葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

リビアのカダフィー大佐殺さる

2011年10月23日 05時52分09秒 | 私の「時事評論」


 最後はまるで虐殺のように

 四十二年間にわたってリビアの最高指導者であったカダフィー大佐を追い詰めて射殺したとのニュースが発表された。
十月二十日の未明、首都トリポリを脱出して逃亡中のカダフィー大佐ら一行の車が、彼の故郷シルト郊外を逃亡中にNATO軍に発見され、フランス戦闘機に襲われて車を大破され、カダフィー大佐は隠れていたのを、駆けつけた反政府軍に発見され、傷を負った身で逮捕されたのち、「打たないでくれ」と叫びながら、それを無視して射殺されたという。

リビアのカダフィー大佐の長期政権はこれで終了することになるが、政権の最後のシーンまでが、
「あの無残な殺人のさまは、これが純粋なリビア国民の政権抗争と言えぬのではないか」
と絶句するような野蛮、残酷なもので、私もこのブログで何回か触れてきた通り、この紛争が国民による純粋な民主化闘争の結末で、「リビア国民の民主主義の夜明けになる」と手放しでは喜べず、「何という野蛮な」という感じが残り、首をかしげるものになってしまった。
このニュースに接して、アメリカのクリントン国務長官やオバマ大統領はじめ欧米の首脳などが、あのアルカイダの首脳ビン・ラ―ディンを奇襲して殺害した時の対応ように、ガッツポーズをとりながら、「正義は必ず勝つ」などと祝福のコメントなどを出しているのを見ると、肉食人種ではなく、植物系の私だからかもしれないが、欧米流の民主主義そのものまでが、何か恐ろしいものに見えてくる。


 「アラブの春」といわれるものの中身

この騒動はチュニジア、エジプトにおいて起こった一連のネットがはやし立てる「アラブの春」といわれる運動の中の関連した民主化要望の動きの一つといわれるが、私には前の二つとは、ちょっと違った結果をたどっていると私は見る。
「アラブの春」とは、中東の独裁長期政権に対する国民の不満が溜まっていると思えるものだった。インターネットのツイッターやフェースブックなどの呼びかけで反政府デモが起こり、国民の結集した不満の声が独裁政権を倒した。と世間では騒がれる出来事として、皆が論評している最近の世界の流れの一つなのだが、確かにネットでの呼びかけが各地で人を動かす傾向は、昨年あたりから続いている。今でもシリアなどでは激しい反アサド政権への抵抗などが伝えられているし、これは別件になるかもしれないが、ウォール街批判や貧窮格差是正行動の呼びかけなどが世界で広まっているようだ。
アラブの不満の行動なども、他にも多くの国で、似たようなデモや騒ぎが伝えられているが、それが成果を上げたチュニジアやエジプトでの成果を受けて、二月にリビアでカダフィー政権打倒の動きが起こされたとき、ネットやマスコミの世界では、チュニジアのベン・アリ政権やエジプトのムバラク政権反対での民衆勝利の結果のように、リビアのカダフィー政権打倒のアピールも、二、三カ月のデモで倒れるのではないかとの観測がマスコミなどに多く出された。

だが私は、リビアは前記二国とは条件も違い、そんなに簡単に見ることはできないと思い、両国の基盤の違いを何度もブログで指摘してきた。独裁政権の交代劇は、目まぐるしく変わる着物などのファッションのように軽々しく、服装の流行のように変わるものではない。人々が暑くなったから冬服を脱いで夏服に衣替えをするようなものではない。それはドロドロした血みどろで命懸けの争い、様々なその国ならでは条件を基礎にした権力闘争の死闘の結果起こるのだ。
チュニジアもエジプトも、政権転覆までに、ネットが騒ぎ始めてから、僅か二、三カ月のデモの期間を要したのみで片がついた。それはデモの成果であるよりも、その基礎となる政権崩壊の機が熟していたということの結果だった。だがリビアでは、二月に起こったこの騒ぎが、国内での機が熟していなかったので、結局政権譲渡に直結せず、一時は簡単につぶされそうな気配であった。おそらく特別の条件が無かったらつぶれていただろう。
ところがそこにNATOをはじめ西欧諸国が加わって来て、反政府行動を応援し始めた。デモ隊に武器を渡し、先頭になった時の戦い方を教え、彼らの力を露骨に強くしようと行動を始めた。西欧諸国ではなく、リビア国民がカダフィーと戦っているのだという形を懸命に作り出し、それでも足りぬと軍を出動させて爆撃などで応援し、制空権を完全に支配し、それはまるで西欧諸国軍がリビア軍と戦争を始めたような状態であった。限りない軍事干渉、そんな条件のもとに西欧側の指導を受け、武器を与えられた西欧の傭兵のような形の反政府軍がだんだん力を得てきて、カダフィー惨殺によってリビアを腕力でつぶした。

小銃一つまともに扱えなかった反政府軍がこの結果、半年ほど経ってから徐々に力をつけてきて、NATO空軍の制空権のもと、要所を空爆してもらいながら戦ったのだが、それでも政府が転覆するまでに十カ月と、想像以上に時間を要した。
だがこれとても、今回彼らに運よく、カダフィーの逃亡発見というチャンスに恵まれて終息したが、この機会を逸していたら、まだいつまで延びていたのかわからない。前期に国の例と、違いは歴然としているのではないだろうか。


 チュニジア、エジプトとリビアの違い

今回の政権転覆の運動が、どんな形で起こったか。もう一度眺めておこう。

チュニジアでは、そしてエジプトにおいても、国内にある独裁政権不満の動きは、かねてより国内に満ちていた。それは両国の独裁が長く続いた中で、たるみを見せていた国内状況の中、国民を圧迫して絞り上げる政治が徹底的に強行されて、圧政に不満な連中がどんどん増えて、ついには結束して抵抗しようおの空気が生まれ、それが政権をついに独裁者から奪い取ることに結びついた。それが明らかになった時、独裁者は敗北を認めて政権を譲り、国を追われる事態に結びついた。

