葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

陛下の御手術後一週間過ぎ、今後を考える

2012年03月02日 15時13分44秒 | 私の「時事評論」

手術後の経過は順調

 陛下御手術後の経過は順調に推移しているようだ。大手術であったが一週間たち、陛下は歩行などリハビリに励まれており、皇后さまが傍ら懸命に付き添って看護しておられる。去る三月一日には皇太子・同妃殿下が病室に御見舞に行かれた。さすがに現代一流のスタッフたちがチームを組んでの取り組み、国民はそろって胸をなでおろしているところである。
 ただの病状の食い止めではなく、これからの陛下の存分な御活躍も可能なように、思い切った決断で実施された今回の御手術である。伝えられるところによると、手術そのものも成功で、術後は以前と比べて、はるかにお元気な状態への御快復が期待されるという。まずは安堵してこれからの御活躍を期待しよう。

陛下の御公務が増えてしまう原因

 陛下の日常のいわゆる公務とされるお仕事は先帝方の時代に比べて急速に多くなり、日常が厳しいものになっているとの話を聞く。それは陛下のお出ましや宮中でのご会見などが昔とは比べものにならないほど広がって多くなり、それが整理をされないで増え続けているのが原因だと思われる。
私はそれが、首相の率いる政府の官僚組織の中に、陛下や皇族の御世話をする組織・宮内庁が従属した形であるために、時の政治によって陛下が利用されやすくなっている結果ではないか、陛下の絶大な国民への信頼と尊崇が、信頼感に欠ける政府の政治運営に利用されてしまう結果ではないかと憂慮している。
 しかし陛下としては、どんなときにも国民や我が国を訪れる人に、出来るだけ御自ら接しられたいお気持ちをお持ちであると拝察する。日本の天皇の最も大切な行事は「しろしめす」ことという特別の用語で表現される。この言葉の意味は「お知りになる」という言葉に近い。日本中のすべての国民の状態をお知りになって、それらの民の平安のために、神に祈る「まつり」をされるのが陛下のおつとめだとされている。
 世俗の国と国民間の権利義務や損得に視点を集中する「憲法はじめ諸法令」などばかりを見て、法律などよりもっと広い分野にかかわる皇室をそこだけから見ようとすると分からないが、政治という世俗の範囲をはるかに超え、国民の日常生活や精神生活・信仰生活などすべての面で国民を統合されるお立場の陛下は、細大漏らさず国民生活に目を注がれ、ひたすら全国民・民のために数千年にわたって祈り続けられるお立場である。それを「しろしめす」という語は示しているのだが、それがお心の中心にいつもある陛下が、できるだけ多くの民に接したいと念じられるのは当然のことだろう。これが陛下の日常を年々忙しくしてしまう。

御公務の大半はしばらく代行に御譲りいただいても

 だが、陛下とて生身の御身体であるし、重なるお歳によるどうにもならない加齢もある。従来通りのすべての御勤めを、今後もご高齢の陛下にお願いするのは、「聖寿万歳」を祈念する我々の道に反する。我々は陛下の御身の不老不死を念じながら、できるだけ陛下の御日常のお仕事、民と陛下との交わりの部分は、陛下のお心を対した他の皇族方や法令上定め得る代理の方に譲っていただき、せめて従来の半分ほどにでも絞っていただき、精一杯に本来のおつとめ、陛下にしかできない神々との御こと、初代神武天皇以来、欠かさず継承されてきた御まつり、民のために祈るお仕事をお続けいただくことに、その分を御当ていただきたいたいと念願する。
 我々国民は、そして外来の御客様なども同じだと思うが、直接陛下の御姿を拝し、お言葉を拝することは何にもましてありがたい。しかし今は、それを陛下にお願いして、無理をして御臨席いただける状況にないことを知るとき、我が国が懸命に守り伝えてきた伝統を陛下にお続けいただき、日本という国がこの君と民とが守り続けてきた精神的な宝物を失わないことを第一義に御進みいただくことができる配慮を固めなくてはならないと思う。そのためには、ご臨席いただき、御会釈を賜り、あるいは直接お言葉を戴く栄誉を、精一杯に我慢すべきときでもあると考えている。

