない。彼らは新しい潮流に気は進まないが、そこが日本的な特性で、本来は従順な性格を持つ日本人だから、ただわざわざ大声で反対を唱えて、我が国を混乱に持ち込もうとは思わないだけだ。日本人はそれが日本文化の特性でもあるが、いたずらに声を荒らげ、お上に平常から大声を上げるのを心良しとはしない。内心は少々困ったことだと思うことでも、大騒ぎはできるだけ慎む特徴がある。

 それによく、我が国では最後の最後には悪しき改革には自然や人間の営みをいつも見ておられる神さまの罰が下り、日本はそんなことをきっかけに祓いをして身辺を清らかにし、それによって清浄さを復活するといわれている。いまは少々政治に携わる者が軽率で、大きな転換期にその重要性が認識されていないとしても、日本の伝統が保持されているときは、大切な時に全国民の心が振り起こされて、人々を結束させ、揺り動かして日本を動かす力になる。日頃は学校などで、徹底した日本文化を無視した教育のみが行われるような時代になったが、何か突然の問題が起こると、先の大震災や敗戦のとき、日本が危機に立たされた時などがそのよい例だが、日本的な行動方程式が地の底から湧き出してきたように人々を駆り立て、日本を守る大きな作用をすることを忘れてはならない。

 日本人の精神構造はいまでも表に見えないところにしっかり生きている。それはわが国に国難が起こりそうになると必ず表に出てきて、日本の伝統的文化を残しながら、難局を乗り切る力を与えてくれてきた。これを我々は日本が「神国」だからそうなったと思っている。八百万(やおよろず)の神さまが祈りを受けて我々のためにいつも加勢をしてくださる。それは日本では国民を代表して、神々の代表である天照皇大神が、祀りを行えと命じられた歴代の天皇が、神々に対して祀りをされているからである。


 神々が住んでおられる国


 これは唯物論には馴染まない発想だ。宗教的ともいえる超物理学の次元の話になるので、日本の神を信じない人にまで無理やり強制するつもりはないが、そんな神意が度々歴史において示される国柄であると我々日本の大衆は知っているので、我々もそろって常に日本の神々に頭を下げるし、その祭りをひたすらされている歴代の天皇に、神に語りかけ、神との中間に位する方であるとの敬意を感じて暮らしている。

 天皇は特別な人だと思う我々だって、科学の上では天皇が人間でない特別の物理的存在だなんて思っていない。ただ歴代の天皇と日本の神々の間には、お互いに祀るものと祀られるものとの二千年を越す相互の合意があると我々が信じている。神さまが日本人の代表として祀りをしてくれるにふさわしいものと合意され、その関係が延々と引き継がれて続いてきた。そんなお方だと天皇陛下を意識している。

 そしてその神さまと天皇との合意は、天皇が皇祖皇宗の男系の後継者であり、いままでしっかり続いていると思っている。

 天皇の祈りがその天皇御一代限りの個々個人の独特のものではなく、初代天皇から現在の天皇まで一貫して通じているものが中心であるとも思っている。その代々続く天皇のお心を我々は「大御心」という。

我々がいま、政治の場で論ぜられている皇位継承権の女系への拡大に反対しているのには、皇位継承の論議があまりにも天皇個人の肉体問題に流れ、大御心はどなたが皇位につかれても、本来は崩れるものではないという確信から離れて、まるで個人崇拝の論理に代わっているような状況の論になっていることにもよるのではないだろうか。天皇は、日本の神々と国民の仲介のお役目の人だから、国民ばかりではなく、神々もお認めになる方でなければ務まらない。そんな変更が天皇の御存在の重要性、陛下御自身も神さまのお認めになる方でなければ、神々とのお祭りの主催者として相応しくなくなってしまうという側面もわきまえず、皇位の継承が決められてよいものだろうか。これは決定的な疑問である。「こんな資格のものを国民の統率者としていうことなど聞くことができるか」と神々が思われたらどうなるか。これは大きな不安である。

そんな神々無私の政治的都合という狭い視野だけの提案に、いくら多数のものが上辺だけの理屈で賛成しても、変更は天照皇大神との合意に基づくものでない。人間だけで決めようとしている。それは我々の天皇や神々に対する信仰や崇敬心に重大な影響を及ぼす。それは多数決などで簡単に変更して良いものではないのだ。