しかも政権が独裁者から政権を譲渡され、新しく政権の座についた連中をよく見ると、それは単なる政治を知らない素人ではない。チュニジアはベン・アリ政権の時の有力者が途中から反政府に回って顔を並べているし、エジプトは中立の姿勢で動かなかった軍が、その後の指導権を握っている。これは大きな意味を持つので見落としてほしくない。新しい政権が円滑に旧独裁政権ののちに生まれるためには、それを受け継ぐだけの力を持った指導者と、支える組織やスタッフが要る。それがあってはじめて国の統治は継承され、国は治まるということなのだ。野次馬だけでは政治は円滑に動かない。
だがリビアにはそれが無かった。確かにカダフィーから追放され、カダフィー形勢悪しと見て反カダフィーに寝返った蝙蝠のような連中は反政府勢力に加わったが、国内には不満分子の組織もなく、カダフィーは存外国民をつかんでいた。しかもカダフィーに反対と立ち上がった反政府分子といっても、主張や理想はバラバラで、宗教、政治主張、部族意識、人種、対外国観など、どれをとっても一つにまとまる力にはならず、それぞれにカダフィーとは別個の目的で戦おうとする者の集まりだった。カダフィーと国民協議会の名のもとに連合して対決しているさなかにあっても、おかげで内部では衝突ばかりを繰り返している。お互いにあのグループの指揮下には、化でフィーに従うよりも入りたくない。こんな連中の組織した国民会議なので、カダフィーを追放した後の暫定政府のメンバーを決めようとしても、それもまとまらずに放り出されたままである。これでは国内をまとめて統一政府は作れない。

エジプトのように、軍が中立ならば後で国をまとめられるが、リビアの国軍はどうなっているか。外国人の傭兵などが多く問題ある軍ではあるが、これは最後までカダフィー個人に忠実で、彼について戦闘をして消滅した。


 誰がカダフィーを倒したのか

チュニジアやエジプトでも外国、特に欧米諸国の影響が無かったわけではない。それはすでに以前指摘したことである。チュニジアでは西欧諸国がそろってベン・アリ政権に政権放棄を求める形で示されたし、エジプトでは経済封鎖や資産凍結、一部の直接実力行使もあったようだが、それでもその圧力は、欧米が直接軍事力で政権を倒したものではなかった。

その結果、チュニジアではベン・アリとはちょっと離れた勢力が政権を預かり、エジプトでは、アメリカやイスラエルをはじめ、西欧諸国とも交流のパイプの太い国軍が、次の事態に自らが立ち上がって政権を維持するために中立を維持していた。これが数百万のデモで荒れたエジプトをまとめて次の体制に向かわせる力となった。
だが、リビアの様相は違っていた。ネットでデモなどの抗議行動を呼びかけて、これにこたえて独裁政権打倒の行動が起こり、その動きがリビアにも波及して抗議行動が行われたといわれているが、私はこれそのものが、もう、カダフィー追放を狙う外国などの、多分に作られた宣伝のように思う。リビアの国内の動きは最初から、カダフィー独裁政治に堂々と反対する声は微弱で、しかも僅かな上にバラバラで、統一できる組織もなかった。反してカダフィーの政権は国内の体制を固め、不満はあったのかもしれないが、国民への権威を維持していて健在であった。そんな事態は八月下旬に、NATO軍がリビアの首都トリポリを空爆して陥落させ、NATOが軍事的な制圧権を奪い取るまで続いていた。
国内の反カダフィーの勢力は、民族・部族対立でカダフィーに反するもの、回教原理主義者、逆に西欧追随主義者、アラブゲリラに親近感を持つ者、カダフィーから追放された者や功利的に寝返ったもの、人種的、部族的にカダフィーに合わぬ者、旧リビアの王制主義者、西欧に追随したい者、キリスト教徒など、どう考えても一つにまとまれない連中であり、それだけ一つ取り上げれば、どれも国を動かす力もなかった。彼らは反カダフィーの狼煙を上げるや、自分らで祖国を守る行動をとるより先に、すぐに西欧諸国や国連に、自分らを助けてカダフィーを倒してくれと懇願した。祖国の独立を維持しよう、その愛国心までが疑われた。

外国特に国連やNATOや米国の対応も違っていた。最初から、国際法の制約もあり、あってはならない行動であるのを知りながら、「人道上」などという言葉を使い、この運動をリビアの国内問題と見るよりは、カダフィーを倒すことが先進国の任務と思っているような行動に出た。西欧諸国の空軍がデモを抑えようとするリビアの正規軍を攻撃し、西欧諸国のイギリスなどの軍事専門家がリビアに出向いて反政府組織に対して基礎からの軍事指導を行った。


カダフィー首相がいなくなって

カダフィー首相の射殺はこんな騒動の中で行われた。国連人権保護機構は、国際法から見ても、カダフィー首相の暗殺を違法行為だとして調査することにした。カダフィーの妻などからも問題は提起されている。私も完全な無法行為だと思う。反政府組織側も「殺せとは指示していなかった」と弁明した。だが、そんな常識が通用するようなまともな反政府軍ではなかったのだろう。どちらにしても、一度殺してしまった命はもう、戻らない。
「政権を担当する組織が無い」、「外国の干渉から独立をする気概もない」「共通の敵カダフィー首相と戦いながらも内部で常に争っている」「彼らは規律を守るほどのレベルにはない」。これが独裁政権を倒した後に残っている新しい傾向というのなら、この国にも多難な将来がやって来そうな気がする。

カダフィーは強引な男だった。勝手なこともたくさんしてきた。しかし、骨の髄まで国民にとって邪悪な独裁者だったのだろうか。国民を虐げることばかりを考えて実施した男だったのだろうか。私にはそうでないところも見えるような気がしてならない。私は残念ながらこんな状況を冷静に見通す知識が無い。だが単純に独裁=×、民主的=○の原則ばかりでものを見るのは果たしてどんなものだろうと思っている。

現在のリビアを見る。リビアの国内にはミサイルをはじめ、多くの外国製武器があふれるように残されている。だが、それを安全に管理しうる能力はなさそうだ。そこにカダフィーがいなくなれば、今度はお互いに相手をつぶし合う争いを始めるような様々な対立が残されている。少なくともカダフィーの時代には、彼に抑えられて動けなかった対立は大きな問題になってくるのが必至である。

またアラブには、やはり三月からデモ騒ぎが続き、すでに数千人の犠牲者が出ているといわれるシリアのアサドの独裁体制を巡る争いが残されている。シリアが、カダフィー殺さるの情報を受けて、どんな状況に発展するか。遠くの火事を見るように、「春が来つつある」などと眺めておれない情勢にある。

追記。私はここに出てくるカダフィーを支持しようという立場ではない。私の基本理念は穏やかな日本人的穏健主義だ。カダフィーの主張するような過激な民族主義には馴染まない。
だがそれとともに単純な民主主義も好きになれない。それは衆愚主義に道を開くもので、早くもジャン・ジャック・ルソーなどが喝破したように、人間のともに生きる理想などとはほど遠いもので、より高度な哲人さえ存在すれば迷わず放棄すべきものと考えている。
だから私は冷静な客観主義でこの文を書いたつもりである。