多方面にある天皇のおつとめ

 我々は、陛下のお仕事が、世俗の国事行為や象徴としての行事とされるご公務以外にも重要なことがたくさんあることを知らねばならぬ。我が国の歴史を見ると、天皇は民のために神々に祈る御役目を神々から命ぜられ、それを続けてこられたと伝えている。数千年にわたって続けられてきた天皇御一人に命ぜられた特別な祈りが、宮中祭祀を基本にした陛下の御まつりである。皇室には多くのまつりが残されていて、陛下はそれを忠実に今も続けておられる。そしてそれがあるからこそ、我々が全国民を代表してひたすら民のためにと御まつりを行われる陛下を信頼し尊崇する柱となっている。
 御まつりは陛下の御つとめの大切な柱となっているのだが、これがここで欠かされたら、我々の精神的な信頼と尊崇の意識に変化が出るとは思わないだろうか。
 一億有余の民のため、ひたすら祈りまつりをされる伝統のお仕事は、ありがたいことであるが陛下にご負担が多い。陛下の医師団なども、御身体に障ると心配している最も大きなものは陛下のこの種のおつとめであるという。人間は何でも知っていると思いあがった物理現象以外のもの、人の心の動きや信仰や愛情、信頼、喜びや悲しみなどの感情面の生活のメリハリなどは有害で非合理的だから排斥すべきだという頑固な立場の人ならいざ知らず、信仰や心の問題は人間が生きていく上にどうしても必要な大切なものであると知る国民は、陛下の祈りを大切に思っている。日本人はそんな祈りやまつりの世界で、おのれを捨ててひたすら民のために祈り続けてこられたただお一人の方が天皇陛下であり、そのお心は百二十五代の天皇のお心をそのまま引き継いでこられたものであることを信じている。この認識が、天皇が日本の中心である数千年の精神伝統の大きな柱となっている。

象徴という言葉の背後にも

 こんな神聖性が天皇にはあることを、伝統保守の立場の人が批判の目で眺める今の憲法などでも考慮して、天皇を「国民統合の象徴」という表現で記述している。現憲法を占領軍の指示の下で作らねばならなかったとき、当時の法文作成、立案にあたった関係者が精一杯の努力をして天皇制度を残そうとした条文である。この日本の国民を精神的に一つに結ぶ力、これを憲法では象徴という用語をもって表現した。天皇のお立場はこの「象徴」という言葉の一般的語意から見るといささか浅い表現といわねばなるまい。だが、それでもその含む意味を深く察して、今後も見守っていきたいものである。

 天皇の御公務削減が話題になるとき、宮内庁などから出される発表を私などが見ると、専ら天皇の天皇である中心のおつとめ、宮中祭祀の削減により陛下のお仕事の軽減化を図ろうとしているように感ずることがある。
 宮内庁とて政府の一部局である。俗務に限定して動こうとする体質もあるかもしれない。政治の円滑な運営をするためには、天皇の政治利用ともいえる御公務より、国民のためにお祈りになる宮中の御まつりの削減を図ろうという目先の衝動に揺り動かされやすい体質もあるかもしれない。彼らとて構成は体制は公務員が中心であり、公務員としての枠以外には出られないという立場も分かる。あるいは寒中に長時間正座されるような陛下の御まつりが御身体にどれだけ厳しい影響があるかを気遣う取り巻きの職員や特に医師団などの「玉体の安全」を願う心も理解できないことはない。だが、天皇が日本独自の「祀り主」であり、その数千年の蓄積が国民の天皇信仰の核になっていることの意味を、目先だけではなく、千代に八千代に皇室の信仰を絶やすことに力を貸さない努力を忘れないように接してもらいたいと思う。
 陛下以外には口をはさむことができない宮中祭祀の問題である。だが陛下の御許しを得て、事態が変わればその際は必ず旧例に戻すという誓いのもとに、暫定的に御まつりの形が一時御身体に負担の薄い形に変更されることがあるのはやむをえまい。歴代の天皇の御在世の時代においても、陛下が病中で御奉仕がままならないことなどはたびたびあった。だがそれでも「祀り主」としての陛下への民の信は変わることなく今まで続いてきた。
 私は長期的に見るとき今のように、神さまの世界から国民の精神的世界、文化や名誉や道徳などこの国のすべてに深い影響力を持たれる天皇さまが、その日本文化においては一部分にすぎない権力の保持期間である国家の政府との権利義務の規定である憲法や諸法令のもとに運営される政府の一部局のもとにあるのは日本にとってふさわしくないと思っている。だがそんな問題は明治憲法時代にも果たせなかった長く検討しなければならない課題である。そんな小さなものが大きなものの御世話をするような状態になっている宮内庁だが、ここはただの政府の一部局という概念はぬぐい去って、皇室はどんなものかを充分考えて慎重に対応してもらいたいと思っている。

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