 国家というもの

 日本では昔から、国のことを家という字をつけて「国家」と言う。家族を単位として、それが集まって共同体ができ、その上に天皇の皇室がある(決してこれはいつでも必ず時の政治と重なったものではない。もっと大きな概念として捉えてほしい)。共同体意識を基礎に持って暮らしてきた日本人にとって、国そのものが広い意味での日本民族の集まる大家族なのだ。誰かさんが「人類は一家」なんて盛んに宣伝していたことがあった。あれとは少し違うかもしれないが、みんなが家族のように協力し合い、長幼会い助け合って生きる姿が日本人の国家像だ。そして国家という大家族の家長が天皇なのだ。その発想は文字が日本に伝わった時代以前から連綿として続いている。

 私は日本文化をこんな家族制度が共同体の基礎になって発展してきた稲作共同作業型の社会から発展してきたものだと認識している。家族制度では、その家の長は、祖先から家の霊統や精神を引き継ぐ家長であり、父系(男系)社会の長である。家長はその家の先祖からの霊統を継承し、祖先祭りを行い、先祖の道に逆らうこと無く、皆が協力して生活することに己を捨てて常に心がける義務がある。以前は血縁を重んずる母系社会から出発した日本の社会は、人々が寄り集まり共同して稲作農業に従事する初期の古代社会の時代に、精神的なもの、霊統的なものを重んずる社会・父系社会へと変質していった。それがさまざまの面で、団結して生きていく力になったからだと思う。天皇制の基礎にはこんな発想もある。

 天皇制を語るときは、そんな概念がなぜ生まれて、それが天皇制度の基礎になったのかも含めて、その得失を考えなければならない。単に目先の法律で定める狭い範囲に天皇制度があるからといって、その範囲においてのみ見てはいけないものなのだと私は思っている。

 天皇制を論ずるときには、単に法制度などという目先のもの、限定された政治制度としてこれを論じ、安易に変更することは危険な副作用が多いと思う。憲法や民法・公法などはその時その時の政治制度でいくらでも書き換えることができるものだ。だがそんな作られた時々の法は、その国に何千年も続いてきた慣習法の一部を成文化して適用しようとする目的を持ったものであり、慣習法に代わるものではありえないと思う。




(つづく)




理屈のみでは割り切れぬ皇室論 その三

2012年01月02日 18時51分07秒 | 私の「時事評論」

 聖なる統治、俗なる政治


 謹賀新年

 昨年末に始めたこの連載、頭の整理が出来上がらぬうちにはじめてしまって、さてどのように展開していったらよいか、書きながら思案中というだらしなさ。
 だが、頭の整理を待っていても、私の頭の混乱の動機は、私の老化による頭の整理の衰えにあるのだし、待って解決するとは思えない。そこで構わず、このまま続けさせていただくことにする。


 日本の天皇制度は古代から続いている

 天皇の日本国における地位は、天皇制度が発足し、日本という国ができてからいままで変わっていないという説がある。

 日本の天皇制度は日本国の建国以来の歴史を持ち、確かに創立時から皇統は男系相続(皇位の継承者に男子が見当たらないとして、男系の女帝が即位されたことは何度かあるが)を固く守って、それを一貫する不変の皇位継承の条件として続いてきている。

 天皇の祭祀王としての立場は勿論不変だが、為政者としての権限がどこまでの範囲のものであるかは武家政治の時代から度々の不連続があり、必ずしも一貫したものではないかもしれない。今風の言葉でいえば、日本国の元首としての天皇制度は続いているが、その政治、行政上の世俗権限行使の権限を見ると、微妙な変化を重ねながら現在まで来ているのだという見方もできる。

 長い日本の歴史には、文化そのものが日々に変化発展することもあって、様々の政治上の変化もあった。ただ天皇が日本の元首であるという立場は、そんな変化が度々日本に訪れたにもかかわらず、断絶することなく現在までつづいてきた。

 日本という国は、古い歴史をそのまま現代まで工夫しながらも本質を残して保ち続ける継続した文明を持つ国である。その長い歴史において、天皇という君主の制度が建国以来断絶なく継承されている例は世界史上に例が無い。日本の天皇制度は、どうして途中で絶えることなく、今まで一貫して続くことができたのかという問題は、天皇制度を論ずるときにもっと注目されるべき重要な問題だと私は思っている。

 日本の天皇制度が、ガチガチに固まった絶対型・独裁型の押さえつけるような硬直そのものではなく、いつの時代にも生きることのできる融通性を持ったものであったから、私は歴史の激しい流れにも生き続けてきたのだと思っている。世の中の空気が少々変化しても、天皇制度にはそれに対応して存続する力があった。