西日本の神社では唯一の笠懸奉納

2011年10月19日 18時31分02秒 | 私の「時事評論」
馬には縁も深い上賀茂神社に



 流鏑馬集団と私のかかわり

 私は鎌倉市に本部を置く伝統的流鏑馬(やぶさめ)を各地に奉納する集団の役員をしている。そこでやぶさめ行事の一つ、笠懸演武の奉納があったので、先の日曜日に京都に往復した。

鎌倉幕府をうちたてた源頼朝が、指揮下の武士から弓馬の名手を選び、射手たちが艶やかな狩衣をひるがえして、流鏑馬神事を神社に奉納した。そんな縁もあるというので今回、武家の都であった鎌倉市が、世界遺産登録を目指すなどということもあり、鎌倉武士の流れを引く流鏑馬も、にわかに関心を集めるようになってきているが、その古式伝統の流鏑馬を引き継ごうと、日夜練習している我々にとって、笠懸行事は流鏑馬、犬追いものの演武三種目の中で、最も勇壮な華である。通常で同じ高さの的を並べた流鏑馬に加えて、足許の敵も想定した際の的にも備えて競射する笠懸は、武術上達を目指す武士たちにとっても、技量を磨く最高の弓馬術とされていたものだ。

そんな行事に参加しているのだから、見かけたところヨボヨボの爺さんに思えるあの人も、「さすが隠れた技能をお持ちである」などと間違えて、私に感心なさる方もいるかもしれない。だが早まってはいけない。正直にいえば、私はまともに馬を駆ることもできないし、馬上どころか平地で弓を射ることも練習したことのない全くの素人だ。でも世の中はおかしなもの、鎌倉に住み、そこで育った奇妙な御縁が重なって、背広姿のまま、この流鏑馬集団の母体、社団法人大日本弓馬会の役員を仰せつかることになっている。

流鏑馬には全国を見回すといくつかの流派があるが、個々の流鏑馬は、あの世界の黒澤監督がほれ込んで、三船敏郎を主役に、豪快無比に馬を駆り疾走させ、弓や刀を使って活躍する数々の時代劇映画に取り入れた黒澤映画の、あの全速力で豪快に疾走し弓を射る技術が我々の流派のものである。いまは物故されたが三船さんも我々のグループの一員だった団体、ブッシュ米大統領が来日した際、明治神宮の馬場で流鏑馬を演武して、鎌倉武士の片鱗を見せた武田流だといえば、分かりが早いかもしれない。鎌倉時代の流鏑馬技術をそのまま現代まで継続し、それを忠実に継承した現代の騎手を目指そうという人々が集まって、仕事の休みは殆ど稽古に明け暮れ、明治神宮の例祭や頼朝ゆかりの三島大社夏祭り、鶴岡八幡宮の鎌倉まつり、寒川神社の例祭などの流鏑馬のほか、関東地方各地で、日頃の磨いた技を披露しているのがこの団体だ。



 800年ぶりに笠懸を復活

先にもふれたように「笠懸」という演武は、鎌倉伝統の「流鏑馬」と総称される弓馬術の一つだが、疾走しながら射る的が、通常神前に奉納する流鏑馬の高さも同じ三つの的ばかりではなく、的が走る馬のコース足元の右手や左手にも設けられていて、多様の角度で騎射する多様な技術が必要とされる実戦により近いもの。それを我々京都の人から見れば東蝦夷(あずまえみし)と言われそうな鎌倉の集団が、わざわざ京に上り上賀茂神社に奉納するようになったのには、それなりのご縁があった。

上賀茂神社と言えば較べ馬、馬祭りなど馬のまつりで、馬とは格別に深い御縁のある神社である。しかもご創建は最も古く、京都の歴史とともに歩んできたお社だ。世界遺産・京都の中心的存在であり、多数の文化財に恵まれたここには、見渡す限りの広い境内のご社殿の前に素晴らしい馬場があり、毎年、ここでは神社の特別な神事で有名な「較べ馬」が古式のままに奉納されている。

その馬場には、かつて我が団体は、武田流の関東での中興の祖である今は亡き大先輩の金子有隣氏・その息子金子家教氏などが活躍していた時期に、日米合作の黒澤映画撮影で使用させてもらった思い出がある。また同神社に残されている歴史を紐解くと、神社にはかつて笠懸などの弓馬術が奉納されていたが、承久年間(いまから800年前)の鎌倉時代に、後鳥羽上皇が流罪になられて中絶されて以来、長い間途絶えたままになって現在にいたっているということであった。

その中絶された笠懸を、ぜひ関東鎌倉の地で鎌倉幕府以来の流派を継ぐ我々に奉納させていただきたいという、我が一門の代表であった金子家教氏などの強い願いを受けて、神社もそれを了承し、ここでの笠懸の行事奉納が決まったのは平成17年のことであった。そしてこの奉納は、その年以来、毎年続けられて今回が7回目となっている。



一転雨も上がって、

少々前置きが長くなったが、奉納にはそれに加わる射手や関係者ばかりではない。多数の馬から用具、射手はじめお手伝いを願う諸役の方々の装束に至るまで、用具まですべて引きそろえての京都行きである。今年も一行はそれらをそろえて前日に当たる10月15日に上賀茂神社に到着したが、折から天気予報では、明日は折悪しく雨が降るのではとのこと。垂れ込めた重い空のもとで常に不安が付きまとう準備だったが、なんと夜には激しい雨も降り続けた。

だが翌16日は一転変わって上天気。おかげで士気も上がる。早朝にホテルを出て神社に揃って参拝し、やがて準備を始めた馬場には、朝から大勢の参観者も詰めかけてくれて、まことに流鏑馬日和の一日となった。上賀茂神社は正式な名称を賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と申し上げ、御祭神は雷さまの神威を持ち大自然の気象を取り仕切る神さまでもある。前日夜の大雨も、この日のために、神さまが今日の雨まで先に降らせて、良いお天気をご用意くださったような気がする。そんな上天気であった。

ただ、私はと言えば土曜日にあいにくの外せぬ用があり、たった一人の背広組であり、気にはなりながらも遅れて当日の朝一番での京都入り。私が横浜から新幹線に乗る頃は、まだ空から雨粒が落ちていた。静岡県に入るあたりから天気もすっかりはれ上がり、京都に着いたその足で、関係の方々にあいさつなどをする頃になると、今度はまるで夏を思わせるようなカンカン照り、京都もそろそろ観光シーズンに入り、この神社特有の式年御遷宮も間近で、お屋根の桧皮葺きの御造替工事の進む神社の境内は、前夜の雨に、境内の埃もすっかり洗い流されたのか、草木の緑もひときわ鮮やかで、ゆっくり笠懸を見ようとの人たちが練習の時間から、会場に続々と詰め掛けていた。

