最後はまるで虐殺のように
四十二年間にわたってリビアの最高指導者であったカダフィー大佐を追い詰めて射殺したとのニュースが発表された。
十月二十日の未明、首都トリポリを脱出して逃亡中のカダフィー大佐ら一行の車が、彼の故郷シルト郊外を逃亡中にNATO軍に発見され、フランス戦闘機に襲われて車を大破され、カダフィー大佐は隠れていたのを、駆けつけた反政府軍に発見され、傷を負った身で逮捕されたのち、「打たないでくれ」と叫びながら、それを無視して射殺されたという。
リビアのカダフィー大佐の長期政権はこれで終了することになるが、政権の最後のシーンまでが、
「あの無残な殺人のさまは、これが純粋なリビア国民の政権抗争と言えぬのではないか」
と絶句するような野蛮、残酷なもので、私もこのブログで何回か触れてきた通り、この紛争が国民による純粋な民主化闘争の結末で、「リビア国民の民主主義の夜明けになる」と手放しでは喜べず、「何という野蛮な」という感じが残り、首をかしげるものになってしまった。
このニュースに接して、アメリカのクリントン国務長官やオバマ大統領はじめ欧米の首脳などが、あのアルカイダの首脳ビン・ラ―ディンを奇襲して殺害した時の対応ように、ガッツポーズをとりながら、「正義は必ず勝つ」などと祝福のコメントなどを出しているのを見ると、肉食人種ではなく、植物系の私だからかもしれないが、欧米流の民主主義そのものまでが、何か恐ろしいものに見えてくる。
「アラブの春」といわれるものの中身
この騒動はチュニジア、エジプトにおいて起こった一連のネットがはやし立てる「アラブの春」といわれる運動の中の関連した民主化要望の動きの一つといわれるが、私には前の二つとは、ちょっと違った結果をたどっていると私は見る。
「アラブの春」とは、中東の独裁長期政権に対する国民の不満が溜まっていると思えるものだった。インターネットのツイッターやフェースブックなどの呼びかけで反政府デモが起こり、国民の結集した不満の声が独裁政権を倒した。と世間では騒がれる出来事として、皆が論評している最近の世界の流れの一つなのだが、確かにネットでの呼びかけが各地で人を動かす傾向は、昨年あたりから続いている。今でもシリアなどでは激しい反アサド政権への抵抗などが伝えられているし、これは別件になるかもしれないが、ウォール街批判や貧窮格差是正行動の呼びかけなどが世界で広まっているようだ。
アラブの不満の行動なども、他にも多くの国で、似たようなデモや騒ぎが伝えられているが、それが成果を上げたチュニジアやエジプトでの成果を受けて、二月にリビアでカダフィー政権打倒の動きが起こされたとき、ネットやマスコミの世界では、チュニジアのベン・アリ政権やエジプトのムバラク政権反対での民衆勝利の結果のように、リビアのカダフィー政権打倒のアピールも、二、三カ月のデモで倒れるのではないかとの観測がマスコミなどに多く出された。
だが私は、リビアは前記二国とは条件も違い、そんなに簡単に見ることはできないと思い、両国の基盤の違いを何度もブログで指摘してきた。独裁政権の交代劇は、目まぐるしく変わる着物などのファッションのように軽々しく、服装の流行のように変わるものではない。人々が暑くなったから冬服を脱いで夏服に衣替えをするようなものではない。それはドロドロした血みどろで命懸けの争い、様々なその国ならでは条件を基礎にした権力闘争の死闘の結果起こるのだ。
チュニジアもエジプトも、政権転覆までに、ネットが騒ぎ始めてから、僅か二、三カ月のデモの期間を要したのみで片がついた。それはデモの成果であるよりも、その基礎となる政権崩壊の機が熟していたということの結果だった。だがリビアでは、二月に起こったこの騒ぎが、国内での機が熟していなかったので、結局政権譲渡に直結せず、一時は簡単につぶされそうな気配であった。おそらく特別の条件が無かったらつぶれていただろう。
ところがそこにNATOをはじめ西欧諸国が加わって来て、反政府行動を応援し始めた。デモ隊に武器を渡し、先頭になった時の戦い方を教え、彼らの力を露骨に強くしようと行動を始めた。西欧諸国ではなく、リビア国民がカダフィーと戦っているのだという形を懸命に作り出し、それでも足りぬと軍を出動させて爆撃などで応援し、制空権を完全に支配し、それはまるで西欧諸国軍がリビア軍と戦争を始めたような状態であった。限りない軍事干渉、そんな条件のもとに西欧側の指導を受け、武器を与えられた西欧の傭兵のような形の反政府軍がだんだん力を得てきて、カダフィー惨殺によってリビアを腕力でつぶした。