 だが時代の変化への対応に融通性があっただけで、ここまで生き延びてきたのではないとも思う。天皇は、我々日本人の日々の生活に、単なる政治上の物理的支配者として君臨する力を持っていただけのものではなく、もっと多方面にまで深い影響力を持って、我々の生活を営む血液のように入り込んでいた。この立地条件に適合して育ってきた日本文化にしみ込み定着しやすい体質とでもいったらよいだろうか。
それがあったから、天皇制度は生まれて以来、日本人が生きていく上に無くてはならないものとして文化とともに生き続けてきたのではないだろうか。


 神武天皇だ、皇紀何年などと言い出すと

 天皇制度は、神武天皇より125代・2600年以上の歴史を持っている。とにかく恐ろしく長い歴史がある。「神武天皇」などと言い出すと、先に進むよりもまずこの時点で、日本の古書である古事記や日本書紀などの歴史記述の上には誇張があるとの論争が始まることになる。
「神武天皇の存在などは証明できない」とか「○代目の○○天皇までの実在は立証できない」などという類の論である。
 同じ論者が、中国の古い文章に載っていること、聖書や類似のものに載っていることに対してはこんな形の反論はしない。外国の文書なら信用するが、日本の文書の歴史価値など問答無用の反論である。

 困ったもので、日本には明治開国以降、西欧万能の風潮が浸透して来て、何事も眺める上に、客観性を無視して在来の日本人的な思考や伝統を拒絶して、日本の価値を低評価し、西欧優先風に見る方が新しいなどと思いこんだ西欧かぶれがかなりに増えている。彼らは祖先たちが作り上げた自分の国に、評価すべき価値があったということを認めるのが、何より嫌いな連中なのだ。頭がそこまで歪んでしまった哀れな連中だ。

 私は今回、こんな風潮にまで深く係るつもりはない。建国記念日の根拠の論争、神話と考古学との立場の違いの論争などでは良く出てくる日本批判の国内風潮だが、日本人にはこんな連中が特に自分を知識人だと勝手に自分で思い込んでいる連中にきわめて多い。

 本来は日本の健全な発展のためにはこんなおかしな傾向にも反論することが大切なのだろうが、それは別の機会に譲って、ここはただ、天皇として最初に位につかれた方、そのお方を神武天皇とお呼びすることにして通り過ぎ、この論争は別の機会にしてもよいと思う。それで論を進めるのに少しも困らないからである。

 天皇制度は二千年以上の歴史が続いている。これだって二千六百何十年という皇紀の数え方にもこだわらない。記紀などに記されている神武天皇から第十代の崇神天皇の数百年間は空位説やこの間には、日本の古代史編纂時代に、書きたくなかった時代があったのを削除したのだなどという説もある。そのため日本の皇室の歴史も実際は数百年短いとか長いとかいう説もあるのだが、天皇制度がこの程度長かろうと短かろうと、この程度の長短で天皇の歴史が重くなったり軽くなったりすることはない。もうはるか昔の時代から、我々日本人は天皇制度とともに歩んできたのであるから。

 天皇制度は我々日本人の歩んできた二千年以上の長い歴史と重なって、ともに我が国の歴史を作ってきたものである。


 なぜ天皇制度は断絶しなかったのか

 世界の歴史を紐解いてみると、日本以外の国においても、日本の天皇制とよく似た祭祀王としての国王が国をまとめていたところは他にもいくつかある。ところがそれらはいずれも数百年の歴史を保ったのちに滅びていて、いずれもすでに歴史から消え去った過去の遺物にすぎない。日本のように古代から現代まで生き残っている制度は他にはない。

 日本の天皇制度は、当初は天皇御自身がこの日本をまとめられ、統治の実権を行使されてきたが、そのうち日本の社会に武家のグループが台頭し、日本の国の統治は、天皇に代わってその国の実力的な力を持った者が政治の実権を行使する時代になっても天皇は依然として権威あるものとして存在していたし、その権威は現代までも続いてきた。どんな時代であっても、日本には、天皇制度を廃棄して自らの独裁政治を実施しようとした者が出てくる時代が無かったのだ。