笠懸は昼から始まった。ご社殿での神事が終わり、神社の役員や社家の方々、青年会の方々がお手伝いで諸役を引き受けてくれて、装束の姿も鮮やかに所定の座に就き、やがて笠懸は本番。鮮やかに狩衣装束を着飾った射手たちが的を見事に射抜くたびに、どっと大きな歓声が沸き起こった。今年の笠懸は見事的を射抜くものが多い。

この笠懸には800年前の笠懸にはもちろんなかった女性の射手も三名登場した。巴御前が馬に乗られて参加されたら斯くや艶やかであったろう、という姿で大拍手の中に揃って健闘した。女性騎手奮闘の風景だけは昔の流鏑馬と姿は変わっていたのだが、紅三点、逞しき男の射手たちに負けずに長い髪を風になびかせて疾走していた姿はなかなかのもの。それがかえって往時から800年後の現代に、往時の姿といまとを思い比べ、今と往時との比較をする良い参考にもなっているし、いまでは花を添えるものにもなるのではと私には思えた。

なお我々はこの神賀茂神社での奉納のあと、11月の3日、明治神宮の祭礼当日には昼過ぎより、境内で御祭神の明治天皇に流鏑馬を奉納することになっている。

政治は軽薄さにゆだねていいのかー―シリーズ 2

2011年10月13日 21時32分47秒 | 私の「時事評論」
小沢裁判の背景を見よう

 憲政の常道を踏み外して。
  
 あの小沢一郎氏の公判が始まった。

 検事が小沢氏の犯罪事実が立件しようと各方面から執拗に調べたが、これは無理だと諦めて証拠不十分で不起訴にした。
 しかし彼を失脚させたい反対党の自民党やマスコミなどが納得せず、結局、民間人も加えて「検察が起訴しないのなら、民間が検事に代わって訴訟する」という結論になり、指定された弁護士が検事に代わるという、我が国憲政史上で異例といえる事態となった。どこか「魔女狩り」を連想させる裁判だと言ったら言葉が強すぎるか。

だが、これは憲政上の概念変更にもつながる新しい概念による裁判だといっても良いだろう。それが日本の法体系そのものへ、どんな影響があるものか、この裁判がどんな結果になるのだろうか。わが国の将来に大きな影響を残すものになりそうだ。
 この裁判まで経緯は新聞やテレビに報道されていて、国民周知のことだが、概略の説明をする。

小沢氏の陸前会という政治団体が、小沢氏秘書の住居を建てようと土地を購入した。その時、小沢氏の資産を陸前会が借用して調達したものと思われた。だが、提出された帳簿には、その資金が銀行借り入れとされていた。
 ますこみによると、それは小沢氏の資金を銀行に預け、同額を同じ銀行から陸前会が借り、これを購入資金として調達していた。
 こんな情報をマスコミが報道し、その工作をしたとされる秘書たちが逮捕され起訴された。

 小沢氏の裁判が始まる直前に、秘書には東京地裁でいずれも執行猶予付きの有罪判決が出た。判決は、秘書たちへの検察の調べが常識を越えた度の過ぎたものであり、検事の調書が裁判でも証拠として取り上げられないという異常な状況の中で出された。
 なぜ検事調書が証拠として採用されなかったのに、それでも有罪だとされたのか。判決はそこのところがあいまいだった。充分の証拠がなく、法的には不完全な推測に基づくものであったが、推測の上に秘書の有罪と認めたものであったのだ。

 秘書たちはただちに控訴した。だが高裁での判決はまだ出ていない。そんな中で小沢氏の裁判が始まった。

 なぜこんなあいまいさを残してこの時期に小沢氏への訴訟が出されたのか。それは検事以外の有識者という第三者を交えた審査会が、
「やはりこれは訴訟として立件すべきである」
との結論を出し、今度は弁護士を検事役に、裁判をすることに決めたからだ。背景には、「小沢の黒い政治を何が何でも晒すべきだ」との、マスコミや野党国会議員などの強い圧力があったことは間違いのないところだろう。
なぜ中立を維持し主観的な世論などに惑わされず、時の権力の指示にも動かされず、冷静に判断せねばならない検察当局が、小沢立件のみに、こんな露骨な執念を燃やしてきたのか。さらにその検察の検事までが、立件を断念した案件なのに、それでもあくまで訴訟へ持ち込もうとする圧力はどこから生じているのか。それには、裁判を冷静に眺めて起こしている以上の、最初から小沢氏を犯人として取り上げたいという意思が働いているようにも見える。そんな点が、私が「魔女狩り」などという言葉をもちだした動機でもある。
 訴訟の行くえは、ある面では訴訟自体以上に関心のあるところである。私などは日本の立憲政治が、一部の集団ヒステリーの圧力に流されて、暴走を始める危機もあるとみて、強い懸念をもっている。
検察や司法が、日本国の国政に公正さを要求し、監視の目を張り巡らせて、真に国民のための政治がおこなわれているかを監視することは、望ましい。だがそれはすべての政治家に対して「法の前には平等」という法治国の大原則に従ってのものでなくてはならない。政治資金規正法の記載違反は、小沢氏のほかにも多数のものが指摘された。それらがすべて厳しく監視され、検察が同様に調べられるのであれば、問題はないともいえる。だがいままでのものは、いずれも当人が陳謝して、修正申告をすることにより解決されてきた。
 また政治環境の浄化のため、日本国が国民の生命財産を守る為に、拉致問題などでいま厳しく対決している北朝鮮などの外国人から違法な献金を受け、さらに彼らを支援するグループに資金を提供する政治家も、相次いで表に出されている。これは国自体が、国民の生命財産の重大侵害があったとして、国を挙げて戦い、国家の権威にもかかわる重要な問題である。そんな外国をまるで応援するような我が国の歴代首相や閣僚などが、騒がれているのに検察は動いていない。
 小沢氏が資金の紛らわしい操作をしたのなら由々しきことである。だが、国の尊厳を守る検察は、それこそ日本国民のためにも検察庁は、小沢氏以上に執念をもって対応し、内なる敵を立件し、国の枢要の場から追放していく義務があると私は考える。それが正義の番人である検察庁の任務である。