小銃一つまともに扱えなかった反政府軍がこの結果、半年ほど経ってから徐々に力をつけてきて、NATO空軍の制空権のもと、要所を空爆してもらいながら戦ったのだが、それでも政府が転覆するまでに十カ月と、想像以上に時間を要した。
だがこれとても、今回彼らに運よく、カダフィーの逃亡発見というチャンスに恵まれて終息したが、この機会を逸していたら、まだいつまで延びていたのかわからない。前期に国の例と、違いは歴然としているのではないだろうか。
チュニジア、エジプトとリビアの違い
今回の政権転覆の運動が、どんな形で起こったか。もう一度眺めておこう。
チュニジアでは、そしてエジプトにおいても、国内にある独裁政権不満の動きは、かねてより国内に満ちていた。それは両国の独裁が長く続いた中で、たるみを見せていた国内状況の中、国民を圧迫して絞り上げる政治が徹底的に強行されて、圧政に不満な連中がどんどん増えて、ついには結束して抵抗しようおの空気が生まれ、それが政権をついに独裁者から奪い取ることに結びついた。それが明らかになった時、独裁者は敗北を認めて政権を譲り、国を追われる事態に結びついた。
しかも政権が独裁者から政権を譲渡され、新しく政権の座についた連中をよく見ると、それは単なる政治を知らない素人ではない。チュニジアはベン・アリ政権の時の有力者が途中から反政府に回って顔を並べているし、エジプトは中立の姿勢で動かなかった軍が、その後の指導権を握っている。これは大きな意味を持つので見落としてほしくない。新しい政権が円滑に旧独裁政権ののちに生まれるためには、それを受け継ぐだけの力を持った指導者と、支える組織やスタッフが要る。それがあってはじめて国の統治は継承され、国は治まるということなのだ。野次馬だけでは政治は円滑に動かない。
だがリビアにはそれが無かった。確かにカダフィーから追放され、カダフィー形勢悪しと見て反カダフィーに寝返った蝙蝠のような連中は反政府勢力に加わったが、国内には不満分子の組織もなく、カダフィーは存外国民をつかんでいた。しかもカダフィーに反対と立ち上がった反政府分子といっても、主張や理想はバラバラで、宗教、政治主張、部族意識、人種、対外国観など、どれをとっても一つにまとまる力にはならず、それぞれにカダフィーとは別個の目的で戦おうとする者の集まりだった。カダフィーと国民協議会の名のもとに連合して対決しているさなかにあっても、おかげで内部では衝突ばかりを繰り返している。お互いにあのグループの指揮下には、化でフィーに従うよりも入りたくない。こんな連中の組織した国民会議なので、カダフィーを追放した後の暫定政府のメンバーを決めようとしても、それもまとまらずに放り出されたままである。これでは国内をまとめて統一政府は作れない。
エジプトのように、軍が中立ならば後で国をまとめられるが、リビアの国軍はどうなっているか。外国人の傭兵などが多く問題ある軍ではあるが、これは最後までカダフィー個人に忠実で、彼について戦闘をして消滅した。
誰がカダフィーを倒したのか
チュニジアやエジプトでも外国、特に欧米諸国の影響が無かったわけではない。それはすでに以前指摘したことである。チュニジアでは西欧諸国がそろってベン・アリ政権に政権放棄を求める形で示されたし、エジプトでは経済封鎖や資産凍結、一部の直接実力行使もあったようだが、それでもその圧力は、欧米が直接軍事力で政権を倒したものではなかった。
その結果、チュニジアではベン・アリとはちょっと離れた勢力が政権を預かり、エジプトでは、アメリカやイスラエルをはじめ、西欧諸国とも交流のパイプの太い国軍が、次の事態に自らが立ち上がって政権を維持するために中立を維持していた。これが数百万のデモで荒れたエジプトをまとめて次の体制に向かわせる力となった。