 実力を蓄えて日本を統一して政治の実務の実権を揮うものが出てきても、日本では実権者は天皇を倒してその権限を奪い取り、新しい権力者にとって代わろうとはしなかったのだ。日本において実力を得たものは、必ず天皇に申し出て、天皇から政治の俗務の権限を揮うことを認められてその地位についた。源氏の源頼朝、足利尊氏、徳川家康。みな朝廷から征夷大将軍の称号を授与されて政権を行使した。
 中には朝廷そのものの官制の関白や大臣名を戴いて政治を行った者もいる。

 それが日本のほかの国々と全く変わっていたところである。なぜそうだったのか。その背後には日本人の中にしっかり根付いている共通の信仰である神道があった。日本中が神道という共通の信仰を抱く者の集団であり、それら各地の信仰を一つにまとめる形で統一国家ができた。一つにまとまるまでは各地の同じような信仰の集団がそれぞれその地域をまとめる祭祀王によってまとめられていたのだろう。
 天皇は国を統一するとともに、その神道において、それぞれの地域の祭祀をつかさどってきた祭祀王をまとめた神々と人々の間をつなぐ「大祀り主」として均しく認められる存在となっていたのである。
「日本の国は神さまの時代から、神さまの子孫である天皇が、神さまに命ぜられて国民を統一して治め、祭りをされる国、そして天皇は、日本民族の長として、代々国民のために祭りを続ける重い役割を負っている神と相接する立場にいるのだ」という思い。これが国民一般に深く浸透して日本人の精神構造の核心となっていたからだったのだろう。

 この広い日本の人々が、そんな共通の意識を持っていたなどと書くと、現代に生活する我々が聞くと、極端な信仰的人間ならばともかく、日本人が等しくそう信じていたなどとは信じられないと思うかもしれない。だが、日本の地理的条件やそこに育った我々の生活は、そんな意識を作り上げていたのだ。それは日本全国の共通の信仰的特色であった神道の信仰とともに、我々の心にしみ込んでいた。


 他民族から侵略される危険もなく、穏やかで規則的に四季がめぐる肥沃な温帯モンスーンにある国土で農耕生活を営んできた日本人の祖先たちは、自らの生活を豊かにするためには自然の現象を司る神々に穏やかな実りを祈り、祭りをすることによってその恵みを願うことが最も大切なことだと信じて生きてきた。そして代々、同じように神々に全国民を代表して祭りを行ってきた信仰をまとめて引き受けたのが天皇だった。
 この日本人の感性は現代の我々にまで続いている。いまの我々の抱く皇室への意識もほとんどそれと変わらないし、今でも日本人はお正月になるとほとんどの国民が寿紙を迎える正月飾りをして、雑煮を食べて神社に初もうでに行くなど、神道的感性を濃厚に持って生きている。

 日本での古い時代からの奈良、京都などの古い朝廷のあとなどを見るとよい。明治になって新しく日本の首都になった東京の江戸城だけは、昔の徳川将軍の城あとであるから例外だが、奈良も京都もいずれもほとんど防衛などの施設も持たないものになっている。朝廷には国民の襲撃などに対する警戒の様子が見られない。天皇がこんなところに住んでいて危険を感ずることはなかったのだろうかと不思議に思う。
 これに反して武将として天皇からこの国土の統治の実を委ねられた将軍などは、いずれも堅牢な城に守られて暮らしている。これは何よりもはっきりと、天皇のお立場が日本においては奪い合う地位とは考えられていなかったことを示している。

 日本文化に最も大きな影響を与えた中国思想には、天は中国の天下は天の意を受けたものに王(治者)として民を支配する権限があると認めるとの思想がある。君主が徳を失って悪性を行ったとき、他のものが武力でこれを追放し(放伐=ほうばつ)その地位につくことは天が認めるという思想は中国孟子なども認める易姓革命の思想であったが、そのような思想に対し、日本ではその原則が適用されるのは日本においては、放伐される対象が万世一系の神と血縁的つながりを持っている天皇を対象にすべきではないという考え方が国民に支配的で、徳川幕府の朱子学など、漢学思想を基本とする学問までも、放伐論は天皇の権限に対してではなく、天下を政治的に支配する武将や将軍にあてるべきだと教えていた。