 隔靴掻痒の結果で成果はあるのか

 客観的にみると、この訴訟は「小沢氏を引きずり降ろそう」とのマスコミや、そのもくろみに引きずられた国会議員などの力が強く働く結果、進んできたと見ることができる。小沢氏が現在のマスコミ、政治家たちが束になっても勝ち目のないだけの実力をもっていた。それで小沢金脈を表にすることができれば、この小沢の権威を覆すことができるとこの問題に飛びついた。
失脚を実現させるには、小沢氏の出したとされる4億円が、小沢への不正な賄賂であったことを突き止めて、小沢氏を犯罪者としてひっくくるのが最も早い。そこで検事たちも、小沢氏はじめ関係先を徹底的に捜査し、厳しい尋問を行った。だが小沢氏の護りは固く、決定的な証拠は上がらなかった。
 そこで捜査のプロの検察庁はあきらめた。残る立件できる違法は、帳簿の不正記述が小沢氏の知る範囲かどうかの問題だけだ。
 そこで秘書が行った行為の連座制の責任追及するだけにに切り替えざるをえなかった。だが、これに対して検事の調書は、誘導尋問などで書かれた者として批判がでた。だから検事はあきらめた。
しかしマスコミやこの種の捜査には素人の政治家などはあきらめない。そこで変則的な訴訟になった。

 これで氏の追い落としができるというのだろうか。私は小沢氏の政治的主張を好まない。それは日本の国がどのような国で、どんな意識で成り立っているのかを知らず、ただ新憲法に基づいて、なりふり構わず動くからである。中国などへの朝貢貿易的接触も、歴史に対しての理解不足によるものだと思う。これが将来の日本にとって、小沢氏の政治がおこなわれるようなことになれば、大変なことになりかねないと大きな危惧をもっている。
 だが、それとともに、小沢氏の政治に対しての強い執念と、どれだけ反対されても、進もうと決断したら、突き進んで来た決断力としたたかさも見てきている。小沢氏を政界から引きずり落とすのなら、小沢氏にとっては「ぐうの音」も出ない決定的な種をつかむ「正攻法」で対応せねばなるまい。この種の「風が吹けばおけ屋がもうかる」というような隔靴掻痒の手段で迫るのは、決して彼を引退させる道にはつながらないと思っている。
 そればかりではない。このようなおかしな方法で彼を追い落とそうとしても、成果をあげえないばかりか、失敗すればどんな反撃が出るかもわからないし、それ以上にその活動の社会に与える副作用はとどまるところを知らない。
 小沢氏の発言を注意深く見ていると、彼は「法は道徳の最小限度である」というような慎み深い見方を身につけず、「法さえ守っていれば、それでその人は立派な人物なのだ」という強烈な人生哲学をもっていることがうかがい知れる。さすが田中角栄氏の一番弟子だった小沢氏である。田中首相はロッキード事件でついに倒れたが、その問題が起こるまで、日本のマスコミは沈黙させられて彼の批判はほとんどせずに、「ヨイショ」記事ばかりを書いて恐れていたが、小沢氏にも同じような対応が見られてきていた。「疑われる」「怪しい」などといくら言われても、そんなことで傷つくような男ではない。政治家としてたびたびの不遇や挫折の中を切り抜けてきた彼は簡単には倒れない。
 これで裁判に小沢氏が勝てば、小沢氏の周辺に囁かれている賄賂疑惑は、今度は小沢氏によって過去のものにされるのではないか。
「俺は法を守る善人だったことが証明された」とばかり胸を張り、再び大きな力を取り戻し、小沢流の日本に日本そのものを変えていこうとするのではなかろうか。

  写真は東京高裁に出廷する小沢氏(WEB)

政治を軽薄さに委ねてよいのか――シリーズ1

2011年10月13日 21時27分15秒 | 私の「時事評論」
  大事な点が見落とされている
 
 いまこそ、日本の置かれた立場を見てみよう

 最近の我が国の政治・社会環境は、誰が見ても立派なものとはいえない。政治はどこに理想を定めて、そのあるべき理想を追求していくかとの姿勢を忘れ、いやそればかりではなく、この状態を続けていけば、数年後にはどんな状態になるかとの将来の分析判断さえも定まらずに、迷走している。「日本国」の運転手が、どこに行くかも考えず、運転技能もないのにハンドルを握っている。彼は運転手になったのだから、いつまでも憧れの運転席に座り続けていたいとの願望だけをもっている。こんな態のもとに国が置かれているような具合である。
 本来なら運転手(首相)の指示に沿ってコントロールされるべき経済は、歴代の運転手が、税金を徴収すると運転手が座を追われると恐れ、回収のあてもない国債を乱発して現段階の収支均衡を先送りし続けて金を使い果たし、収拾のつかない状態になってしまった。


 国民は楽観しているが

 国民は今の我が国経済は本来は健全なのだが、不条理な円高により、一時的に国際的な不均衡のため、苦しい環境におかれていると説明され、そんな状況なのかと思っている。大国の為替相場での円つり上げ黙認のため円が上がり、我が国の輸出が停滞している。加えて最近になり、急激に工業力を伸ばしてきた中国はじめアジア・アフリカなどの開発途上の諸国が、独自に自国の通貨の交換レートを安く設定して急速に輸出市場に進出し、その面でも日本の輸出市場は押しまくられている。
 わが国の知識や工業技術水準は優れていて品質もよく、本来は輸出が伸びて当然の強い立場にあるのだが、円高がひどく進み、不当に苦しい立場に立たされている。将来不均衡が解消して円が正常な位置に落ち着けば、我が国には安定した繁栄の時代が再び戻ってくると信じこまされているようだ。

 だが果たして本当にそれだけか。今の急速な円高の背景には、アメリカ経済の停滞によるドルの相場の下落と、ヨーロッパのギリシャやイタリアなどの国の財政の破たんによるユーロ安が基本になっている。だが円高が止まり、円安になれば安心なのか。最近の日本が、戦後65年の経過によって、従来のように、勤勉で優秀な技術に支えられた本当に強い国なのかも考えてみる必要があるだろう。逆に今のギリシャのように日本が追い込まれることだって想定外のこととしておいてよいとは言えないのではないか。
 勤勉で国民の知的水準が高く、過去において世界最高水準だといわれた民族の水準が高いと評価されてきた実績は、過去のものになりつつあるのではないか。戦後の教育行政の変化により、日本人が変わってきた、国民意識の変化により、過去に築かれた日本人の水準は急速に崩れてきている。最近の信頼すべき客観的な国際調査などによると、日本の学童の知識水準は、先進23カ国で比較すると、いずれも18番目前後と世界先進国の最低であるなどとの結果も発表されている。
 いずれ、外国が日本の実情を実情に合わせて客観的に見るようになったなら、日本といま、深刻な国の能力が低下して、再生不能の危機を迎えて世界が注目しているギリシャとの間に、それほどの決定的な差があるということが言えるのだろうか。円だって、すでに国内で千兆円もの赤字を抱え、その金額は膨れて、全国総生産の2~3年分相当がすでに使い終わった負債の金額になってしまっている。今後を評価する政治や経済を眺めても、今でも日本は、国の借金を満足に解消できる力もなく、税金をとろうにも国民に力がない。部分的には日本の方が悪いデータだってあるのだ。政治が国民を結集させて苦境を乗り切る指導力を発揮する決断力だって日本政府には出せそうもない。
 加えて世界で最も急速に進む日本の人口の高齢化と少子化の傾向、日本はいったいどうなると予想すればよいのだろう。
 政治の無能が、一転して日本の円安への攻撃対象になり、今の1ドル75円前後に評価されている円が、買いたたかれて逆に200円にも300円にもなり、さらに急速に価値を落とす場合もありうるのではないか。世界中、誰も呆れて日本を相手にしない。世界が円などに見向きもしなくなる事態も起こり得るのではないか。そんな危険さえも感ぜられるのだ。