だが、リビアの様相は違っていた。ネットでデモなどの抗議行動を呼びかけて、これにこたえて独裁政権打倒の行動が起こり、その動きがリビアにも波及して抗議行動が行われたといわれているが、私はこれそのものが、もう、カダフィー追放を狙う外国などの、多分に作られた宣伝のように思う。リビアの国内の動きは最初から、カダフィー独裁政治に堂々と反対する声は微弱で、しかも僅かな上にバラバラで、統一できる組織もなかった。反してカダフィーの政権は国内の体制を固め、不満はあったのかもしれないが、国民への権威を維持していて健在であった。そんな事態は八月下旬に、NATO軍がリビアの首都トリポリを空爆して陥落させ、NATOが軍事的な制圧権を奪い取るまで続いていた。
国内の反カダフィーの勢力は、民族・部族対立でカダフィーに反するもの、回教原理主義者、逆に西欧追随主義者、アラブゲリラに親近感を持つ者、カダフィーから追放された者や功利的に寝返ったもの、人種的、部族的にカダフィーに合わぬ者、旧リビアの王制主義者、西欧に追随したい者、キリスト教徒など、どう考えても一つにまとまれない連中であり、それだけ一つ取り上げれば、どれも国を動かす力もなかった。彼らは反カダフィーの狼煙を上げるや、自分らで祖国を守る行動をとるより先に、すぐに西欧諸国や国連に、自分らを助けてカダフィーを倒してくれと懇願した。祖国の独立を維持しよう、その愛国心までが疑われた。
外国特に国連やNATOや米国の対応も違っていた。最初から、国際法の制約もあり、あってはならない行動であるのを知りながら、「人道上」などという言葉を使い、この運動をリビアの国内問題と見るよりは、カダフィーを倒すことが先進国の任務と思っているような行動に出た。西欧諸国の空軍がデモを抑えようとするリビアの正規軍を攻撃し、西欧諸国のイギリスなどの軍事専門家がリビアに出向いて反政府組織に対して基礎からの軍事指導を行った。
カダフィー首相がいなくなって
カダフィー首相の射殺はこんな騒動の中で行われた。国連人権保護機構は、国際法から見ても、カダフィー首相の暗殺を違法行為だとして調査することにした。カダフィーの妻などからも問題は提起されている。私も完全な無法行為だと思う。反政府組織側も「殺せとは指示していなかった」と弁明した。だが、そんな常識が通用するようなまともな反政府軍ではなかったのだろう。どちらにしても、一度殺してしまった命はもう、戻らない。
「政権を担当する組織が無い」、「外国の干渉から独立をする気概もない」「共通の敵カダフィー首相と戦いながらも内部で常に争っている」「彼らは規律を守るほどのレベルにはない」。これが独裁政権を倒した後に残っている新しい傾向というのなら、この国にも多難な将来がやって来そうな気がする。
カダフィーは強引な男だった。勝手なこともたくさんしてきた。しかし、骨の髄まで国民にとって邪悪な独裁者だったのだろうか。国民を虐げることばかりを考えて実施した男だったのだろうか。私にはそうでないところも見えるような気がしてならない。私は残念ながらこんな状況を冷静に見通す知識が無い。だが単純に独裁=×、民主的=○の原則ばかりでものを見るのは果たしてどんなものだろうと思っている。
現在のリビアを見る。リビアの国内にはミサイルをはじめ、多くの外国製武器があふれるように残されている。だが、それを安全に管理しうる能力はなさそうだ。そこにカダフィーがいなくなれば、今度はお互いに相手をつぶし合う争いを始めるような様々な対立が残されている。少なくともカダフィーの時代には、彼に抑えられて動けなかった対立は大きな問題になってくるのが必至である。
またアラブには、やはり三月からデモ騒ぎが続き、すでに数千人の犠牲者が出ているといわれるシリアのアサドの独裁体制を巡る争いが残されている。シリアが、カダフィー殺さるの情報を受けて、どんな状況に発展するか。遠くの火事を見るように、「春が来つつある」などと眺めておれない情勢にある。
追記。私はここに出てくるカダフィーを支持しようという立場ではない。私の基本理念は穏やかな日本人的穏健主義だ。カダフィーの主張するような過激な民族主義には馴染まない。
だがそれとともに単純な民主主義も好きになれない。それは衆愚主義に道を開くもので、早くもジャン・ジャック・ルソーなどが喝破したように、人間のともに生きる理想などとはほど遠いもので、より高度な哲人さえ存在すれば迷わず放棄すべきものと考えている。
だから私は冷静な客観主義でこの文を書いたつもりである。