 神さまへの祀り主こそ中心なのだ

 人間の文化は日々進歩を蓄積し、人々の生活はそれにより大きく変わる。個人ばかりではない、家族も集落も、人々の集まる村も地方も国も変わる。そんな変化に応じて、時代とともに人間の営みも政治の形も変わってくる。
 日本は天皇や各地の集落を長(おさ)として祭りを行う社会から発展し、だんだん一つにまとめられた。また祭りばかりではない政治も行政も文化も、様々な面を、全体を天皇がまとめる形で、統一国家として建国された。そしてそれからしばらくの間、古代国家の時代は政治、文化、社会全般を天皇がすべての長になり、天皇は自ら神々に対しての民の幸福と豊作・除災などを祈る祭りを長としてやりながら、すべてを天皇の家来たちを使っていわゆる統治の政治を行ってきた。その政治は「まつりごと」といわれるように、古代においては地域の人々が集まって自然を司る神々に作物の豊作や災害・疾病・事故などを避ける祭りを行うと同時に、共同生活を円滑に行っていく上の様々な取り決めを神々がお眺めになっている場で行ったことの延長線上にあるような様々な取り決め、そして皆で共同して生活を守り、地域を整備していく上の取り決めのようなものであった。そしてそれらの指示は天皇の任命する天皇の部下・閣僚たちが当たっていた。

 しかし、そんな原始的な社会形態も文明が進化し、規模も大きくなると専用の部局を朝廷内に設けて、それぞれの政治の業務を分担する専門のスタッフによって行われるように変化していった。人々を世俗的に統治するような業務は専門化し大規模化し、いつしか天皇が自ら「余人に代わることができない」と専門に行ってきた神々に対する祭りより、より力を注がねばならない大きな仕事に発展していった。

 組織には朝廷にはそれらの任務を担当して行う専門の各種官僚が生じ、その官僚を統率する天皇の臣下である大臣などの役目も生まれ政府といえるような気候も生まれた。古代社会はそのようにして、大陸より学んだ律令制を取り入れるなど制度を整備し、より中央集権的国家の体をなすようになってくる。

 そんな変化の後に、地方組織や荘園の組織、その他さまざまな組織で自らの護衛にために採用した武士のグループが、その後、実力を得て来てただ使用人として護衛を担当する組織には満足せず、力をつけて天下の権を力でも支配できるような実力を持った勢力に成長してくる時代となってくる。

 彼らの力は腕力的には、在来の天下を統率してきた天皇制度と比べても力では上回るようになってくる。
 そんな時代になって新たに育った武士の権力者には、当然全国を自分の力で支配する政権を立てる欲望が生ずる。そこまでは世界のどこにでもある条件だ。だがここからは日本においては違っていた。そんな天下支配の夢を描いた日本の新興勢力は、天皇の権力を否定して、新たにそれを奪い取るのではなく、時の天皇に対して、ただ天下の世俗の政治の支配権を揮う俗権、天皇の本来持っていると国民が信じている祭祀大権に関する権限は神と天皇との定まった権限であるから遠慮して手をつけないで、神と国民の祭りの接点にいる天皇から、その他の俗権に関する権限。世俗の政治を行使する俗権のみを認めてほしいと要求するようになる。そして天皇はそれを認めて実力支配の権限を譲渡し、神に対する祭祀の大権や文明文化の束ね役である権限は保持することになった。

 これが日本の天皇制度を永続させる力となった。世俗の現実政治の実権は征夷大将軍なり摂政、左大臣などの称号をもらったものが行使する。しかし、祀りにおいて、神々に対していまの政治に対しての責任を負うお立場は、たとい武家政権が行使していても、天皇が本来の大権者として従来通り全責任を感じてまつりをする。たとい、いまの政治が天皇御自身の責任とはいえず、政権を譲ったといえる者の手によって行われていても、神に対する責任は、すべて神としっかりつながりを持つ天皇が負い続けるこんな制度ができたのだ。

 こんなやり方が日本では発達して、天皇の国民統合の祭祀の統率者、世俗政治以外の文化の代表者としての地位は継続することになった。

 世俗の政権は天皇からの任命という形式をとって日本の俗権の支配者としての権威を維持してきた。それは時には俗権行使者が行き詰って、天皇が直接俗務の実権を取り戻して行使されるような時代も交えながら、現代までも続いてきた。

 現代政治においても、首相は選挙で勝利したものが天皇の認証を受けて就任し実権を行使するが、彼も必ず天皇の前で天皇から任命されて、初めて首相として正式に認められる。二千年前の時代から、日本の世俗の政治責任者は、今でも天皇よりその部分の執行を認められる形が踏襲されている。

 そんな風に見てくると、日本の政治の在り方は、古代より、ほとんど変わらぬ形で繰り返されて現代に続いている。
 
(つづく)