 頼りは国民に残っている過去の国民性なのだが

 こんな将来の可能性を考えてみれば、我々が漠然と意識しているより、日本は甚だ危険な状態であると言えそうである。比べて明治維新直後の日本のように、途上国の中からも、俄かに力を伸ばしてくる国の台頭も予測される。いつ世界の我が国に対する評価が急変し、日本が経済的には第二のギリシャのような地位に落ちてしまうか分からない。今の相場は投機を含んだ市場で決まる。ドルだってユーロだって、今までは強い通貨であったのが、急激に下落して現在になった。まして日本の円においておや。
 ニュースでは、ユーロ諸国から赤字減らしの政策実施を厳しく追及されながら、国内には反発ばかりが起こり、それを我慢しようという気風が起こらず、苦悩しながらどんどん行き詰っていくギリシャのニュースが毎日報道されている。それを見ながら、日本もギリシャのように、苦しい時に国民を厳しく指導して我慢させ、苦境を脱しうるだけの強い力を政府が持っているかを考えてみる。日本も今の環境では苦難を乗り切る力がない。政府にもそれを国民に守らせる力がない。
そんな事態が起こったら、日本は政治的にも国民をまとめる能力のない国にみなされ、世界から捨て去られる時が来ないとも限らないのだ。

 だが、そんな危機をはらむ日本は、これから再び高度の技術と発展力、国民がまとまって行動できる国に戻る苦痛を乗り越えられるのだろうか。考えてみると前途は暗い。少なくとも今のような政治環境で、国の姿勢を決めていて、国民がこんな見方で政府を見ていては、日本は絶対に苦境からの脱出の成功はできないだろう。日本は、再び力を蓄えて、世界の厳しい環境の中に独立国として生きるためにはどうすればよいか。真剣に考えなければならないときに来ていると思う。


 日本の持つ大きな力を見直そう

 私はそんなことを言いながら、悲観ばかりはしていない。それは日本にはまだ、日本の歴史が育んできた日本人の国民性が、心の奥のどこかに残っていると思うからである。過去の日本の歴史を眺めてみるとよい。追い詰められた状況を迎えると、そんな外国からの圧力の中で、日本にはどこからかそれを乗り越えようとする力が育ってきて、その力によって何度か厳しい時代を生き抜いてきた歴史の積み重ねがある。それは苦しい努力の積み重ねで、決して楽なものではなかったが、過去に何度も日本が経験したことだった。日本の歴史が生んだ国民性が、それを可能にする力をもっていたのであった。私はそれを、日本民族の育った環境が我々に遺伝因子のように刷り込ませた民族性にあったと思っている。日本社会の行きる知恵であった。
 時代は確かにもうすでに、かつての集団共同作業を中心とした稲作農耕中心の社会が崩壊し、地縁や人縁、大家族や共同体意識、そして地域の祭りの意識、故郷の意識、個人より集団を大切に思う意識、立身出世を追求する意識がだんだん薄くなってきているといわれる中である。だが、そんな環境で数千年の間、営々と暮らし続けてきた生活観は、人々の中にまだ遺伝子のように蓄積されている。それが日本人を揺り動かして、危機を乗り越す可能性を生んでくれる。
 見ればよい。先の東北・関東大震災の時の震災地や首都圏での、国民の非常緊急の事態を前にしての秩序立った進退、混乱の事態を前にしてもパニックにならずに指令のままに整列して順番を崩さず動く姿などに示され、また不足する緊急物資の配布の際などでも、整然と行動する面、混乱時にも治安が概して安全に保たれている点などに現れて、世界のジャーナリズムがこんな国が世界にあるのだと驚いて報道した。
 また、政権が信用を失って一年ごとにコロコロと首相が代わり8年間、国会や政府が国民を信頼させうる力を失った情況になっても、日本には現に法制上の行政的な政治を行う内閣の権威の上に、日本国の国民が自然とその大きな権威を認め、どんな時でも尊崇の姿勢を失わず、無限の崇敬を寄せる皇室が存在している。政府がどんなに失敗を繰り返しても、国民をまとめる皇室の大きな信頼は揺らがない。
 今回の大震災の対応に関しては、被災地の随所から、政府に多くの不満の声が寄せられ、政府要人の視察などには、「いつになったらまともな対応するのだ」との強い不満の声や罵声が上がり、それは半年以上経たいまも収まっていない。なにも抜本的な対策が打ち出せず、小田原評定と力不足で時間ばかりを経過させている政治の姿勢に対しては不満の声が上がるのだが、それでも日本国民が我慢して、耐えているのは皇室の力による。
 被災地の人々のことを憂い、お見舞いに駆けつけられた天皇陛下、皇后陛下、皇族方に対しては、心からお見舞いに感激し、そのお言葉に涙して耳を傾けるのが被災地の人々の反応であった。とくに天皇・皇后両陛下のお見舞いに対しては、そのお気持ちに感激し、最高を誓う姿が各地にみられた。
 日本にはこの国土が建国以来、国民のことを最も大切なことと己を捨ててひたすら思い、神々に対してお祭りを続けておられる代々の天皇陛下の統治される天皇陛下の国なのだという思いが、国民の中に今でも強く生きている。たまたま今の憲法は国の行政を、選挙で勝った者が首相となって、天皇陛下の認証を受けて政権の座に就き、日本丸の運転手の地位に座っている。だが彼は日本という国を動かす運転手、言葉を換えれば征夷代将軍にすぎない。日本の国はもともと天皇さまの国だ。こんな意識は根強く生きている。
 この意識が現代まで、強く残っているのが日本だ。
 これからの日本は様々な苦しい道も歩まねばなるまい。だが私は、こんな気風が残っている限り、この潜在的な力が作用して、再興は可能であるし、日本は不滅だと確信をしている。

   写真はギリシャ国内で、緊縮財政に 抗議する市民でも(WEB)

光速より速いものがありそうだ

2011年10月04日 16時50分16秒 | 私の「時事評論」
これで過去に戻れるとの期待論まで

アインシュタインの相対性原理が
崩れたら、光の速さより早いものを
開発できるかもしれない。
そんな夢を描く人が出てくるの
かもしれない。
漫画の宇宙戦艦ヤマトの
ワープという光を越えて早く移動
する乗り物、そんなものに乗って
宇宙の果てまで行ってみる。
あるいはタイムマシーンに乗って
過去の時代に行ってみる。

あの時、言い忘れたこと、やり
残したことを弁解したり訂正して
やり直す機会があるかもしれない。

夢を描くのは自由だが。


ニュートリノは光より速い

 欧州の合同原子核研究所がこのほど、ニュートリノ素粒子の通信時間を測定してみたら、その速度が光の速度より早いというデータが出たと発表した。なんでも378キロ間で一億分の6秒(ナノ秒)早かったというのだ。
 現在の物理学の結論はアインシュタインの相対性理論で、物の速度は質量の無い光の速度を越えられないという大原則に立っている。
 これが、間違っているということになると、根本から今の科学常識を見直すコペルニクス的大転換になるそうだ。物理の世界では大きな論争がおこりそうだという。
 
 同研究所では、軽率にこれで世の常識が大きく変わると断定するのは早いが、データ計測のミスではないと強調、どうしてこのような結果になるのか、学会などでも大きな論議をして、慎重の見極めたいとしているようだ。
 

 西欧文明の特徴

 現在の物理界の発想では、光の速さが絶対速度。これより速い速度が存在すれば、それは時の観念がマイナスになり、その速度では過去に戻るだけの速さになる理屈なのだそうだ。そのために、SF界や空想好きのものはこのニュースに胸躍らせているようだ。

 だが、その前に考えなければならないことは多いのではないだろうか。
 それはそれほど高度な物の理(ことわり)を、客観的だと確り認められる角度で、我々は身につけているのだろうか。もちろん第一に検証しなければならないのは、データが科学的に瑕疵のない完璧なものなのかどうかである。それが違っていたら話にならないのだが。それに光の絶対速度を否定するデータが、光や電気ばかりで組み立てられた計器によって、果たして正確に測りうるとの理屈が立つのかどうかも、専門家でない私にはわからない。

 だがそれが正しいとしてみたところで、我々人間の感覚や知識・文化がどんなものか、それを知覚しうるものなのかも併せて考えてみたい。
 空気の匂いで嗅覚を動かし鼻で嗅覚を知り、五体が物に触れた感覚で触角を動かし、空気の振動で音を感じとり、目に映る光の影でものを見てきた人間が、それらを駆使して五感を働かせて考えて、分かってきたことの累積された結集が今の科学知識というものだ。そこにはおのずから、五感から感ずる
ことのできる限界というものがあるのかもしれない。

 人間は確かにこの地球という小さな宇宙の中の星で、他の動物の支配をはねのけて、できる限りの知恵を結集して繁栄を続けてきた。いくつかの動植物ははねのけて、この世界の支配者のようにふるまっている。
 だがそんな人間の繁栄した時期だって、大きな地球という星の歴史から見れば、瞬きをするほどの歴史でしかないし、しかもその及ぼす力は、地球のほんの表面の、地球にとっては、一番表の皮膚ともいえる上っ面にすぎない。
 天候だって自然現象だって、あめ、かぜ、台風、地震や津波、暑さ寒さ、何一つ世界の人類の総力を結集したって動かすことはできないし、そんな微力の人類が、すべてのものを支配する時などを動かすことができそうにも思えない。
 
 それだけではない。今の物理学というものは、主として西欧文明に属する人たちの、頭の中に育った知識の集大成だ。それは東洋的我々のたどってきた文明とは少し異質の、人間はすべてのものに打ち勝って、自然に対してもそれを征服して生きていくとの文明思想から生まれている。
 我々東洋人、特に日本人は、自然の恵みに感謝しながら、その恩恵によって生きていくとのまったく異質の発想から生じた文化思想を育んできた。その発想、ものの考え方の原点は、西欧文明とは全く違うものだった。
 だが、その西欧文化の積極的な自然や物事への対決の風潮が、産業革命という大きな科学技術の進歩を生み、人類社会の主導権をもった。
 そんな西欧中心の時代が二百年以上続いて、さいきん、乱開発や資源の枯渇、様々な人類文化の問題点が叫ばれるような新しい時代を迎えつつある。コペルニクス、アインシュタイン、時に応じて文化そのものを見直しながら進んできた西欧文明も、それだけでは発展を続けられないほころびが生じつつある。それが光の絶対速度が由来だと騒がれるそこにはあるのではないだろうか。


 過去に戻る論などを進めるよりも

 光の速度をゼロとすれば、光よりはやい速度はマイナスになる。だから光より速い速度が発見されれば、それは時間の概念を通り抜け、我々が過去の時代に戻ることができるきっかけになるなどと騒ぎたてている人があるようだ。だが、それは間違いだろう。

 あくまでも光が最速であると決めたのは、人間社会の概念設定という次元の、人間が勝手に作り出した前提だ。ここには証明を充分していない条件がいくつかあり、前提は物理そのものではない。
 この広い宇宙の中の、針の先ほどの大きさもない宇宙の中の一粒の埃のようなどこぞやで、そんな方程式を立ててみたところで、その力によって、宇宙の時の流れが止まること、そして逆走することなどあり得ないのではなかろうか。

 冷静に、広い視野をもって、この問題は考えなければなるまい。もし、そんな我々の科学を支配する方程式が通用しなくなったなら、まず考慮するのは論を立てる前にあるドグマ・前提条件の検討だろう。広い視野から通用する立派な方程式に改めて、それからデータを重ねてみるのが、最初にしなければならぬ我々の務めであろう。


 科学で扱えていない視野もある。

 そんなことより、人類がしなければならないことはまだたくさん残っていると考える。
 物理では、いまの西欧的な思考では証明できないことがたくさんある。自然をつかさどる神の問題、祖先の霊の問題、我々はそれを体で感じて最近まで生活をする文化圏にいた。
 こんなものに対しても、我々はそれがどのような働きをもつものか、論理の上では充分に極めることができないできた。超常現象というか、そのような存在が実際に働いてなければ、到底ありえないような現象、それが現実に存在して、我々の生活に大きな影響をもってきた。

 これらに対して、今の現代の風潮は、そんな現象を物理的に証明する技能がない。証明できないものは、とりあえず存在を否定し、ないこととしなければ論が立たなくなるとの何とも乱暴な対応法しかできず、実際に無視したままで過ごしてきている。

 でもそんな論理は、光より速いものはないことにすると、勝手に定めたものの考え方と一緒で、もうこのところで思考停止に陥っているのではないだろうか。先祖たちが、そした神々が、我々へ与えてくれたもの、残してくれたものに感謝して生きる。彼らの忠告を込めて発してくれている信号、それを守って生きるとの姿勢は、現実に生きる我々にとって大切な糧である。信仰の世界では良くそんなことが語られて、それが人々の暮らしに影響を与え続けている。

 だが、そんなものに惑わされて生きるのは非科学的だとする物理万能主義の主張も強い。
 神が、祖先の霊が、存在しないという証明などは、それが存在しないとする証明とともに、合理的にできていないのが現実なのだ。
 それを認めずに、飽くまで切り捨てようとするから、「想定外」などと言って大騒ぎをすることばかりが流行する。

 アインシュタインは、自然を敬い、その霊的威力を感ずる人だったとどこかで読んだ。我々も頭を柔らかくして、おかしな独善におかされて、頑なになりたくないものである。

 註 この文はただ思いつくままに書いたもので、論理の検討などは行わずに書かれている。このことを承知の上で読んでいただきたい。

高橋紘君を送る

2011年10月02日 15時47分43秒 | 私の「時事評論」

君は人生を急ぎ過ぎたよ

突然の訃報に接した。彼が一昨日、肝臓へのがんの転移で自宅そばの病院で亡くなられたという知らせを聞いた。共同通信の記者で、太い枠の眼鏡の似合う愉快に笑う男であった。伝統保守の頑固者である私とは、かなり対照的な主張をしてきた男、特に日本の皇室のあり方については、ともに皇室は日本にとって大事であるという大枠は一致するのだが、彼と私はことごとく主張が違い、それでいて彼とは親しく交友を続けられた男だった。

早稲田大学を卒業した彼は、共同通信社という全国の新聞社にニュースを提供する通信社に入った。共同通信は戦時中、日本政府・大本営により、日本の新聞社が一つにまとめられた時、そのおとし児として生まれた連合通信が、戦後、形を変えて生き残った組織が母体で、全国の新聞社・通信社・テレビなどが参加していた。今でも全国の地方紙などで、そのニュースの大半をここの取材に依存しているところは多い。そこの社会部で彼は宮内庁を担当、主として皇室問題、宮内庁ニュースなどに力を入れてきた記者だった。定年後、彼は皇室問題の評論活動などで活動し、いくつかの著書も発行したから、皇室論がライフワークにつながったのだろう。

私が彼と最初に会ったのは、彼が名古屋で中日新聞を担当しているころ、二人とも若く、私が皇室に伝わる三種の神器のうち、 剣と璽の動座復古の運動で動いていたころだから、もうひと昔以上前であった。
皇室に関しての研究、この剣璽動座についてなどにも熱心で研究心が強く、神社界でのこの制度のご復古運動を主張していた父へも何度か取材に来ているのを聞いていたので、一度話し合ってみようと、当時遷宮を前にたびたび往復のあった伊勢への出張の折に名古屋で途中下車して、都ホテルで彼と話し合ったのが最初であった。

その時は時間がかなりあったので、彼は私に、自分の抱く日本の皇室観について熱心に話してくれた。効いていて本気で皇室を大切なものと思い、それを発展させたいとの情熱をもっていることは私によく伝わった。だがその思想の核は新憲法に基礎がおかれていた。私から見ると、それは西欧風に作り上げられた今風の皇室論だ。対する私は西欧風の論に対して対論はするが、その皇室に対する意識は土着的な長い歴史に重点が置かれ、ちょっとかみ合わない面もある。彼の基準は西欧風に論じた制度論だ。私の重点は制度以前の感覚論に基づいている。現代の論争では皇室論から、そぎ落として論じないところに重点がある。
彼との話が終わる際、私は彼に言った。

「君と僕とは年齢は5歳しか違わない。だが考えてみると、その5歳の違いは相当に大きい気がする。僕は戦時中から敗戦の時期を小学生として、自分では大人の中に属すると思って過ごしてきた。君は新憲法のもとで、すべてが新憲法流に統一された環境の中だけで大きくなった。あるいはそのほかに、二人が育った周囲の環境も影響しているかもしれない。簡単に二人の論は歩み寄らないだろう。だがそれもいいさ、違いは違いとして、これからも仲良くやろうよ」。

そんな話し合いだったが、これが機会で不思議に和やかに話し合える間柄になった。その後いろいろの場所を見つけては彼とは良く飲み、語り、また相談し合った。私は彼に、伝統的な土着の意識をもってもらいたいと思って、神社の関係者なども次々に紹介した。また彼が、共同通信という全国記者たちとも連携の濃い仕事をしているのを生かしてもらい、神社と新聞各社の相互理解の場を作るのにも協力してもらったし、皇室問題に関心の強い彼と同年代の各新聞社の古参記者たちと神宮の祭儀をともに見学して語り合ったり、彼を神社関係の会合でスピーチしてもらったりもした。結構楽しい時間も過ごしてきた。

彼はいつも私が、「君はポツダム新憲法時代の男だから」と私が言ったのを覚えていて、会うたびにそれを話して苦笑した。そして実際、彼は小泉首相の時の女帝問題が起こった際に、女帝を支持する委員として発言するなど、私と全く相反する新憲法的主張を展開して、私の反対の現代日本ジャーナリズムの常識的な意見を貫いていた。だが同時に、私の聞くことに関しては、客観的に情報を伝えてくれた。いつも私に連絡して来ては、ともにゆっくり飲みながら話そうと誘い、また各地に出かけていく際などには、そこの神社の宮司さんなど関係者への紹介を求め、親しく接する姿勢を崩さなかった。また彼が、日本の古来の伝統を否定した女帝皇位継承論を主張しながら、皇室にかくあってほしいとの理想も高く、広い視野を欠く東宮周辺や宮内庁などへの厳しい忠告者であったのも付け加えておきたい。

そんな彼が、ある日突然、69歳という私よりはるかに若い身で幽界に旅立ってしまった。残念だ。

私は先日彼とした「近々江の島あたりで新鮮な魚を前に一緒に飲もう」という約束を忘れずに、彼が病中であるのも知らず、場所を物色中であった。彼はそんな話をしておきながら、まだ果たしていないことも忘れてしまって。

あまりに先を急ぎ過ぎ、「ちょっと待てよ」という声も聞かずに行ってしまった。そんな寂しさを感じている。